2019年1月14日月曜日

神保小虎の生涯…

 
 神保小虎については,数々の武勇伝を漏れ聞くものの,その生涯について伝記的といえるほどの著述は見当たりません.最近になって,松田義章氏や浜崎健児氏がまとめているものの,その元ネタは佐藤伝蔵の追悼文(下記)によるものらしいです.

  佐藤伝蔵(1924a)神保理学博士を弔す.地学雑誌,36年,179-182頁.
  佐藤伝蔵(1924b)小伝・神保博士を悼む.地質学雑誌,30巻,411-412頁.

 佐藤(1924a)については,地学雑誌がCD化された際に入手したものがあり,読むことができましたが,地質学雑誌については(こちらのほうが詳しいようなのですが)公開されていないので,今のところ入手できていません.どなたか親切な方がいたらpdf.化して,恵んでいただけないかと期待していますが,まあ,だめでしょうね((^^;).

 さて,それでは佐藤伝蔵(1924a)「神保理學博士を弔す」より,少しまとめてみましょう.以下は佐藤(1924a)からの情報に絞り,他の著作からのデータなどは脚注にしてあります.

1867.06.19(慶応三年五月十七日)*1:幕臣・神保長致の長男として,江戸駿河臺觀音坂下に生まれる.
1875(明治8)年7月:神田淡路町私立共立学校*2へ入学.
1880(明治13)年1月:(東京大学)予備門*3に入門.
1883(明治16)年9月:(東京)大学理学部に入り地質学を学ぶ.
1887(明治20)年7月:卒業(21歳)*4
1888(明治21)年8月:北海道庁技師試補となる.
1889(明治22)年8月:北海道庁四等技師となる.北海道の地質調査に従事する.
1892(明治25)年:「北海道地質報文」(上下),The General Geological Sketch of Hokkaidoを著す.
1892(明治25)年7月:ドイツに留学.ベルリン大学で鉱物学,岩石学,地理学,古生物学を学ぶ.
1894(明治27)年:Beitrage zur Kenntniss der Fauna der Kreidefomation von Hokkaido. を著す.
1894(明治27)年10月:単身「シベリア」大陸を横断して帰国.黒龍江沿岸の地質を概査したらしい.
1894(明治27)年11月:理科大学助教授となる*5
1895(明治28)年:遼東半島を調査*6
1895(明治28)年:理学博士となる.
1896(明治29)年:教授となり(專ら)鉱物学講座を担任する.
1906(明治39)年6月:樺太島へ出張.北緯五十度線地方の地質,地理を調査.
1912(明治45)年5月:欧米各国に出張,各国の鉱物学大家を訪問し,主として日本産鉱物に就て議論した.
1915(大正4)年12月:露領「ウラジオストック」地方を調査した.
1924(大正13)年118日 神保小虎(東京帝國大學敎授・理學博士)死去.

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*1:和暦&旧暦は漢数字で,西暦&新暦は算用数字で示した.
*2:共立学校(きょうりゅうがっこう):佐野鼎らによって神田淡路町の相生橋(現・昌平橋)に建てられた学校.のちの東京開成中学校.1878年には高橋是清が校長に就任し,大学予備門進学者のための受験予備校となる.(ウィキペディアより編集)
*3:(東京大学)予備門:18774月の東京大学発足に際し,前身機関の一つである開成学校の「普通科」(予科)は別個の中等教育機関「官立東京英語学校」とまとめられ,修業年限4年の「(東京大学)予備門」として再編された.法理文三学部への進学者はこの予備門での課程履修(すなわち教授言語である欧米語の修得)が義務づけられ,その組織は三学部の管轄下に置かれた.(ウィキペディアより編集)なお,欧米語の習得義務は,当時の教授陣は欧米人教師だったからである.また,この頃は大学は一つだけのはずで,「東京」の冠はついていなかったと思われるが,未検証である.
*4:卒業(21歳):共立学校入学から大学卒業まで,修業年数の検証をしていない.これは神保の履歴の記録が少なく,また学制の変更もあるために手がつけられないからである.
*5:理科大学助教授となる:佐藤(1924)には「理科大學助敎授に任ぜられ地質學、古生物學、鑛物學第三講座擔任を命ぜられ」とあるが,当時の学科構成が不明なので,意味はよく判らない.当時の研究者は万能型が多いとはいえ,地質学・層位学・古生物学を主としていた神保が,なにゆえ鉱物学助教授として呼び返されたのかは,謎である.二年後には教授になっているところを見ると,日本人研究者の人材不足が背後にあったのかと思わせる.のち10年に渡って鉱物学教授として後進の育成に携わったにもかかわらず,樺太に出張,その地質・地理を学会に紹介したとされているところから見ると,相変わらず万能型の地質学者であったのだろう.
*6:遼東半島を調査:佐藤(1924)には「遼東半島を跋渉し、地質學及地理學上の取調をなし其報告書は當時の學界を賑はせり」とあるが,鈴木(2015)には「鉱物を調査したが,砂金ぐらいしか見つからなかった.」とある.


