2009年1月29日木曜日

「知内大野土佐日記」のこと

 以前,「蝦夷地質学外伝」で「大野土佐日記」のことを話題にしました.
 そのときは,「北海道志」から引用したものを示し,その上で原文を見たいものだと書いておきました.
 相当前になりますが,Googleのキャッシュ中に,某古書店の古いリストが残っており,そこに「大野土佐日記」を見つけたことがあります.しかしそのときはすでに,その「大野土佐日記」は売却されていました.
 その「大野土佐日記」は,古文書解析講座のようなイベントでテキストとして使われたものらしく,正式な印刷物ではありません.ま,存在するならそのうち入手することもあるだろうと放ってありす.

 このブログで,何度か石川貞治について紹介してきました.
 石川貞治が「地学雑誌」に「北海道鑛産及鑛業に關する舊記」というの連載していることは前から知っていたのですが,最近,これをまとめてpdf.化しておこう,そのうち何かの役に立つだろうと思い立ち,実行しました.悲しいかな,当時の「地学雑誌」の活字は古くて,なかなか現代のPDF化ソフトでは正確に読み取ってくれません.
 中途半端に放っておくのもなんだし,しょうがないので手打ちでOCRが読み取った文を訂正することにしました.そのうちに,この「…舊記」の中に,「大野土佐日記」が全文引用されていることに気づきました.

 で,読んでみましたが,正直な話,まだよくわかりません((^^;).
 これは読み続けることとして….理解が深まったら,また話題にすることとしましょう.

 わかったことを二三.
 まず,「北海道志」の記述とは一致しません.微妙にあるいは大きく異なります.前半は,(真)「大野土佐日記」を(当時の)現代文化したものと考えることは可能です.途中からは全く異なります.「蝦夷は凶暴,戦闘を好み」なんてことは書いてありません.
 また,金山の発見は「元久二年 西暦1205年」になっています.
 ほかにも,「北海道志」には引用されていないエピソードも二三ありました.
 
 とりあえず.
 
 

2009年1月24日土曜日

金山草

 以前から気になっていた中世・近世の鉱山技術(私は,鉱山技術そのものより,鉱山発見の方法,つまり“原・地質学”のほうが気になってるんですが)なんにしろ,当時の鉱山開発がどのようなものだったのか….
 比較的良くしられているものに,佐藤信淵の「山相論」がありますが,著者本人の“うさんくささ”と記述内容の“うさんくささ”とで,現在ではまじめな検討の外におかれています.視点をかえて検討する必要があるのかもしれません.

 さて,最近,いくつかヒントがありそうな本をみつけ,早速注文しました.



 ひとつは,今村啓爾(1997)「戦国金山伝説を掘る=甲斐黒川金山衆の足跡=」(平凡社)
もうひとつは,谷口一夫(2007)「武田軍団を支えた甲州金・湯之奥金山」(新泉社)です.
 どちらも非常に面白い本でした.
 前者では,今金町・カニカン岳で発見された(鉱山)石臼の報告書において,その石臼の位置づけについて議論されていた際の「石臼のタイプ分け」について,その報告書ではよくわからなかった議論が詳しく記されており,非常に興味深いものでした.
 後者も古記録による抽象的な話ではなく,“考古学的”発掘から隠し金山の実態に迫るもので,こちらも非常に興味深い話でした.なお,この本は甲斐黄金村湯之奥金山博物館のHPから直接購入可能で,その際ある特典もついているそうです((^^;).

 ただ,前述したような当時の「鉱山発見の方法」については,空振りに近いものがありました.
 しかし,後者の45頁図32「中山金山の露天掘り跡」の解説文:「中山の尾根ホウロク沢に残された露天掘り跡の一つ.金山草が群生している.風化鉱石の金は品位が高い.」および,同67頁図53「金のありかを教える金山草」の解説文:「オニシダを金山草ともよぶ.42ページ,図32でも見られるように,金のあるところを好み,群生する.」という記述が目を引きました.

 この“金山草”は,“正統な”鉱山史研究書にはなかなか出てきません.まれに見ることがありますが,実態がわからない言葉としてありました

●オニシダって?
 ここでは,一説として「オニシダが金山草」ということになります.
 では「オニシダ」とはなんでしょう?
 調査の途中経過は省略しますが,「オニシダ」とは地方名(ある地域だけで通用する名称)で,一般的な和名としては「オニヤブソテツ」というらしいです.もちろん,こんな「和名」だけでは,実態がわからないので,その学名を調べることになります.
 案の定,相当な混乱があることがわかります.

