2020年3月11日水曜日

北海道における石灰岩研究史(9)


北海道における石灰岩研究史(9)

まとめ

 日本には江戸時代の末期に,すでにほぼ完成した地質学が,この蝦夷地に入ってきました.すぐに使える地下資源の調査が要求されていましたが,それは無知な政治家のむちゃな要求でした.ただでさえ,未開の北海道は簡単な調査すら,たくさんの神々=自然が拒む世界でした.にもかかわらず,ライマンはピンポイントの「資源調査」,北海道全体の概査「全道地質図作成」,くわえて「後継者の育成」までやってのけています.

 本来ならば全体の概査から有望地の選定,そして精査とすすむべきでしたが,当時の日本人には,最先端西欧科学技術である地質学への理解は,…なかったわけです.日本では政財界の要求するピンポイントの「資源調査」から入り,技術者および技術の理解者の増加をまって「地質調査」が始まるというパターンを取っています.現在でも,しばしば見聞きすることですが,「金メダルを取れる選手の育成」とか,「ノーベル賞を取れる学者の育成」とか,現場を知らない無知な政治家,お金しか頭にない財界の言い分ですね.
 そのような優秀なスポーツ選手,優れた学者を生み出すつもりなら,そのような「お役所視点」から,国民全体にすそ野を広げる「研究・教育視点」に軸足を移動する方が,結局目的地には早く着くんだと思いますがね.

 さて,近代地質学誕生の地(といわれる)英国では,資源開発や土木工事を進める中で,近代地質学が構築されてきたといわれています.それまでは,貴族や有閑階級のお遊びとしての「自然学」が中心でした.そこでは「地層累重の法則」とか,「(化石による)地層同定の法則」とか,観念的にではなく,現場で確認されてきたのでした.
 こういった法則は近代地質学の根本法則とされてきました.ところが,江戸時代末期から明治時代始めにかけて蝦夷地(北海道)に輸入されてきた「近代地質学」は,輸出先の蝦夷地で大変な試練にあいます.「地層累重の法則」や「地層同定の法則」は限定的にしか適用できないことが,昭和時代末期に明らかにされ地質学・層位学に激震が走りました.
 そして,この地の複雑な地質を解釈するために「付加体地質学」という現代地質学が誕生したのでした.

 以上.「北海道における石灰岩研究史」を終わります.
 なお,引用文献に関しては,とくに示しておりません.理由はいろいろです.あしからず.


2020年3月10日火曜日

北海道における石灰岩研究史(8)


北海道における石灰岩研究史(8)

当麻の石灰岩群
 藤原・庄谷(1964),鈴木ほか(1966)は当麻・愛別地域において,先第三系を先白亜系(日高累層群)と未分離白亜系に分け,先白亜系を「愛別層」と「当麻層」,未分離白亜系を「開明層」としました.そのうち,石灰岩を含む地層は当麻層で一括されています.鈴木ほかは当麻層は「空知層群の一部に…対比できそうである」としています.石灰岩は,顕著なものは熊の沢岩体(北隣の愛別図幅内),三丿沢岩体(当麻鍾乳洞を含む),小沢岩体(牛朱別川支流小沢沿い),椴山岩体(牛朱別川支流石渡川沿い)と呼ばれ,四ヶ所あります.
 1975年,橋本亘等は椴山岩体からペルム紀の紡錘虫と三畳紀のコノドントを報告しました(橋本ほか,1975英文).椴山岩体は地層の累重関係は以下のように示されています.

  火砕岩……………………………………………………………………………10m
  琥珀色塊状チャート……………………………………………………………20m
  含ペルム紀紡錘虫灰色石灰岩…………………………………………………2m
  塊状チャートと粗粒砂岩の互層………………………………………………180m
  含後期三畳紀コノドント石灰岩レンズを挟んだ黒色頁岩とチャート……10m
  塊状チャートと火砕岩類………………………………………………………30m

 ペルム紀石灰岩は紡錘虫のほかに石灰藻,小型有孔虫,苔虫類を含んでいます.紡錘虫類として見いだされたものは以下の通り.

  Nankinella cf. inflata (Colani),
  N. spp.,
  Staffella sp.,
  Reichelina sp.
  Schubertella (?) sp.

 これらの化石群では確定的なことはいえませんが,Reichelinaの存在から,上部の中部~上部ペルム系を示していると橋本らは結論しています.

 一方,三畳紀石灰岩は3m以下の厚さで,Batostomella様苔虫類と石灰藻を含みます.見いだされたコノドントは以下の通り.

  Palagondolella polygnathiformis (Budurov and Stefanov)
  Xaniognathus tortilis (Tatge)

 P. polygnathiformisはラディニアン階~カーニアン階の示準化石であり,おなじ群集はすでに猪郷ほか(1974英文)によって比布町の突哨山石灰岩から報告されています.当麻層はペルム紀と三畳紀の石灰岩を含み,その下部は(日高層群に属するとされる)愛別層を整合的に覆っていると考えられていますので,いわゆる日高層群とされる各地の地層は再検討されるべきだと橋本らは主張していました.そして,再検討が始まります.

 北海道のあちこちで再検討がされましたが,それを全部追いかけるのは大変なので,上川盆地・当麻・比布地域の石灰岩を中心に歴史を追います(本当は道南地域もやりたいのだけど,力尽きたので別の機会に(^^;).