2018年12月16日日曜日

Amazonのバナー

  ↘に,いくつかのテーマにしたがって,選んだ本をバナーのかたちで紹介して置いたのですが,Amazonの方で,そういうバナーの供給をやめてしまったので,みっともないバナーが並んでいます.

 面倒くさいので,しばらくそのままにしておきます.
 

2018年12月12日水曜日

三つの文化

 
 「新石器時代と“縄文”・“弥生”時代」で触れましたが,「“縄文”・“弥生”時代」に関する疑問.もっとスッキリさせてる本がありました.それは↓.

藤本(2009)

 この本の12頁に,下のような図があります.藤本さんは考古学者なので,層位学に逆らって「古い方を上に,新しい方を下に」描いています.「地層累重の法則」に従う地質屋としては非常に入力に苦しむ図ですが,ま,これは仕様がない((^^;).
 もう一つ.本文では(これまでに比べれば)非常に柔軟な思考をしているのですが,図にしてしまうとご覧のように枡目状の時代区分になってしまってますね.


藤本図

 これを,本文にあわせてイメージすると下のようになるかと思います.なお,時間軸を縦軸にすると,私には理解しにくくなるので横にしてみました.


メタ図

 これを見ると,「日本という天皇の国家」が幻想の上になり立つということがよくわかります.はっきり言って,戦乱の大陸・半島から流民・移民が,排他的とはいえない“縄文”人(水田文化の“弥生”人と自然の恵み重視の“縄文”人ではニッチが違う)の中に入りこみ,徐々に勢力を伸ばし“縄文”人を排除してゆく様子がよくわかります.
 縄文人の抵抗(=東北人と「日本国」との戦い)は網野(2008)の図(↓)が分かり易いですね.

網野(2008)


戦い

 そうはいっても,縄文人と弥生人とは明確に分けられるものではなく,アイヌと琉球人は比較的色濃く縄文人の血を残しているものの,北海道を含めた日本列島にいる“日本人”は,ほとんどみな縄文人と弥生人の混血なわけです.どちらかが濃い薄いはあるでしょうけど….

 最終的に列島を制覇した“弥生”人は,今度は昔追い出された大陸や半島へ向かって進軍を開始します.それが「大東亜戦争」だったのかもしれません.

 

2018年12月7日金曜日

徳内の愛妻3 徳内家の子ら

連れ子「さん」のちの「ふみ」

「「ふで」この年十九歳、初め十四歳にて一度嫁し、一女「さん」(後のふみ)を産んで夫に死なれ、出もどつてゐたのであるが、こんど六歳の「さん」を連れて俊治の徳内と結婚したのである。」(皆川,1943p.74

  1783(天明三)年生まれ.
 「ふみ」は徳内の養子「鍬五郎」と結婚.たぶん,このころはまだ「さん」と呼ばれていただろう.結婚の時期は不明.徳内の長男「俗名不明:常観童子」が1795(寛政七)年七月に死亡しているので,嗣子がいない.であるから,たぶん鍬五郎を養子とした(つまり「さん」が結婚した)のはその後ということになる.しかし,徳内の目論見は外れ,鍬五郎は1801(享和元)年二月死亡.
 その後の動向は不明.1833(天保四)年十二月二十四日死去.