 インタネット上の「牧野標本館タイプ標本データベース」によれば,
  オニヤブソテツ[ Cyrtomium falcatum (L. fil.) Presl. ](現行学名)
   同物異名[ Polystichum devexiscapulae Koidz. ]

 というのがありました.「現行学名」という言葉は意味が理解ができませんが,多分,一般的に通用している学名というような意味なんでしょう.本来はそうじゃあなくて,「牧野標本館が採用している分類学上の名前(=学名)」の意味で使わなければならないはずですが,まあいいでしょう.
 また,「(L. fil.) Presl.」という記述も理解ができません.
 ( )内は,多分,属名改定前の種の記載者名なんでしょうから,( L. )は( Linnaeus )なんでしょうけど,( fil. )が理解できません.こういう省略はある程度許されることになっていますが,それは何度も同じ記述が繰り返される場合に限るはずです(昔は,活字や手書きだったので省略することで省エネができたからです).
 コピペすればいいだけの現在ではフルスペルすればいいだけの話なんですがね.これしか出てこないリストでこういう意味の分からない省略をされると,それは「その道の専門家にしかわからない言葉」(=“ジャーゴン”)であり,「一般の理解を拒否すること」になります.こんなことをやっているから,いつまでたっても「学名」が市民権を得ない.その原因のひとつですね.
 「Presl.」も同様.こんな省略はやめてほしいですね.
 ついでにいっておけば,上記学名はすべて立体で表示されており,どれが属名なのか,種名なのか,記載者名なのか,再記載者名なのか,多少知っていても判断するのは大変です.
 繰り返しますが,こういうのが「学名がいつまでたっても市民権を得ない」理由のひとつです.

 牧野標本館では,学名を使用していながら学名の理解を拒否していることになります.コピペの盛んなインタネット上では,元々意味がわからない言葉が“伝言ゲーム”によって,ますます訳のわからない情報が増えてゆくことになります.
 それは元々の情報が曖昧だからですね.責任とって欲しいものですね.


 一方,インタネット上で検索を続けると,「 Cyrtomium falcatum complex 」という言葉が見られます.つまり,この「種」の分類があまりうまくいっていないことを示しています.

 筑波実験植物園のHPには以下の記述が見られます.
  Cyrtomium falcatum (L. f.) K. Presl var. australe, nom. nud.
  Cyrtomium falcatum (L. f.) K. Presl var. falcatum
  Cyrtomium falcatum (L. f.) K. Presl var. littoralis, nom. nud.

 ここでも,属名-種名-記載者名-再記載者名それから「 nom. nud. 」もすべて立体で示されています(前述したように,区別できない).ま,それはいいでしょう.
 問題は,「 nom. nud. 」.これは「nomen nudum」の略で,ラテン語.だからこれも斜体(イタリック)で示すべきなんですが,ま,いいでしょ.これは「裸の名」の意味で,記載せずにつけられた名前のことです.
 つまり「Cyrtomium falcatum (L. f.) K. Presl」はいくつかの変種が知られていて australeとかlittoralisとかが俎上に登っているけど,それは記載されていない=つまり,正式の学名ではないということですね.

 さらに検索を続けます.
 BGPlantsのHPでは次の記述が見られます.

Cyrtomium falcatum (L.) C.Presl subsp. falcatum オニヤブソテツ 狭義
Cyrtomium falcatum (L.f.) C.Presl オニヤブソテツ 標準
Cyrtomium falcatum (L.f.) C.Presl subsp. australe S.Matsumoto ムニンオニヤブソテツ 標準
Cyrtomium falcatum (L.f.) C.Presl subsp. littorale S.Matsumoto ヒメオニヤブソテツ 標準

 例によって,これらはすべて立体表示ですので,属名-種名-記載者名-(亜種/変種)の区別がつきません.ま,それでもいくつかのことがわかります.
 まずは「 K. Presl 」が「 C. Presl 」に変わってますね.つまり,これはドイツ人の人名じゃろうと思われますね(どうでもいいですが).で,ここでは先ほどは「 var. 」でしたから「変種」の扱いでしたが,今度は「subsp.」ですから「亜種」の扱いだとわかります.で,各亜種名の後ろに「 S.Matsumoto 」がありますので,この人がきちんと記載をしているという判断ですね.でも,どれも,記載者名に記載年を付記していないので,間違った情報なのか,歴史的な経緯なのか,の判断はできません.
 ついでにいっておけば,牧野標本館では「Presl.」でしたから,これは省略形と見なされ,筑波実験植物園およびBGPlantsでは「Presl」ですから,こちらはフルネームの扱いです(変ですね.でもどちらが正しいのかは私にはわかりません).


