2012年8月30日木曜日

アイヌ伝説と蓬莱山

三石の焼串岩

日高線三石駅のところを流れる三石川の二㌔ほど上流に,イマニッという十㍍ほどの岩がたっているが,イマニッとは焼串のことをいうので,昔この附近の人々が魚を焼いて食うことを知らなかったので,この浜に鯨が寄ったのをオキクルミが切って,それを蓬の串に刺して焼き,人々に魚を焼いて食うことを知らせ,それをいつまでも忘れないようにするため,その串を岩にしてここへ残したのであるという.
そしてその岩は段々と大きくなっていったが,ある時この岩の下を不浄な女が通ったので,岩の中ほどから折れて,先の方は川の向うに飛んで行ってしまったという.なおこの岩の上には三石山にある草木が全部あるとも言われ,昔からアイヌ達が神を祭るときには,この岩にも木幣をあげることになっている.
(松浦武四郎「東蝦夷日誌」三.永田方正「蝦夷語地名解」.中田千畝「アイヌ神話」)

国造神が鯨をとって焼串をつくり,それに鯨をさして三石川の傍で焚火をして焼きながら居眠りをしていると,串の根元がこげて折れ,ドタリと川向に倒れたので,国造神がびっくりして尻餅をついた.そのあとを尻餅沢といって川向いにあり,折れた焼串が岩になったのが今の蓬莱岩である.
(三石町幌毛・幌村トンパク老伝)

昔はあの岩の下に祭壇をつくって春と秋とに祭をしたものだ.岩の上には沼があってヤマベやウグイなどがいたし,ここには北海道中の植物があるということだ.
(三石町・幌村運蔵老伝)

昔,三人兄弟の悪い神が焼串岩の上にいて,時々部落を荒しに来るので,よい神様が怒って岩を取囲んで攻めたので,たたらなくなった三人は岩の上から跳ねおりたが,兄の二人は岩にぶつかって死んでしまったが,一番の弟がうまく川の水の中に飛びおりて助かり,川上に逃げたので追って行くと,途中で魚を焼いて食った跡があるので調べてみると,その中が毒のある木でつくられていたので,
「こんなもので魚を焼いて食っているような奴は,追っかけるのもけがらわしい」
といって戻って来たが,この焼串も岩になったということだ.
(三一石町幌毛・幌村トンパク老伝)

三石の焼串岩は,文化神オキクルミが鯨を刺して焼いて食ったときの串だ,串はヨモギだった.
(門別町受乞・葛野藤一老伝)

鯨をやいて食っていたのは国造神で,この神は海に入っても膝小僧の濡れないほど大きかったが,支笏湖と石狩の海は深くてキンタマ濡らしたそうだ,川とか沢はこの神様の指先の跡だ.三石の串が折れてびっくりして尻餅ついた跡が静内のトープッ(沼口)だということだ.
(門別町富川・鍋沢モトアンレク翁伝)


伝説で「焼串岩」と呼ばれているものは,現在は「三石蓬莱山」と呼ばれている小山(?岩)のことです.

この山は「北海道地質百選」にも選ばれています.

この三石蓬莱山を中心に北西-南東方向に伸びる山稜があり,ピークは「社万部山」・「軍艦山」などの山名がつけられています.この山稜は,構造地質学的には「蓬莱山地塁帯」(和田信彦ほか,1992)と呼ばれ,岩石学的には「神居古潭帯・三石岩体」(和田信彦ほか,1992)とも呼ばれています.古くは「蓬莱山変質岩体」(石橋正夫,1939)と呼ばれていました.

このあたりでは変わった岩石が採集できるので,私も幾度となく遊びに行ったものです.最初にいったのは,大学三年目の夏.当時は道東巡検というものが教室行事としておこなわれていて,この付近の地質の説明を担当したのが,私でした.
当時,卒論生だったKさんに,石橋さんの論文の存在を教えていただきました.

最後にいったときには,以前は歩けた林道がまるでわからなくなっており,車道の道ばたに落ちていた陽起石(アクチノ閃石)の塊をひろってむなしく引き上げた思い出があります.


なお,「北海道地質百選」の「三石蓬莱山の角閃岩」を担当した川村さんは「この部分が自然地形なのか開鑿されたものかは不明」としていますが,永田方正の「蝦夷語地名解」は1891(明治24)年に出版されたものであり,その時に「岩」と表現されていますから,あとから周囲の道を広げた可能性はあるものの,岩自体の形は自然に近いものと思われます.

