2008年11月27日木曜日

石川貞治・横山壮次郎の地質学(7)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

●新地質調査・精査

 「北海道新地質調査」は1892(明治25)年から,鉱物調査と土性調査のいわゆる細査に入ります.土性調査は開拓のための土壌調査ですから,別な専門家が受け持つことになります.ここでは鉱物調査に限って話を続けることとしましょう.
 神保は精査段階には加わることなく,明治25年に道庁を退職.その後ドイツに留学し,のちに東京大学の教授になります.神保と浅井が抜けたあと,石川と横山は新知見を加えて北海道地質図(1893:明治26年:北大・北方資料データーベースで閲覧可能)を書き直しますが,こちらには神保のみならず,浅井郁太郎の名前も明記されています.神保の名前が一番最初にきていますので,この地質図は通常,「神保ら」の著作と判断されています.
 神保のことは,もう放っておきましょう.


 石川は鉱物調査の主任となり,横山とともに事業を引き継ぎます.
 明治25年は,田村武雄・藤山胖次郎を助手として天塩川流域一帯,北見国北部の頓別川・猿払川地域を調査しました.この年から何人かの助手が加わりますが,いずれもどのような人物かはわかりません.
 明治26年は3月から4月下旬まで,本州北部の鉱山を巡検しました.これは道内の鉱山との比較研究のためだといいます.その後,石川は山田秀雄を助手として石狩平野と黒松内低地帯の間にある山地を調査し,横山は千島の国後島・択捉島のほか占守島・幌筵島を調査しました.
 明治27年は,横山は内山九三郎を助手として,北海道西部東半部地域(白老・登別・洞爺付近)の調査を行い,その後神恵内川・盃川・泊川で銀鉱床を発見しました.石川は山田秀雄と占守島や国後島のほか根室・釧路・十勝・石狩の内陸部を調査しましたが,有望な鉱床は見つかりませんでした.
 明治28年には,横山が転職し,助手の山田秀雄・内山九三郎が遠藤千尋・飯倉金三郎と交代しました.そのためにやむを得ず調査範囲を縮小しています.増毛山塊は調査を廃し,日高山脈付近の調査も縮小しました.それでも,沙流川では石灰岩体を発見し,鵡川ではクローム鉄鉱を発見しています.その他,空知川支流・ドナクベツ川では砂金と共産する辰砂を発見.イリドスミンなどの白金類も発見しました.
 夕張岳の東方では古生界よりも中生界の分布が広いこと,鵡川・沙流川の中上流部には第三系よりも古生界・中生界の分布が広く,シベチャリ川流域の古生界中に中生界があることなどを既刊の地質図(神保図:1890;明治23年発行)の訂正を必要とすることを発見しました(石川貞治増訂の1896:明治29年「北海道地質鉱産図」も北大北方資料データベースで公開されています).
 さらに,本道の古生代化石中には「クリノイド」・「ラジオラリア」・「スポンジ」のみが知られていましたが,鵡川支流の石灰岩中に「リンコネラ」を発見し,また中生代の化石の新産地を十数ケ所発見しました(注:現在ではいずれの化石も中生代のものとされています).

 精査の結果は,石川貞治・横山壮次郎(1894)「北海道庁地質調査 鉱物調査報文」,石川貞治(1896)「北海道庁地質調査 鉱物調査第二報文」となってまとめられます.「第二報文」が石川単著となっているのは,横山が1895(明治28)年5月に道庁を退職したからです.
 以下,それまでの横山壮次郎の関係論文を示します.

  横山壮次郎(1891)千島国シコタン島.(地学雑誌)
  横山壮次郎(1893)北海道新鉱産地.(地学雑誌)
  横山壮次郎(1894)千島巡検記(1~5).(地学雑誌)

 横山はこのあと地学雑誌には論文を残していません.
 足跡はまばらになりますが,1897(明治30)年に木村榮之進と共著で「台灣の石油」(地質学雑誌)を執筆.このときの肩書きは「拓殖務省技師」でした.また,北大・北方資料データーベースに残されている横山壮次郎の写真からは1905(明治38)年2月には「台湾総督府技師」であったことがわかります.

 一方,石川は大量の論文を残しており,それは下に示します.

  石川貞治(1891)千島国エトロフ島火山の話.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)シャコタン岳登山の記.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)石灰岩の新産地.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)千島群島極北の地質.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)北海道の鉱山熱.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)北海道の新大炭田.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)北海道札幌市街の開発に就て地学上の考察.(地学雑誌)
  石川貞治(1894)アイヌの天隕石.(地学雑誌)
  石川貞治(1894)北海道来書一端.(地質学雑誌)
  石川貞治(1895)千島巡検難記.(地学雑誌)
  石川貞治(1895)北海道産二三の稀有鉱物(イリドスミン,白金,辰砂,クローム鉄鉱).(地質学雑誌)
  石川貞治(1896)「チャチャ」岳.(地学雑誌)
  石川貞治(1896)北海道産クローム鉄鉱.(地学雑誌)
  石川貞治(1896)北海道産金論.(地学雑誌)
  石川貞治(1896)北海道庁鉱物調査成績.(地学雑誌)

 石川は道庁技手のまま,1892(明治25)年2月から1896(明治29)年6月まで札幌農学校助教授を兼任,その後,横山と同じように拓殖務省技師として転出していきました.その後も,いくつか公表された論文が残っています.

  石川貞治(1897)北海道鉱産及鉱業に関する舊記.(地学雑誌)
  石川貞治(1900)北見国エサシ砂金地案内図.(地質学雑誌)

 さて,横山・石川が転出した拓殖務省とは何でしょう.
 1895(明治28)年4月17日,日清戦争が終了し,日清講和条約が結ばれました.この講和条約によって清国から日本に割譲され,日本領となった台湾を統治するために台湾総督府が台北に設置されましたが,この台湾総督府を監督する目的で1896(明治29)年4月2日,日本国内に設置されたのが拓殖務省です.
 要するに,日本の植民地の統治事務を受け持った部局で,植民地の膨張にしたがって改廃され,太平洋戦争に敗戦するまで,何らかの形で膨張し続けていました.

 札幌農学校出身の二人の地質屋の足跡をたどれるのはここまでです.今のところ.
 残念ながら,台湾総督府関係の資料は一切手元にありませんし,公表論文をたどることもできないので,打つ手無しです.二人の地質屋は歴史の波に飲まれていったのかもしれません.