養子「高津鍬五郎」

「徳内養子鍬五郎」(皆川,1943p.340
「充之進不埒のため、ふみは離縁せられ一男三女を殘して徳内の家に戻つてゐた。ふみは不幸な女であつた。生後間もなく父親に死なれ、鍬五郎と結婚して間もなく夫に死なれ、女きよを徳内に託して山城充之進に嫁したのであつたが、今度は夫と子どもに生きながら別れなければならなかつたのである。」(皆川,1943p.341

 p.339の家庭図に,養子鍬五郎(享和元年二月十日死享年二十歳)とあるので,逆算して1782(天明二)年生まれ.1801年(享和元年二月十日)死亡.
 後述の長男が1795(寛政七)年に死亡しているので,徳内一家には嗣子がいない.鍬五郎を養子として「ふで」の連れ子「ふみ」を妻合わせたのであった.しかし,一女「きよ」を儲けただけで死去.島谷(1977)の家系図には「一男」が描かれているが,島谷の本文には現れず,皆川(1943)には影も形もない.島谷が示した家系図の間違いか,あるいは生後すぐに亡くなったのかも知れない.ただ,養子の子とはいえ,徳内一家の嗣子に当たる子である.なんの記述も無いのはおかしい.島谷編の家系図の「ミス」である可能性が高いだろう.

養子「高津鐵之助」

 皆川(1943)の本文中では,徳内の墓の北側に四つの墓碑があり,それらは「善門院通譽自性居士(二代目徳内效之進;後述)」,「靜譽寂道信士(鍬五郎)」,「常觀童子(実子長男)」,「善譽達道信士」の名が刻まれているという.このうち「善譽達道信士」は俗名「最上鐵之助常準」.「鐵之助」については,ほかになにも記述がないが,四つの別の墓があることおよび俗名から,鐵之助は養子であったことが推測される.つまるところ,1804(文化元)年には養子として入っており,1807(文化七)年には死去したことになるだろう.鍬五郎が死去したのは1801(享和元)年であるから,1801年から1804年の間に養子と迎えられたのであろう(1803年に徳内の実子・效之進が生まれているので,18011802年の間の可能性が高い).ちなみに鍬五郎は鐵之助の兄.皆川は高津家の家系図も示している.
 さすがに徳内夫婦も,連れ子「ふみ」を鐵之助に妻合わせることは憚られたらしく,鐵之助は「養子」としかない.しかし,1803(享和三)年に徳内の嗣子・效之進が生まれているので,養子・鐵之助は居場所がなかったのではないかと思われる.
 文化元年家庭図の鐵之助には「文化七年五月六日死享年二十七歳か」とある.墓に刻まれていたのだろうか.逆算して,1784(天明四)年生,1810(文化七)年没となる.

長男「常觀童子」

「この年二人の間に男子が生れた。これが寛政七年七月十九日八歳で亡くなった「常觀童子」であらう。」(皆川,1943p.75

 1788(天明八)年,徳内と「ふで」の長男生まれる.生年は記載がないが没年から逆算した.童子に関する記述はこれしかない.もちろん,童子は「ふで」出奔の時,背負うていた赤子である.

長女「もじ」

「八十吉が徳内の長女「もじ」を娶つたのは遅くとも文化十一年「もじ」十八歳頃のことである。」(皆川,1943p.340

 「もじ」の生年は,逆算して1797(寛政九)年.
 1834(天保五)年,徳内(当時,須磨男と称す)が「おふで」に代筆させた手紙に付けた自筆の手紙に「おもし 同居罷在候」とある.生年から計算すれば,この年38歳.

