2020年10月24日土曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のに)


バリックパパンの戦い・青山敏男氏の場合


 もう一つ,バリクパパン防衛戦の体験記を紹介する.


青山敏男「我が戦記=ボルネオ回想=」


 青山氏は軍医として南方戦線に従軍した.徴兵された一般市民とことなり,文章は洗練されていてわかりやすい(逆にいえば,平常ならば長文なんか書かなかったであろう一般市民が,なにがなんでも残しておかなければ…と書きつづった意味もわかろうというものである).戦争中ではあるが,単に遭遇した戦闘や悲惨な経験だけでなく,冷静にさまざまな事件・事象を記録してあるのがありがたい.なんと言おうか,俯瞰的に見ているのだろう.

 「忙中閑あり」ならぬ,“戦中和あり”…であろうか.つかの間の平和を切り取った瞬間,ブンガワンソロの歌が聞こえる.


BENGAWAN SOLO


Bengawan Solo Riwayatmu ini

Sedari dulu jadi Perhatian insani

 

Musim kemarau ta brapa airmu

Dimusim hujan nanti meluap sampai jauh


Mata airmu dari Solo berkurung Gunung Seribu

Air mengalir sampai jauh Ahirnya kelaut


Itu perahu riwayainya dulu Kaum pedagang slalu naik itu perahu




1943(昭和十八)年末:連合軍,ギルバート諸島上陸.

1944(昭和十九)年一月:クェゼリン玉砕.

   同年二月:トラック島空襲.同島日本軍孤立.

   同年七月:サイパン,テニアン陥落.


1944(昭和十九)年四月:米軍,西部ニューギニアへ進攻.敵戦闘機,来襲増加.

   同年九~十月:米軍大空襲,第一〇二燃料廠製油所被害.

   同年十月十日:米空軍,戦闘機・爆撃機,約百五十機来襲.潤滑油施設破壊.

 バリックパパンに敵飛行艇・敵潜水艦出没増加.スパイ配備の可能性大.同時に夜間爆撃増加.

   同年十月:第二十二特別根拠地隊(ボルネオ・バリックパパン)司令官,醍醐中将から鎌田道章中将に交代.第一〇二燃料廠付近の防空隊強化.マニラ陥落および沖縄攻撃の情報がはいる.


1945(昭和二十)年二月:米豪連合軍の南ボルネオ侵攻を予測した第二南遣艦隊司令長官・柴田弥一郎中将,バリックパパンを訪問,陸戦隊員を閲兵.

   同年四月:この頃まで第三八一航空隊は襲来する敵機に対し迎撃をおこなっていたが,次第に迎撃用の戦闘機を失い,日本は制空権を失った.敵機は自由に襲来するようになり,敵の上陸作戦は近付いているものと予想された.

 この頃には,日本のタンカーの大部分は撃沈されていて,バリックパパンから輸送船が出港することもなくなった(余った油はジャングルの中でただ燃やされたという).

   同年四月二十六日:第十方面艦隊から入電.

「敵巡洋艦,駆逐艦,掃海艇,数十隻に護衛せられた強力な輸送船団(兵員満載)が,モロタイ沖を通過してセレベス海峡を北上せり.タワオ,サンダカン,タラカン,バリックパパンは厳戒を要す」

   同年五月一日:連合軍,北ボルネオ東海岸タラカン島に上陸作戦開始.ボルネオ防衛戦始まる.

   同年六月八日:連合軍,北ボルネオ西北岸ブルネイに上陸作戦開始.

   同年六月十日:連合軍,バリックパパンに上陸作戦開始.艦砲射撃と空爆が激化連続する.

   同年六月十三日:タラカン島守備隊,連絡途絶す.玉砕との噂飛ぶ.

   同年六月十五日:見張り所より入電.

「敵大艦隊・戦艦・巡洋艦,十数隻;駆逐艦,三十数隻,見ゆ.バリックパパンの百度二十マイル」

 直ちに「千早二号作戦」が下命.千早二号作戦とは,戦況がどのように厳しくなろうとも,一歩も退かない籠城作戦である.楠木正成が千早城にたてこもった史実に基づくといわれる.

 これを遡る五月,第二十二特別根拠地隊司令官・鎌田道章中将を長とする南ボルネオの海軍各部隊は第二警備隊を編成した.現地召集の民間人を含む一万六千余で戦闘態勢をとっていた.

