2015年3月21日土曜日

「北海道鑛山畧記」:「緒言」より

 

1890(明治23年),北海道庁より「北海道鑛山畧記・全」が出版されている.
編著者は,北海道廰屬・多羅尾忠郎.
この本は国立国会図書館・デジタルコレクションにて公開されているが,あまり読みやすいとはいえない.しかし,興味深い記述が満載なので,現代語訳と注釈をつけて公開しておこうかと考えた.著作権上も問題ないと思うし.

本書表紙には,「明治廿二年九月編輯」とあるが,発行は明治廿三年二月二十四日なので,出版年は1890年を採用する.
なお,編著者である多羅尾忠郎は生没年不詳.ほかに「千島探検實記」などの著書があることがわかっている(3/22:付加).

まずは「緒言」より
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緒言
北海道鉱業についての旧い記述中に見いだされるものは,建久二年*1をもって始まりと認める.しかし,その後数百年にわたっての盛衰興廃の歴史を明確に記したものは存在しない.今これらを集めて記録しておかなければ,永遠に失われて,知る方法はなくなってしまうと危惧される.そのため北海道庁が多羅尾忠郎(編著者)に命じて道内各鉱山について,その沿革を調べさせた.編著者は明治21年6月に札幌を出発し,10月になって復命した.この実地調査と,古今の記録をあわせて採録し,「北海道鑛山畧記」と名づけた.

この著書は鉱質*2によって分類し,閲覧に都合がいいようにした.その鉱質および地名など不詳のものは「雑の部」に入れた.また,項目ごとに引用書名を明記*3して追跡調査しやすいようにしておく.
実地調査や過去の記述に異同精粗がある場合には,データ採集の際,事実が明確なものを採用した.なお,本書掲載のほかに発見された鉱床があったとしても,1886(明治19)年の北海道庁設置後のものは「地質鑛山調査報告書*4」にゆずって省略する.

鉱業類沿革は,開拓使設置から1889(明治22)年6月までの概略について記述する.また,旧記を付け加えて,鉱業のあらましを判りやすくする.
統計記録は1875(明治8)年に開始され,同21年で終わっている.これらはすべて「借区坑業明細表*5」および「現今坑業人調書*5」などによっている.

北海道の地名*6をしるすには,主として北海道庁・神保技師*7ならびに永田属託*8の考えに従って,新法を加へ通常のかな使ひを補う.
例えば,ポロベッ[Porbets]と読む「ケリマプ[Kerimap]」と読む.すべて子音を含む「かな」を右に寄せる時は,其母音を失ひたるを示す(新法第一条)
[プト°] ローマ字の[Putu]の音を示す.
[ペト[Pet]]と読む.
すべて[ト°]はローマ字の[Tu]の音を発し,[Tu]もし母音を失って[T]に変ずれば,之を右に寄するなり(新法第二条)
明治二十二年九月
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*1:建久二年:これは「知内大野土佐日記」のこと.べつに論じる予定.
*2:鉱質:この場合は「鉱質の良否」ではなく,鉱床別(石炭,石油,金属鉱山など)のこと.なお,現在はこの様な意味で「鉱質」という言葉は使わない.
*3:引用書名を明記:編著者の意図通り,後発にとっては非常に助かる.ということは,引用文献を明記しない書が多すぎるということである.
*4:「地質鑛山調査報告書」:これは具体名ではなく,「北海道鉱床調査報文」や「鑛物調査報文」などの一般名として使われていると思われる.
*5:「借区坑業明細表」,「現今坑業人調書」:不明.たぶん,道庁公文書としてあるのだろうと思う.
*6:北海道の地名:現在ではローマ字表記のほうが現実的かと思うが,当時はローマ字表記は一般的ではなかったのであろう.現在でも,アイヌ語の表記にはこの方法が使われている場合もある.
*7:北海道庁・神保技師:神保小虎(1867-1924).道庁技師を退職後,(東京)帝国大学の教授となる.
*8:永田属託:アイヌ語地名研究者・永田方正(1838-1911)と思われる.
 

2015年3月3日火曜日

鈴木醇,湊正雄,荒井源次郎・和子,知里幸恵・真志保…リレーション

 
先日,追悼集「鈴木醇,人とその背景」を眺めていたら,荒井源次郎氏の「鈴木醇先生の思い出」という一文が目にとまりました.

荒井源次郎(1900-1991)氏とは荒井和子(1927-2014)先生の父親で,民族差別撤廃運動の闘士であり,自宅は旭川(チカップニ)にあります.