 加藤幸弘は1983年度の卒業論文として当麻周辺の先第三系の層序を再検討しました.その結果とその後の追加調査の結果は,加藤ほか(19841986),Kato and Iwata (1989)として報告されています.すでに,“日高累層群”が分布するといわれたあちこちの地域から,様々な時代の化石が報告され,整合で累重するとされた地層同士の関係も,ほとんどが断層であるとされる時代に入っていました.
 当麻地域でも,当麻層中の石灰岩からペルム紀の紡錘虫,三畳紀のコノドントが発見され,当麻層は1)ペルム紀から三畳紀にかけての堆積物であること,2)全体として開明層,当麻層,愛別層の順に整合的に累重していると考えられていました(Hashimoto et al., 1975;橋本ほか,1975)が,多くの地域で石灰岩から産出する化石とその基質/母岩からでる化石とは時代が異なることが指摘されはじめていたのです.
 当麻地域の再検討でも,各地層はブロックとして断層で接触しているとされました(そう考える方が判りやすい,そう考えないと理解ができないということでしょうけど).そして,開明層の頁岩からは白亜紀後世(Early Cenomanian)の放散虫が産出し,当麻層からは橋本らが報告した中~後期ペルム紀の石灰岩,三畳紀(Late Ladinian ~ Carnian)の石灰岩のほか,(加藤ほか,1986の)TC1(チャートと石灰岩の互層)からジュラ紀末(Kimmeridgian~Tithonian)の放散虫,TC2(淡緑色頁岩)から白亜紀前期(Valanginian~Hauterivian)の放散虫,TC3(黒色~琥珀色層状チャート)からは三畳紀後期の放散虫が産出したとされています(加藤ほか,1986).一方,加藤らが“当麻層の泥質基質”と考えている資料からは,白亜紀前期(Barremian ~ Aptian)の放散虫が産出し,これより古い岩体は全て「異地性である」と結論しました.つまるところ,これらは「地層」の概念には当てはまらず,「地層」とよぶことはできない.そこで,加藤らは“当麻層”を「当麻コンプレックス」と呼ぶことを提案しました.

 Kato and Iwata (1989)では,さらに鷹栖方面に調査範囲を広げて,三つのゾーンに分け,おのおのゾーンでの発達史を構築しました.ゾーンⅠの鷹栖町地域ではすでに示したオルビトリナ石灰岩(アルビアン階)が報告されていますが,加藤らはそれを見いだせなかったようです.そして,その基質である鷹栖層の頁岩は放散虫化石の産出から当麻地区の“開明層”と同時代のセノマニアン階であるとしています.そして,これらの現象はオリストストロームにほかならないと結論しました.


加藤・岩田の三帯区分.
元図はあまりにも見にくいので,編集し直したかったが,
読み取り不可能な地層区分が多く,納得がいかないがご容赦.


加藤・岩田の「比布ー当麻地域の先第三系層序再編図」.
凡例の説明文が欠けているので推測.


 しかし,オリストストロームであるという解釈だけでは,三つのゾーンに分ける意味が不明です.推測するに,たぶん,遠く離れた堆積盆中に堆積した地層が多くの地殻変動を経て,現在たまたま接して同じ地域にあるのだ,と言いたいのでしょう.これはのちの「付加体地質学」に繋がっていくのだろうけど,この時点ではまだ明確に言われていません.
 また前期白亜紀の地層になぜこんなにオリストストロームが多発するのかという点に関してもなにも触れられていませんでした.

 こういったことで,古生層とされてきた“日高層群”は再編され,「地層」ではなく,「異地性岩体」より構成された「複合岩体」として扱われるようになってきました.
 と言う説明でなんとなく納得がいくかと思いますが,困ったことが生じます.ある地層から地質時代を示す化石が産出したとしても,その化石がその地層の時代を示しているとは限らない,ということです.また付加体として,遠くから運ばれてきた地質体が上下関係もバラバラに近接しているということは,地質学が科学として成立した時代から基本法則として信じられてきた「地層累重の法則」が成立しない,ということを意味しています.
 また,そのようなことがあるんだったら,化石で地層の時代を決めるということも限定付きということになり,地質の研究は大型化石・微化石・物理年代測定などなど,あらゆる研究者が必要なビッグサイエンス化せざるを得ない時代になったということでしょうね.

(つづく)


2020年3月7日土曜日

北海道における石灰岩研究史(7)


北海道における石灰岩研究史(7)

日高帯の石灰岩
日高系
 北海道中軸部に分布する中・古生層は,かつては「日高系」(鈴木,1934)・「日高層群」(鈴木,1944)と呼ばれていました.当時は本州の秩父系(もしくは秩父古生層)との類似が指摘され,腕足類などの化石も発見され二畳系(ペルム系)があることが指摘されていましたが,日高系の石灰岩からは秩父系に多く発見される石灰岩中の有孔虫化石が発見されていませんでした.一方で,日高系と考えられていた北見の一地域からは中生界の疑いがある化石が発見されるなど,日高系の時代や分布は未解明の部分が多かったのです.

鈴木(1944図)

 橋本亘は北海道中軸部の中生界を調査し,1960年に「北海道の下部蝦夷層群以前の地層群に関する諸問題」とする一文を公表しました.橋本は東北大学の卒論の頃から北海道の中生界について調査・研究を進めていましたが,1951年に日高山脈の研究者達が構想した「日高造山運動」に疑問を持ちました.この当時は空知層群日高系もよく判っていず,日高山脈の研究者達がいう日高造山運動は,その当時知られていた中生界の事実も消化不良を起こしていると感じていました.

