2019年3月28日木曜日

北海道地質学史に関する文献集(08)

 
南 鐵蔵(1942)明治維新前に於ける北海道鑛業史.
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 南鉄蔵は不詳であるが,北海道経済史が専門らしい.鉱山関連史について,江戸時代が始まる前の1590(天正十八)年から述べられている.日本工学会(1930)と異なり,古い時代の記録が多くまとめられている.
 以下に章立ておよび参考文献を示す.

第一次發展時代(天正18(1590)~寛政10(1798))
 一 當代に於ける本嶋鑛業成立過程の梗概
 二 當代に於ける本嶋鑛業の特徴
 三 當代本嶋鑛業の發生・發展特徴及び其衰微又は不發展の理由
第二次發展時代(安政元(1854)~慶応3(1867))
 一 當代に於ける本嶋鑛業成立過程の梗概
 二 當代に於ける本嶋鑛業の特徴
 三 當代本嶋鑛業の發展特徴生成の理由

参考文献
箱館奉行所「安政度蝦夷地經營始末」。
松浦武四郎「西蝦夷日誌第三編」。
開拓使「北海道志」(巻之二十四)。
北海道廳(多羅尾忠郎)「北海道鑛山略記」。
北海道廳(河野常吉)「北海道史第一」。
北海道廳(同上高倉新一郎加筆)「新撰北海道史第二巻通説一」。
梁瀬捨次郎翁蔵文献。
高崎龍太郎「北海立志編」。


 

2019年3月24日日曜日

北海道地質学史に関する文献集(07)

 
日本工学会(1930)明治工業史:機械・地学編.

 日本工学会がまとめた明治工業史の「地学編」.そのまま地質学史として読むことが可能.章立ては以下の通り.

第一章 地質調査事業
 第一節 地質調査事業の萌芽(自明治初年至同十八年)
 第二節 地質調査事業の發達(自明治十八年至同二十五年)
 第三節 地質調査事業の進歩(自明治二十五年至同四十五年)
第二章 地質調査の効果
 第一節 地質調査
 第二節 土性調査
 第三節 鑛床調査
 第四節 炭田調査
 第五節 油田調査
 第六節 非金属鑛物調査(石油石炭を除く)
第三章 調査機関
 第一節 地質調査所
 第二節 文書
 第三節 北海道
 第四節 琉球
 第五節 臺灣
 第六節 樺太
 第七節 朝鮮
第四章 大學及び學會
 第一節 東京帝國大學
 第二節 東北帝國大學理科大学
 第三節 地質學社
 第四節 地學社
 第五節 東京地學協會
 第六節 東京地質學會

 1930年発行らしく,江戸末期の幕府による調査を「極めて幼稚」であるとし,ブレークとパンペリーの調査についてのみ記している.明治以降の記述に関しては詳細である.発行された地質図については詳細なリストが載せられている.
 もちろん北海道の地質調査史としては,部分的にしかあてはまらない.三章三節の「北海道」は重要である.
 四章三節は,ライマンとその弟子たちの創った学会であり,日本における最初の学会組織である.

 文献リストはない.
 

2019年3月21日木曜日

北海道地質学史に関する文献集(06)

 
石川貞治(1928)北海道探検当時の挿話.

 札幌農学校の卒業生である石川貞治氏の回顧譚である.石川氏は農学校卒業後,北海道庁で神保小虎のもとでおこなわれた地質調査に参加した.のちに一年後輩である横山壮次郎とともに調査を行い,最後はその調査の主任となった.
 回顧録には,先人たちがおこなった北海道における初期調査について簡潔に述べられ,地質調査が多くの地質家による努力の積み重ねであることが示されている.そのあとには,実際の調査時における苦労が述べられており,当時の調査の様子がよく判る.
 当時の神保,石川,横山の報告書のリストは以下の通り.

