2018年5月25日金曜日

山名考

 
 ネット上をぶらついてる最中に,とても詳細な山名考を展開しているページに出会いました.それは「あまいものこ」さんのページです.

 わたしが悩みに悩んでいる「オㇷ゚タテㇱケ山」や「大雪山」の名についても,過去の例を網羅して,考察を展開しています.

 一度お話ししてみたいですね.
 

オプタテシケ・プルプルケ.その後

 
久保寺逸彦「アイヌの神謡」に目を通していたら,ある一文が目にとまりました.

「ウポポの中で、最もポピユラーで各部落で謡われ、曲調も、土地によって種々違っているものに「Optateshke purpurke」云々というものがある。私は、これを胆振幌別、日高平取、石狩近文、北見美幌、樺太落帆等で録音したが、随分ヴァラエティに富んでいる。」

 非常に残念なことに,この「Optateshke purpurke」のウポポは内容が示されていません.また,「随分ヴァラエティに富んでいる」としていますが,そのバリエーションもまったく示されていません.厚さ3cmもある本なのに.アイヌ文化研究者ってのは,こういうのが多い様に感じるね.裏付けになるような肝心なことは書いていない.言ったモン勝ちの世界だね.そしてそれが,古典的研究として金科玉条になる….

 こうなったら,「近文アイヌのウポポ(神前に捧げる祭詞)にオプタテシケ,プウルケ,プウルケの祭文がある.」(近江,1931)を再検証する必要があるなあ.ほとんど不可能だろうけれど.

 最低でも,知里真志保の「アイヌ民俗資料」を確認する必要があるなあ.入手不可能なので,図書館に行ってくるかあ.自転車が使える季節になったし.

 でも,自転車ひき逃げ事件が連続して起きてるので,自転車族には辛い時期だなあ….

 

2018年3月22日木曜日

止まってます

ブログ更新が滞ってますが,体調を崩しているわけではありません.
もう書かないと決めていたのに,成りゆきで論文を書くことになってしまったからです.

原稿は昨年12月始めに提出しましたが,締め切りに間に合わせるために,かなり雑.形式はいちおう整えたつもりですが.中身はボロボロだということはわかってました.
もう,何十年も論文書きどころか,レジュメ用の外国語からも遠ざかってますからね〜.
生まれつき,語学苦手だし.

で,案の定,ボロボロで帰ってきました.(^^;
詳細は,ここには書けません.いろいろマズイことがあるもので.(^^;;
地理的ハンデや,研究環境ハンデなんて,編集者・査読者には関係ないですからね〜.(^^;;;

ヤッパ,やるんじゃあなかったかな〜,と思いながら…

で,地学史発掘は滞ったまま.
もうしばらくお待ちください.
 

2018年1月13日土曜日

メッチルイの丘

メッチルイの丘
 その昔,旭川駅前にチャシ*があったことは,現在ではあまり知られていない.
 そこには全長200m,比高約15m**という丘があり,チャシコツ(砦跡)があった(図1890年旭川).当時のアイヌは「メッチルイ」と呼び,和人は「義経台***」と呼んでいたという(写真:義経台).

渡辺(1983)「まちは生きている」より

「義経台跡」の案内看板

石狩川河原にある標柱

メッチルイとは石狩アイヌ****の大酋長の娘の名である.
 十勝アイヌが上川に攻め入った*****ときに,十勝アイヌの若者に恋をしたメッチルイが仲間を裏切り,父の大酋長に殺害されるという事件があった.戦いが終わったあと,上川アイヌはメッチルイを悼み,戦場となったチャシのある丘を「メッチルイ」と呼んだのだそうだ.
 仲間を裏切ったメッチルイを記念する.不思議なことである.
 よほどメッチルイが美人であったのか,あるいは,裏切られても皆が涙するようなドラマがあったのか,この伝説を採録した近江も詳細は残していない.