次男(嗣子)「效之進」

 皆川(1943)で次男・效之進の名が出てくるのは,339頁「文政元年徳内64歳の家庭図」が最初である.そこには「效之進十六歳」としかない.したがって,逆算すると生まれたのは1803(享和三)年となる.
 1829(文政十二)年の徳内の手紙によれば,效之進は二十七歳.嫁をもらって息子が二人いるが嫁の名前は書かれていないという.
 1835(天保六)年,「宗三郎(九歳)きみ(七歳)晴之助(六歳)三人を殘して二代目徳内效之進は遂に死んだ。」とある.

次女「かく」

 「かく」については,生没年すらはっきりしない.
 島谷(1977)の家系図によれば,二人の結婚相手が示されていて,「初婚:早川欽次郎(裕次ともいう。松前に罷越したまま帰らず)」と「再婚:太田亀吉(徳内八十歳の時にはかくの夫であった)」とあるのみ.
 1829(文政十二)年の徳内の手紙には,「末子「おかく」儀は去夏聟養子を貰ひ名は欽次郎、是は效之進子供も幼年の儀に付ひかへに致し置き、往々別家相立候樣にも可仕候。當年十九歳にて松前に舞越候早川八郎次男に御座候」とある.
 島谷(1977)がいう「裕次ともいう。松前に罷越したまま帰らず」は根拠不明であるが,皆川(1943)によれば,資料に「婿裕次」の文字があるので,「欽次郎ではなく裕次郎」の誤りかも知れないとしている.また,皆川(1943)が示した徳内の手紙の内容からは「かく」は早川家に嫁いだのではなく,「早川欽次郎」が「かく」の婿養子である.また,島谷は「松前に罷越したまま帰らず」というが,徳内の手紙からは松前に罷り越したのは欽次郎の親の早川八郎であり,その次男が欽次郎(十九歳)とも読める.1829(文政十二)年の家庭図には「かく」と欽次郎は「文政十一年夏結婚」とある.

 ところが,徳内八十歳の時の家庭図には,「おかく」の項目に,「夫 太田龜吉 子供當時無之候」とあり,欽次郎の名はない.皆川の記述によれば,「この祐次郎も「かく」と琴瑟相和さぬためか、天保三四年頃に離籍となり、太田龜吉と結婚した。婿養子だか、また太田龜吉の如何なる人物か説明がない。」とある.「ひかえ」にはならなかったようである.

この話題,おわり


徳内の愛妻2 ふでと徳内の子ら


 蝦夷地質学でも紹介したが,もう一冊,徳内の伝記がある.それは皆川新作(1943)「最上徳内」である.この本はすでに希少本と化し古書店でも容易に入手はできない.やっと入手した古書はすでにボロボロであった.
 その本から,徳内の妻・ふでと家族の姿を追ってみよう.

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妻「ふで」(1770~1840)
 1770(明和七),島谷「ふで」生まれる.
「嶋屋清吉(尚名又之丞)妹「おひて」もとより淫行にて嫁して不縁せり、十四時一女をもふく。先夫も後死せり。嶋屋より勘當せられたり。徳内と通し群少年(〇北行日録悪少年)の世話にて徳内秀子も嶋屋と和して嶋屋の向ふ店へ、かまとを立、野邊地の人別に入」(皆川,1943p.74

 「おひて」は「おひで」であり「ひで」である.「秀子」も同じ.上記は「征北窺管」からの引用文.「征北窺管」の著者は「濁点」を使用してない.また,本来は「ひで」と名づけられていても,上に「お」をつけて呼ぶことはふつうにあったようだ.下に「子」を付けるのも同じ.「ふで」の幼少時の名前は「ひで」だったらしい.島谷(1977)の「徳内家系図」にも「秀子」とある.
 皆川は「「ひで」は「ふで」の誤り」と書いているが,のちの徳内の娘たちは,なにか(とくに離婚・死別などの事件)あるたびに改名しているようだ.したがって,最初の名前が「ひで」で,恋愛の末に結ばれた先夫が死亡し,徳内と再婚するときに「ふで」と改名していたとしても不思議はない.