この項,おわり

石川貞治・横山壮次郎の地質学(6)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

神保グループ
 さて,時計を少し巻き戻して,神保グループについて見直してみましょう.

●新地質調査・概査
 1888(明治21)年:道庁は「北海道新地質調査」を開始します.この事業は山内徳三郎の後任である河野鯱雄が立案し,最初の四年間で概査を行ない北海道全体の地質を押さえること,その後それをもとに有用鉱物の細査を行なう計画で始められました.
 同年,神保小虎を主任とし,その年札幌農学校を卒業した石川貞治が助手となりました.
 翌,1889(明治22)年7月,この年札幌農学校を卒業した横山壮次郎が助手として加わります.この成果は,神保小虎(1890)「北海道地質略論」(北海道庁),神保小虎(1892, 1893)「北海道地質報文(上・下)」(北海道庁)として現れます.
 なお,「北海道地質略論」の表紙には「明治廿二年三月編輯」と印刷されていますが,内容からは,どう考えても「明治23年3月編集」としか考えられません.そうであれば,発行が明治23年5月6日になっていることと調和的になります.

 この三冊は,通常,神保一人の著書として扱われていますが,前述のように石川貞治・横山壮次郎を助手とし,浅井郁太郎を嘱託として調査が進められたものです.そのことは別に隠されているわけではなく,本文にそう書いてあります.石川・横山・浅井らは人夫ではなく,地質学者・技術者として調査の一端を担ったわけですので,現代的な感覚では,共著者として扱われるべきものだと思われますが,そうなっていません.現代の我々の感覚とはずいぶん異なりますので,注意が必要でしょう.
 実際にみられる地質現象はともかく,報告書に現れているそれについての解釈は,神保一人のものだったと考えるのは,穿ちすぎているでしょうか.
 ともあれ明治22年には,前年の調査とともに,前人の調査の記録をまとめて報告しているわけです.

 明治21年には,神保は石川・横山らとともに北海道の所々を巡見しました.これが本当ならば,横山の卒業は明治22年6月ですから,横山は学生のときに神保に随行したことになります.考えられるのは三年生から四年生になるときの夏休みでしょうか.これを裏付けるかのように,横山は「地学雑誌」(第一集第三巻,明治22年3月25日発行)に「北海道の琥珀及建築材」という論文を掲載していますが,このときの肩書きは「札幌農学校」.興味深いことに,横山は言及した「安山岩」についてブラウン博士が「角閃石安山岩」と“確定”したと岩石鑑定を引用しているのですが,これについて神保が「確定せぬ方が宜し」と付言ししています.
 「横山壮次郎の学歴」で前述したように,横山はどうやら「地質学」の授業は受けていない可能性があるのですが,四年生であるこのときには,すでに「地学雑誌」に論文を投稿していたことになるのです.


 「北海道地質略論」は「緒言」のほか,六つの章からなっています.
 以下.
第一 北海道新規地質調査の主意・方法ならびに最初一年半の成績
第二 ライマン調査の結果,その他旧来北海道に関する地質実見の記事
第三 北海道,地勢と地質の関係
第四 北海道,地質構造と鉱物産出の関係
第五 北海道鉱産地
第六 結論

 このほかに,別冊として「北海道地質図説明書(英文)」なるものがあったようですが,入手した資料にはこれは欠如していました.見ていないものについて論じるのはなんですが,いったいどんな「地質図」と「説明書」があったのか,実に興味深い限りです.
 また,神保がこき下ろすライマンの調査と神保の調査とどれほど差があるのか,内容を確認したいところです.現代的な目で比較すれば,それはざっとみただけでもいくつか指摘することができそうです.しかし,それは神保と同じレベルで先人の苦労や業績を否定することになりますので,いずれ別の機会を見てのこととして,ここでは調査ルートの足跡だけを確認しておきましょう.

 初年(明治21)年,神保らは石狩平野以東の海岸部を巡検しました.日高国では主要な河川を見,釧路国では雌阿寒岳やアトサヌプリに赴き,十勝国・釧路国・北見国・天塩国においては時々大川の一部を観察しました.また,幌内炭山や幾春別炭山,湯内の鉱山(余市)や古平の鉱山を巡視しました.
 この年,神保は「北海道庁の旧採集品と西山らの鉱山調査中に集めた地質材料」を参考にして,英文の地質通論と邦文の略報告を道庁長官に提出したとあります.
 翌(明治22)年は,西部の沿岸と鉱山を巡検し,天塩川と石狩川を巡検しました.天塩川は「主要なる支流を大抵略察」し,石狩川は「本流の外に支流・空知川,美瑛川,幾春別川,夕張川等を多少巡視」したそうです.このとき,石川と横山は別行動をとり,石川は利尻島・礼文島にわたり,横山は石狩川の上流・ルベシベ(上川町から北見峠方面に抜ける沢)を調査したとあります.

 つまるところ,神保は語るに落ちて「北海道庁の旧収集品」=ライマンやライマン調査隊の収集品,「西山らの鉱山調査中に集めた地質材料」=旧ライマン調査隊で道庁に集まった技師たち,さらに助手の石川や横山の成果を使ったといっているわけです.それでも「主として自己の実見に依」るものだそうですが….

 横山の初論文はすでに示しましたが,参考までに石川の1890(明治23)年までの論文を示しておきましょう.

  石川貞治(1889)登別温泉及間欠泉.(地学雑誌)
  石川貞治(1889)北海道沿岸の段丘及砂丘.(地学雑誌)
  石川貞治(1890)北海道西部ウス山見聞概略.(地学雑誌)

 1889(明治22)年9月25日発行の地学雑誌(第一集第十号)の「会員の往復」には,神保と石川は冬期間,大学(もちろん東大のことです)地質学教室において研究を行なったこと,横山壮次郎はこの夏札幌農学校を卒業して道庁に採用され,神保とともに北海道を調査中であるとされています.また,大学(もちろん東大のこと)地質学生・淺井郁太郎がある地域で地質調査を行なっていることが書かれており,このとき浅井は東京大学の学生だったことがわかります.

