2020年2月24日月曜日

北海道における石灰岩研究史(2)

北海道における石灰岩研究史(2)

北海道における石灰岩研究史(田中,1973の「北海道における石灰石鉱床の調査史」を改題)

1)草分け時代(1874-1892:明治725年)
 北海道における大部分の有用鉱物がそうであるように、石灰岩の地質学的な調査もまた,ライマンらの調査によって始められました(Lyman 1874; 1877。この報告には上磯を初め、石崎,上湯沢、鷲の木,神居古潭などの石灰岩が記述されています.しかし,これらのうち,上湯沢および鷲ノ木の“石灰岩”とされたものは,その該当するものは見つかっていません.

 ライマンの弟子である西山正吾がまとめた「北海道鉱床調査報文」(1891:明治24年)には,数多くの石灰岩産地も記述されていて,多数の分析値も載せられています.この報文では,北海道の石灰石鉱床はおおむね長万部以南にあるとし,東部では日高国,石狩国上川・北見国宗谷郡に限られるとされています.それらの石灰岩の時代は古生代と第三紀であるとされいますが,現在の知見から見れば正確さを欠いています.
 報文には,以下の地点の石灰岩についての記述があります.

  渡島国,亀田郡尻岸内村
    同,亀田郡石崎村
    同,亀田郡下湯川村湯ノ澤
    同,上磯郡中野村戸切地川,ガロの澤
    同,松前郡福島村ーの渡
    同,松前郡根部田村字烏の澗
    同,松前郡清部川上流シノへ沢
    同,松前郡原口村原口川およびヲンコの沢
    同,檜山郡石崎川の上流,清川
    同,後志国瀬棚郡利別川上流ピリカベツ温泉附近
    同,後志国島牧郡永豊村泊川および軽臼村大平川
  日高国,浦河郡元浦川上流
  日高国,浦河郡幌別川
    同,三石郡三石川上流
  石狩国,上川郡忠別(当時は,旭川,鷹栖,東鷹栖という地名はない)石狩川支流ピップ(比布)川
  北見国,宗谷郡チライベツ(知来別)川上流

 これらのうちでは「ガロの澤,三石,幌別,泊川,ピリカベツ」がとりあげられ,これらは石灰の原料としてのほかに,大理石として石材にも適するとしてあります.

 この後,田中(1973)は神保小虎の報告にある石灰岩についてまとめています.この部分には奇妙な点がいくつもありますが,神保(1890bJimbo (1892)はわたしには入手不可能なので,記述の確認ができません.したがって,田中の記述の通り引用しておくことにします.

「1891年神保小虎(95*)は“石灰石並びに大理石"として多くの産地を挙げているが,その内、当時採掘せるものとして、渡島国ガロの沢、同亀田郡石崎を記載している。又装飾用として使えるものは永豊村泊川の転石および三石川ドメウシの大理石があり、石灰石産地として開発可能な海岸又は道路に接したものとして次のものが挙げられている。

  1. 渡島国,亀田郡湯の川,石崎,尻岸内
  2. 渡島国、上磯郡ガロの沢
  3. 渡島国、松前郡原口、根部田,清部並びに福島村の辺り,江差港辺,石崎
  4. 後志国,利別川上流,美利河,永豊村
  5. 日高国,三石川,様似川、元浦河、幌別川
  6, 石狩国,上川郡比布
  7. 北見国,宗谷郡知来別