神保小虎
 北海道地質報文上、下二冊 明治二十四年 編輯北海道庁
 北海道地質略論 全 明治二十二年 編輯北海道庁
 北海道火山分布図
 Beitrage zur Kenntniss der Fauna der Kreideformation von Hokkaido, von Kotora Jimbo. Jena. 1894.
 General Geological sketch of Hokkaido, by K. Jimbo.
石川貞治と横山壮次郎
 石川横山鉱物調査報文
 石川鉱物調査第二報文
 鉱物分布図(神保氏地質図を其の後調査によって補修出版したるもの)


2019年3月20日水曜日

北海道地質学史に関する文献集(05)

 
坂市太郎(1918)北海道の開發と石炭鑛業.

 ライマンの弟子・坂市太郎による回顧談.回顧談の講演録なので,文脈を把握しにくいところもあるが,当時の「北海道の開発と石炭鉱業」の現場の様子がよくわかり,非常に貴重な証言である.
 (04)の神保がドイツ流&帝大流地質学の雄なら,坂市太郎はもう一方のアメリカ流実用地質学の雄である.ライマンが日本人未踏の地を探検・調査したように,坂も(もちろん,ほかの多くのライマンの弟子たちも)実際に歩いて探検し,正確な地質図を作り,石炭開発に役立てていった.

 坂の講演は「私の講演は石炭礦業が北海道開發の先驅となり又北海道將來の運命を定むるものなりと云ふ趣意を述ぶるのであります。」から始まる.
 維新後,専門知識の無い元・武士のみから構成された開拓使には,開拓能力が無いことは明らかで,米国から開拓顧問を呼ぶこととなった.開拓顧問・ケプロンが最初に始めたのは「教育機関」の設置し,専門能力のある学生を育てることであった.坂は,その一環として米国から呼ばれたライマンについて鉱山学を学んだ.炭田開発とは炭田を発見することだけではなく,産出した石炭の輸送路・積出港を整備することも考慮することが必要であり,長期的な見通しが必要であることが説かれている.詰まるところ,北海道開拓の百年の未来を考えた見方が必要なのだとしている.そして,大筋ではそのように進んで行くのだが,鉄道布設などは政治的に,あるいは有力者の都合の内に決められて行くこともある.その間に起きた道庁理事官・堀基の件は,のちの鉄道払い下げの遠因かと疑わせる出来事が示されている.

 「其他政事家も實業家も現在主義一點張の人のみで、歐米の文明國人の如く國家の將來と云ふ考を持つ人に乏しきは帝國の將來大いに憂ふ可きものにして遣憾千萬に思ひます。
 目的は北海道の開發なのだが,短期的な利益,個人の利益に流される政財界人.…このあたりは,いつまでたっても変わらないようだ.

 

2019年3月19日火曜日

北海道地質学史に関する文献集(04)

 
神保小虎(1905)本邦に於ける地質學の歴史.
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 東京大学鉱物学教室・初代教授の神保小虎による地質学史概観.
 時代の所為かそれとも東大教授の所為か,はたまた神保の個性か,記述がまるでクイズか迷路のようではあるが,重要なことがいくつか記してある(以下は,わたくし個人の翻訳による).

=はじめに(と受けとれるところより)=
 この論文が公表された当時(明治38年)は,日本に地質学が導入されてから30年しか経っていないが,その研究の進歩は著しいものであるとしている(この記述からは,神保はライマン以前は“地質学”とは認めていない.ここは「地質学」を「現代地質学」に改め,それ以前の日本古典地質学も地質学に含めるべきと考える).

 現在(明治38年当時),地質学には「アメリカ派(ライマンに始まり,当時は山内徳三郎を代表とする)」「ドイツ派(ナウマンに始まり原田豊吉に引き継がれ,当時は帝大諸研究者がいた)」および「和流実用派(古くから日本にある本草家を引き継いだ白野夏雲が代表.しかしこの先駆者の歴史は不詳である)」があるとする(以後,“和流実用派”は絶滅し,大学教育・研究に於ける主流はドイツ派となる.しかし,アメリカ派は鉱山,特に北海道炭田地帯で生き延び,北海道帝国大学に地質学鉱物学教室が開かれたときに復活する).