 さて,この丘は1896(明治29)年から始まる鉄道-旭川駅の建設に伴い,削られて消滅******してしまった.削ったときに出た土砂はすぐそばの忠別川の埋め立てに使われたそうである.
 今となっては,この丘がどのような地質でできていたのか,それを知る術はないが,北海道立地質研究所(2009編)の上川盆地断面図を見ると,旭川駅前付近は基盤の中生界が深く,旭川層が厚く埋めており,比布~当麻方面で見られる古生代末~中生界のメランジ堆積物の残丘であったとは考えにくい.そうすると,南にある神楽岡丘陵(あるいは東にある東神楽町の“新”義経台)の地質とたぶん同じ火砕流堆積物ということになるだろうか.
 鈴木(1955)は,“洪積世”(更新世)の溶結凝灰岩として一色に塗っていたが,研究が進むにつれて,池田・向山(1983)では,上川盆地周辺の火砕岩類は「雨月沢火砕流堆積物」(松井ほか,1968),「美瑛火砕流堆積物」(池田・向山,1983)の二つに分けられている.この時,美瑛火砕流堆積物は古地磁気層序の検討によりオルドバイ事件(1.87~1.67Ma)の中であることが明らかにされた.
 さらに,西来ほか(2017)は,美瑛川中流域~下流域の火砕岩は約70~80万年前であることを指摘し,美瑛火砕流とされているものは二層以上の地質ユニットで構成されることを明らかにしている.


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* チャシ:(chási=砦;館;柵;柵囲い:知里,1956).チャシコツ(chási-kot)は砦の跡.桑原・川上(2015)はチャシが造られたのは主に16~18世紀であり,アイヌ文化の成立に関係があるとしている.
** 全長200m,比高約15m:宮下通5~7(4~6の異説あり)丁目付近という記述と,明治23年旭川市街図より推定.比高は宇田川(2005)より.
*** 義経台:この台地には,アイヌ神話の英雄神の一人・オキクルミの伝説が残されていたらしい.その上で,オキクルミと源義経は混同されていることが多く,このチャシでおこなわれたアイヌの神事の最中に「ギケイコウ(義経公),〃」と合いの手が入るところから,それを聞いた和人がこの丘のことを「義経台」と呼び始めたという話がある.なお,東神楽町の東神楽神社がある台地は,現在でも「義経台」と呼ばれているが,それは消滅した義経台に似ていたからだともいう.
**** 石狩アイヌ:ここに登場する「メッチルイの伝説」の初出(近江,1931;1954)には確かに「石狩アイヌ」とある.しかし,村上(1959)では近江(1931)を引用しながら「上川アイヌ」となり,これらを引用した宇田川(2005)は,このちがいに注意を呼びかけている.
***** 上川に攻め入った:アイヌの伝承では,十勝に限らず北見やそのほかのアイヌ(あるいは異民族も含めてか)が上川に攻めてきたという事件が頻繁にあらわれる.上川には攻め入る理由があったのか,あるいは当時のアイヌ社会の状態を示しているのか,興味深いところである.
****** 削られて消滅:じつは,この時までに,この丘の上には和人が建てた神社があり,この丘の下の通りだから宮下通の名が起こり,丘が消えたあとも「宮下通り」の名が残った.宮そのものは何度か移転をくり返したあと,上川離宮建設予定であった神楽岡に移設して「上川神社」を名乗っている.

2017年9月21日木曜日

オプタテシケ・プルプルケ〜...見つけた

 
サーフィン中,「オプタテシケ・プルプルケ」の実際のウポポを見つけてしまいました.

ネット上で鑑賞できます.
場所はSTVラジオ「アイヌ語ラジオ講座」から.クリックして「番組を聴く」から2011年6月12日を聞くとでてきます.

なお,テキストもpdf.でダウンロードできますのでさがしてみてください.
 

2017年9月10日日曜日

「オプタテシケ・プルプルケ」見つけた


近江正一の著に,近文アイヌには「オプタテシケのウポポ」があり,このウポポは火山噴火時の泥流に関係がありそうだということで,このウポポを探していたら....なんと,見つかりました.

なんと,このウポポは現在も旭川アイヌに伝わっており,太田満(2008),八谷麻衣(2011)が旭川地方のアイヌ語講座テキストで引用しているのでした.
それによれば,
 optateske     オプタテシケ
 purpurke     湧く
 niskur ka ta    雲の上
 kani-ponceppo  金の小魚
 kamuy esinot   で神が遊ぶ
 ehum ehum    エーフム エーフム
とあり,近江の解説のようにはならないことがわかりました.
いったい何だったんだろう.