その追悼文からは以下のことがわかります.
1)荒井一家が定山渓温泉街で木彫り熊の土産品製作販売を行っていた時に,鈴木教授の手元にスイス製の木彫り熊があることを聞きつけ,北大・地質学鉱物学教室に鈴木教授を訪ねる.
2)その時は,荒井夫妻で訪問し,教室内を見学している.
3)木彫りクマを借り受け,以来,鈴木教授との交流が続く.
4)戦争の激化とともに,定山渓の土産店は営業不振となり,昭和18年秋,荒井家は旭川へと引き上げる.翌年,鈴木一家の家財の疎開先となったりしている.
5)荒井家が旭川に戻ってからも,鈴木教授は道東・道北の出張(調査,巡検などであろう)時に荒井宅によるなどしている.

鈴木醇教授は,北大に「北方文化研究室」が設置された時に,理学部から委員の一人として参加しており,研究室の専任職員(研究員)には知里真志保氏がいた.
もちろん,鈴木教授が湊正雄氏に知里真志保氏を紹介したのは,この関係でしょう.

現在,旭川市チカップニにある旭川市立北門中学校には,荒井和子先生が収集した資料を基に「知里幸恵資料室」があり,校庭には「知里幸恵文学碑」が建てられています.

う~ん.円環が閉じてゆく!

 

2015年3月2日月曜日

近文地域の小学校とその歴史(番外編)

 
のちに北門尋常高等小学校となる上川第三尋常小学校は,計画当時,近文第五尋常小学校と呼ばれていました.
前述したように,この計画地は(市史によれば),以下のように記述されています.

三十四年七月,三線西一号共有地,今の大町二条六丁目に…近文第五尋常小学校を設けることに指定…」(旭川市史三巻二二九頁)

すでに論じたように三線西一号(三線南一号と同じ)には,大町は入りませんので(大町2-6は二線一号になる),上川第三尋常小学校の話のときには省略しましたが,念のため大町二条六丁目附近の地図を示しておきます.

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1902(明治35)年の近文二線一号(新旭川市史口絵より)
区画内は机上の空論かと思う.まるで,アフリカ大陸各国の国境線のようである.


1903(明治36)年の旭川市街図の一部
かなりいい加減な地図であるが,道路の配置は上図よりも現実に近い.


(1918:大正7年の1/25,000地形図・旭川の一部:二線一号)
第七師団への引き込み線が見える.
師団設置にともない,師団通り(現在の「みずほ通り」)に沿って市街地化が進んでいる.


(1948:昭和23年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
大町駅の南(現在の大町2条6丁目あたり)に,学校のような建物(グラウンド様の土地も含めて)が見える.
師団の練兵場の一角が市街地化している.
左下に見えるのは大有小学校.



(1956:昭和31年の同地域:1/25,000地形図・旭川の一部)
大町駅の南にあった学校様の建物には「工場の煙突マークと歯車マーク」が示されている.
ただし,廃校後,学校敷地が工場に払い下げられたことも考えられるので,学校ではなかったという証拠にはならない.
「師団通り」が「平和通り」に改称されている.


(1977:昭和52年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
大町駅舎が見える.グラウンド様に見えた土地には資材が積み上げられている.
大町岐線沿いに工場や木材置き場がならぶ.


(2008:平成20年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
大町岐線は撤去され,跡地は緑地かされている.
工場群はすべてパチンコ屋になっている.


なんで,パチンコ屋ばかりなんでしょうかね.
約30年ぶりに旭川に戻ってきた時に,新築の建物で新しい大学ができるという話がありましたが,開校する前にパチンコ屋になっていました.その後は葬儀場になった((^^;).
文化の果てる町であることを象徴してるのかと思ったりして.
 

近文地域の小学校とその歴史(附属小学校)

 
1923(大正12)年4月に旭川師範学校(道立)が設置されます.
三年後の1926(大正15)年;旭川市立(区立)北門尋常高等小学校(前述)代用附属小学校に指定されます.

その二年後の1928(昭和3)年1月に新北門尋常小学校が開校し,北門尋常高等小学校から519名が移籍します(前述したように,519名以外に生徒がいたのか,いたとすればどのような基準で分けられたのかなど,詳細は「市史」,「市教育史」などには記述されていませんので,一切不明です.もちろん「ほかにいない」とすれば矛盾が生じますので,北門尋常高等小学校に残った生徒がいると判断すべきでしょう.四年後,北門尋常高等小学校は廃止と記述されていることからも裏付けられます).