アイヌたちが,岩石学的な重要性に気付いていたとは思われませんが,奇妙な石が落ちていることや蓬莱山そのものの形に興味を引かれた結果できあがった伝説なのだろうという気がします.
 

2012年8月21日火曜日

ひさびさの面白い本

 
偶然ですが,面白い本を見つけました.
それは,松村昭著「いしかりがわ」です.

   


こういう鳥瞰図というか,一目瞭然図って好きだなあ.地質屋の性かしら.
一目で全体像がわかる.

細かいところでは,いくつか残念なところがありますけど,まあ,そういう重箱の隅をつつくようなことはやめて,石狩川の旅を楽しみましょう.
 

2012年8月19日日曜日

アイヌ伝説と宝玉

染退川の鐘乳石

染退川の支流メナシュベツが更にペンペツとパンペツとに分れる近くにポルウシュナイという小川がある.鉱坑のある沢で,ポルとは洞窟のことで,洞窟のある沢というのである.
昔,この土地にいた神様が,或る日のこと何ということなしに足もとの土を蹴ったところ,土の中から白く輝く宝物が出てきたので,さっそくそれを天上の神様のところへ差上げたところ,天上の神様は大変それを喜ばれて,宝物を発見した神様に地中の宝玉を司ることを命じられたという.初めて地中の宝玉を発見した土地というここには,川の中に石英の鐘乳石がある.
(永田方正「蝦夷語地名解」.中田千畝「アイヌ神話」)


「染退川(しべちゃりがわ)」は現在の「静内川」のこと.
「染退」のもとはアイヌ語ですが,すでに原語が失われていて,語源には多数の説があります.

メナシュベツ・ペンペツ・パンペツもすでに該当する沢名が残されていません.

メナシュベツについては,静内川上流部の高見湖の直下に「目梨別橋」という橋があり,この付近にあった川なのかと思わせますが,染退川上流部を「メナシュベツ(メナシベツ)」というという説もあり,よくわかりません.
蛇足しておけば,「メナシ(manasi)」は「東」のことで,確かに,この付近では東から流れています.

これが正しいとすれば,「ペンペツ」は高見湖中央から分岐する「ペンケベツ沢」のことで,「パンペツ」は高見湖から北へ分かれる「パンケベツ沢」のことなのかと思わせます.
そうすると,「ポルウシュナイ」はこの付近の沢ということに.

さて,染退川上流の本流筋にはいくつかの鉱山が知られています.
有名なのはペラリ山周辺の蛇紋岩帯に胚胎するクロム鉱床で「静内クロム鉱山」と呼ばれていました.また,このそばの本流には石綿鉱床の「農屋鉱山」もありました.
もう一つ,高見湖のはるか上流に静内鉱山と呼ばれるアンチモニー鉱床があったらしいのですが,こちらは位置がはっきりしません(五万分の一地質図幅「農屋」には,図幅の東端とあります:地質図そのものを所持していないので確認できない).

ところが,高見湖附近には鉱山の記録はありません.

結論として,染退川上流部には確かに鉱山があったのですが,伝説にいう地域とは微妙に一致していません.
また,いずれの鉱山も昭和の中ごろの操業ですから,この伝説が採録された永田方正の時代とは整合しません.そうすると,江戸時代から明治の初期にかけてのいずれかの時期に坑道を掘って何らかの鉱石を採掘していた可能性があることになりますが,上記の鉱床では,当時としてはあまりにも魅力に乏しい.


なにかが違う.
そこで,最後の行に注目してみます.「川の中に石英の鐘乳石がある」という言葉.これは,地質学的には字義通り受けとると「ナンセンス」のひと言です.
石英はSiO2が成分であり,鍾乳石は(通常)CaCO3の層状成長したものだからです.