 これら石灰岩は全て古生層中にあって、第三紀並びに中生層中の泥灰岩団球は工業上採る可き価なしとされている。
 これらの石灰岩産地は現在も大体その位置を知るととができるが,その中の湯の川は上湯の川の温泉鼻と推測されるものであり、又根部田のように所在不明のもの、知来別のように増幌層礫岩中の石灰岩礫と推定されるものも存在する。又この文献中石狩川の神居古潭中のものは三株系(御荷鉾系のこと)中てあって質,量共に良き石灰を得るに適せずとしている。
 また、これら石灰岩を含む古生層は内地のもののように多種の化石を含まず、僅かにシヤールスタイン中にラデイオラリヤや海綿の遺殻を見るにすぎず,海百合の破片を見たものは永豊と根部田並びに原口だけであると記せられている。」
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* 神保小虎(95):「(no.)」は田中の引用文献提示法です.しかし,論文中の「(95)」は全く別の文献で,田中のリストでは(89)が正しいのです.また,(89)は「神保小虎 1891 北海道地質報文 北海道庁」とありますが,正確には「神保小虎(1892a, b)北海道地質報文(上下巻).北海道庁」であり,わたしが入手できた「上巻」には,そのようなことは書かれていないので,たぶん,1892b(下巻)にあるのだろうと思われます.

「続いて出された1892年の神保小虎(96)*の報告中には、まことに興味のある石灰岩が記載されている。これは空知川下流,空知川の滝から3里程上流のPanketoptuyeushiと空知滝に近い Shirikeshomapの下手のPanketeshima2ケ所に露出あり、古生層中の石灰岩とはおもむきを異にし、又日本の他の石灰岩とも異なっており海胆の棘と珊瑚、有孔虫があり,海胆の棘が鳥巣産のものとよく似ているので恐らくは中生代であろうとされているものである.」
「また、これら石灰岩を含む古生層は内地のもののように多種の化石を含まず、僅かにシヤールスタイン中にラデイオラリヤや海綿の遺殻を見るにすぎず,海百合の破片を見たものは永豊と根部田並びに原口だけであると記せられている。」
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* 神保小虎(96):田中のリストでは,(96)は無関係の論文であり,(90)が正しい.したがって,神保(or Jimbo)(1892)は計3冊あることが推測でき,和文下巻と英文は同一内容であることが推測できます.これらは現在入手不可能で,北大図書館には全て蔵書としてあると考えられますが,このためだけに確認におもむくのは「しんどい」ので懸案事項としておきます.

 以下,わたしの編集文章に戻します.
 上記,Jimbo (1892)によって「恐らくは中生代のものであろう」とされた石灰岩からは,後述のように,矢部(1901)が有孔虫・オルビトリナを報告し,「白亜紀セノマニアンである」とされます.蛇足しておけば,神保が類似を指摘した“鳥巣型石灰岩”はジュラ紀~(一部)前期白亜紀であるのにたいし,矢部が指摘したオルビトリナは後期白亜紀のものであり,時代が違うということを示したものです.
 石川貞治,横山壮次郎は「北海道庁地質調査 鉱物調査報文」において北見国枝幸郡トンベツ屯支流ペッツアンで“古生層”の中から石灰岩の新産地を報告しました(石川・横山 1894編).

石川・横山(1894編)表紙

 石川は翌々年の「北海道庁地質調査 鉱物調査第二報文」では,日高国沙流郡「サル」川,「ム」川,「シビチャリ」川に多数の石灰岩露出地を記録し,またそれらとは異なる石灰岩の転石をも記録しています(石川 1896編).

石川(1896編)表紙

 上記報告書にある石灰岩産地は,ほかの地質記載も含めてアイヌ語地名によって示されています.ところが,現在ではこれらのアイヌ語地名のほとんどは失われ,その位置を確認するのは困難になっています.また,これらの調査をまとめた「北海道地質鉱産図(120万分の1)」が1896(明治29年)に発行され,石灰岩の産地もいくつかマークされていますが,正確な位置についてはこれでは読み取れません.
(つづく)


2020年2月23日日曜日

北海道における石灰岩研究史(1)

北海道における石灰岩研究史(1)

 「勝手にジオパーク」を再開しようとして,「まぼろしの鷹栖石灰岩」について書こうとしたら,なんとブログで一切触れていないことに気がついた.
 しからばと,まとめ始めたら,「オルビトリナ」も「石灰岩」も混乱(わたしの中だけの混乱ですが(^^;)してることが判明.今,北海道の石灰岩研究史から整理中.急がば回れです.