 島谷清吉の妹・「おひで」は,もともと淫行して嫁いだが縁がなかった.14歳の時に女の子を産んだ.それは「さん」,後の「ふみ」である.先夫はその後死亡.そして島谷からは勘当されていた.「群少年(=悪少年)」というのはなんだか不明であるが,彼らが仲介して「おひで」は勘当を解かれ,徳内と「おひで」は島谷の向かいの店に家庭を築き,野辺地の人別に入った.なお,野辺地時代の徳内は「俊治」を名乗っている.たぶん,このころ「ひで」は「ふで」に改名したのだろう.
 この時代の「淫行」がなにを意味するのかはわからないが,現代とはまったく意味が異なるだろう.十四歳で子どもを産むというのは,この時代ではふつうである.だから,それではない.しかし,島谷から勘当されていたというから,島谷当主・清吉の意に沿わない結婚だったことが推測できる.蝦夷地探検で有名な徳内を射止めたから勘当を解かれたのだろうか.

 たくましく想像を働かせば,「ふで」は激しく情熱的な女性だったのだろう.それは,のちに「徳内死す」の噂が伝わってきたときに,野辺地の島屋にいれば安定した生活をつづけることができたであろうに,生まれたばかりの長男を連れて江戸へと出奔したことでも想像が付く.しかし,記録は冷たく,彼女の産んだ子どもについて,しかも徳内家の嗣子関連のことしか残されていない.

  1783(天明三)年,先夫の子「さん」のちの「ふみ」を生んだ.
  1788(天明八)年に十九歳で徳内の長男を産んだ.
  1797(寛政九)年,徳内の長女「もじ」を産んだ.
  1803(享和三)年,徳内の次男「效之進」を産んだ.
   その後,次女「かく」を生むが,彼女の生年は不明である.

 ふでは,徳内を送った四年後,1840(天保十一)年六月廿八日徳内のあとを追った.享年七十一歳.戒名は「本譽浄誓信女」.次女「かく」を除く男児二人,女児二人は先に亡くなっていた.

 つづく…


徳内の愛妻1


 地質学史に関係ない女性を追いかけています.
 理由は一つ.以前「ライマンの一目惚れ」を書いたときに,ライマンの人となりがよくわかり,同時にそのころのライマンを取り巻く社会がよく理解できたような気がしたから.歴史は,点ではなく連続,過去現在未来という線でもなく広がりを持ったものだから….うまくいくかどうか.乞う御期待


 最上徳内妻「ふで」は1770(明和七)年,茂辺地の廻船問屋・島谷清四郎の娘として生まれた(島谷の屋号は「島屋」らしい).1788(天明八)年,最上徳内(三十四歳)と結婚.1836(天保七)年,徳内を送り,四年後病没.徳内と同じ墓に埋葬.七十一歳.

 われわれが,徳内の伝記として読める書籍には限りが有る.1977(昭和52)年,島谷良吉が著した「最上徳内」(人物叢書)が一般的であるが,この書はすでに絶版.徳内という人物すらも,すでに知ることが困難になっているのに,その妻などわからないことの方が多い.でも,わたしが知りたいことは,だいたいみんな知ることが困難な事ばかりなので,今さらとして,探ってみることとする.


 「ふで」の実家は島谷家である.島谷といえば,1977年に徳内の伝記を書いた著者は島谷良吉という.たぶん,島谷ふでの家系なのだろう.だが,人物叢書「最上徳内」には,明確には書かれていない.「はしがき」の最後の一行に「私の島谷宗家にもその御厚意に対し深甚なる謝意を表して止まない」とあるだけである.

 島谷(1977)には,わずかに「ふで」に関しての記述がある.
 第四章の四に「島谷ふでとの結婚」という節があるが,5頁にわたるこの節で「ふで」に関する記述はほとんど無く,野辺地の由来と町の概要が大部分を占め,その町に失意の徳内がやってきたことで占められる.徳内が参加した「天明の“蝦夷地探検隊”」は田沼意次の失脚により頓挫.再度蝦夷地に渡ろうとするも松前藩に阻止され,南部領野辺地で船頭・新七に厄介になっていた.
 そのころ,茂辺地の廻船問屋・島谷清四郎(島谷家三代目:清吉)は徳内が遠縁に当たること,また蝦夷地探検の有名人であることを知り,島谷分家の後継にと,清吉「妹ふで(秀子)と結婚」させることとした.この時,1788(天明八)年,上記のように,徳内は三十四歳,ふでは十九歳であった.それがいつの日のことであったのかは記述されていない.また,「ふで」は「秀(ひで)子」という別名を持つのか,あるいは単なる誤記なのかも,ここではわからない.
 1789(寛政元)年五月,クナシリ騒動の報が伝わり,徳内は青嶋俊蔵と合流し野辺地を発つ.松前に上陸したのは七月十五日というから,徳内とふでの新婚生活は一年前後であったろう.