もう少し柔軟に考えてみます.
これは“白い宝玉”だったわけです.何かそれに該当する可能性のあるものは無いかと地質図幅説明書(松下・鈴木, 1962)を読んでいたら,興味深い記述を見つけました.
先ほどの「ペラリ山周辺の蛇紋岩は,…『優白岩』によって貫かれている」とあります.続けて「この接触部では,優白岩によって接触変質を受け,…ひじょうに硬質になっている.…(中略)直閃石の放射状集合から成り立っている球顆が,多数みとめられる」とあります.
この“球顆”の大きさの記述はありません.
付図の球顆は顕微鏡レベルの大きさですが,もし眼に見えるような大きさものがあったなら,アイヌにとっては宝玉にも等しいものとして扱われたかもしれません.

これが,もしかしたら「伝説の正体」だったのかもしれませんね.


蛇足しておきます.
染退川下流部には砂金鉱床がありました.
シャクシャイン蜂起」に関する記述を読んでいると,多数の和人の砂金掘りがアイヌ居住地に入りこんでいたことがわかります.しかし,それと対照的に,アイヌには「金」にまつわる伝説は見あたりません.アイヌは,金には興味が無かったようです.
歴史の本を読んでいると,アイヌ蜂起は和人とアイヌの「金争い」に原因があったかのような記述をみることがありますが,「砂金伝説」がないことから,これは和人側の都合にたった小規模な歴史の捏造と判断するべきでしょう.
軋轢は,砂金そのものでは無く,砂金掘りによって荒らされた河床にあると思われます.そこは,アイヌにとっては「神の魚(カムイチェプ)」が遡上する場所だったからでしょう.
 

2012年8月13日月曜日

アイヌ伝説と石炭

十勝の川々


十勝の平原を流れている川に男と女とがある.太陽の出る方向から流れて来るのは男の川で,音更川やトミサンペツはそれであり,札内川など西からくる川は女の川である.十勝川の水源には,十勝川を監視しているシーペッヘニウンカムイシセという神様がいて,男の川には山にある宝物を送ってよこすので,音更川の奥から石炭とか硫黄とかがでるのだ.

(音更町・細田カタレ姥伝)


音更川は,石狩岳の隣峰音更山を水源とし,上士幌町-士幌町-音更町を通って,帯広市街で十勝川と合流する川.
一方,「トミサンペツ」は,悲しいかな,現在は地名が残っていません.

音更川は北から南へ流れているので「太陽の出る方向」というのはしっくりきません.
一方,札内川は確かに,西から流れています.
だから,伝説の前半は「?」です.「男の川」・「女の川」の意味も不明.
十勝川の水源にいる神様が音更川の奥に「山にある宝物を送ってよこす」というのも,意味が分かりません.

この伝説で唯一意味が通るのは,「音更川の奥から石炭とか硫黄とかがでる」ということ.

しかし,石炭はこの流域には見あたりません.可能性があるのは第四系「池田層」に夾在する亜炭層.もちろん,炭鉱としては成立していませんが,品質のよいところから採取して暖をとるぐらいは可能かもしれません.

もっと,困ったのが「硫黄」のこと.
硫黄鉱山や鉱床があったという記録は見いだせません.
可能性があるのは,隣の美里別川上流にある「芽登温泉」が硫黄泉だということで,これと間違えているか,あるいは尾根一つの違いですから,小規模の硫黄の気があった可能性はあります.

音別の炭川


釧路音別町の尺別川の隣りに、パシウシュベという小川がある.昔この附近の海上で,鯨と海馬とが争いを起し,鯨の方が負けそうになったので,この小川へ逃げ込んでしゃにむに川上へ向って泳ぎ上り,どうやら海馬からの難をのがれることが出来たが,さて海に戻ろうとしたが,あまり勢いよく突込んだ為,体を廻すことも後戻りすることもできなくなって,そのまま川をうずめてしまった為に,川は炭のように真黒くなってしまったという.ハシとは木炭のことでウシュは沢山あるところ,ベはものという意で,炭の沢山ある川ということである.

(中田千畝「アイヌ神話」)


「音別の炭川」については,「アイヌ伝説と化石」でも紹介しましたが,これは「釧路炭田」の一部を示しているものと思われます.でも,前述したとおり,釧路炭田の詳細な地質図を所持していませんので,検討不可能.
探索はまだまだ続く….
 