 さらに検索を続けます.
 ZipcodeZoo.comでは,Genus Cyrtomium には約94種が記載されているとあります.分けられないものは分けなければいいのにと思いますが.分類学者は意味があるのか疑いたくなるほど,細かく分けたがる習性があります.
 しょうがありませんね.


 さて,これらの探索の途中では,(何であるにしろ)”オニヤブソテツ”が「金山草」である(あるいはらしい)という情報は(一つも)出てきませんでした.何かがおかしいですね.


 一方,一説によると,「金山草」=カナヤマシダ[ Athyrin yokoscense ](イワデンダ科)というのがありましたが,追跡調査ができませんので,これにはどうも間違いがあるようです.
 調べると,どうも,「和名」は「ヘビノネゴザ」というらしいことがわかります.

 ということで,調査経過を省略しますが,あやしけれども

PTERIDOPHYTA (シダ植物)
WOODSIACEAE(イワデンダ科?)
 Athyrium (メシダ属)
  Athyrium yokoscense (Franch. et Savat.) Christ(ヘビノネゴザ)
   Athyrium yokoscense var. alpicola (タカネヘビノネゴザ)
   Athyrium yokoscense var. dilatatum (ヒロハヘビノネゴザ)

 というのが,「金山草」だとしているのがいくつか見受けられました.
 その根拠は「シダ科のヘビノネゴザは重金属濃度の高い土壌に優先的」であるという,いくつかの論文にあるらしいこともわかりました.


●重金属耐性
 正確にいうと,「ある種の植物は重金属濃度の高い土壌でも生息可能」である.そのひとつが「 Athyrium yokoscense (Franch. et Savat.) (ヘビノネゴザ)」ということです.
 ここで,いくつかの勘違いがあるようです.重金属といえば,「金・白金・鉄・銅・鉛など」のことですが,これらの論文では「有害な重金属による土壌汚染を,これらの重金属耐性を示す植物で浄化できるかもしれない」というのが論旨なのです.
 つまり,「金山草」を話題にしている人は「金・白金・鉄・銅・鉛など」の有用鉱物を前提にしていますが,その元になっている論文は「カドミウム・鉛」などの汚染物質としての「重金属」を前提にしているわけです(もちろん両者に共通している部分もある).

 「ヘビノネゴザは重金属耐性を示す」ということは「カドミウム・鉛」ついては成立すると論文に書かれていますが,「金・銀・銅」については触れられていません.
 また,(シダ類の中で)ヘビノネゴザだけが重金属耐性を示すのか,あるいはシダ一般が重金属耐性を示すのかはわかりません.シダの分類や和名は(ありがちですが)混乱しています.
 なんと云うか,これはインタネット上の一種の「都市伝説?」になってしまっているのじゃあないかと思います.

 さて,ではその論文の方を検討しましょう.
 防災地質チーム(2007)「ファイトレメディエーション(植物を用いた地盤の浄化法)について」(寒地土木研究所月報 №646 2007年3月,42-44頁),その表-3より.

植物名         学名             対象金属
カラシナ       Brassica juncea        鉛、カドミウム
ヒマワリ       Helianthus annsu       鉛、カドミウム
グンバイナズナの一種 Thlaspi caerulescens    カドミウム、亜鉛
ミゾソバ       Persicaria thunbergii      鉛、カドミウム
ヘビノネコザ     Athyrium yokoscense       カドミウム
モエジマシダ     Pteris vitata          砒素
コシアブラ      eleutherococcus sciadophyl loide マンガン
タカネグンバイ    Thlaspi japonicum        ニッケル

 この表-3は,「永島玲子、久保田 洋、佐竹英樹、矢島 聡、近藤敏仁、谷 茂:重金属高集積植物のスクリーニング調査,第10回地下水・土壌汚染とその防止対策に関する研究集会講演集、pp.263-266、2004.」からの引用だそうです.