橋本(1960)論文の研究史から
 それでは,橋本(1960)から当時の研究史を拾ってゆきましょう.
 空知層群の岩相層序学的細分は松本(1942, 1943a, b)に始まります.橋本はこれに従い,富良野ー芦別間の空知層群を定義(橋本,1952, 1953, 1955)しました.空知層群の下底については,大立目謙一郎(1940)は「北海道中部に於ける下部菊石層と輝緑凝灰岩層の層位関係に就て」において,石灰岩を含む輝緑凝灰岩層(=空知層群)は下位の日高層(日高系,日高層群)と整合関係にあるので,日高層群は中生界ではないかと「推定されるやうになつた」としました.一方,長尾ほか(19521954)は,これらは断層関係にあると見なしました.
 旭川市東方の当麻地域では,当麻橋附近では空知層群の岩相を持つ地層が露出しますが,鍾乳洞の石灰岩を含む地層との関係は不詳でした.土居(1952)は石灰岩体付近の地層は,粘板岩を主体とし輝緑凝灰岩を従としています.土居はこの地層を「神居古潭系」としていますが,橋本は上記北海道中部の「東鹿越や,旭村,上興部などの大きな石灰岩を介在する地層に似ている」とし,鍾乳洞附近の石灰岩を含む地層は「日高系」であると考えていますが,当麻橋附近の空知層群との関係は「不明」としました.当麻附近の石灰岩を含む地層については後述します.
 枝幸南方の徳志別川~乙忠部間の山地を構成する“日高層群”は斑糲岩に貫かれ,ホルンフェルス化しています.音標川には花崗岩も見られます.これらは,枝幸山地の空知層群に対比される地層との関係も確かめられていませんでした.
 1938年,興部図幅を調査した竹内嘉助は最下位に「古生層(日高系)」を定義.その上位に,基底礫岩を伴い不整合で「(時代未詳)中生層」が乗るとしました(竹内,1938).遠藤隆次・橋本亘は,その中生界の礫岩の礫から石灰岩の巨礫を見いだし,石灰岩からPseudofusulina??? sp., Nankinella sp.(以上紡錘虫), Gymnocodium japonicum Konishi, Gyroporella nipponica Endo et Hashimoto, Mizzia velebitana Schubert(以上藻類)などを鑑定した.これらの化石の産出から当該石灰岩礫は二畳系(ペルム系)からのものであり,「(時代未詳)中生層」とされた地層は古生代まで時代が下がる可能性を指摘しました.これに不整合で覆われる「古生層(日高系)」とされた地層はもっと古いだろうということですね(遠藤・橋本,1956).
 さて,この当時までに北海道から古生代の化石が産出した例があったのでしょうか.いくつかあるのですが,産出地が不詳だったり,化石の名前だけで記載がなかったり,二畳紀(ペルム紀)とされた化石と共産した化石が「中生代の指示者」とされたり,あいまいな点が多いと橋本(1953)には書かれています(三本杉,1938;竹内・三本杉,1938;杉山,1941;深田,1949).さて,確認しようと地質学会のHPにいってみたら,短報は公開しないという決まりでもあるのか,いずれも公開(pdf.化)されていませんので,なんとも.短報や訃報あるいはその他記事は,わたしのように地質学史を掘り下げようと思うものには宝の山なんですが,日本地質学会は掘り下げられたくないようで,そういった部分はごっそり抜けています.なんか,理由でもあるのでしょうかね.
 さてなんにしろ,産出地がはっきりしていて,なおかつ化石の記載もしっかり行われている報告となるとEndo and Hashimoto (1955),遠藤・橋本(1956)が最初だったということでしょう.

 すでに知られていたことは「空知層群」分布域の東にあって,粘板岩を主として“輝緑岩”を伴い,それに大小さまざまな石灰岩を介在するような地層が北海道中央部を南北に分布していること.この地層と「空知層群」との関係がわかる場所は見いだされていません.また,これらの石灰岩からは明瞭な時代を示す化石は発見されていませんでした.
 さらに,これらの地層の東側に“下部蝦夷層群”の砂岩頁岩互層とそっくりな互層や,粘板岩を主とする地層が分布します.まれに多種の礫を含む礫岩を介在し,こういった地層群は岩相分布すら捕らえられていないのに一括して“日高系or日高層群”とされていた時代でした.そしてあちこちに破砕帯が見いだされ,これが構造上の一大特徴とされていました.もちろんこれには理由があるのですが,あとでわかることでしょう.

樺戸山地のいわゆる古生層
 樺戸山地には「先第三系(いわゆる古生層)」とされる隈根尻層群(垣見・植村,1959)があります.これは岩相的に8区分されますが,これらの層位関係は必ずしも判っていません.しかし,垣見・植村(1959)によって最上位とされた神居尻山層の礫岩から橋本ほか(1960a)が紡錘虫の入った石灰岩礫を報告しています.
 これらは,ウーリスの核であるため,外形は壊れ保存も極めて悪いものですが,Nankinella sp., Schubertella sp., Schwagerina sp.が識別され,日本各地の下部ペルム系から産しているものに極めて近いといいます.また,ほかに小型有孔虫Bradyina sp., Cribrogenerina ? sp.なども発見され,前者は藤本(1936)が関東山地の下部ペルム系から報告したB. rotula (Eichowald)に近縁であるとされています.したがって,礫岩の礫ではありますが,下部ペルム系のものと推定されています.まあ要するに上記北見地域に露出する“日高層群”と類似であるとの考えですね.(のちの話ですが,近藤浩文(1991)によれば,この神居尻山層の礫岩のチャート礫からジュラ紀中期~後期の放散虫化石群が産出しています.

 地域は違っても,でる化石は「ペルム紀」のもの.ではいわゆる“日高層群”はペルム紀の地層それでいいのでしょうか.それはちょっと,いやかなり早いですね.これを決めるには1970年代前期のコノドント革命(猪郷,1972),1970年代後半の放散虫革命(中世古,1984)を経なければなりません.
 それではまた,上川盆地の当麻地域へと戻ります.
(つづく)


2020年3月1日日曜日

北海道における石灰岩研究史(6)


北海道における石灰岩研究史(6)

5)化石がしめす北海道の地史=石灰岩からの産出化石を中心として=

 初期の地質調査は,砂金や石炭などの即効性のある鉱産物が対象でした(1:くさわけ時代,2:北海道鉱物調査報告の時代).それらの調査がどのように進められてきたかは,前述した通りです.これらの調査は時代に翻弄され,急激な進展を見せたり停滞したり紆余曲折がありましたが,やがて様々な鉱産物や工業原料が求められるようになると(3:北海道有用鉱産物調査報告の時代),圧倒的な地質屋不足,研究機関不足が明瞭となり,大学に地質学教室が設置され,各種地質研究機関が誕生します.そして「4)戦後の再吟味時代」が始まります.地方の大学研究室および各種地質研究機関が設置されると,前時代的な有用鉱産物調査だけではなく,その鉱産物がいつどのようにして生まれてきたかなどの研究や,その鉱産物が含まれる岩体・地層の成り立ちを突き止める研究がなされるようになってきました.
 そんな中で最初に注目を引いたのが,周囲の母岩には化石が少なくても,有効な化石が見つかることの多い「石灰岩」でした.石灰岩は,地味な色の多い地層の中でもおおくは「白色」であり,なおかつ「固い」ために露頭として飛び出して見えるのも注目を浴びやすい点です.