 つぎに「ふで」が登場するのは,翌年,1790(寛政二)年である.クナシリ騒動後,青嶋俊蔵の獄死,俊蔵に随行した徳内も入牢の上死刑という噂が野辺地に伝わった.徳内を心配した「ふで」は神仏に祈ったが耐えきれず,七月末,“八戸の神事見物に行く”と偽り,家を出た.そのとき「幼い男児」を背負っていたという.「ふで」が二百里余りの道を歩き通し江戸に着いたときには,すでに十月になっていた.男脚の約二倍の日数がかかっている.
 江戸に着いた「ふで」は日本橋に宿を取り,徳内の無事を神仏に祈願したあと人通り多い道筋にたち,見知った顔を捜し徳内の消息を得るつもりであった.七日後,知り合いを見つけ徳内の消息を聞くと,すでに罪を許されて本多利明宅にいるという.そのまま本多宅へ向かう道で,偶然にも徳内に出会い,涙の再会を果たした.
 二人は,そのまま江戸は神田に借家し,親子三人で暮らし始めた.しかし徳内は,その年十二月二十二日,再び蝦夷地御用を仰せつけられ,二十九日には江戸を立った.二ヶ月足らずの家庭であった.

 その後の徳内の八面六臂の活躍は詳述されているが,「ふで」についての記述は見当たらない.最終章の「家庭生活」にもほとんど記述はない.ただ,徳内はたくさんの蔵書を持っていた“らしい”ので,その支払いを任されたであろう「ふで」はよき妻であった“のだろう”としかない.わずかに徳内八十歳の時に,野辺地に送った書簡の中から,当時の徳内の家族構成が示されている.そして最終章のあとに「最上徳内家系図」が掲載されているが,本文とはほとんど整合しない唐突さである.
 末尾には「略年表」がある.そこには,徳内二十九歳の時(ふでは十四歳),「一女ふみ生まる」とあるが,徳内と「ふで」が結婚したのは,上記のように1788年,徳内三十四歳の時である.「ふみ」は徳内が江戸で修行中の時に生まれたのだ.島谷はこの件に関してはなにも語っていない.
 「ふで」の実家の家系であろうと考えられる著者・島谷の割には,島谷良吉自身は分家である(明瞭には書いていないがそう読める)とはいえ,島谷宗家に謝意を表しているにもかかわらず,「ふで」の姿は見えてこない.

 こうなると,性格の悪い私は「ふで」の姿を追い求めてみたくなる.「ふで」と地質学はまるで関係がないのであるが,ご容赦(m(_ _)m).
   次回に続く…

 

2018年12月6日木曜日

家大人小傳

「家大人小傳」

 この文章は,かなり前に書いたものであるが,その後よりディープな探索中である.で,正確でないことはわかっているが,もったいないので投稿しておく.


 「蝦夷地質学(*1)」で「皆川の記述は,徳内の「自叙伝ともいうべき『家大人小傳(*2)』」から引用してるようだが,島谷の文献リストには「家大人小伝」は,「高津鍬五郎著」になっている.なお,「高津鍬五郎」は,徳内の養子である.「家大人小伝」というのはその所在は不明である.」と書いておいたが,その後,探検中にいくつかわかってきたこと(?わからないこと?)があるので記しておく.