 これを見ればわかる通り,対象金属は「鉛,カドミウム,亜鉛,砒素,マンガン,ニッケル」などで,「金山草」のイメージにあう金属のことを対象としているわけではないことがわかります.
 つまり,汚染物質と見なされる重金属(鉱床)の発見には役立つかもしれないですが,「金山草」とは言い難いようです.

 もうひとつ.
 藤村達人(筑波大学遺伝子実験センター)センター長によって行なわれた「環境浄化植物の構築をめざして」という開所式記念講演で,示された表….

表2 金属濃縮植物
学 名         和 名        科名    濃縮物質名
Brassica juncea    カラシナ      アブラナ  Cd, Pb, Cr, Cu
Athyrium yokoscense  ヘビノネゴザ   メシグ(ママ) Cd, Pb
Heriunthus sp.     ヒマワリ      キク      Pb
Solidago altissima   セイタカアワダチソウ キク      Pb
Ambrosia altemissifolia フククサ      キク       Pb
Zea mays        トウモロコシ   イネ       Pb
Apocynum sp.      ハシクルモン   キョウチクトウ  Pb
Stragalus racemos                      Se
Thlaspi caerulescene            アブラナ   Cd, Zn
Paspalum notatum    スズメノヒエ   イネ      137Cs
Arabis stricta               アブラナ    90Sr
Uncinia leptostachya            カヤツリグサ   U
Ipomea alpin      サツマイモ属    ヒルガオ     Cu

 こちらには,より多くの植物名があがっていますが,同じことですね.


●オニヤブソテツという「金山草」

 さて,話の発端になったオニヤブソテツに話を戻しましょう.
 オニヤブソテツに重金属耐性(環境汚染を浄化する植物という意味での)があるという話は出てきませんでした.

 では,正統派・鉱床学史ではどうなっているかというと….
 渡辺渡という鉱床学者が,鴇田恵吉(1944編)「佐藤信淵鉱山学集」(富山房)の中で「山相論」として議論する中で,「日本では,古来金山草(Athyrium filix-jemina)又金草と云ふのは,羊歯科の女羊歯で忍草のようなものでありまして,其裏面には種子を配列したものです」と述べています.本が古いので,日本語が妙なのは我慢してください.

 ここでは,「金山草」はAthyrium filix-jeminaという学名をあげ,また,シダ科のメシダ(属のことか種のことかは不詳)は「金草」と呼ばれていると云っています.
 ところで,Athyrium filix-jeminaという学名は見当たりません.

 一方,ユーラシア,北アメリカに広く分布する Athyrium filix-femina というのがあるそうです.この和名は「セイヨウメシダ」で,北海道に自生する「エゾメシダ」や,本州中部以北の「ミヤマメシダ」に近縁ということです.したがってAthyrium filix-jeminaAthyrium filix-feminaのミスプリントなのでしょう(なお,学名に「-」=ハイフンを使うことは許されていなかったような気がしますが,今回は無視します).

 ちなみに,「エゾメシダ」,「ミヤマメシダ」の学名は以下の通り(例によって,学名表記がグチャグチャなので正確さを欠きます).
  エゾメシダ = Athyrium brevifrons Nakai ex Kitag.
  ミヤマメシダ= Athyrium melanolepis (Franch. & Savat.) Christ

 したがって,渡辺は「羊歯科の女羊歯」といっているので,メシダ科一般を示していったのではなく,当時一般的に「女羊歯」といわれていた「羊歯の一種,あるいは数種」についていっているのだと考えられます.
 なかなか,錯綜していますね.

 渡辺は続けて,「此女羊歯は他の草木に比べて金属の塩類並に硫酸に抵抗することが頗る強い性質を持って居るので,他の草は枯死しても単り此金草のみ繁茂するの結果と思われます.」としています.
 つまり,「女羊歯」というものが正確になにを示しているかは別として,ある特殊な植物が繁茂していることを持って,金属鉱床の有無を判断する基準になっていることをいっているわけです.してみると,現代地質学的方法ではなく,植生を持って金属鉱床の有無を判断することはあったようですし,あり得るようです.

 しかし,読むことが可能な古書および研究書には,「金山草」についての記述はほとんどありません.この矛盾はどう解決できるのでしょうか.
 可能性としては,要するにそれは「秘伝」だったから「文章として残ることはなかった」ということになりますでしょうか.


