2014年3月19日水曜日

地球全史スーパー(デタラメ)年表

 
地質学雑誌の広告に釣られて発注したが,届いたらとんでもない代物だった.

    


著者らは,きっと地質学史の基礎や地史学の基礎を知らないのだろう.
たぶん,英語も.

授業の資料に使えるかと思って購入したが,使用するなら全ページにわたって説明してあげないと学生さんは混乱するばかりだろう.よって,不可.
第三紀は廃止になったとか書きながら,「古第三紀」や「新第三紀」を使うなよ.
地質学って「本当に滅びたんだなあ」と実感する.

これ以前に,「The Concise Geologic Time Scale」の和訳本「要説地質年代」がでていた.
これの素晴らしいところは,「日本地質学会」の“誤訳のススメ”なんかものともしていないところ.

   


Paleogene Periodを「旧成紀」,Neogene Periodを「新成紀」とキチンと訳しています.
個人的には「旧(古)獣紀」,「新獣紀」のほうが好きですが.

購入した時には,「顕生累代」とペアになる用語に「先カンブリア時代」を採用してあって,ガッカリしたのですが,今回の「地球全史スーパー年表」よりは,はるかにまし.

「顕生累代」を使用するなら,ペアになる言葉は「隠生累代」になるべきなのは,理の当然.
「先カンブリア時代」なんてのは,カンブリア紀以前は研究対象ではなかった時代の言葉で,俗語として使うならともかく正式に使うのはどうもね.

でも,「原生累代」,「太古累代」はおかしい.単位が交差しています.
その下に,「新・中・古原生代」や「新・中・旧・原太古代」って,おかしいでしょ(これは,まあ,原著がそうなってるのだから,しょうがないといえば,しょうがないですが).実体がないのに,「古生代」なんかと同列にするのはね~~.
 

2014年3月9日日曜日

「日本の地質学は九州からはじまった」?

 
地団研の機関誌「そくほう」697号に,こんな記事が載りました.


まあ,佐賀大会を盛り上げようという気持ちはわからんでもないですが,記述が不正確すぎますね.
真面目に地質学史をやってる人が見たら,かなり不愉快に思うことでしょう.

第一に「リヒトホーフェン」が日本にやってきたのは,確かに記述の通り「1860年」ですが,正確には1860年9月4日(万延元年七月十九日).江戸・横浜で冬を越して「条約の仮調印」後,1861年1月31日(万延元年十二月二十一日)に長崎に向かったはずです.
九州がみえたと記録しているのが2月10日.しかし,船から陸上の地形は見ましたが,上陸して調査なんてことはできなかった.
長崎入港が2月17日(万延二年一月八日).
「1860年」だけ示して,調査地(?)長崎に到着したのが,いかにも早かったように見せかけるのはどうかと.

そのあと「長崎で接した地質岩石の観察により…」と,いかにもその周辺の地質調査を行ったかのように表現されていますが,当時の日本では外国人の旅行はきびしく制限されており,自由な地質調査なんか,幕府の許可が無いとできるわけもなかったはずです.
で,許可された範囲内の地域(風頭山,金比羅山など)にはでかけたようですが,詳細は不明.
結局,当時長崎に居たポンペの紹介で司馬凌海が収集していた岩石を見せてもらい「長崎周辺の地質構造に関する所見」と「九州の地質学」の二論文を作り上げたらしいです(ある意味凄い!).

例によって,この二論文は入手不可能.もっとも原著はドイツ語ですから,入手できても解読が大変.(^^;
で,リヒトホーフェン一行が長崎を発って上海に向かったのが,1861年2月24日(万延二年一月十五日).
長崎にいた期間は,一週間でした(もちろん,入港した日と出港した日はなにかできたとも思えません).

これで,「日本の地質学は九州からはじまった」とPRされてもねえ.

勘違いされても困るので追記しときますが,リヒトホーフェンに業績が無いとかいっているわけではありません.彼の業績は発掘され,評価されるべきでしょう.正当にね.
++++文献+++
上村直己(1997)リヒトホーフェンの見た幕末・明初の九州.
熊本大学文学会,地域科学編,「文学部論叢」,第56号,地域科学編,53-96頁.