 この「家大人小傳」は山形県村山市の文化財として現存することがわかった(*3).しかし,完全な「お宝」であるから,これを検討することはわたしには不可能であろう.それはともかく村山市HPによれば「女婿・鍬五郎が書いたものを、その死後、次男・鉄之助が校定印刷したものです。」とある.
 女婿・鍬五郎とは何者か.そこで,島谷良吉の「最上徳内」から「第十一 家庭生活」を見てみると,おかしなことがわかる.本文文章の記述と家系図とに整合性がない.たとえば徳内の妻の名は,本文では「ふで」であるが家系図では「秀子」になっている(無断引用を禁ず,とあるので図示しない).鍬五郎は長女「ふみ」の夫「高津鍬五郎」.これでは徳内は鍬五郎の義父ではあるが,婿養子とは見えない.徳内の長男は幼くして死亡したようであるが,総領として「效之進」がおり,婿養子をもらう必要もないのだ.ちなみに,村山市HPにある「鍬五郎の次男・鉄之助」は島谷の載せた家系図には出ておらず,娘の名「きよ」は出ているものの,男子の方は「男」ひと文字で略されている.
 そこで,皆川新作の「最上徳内」から家系をひろってみると,じつは「ふで」は再婚であり,長女「ふみ」とされる女性は「ふで」の先夫の子となっている.これでは「ふみ」が「高津鍬五郎」と結婚していたのだとしても,鍬五郎が徳内を「家大人(=父親)」と呼ぶのは奇妙である.

 そう思って,島谷の「最上徳内」の年譜ながめて,またまたびっくり.
 徳内は,1788(天明八)年,「島谷清吉・妹ふで(19歳)と結婚」とある.もっと驚くことには,結婚を遡ること五年前,1783(天明三)年に「一女ふみ生まる」とある.19歳で既に離婚歴があり,しかも13~14歳で生んだ娘を連れて再婚….あり得なくはないけど,なにかおかしい.皆川の示した系図がおかしいのだろうか.
 1801(享和元)年二月十日,「長女ふみ(さんに改名)の婿養子・鍬五郎病没(20歳)」とある.結婚したのがいつであったか書いていないのでなんだが,この年「ふみ」は18歳のはず.この部分では鍬五郎が徳内を「家大人」と呼ぶのは整合する.しかし,村山市HPを信ずれば,20歳でなくなった鍬五郎には「次男・鉄之助」が既にいたことになる.これはおかしい.
 なんとならば,1810(文化七)年五月六日,「高津家より養子に迎えたる鉄之助病死す(27歳)」とあるからだ.この年,1781年生まれの鍬五郎は生きていれば29歳.鉄之助27歳ならば,鍬五郎の次男は鍬五郎が3歳の時に生まれたことになるからだ.したがって,鉄之助は高津家の生まれであるにしても,「鍬五郎の弟」というのが,一番あり得るところだろうか.であるとすれば,鍬五郎が徳内を「家大人」と呼ぶのは整合する.それでもこの時期,徳内の嗣子・效之進は健在であるし,鍬五郎と結婚していた「ふみ」は山城充之進と再婚しているので「鉄之助」を養子にする必然性はないのであるが….
 つまり,よくわかってないことが,あちこちに書いて印刷してあると云う事ね.

 さて話は変わるが,「家大人小傳」では,なんのことかわからないので,「家大人小傳(最上徳内小伝)」とでもした方がいいだろう.
 なお,人物叢書に「最上徳内」を書いた島谷良吉は,徳内の妻・ふで(もしくは秀:ひで)の実家の系譜な可能性が高いが,明示されていない.

以下,よりディープな世界に移動・探索中…

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*1:蝦夷地質学:地団研・北海道支部のHPに連載していた.北海道支部がいつの間にか崩壊状態となり,こちらには何の連絡もないままにHPは閉鎖され,今は“まぼろしの「蝦夷地質学」”となっている.支部はほぼ無政府状態(だれに連絡すればいいのかサッパリわからない)なので,こちらで勝手に復活させようかな,とも考えている.
*2:家大人小伝:家大人(かたいじん)とは,自分の父親を敬っていう語である.したがって,高津鍬五郎は徳内の息子ということになる.

*3:村山市のHPにて紹介.公開はされていない.