●シダ類以外の「金山草」
 ここに別の説もあります.インタネット上ですから当然のように出典不明(言伝へのようなものなのでしょうかね).それは…,
  シダ,ニラ
  シャクナゲ,ビワ
  ブナ,クロモジ,ヤブムラサキなど

 つまり,シダ類以外の植物も「金山草」と呼ばれていた可能性があるということです.
 こういった植物の性質も検討してゆかなければならないのでしょうけれど,金属鉱山の開発が皆無になった現在の日本では,「こういった植物が鉱床発見の指標になるかもしれない」というような研究は行われることはないでしょう.

 まとめると,シダ一般を「金山草」と呼ぶ説と,シダ類のうち特定のものを「金山草」と呼ぶ説があるになりますか.しかし,それを裏付けるような研究は見当たらないということのようですね.
 さらに,上記のようなシダ類以外の植生(一般的なのか,特殊なのかはわからないが)を「金山草」とよぶ場合もあったのかもしれないわけですが,それもハッキリしませんというのが現状ですか.


 今,比較的はっきりしている鉱山発見の方法を追記しておけば,それは「焼け」というものです.

 番場猛夫(1990)「いま,地球の財産を診るー鉱床学と鉱物資源ー」(教育出版センター)
 から,引用しておけば…,
「焼け」=「鉱床の周りは一般に岩石が変質しているので,石が焼けただれている感を与える.そのことから変質区域を「焼け」とよぶ.鉱床が地下に潜在している地域で,地表の「焼け」から鉱床に達した例は多い.」
 本文には,「鉱床と変質岩とは根はひとつだ,という考えに達している」とあります.

 すると,「焼け」のあるところには,(産業として成り立つかどうかは別として)「鉱床」があることになります.しかし,逆の「「焼け」のないところには「鉱床」は存在しない」ことが成立するかどうかは,良くわかりません.

 しかし,現代の鉱床学者が経験的に理解したことを,中世・近世の山師たちが気づかなかったということも,(現代科学的な証明には至らなかったとしても)考えにくいことです.してみると,最初に触れた佐藤信淵の「山相論」などは,実は「焼け」や「金山草」という秘伝の隠れ蓑だったのではないかという気がしてきます.

     

2009年1月4日日曜日

札幌農学校の地質巡検

 札幌の「I」さんから以下の論文があることを教えていただきました.

 北海道大学大学文書館年報の第2号(2007年3月)に,山本美穂子が「平塚直治受講ノート(西信子・西安信氏寄贈)をめぐって― 札幌農学校第14期生の学業史―」という論文を書いています.

 それに石川貞治が指導した「地質巡検」の概略が示されています(著者には地質学の素養はないようですし,論文執筆時に地質学者に問い合わせた様子もありませんね.言葉遣いに関しては,もしかしたら,「報文」のままなのかもしれませんが,論文としては適切でないものもあります).


 それが行なわれたのは,1894(明治27)年5月のことでした.
 平塚直治が佐藤昌介宛に提出した「地質学科修学旅行報文」が残されていて,概要を知ることができるのです.参加したのは農学科及び工学科の二年級の学生でした.

5月10日:
札幌から住吉まで(列車使用)
「報告内容:札幌~小樽間の風景を陳述.石狩平原の地層・地質,鉱物種類,土質(泥炭地) のほか,樹木植生(ハンノキ、胡桃、ニワトコ等)を記録.」とあります.

 列車に乗りながら,「石狩平原の地層・地質,鉱物種類,土質(泥炭地)」の観察ができるわけがないので,これは石川が口頭で説明したものでしょう.もしくは,我々の時代の地質学鉱物学教室で行なわれた「地質巡検」では,学生が資料を前もって調べて,現地で仲間に発表するという方法をとっていましたので,この当時も同様のことが行なわれた可能性もあります.
 いずれにしても,列車に乗りながらでは,現物に触れることは不可能ですし,乗車中はすることもないので,その時間を利用して石川もしくは学生が口頭で解説したものと思われますね.

旧忍路街道(徒歩)
「報告内容:街道の地質を観察」とあります

 “旧忍路街道”というものについては,山本(2007)は説明していませんが,現・国道5号線が明治27年当時のままであるわけはないので,旧道のことと思われます.しかし,その旧道がどこを通っていたのかは不明です.ここで,列車を降りたのが「手宮駅」ではなく,「住吉駅」であったことは何かのヒントになるかもしれません.つまり,旧道を使用するのは,手宮よりも住吉からの方が便利であったわけですね.
 “旧忍路街道”を徒歩で,塩谷の海岸に出るまで,随時露頭を観察したものでしょうが,陸路であれば,それほど露出がよかったとも思われません.