太田さんとは,教育大・旭川校で非常勤をやっていたときに何度か顔をあわせたことがあり,会話も交わしていました.世の中は狭いものです.

八谷さんとは面識はないのですが,こちらはなんと,あのマレウレウのボーカルの方でした.
じゃあ,マレウレウのCDに「オプタテシケ・プルプルケ」が収録されてないかと,さがしてみましたが,残念ながらそれはない模様.残念.
う~ん,CD買おうかな....イカン,イカン.(^^;;


      


2017年8月8日火曜日

オプタテシケ プルケ プルケ

オプタテシケ プルケ プルケ

 我がふるさとに住むアイヌには「オプタテシケ プルケ プルケ」で始まるウポポがあるそうだ(近江,1931).
 近江の文章は,話の筋を追いにくいので誤解があるかもしれないし,アイヌの言葉や話の筋を正確になぞったものかどうかも疑問の余地があるが,「オプタテシケがプルケプルケ」したときに「山が湧き返って...」,アイヌたちは「みな縄を持ってよじ登り…逃れた」という.
 プルケはpur-keで「大水(がでる);洪水(が起きる)」という意味(知里,1956)でプルプルケといういい方もあり,こちらはpur-pur-keで「(清水が)ゴボゴボと噴き出している;煙をふいている」という意味らしい.そうすると,「オプタテシケ(山)から,煙もしくは大水が出た」という意味になる.近江は「山が湧き返って...」と表現している.これでは,火山活動のことかと考えてしまうが,近江は以下のようにつづける.

 そのころには,上川盆地にはあちこちに「当麻の親子山」,「東旭川の桜岡(採石の結果,現在は丘は存在しない)のように平地に突出した丘がたくさんあって,石狩川はその間を曲がりくねって流れていた」という.現在でも,写真のように,盆地にはたくさんの残丘が残っている.石狩川の洪水のときには,これらの丘に登って難を避けた,ということらしい.
 これらの残丘群は,チャート,緑色岩,泥岩,石灰岩からなる岩体で,典型的な残丘となっているところはチャートが卓越している.これらの岩石から産出する微化石は古生代後期から中生代に渡ってさまざまな年代を示し,メランジェと呼ばれる複合岩体をなしている.


(当麻残丘群)

 さてそのころ,今の神居古潭の場所には数千mの滝があった.
 「ある年,オプタテシケの山が大爆発するとともに,盛んに火を噴き溶岩を飛ばし,泥水といっしょに種々雑多のものを流した.水といわず,石といわず,泥の海が一時に押し寄せ神居古潭の堅い岩石を突き破って滝がなくなった.」という.
 「凸凹と突き出ていた山々は,この洪水のために,すっかり押し流されて現在のような広い平野ができあがった.」そうである.
 そのとき,今の近文アイヌの祖先たちは,石狩川の洪水のときと同じように丘に登って難を逃れたという.

 ところで,今のオプタテシケ山は十勝岳火山群の最北端に位置するので,大噴火したとしても上川盆地の話とは噛み合わない.それに,オプタテシケ火山の活動の最後は約26万年前と考えられているからだ(石塚ほか,2010).26万年前といえば,ミンデル-リス間氷期の最中で,旧石器時代華やかなりしころにあたる.古代型ホモ・サピエンス(ネアンデルタール人など)の時代であり,現代型ホモ・サピエンス(H.サピエンス サピエンス)まだ出現していないのだ.その時代の記憶をアイヌが持っているというのはね….