 地下資源の代表である金属資源鉱山や,エネルギー資源である石炭山も根こそぎ廃山したあとも,石灰岩は日本で唯一,自国で賄うことのできる鉱産物であり,コンクリートの材料としても肥料としても,重要な資源として各地で採掘されています.
 北海道の「石灰岩調査史」については,田中寿雄が博士論文の中でまとめています.しかし,残念なことに少し時代が古いこと,また田中の興味は「鉱床としての石灰岩」にあるようなので,そのままでは現代的ではありません.そこで,田中(1973MS)をベースに「石灰岩研究史」を作り直してみたいと思います.この論文は,どこで入手したのか忘れましたが,活字で組んだ小冊子の形態をとってました.

田中寿雄の「北海道における石灰石鉱床の調査史」

 田中は「北海道における石灰石鉱床の調査史」を三つの時代にわけています.それは…

  1)くさわけ時代(1874-1892:明治725
  2)北海道鉱物調査報告の時代(1893-1924:明治26~大正13
  3)北海道有用鉱産物調査報告の時代(1925-1945:大正14~昭和20
  4)戦後の再吟味時代(1945-1969:昭和2044

 1)「草分け時代」は北海道というよりは,日本全体で「地質調査」が始まった時代でした.そしてその調査は未開の北海道では,まさに「草やぶを分ける」時代でした.ライマンやその弟子たちの一連の仕事や,神保小虎石川貞治横山壯次郎浅井郁太郎たちの調査があります.実際にはライマンの地質調査と神保らの調査の間には,10年の空白がありますが,それもまた,一つの特徴なのでしょう.

「來曼先生と其の若かりし門下生」

 2)「北海道鉱物調査報告」については,植村(1968に詳しいです.これは農商務省「地質調査所」の所管事業として行われたもので,明治43年から大正13年(19101924)の14年間にわたって実施されました.したがって,田中の「明治26」年からというのは空白期間を多く含み正確とはいえません.大正13年に,この鉱物調査報告が終了したのは,関東大震災が原因です.例によって,北海道は国策のダンパーとして,そのときどきでいいように扱われてきたのですね.この鉱物調査報告の前には「北海道庁地質調査(「新地質調査」という俗称もあるらしい;もちろんライマン等の調査が「旧」ということでしょう)」として石川貞治,横山壯次郎らの「鉱物調査報文」(1894),「鉱物調査第二報文」(1896)が出されています.

 3)「北海道有用鉱産物調査」については,佐藤・斎藤(1968)にその概略が記されています.昭和4年,北海道庁が工業試験場を使って全道の有用鉱産物調査を行うことになりました.その報告は第1報から第10報(昭和511年)まで発行されています.その間に北海道大学に地質学鉱物学教室が設置されています.また北海道庁,札幌鉱山監管局,帝室林野局,札幌鉄道局,北海道帝国大学などと民間業界の援助によって,財団法人北海道地質調査会が昭和6年(1931)に設立され,北海道の地質に関するデータは飛躍的に増大した時代でもあります.
 「北海道有用鉱産物調査」については,いつかブログで紹介したいと考えていますが,古書店で入手したものの,一部欠如してますし,なによりも付属しているはずの地質図が抜かれていますので,いつになるかわかりません.

 4)太平洋戦争の敗戦によって,戦争によって得た植民地とその産出資源はすべて失われました.復興のためには,どうしても国内の資源調査が必要でした.そのため未調査部分の多い北海道には多くの期待がかけられたのでした.そして地質調査所北海道支所1948:昭和23年),北海道立地下資源調査所1950:昭和25年)が設置されました.
 田中の論文は1973年ですから,当然その後の研究史については示されていません.では,田中のいう意味での「戦後の再吟味時代」は,その後も続いているかというと,そうとは思えません.現在は既に地質調査所北海道支所は閉鎖され,北海道立地下資源調査所は「道立地質研究所」と名前を変え,その業務内容も大きく変わってきています.では,その後の時代はいつ始まり,なんと名付けるべきか.それは,この後,歴史を整理しながら考えてゆくことにしましょう.