2012年8月12日日曜日

アイヌ伝説と鉄鉱床

大岸の金敷岩

室蘭本線大岸駅の近くオプケシ川の川口に,鍛治屋の金敷のような岩かある.
この岩は附近の人々の崇拝しおそれていた岩で,昔本州から一人の旅人が来て,この川の奥から鉄鉱をとって来て,この岩を金敷にして刃物をつくっていた.ところがこの旅人というのが実は疱瘡の神で,アイヌに疱瘡を流行させる為に来たのであった.その為たちまち部落には疱瘡が蔓延し,ここにあった大きな部落がすっかり死絶えてしまったという.
(鵡川町・山下玉一郎氏輯)

不思議な話です.

まずいくつか説明を加えておかなければなりません.
第一に,「大岸」というのは由緒のある地名ではなく,もとは「小鉾岸」とかいて「おふけし」と読んでいたそうです.この名は,そこを流れる川の名前に残っています.
もともとは,もちろんアイヌ語なのですが,これにはいくつか説があります.
更科源蔵編著「アイヌ語地名解」では「オ・ケシ」=「鉾の石突き」説と,永田方正「蝦夷語地名解」の「オプ・ケスペ・シレト」=「鉾の石突きに似た岩のある岬」説を紹介し,「他の説もあって問題の多い地名」としています.

前説では「川尻のところが鉾の石突きのところのように,二股になっている」という説明が加えられていますが,「鉾の石突き」なるものがどのような形をしているのか現代人にはイメージ不能です.「鉾の石突き」がすべて「二股になっている」のかどうかは判りませんが,とりあえず「二股になっている」のだと考えておきましょう.
現在の「小鉾岸川」の河口は二股にはなっていませんので,なんですが,二股になってるだけで「鉾の石突き」を連想するものでしょうかね.

後説では,“小鉾岸”は「鉾の石突きに似た岩のある岬」ですから,現在も残る岬(国土地理院の地形図では無名)のことかと思われます.
そうすると,伝説の「岩」は「岬の岩」なのかもしれません.
現地に行けば解決するかもしれないですけどね.

さて,当初この伝説を見つけたときには,噴火湾沿いにしばしば存在する「砂鉄鉱床」のことを示しているのかと思いましたが,旧地質調査所や旧道立地下資源調査所の鉱床図には,それに該当する鉱山・鉱床はありません.
「川の奥から鉄鉱をとって来て」とありますので,川の上流部に鉄鉱床があるのかと思いましたが,これも該当するものがありません.
この川の奥には,金銀鉱床ならあるのですけれどね.

ということで,地質学的にはまるで説明が付きません.
もしかしたら,「地名」が間違って伝わっていて,別な場所のことなのかもしれないですね.

蛇足しておくと,この物語の後半部は,当時は渡り歩く冶金職人もしくは刀鍛冶・野鍛冶(正確にはなんと表現していいのか分からない)がいたことを示しているのだとおもいます.「当時」というのがいつのことかは判りませんけどね.
コシャマイン蜂起の原因は,志濃里の鍛冶とアイヌの青年とのいざこざから始まっていますから,アイヌ居住地を旅する“渡り鍛冶”は相当数いたことを示しているのでしょう.

さらに蛇足しておくと,この野鍛冶は「(実は)疱瘡神であった」とされていることについてです.
アイヌは,こういった病気に免疫がなく,感染した和人がアイヌのコロニーに入りこめば,あっという間に伝染病が蔓延し,一つの部落が全滅などということはしばしばあったということです.
つまり,この伝説は,和人=「危険な病気を持ち込む連中」ということについての警告となっているわけですね.

しかし,鉄鉱石との関係は,謎のままです.
探索は続きます….

2012年8月9日木曜日

自然と仲良く


仕事(金にならないから,仕事じゃないかな?)に疲れたら,目を休めるために庭いじり.
あまり手をかけていない庭には,雑草や虫がいっぱい.

さりとて,雑草抜きや虫殺しにも疲れたので,何とかならないかと思っていたら,面白い本にであいました.
曳地トシさん,曳地義治さん夫妻の「雑草と楽しむ庭づくり」と「虫といっしょに庭づくり」.
バーサスするのではなく,相手を知っておつきあいする方法ね((^^)).

      


ヒマがあったら読んでます.
しかし,この境地に達するのには時間がかかりそう.