オルビトリナ石灰岩

 そんな中で,最初に化石の入った石灰岩に注目したのは「草分け時代」の神保小虎でした(神保,1892).以下,原文は英文で矢部(1901)の和訳から引用しました.

ソラチ河の瀧の上殆んど三里許り上流*のパンケトプトエウシナイ河口より少し上みに其第一露出あり此石灰岩は灰色綴密にして均等に、海膽線を其風化せる表面に見るを得ベし此外に又有孔虫あり第二はパプケテシマの上み**にありて前者と仝性を示し白方解石脉あり此中にも仝一の有孔虫化石珊瑚及介の碎片あり以上二ヶの石灰岩は四國に於ける鳥の巣石灰岩***中に含まるる海膽棘に類似せるものを包有するが故に只之れを中生紀のものとして起載し置くベし

 ここで「三里許り上流*」とあるのは,現在の芦別市滝里湖南岸附近のことです.また,「パプケテシマの上み**」は地名が失われていますが,現在の中富良野町富問附近の空知川の西岸・芦別市側かと思われます.また「鳥の巣石灰岩***」は「鳥ノ巣石灰岩」「鳥巣石灰岩」が一般的な表記かと思われますが,実際には様々に表記されています.それは「高知県佐川地域の鳥巣周辺に模式的に露出する石灰岩.暗灰色・瀝青質で,ハンマーで叩くと石油臭を発する.サンゴ・ストロマトポラ類・石灰藻・ウニ・有孔虫・腕足類・巻貝・二枚貝などの化石を豊富に含み,礁性と考えられる.ジュラ紀~下部白亜系鳥巣層群および相当層に含まれる.周囲の地層に対して整合的な場合と,異地性岩体として含まれる場合とがある.(新版地学事典)」です.

 神保(1892)の注意を引いた石灰岩は,その後矢部(1901)によって「オルビトリナ石灰岩」であることが明らかにされました.この時,矢部はOrbitolina concava Lam.と同定しましたが,その後,Yabe and Hanzawa (1926)は複数の地域のオルビトリナ石灰岩を調べてOrbitolina discoidea-conoidea var. ezoensis, O. japonica, O. planoeonvexa, O. shikokuensisなど複数の新種を記載しています.Yabe (1926; 1927)は,空知川下流部の石灰岩を含む部分は下部菊石層下部の代表的地層として挙げました.そしてやがてオルビトリナ石灰岩はもっと南方にも続いていることもわかってきました.そのことは長尾巧(1932)によって一括して報告されています.

 ここで「菊石層とはなにか」について蛇足.
 ライマン(1877)は石狩炭田の調査において,アンモナイトを含む主に頁岩からなる下部の地層とその上位の夾炭層さらにその上位の貝化石を含む頁岩を合わせて「幌向層」と名付け,下部は「白亜紀」で上部は「第三紀」であろうとしました.
 横山又次郎は北海道産アンモナイト化石をインドのアンモナイト化石帯に対比し,セノマン~ゴールト(現在の標準層序ではセノマン階~オーブ階中・上部)を表すものであろう(白亜紀前-後世にあたる)としました(Yokoyama, 1890
 神保小虎は,北海道地質調査とその産出化石から白亜紀層,第三紀層の存在を示しました.この時,多くの白亜紀化石を調べ横山の説を裏付けています(神保,1889Jimbo, 1894).
 その後,複数の外国人研究者が北海道のアンモナイト研究において,白亜紀時代論に言及してますが,これらの論文を集めるのはしんどいので省略.

 そして,矢部(1901a)は以下のように考えました.

第三紀層  上部第三紀層  上層━━━━━━━━━━━プリオシン?
              下層━━━━━━━━━━━ミオシン?
      下部第三紀層乃夾炭層━━━━━━━━━━━エオシン
白亜紀層  上部アンモナイト層━━━━━━━━━━━━セノニアン
      砂岩層       ペクトンキュルス帯 ┳ツーロニアン
                テチス帯      ┛
                トリゴニア帯━━━━┳セノマニアン
      下部アンモナイト層━━━━━━━━━━━┛

 矢部は1926年にも,北海道の白亜系の区分を提唱し,下位からI. The Lower Ammonites Beds, II. The Trigonia Sandstone, III. The Upper Ammonites Beds, The Hakobuchi Sandstone に分けています(Yabe, 1926).

 白亜系の“アンモナイト層”という名付け方は異様ですが,当時の化石研究者間では地層から離れて化石を論じるという,現代では不思議なことが行われていたのです(もちろん,矢部も“地層の研究と化石の研究が両立して完成する”と述べています).
 さてこの後の経緯は少し不詳なところが多いですが,“アンモナイト=菊石”ということで,「菊石層」あるいは「菊石層群」と呼ばれて使われてきたようです.

 松本達郎は,それまでの研究結果を要約して北海道・樺太の中軸部に分布する白亜系を下位から鬼刺層群下部菊石層群中部菊石層群(三角貝砂岩・その他の亜層群を並列)上部菊石層群函淵層群と区分しました(松本,1942-1943).
 1951年,松本達郎はこれらの区分についていくつかの問題点を指摘し,新しい名称を提案.それは菊石層群の代わりに「蝦夷層群(Yezo group)」の名を使うことでした.その理由は,菊石層群三角貝砂岩層の名称で外国語で論文を書いたり,外国人に説明したりする場合を考えれば一目瞭然ですね.Ammonite BedsTrigonia sandstone など,あるところにはどこにでもありそうで,地名が示されていないのでどこのアンモナイト層だか三角貝砂岩だかさっぱりわからないことになるからです.また,矢部が模式地とした幾春別地域ではThe Lower Ammonites Bedsは後の研究では露出しておらず,The Lower Ammonites Bedsに産出する典型的な化石としたOrbitolina (注:アンモナイト類ではない)が見いだされるオルビトリナ石灰岩は空知川沿いにあり,こちらの地層はアンモナイトはほとんど産出しませんでした.もちろん“中部菊石層群”の元名である「三角貝(トリゴニア)」はからもほとんど“菊石”は産出しません.こういった意味では,“菊石~”をやめて「蝦夷~」の使用を提案したのはリーズナブルだったかもしれません.