忍路郡塩谷
「海岸の地層を観察,石川貞治助教授の教導により地層走行・傾斜角度を測定」とあります.

 現在の通常の地質屋がつかう「ことば」とは異なりますが,「海岸付近に露出する地層の走行および傾斜を測定する実習を行った」のでしょう.これを行っているということは,地質学の実習としては,初歩の初歩なので,この実習を「研究」と表現するのは不適切であり,あくまで「実習」と呼ぶべきものでしょう.

忍路郡桃内海岸桃内
「石川助教授が砂岩に木葉印痕(化石)を発見.岩石が脆く,化石の採集不能を惜しむ.凝灰岩等の岩石を採集.」とあります.

 地学団体研究会・札幌支部編「札幌の自然を歩く」には,桃内トンネル付近には,「軽石を多く含んだ凝灰岩と砂岩の互層」がみられるとあります.多分,この露頭が石川助教授以下の学生たちが見学したのと同じものと考えられます.“印痕”という言葉は現在はつかいませんが,「報文」にそう書かれてあるとすれば,当時はそういう言い方をした可能性はあります(あまり聞いたことがありませんが…).しかし,その化石が(「印象」であるにしろ何にしろ)発見されたのは「非常に珍しいこと」だと思われます.
 現在の解釈では,この付近の当時の環境は,海底火山がしばしば噴火している状況で,堆積物自体は「水中火砕流堆積物」と考えられているからです.つまり,周囲に木が生えている環境も考えにくいし,「木の葉」自体が流入する環境も考えにくいわけですね.ましてや,印象であるにしろそれが化石となって残ることも考えにくいというわけです.
 もし,その標本が採集されていたとしたら,非常に貴重なものとなっていたはずです.

余市(河村),岩内街道,仁木村(輪島屋一泊)
「仁木村,黒川村の概況を陳述」とあります.

 現在の余市町に「河村」という地名は見当たりませんが,「黒川」は余市町の中心部の町名です.“岩内街道”は余市から稲穂峠を抜けて岩内へ続く道のことでしょう.
 住吉(南小樽)から余市まで約20km,さらに仁木まで4kmばかり,あわせて約24kmの行程です.当時はまだ,函館本線は開通していませんから,すべて歩き通したのでしょうかね.すごいですね.
 仁木の輪島屋に一泊.仁木村にあった輪島屋の記録があればおもしろいのですが,今のところ見当たりません.

 翌,5月11日は一日中鉱山を見学して,余市に帰り一泊.

ポンシカリベツ鉱山(余市1泊)
「鉱山の概況,入坑(萬歳坑)して採掘見学,撰鉱所の蒸気機関を見学.各種鉱物(金銀鉱,方鉛鉱等)を採集」と,あります.

 「ポンシカリベツ」は仁木町から余市川を約4km遡ったところで分かれる支流「然別川の支流」のこと.つまり,この鉱山は旧・「大江鉱山」と思われます.小関(1954)によれば,確かに大江鉱山事務所のすぐそばに「万才脈」と呼ばれる鉱脈があります.
 小関(1954)の当時は,すでにこの脈は採掘を中止しており,分枝脈において「銅・鉛・亜鉛鉱」を採掘していたそうです.小関によれば,この「地域の鉱床は…,石英脈および菱マンガン鉱脈の複成鉱脈で,金銀を含有し,石英脈にはやや多量の銅・鉛・亜鉛鉱物を伴う」とあります.
 なお,「方鉛鉱」は「鉱物」ですが,「金銀鉱」は「鉱石」であって「鉱物」ではありません.

 小関(1954)から,大江鉱山の沿革を転記しておきましょう.