一抹の不安が….
これまで数限りなく「エコ…」にはだまされてきたからなあ….
やってみなくちゃあ分からない((^^;)

2012年8月6日月曜日

アイヌ伝説と化石(2)

小山になった鯨と鯱


穂別市街から穂別川に沿うて六,七百㍍のぼると,厚真町へ越して行く間道にそうて,パンケオピラルカの流れが穂別川にそそいでいる.この落口の近くにフンベ(鯨)という鯨の形をした小高い丘があり,穂別川をはさんでこの丘の対岸の畑の中にレブンカムイ(鯱)という高みがある.
昔,この附近まで一帯の海であったときに,鯱に追われた鯨が逃げ場を失って,陸の上にのしあがってしまい,そのままフンベの丘になってしまったが,鯱は鯨が陸へあがっておりて来ないので,鯨のおりて来るのを見張りながら待っているうちに,あたりの海の水がなくなって,これも小さな丘になってしまって,今でもまだにらみ合っているのであるという.
この附近は山が穂別川にせりだして急傾斜になっているが,ここをフンキとよんでいる.フンキとは海岸の崖のことである.
(穂別町・種田角蔵老伝)

パンケオピラルカ沢と穂別川の合流点は標高60m程度あるので,ごく最近(考古学的歴史上)このあたりまで海だったことは考えられません.
海岸地域であれば,クジラが上陸するということは希にあることなので,鯱に追われた鯨が…という話は,あっても不思議はないのですが,なぜこのような内陸部に「鯨が上陸」した話が残っているのでしょうかね.

でも,いまだに鯨と鯱がにらみ合ってるなんて,面白い話です.
残念ですが,フンベ*,レブンカムイ**,フンキ***という地名は今は確認できません.

この伝説は,学芸員時代に苫小牧民報の記者の人に聞いたことがあるんですが,その時はあまり興味が持てませんでした.ところが,そのあとで興味深い体験をすることになります.
じつは,私が発見したホベツケントリオドンは,この鯨がいたというパンケオピラルカ****沢の支流,穂別川合流部にごく近い博物館の裏山にあったものです.

もしかしたら,この丘がフンベの丘だったのかも.
そうすると,アイヌの伝説は真実を語っていることになります.
ただし,ケントリオドンの海は約1,500万年前のことですけど….

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* フンベ(humpe)(ふぺ):クジラ
** レブンカムイ(rep-un kamuy)(レぷン・カむィ):「沖の」+「神(魔)」≒「シャチ」
*** フンキ(hunki)(ふンキ):①浜から上がってくると一段高くなってハマナスなどが生えている地帯.②海岸の砂丘.③小山,丘.
**** パンケオピラルカ:不詳;pán-ke=「川下の」
以上,知里真志保著「地名アイヌ語小辞典」より

2012年8月5日日曜日

アイヌ伝説と化石

利別川の鯨

十勝川第一の支流利別川に,フンベポネオマナイ(鯨の骨のある川)という川があるが,この川は或る年の大津波でこの附近の人が皆死んでしまったとき,鯨も津波におされて来て骨だけが残ったところであるという.
(音更町・細田カタレ姥伝)

現在,「フンベポネオマナイ」という川の名(もしくは地名)は残っていません.
アイヌ伝説と津波の関係を調べている高清水(2005)によれば,利別川-十勝川合流部でさえ「海抜約10mあり,太平洋から直線距離で約20kmある」ので「アイヌの時代に津波に襲われたということはないだろう」としています.
この判断を評価する能力は私にはありませんが,「鯨の骨のある川」という記述は見逃すことができません.

利別川の支流に本別川があり,合流地点から約2km東に「義経山」と呼ばれる山があります.そこにも「伝説」があります.
義経山の伝説

十勝池田から北見市に通じる,池北線の本別駅附近に,俗に義経山と呼ばれている山がある.古い名はサマイクルカムイサンテというのであって,天地創造神の乾し棚という意味であるが,昔この附近がまだ海であった時代に,サマイクルカムイが,ここで鯨をとって料理したところであるといい,山の上には今もその時の鯨が岩になったままのこっているという.
(永田栄氏輯)

そして,「義経山」の隣にも….
本別のオチルシカムイ

義経山の隣に,山の峰が本別市街の方へせり出したところがあり,ここはお祭りがあるたびにオチルシオンカムイ(峯の神)といって,酒をあげて祈願するところであるが,昔このあたりが見渡す限りの蒼海原であったとき,山の神さまが鯨をとって食べて,その頭を投げたのがこの山になったのであるという.
(池田町高島・山越三次郎老伝)

この付近には,十勝層群下部の本別層や足寄層が分布し,その北部延長は,もちろん,クジラ化石で有名な足寄町へと続いているからです.
蛇足しておけば,足寄動物化石博物館が中心になって研究が進んでいるデスモスチルス類が産出するのは,この十勝層群の下位に連なる古第三系の川上層群で,その延長はやはり義経山の東麓に続いています.