 これでかなり判りやすくはなりますが,この名称では「蝦夷層群」が上部・中部・下部亜層群の三つに分かれるものなのか(その場合は上部蝦夷亜層群・中部蝦夷亜層群・下部蝦夷亜層群でなければおかしい),上部蝦夷層群・中部蝦夷層群・下部蝦夷層群をまとめて「~~累層群」として扱うのか(この場合は三つの層群に別々の地名を与えなければおかしい),どっちにしても矛盾というか違和感の残る命名となります(その後,実際にそういう混乱が起きている:Takashima et al., 2004;川村ほか,2008が整理していますので参照のこと).
 じつはこの頃,日本地質学会では「地層命名基準」が議論されている最中で,我々はその結果を知っていますが,この論文の時の松本達郎はまだ知る由もありません.そして,命名基準が条文化されてみると,「層群名」の頭に「上部・中部・下部」をつけるのは基準に合わないことになってしまいました.しかし,そのまま使われていました.
 そしてTakashima et al. (2004)では,この当時ではすでに「蝦夷累層群(上部~下部蝦夷層群+函淵層群)」と呼ばれるようになっていたものを「蝦夷層群」にランクダウンし,地方の岩相にあわせた「~累層」を統合するという形に修正されました(わたしが某博物館に勤めるようになって,その地域の白亜系の研究史を調べはじめた時に「おかしい,おかしい」,「すっきりしない」と悩んでいた事項が,実にすっきり解決されました.(^^; この話を当時の大学の某先生達にした時には,無視されるか,「そんなちっぽけなこと」と言われたんですが…).

 少し寄り道します.
 その後の,オルビトリナの分類に関しては紆余曲折があり(これもきちんとまとめておくべきかと思いますが,いまその余裕がないので話を進めます(^^;),伊庭ほか(2005)にまとめられたものから引用しますと
 「Orbitolina の分類で最も重要な形質は,殻頂部に位置する幼殻部の構造とその大きさである(Hofker,1963; Schroeder,1962 など).Hofker1963)は,白亜紀の Orbitolina には1つの進化系列しか認められないとし,これを進化学的種である Orbitolina lenticularis (Blumenbach) 1種にまとめた.さらに幼殻部の構造およびそのサイズの時代的変化に基づき form group IIIを設けた.オルビトリナ石灰岩について検討をしたMatsumaru (1971) をはじめ,日本におけるすべての Orbitolina の研究(氏家・楠川,1968;松丸ほか,1976など)は,このHofker (1963)の分類に従っている.一方,Schroeder (1962, 1975) は,白亜紀の Orbitolina に複数の進化系列を認め,Hofker (1963) Orbitolina lenticularis Orbitolina 以外の属や短い生存期間の種が存在することを指摘している.現在では Schroeder (1962, 1975)の分類の方が一般的に支持されている」としています.そして,両方の分類体系に従って各地のOrbitolinaを再検討しています.
 この時の伊庭ほか(2005)の主たる話題は天塩中川地域の石灰岩礫から発見されたOrbitolinaについてですが,天塩中川のOrbitolinaは「Hofker (1963) Orbitolina lenticularis form group IIに相当」するとし,Matsumaru (1971)が「滝里地域のオルビトリナ石灰岩から Orbitolina lenticularis form group IIを報告しており,今回中川で発見されたものはこれと同じform group に属する」としています.北海道で最初に見つかったOrbitolinaは「Orbitolina lenticularis form group IIということですね.また,「この標本の形態的特徴は Schroeder (1975, 1979)の分類では Orbitolina (Mesorbitolina) parva (Douglass)- O. (M.) texana (Roemer)系列のものと一致する.O. lenticularis form group IIは後期 Aptian~前期 Albianを示し(Hofker, 1963),一方,O. (M.) parva-O. (M.) texana 系列も後期 Aptian ~前期 Albian を示すことから(Schroeder, 1975, 1979; Arnaud-Vanneau, 1998」矛盾しないと結論しました.したがって,滝里地域のOrbitolinaも後期 Aptian ~前期 Albianであるということになります.

 さて,このオルビトリナ石灰岩は,はるか南方夕張市まで点々と繋がってゆきます.北方へは矢部(1901)が報告した上川郡鷹栖町にある(あった:現在はまぼろしの石灰岩です)オルビトリナ石灰岩が最北限でしたが,現在は伊庭ほか(2005)が報告した天塩中川地域のものが最北限となりました.
 さて下部蝦夷層群(と言ったらもう怒られるので,「蝦夷層群下部」に訂正しときます.わざとらし~ (^^;;)のオルビトリナ石灰岩は,なぜこんなに点々と延々と繋がってゆくのでしょうか.その問題に挑んだ人たちがいます.その前に,滝里のオルビトリナ石灰岩は典型的とは言いかねるようですし,鷹栖のオルビトリナ石灰岩は最初の発見後1/5万地質図幅調査の頃までは確かにあったようですが,その後新しいタイプの古生物学者が再調査を始めた時期には行方不明となっており,その内容は未確認です.そこで,芦別市にある崕山のオルビトリナ石灰岩を例にその詳細について見てみます.

筆者が入手した鷹栖石灰岩中のオルビトリナ

 オルビトリナ石灰岩とは言いますが,オルビトリナのほかにサンゴや二枚貝,巻貝などの化石が多数含まれ,顕微鏡などを用いると石灰藻や有孔虫などの微化石も含まれていることが判ります.そう,もとはサンゴ礁の構成物なのですから.
 1972年,勘米良亀齢と小畠郁生はオルビトリナ石灰岩は「浅海における礁やバイオハーム(化石の産状を示す用語:サンゴ礁起源を暗示する)と解釈」しました(勘米良・小畠,1972).さらに佐野(1995a, 2000)やSano (1995b) は岩相・化石相から,この石灰岩は大陸縁の陸棚におけるものであることを提唱しました.同時に,この石灰岩は白亜紀の北西太平洋域で最も高緯度に形成された礁性石灰岩であることから,当時の温暖化イベントを示す重要な証拠と考えられました.簡単に言えば,白亜紀の北海道はサンゴ礁ができるほどの暖かさだったということです.