 既に発表された研究を知らずに,最初の研究成果の如く発表されることがある.これは,研究史が粗略に扱われていて,過去の研究が判らなくなっているからである.そこで,多くの諸先輩から聞き取ったことを粗略ながらも記述し,図書館などで地質学関係書籍を整理しておくことが必要である.そこで,過去の研究について資料の概略を示しておく.

 ということで,以下,神保は十項目に分け,資料のまとめをしている.

 神保のライマン批判は1890(明治23)年である.この報告が出る15年前のことであるが,歴史を述べる場合にはライマンの業績を無視することはできなかったらしく,最後に「我國の探検は初めは幕府及び開拓使のアメリカ人に因りて基を開かれ、後ドイツ流にて中央政府の地質調査所起り、之に倣て北海道廳の地質畧察始まり、一方にはドイツ風を輸入せる東京大學の地質學科ありて、比學ますま益進歩して本邦地質に關する知識今日の状態に達したる者なり」とまとめている.


 

2019年3月14日木曜日

北海道地質学史に関する文献集(03)


石川・横山(1894),石川(1896),石川(1897

石川貞治・横山壮次郎(1894)北海道庁地質調査 鉱物調査報文.
石川貞治(1896)北海道庁地質調査 鉱物調査第二報文.
石川貞治(1897)北海道鉱産及鉱業に関する舊記.

注)石川(1896)は,石川・横山(1896)とされている場合もある.第一報文(「第一報文」という記述は無い)には両編者が併記されているが,第二報文には「石川貞治編」とのみある.
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石川(1896)より


 石川・横山(1894)は,札幌農学校卒業生の石川貞治および横山壮次郎による「鉱物調査報文」である.その「第一 緒言」中の「北海道の鉱業沿革」に,それまでの地質調査史が簡略に述べられている.以下.

北海道の鉱業沿革
 北海道の鉱業は由来する所久しと雖ども今其詳かなるを知るべからす。
 元文元年、幕府、金座・後藤庄三郎を宗谷に遣はして、砂金を探討せしめ、又屢々吏員を派して諸鉱山を踏撿試掘せしむ。
 安政二年、函館奉行・竹内保徳、諸術教授役・武田成章に命して、亀田郡古武井海浜の砂鉄を検査し、洋式熔鑛爐を築きて製煉せしむ。中途にして廃止す。
 文久元年、幕府、地質学者米人「ブレーキ」「ポンペリー」二人を雇ひて、本道の地質及び鉱物を調査せしむ。戦乱に遭ひて果さす。此時、両氏始めて鉱業上最も必要なる火藥を以て岩石を破砕する法及び混汞法を以て金銀を分解する法を伝ふ。
 明治四年、米人「アンチセル」をして諸鑛山を巡視せしめ、翌年、開拓史四等出仕・榎本武揚、七等出仕・北垣国道をして諸鉱山を巡視せしむ。
 明治六年、全道地質鉱物調査の議起り、雇米人「ベンヂヤミン、スミス、ライマン」を主任として調査事業を創めしめ、三年を歴て畧完了す。此調査は全道の地質を分類し、有用鑛物の所在を探り、殊に意を煤田に注き、現今盛んに行業する幌内炭山の如き、實に「ライマン」の測定せる所なり。
 同十二年、雇鑛山士・米人「ゴージョー」を鑛山監督に任し、幌内炭山の開坑及び茅沼炭山の改良に従事せしむ。
 同十九年、北海道廳を設置せらるゝに及び、地質鑛山調査の業を起し、更に精密の方法を以て鑛産を探究せんとし、山内徳三郎を主任とし、理學士・河野鯱雄、工學士・大島六郎、桑田知明、阪市太郎、工學士・大日方一輔、工學士・米倉清族、前田精明、加藤清、西山正吾等之れに従事す。
 明治二十一年に至り新地質調査事業起る。其事蹟は本文に詳述するか如し。
(注:カタカナをひらがな化.句読点付加.読みやすいように改行など付加)

 また,石川(1896)の附録には「北海道鑛産及鍍業ニ關スル舊記摘録」があり,北海道庁所蔵の旧記録から明治維新前までの北海道における鉱産及び鉱業についての記述をまとめたもの.
 石川は多羅尾編「北海道鉱山略記」よりは詳細を期したが,多羅尾編には出ているにもかかわらず,その原本が見出されなかったものもあり,多羅尾編も参考にすべきであるとしている.