つまり,津波はたしかに大きな事件なので,これに結びついてしまったのは致し方ないことですが,義経山付近にもクジラやデスモスチルスの化石骨が産出していた可能性が非常に高いことが判ります.


もう一つ,「義経山の伝説」や「本別のオチルシカムイ」の話で気になることがあります.
それは,双方共に,「昔,この付近が滄海であった」としていること.
津波をベースに考えれば「こんなところまで津波が来るわけはない」となってしまいますが,本当にこの付近が海だったことはなかったのでしょうか.

たとえば,いわゆる「縄文海進」と呼ばれているものがあります.
縄文海進時にこのあたりが海であれば,縄文人の末裔であるアイヌ民族に,民族としての伝承があっても不思議ではありません.

しかし,この証明はなかなか難しいようです.
そもそも「縄文海進」自体の実態がはっきりしていませんし,十勝平野に縄文海進の影響があったという報告は見あたらないからです.

「縄文海進」の実態がはっきりしないということは,話し出すと長くなりますので,やりませんが,まあ,「地球温暖化騒動」にかなり関係があるとだけいっておきます.
科学的な議論ではなく政治的な議論が紛れ込んでいるので,常に眉に唾をつけながら調査しなければならないわけです.
面白いのは海進の程度ですが,非道いのになると0~2mとしているものがあります.そもそも0mでは海進ではない((^^;).0~2mなんていう程度の小規模海進が「判断できる解像度があるのか」ということも心配になります.
なお,第四紀学会の公式見解では2~3mということになっています.
いいたかありませんが,ネオテクトニクスを考えれば地域差があって当然なのに,日本平均で2~3mなんてことを「見解」としていいのでしょうかね….

さて,千歳市にある美々貝塚は縄文海進時の生活の場とされています.それは(現在の)標高20m程度の台地の上にありますが,その直下の河床は標高5m程度なのでしょうか.2~3m程度の海進でシジミを中心とする半塩水-半真水の環境が,ここにできるかどうか.
まさか「そんな検討はしていない」ということはないでしょうから,この地形,この海進の程度で「できた」と判断されているのでしょう(ちなみに,ある北海道の研究者は3~4mとしています:もちろん,海進の程度がどこでも一緒である必要はありません).

そうすると,縄文海進時に,十勝平野が一部でも海域になったという証拠はなさそうです.十勝平野に貝塚があるという話もあまり聞きませんモンね.
もっとも「海進時」に住めるところは,ある程度の高さのある台地の上ということになりますから,広大な十勝平野では貝塚をつくる条件がそろっていなかっただけなのかもしれません.


さて次の可能性は「下末吉海進」と呼ばれるものです.
関東平野で確認された12~13万年前ころの出来事です.下末吉海進は10mぐらいまで海進が進んだとされています.もちろんこれも,地域によってかなり程度が違うようですけど.10mならば利別川-十勝川合流部は「海」だったことになります.

下末吉海進に相当する海進が,十勝地域で確認されているかどうかは定かではありません.
もっとも,下末吉海進は12~13万年前ころの出来事ですから,約二万年前がもっとも古いといわれる北海道の人類遺跡記録からは,この頃の旧日本列島人がこの海を見たとは考えられません.

そうすると,本別地域に伝わる「海の伝説」の原因は,やはり「山で発見される“クジラのような巨大な骨”に求めるべき」ということになりますかね.


似たような伝説が釧路市音別町にあります.
音別の炭川

釧路音別町の尺別川の隣りに、パシウシュベという小川がある.昔この附近の海上で,鯨と海馬とが争いを起し,鯨の方が負けそうになったので,この小川へ逃げ込んでしゃにむに川上へ向って泳ぎ上り,どうやら海馬からの難をのがれることが出来たが,さて海に戻ろうとしたが,あまり勢いよく突込んだ為,体を廻すことも後戻りすることもできなくなって,そのまま川をうずめてしまった為に,川は炭のように真黒くなってしまったという.ハシとは木炭のことでウシュは沢山あるところ,ベはものという意で,炭の沢山ある川ということである.
(中田千畝「アイヌ神話」)


現在「パシウシュベ」という地名はありません.
そのため,具体的にどこでの伝説なのか検討することができません.