 1890(明治23)年7月には,浅井郁太郎が嘱託として調査グループに加わります.浅井は旧字の淺井になっている場合があります.このときの浅井の肩書きは「理学士」になっています.当時,浅井は理科大学の大学院生でした.
 1892(明治25)年4月25日発行の地学雑誌(四巻四十号)には,「理学士浅井郁太郎氏は過日島根県尋常中学校に赴任」とあります.浅井は1896(明治29)年9月から1897(明治30)年7月まで,札幌農学校の嘱託講師をしています.このとき,浅井の本職は札幌尋常中学校の校長でした.
 以下,参考までに浅井の投稿論文を示しておきます.

  小藤文次郎(口述)金田楢太郎・浅井郁太郎・細川兼太郎(筆記)(1889)普通地理学講義.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1889)ラットリー氏鉱物学初歩.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1890)大風の記事.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1890)石狩国上川地理小誌.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1891)胆振国鵡川巡見摘要.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1892)山相を以て地質を断言する能はす.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1892)ゴビ沙漠の動物.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1892)地熱叢談(第1回).(地学雑誌)

 浅井の「地熱叢談」は第二回目以降は掲載されることはありませんでした.それは多分,就職してしまったからだと思われます.浅井がまた地学雑誌に投稿しだすのは,1908(明治41)年になってからで,その題は「有用鉱物の発見について」でした.

 浅井は,神保グループの中では,主に石狩国全体の概査を受け持っていました.
 この年からは,神保グループの三人は別々に調査を進めました.したがって,明治23年の報文は各人が独立して提出しています(この報文は道庁に提出されたものですが,現在その所在はわかりません).
 明治25年発行の「北海道地質報文(上)」には,各人が調査した地質図のリストがあがっています.これらの地質図の所在も不明ですが,各人がどのようなところを調査したのか具体的にわかります.

1889(明治22)年
  神保・石川・横山「北海道天塩川」
  神保・石川「北海道西部九葉」
  神保・横山「石狩川筋」
  石川「礼文島」
  石川「利尻島」
  横山「石狩国定山渓」
1890(明治23)年
  神保・横山「石狩国空知川」
  横山「十勝国十勝川」
  横山「十勝国ピリベツ」
  横山「根室・釧路間」
  石川「北見国ポロナイ川」
  石川「北見国モペツ川・渚滑川・ドコロ川」
  石川「択捉島」
  横山「色丹島」
1891(明治24)年
  神保「十勝国芽室川・ペルフネ川・広尾川」
  神保「日高国様似川・ポロマンベツ川」
  神保「日高国沙流川・胆振国鵡川」
  神保「石狩国石狩川水源地方」
  石川「北見国頓別・猿払・マシポポイ」
  石川「手塩国天売島・焼尻島」
  石川「手塩国宇園別・築別・古丹別・小平蕊」
  石川「石狩国モイ村コガネ川
  石川「渡島国大島・小島」
  石川「胆振国ポロベツ・シキウ・鷲別」
  横山「根室国離島全体」
  横山「十勝国十勝川水源その他」
  横山「奥尻島」
  横山「後志国泊川・チバシリ川」
1890・1891(明治23・24)年
  浅井「石狩国上川郡雨竜川・夕張川」

 リストを見ればお判りのように,石川と横山は(職制上はともかくとして)神保とは対等の研究者であって助手なんかではないことは明らかです.
 また神保は,このリストに続いてその年までの出版物のリストも掲載しています.

  北海道地質略論(明治23年5月出版,神保小虎)
  北海道地質略図(明治23年5月出版,神保小虎)
  同説明書(英文;明治23年5月出版,神保小虎)
  北海道火山并に火山岩播布の図(明治24年2月,神保小虎)
  北海道地勢并に鉱産の図(明治24年3月,阿曽沼次郎輯)
  北海道地質図(明治24年3月出版,神保小虎)

 これらは所在不明なものもありますが,「北海道地質略図」(明治23年)と「北海道地質図」(明治24年)は北大・北方資料データーベースで公開されており,見ることが可能です.「北海道地質略図」(明治23年)は,神保一人の業績とするのはおかしいのですが,署名は「神保小虎」のみになっています.神保が嫌ったライマンは助手の地質測量生徒のみならず,コーディネーターの秋山美丸の名まで明記したのとは対照的と言えるでしょう.
 ただし,明治24年の方は,調査員として小さく石川・横山・浅井の名が入っています.


 

2008年11月26日水曜日

石川貞治・横山壮次郎の地質学(5)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

北海道庁第二部地理課
 1888(明治21)年,北海道庁は「北海道新地質調査」の実施を決定.前年帝国大学を卒業した神保小虎を北海道庁技師としました.蛇足ながら,この頃には,大学は東京大学しか存在せず,帝国大学といえば,東京帝国大学のことです.神保は新しい調査チームを結成.このときに札幌農学校を卒業したばかりの石川貞治が助手となります.

 石川が道庁にいったとき,そこには山内徳三郎・桑田知明・坂市太郎・前田清明・西山正吾がいました.覚えているでしょうか? 彼らはライマン調査隊の元メンバーでした.一度は本州に渡ったライマン調査隊のメンバーの多数が,また北海道に集結していたのです.全員ではないにしても.


●北海道鉱床調査報文

 1882(明治15)年に開拓使が廃止されたとき,鉱業に関する事業はすべて工部省に移管されました.そのため北海道における地下資源開発調査は中断していたわけです.
 1886(明治19)年に北海道庁が設置されたとき,長官・岩村通俊は再び全道の地質鉱床調査事業を企画しました(この企画には正式な名称がついていなかったらしく,記事によって呼び方がバラバラです).それはライマン調査隊のリーダーだった山内徳三郎を主任とし,大島六郎・桑田知明らを助手としました.また,一方で空知煤田(炭田)の調査も計画され,こちらは大日向一輔・米倉清族・前田精明らが調査を行っていました.
 1887(明治20)年には,空知煤田調査を地質鉱物調査事業に併合し,それまで地質調査所にいた技師・西山正吾を加えます.
 ところが翌1888(明治21)年,地質鉱物調査主任だった山内は,なぜか林務に配置換え.理学士・河野鯱雄が主任になります.そして,坂市太郎・神保小虎・加藤清のほか,この年札幌農学校を卒業した石川貞治が加わります.記事によってはこの年,“神保が主任になり,山内は道庁第二部地理課長を辞職した”とされているものもあります.なにがあったのかはわかりませんが,1890(明治23)年3月の「坂-神保論争」の火種は,もしかしたらこのときに蒔かれていたのかもしれません.
 なお,坂の夕張炭田の発見は1888(明治21)年のことでした.
 これらの調査の結果は,1891(明治24)年になって「北海道鉱床調査報文」として道庁第二部地理課から出版されます.非常に妙なことですが,著者・編集者として名前がでてくるのは西山正吾のみ.西山は報文を書き上げたあと,農商務省に転出しています.