 ところで,このオルビトリナ石灰岩は根がありません.サンゴ礁の土台となる地質が存在しないということです.これについてSano (1995b),川辺ほか(1996),三次・平野(1997),高嶋ほか(1997a, b),川村ほか(1999),佐野(2000)などは,これらの石灰岩が現地性のものではなく,オリストストローム(海底地滑りによってほぼ同時代のオリストリス(=地層片)がより深海の堆積物に滑り込んできたもの)によって再堆積したものであることを明らかにしてきました.
 さらに,白亜紀の温暖化はアプチアンからチューロニアンに至るまで断続的に継続しているにもかかわらず(高嶋・西,2017参照),北西太平洋域(つまり現在の北海道付近)では,この石灰岩の堆積後は礁性石灰岩が形成されなくなり,またテチス海と北西太平洋で生物地理区の分化が生じるようになるといいます.つまり,陸上は暖かいのに海域はそうではなくなったということですね.これについて,Iba and Sano (2007, 2008) Iba et al. (2011b, c)は,南米・アフリカ大陸間のゲートウェイの開通やベーリング地峡の成立に伴なって,地球規模の海流系の変化がおこり,古黒潮のような暖流の北上が弱まったためではないかと説明しています.

 さて,明治に始まった,最初は鉱物資源としてその位置や大きさを調べるだけだった石灰岩研究は,やがて地層の時代をそれに含まれる化石によって調べる材料となり,さらには地球の歴史と環境の変化まで理解する手段となったわけです.

 じつはここまで,「オルビトリナ石灰岩」と「鳥巣型石灰岩」とは,同じものであるようなないような書き方をしてきました.私自身もこの時点まで混乱しています((^^;).このあたりもきちんと経緯を調べればいいのですが,今その余裕がありません.いずれ時間ができたなら…ということで.
 それで思い出すのは,わたしが北大の研究生だった頃,地団研北大班・班報の編集長を任されていたのですが,当時わたしの配下の記者だったMMさん(まだ学生で,当時の大学院生のアイドルでした),彼女がとってきた記事がありました.題は「ネリネアについて」(だったかな?)で,加藤北大名誉教授(当時は助教授)の執筆でした.このあたりの石灰岩から産する化石について歴史的に記述してありました.ひと目読んだわたしは,これは読んだ後捨てられるような「班報」ではなく,残される可能性の高い「支部報(ボレアロピテクス)」に載っけるべきだろうなと思いましたが,すでに彼女はガリ切り(懐かしいなあ(T_T))を始めてましたし,なにせ彼女が取ってきた記事ですので,そのまま班報に掲載されました.案の定,今となってはその記事はどこへ行ったか判りません.残念です((T_T)).
(つづく)


2020年2月27日木曜日

北海道における石灰岩研究史(5)


北海道における石灰岩研究史(5)

4)戦後の再吟味時代(1945-1969:昭和2044

 太平洋戦争の敗戦により,朝鮮,満洲,南樺太,台湾など日本が原料資源を求めていた地域は全て失われました.こうなると注目を浴びるのが,例によって北海道です.北海道は未調査部分が多く,三度,鉱産資源調査が始められ,その中には石灰石資源も含んでいました.昭和25年,道立地下資源調査所が設置され,昭和23年に発足した地質調査所北海道支所北海道大学などとともに,官公立の調査研究機関の人々が一丸となって(石灰岩調査を含む)地質調査に取組みました.
 これらの調査は長期にわたって続けられ,この間に従来知られていた鉱体の鉱量,品位と共に石灰石を含む地層の岩相,構造,地質層準等も明らかにされました.同時に行なわれた全道5万分の1地質図幅調査の進展にともない,新鉱体の発見もあり,数多くの石灰石鉱床が公表されました.

 注:現在は既に田中(1973)の時代とは異なり,1/5万地質図幅もいくつかの図幅範囲を残したまま打ち切りになり,地質調査所・北海道支所は廃止になり,道立地下資源調査所も改称して業務内容が変化し,北海道大学・地質学鉱物学教室も無くなっています.田中(1973)の時代区分には,すでに新しい時代が付け加わっているわけです.これについては,最後に考察する予定です.

 この中には,石灰石鉱体中唯一の新生界中に存在するものとして,北見国枝幸郡中頓別町旭台にある貝殻石灰岩があります.これは「中頓別層」中に存在するもので,中頓別層は鈴木(1935MS)が「モウツナイ層上部」と「中頓別層」として記載したもので,今西(1953)が「中頓別層群」として再定義し,小山内ほか(1963)によって「中頓別層」として報告されたものです.層序区分やその時代論については,長い間議論がありましたが,高清水(2009)が化石群集を検討した結果,この地層は中新世中期後半~後期(約14.8~5.4Ma)の地層であることが推定されました.その形成機構・環境については,田近(1989),高清水(2009)が詳細に検討しています.この時代になると,もう「資源としての石灰岩」ではなく,地質形成機構・形成環境などが議論されるのが当たり前になったということでしょう.

北海道地下資源調査報告
北海道石灰岩調査報告 第1報~第2報の目次
(正確には,第1号から18号までは「北海道地下資源調査報告」,第19号から70号までは「地下資源調査所報告」,第71号からは「北海道立地質研究所報告」になる)

 話を戻します.
 この時期,北海道地下資源調査所報告には,1950年に2ヶ所,1951年に4ヶ所,1952年には9ヶ所,1958年に4ヶ所,1959年に3ヶ所,1960年に2ヶ所,1961年には二ヶ所,1962年に1ヶ所,1964年に1ヶ所が報告されています.北海道地下資源調査所報告は2000年に「北海道立地質研究所報告」に変わり,現在も存続しますが,1965年以降は石灰岩に関する報告はありません.
 北海道開発庁名で発行された「北海道地下資源調査資料」には,1952年に2ヶ所,1953年に1ヶ所,1954年に1ヶ所,1957年には石灰石鉱床が1ヶ所とドロマイト鉱床が2ヶ所,1959年に1ヶ所(前出,中頓別石灰石),1964年にドロマイト鉱床が1ヶ所報告されていますが,こちらも1965年以降,石灰岩鉱床についての報告は絶えています.報告すべき岩体が尽きたのか,資源としての重要度が低下したのか,恐らくその両方なのでしょう.
 したがって,田中(1973)のいう「戦後の再吟味時代」は1965(昭和40)年には終わったと考えてもいいのかもしれません.