 やがて,バリック湾沖合遥かの水平線を埋め尽くして大艦隊が薄墨色の線のように見えた.「連日の砲爆撃で地形がすっかり変わり,山も谷も地の底から掘り返され,宿舎も兵舎も壊滅し,椰子の木もすっかり丸坊主になり,砲撃された反対の方向に倒れていた.」

 「敵が上陸一か月以前から投下した爆弾は三千トン,第七艦隊が海岸防御施設に撃ち込んだ弾丸はロケット弾七千三百発,自動火器十一万四千発,三インチから八インチまでの中口径砲弾三万八千発にのぼった.」

 六月十五日には,著者の青山軍医はバリックパパンから七キロ地点のサマリンダ街道の野戦病院に移動.しかしそこにも砲弾は雨のように降り注いだ.二十日夜に青山軍医はバリックパパンまで視察に出たが,すべては瓦礫の山であり,多くの不発弾につまずくほどであったという.

 六月三十日,この日,連合軍は上陸を試みたが日本軍の反撃に遭い撤退.しかし,その夕刻からは明け方まで執拗な艦砲射撃が続いた.


 そして,七月一日.

 早朝,三度目の攻防戦が始まった.「約二百五十隻の上陸用舟艇が海上一面に真っ白い水しぶきを上げて海岸に殺到し,クランダサン地区より上陸を開始した…」

 七月二日,第一飛行場,艦砲射撃により砲台壊滅.飛行場は連合軍に占拠.バリクパパンの日本軍,壊滅状態.一日中,負傷兵の手術続く.

 七月四日,青山氏は,バリックパパン七キロ地点の野戦病院付きだった看護婦六名を引率してスモイ地区野戦病院まで移動する.驚くべきは,この激戦地に六名もの女性看護師(もちろん当時の看護師は女性ばかりで看護婦と呼ばれていた)がいたことである.前年中に従軍看護婦および民間女性事務員は全員日本国内(当時は内地と呼ばれた)に引き上げたなか,バリックパパン残留を決めた彼女らは“鉄の看護婦”と呼ばれていた.傷病兵の治療に数日過ごした後,戦況の悪化により,スモイからサマリンダ方面へ後退を余儀なくされた(帝国陸軍では“転進”と呼ぶ).

 「歩ける者は歩け」ということで,歩けそうにない者まで歩かざるを得なくなって(では,あるけない者はどうしたか,青木氏は彼らについては記していない),患者の病状も益々悪くなり,充分な食料がなく,栄養失調で骸骨のようになった患者は,飢えきっていた.毎日毎日,死亡者が続出した.

 しばらく引用を控える.


 終戦時の調査では,戦闘地域で四百五十八名,サマリンダ街道だけでも戦死,戦傷死,戦病死の戦没者数は千九百六十五名を数えた…という.


 七月三十日,青木氏は,スモイ地区の野戦病院に一度戻る.野戦病院とは名ばかり.ただの死を待つ兵士たちのテント小屋であった.七月三十一日,看護婦六名と五十八キロ地点の仮病舎に戻る.そこでも毎日二十名,三十名と死んでいった.


 そして,誰いうとなく「死のサマリンダ街道」とか「白骨街道」と呼ぶようになった.


 八月一日,五十八キロ地点から七十二キロ地点まで北上を開始する.途中,所々に白骨が転がっている.浅く埋められた遺体がスコールに洗い出され,手足が露出している.これもやがて白骨になるのであろう.八月二日,六名の看護婦は約百キロ上流のムアラカマンの病舎勤務となり,船で二昼夜かかって着任した.八月四日,青木氏はロアジャナンに仮収容所を設営し,ジャングルからたどり着いた患者の一時収容施設とした.傷病兵は応急処置ののち,程度に応じ上流のロアクール,テンガロン,あるいはムアラカマンの各病舎に送る任務となった.

 八月十五日,連日連夜飛来していた敵機が完全に停止した.

 八月十七日,無条件降伏,全軍即時戦闘中止などの情報を無線で傍受.終戦であった.


 なお,この後も,青木氏を含む日本兵等は過酷な捕虜生活を過ごすこととなるが,引用が精神的に疲れたので,省略したい.

 最後に一つ.

 「ジャワの極楽,ビルマの地獄,死んでも帰れぬボルネオ島」

…青木氏は,昭和二十一年六月六日,名古屋港に上陸.帰国した.


ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のに)

バリックパパンの戦い 終わり


2020年10月8日木曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のは)


バリックパパンの戦い・中村利光氏の場合


 続いて,中村利光氏による「大東亜戦争従軍記=下級兵士が命がけで見たボルネオ島=」を紹介しよう.



中村利光氏「大東亜戦争従軍記」


 この本は,ボルネオ島周辺を行軍した一兵士の手記を,ご子息の喜一氏がアマゾンからネット出版したものである.バリクパパン戦の頃,中村利光氏はボルネオ島を縦断しているが,バリクパパン戦とはニアミスではあったが参戦していない.しかし,利光氏の残したノートに挟まれていた太田垣正純氏のバリクパパン戦記を喜一氏が転載している.