後半の記述は,釧路炭田の一部を意味しているものと思われます.
つまり,このパシウシュベ川の奥には石炭の露頭があることは間違いがなさそうです.

残念なことに,手元に釧路炭田の地質図がないので,これも検討不可能.
こういう伝説を聞くと,あることを思いだします.
ある小さな炭鉱の経営者が博物館にやってきて「骨みたいなものがたくさん出ているので見て欲しい」というのです.その時に持ってきたものは「ただの妙な石」でしたが「ほかにもたくさんある」といってました.「また持って来る」といってましたが,それっきり現れませんでした.

こんなことは,たぶん「ある」ことなのでしょう.なぜなら,その附近では,昔,アミノドンの化石が発見されているからです.
ただ,個人経営だといろいろ都合があって,荒らされたくないのだともいってました.まだ,埋もれたままの(発見はされているが,持ち主の都合により公表できない)化石があるに違いないと思います.

そんな背景を考えれば,そこらあたりには,やはり,骨の化石が埋まっているのではないかという気がします.

氷河期の「発見」


少しずつ読み重ねて,やっと読み終わりました.
これは「科学史ドキュメント」です.こんな本は「恐竜関係」以外では初めて読みました.
ワクワクするような「科学の始まりの物語り」でした.

ちょっと,回りくどいので,この世界に入りこむまでが大変ですけどね.
授業には使えない((^^;)
でも,氷河期の授業は「フランケンシュタインの怪物」を象徴として使い,アルプスの氷河や北極探検とつなげていったので,よりリアルに話せるようになるかもしれない.
英語でなぜ「Glacial (period)」というのかもようやく判りました.

氷河説に反対していたライエルが単に「極寒期」の意味で使っていたとは….
それがなぜまだ生き残っていて「氷河期」の意味で使われているのは,まだ謎ですけどね.

著者はEdmund B. Bolles,原題はThe Ice Finders.お勧めです.

   


2012年8月1日水曜日

アイヌ伝説と柱状節理

浜益の魔神の簗材

魔神が日本海の中に簗をかけて,浜益の方に鰊の廻遊するのをさまたげようとした.それを知った文化神サマイクルカムイ*が簗を打ちこわして,その用材を海岸に積みあげたので,浜益ではさわりなく鰊が群来るようになった.その魔神の簗材を積みあげたのが岩になったのが,幌の増毛よりの海岸にある.
(新十津川町泥川・空知保老伝)

これも「北海道地質百選」にある「幌の玄武岩熔岩」といわれているものです.
正体は「柱状節理」を呈する玄武岩の熔岩.
まるで角材のような形をした石が積み重なっているのを見て,「魔神の簗材」を連想したのでしょう.ただし,柱状節理は水平に流れた熔岩の温度差を反映して直立しているそうです.だから,“積み上げた”ようには見えません.立て掛けたようには見えますね.

また,これと同じ伝説が網走付近にもあるそうで,「ポンモイ柱状節理」と呼ばれていて,網走市指定の「天然記念物」になっています.
地質学的には「ポンモイ岬の玄武岩」といういい方のほうが適切でしょう.「柱状節理」は節理の形態を表しているだけですから.

こちらは,熔岩ではなく貫入岩なので,貫入方向に垂直に節理が発達し,角材を積み上げたように見えるわけです(道東の自然史研究会編「道東の自然を歩く」:188頁参照).ほぼ水平の柱状節理が発達していて,たしかに「魔神の簗材」を「積み上げた」ように見えますね.

この「ポンモイ岬の玄武岩」については,江戸時代末期から明治の初期にかけて箱館に在住したブラキストンが「えぞ地の旅(西島照男訳)」で記述しています.
わたくしめも,「蝦夷地質学外伝」で引用していますので,よかったら読んでみてください.

*サマイクルカムイ:アイヌの伝説で天地創造神の役割を果たしているのですが,「文化神」という肩書きも付き,さらに「源義経」ともゴッチャになっているようで….