(つづく)

2019年12月29日日曜日

大千軒岳の金山

 全くひさびさの更新となります.

 前回ご案内の通り,「勝手にジオパーク」を構築中だったのですが,途中で「まぼろしの鷹栖石灰岩」について,ブログで全く紹介していなかったことに気付き,ついでに「北海道の石灰岩研究史」をまとめはじめたら,意外に時間がかかってしまいました.現在も進行中.
 まあ,急がば回れといいますから,しようがないですね.
 ということで古い文献を読んでいたら,ブログに補足しておかなければならない記述を見つけましたので,とりあえず紹介しておきます.

澤田鶴松(1930)北海道有用鉱産物調査(第二報:渡島支庁管内松前郡西半部)より.

「本地域の多くの河川は過去に於て,砂金採取の繰返されし事は事實なるも現今之を顧る者なし。然れども,尚ほ未採掘地たる河床、海濱、及び其他海蝕段丘上に着目する時は將來も亦望みなきにあらざるべし。乃ち、本地域地質の六〇パーセント以上を占むる古生層中には石英脈縦横に走り、其大なるものには脈幅一米に餘るあり。該石英脈は含金極めて微量なれば、之を直接採掘し、山金を得る事は望み尠し。然れども、本地域の河床或は海濱に産する砂金の源は此硬き白色石英脈なる事明なり。
 昭和三年準地方費道路開鑿の際、大澤村大字荒谷村の鱸の澤に於て、一女工夫五十四匁の砂金塊を拾得せる由。かゝる大塊の産出の極めて稀なるは勿論なれど、之が爲めに當地方は大いに砂金採掘熱を當時煽れりと云ふ。」

 これはなんのことかというと,もちろん「大千軒岳金山(松前金山)」に関する記述です.
 いわゆる松前古生層(現在なんと呼んでいるかは,勉強不足で知りません(^^;)中には最大1mあまりの石英脈が認められ,現在は金はきわめて微量(「ある」ということ)ではあるが,これから風化削剥・運搬された砂金が漂砂鉱床としてあったものだろう,という記述です.
 また,1928(昭和3)年の道路開削の際,女性工夫が54匁(約200g)の金塊を拾い,ゴールドラッシュが再来した,と書かれているのです.


 

2019年8月3日土曜日

お休み中

 
しばらくブログの更新が滞っておりますが,体調不良とかではありませんのでご安心を.だれも心配なんかしてないか.(^^;;

じつは,下記HPの構築中なので,ブログの方はしばしお休みです.
まだ,見ていただくほどには完成しておりませんが,おいおい充実させてゆくつもりでおります.



2019年6月28日金曜日

北海道地質学史に関する文献集(おわり)

 
 これまで示してきたように,26編程度の報告を読めば,だれでも“北海道地質学史”の研究者になれることがわかる.すでにもう,事実の概略は示されているのである(それにしては,いまだに学会発表なんかで“あらすじ”とかやってる“研究者”が見受けられるが).
 もっとも,各報告に載せられた「引用文献」については,すでに入手不可能なものや,(わたしを含めた)一般人にはアクセス不可能な資料もあるので,このあたりは大都市在住者か大学関係者でなければ,「だれでも」というわけにはいかないだろうけど(半分愚痴である:(^^;;).

 そういうことはさておき,全体を通して眺めてみて気のついた点をいくつか.