 「大東亜戦争従軍記」はネット出版であり,ご子息個人編集の限界があり,ワープロ誤変換と思われる誤字が頻出し,意味のわからない単語も散見される.誤字でないならば,脚注が欲しいところである.また,現代日本人には馴染みのない地名が頻出するので,ボルネオ島周辺の地形図が欲しいし,行軍であるから日付の入ったルートマップも欲しい.編集者が介在しないネット出版の限界であろうか.それでも,正史に疑義を唱える現場の記録が残されているのはありがたいことである.

 ノートに挟まれていたという太田垣正純氏の手記は,昭和30年代の「雑誌に寄稿」されたものと記述がある.

 要約すると…


 昭和20年も6月に入ると,連合軍の南ボルネオ地域への空襲は,日を追って熾烈となってきた.はじめは数編隊にすぎなかったが中頃には2~300機の大編隊となり,やがて海上には機動部隊も目につくようになっていった.

 日本軍もバリクパパンの港に,水際作戦を立て,約五千名の兵を配置していた.しかし,それまでには,以前配置されていた海軍三八九航空隊は連合艦隊に転属し,バリクパパンの飛行場からは撤退し,航空兵力は存在していなかった.対空火器も十二糎以下の対空砲,二十五粍機銃が配置されていただけで,圧倒的な連合軍の攻撃には打つ手がなかった.

 そして,七月一日未明.

 連合軍数百機の大編隊による猛爆撃が一時間ほど続き,わずかな静寂のあと,さらに激しい艦砲射撃と空爆が続いた.やがて静かになると…ヤシの木はもちろん,日本軍の対空陣地,飛行場,その他施設は跡形もなく粉砕され,山容すら一変していた.

 連合軍艦隊からは,多数の上陸用舟艇が波をかき分けて接近する.日本軍からは小銃による散発的な抵抗があったが,それは集中的な艦砲射撃を呼び覚ます結果となり,やがてそのわずかな抵抗も止んだ.

 日本軍は為すところもなく,海岸より撤退してジャングルへと移動せざるを得なかった.日本軍はサマリンダ街道の「転戦」と称したが,これは約一ヶ月半に渡る飢えと病との戦い,のちにいう「地獄街道」の旅の始まりであった.

 地獄街道での転戦中,日本兵は敗戦の報を聞いた.しかし,地獄はこれで終わりではなかった.敗戦後も,食料も薬品もない現地収容所生活が続き,さらに多くの日本人の命が奪われた.やってきた連合軍兵士からは,わずかにもっていた腕時計などの金品を奪われ,いい加減な軍法会議のために,多くの元兵士が連れ去られた.残された元兵士が母国の地を踏むのには,さらに一年ほどの時が必要だった.

(続く)


2020年10月7日水曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のろ)

バリックパパンの戦い・三宅健次氏の場合


 まずは三宅健次(1997)「ジャングル無宿」から,バリクパパンの戦いの概略を見てみる.この著も個人的な経験が主であり,主な出来事の時系列を追っているわけではない.タイムラインも前後するので組直しが必要.それをやってみる.


ヨーロッパ戦線

1943(昭和18)年9月8日:イタリア,降伏.

1945(昭和20)年5月7日:ドイツ軍降伏.ヨーロッパ戦線終了.


北太平洋戦線

1944(昭和19)年7月:米軍,サイパン島占領.

      同年10月:米軍,フィリピン・レイテ島進行.マッカーサー,「帰還」.

      同年11月:B29,日本本土爆撃.

1945(昭和20)年2月:米軍,硫黄島上陸.一月半後,硫黄島玉砕.

      同年4月1日:米軍,沖縄本島上陸.6月,沖縄完全制圧.


南洋戦線

バリクパパン防衛要因『戦時回想録』

南ボルネオ会、昭和52年発行より


1945(昭和20)年5月1日:連合軍,ボルネオ東部タラカン島襲撃.

      同年6月15日:連合軍,バリクパパン空襲開始.

            :連合軍艦隊,三十数隻,バリクパパン沖に集結.

 連合軍はバリクパパン・クランダサン地区に上陸を決定.

  オーストラリア第七師団本体:21,635名

  オーストラリア陸軍支援部隊: 7,698名

  オーストラリア空軍:     2,052名

  アメリカ.オランダ軍部隊:  2,061名


      同年6月15日:日本バリクパパン守備隊,千早作戦発動.

 6月15日より,連日の空襲,艦砲射撃開始.7月1日までの20日間で,バリクパパン市街地とマンガルまでの海岸に投入された弾薬は以下の通り.文字通りの雨霰の如くである.

  爆弾         :3,000トン

  ロケット弾      :7,361発

  巡洋艦・駆逐艦の砲弾 :38,052発

  小口径砲弾      :114,000発


      同年7月1日:午前7時.連合軍,上陸作戦開始.