 田中(1973)は,石灰岩を含む古期岩類を「神居古潭系」,「空知層群」,「日高古生層」,「北見古生層」,「枝幸古生層」,「松前古生層」と分けています.しかし,この時代はまだまだこういった地層区分には混乱があった時代で,このまま田中(1973)をベースに考察を続けても,さらに混乱しそうなので,やめます(これ以下の部分,じつは五・六回書き直しています(^^;;).

 現在では,加藤ほか(1990編)や,新井田ほか(2010編)のように,西から「渡島帯,礼文ー樺戸帯,空知ーエゾ帯,日高帯,常呂帯,根室帯」に分けて,地域ごとに説明するのがふつうになっています.ですが,この話はあくまで「研究史」ですので,歴史的に追ってゆきたいと思います(これもまた途中で挫折するかな(^^;;;).

それで,5)として「化石がしめす北海道の地史=石灰岩からの産出化石を中心として=」を設定します.
(つづく)


2020年2月26日水曜日

北海道における石灰岩研究史(4)


北海道における石灰岩研究史(4)

「北海道有用鉱産物調査」の時代(1925-1945:大正14~昭和20
田中1973の「3)北海道有用鉱産物調査報告の時代」改題
(報告書名は「北海道工業試験場報告 第○号 北海道有用鉱産物調査(第○報)」であり,“北海道有用鉱産物調査報告”で検索をかけても出てこないため)

 北海道工業試験場1922(大正11)年に設置されました.この工業試験場に,1929(昭和4)年,「有用鉱産物調査部」が増設され,1933(昭和8)年,有用鉱産物調査部は「資源調査部」に名称変更されています.また,1948(昭和23)年,資源調査部は商工省へ移管され,「工業技術院地質調査所北海道支所」となりました(詳しくは,「地質調査所百年史」を参照).「有用鉱産物調査報告」は,第1号が1930(昭和5)年に,第10号が1936(昭和11)年に発行されています.現在,北海道工業試験場報告のバックナンバーは入手不能のため,詳細の記述はできません.一部については古書店より入手できましたが,古書店には本文と地質図を別にして販売してよいという暗黙の了解があるらしく,付属地質図が付いていないものばかりで残念です.
 入手できたものについては,下に示しておきます.

 澤田(1930)は,北海道有用鉱産物調査(第1報)で「渡島支庁管内松前郡西半部」を調査し,渡島と檜山の境にある願掛沢および大鴨津川の上流大千軒岳附近の石灰岩について記述しています。
 福富(1932)は,北海道有用鉱産物調査(第2報)で,「上磯石灰岩」について詳述し,鉱量推定もおこなっています.上磯石灰岩は「峩朗鉱山」として長年稼行され著名です.

北海道有用鉱産物調査(第2報)

 福富(1933)は,北海道有用鉱産物調査(第3報)で「渡島支庁管内亀田郡~茅部郡」を調査し,尻岸内中流附近,銭亀沢村石崎の海岸,八木川の上流,湯の川村湯ノ沢の四ヶ所の石灰岩,および石灰華として恵山・磯谷温泉のもの,また尻岸内川支流・中小屋の沢下流で石灰華の巨大転石を報告しています.
 福富ほか(1936a)は,北海道有用鉱産物調査(第9報)において,「渡島支庁管内山越郡国縫・長万部地方~檜山支庁管内利別川右岸地方」を調査し,各種有用鉱産物を報告しました.その調査区域中で「中古生層並びに変成岩地帯に当たって,所々に石灰岩層あり」としています.しかし,その多くはレンズ状であり,品質も良くないものが多く利用価値が少ないとしました.ただし,利別川支流大根田の沢およびベタヌ沢上におけるものは良質で量も多大であると思われるが,交通が不便であることを示しています.
 福富ほか(1936b)は,北海道有用鉱産物調査報文(第10報)において,「浦河支庁管内幌泉郡および様似郡」の各種有用鉱産物を報告した.その中で,様似村に露出する古生層地帯には,多数の石灰岩が見られ,その中でも新様似(現在の「新富」附近)「メナシエサマンベツ川」下流附近および二七(になな)村(現在の「田代」)「イサカナイ」「ポンサヌシベ」などに比較的大きな岩体があるとしています.これらのうちには採掘された跡もあり,新様似の岩体は水銀鉱を胚胎している部分もあるとしています.

 このほか,未入手の報文については田中(1973)から略述します.著者名については,このシリーズは表向きは「福富19xx)」となっていますが,実際に本文を読むと,調査には複数の別な所員(?)が示されており,要確認事項です.これは代表者のみを示す「お役所の悪弊」だろうともいわれています.
 福富1933)「北海道有用鉱産物調査(第4報)」には,檜山郡石崎川左股の石灰岩,天の川支流,厚志内沢上流の二ヶ所の石灰岩,また海岸沿いにはメノコ岬、日方泊岬、願掛沢と三条の石灰岩は地質図に描けるような岩体が示されているといいます.
 福富1936)「北海道有用鉱産物調査(第8報)」には,「常呂郡浦島内沢の支流前山の沢の白雲岩質石灰石」,また「佐呂間川河岸には径1.52mの結晶質石灰石の団塊あり」と記載されているといいます.
 また,引用文献が示されていませんが「石灰石鉱床ではないが山越郡二股温泉,江差町東南目名川支流湯の沢口、亀田半島の恵山,磯谷温泉などに混泉沈殿による巨大な石灰華があることが明らかにされ,ライマン記載による上湯の沢のものは温泉沈殿によるものであろうと指摘されている。」とされています.