 わからないことばかりですが,以下に,いくつかのヒントになりそうなことを記録しておきます.

【目次から】
 「北海道鉱床調査報文」には,まずは「地形」の概説から始まり,気候や人口,物産のほか道路や鉄道,水路灯台にまで言及します.これはまだ北海道に関する情報の少なかった時代なので,やむを得ないところがあるでしょう.
 オヤッと思うのが次の章の「地質と鉱床との関係」です.
 西山はライマンの地質系統ではなく,神保小虎が1889(明治22)年に出した「北海道地質略論」に掲げた地質系統を採用しているのです.これが多分,西山以外の著者名が消えている原因でしょう.特に,坂などは我慢がならなかったと思われます.西山一人が泥をかぶって,脱稿し道庁を去ったのだとすれば,辻褄が合います.
 並行して,神保単著の北海道地質論がまとめられており,これは「北海道地質略論」(1889),「北海道地質報文」(1891)として出版されています.一方で神保を主任とする調査グループの「鉱物調査報文」(1894, 1896)がまとめられていますが,著者は石川貞治・横山壮次郎になっており,これには神保は編著者には入っていません.

 話を戻します.
 次の「鉱床」の章には,「石炭・「硫黄」・「石油」・「砂鉄」・「砂金」・「金属鉱山」のほか「褐炭」・「泥炭」・「石灰石」・「珪藻土」・「建築石」・「満俺黒鉛,石膏等」・「鉱泉」が詳述されています.石川・横山の報告書,神保の報告書の三者を比べれば,何かわかるような気がしますが,ちょっと読みこなす余裕がありません.またの機会に.

【付図から】

 北大北方資料データーベースには,この「北海道鉱床調査報文」の付図とされるものが残されています.この中のいくつかには「坂市太郎」・「桑田知明」・「西山正吾」の署名があります.公開されている図には,このほかにも署名があるようですが,画像の解像度が低くて残念ながら読めません.以下,付図の名前だけでも記しておきます.

 1. 亜細亜東部之図
 2. 北海道地質及鉱産図
 3. 石狩煤田全図
 4. 空知煤田地質測量図
 5. 夕張煤田シホルカベツ鉱区地質測量図 / 坂市太郎
 6. 夕張煤田久留喜鉱区地質略図 / 坂市太郎
 7. 留萌煤田略測図
 8. 宗谷煤田地質略図
 9. 古潭石油地地質略図
 10. 利別砂金地質略図
 11. 凾館四近灰石砂鉄地略図
 12. 恵山四近鉱産地地質略図
 13. 石狩国厚田郡古潭石油地地質略図 / 桑田知明
 14. 後志国瀬棚郡利別砂金地地質略図 / 西山正吾

石川貞治・横山壮次郎の地質学(4)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

「閑話」
 前に「ライマンの一目惚れ」という記事を書きましたが,このときのライマンの恋敵が「森有礼」という人物.森は若い頃に米国留学していて,米国風のスタイルを身につけ,男女平等論を日本に植え付けようとしました.とにかくカッコ良かったらしい.今でいう「イケメン」ね.米国留学を果した秀才で,仕立てのいい洋服がよく似合い,男女平等論をぶつ.「アラ・フォー」のおっさん・ライマンが勝てるわけがないです….
 そんなわけで,ライマンが惚れた女性と森は対等の立場で結婚します.
 ところが,この森という人物,相当いい加減なやつで,アメリカに居るときはアメリカ風,でも日本に帰ってくると日本風,に思想がかわってゆきます.明治も20年頃になると,「男女平等」ではなく「良妻賢母」教育に方針が変わります.身も蓋もない言い方をすれば「軍国の母」という言い方が一番よくあっているようです.森の変節とともに,それまでの妻では都合が悪くなったのか,離婚.以後,森家では前妻のことは「タブー」となったそうです.
 森は,1889(明治22)年2月11日にテロにあって翌日死亡.
 森がテロにあった日は,「大日本帝国憲法」の公布式典の当日でした.
 「大日本帝国憲法」は(ま,評価はいろいろあるでしょうけど)ドイツの憲法を手本にしたといわれています.アメリカ合衆国と国交を開くことで鎖国を解き,文明開化まっしぐらにやってきた日本,アメリカ式自由主義は明治初期には日本人のあこがれだったようです.しかし,明治も20年ほどたつと揺れ戻しが….日本の指導者たちは「ドイツ国家主義」が日本に合うと考え始めました.世の中はそういう風に流れていたらしい.
 そういう時代だったのですね.
 森の変節もその典型だったようですが,どうも,この典型が札幌農学校にも現れているようです.

 クラーク博士が始めたマサチューセッツ農科大学式全人教育が崩れ始めます.一般知識中心だった教科が専門色の濃い教科へ変わってゆきます.外国語は英語だけだったのがドイツ語中心へ.本科は農学科だけだったのが,「農学科と工学科」に増えます.実習コースである「農芸伝習科」も.さらに「兵学科」や「兵学別科」も.
 もちろん,息も絶え絶えだった「札幌農学校」を復活させた“佐藤昌介改革”のことを,こういう風にいうのは気が引けるのですが….

 クラーク博士の言葉「Boys, Be Ambitious」.クラークはこんなことはいわなかったという説もよく聞きます.「言った」か「言わなかった」かは,見送りにいって,その場にいた札幌農学校一期生しかわからないことなので,今更何をいっても水掛け論にしかならないのは明らかです.「個人より国家」を優先しようという時代には,クラークはそんなことはいわなかった方が都合がいいわけですね.だから,「言わなかった」説がでてくる.
 「言わなかった」と主張する人たちの大きな根拠になっているのが,クラーク博士が去ってしばらくの間はこの言葉が話題になっていないことがあげられています.明確に話題になったのは,札幌農学校創立15周年の記念式典での第一期生・大島正健の講演でのことといわれています.創立15周年記念式典は「北大百年史」には記録がありませんが,計算上は1891(明治24)年になります.「個人よりも国家」の風潮が進行しているこの時期,クラーク博士の精神を思い出せよと,その言葉が「象徴」として取り上げられたのも,理解できるような気がします.
 クラーク博士が死去したのが1886(明治19)年3月9日.すでに一つの時代が終わっていたのです.