サマリンダ街道


 さて,「千早作戦」とはなんであろうか.この三宅氏は下っ端なので作戦の内容は判らないとしながらも,隊長・山畑主計大尉の言葉として「諸君は,ただちに所定の行動に移る.まず,書類を今日中に焼却する.諸君の武運長久を祈る…」と記録している.

 千早作戦の内容は書かれていないが,鎌倉時代に楠木正成が金剛山一帯に築いた城塞群の一つに千早城という城があり,これら城塞軍が攻められた時に100日にわたって籠城戦を繰り広げたという.この故事から,籠城戦のことをさすものと思われる.

 実際に,三宅氏は約三週間に亘る重爆撃・砲撃の中,この戦場にとどまっている.日本兵には,一度爆弾の落ちた場所に「二度目はない」というジンクスが伝わっていたそうだが,そのジンクスが破られるほどの猛爆撃であったにもかかわらず.

 一方で,食料・医薬品を分散させるために,サマリンダ街道を北上する兵隊もいた.バリクパパン市街地が壊滅状態になって「転進」とよぶ後退が始まるが,あまりにも連合軍の攻撃が凄まじかったため,食料や医薬品の輸送も,傷病兵の輸送もままならず.サマリンダ街道は別名「地獄街道」と呼ばれるまでになった.地獄街道の話は省略したい.

 連合軍が上陸を開始する前夜・6月30日の夜,不気味な色をした月食であったという.

(続く)

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三宅健次(1997)ジャングル無宿(1~6).

太平洋学会誌,19巻3/4号,7-25;20巻1/2号,35-56頁;20巻3/4号,25-41頁;21巻1/2号,25-49頁;21巻3/4号,11-17頁;22巻1/2号,11-24頁.


ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のい)

(* 長くなりすぎたので,分割しました)

バリックパパンの戦い・我が叔父の場合


 子どものころ,わが家の二階に父方の祖母のキク婆ちゃんが住んでいた.物心ついた時にはキク婆ちゃんがいたので,いるのが当たり前であった.だが,よく考えると我が父は三男坊.近所で主婦の店を経営していた長男がいたにもかかわらず,婆ちゃんは三男坊の家に同居していたことになる.


キク婆ちゃん


 お婆ちゃんの部屋には,大きな仏壇があり,長押には三枚の写真が掲げてあった.一枚は,わたしが生まれるひと月前に亡くなった爺さんの写真であり,二枚目はなぜかキク婆ちゃん.三枚目には軍服を着た若者の写真があった(キク婆ちゃんは,わたしが中学生のときに長男の家に引っ越し,その時に全財産を持っていったが,その家で亡くなり,写真を含めて一切はどこへ行ったのかわからない).


 若者の名は「守」,キク婆ちゃんの四男坊,わたしの叔父にあたる.叔父は太平洋戦争中にボルネオ島バリクパパンで戦死した.昭和20年6月29日没.二十歳であった.

 最近になっての話である.惚け始めている我が母の脳内の記憶が,なにかの拍子に蘇ったのかもしれない.むかしの話をポツリといった.ある日,叔父の戦友という人がわが家を訪れ,キク婆ちゃんに守叔父さんの戦死について報告にきたという.連合軍の猛攻の下,「お前たちは逃げろ.俺は残る」,それが叔父の最後の言葉だったと,その戦友は涙を流しながら語っていった,と.

 叔父の話はその時初めて聞いた.わが家の墓石の横に「守徳院釈智成信士 同守行二十才」「昭和二十年六月二十九日於南ボルネオバリックパパン戦死」とあり,叔父が戦死したことは理解していたが….この墓はキク婆ちゃんが昭和二十八年五月に建てたものであった.この当時からかなり傷んだので,現在は亡き父が改装し,もう少しこじんまりとしたお墓になっている.


キク婆ちゃんが建てたお墓
(わたしが小学生当時の写真)


 バリクパパンといえば終戦間際の大激戦地.ボルネオ島の石油基地であった.「石油の一滴,血の一滴」といわれた当時,大日本帝国が石油を求めて進出した赤道直下の島の一つである.湊先生が軍属としていったスマトラ島と同じ背景を持つ.終戦直前の湊先生の行動を追うには,その背景としてバリクパパンの戦史を追ってみるのも,無駄ではないであろうと思う.そして,叔父の戦死の前後についてもなにかわかるかもしれない….


 ボルネオ島バリクパパンに関する戦記はいくつかでているようであるが,個人的な記録ばかりで,全体的な流れや概要を明示した戦史戦記は見当たらない.イヤ,単に見つからないだけかもしれないが.

 足立巌・ボルネオ島バリックパパン思い出の会戦記編集部(1995)「バリックの空は赤く燃えて」は446頁にわたる大著であるが,多人数の個人的な思い出を集大成したもので,通しの視点がなく,なかなか消化が困難なので後回しとする.

続く…