第一に,これから地質学史(とくに北海道について)の概略について述べるなんて,学会発表や報告はナンセンスであること.
第二に,事実を羅列するのは,すでにナンセンスであり,全体としてどういう発展を遂げてきたのか(歴史的流れ)とか,時代に反応して進んできた地質学史(社会地質学的見方)など,「見方」を考察すべきであること.
第三に,以上のことから「概論」の時代は過ぎたので,「細部」のこと,ひとりの地質家の生き様であるとか,一つの地質現象についての解明の道筋とか,が語られるべきであると思われること.

さいごに,地質家(大学教授や公的研究機関の諸先生だけでなく)は,もっと自分がやってきたこと,歩いてきた路を語るべきだということ.最先端の学問についてのみではなく,地道な調査と「失敗」の記録を,残しておくべきだろうと….

 

北海道地質学史に関する文献集(26)

 
鈴木 理(2014~2015)日本地質学の軌跡

 鈴木(2014~2015)は「日本地質学の軌跡」という表題で,地質調査所と地質学に関する歴史を,地質学者の生き様や学者層の拡大に注目しながら,26回にまとめるという予定で連載を開始した.しかし,2015年の第6話にとどまったまま,以降は未発表のままである.

第1話:和田維四郎と小藤文次郎:14歳,運命の外国語選択
第2話:和田維四郎と小藤文次郎:東京大学地質学専攻と内務省地質課の誕生.
第3話:原田豊吉:帝国大学理科大学と農商務省地質局の星.
第4話:巨智部忠承と神保小虎:日清戦争と地質学.
第5話:高峰譲吉と高山甚太郎:地質調査所からの広がり.
第6話:井上禧之助と小川琢治:日露戦争下の地質調査.


 たしかに,数人の地質学者について詳細にその人生に迫っている.しかし,表題が「日本地質学の軌跡」というわりには,東大と地質調査所の歴史ばかり目立つのは,まだ6話しか進んでいないからだろうか.それとも,日本の地質学といえば,東大と(国立)地質調査所しかないと考えているのだろうか.残念だが,北海道の地質学の話は出て来そうもない.

 

2019年6月27日木曜日

北海道地質学史に関する文献集(25)

 
佐藤博之(1985)百年史の一こま

佐藤博之(1985a)百年史の一こま(1)地質調査所初期の地磁気観測.
佐藤博之(1985b)百年史の一こま(2)博覧会と地質調査所.
佐藤博之(1985c)百年史の一こま(3)ライマンとナウマン.

 百年史の一こま(1)のテーマは「地質調査所初期の地磁気観測」であるので,あまり関係がない.
 (2)「博覧会と地質調査所」には,明治6年のウィーン万国博覧会に出品された資料に関連して,開拓史勤務の白野夏雲についての言及がわずかにある.
 また,1877(明治10)年の第一回内国勧業博覧会に関して,地質調査所から内務省地理寮諸務課に転入した白野夏雲の収集した「土石と木材」が出品され,これらについての記述もわずかにある.また,末尾に夏雲の次男である白野己巳郎についても言及されている.

 (3)「ライマンとナウマン」では,いわずと知れた北海道地質学の大恩人=ライマン氏について詳述されている.
 ライマンとナウマンを対比させながら地質調査史を語っている.ライマンについてはたくさんの弟子たちが語っているのだが,ナウマンを語る弟子が一人もいないことが印象的だった.
 また,二人とも日本の地質学にとっては大恩人であることは明らかなのだが,両人が去ったあと,東大や匿名の連中が二人の業績を抹消しようという動きがあったことも注目される.もちろん,明治政府の軍国主義化に伴う,第二の「尊皇攘夷」であったと考えられるだろう.

 下に引用した引用文献だけでも,概略は理解できると思う.