 最近また,クラーク博士は「そんなことは言わなかった」説が流れているようですが,「個人より国家」の時代がまたくるのかと不安です.

石川貞治・横山壮次郎の地質学(3)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

横山壮次郎

●横山壮次郎の履歴
 横山壮次郎は1869年8月10日(明治2年7月3日)鹿児島に生まれました.
 横山壮次郎の「壮」は,旧字体で「横山壯次郎」と表されている場合もあります.まれに同一人物と思われるひとで「横山荘次郎」とされていることがありますが,これは誤植あるいは誤変換でしょう.
 1889(明治22)年に札幌農学校を卒業し,翌年,1890(明治23)年12月に「土壌学」の嘱託講師として札幌農学校に雇われています.そのとき,横山の本職は北海道庁の技手でした.札幌農学校はこのときすでに北海道庁の管轄下にありましたから,横山は兼任ということになります(北大百年史・通説,第3章の付表一,二).
 また,「同・通説,第3章の付表一」には,その後,
  92.2~94.9:助教授:道庁技手兼任
  94.9~95.2:助教授
  95.2~95.5:助教授:道庁技手兼任
 となっています.チョット意味不明なんですが,90.12~92.2は道庁技手が本職で農学校の(非常勤)講師,92.2~94.9は道庁技手が本職で農学校助教授を兼任し,94.9~95.2は農学校助教授が本職で道庁技手を兼任し,95.2~95.5は(元に戻って)道庁技手が本職で農学校助教授を兼任ということらしいです.職制としてはともかくとして,ただ複雑になるだけですし,助教授と技手を兼任していたことには違いないので,92.2~95.5:道庁技手で札幌農学校・助教授兼任ということで進めさせていただきます.

 したがって,以下のようになります.
1869年8月10日(明治2年7月3日):鹿児島県に生まれる.
1889(明治22)年7月:札幌農学校卒業
1890(明治23)年12月:札幌農学校卒業の嘱託講師(土壌学)となる.
1892(明治25)年2月:札幌農学校の兼任助教授となる
1895(明治28)年5月:札幌農学校の兼任助教授を離任する

●横山壮次郎の担当教科
 前述したように,横山の嘱託講師時代の担当は「土壌学」になっています.しかし,この時期,本科である「農学科」や「工学科」で「土壌学」という授業が行われた形跡はありません.そういう専修科目自体が見あたらないのです.並置されている実習コースである「農芸伝習科」(修業2年)では「土壌論」が行われていたようですから,横山は「農芸伝習科」で教えていたのかもしれません.

 湊正雄「北大における地質学と北海道」(北大百年史・通説,「北大100年の諸問題」)中に示された「表1.札幌農学校本科における地質学の授業」には横山壮次郎の名はありません.もちろん,みた範囲では工学科の授業でも横山の授業はありませんでしたので,横山はもっぱら「農芸伝習科」で「土壌学」の教鞭を執っていたと考えるべきなのでしょう.

●横山壮次郎の学歴
 横山壮次郎が札幌農学校に在学していたころは,不幸なことに学生のデータがほとんど残されていません.書いてあるのは鹿児島県出身で1889(明治22)年7月の卒業ということだけ.
 これではどうしようもないので,いくつか仮定を加えてみることにします.
 まずは,横山は健康で優秀な学生だったとします,そうすると,

  1年級:1885(M.18).09~1886(M.19).06.
  2年級:1886(M.19).09~1887(M.20).06.
  3年級:1887(M.20).09~1888(M.21).06.
  4年級:1888(M.21).09~1889(M.22).06.
だったことになります.

 この時期,「地質学」の授業は,通常第3年級の後期に行われることになっていました.したがって,横山は1888年の1月から行われる後期の授業で「地質学」を受けていたはずです.しかし,この時の「後期時間割」には「地質学」はなく,「春季休業後より『地質学及び金石学』を授業す」という但し書きありました.
 さらにしかし,ですが,これは実現しなかったようです.
 と,いうのは横山が四年生になった年の前期の授業時間割が残されていて,それには,月曜日の11:30から12:30まで「地質学」の授業をストックブリッジが行うことになっています.おかしなことに,この時期通常一週間に5回授業を行うのが普通ですが,なんと,このときはたった一週間に一回だけでした(もしかしたら,三年生の後期に一部授業が行われ,不足分を四年生の前期に補習したのかもしれませんが…ま,三年生から四年生への進級の判断ができなくなるので,これは難しいといえば難しいですがね).
 さらにもっと不思議なことに,この授業が行われている最中であるはずの11月1日に,突然時間割が改正されています.そして「地質学」の授業が忽然と姿を消すのです.それだけでなく,前年の1888(明治21)年の四年生後期の授業では,「獣医学」・「農学」・「農業経済及農業法律」・「土木工学」・「物理学」・「獣医学実験」など多彩な授業を展開していたのに,改正後には「獣医学」・「独逸語」・「物理学」しかありません.
 いったい何が起きたのでしょう.

 1889(明治22)年2月22日に出された「札幌農学校沿革略」によれば,
「明治21年10月,雇教師ストツクブリチ公用を帯び米国へ帰省せり.」
 !?ストックブリッジは日本に戻らぬままに,
「明治22年1月,曩に帰省せし雇教師ストツクブリチ,満期離任す.」

 付け加えておけば,「明治21年10月,雇教師ブルツクス,22年8月まで雇継の処,願に拠り本月20日限り解約離任」
 授業が進行している最中に,外人教師の一人が突然離任,もう一人の外人教師も故国へ帰ったまま離任.いったい何が!?