(図 十勝岳火山群活動ステージ;石塚ほか,2010)

 さて,ではオプタテシケとはなにか.
 オプタテシケというアイヌ語は,今では意味不明だそうだ.が,一説にはop-ta-teskeで「槍がそこに反り返っている」という意味であるという.つまり,鋭く聳え立った山容,えぐれた山を意味しているらしい.三角錐~四角錐の山体,あるいは爆裂火口を持った山をイメージするとよいか.日本語でも聳え立つ山を「~槍」,「槍~」と表現することがある.そして,そのような山容をもつ山は道内には複数個所ある.そして,むかしオプタテシケと呼ばれた山も複数ある.“槍のような”山はたくさんあるのだ.
 これはアイヌ語の特性である.アイヌ語の地名というのは“固有名詞”的なのはなくて,その土地の性質をそのまま表したものが多いのだ.
 上川地方のオプタテシケは,現在では(和人の命名法に従って)十勝岳火山群の最北端の山に特定されてしまっているが,アイヌたちは十勝岳火山群のとくに“オプタテシケ型”の山をそう呼んでいただけなのだ.大雪山連峰でも,とくに現在の旭岳はオプタテシケと呼ばれたこともあるらしい.そういえば,旭岳と(現在の)オプタテシケはえぐれ方が似ている.
 ところで,わたしは「槍~」という山を見ても槍を連想したことがない.旭山やオプタテシケ山の形を見ると,(ふつうに連想する)槍よりも,アイヌがヒグマを仕留めるときに使うという木杭の先端を思い起こしてしまう.
 なんにしろ,「オプタテシケ プルプルケ」のオプタテシケは,現在のオプタテシケ山に限定されては,よくわからないことになるのだろう.

 さて,それでは「プルケ」とはなんだろう.
 プルケはpur-keで「大水(がでる);洪水(が起きる)」という意味(知里,1956)でプルプルケといういい方もあり,こちらはpur-pur-keで「(清水が)ゴボゴボと噴き出している;煙をふいている」という意味らしい.近江は「オプタテシケの山が大爆発するとともに,盛んに火を噴き溶岩を飛ばし,泥水といっしょに種々雑多のものを流した.」といっている.
 単なる噴火ではないようだ.
 噴火そのものより,それを引き金におきた泥流の被害が大きかった,ということだろうか.
 大正時代に十勝岳の噴火に伴い,大規模な火山泥流が起き,大災害をもたらした.詳しくは,旭川の生んだ小説家・三浦綾子が「泥流地帯」を残しているので,読めば実感できるだろう.
 十勝岳の大正泥流は富良野側に起きた災害が有名だが,そのとき実際には,泥流は美瑛側にも流れている.ただ被害の方はよくわからない.美瑛町のハザードマップでは,美瑛市街迄泥流が来ることを前提としている.
 それでも美瑛の丘を越えて,上川盆地側(とくに近文や神居古潭近辺)に流れてくるとは考えにくい.

 そこで考えられるのは二つ.
 ひとつは,富良野・美瑛地域に住んでいたアイヌが,泥流被害に住居をあきらめて上川盆地に移ってきた.そこで,過去の記憶を伝えるうちに泥流被害の場所が混同されてしまった.これを検証する方法はないが,美瑛>ビエイ(和人変換)>ビイエ(和人聞き取り)>ピイエ(アイヌ発音):もとは,piyeだったというから....piyeは「脂っこい,脂ぎった」という意味で,これでは意味がわかないが,十勝岳火山から流れ込んだ硫黄分が川を汚していたからだと解釈されている.
 白金の「青い池」は最近有名になった観光地であるが,あのように不純物で汚れた水が流れておれば,アイヌが撤退しても不思議はない.ちなみに,青い池の正体は水酸化アルミニウムのコロイドによる太陽光の乱反射,だそうである.
 ちなみに,一本北,上川盆地側を流れるベベツ(辺別)川は,pe-petで「水の川」,(=水量が豊富)という意味だそう.ピイエとは,じつに対称的である.


青い池


 もうひとつの可能性は,旭岳の爆発に伴う泥流災害があったかもしれないということ.大正泥流被害が甚大であった十勝岳は,大正泥流のほかにいくつもの泥流堆積物が研究され発見されている(藤原ほか,2007;南里ほか,2008)が,旭岳にはそのような知見はない.だがそれは,明瞭な泥流被害がないから研究されていないだけなのかも知れない.
 そういう目で見れば,今後上川盆地あるいは旭岳山麓から泥流堆積物が見つからないという保証は無い.その目で見なければ,見えないものもある.
 アイヌの伝説をもとに,多くの津波堆積物の研究が進んでいる事実は,大いに参考になるだろう.

 オプタテシケ,プルプルケ....

 実際に,このウポポを聞いて見たいものだ.