「本鉱山は明治23年に発見されて以来,大正の初めまでは然別鉱山と称し,主として金・銀鉱床として稼行された。その後幾多の変遷を経たが,昭和25年7月現鉱業権者大江鉱業株式会社によりマンガン鉱床として再開され,翌26年からは銀・鉛・亜鉛鉱をも産出して現在に至っている。」
「昭和26年のマンガン粗鉱産出量は約14,000tで,同年までの合計生産量は約5万t以上に達し,昭和26年後半には毎月粗鉱1,500tを産出している。一方,昭和26年6月からは銀・鉛および亜鉛鉱をも採掘し,爾来6カ月間に含有量として銀26,800g,鉛37,620 kg,亜鉛42,280kgを産出した。」
「本鉱山の坑道総延長約8,000mのうち,当時入坑可能延長は約1,000mで,主要鉱脈である千歳脈・万歳脈および百代脈は各通洞坑地並以下は水没していた。現行採掘は上記主要鉱脈の疎水坑道地並以上について残鉱を採掘しており,夏季は坑外にある貯鉱の選別を併行している。採掘方法は手堀により,上向あるいは下向階段法ならびに両盤良好部については盤返し法によっている。」
「従来の設備としては焙焼爐36基(1基容量13~18t/d)があり,そのうち10基を使用中であって,これによりMn分28%以上の精鉱を出している。昭和26年における従業員総数は115名である。
 鉱区番号: 後志採登第42号
 鉱種名 : 金・銀・銅・鉛・亜鉛・マンガン
 鉱業権者: 大江鉱業株式会社外1(東京都日本橋区兜町2の18)」

 石川以下学生らの巡検のときは,大江鉱山として開業し,「銀・鉛・亜鉛鉱」も産出し始めた翌年にあたっていることになります.

 翌,5月12日は,帰路になります.

余市~小樽(1泊)
「忍路郡桃内の軟石坑を見学」

 これは,正確にいうと,多分「桃岩」付近の採石場のことだと思われます.前出「札幌の自然を歩く」には「この付近の軽石凝灰岩は古くから採石され,その大部分は小樽の倉庫の石材につかわれました」とあります.余市のニッカ工場もここ桃内の“軟石”を使用しているそうです.ちなみに,“軟石”と呼ばれている岩石は,通常,軽石凝灰岩:熔結凝灰岩をのことです.
 なお,「軟石坑」という言葉が使われていますが,「坑」は通常,掘った穴を示します.露天ではなく坑道堀をしていたのでしょうかね.採石場の記録というのは,ほとんど残っていないのが普通です.“軟石”を使用した建築物の方は文化財としての扱いがなされるようになってきているのに対し,片手落ちですよね.

5月13日:
小樽から札幌へ
「小樽郡奥澤村の軟石坑を見学,軟石・硬石を採集」とあります.

 小樽市奥沢の“軟石”は小樽市の建築物の石材として使われていたらしいのですが,採石場の記録はほとんど残っていないようです.最近,この奥沢の露頭が「北海道地質百選」にノミネートされたようです.ここでは,安山岩質火山角礫岩の上に軽石凝灰岩(=“軟石”)が乗っているのが観察できるそうです.

 採集した“軟石”と“硬石”は,それぞれ,軽石凝灰岩と火山角礫岩中の礫だったのでしょう.
 付近に,採石場跡の地形でもないかと探しましたが,市街地化が著しく,それらしきものは発見できませんでした.

全般
「石川教授,清水元太郎は石鉱・縄文土器破片を採集.余市川村で竪穴住居を発見.平塚は,植物52種を採集.」とあります.

 「石鉱」という言葉の使用例は聞いたことがありません.「鉱石」のことだと思われますが,前後関係の記述がないので不明です.
 採集された「縄文式土器破片」は,のちにフゴッペ岬付近で「フゴッペ遺跡」や「フゴッペ洞窟」が発見されますので,これに関係したものかもしれません.
 「余市川村」は現在の「余市町大川」のこと.したがって,これは現在「余市大川遺跡」として知られているものと思われます.また前出の「余市河村」は「余市川村」の誤記ということになるでしょう.
 大川遺跡は縄文から近世にわたる遺跡とのことで,北海道史では非常に重要な遺跡のようです.大川遺跡の発見者が石川貞治だったとは驚きですね.考古学の方面は私にはほとんどわからないのが残念.

 考古学的発見ばかりでなく,平塚は植物標本も採集しています.この一語から,この巡検自体は純粋な「地質学」巡検ではなく,札幌農学校開闢以来の伝統であるペンハローやストックブリッジがおこなった「博物学」的な巡検であったことがわかります.
 また,以前にも「北大百年史ではよくわからない」ことを書きましたが,この論文から,未公表の資料がたくさんあるのであろうことが想像できます.部外者には残念ですね.