 これに呼応するように,1888(明治21)年10月,北海道庁技師試補の「吉井豊造」が嘱託講師となり,翌年9月に教授として雇傭されています.湊先生の表によれば,吉井は1889年から「地質学」を担当していることになっていますが,当然ストックブリッジがやり残した旧課程・第四年級の授業をやっていたとも考えられます.なお,吉井の専門は「化学」・「農芸化学」でした.
 この交代劇には,なにか意図的なものを感じさせます.この頃,外国語にドイツ語が取り入れられたり,米人教師を日本人に置き換える現象が見られます.明らかに当初のアメリカ・マサチューセッツの影響下からドイツの影響下への転換期にあたるようです.

 1889(明治22)年1月,後期授業が始まりますが,もちろん「地質学」の授業はありません.この年の旧課程最後の卒業生17名が農学校を旅立ちます.その一人が横山壮次郎でした.

石川貞治・横山壮次郎の地質学(2)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

石川貞治

●石川貞治の履歴
 石川貞治は1892(明治25)年1月に「地質学」の嘱託講師として札幌農学校に雇われます.本業は北海道庁の技手でした.同年2月には助教授になりますが,本職はやはり「北海道庁技手」でした.そして,1896(明治39)年6月まで助教授として在任していました(北大百年史・通説,第3章,付表一,二).
 同,付表一には,石川は1864.12.20生まれであることが示されています.つまり,元治元年十一月二十二日生まれということになります.
 もう一つ,「北大百年史・史料」の「明治25年」には,その年までの卒業生のリストが載せられており,ここから,石川は「明治21年7月」の卒業で,「岡山県」の出身であることがわかります.
 つまり,以下になります.
1864(元治元)年12月20日:岡山県に生まれる
1888(明治21)年7月:札幌農学校卒業
1892(明治25)年1月:札幌農学校の嘱託教師(地質学)となる
1892(明治25)年2月:札幌農学校の兼任助教授となる
1896(明治39)年6月:札幌農学校の兼任助教授を離任する

●石川貞治の学歴
 明確にわかることは上記のことぐらいで,あとはいくつかの仮定を積み重ねるしかありません.つまり,石川は健康で,非常に優秀な生徒だったと仮定します.そうすると,

  1884(M.17).09~1885(M.18).06.:第1年級
  1885(M.18).09~1886(M.19).06.:第2年級
  1886(M.19).09~1887(M.20).06.:第3年級
  1887(M.20).09~1888(M.21).06.:第4年級
 だったことになります.

 1884(明治17)年から1886(明治19)年にかけて,毎年のように校則の手直しがあったので,各学年で受けるべき授業名が記録されています.それによれば,
 1884(明治17)年:第三年級・後期「鉱物学及地質学(3/週)」
          第四年級・前期「地質学(3/週)」
 1885(明治18)年:第三年級・後期「地質学及金石学(5/週)」
 1886(明治19)年:第三年級・後期「地質学及金石学(5/週)」
 1887(明治20)年:第三年級・後期「地質学(5/週)」
 と,なりますが,これは「校則」上のことで,実際に行われた時間割が示されていた訳ではないので注意が必要です.以上の仮定を組み合わせると,石川は1886(明治19)年:第三年級・後期「地質学及金石学(5/週)」の授業を受けたことになります.
 このときの「地質学」類の授業を受け持っていたのは,ストックブリッジ(Horace E. Stockbridge)でした.「北大百年史・通説」表2-2によれば,ストックブリッジは米国籍(1857.5.19.生まれ)で雇用期間は1885.5.17~89.1.31,専門は「化学」と「地質学」になっています.
 学問が専門分化した現代ではストックブリッジの専門は不思議に思えますが,この時代では当たり前だったのでしょうか.いえいえ違います.もっと深いわけがあったのです.我が師,湊正雄先生が,この「北大百年史 通説」中の「北大百年の諸問題」で,「北大における地質学と北海道」として論じています.農学校の地質学は「土壌生成のメカニズム」を理解するために設けられていたのです.ストックブリッジの専門といえるのは実は化学であり,したがって,この「地質学」のメイン・パートは「岩石の風化から始まる土壌形成」だったと思われます.しかし,ストックブリッジの「博物学的知識」は相当なものだったようで,着任早々の夏休みに四年生を連れて「地質実習旅行」に出かけています.行く先はポロナイまで.幌内付近の地質現象の観察のみならず,多数の動植物の標本も収集したようです.ストックブリッジの先代にあたるペンハロー(David P. Penhallow)も同様の学問を修めた人でした.
 これはマサチューセッツ農科大学出身者の共通の性格のようで,極端な専門家を目指しているというよりは,広く一般教養を身につけているのを理想としているようです.
 思い出してください.
 遠く日本の,そのまた辺境の蝦夷地までやってきて札幌農学校の精神的基礎を作ったクラーク博士(Dr. William S. Clark)は現職のマサチューセッツ農科大学の学長でした.クラーク博士はドイツのゲッチンゲン大学で地質学を学び,隕石の研究で学位を取ったとされています.その上で植物学を志し,そして農業の専門家でもありました.
 なんで,こんなに強調するかはあとでわかります.

 蛇足しておきます.
 石川貞治は札幌農学校本科に入る前は,予科(予備科と表現される場合もある)で学んだ可能性があります.学生の数が少ない場合は外部から募集していますが,原則予科から本科に入るのが普通とされているからです.ところが,予科の学生のレベルが低く,本科に進級できる学生は非常に少なかったといわれています.たとえば,1881(明治14)年までは修業年限が三年だったのに,あまりに進学率が悪いため修業年限が四年に延長されています.
 こういう事実を考慮すると,石川が予科出身だったことは考えにくいのですが….え?,何にこだわっているのかって,ですか?.
 札幌農学校予科では,当初は「読み書き算盤」的な基礎的教科ばかりだったのですが,明治14年から予科第一級で,後期に「地文学」が授業科目として取り入れられました(後期ですから,実際に行われたとすれば,明治15年の1月からになります).「地文学」とは聞きなれない学問ですが,現代の高校地学に博物学的植物学・動物学を含めたものと考えるといいでしょうか.そうすると,基礎レベルの博物学的地質学は,ここで学んでいることになります.
 悲しいかな,実際に行われた授業時間割や担当教官の名は示されていないので,最悪の場合は本当に授業があったのかなんてことまで,疑おうと思えば疑えますが,行われたという前提で進めることにしましょう.そうすると,石川が受けたであろう1884(明治17)年の入学試験では,当然「地文学≒博物学」的知識が要求されていたと考えられます.したがって,石川にはすでに,相当の素養があったと考えられるわけです.