北門町9丁目に附属小学校校舎,新築.
1932(昭和7)年11月1日;旭川師範学校附属小学校,開校.

旭川市立北門尋常高等小学校の廃校と同日に,庁立旭川師範附属小学校が開校という奇妙なことが起きています.つまり,残った生徒(いたなら)は市(区)立から道(庁)立に移籍したということになります.
もっと奇妙なことに,1933(昭和8)年3月に「第一回卒業生から校旗寄贈を受ける」とあります.北門尋常高等小学校から前年11に移籍した,六年生から校旗を寄贈されたということでしょうかね?もちろん,できたばかりで校旗がないので,初代卒業生から寄贈されたというのは充分にあり得ることです.
もっと不思議なことには,1942(昭和17)年に「附属小学校開校10周年記念式が挙行」されているのに,1951(昭和26)に「開校50周記念式」が挙行されているのです.

ちょっと,理解を超えていますが,これは師範附属小学校の開校を前提とすべきなのに,旭川町(区・市)立であった「上川第三尋常高等小学校-北門尋常高等小学校」を,附属小学校の歴史に加えたり,引いたりしているからなのでしょう(そんな歴史って,ありかい(- -;).

以後,何回か○○附属と,大学の管轄が変わるたびに改称が行われますが,面倒なので無視します.

1971(昭和46)12月;校舎新築移転(春光町1区1条:現・春光町4条1丁目)
なお,移転地域は過去,第七師団の兵舎があった土地なので,調査が困難なため放置します.
(現在に続く)

なお,町の変遷は「近文地域の小学校とその歴史(上川第三尋常小学校;その2)」を参照のこと.

2015年3月1日日曜日

近文地域の小学校とその歴史(大有尋常小学校)

 
昭和二年三月教育五ヵ年計画を立案し,当時に置いて総工費…,その計画により同年新北門小学校(後の大有校)・四年啓明小学校・宮下小学校(後の日新校)の三校新設せられる」(旭川市史三巻二六七頁)

この頃は,まだ国民学校令(1941;昭和16)がまだだされていないので,「尋常小学校」と呼ばれていたはずです(「後」でも「大有校」という表現はなかったはずなので,誤解を招く非常に不正確な記述です).市史では,このあとどんどん記述が怪しくなり,「不詳」が多くなるので,現・大有小学校HPの沿革から引きます.

1927(昭和2)年12月:校舎新築落成(開校記念日は12月4日)
1928(昭和3)年1月:新北門尋常小学校開設

これを遡る1926(大正15)年,北門尋常高等小学校旭川師範学校代用附属小学校となっており,1928(昭和3)年には,生徒519名が新北門尋常小学校へと移籍しました.
市史には記述されていないため,519名のほかに生徒がいたのか,いなかったのか,もしいたとすれば,その生徒はどういう基準で北門尋常高等小学校に残ることになったのか,などはいっさいわかりません.

1935(昭和10)9月:旭川市大有尋常小学校と改称

旭川市史の「第十三編教育と宗教 第一章 学校教育」における昭和十年の記述の前後には,ことが明記されていず,どういう事情で改称されたのかはわかりません.
一説には,「北門尋常高等小学校」と「新北門尋常小学校」が紛らわしかったからとあるようですが,1932(昭和7)年には北門尋常高等小学校は附属小学校となり,廃止となって校舎すら存在しませんから,この説は疑問です.判らない事が多いなあ.(^^;;;

1941(昭和16)年4月:大有国民学校と改称

前出,国民学校令による改称ですね.

1947(昭和22)年4月1日:国民学校令廃止.旭川市立大有小学校となる.

(現在に続く)


(1931:昭和6年の旭川市街図の一部:二線南一号)
相当雑な地図であるが,大町岐線南に大有小学校が見える.


(1948:昭和23年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
旭町側には相当数の家屋が建ち並ぶが,川端町側はほとんど農地のままである.
石狩川にかかる異常に細い橋は「新橋」.


(1956:昭和31年の同地域:1/25,000地形図・旭川の一部)
町並みは1948の航空写真とほとんど変わらないように見える.


(1967:昭和42年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
川端町が急速に市街地化している.


(1977:昭和52年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)


(2008:平成20年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
大有小学校は新校舎に建て替えられている.
新橋の拡張工事が完了している.
錦町通り(命名時期不詳)の拡張工事が進んでいる.