 「北海道有用鉱産物調査(報告)」は10号で終了しましたが,この間,北海道地質調査会が組織され,10万分の1地質図幅として「然別沼」(大石・渡辺 1933),「帯広」(根本・大石・渡辺 1933),「大樹」(根本・佐々 1933)の3図幅が出版されました.1/10万地質図幅調査は,北海道工業試験場地質調査報告として引継がれ「浦河」(竹内・三本杉 1938),「興部」(竹内 1938),「長万部」(矢島・陸川 1939),「寿都」(矢島・古館・陸川 1939),「登川」(根本・三本杉・水口 1942),「鴻ノ舞」(竹内 1942),「余別岳」(根本 1942)が出版され,1942(昭和17年)に打ち切られました.これは前年12月の太平洋戦争開戦のためです.これらの1/10万地質図は途中で打ち切られたとはいえ,戦後に開始された1/5万地質図の基礎になっています.

 地質図をメインとする調査に変わったということは,図幅の範囲内で地質図に描けるような地質体は示さなければならないということで,これまでの鉱物調査・資源調査とは大きく変わったところです.また,これら1/10万図幅は1933(昭和8)年以来卒業生を出している北海道大学地質鉱物学科の学生らの就業論文卒業論文が基礎になっており,現在知られている石灰岩体は,ほぼその中に記述されています.特に資源開発を目的としない学生たちの調査では,石灰岩に含まれる化石の調査も行われるようになり,これまで古生層とされていた地層から中生代の化石も発見されるようになり,時代論の再吟味が必要となってきた時代でもあります.見る目がちがえば,見えるものも違うという典型的な例でしょう.
 学生たちが加わった道内の地質調査は,北海道の地質概念を一変させました.これまで古生層として三波川系に対比された神居古潭系あるいは漠然とそれに対比されていた日高~胆振の石灰岩から中生代,しかもジュラ紀後世を示す化石が矢部・杉山(1939),Yabe & Sugiyama (1939),矢部・杉山(1941)によって報告されました.このあたりの経緯は橋本(1960)に詳しい.
 このようにして,北海道には“オルビトリナ石灰岩"以外にも"烏巣(烏ノ巣)型"化石を含む石灰岩が存在することが明らかにされたのでした.しかし,道南地域の石灰岩を含む松前古生層,北見地域の石灰岩を含む北見古生層などの日高古生層と呼ばれていたものの再吟味は,まだ行なわれていませんでした.

(つづく)

2020年2月25日火曜日

北海道における石灰岩研究史(3)


北海道における石灰岩研究史(3)

「鉱物調査報告(北海道之部)」の時代(1893-1924:明治26~大正13年)
(田中 1973の「2)「北海道鉱物調査報告」の時代」改題

 田中(1973)には「北海道鉱物調査報告」とありますが,実物の表紙には「鉱物調査報告(北海道之部)」とあるので,上記時代名を改称します.
 なお,鉱物調査報告については植村(1968)に詳しいです.また,調査報告のリストについては,こちらを参照のこと(もとに戻るときは,ブラウザの戻るボタンで).
 その調査は1910(明治43)年に始まり,関東大震災後の緊縮政策によって1924(大正13)年に閉じられるまで14年間続きました.報告書は1911(明治44)年から1930(昭和5)年の37号まで刊行されましたが,最後の37号の発行は36号の発行から5年の空白期間がありました.

 この調査は,明治43年から大正6年までの前半期と,大正7年から同13年までの後半期で,その性質が異なります.前半期は地下資源分布の広域調査で,これにより有望地域を抽出すると同時に,地質の分布および構造を理解し,将来の地質調査の基盤を築くことでありました.後半期は前半期の調査結果から抽出した地域の精査で,天塩・釧路炭田および天塩油田・ガス田の調査に重点が注がれました.
 要するに,これまでの調査では北海道全体での資源開発としては充分ではなく,効率的かつ経済的な判断も含めたということでしょうか.たとえば,同じ資源で同じ埋蔵量ならば,運搬積み出しに有利なものを選ぶというような.
 前半期の調査員は伊木常誠,大日方順三,小林儀一郎,岡村要蔵,山根新次,清野信雄,門倉三能,納富重雄です.後半期には,若手の飯塚保五郎,鈴木達夫,六角兵吉および植村癸巳男らに引継がれています.


4号コンテンツ

 報告書第4号では,岡村(1910)が日高沙流川流域のニセウ河口で,静内・新冠・三石三群地方では三石川,染退川,新冠川の石灰岩を記述していますが,交通の便が悪く採算が合わないとしています.
 一方,同第4号中で,山根(1910)は幌別川「シュンベツ」の石灰岩,新様似の「エサマンベツ」と「メナシュエサマンベツ」の合流点附近にある石灰岩は,どちらも品質も良く,馬で運搬が可能である,としています.
 また第5号で,小林(1911)が胆振国勇払郡鵡川流域の「ニニュー」附近で二層の石灰岩を認めたが両層とも「大ナラス」としています.
 同5号では,伊木(1911)が日高国元浦川流域および浦河附近で,元浦川支流「シーホロカアンベツ」川および幌別川支流「シュンベツ」川下流に露出するとし,後者は「ルーチシャンベツ」河口附近に「大ナルモノ一條」あるものの小塊が非常に多い,としています.これらは,何れも(当時の)古生層中とされ、化石は認められていません.
 第12号では,大日向(1913)は渡島国江良町の清部鉱山附近の“古生層”は「往々「レンズ」状の石灰岩」を挟在するとし,また大鴨津川,小鴨津川の石灰岩も記述しています.
 これらの報告書群には,小さな岩体を含めて多くの石灰岩の位置が報告されました.前記以外にも北見国枝幸郡の咲来峠,紋別郡上興部,上川郡奥士別のもの等があり,また十勝支庁管内では足寄郡螺湾のものが初めて知られるようになりました.調査の目的が金属,非金属,石炭,石油などの鉱物資源であり,網羅的に調査されたため,このころはまだ利用価値の低かった石灰岩も多く見いだされたのでしょう.

 この「鉱物調査報告(北海道之部)」ではありませんが,この時代の地質調査所報告に,納富(1919a)が石狩及び十勝国境附近の鉄道沿線地質調査で南富良野村鹿越の石灰岩を,また納富(1919b)が北見國紋別郡遠軽から石狩國上川郡永山までの道路沿線調査にて比布の石灰岩(現.突哨山石灰岩)について報告しました.このとき比布の石灰岩については,既に5年前から焼成石灰を販売していたといいます.
(つづく)