●その後
 石川貞治は1888(明治21)年6月に札幌農学校農学科を卒業したことはわかりましたが,また悲しいかな,この次期の卒業生そのものの情報は「北大百年史」には示されていず,卒業後どうなったかはわかりません.
 これで終わり? いいえ,そうではありません.
 翌1889(明治22)年,現在でも発刊され続けている「地学雑誌」が創刊され,その第一集(現代的には第一巻のこと)に石川が華々しくデビューします.そのときの肩書きは「北海道庁地質調査員」でした.

 さて,石川がどのような「地質学」を行っていたかをこれから紹介してゆきたいと思いますが,その前にもう一人の人物をさぐってみます.その人は石川の一年後輩にあたる横山壮次郎です.

石川貞治・横山壮次郎の地質学(1)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

はじめに

 ここ何ヶ月か「札幌農学校の地質学」についてまとめようと努力してきました.一つにはまとまりそうもないことと,「開拓使仮学校の地質学」,「地質測量生徒の地質学」が分けられそうなので,先にまとめておきました.これはすでに公開してますね.
 で,引き続き,「札幌農学校の地質学」について資料を読み込んでいたんですが,これは,なかなか困難な作業であることがわかりました.

 原因は,「北大百年史」です.

 「北大百年史」には,「通説」もあるし「史料」もあるので,読めばわかると思っていたのですが,なかなか.
 「史料」は不完全であるとしか言いようがありません.例えば,最初のころは入学生や卒業生は総数や個人の名前も示されていますが,後に行くほど不完全になり,名前どころか,卒業生徒数や入学生徒数すら記述されていないことが多くなります(初期の札幌の農学校は四年に一度程度,新入生募集が停止されていますので,注意していないと年代をまちがえることがあります).
 実際に行われた授業についても,初期はともかく後期になればなるほど,時間割や授業担当者の名前も記述されないことが多くなります.また,示されている限りのことをピックアップしても,「史料」に示されていること,「通説」で解説されていること,あるいは各論=「北大100年の諸問題」などで示されていること,その「付表」で示されていることなど,矛盾することも少なくありません.
 考えにくいことですが,「史料」以外になにか別の史料があるのかもしれません.が,それらは示されていません.「史料」に何かのバイアスがかかっているのだとしたら,何のための史料なのかな? と思わせますが,何か,わかられてしまっては困ることもあるのかもしれませんね.

 正直なところ,札幌農学校史を何か一つのテーマで通してみるなんてことは,手のつけようがないと感じているのですが,そこはそれ,もう少し頑張ってみることとして,一つの話題を先にまとめておこうと思います.
 それは,札幌農学校を卒業して,現場の技術者として北海道庁に入り,のちに札幌農学校で教鞭を執るようになった人たちのことです.

2008年11月1日土曜日

白野夏雲

 
 白野夏雲の名を私に教えてくれたのは,ある友人です.レゴ人形を巧みにつかって地質学の普及をしている人です.

 話の発端は,ライマンの開拓峠越えの件で"chat"中のことです.
 「道北の自然を歩く」(北大図書刊行会)には「突哨山の石灰岩は、1873年にライマンが発見したと伝えられている」と書かれていますが,「旭川市史」には「白野夏雲が二十二年,…東鷹栖のトッショ(突哨)山,俗にいう石灰山を発見…」と書かれていることを指摘してくれたのです.

 彼女の指摘は正しく,1873年のライマン調査隊は道南部しか調査していません.北海道における第一回目の調査でした.翌年は,石狩川を遡って上川盆地を通過し,開拓峠を越して十勝平野にでる大調査旅行を敢行しますが,上川盆地では「『チユーベツ』の小石は、全く熱変石と火山石との二種より成りしものの如く、石炭 石灰石及び『セルペンタイン』等は、片塊だもあることなし。且、露営を占めたる河岸の小石も亦同質なり。」と記しています.
 ライマンは突哨山の石灰岩は見ていないのですね.石狩川を遡ると,比布川との合流点付近を通ると,突哨山の露頭はよく見えるのですがね.ちなみに,アイヌの昔話では,ここに「アフン・ル・ハル(あの世への入り口)」があったとされており,鍾乳洞の開口部があったことが想像されます.鍾乳洞自体は昭和前〜中期の採掘ですでに無くなっています.

 さて,私の調査行(古書・文献漁り)でも白野夏雲の名前は何回か出てきているはずですが,迂闊なことに,これまでは全く白野夏雲に興味を持っていませんでした.すでに持っていた佐藤博之(1983)「先人を偲ぶ(1)」(地質ニュース)には,白野夏雲のとんでもない人生の一部が記されていました.


 友人に教えてもらった白野仁(1984)「白野夏雲」(北海道出版企画センター)はすでに絶版状態にあるので,古書店からようやく入手.厚さ3cmもある大著でした.
 しかし,読んで見ると悲しいかな,夏雲のことは良く分かりませんでした.
 著者は,北海道放送株式会社の社員で,報道を専門にしていたそうです.本人は夏雲の曾孫にあたります.伝記というのは身内が書くと,どうも判りづらくなる傾向があるようですね.著者が伝記の主人公をあまりにも好きな場合も同様のことが起ります.
 前者の場合は,読者にとっては判らないことでも,身内にとって当たり前のことなら省略されてしまって,読者は良く判らないまま読み進めなければならなくなり,途中で興味を失ってしまうということがよくあります.
 後者の場合は,「贔屓の引きたおし」みたいなことが起きて,記述が不正確になることがあるわけです.どちらの場合も,不要なことまで書き込みすぎて,読者には「なんだか良く判らん」となってしまいます.

 夏雲は若い頃から石好きだったという記述が後半になってから出てきますが,「生い立ち」の所ではそんなエピソードは一つも出てきません.「本草学」を誰かに習ったなどという話も….
 また,途中から「地質学」・「鉱物学」の先駆者だということになってしまいますが,そういうエピソードもどこにもありません.