文献
坂市太郎(1918)北海道の開発と石炭鉱業.日本鉱業会誌,no.403, p.14-22.
一一一一(1892a)北海道石狩炭田の炭量.日本鉱業会誌,vol.8, p.534-535.
一一一一(1892b)北海道ノ炭鉱ニ就テ.東京地学協会報告,vol.14, no.11, p.3-25.
団 琢磨(1926)思い出す事どもー其頃の三池と筑豊一.石炭時報,vol.1, p.599-608.
北海道総務部文書課(1978)ベンジャミン・S・ライマン.開拓に尽した人びと.vol.2, p.125-142. 理論社.
井黒弥太郎(1968)榎本武揚伝.みやま書房,札幌,418+10p.
今井 功(1966)黎明期の日本地質学.地下の科学シリーズ,ラティス,193p.
今津健治(1979)山内徳三郎「ベンジャミン・スミス・ライマン氏小伝」.エネルギ一氏研究,no.10, p.90-97.
石原初太郎(1898)伊豆半島第三紀層論.地質学雑誌,vol.5, p.273-286.
伊藤弥次郎(1927)鉱山局の思い出.石炭時報,vol.2, p.358-361.
Imperial Geological Survey (1893) Imperial Geological Survey of Japan, with a catalogue of articles exhibited by the Geological Survey at the World's Columbian Exposition. 49p.
賀田貞一略伝(1915)日本鉱業会誌,no.370.
加藤鉄之助(1914)大正博覧会における地理的出品物に就て.地学雑誌,vol.26, p.544-552.
桑田権平(1937)來曼先生小伝.99p.
松井 愈(1953)ライマン(B.S. Lyman)と北海道の炭鉱.一北海道の炭鉱を主にする地質学史に関する考察:その一ー.歴史家,no.1, p.1-13.
中村新太郎(1930a)新訳日本地学論文集集(三)ナウマン博士一トルコ及びメキシコに於ける地質研究(上).地球,vol.14, p.53-58.
一一一一(1930b)新訳日本地学論文集(五)ライマン一日本油田調査第二年報(ー).地球,vol.14, p.191-200.
中島謙造(188920万分の1地質図幅「静岡」説明書.地質調査所,47p.
日本工学会(1930)明治工業史・地学篇,87p.
西山正吾(1920)地質学者ライマン先生小伝.東洋学芸雑誌,vol.37, p.487-490.
小川啄治(1985)伊豆半島石英安山岩略説.地質学雑誌,vol.2, p.444-451.
一一一一(1937)一地理学者の生涯⒀.地理教育,vol.23, p.411-418.
佐川栄次郎(1921)ライマン先生を憶ふ,地質学雑誌,vol.28, p.40-54.
一一一一(1936)ナウマン氏小話 フォッサマグナ 賛川風景.地球,vol.26, p.277-285.
山陰一生(1884)地質調査事業進歩の景況.東洋学芸雑誌,no.35, p.151-154.
佐藤博之(1983)先人を偲ぶ(1).地質ニュース,no.346, p.52-63
沢村孝之助(1972)明治期の伊豆半島調査.杉山隆二(編)「伊豆半島」,東海大学出版会,p.35-39.
島田純一(1926)ライマン先生ー弟子の観た先生一.石炭時報,vol.1, p.270-272.
鈴木 敏(188820万分の1地質図幅「甲府」説明書.地質調査所,128p.
鈴木 醇(1949)北海道鉱業開拓者ライマン先生の業績.北海道鉱山学会誌,vol.5, p.279-289.
徳間貞一・永淵正叙(1941)佐川さんを憶ふ.地質学雑誌,vol.48.
ユネスコ東アジア文化研究センター(1975)資料御雇外国人.小学館,524p.
江原真伍(1962Fossa Magna を中心としてー Naumann 博士の日本島の調査.地学研究,vol.12, p.307-309.
山根新次(1953)日本地質学会創立六十年に寄せて.地質学雑誌,vol.59, p.279-282.

YOKOYAMA, M. (1904) On some Jurassic fossils from Rikuzen. Jour. Coll. Sci. Imp. Univ. Tokyo. vol.18, art. b, p.1-13.