2018年1月13日土曜日

メッチルイの丘

メッチルイの丘
 その昔,旭川駅前にチャシ*があったことは,現在ではあまり知られていない.
 そこには全長200m,比高約15m**という丘があり,チャシコツ(砦跡)があった(図1890年旭川).当時のアイヌは「メッチルイ」と呼び,和人は「義経台***」と呼んでいたという(写真:義経台).

渡辺(1983)「まちは生きている」より

「義経台跡」の案内看板

石狩川河原にある標柱

メッチルイとは石狩アイヌ****の大酋長の娘の名である.
 十勝アイヌが上川に攻め入った*****ときに,十勝アイヌの若者に恋をしたメッチルイが仲間を裏切り,父の大酋長に殺害されるという事件があった.戦いが終わったあと,上川アイヌはメッチルイを悼み,戦場となったチャシのある丘を「メッチルイ」と呼んだのだそうだ.
 仲間を裏切ったメッチルイを記念する.不思議なことである.
 よほどメッチルイが美人であったのか,あるいは,裏切られても皆が涙するようなドラマがあったのか,この伝説を採録した近江も詳細は残していない.

 さて,この丘は1896(明治29)年から始まる鉄道-旭川駅の建設に伴い,削られて消滅******してしまった.削ったときに出た土砂はすぐそばの忠別川の埋め立てに使われたそうである.
 今となっては,この丘がどのような地質でできていたのか,それを知る術はないが,北海道立地質研究所(2009編)の上川盆地断面図を見ると,旭川駅前付近は基盤の中生界が深く,旭川層が厚く埋めており,比布~当麻方面で見られる古生代末~中生界のメランジ堆積物の残丘であったとは考えにくい.そうすると,南にある神楽岡丘陵(あるいは東にある東神楽町の“新”義経台)の地質とたぶん同じ火砕流堆積物ということになるだろうか.
 鈴木(1955)は,“洪積世”(更新世)の溶結凝灰岩として一色に塗っていたが,研究が進むにつれて,池田・向山(1983)では,上川盆地周辺の火砕岩類は「雨月沢火砕流堆積物」(松井ほか,1968),「美瑛火砕流堆積物」(池田・向山,1983)の二つに分けられている.この時,美瑛火砕流堆積物は古地磁気層序の検討によりオルドバイ事件(1.87~1.67Ma)の中であることが明らかにされた.
 さらに,西来ほか(2017)は,美瑛川中流域~下流域の火砕岩は約70~80万年前であることを指摘し,美瑛火砕流とされているものは二層以上の地質ユニットで構成されることを明らかにしている.


---
* チャシ:(chási=砦;館;柵;柵囲い:知里,1956).チャシコツ(chási-kot)は砦の跡.桑原・川上(2015)はチャシが造られたのは主に16~18世紀であり,アイヌ文化の成立に関係があるとしている.
** 全長200m,比高約15m:宮下通5~7(4~6の異説あり)丁目付近という記述と,明治23年旭川市街図より推定.比高は宇田川(2005)より.
*** 義経台:この台地には,アイヌ神話の英雄神の一人・オキクルミの伝説が残されていたらしい.その上で,オキクルミと源義経は混同されていることが多く,このチャシでおこなわれたアイヌの神事の最中に「ギケイコウ(義経公),〃」と合いの手が入るところから,それを聞いた和人がこの丘のことを「義経台」と呼び始めたという話がある.なお,東神楽町の東神楽神社がある台地は,現在でも「義経台」と呼ばれているが,それは消滅した義経台に似ていたからだともいう.
**** 石狩アイヌ:ここに登場する「メッチルイの伝説」の初出(近江,1931;1954)には確かに「石狩アイヌ」とある.しかし,村上(1959)では近江(1931)を引用しながら「上川アイヌ」となり,これらを引用した宇田川(2005)は,このちがいに注意を呼びかけている.
***** 上川に攻め入った:アイヌの伝承では,十勝に限らず北見やそのほかのアイヌ(あるいは異民族も含めてか)が上川に攻めてきたという事件が頻繁にあらわれる.上川には攻め入る理由があったのか,あるいは当時のアイヌ社会の状態を示しているのか,興味深いところである.
****** 削られて消滅:じつは,この時までに,この丘の上には和人が建てた神社があり,この丘の下の通りだから宮下通の名が起こり,丘が消えたあとも「宮下通り」の名が残った.宮そのものは何度か移転をくり返したあと,上川離宮建設予定であった神楽岡に移設して「上川神社」を名乗っている.