 強いていえば,夏雲が集めた岩石鉱物の類を息子(次男)の己巳郎がまとめて「金石小解」として出版しますが,どうもこれをもって地質学・鉱物学に詳しいということにしているようですね.
 この「金石小解」は一般の図書館ではダナ氏の「マニユル・ヲブ・ミネラロジー」の訳本だということになっている場合が多いようです.幸い,国立国会図書館のデジタル・ライブラリーで公開されているので,明治12年版,明治15年版および明治17年版を見ることができます.
 読んで見ると判りますが,これはそんなものではありません.夏雲が収集していた2〜3千余の標本のうち,息子の己巳郎が鑑定し,典型的と思われるものを選んで,その説明をダナ氏のマニュアル・オブ・ミネラロジーから和訳してつけたというしろもんです.
 標本ではなく名前だけを抽出したもので,本文では夏雲の標本と対照すらしてませんから,実際には夏雲の標本は存在していなくてもよかったわけです.勿論,背景には夏雲が収集した標本がありますから,少なくとも「日本で産出した」岩石・鉱物を抽出しているということにはなります.

 具体的にあるのは,名前と短い解説だけ.いってみれば,平賀國倫源内の「物類品隲」にそっくりです.「物類品隲」には産地が書いてあるからまだいいので,「金石小解」は辞典ないしは単語帳といったところです.
 要するに,江戸時代の「本草学」から,一歩も出ていないわけです.
 夏雲自身はこれを良く判っていたと見え,明治17年版「金石小解」では,大幅に改定を加え,中身を教科書風に整えています.

 「白野夏雲」の著者・白野仁は,夏雲がつかった(標本の単なる集合名である)「金石」という言葉を曲解して,「金石学」とし,この「金石小解」を金石学の教科書であるかのように扱いました.そうすると(仁の説明によると)「簡単にいえば,金属器や石器に刻まれた文字を研究する学問だが,当時は,今の鉱物学も含まれ金属鉱石学といった幅広い分野にわたっていた」となり,夏雲=鉱物学者あるいは地質学者になってしまったわけです.
 仁には,本草学と近代(-現代)鉱物学・地質学・鉱床学などの区別はついてませんので,意図的なのではなく,単なる勘違いなのかも知れません.

 それにしても,当時の地質調査所の展示室は夏雲の集めた標本がほとんどだった(佐藤博之,1983)というから,優秀な本草学者であったことは間違いないようです.


 え〜.ずいぶん,文句を付けてしまいましたが,知りたいことのいくつかは,見つけることができました.
 確かに,「此石灰石は北海道石狩国上川郡忠別村字突所に於て,明治22年,予の発見する所なり」と「発見人,白野夏雲記す」とあります.翌23年9月には,「払下げ願い」をしたその書類が白野家には残っているそうです.なお,白野仁著「白野夏雲」には「明治32年」と一部誤植がありますので,注意してください.
 なお,この「払下げ願い」の書類は,昭和12年に旭川中学(現在の旭川東高)教諭の村上久吉氏が「高畑家」資料から発見したものなんだそうです.「高畑家資料」というのは説明がありませんが,多分,高畑利宜のことだと思います. 

 なお,某友人は突哨山の露頭前に立ち,“どうしてこんな歴史的なことが放置されているのだろう”,“せめて看板でも立ててあればよいのに”と,思ったそうです.旭川市は自然科学を含めて,文化・歴史的なものの扱いには首を傾げることが多く,私は何も感じませんでしたが….
 そういえば,某学校の先生が,この露頭で化石の様なものを発見して旭川の博物館に寄贈したが何の音沙汰もないと言っていたのを思い出しました.

 もう一つ付け加えておきましょう.
 うちの近所の嵐山には「近文山国見の碑」というのがあります.これは,明治18年8月27日に岩村通俊・永山武四郎らが石狩川上流の調査にやってきて,近文山に登り上川盆地を見渡して,“札幌以北の置くべき都はここ”ということで開発を決意したと伝えられています.翌19年に部下に命じて「国見の碑」をつくらせ,近文山に設置したのでした.この部下というのが,白野夏雲その人でした.

 私が,生まれ故郷の旭川に戻って暫くしてから,体力をつけるためと付近の旧跡調べのために,マウンテンバイクでこのあたりを走りました.その時,この国見の碑までいったのですが,現地で物凄い違和感を覚えたのを覚えています.その時はなんだか判らなかったのですが,今は良く判ります.
 くだらないことですが,「国見の碑」からは,上川盆地は見えないのです.
 その時は,碑の周りに林が茂っているので見えないのだろうと漠然と思っていましたが,地形図を見ると嵐山展望台からつづく尾根が邪魔をして上川盆地方面は見えません.その尾根は「国見の碑」よりも高いのです.そこから見えるのは,かろうじて南側のみ.東海大学・旭川校の下流側,神居町忠和と呼ばれるごく狭い範囲だけ.なにか,間違いが忍び込んでいるのでしょうね.


 さて,波瀾万丈の人生を送った白野夏雲ですが,複雑すぎて私にはまとめられませんので省略します.1890(明治23)年,その時勤めていた北海道庁を辞め,札幌神社の宮司になります.札幌神社とは現在の北海道神宮のことです.開拓使で物産調査をやり,地質調査所でも土石類調査をやり,道庁でも技術者として働いていた.それが故に地質学・鉱物学の専門家と勘違いされた白野夏雲が,…です.
 現代的な感覚では,なぜ科学者が宗教に…?と,疑問に思うことでしょう.
 私もそう思っていました.

 それは,森本貞子の二冊の小説を読んでいるうちに理解できました.二冊の小説には共通の人物=森有礼が出てきます.森は,軽薄この上ない人物で,アメリカ留学中は男女平等に目覚め,帰国してしばらくはその政策を推し進めますが,日本で暮らすうちに女性は良妻賢母=軍国の母でなければならないと考えるようになります.
 時代もそうで,幕末から明治維新にかけて,日本国民は欧米の文化に憧れますが,明治二十年代に入ると,逆に欧米を敵視するようになってゆきます.江戸時代まで,住民は宗門改で,みなお寺に人別帳がありました.つまりお寺が住民を管理していたわけですが,1873(明治6)年に廃止され,廃仏毀釈が始まります.逆に勢力を強めていったのが,明治政府が神社神道と皇室神道を結びつけて創造した国家神道でした.

 白野夏雲は,自分の能力の限界に気づいていたのでしょう.資源開発は,本草学ではもう無理で,近代地質学が必要なことを.そして,彼が国に尽くす方法は,科学ではなく,宗教なのだと考えたのでしょう.