 石川(1897)は,これらの記録を再度編集し「北海道鉱産及鉱業に関する舊記」として連載している.

 

北海道地質学史に関する文献集(02)

 
多羅尾忠郎(1890編)北海道鉱山略記.

 多羅尾忠郎については不詳.生没年も判らない.著書に「千島探検実記」があることがわかっているほかは「北海道庁属」ということしか判らない.明治23年4月の官員録・北海道には,その名はない.この「属」は「所属」ではなく「属託(=嘱託)」の属なのだろう.

 章立ては8つに分けられており,第1章に「鉱業略沿革」として,開拓使設置から1889(明治22)年までの鉱業史が示されている.2~7章は硫黄,石炭,石油,金銀銅鉛,砂金,砂鉄の各鉱物についての,鉱山名,歴史算出状態などの詳細が示され,最後の8章では,明治8年から21年までの鉱業関連の統計が纏められている.
 


 なお,「北海道鉱山略記」に完しては,→のラベル「北海道鉱山略記」から,全文をたどれます.

2019年3月13日水曜日

北海道地質学史に関する文献集(01)

 
開拓使(1884)北海道志.24巻.政治・採鉱.

 明治17年に開拓使から発行された「北海道志」である.その24巻に「政治・採鉱」がある.
 明治17年といえば,「開拓使官有物払い下げ事件」の発覚から3年がたち,開拓使が廃止されて北海道庁がつくられる2年前である.幕府がたおされ新政府ができたものの,日本がどのような進路をたどるのかもまだ定かでないころ,というよりは富国強兵政策が推し進められ,軍国主義化の足場がつくられ始めたころか.

 「採鉱」の章には最初に,1)蝦夷地ではもともと砂金がとれていた,2)大野土佐日記の例,3)松前藩による採金とアイヌとの軋轢のこと,4)徳川幕府による米人地質学者の招聘と地質調査および鉱山技術の伝習について,5)明治政府による米人地質学者の招聘と地質調査および鉱床調査について短く書かれている.
 本文には,鉱山開発の歴史や鉱山法,各種鉱山に関する記述が乱雑に記述されている.
 想像を働かせてみれば,官有物払い下げ事件によって存続を脅かされた開拓使が,自分達の業績を強調するためにつくらせたものかと愚考するが,個々の記録は重要なものとは言え,乱雑な記録であるとの印象は拭いがたい.



北海道地質学史に関する文献集(00)

 
 最初に,これから紹介する予定のリストをあげればいいのだが,いろいろあって,それはしないことにする.最後には気が変わって,リストアップするかも知れない.

 10数年前に,地質学史でも勉強しようかと漠然と考えたときには,一人でやってることもあって,文献一つ見つけるのは大変だった.我が在地では入手不可能なものばかりだったし.今は多くの資料が徐々にとはいえデジタル化され,しかも公開されているものも増えてきているので,ウソみたいに楽になった.とはいえ,それらはいわゆる“理系”の資料がほとんどで,“文系(歴史系)”の資料はほとんどされていない.旧帝大系の大学図書は予算も豊富にあるのか,デジタル化&オープン化が進んでいるが,非帝大系&私立大学は全く進んでいない.まだ,そんな状態.

 さて,研究者別でもなく,時代別でもなく,見つけたときから片端に読みあさってきた北海道地質学史に関する文献,それを発表された順に,これから見ていこうと思う.何か(ただし,今回は総論的なものだけ),これまでとは違うものが見つかるかも知れない.