2020年10月24日土曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のに)


バリックパパンの戦い・青山敏男氏の場合


 もう一つ,バリクパパン防衛戦の体験記を紹介する.


青山敏男「我が戦記=ボルネオ回想=」


 青山氏は軍医として南方戦線に従軍した.徴兵された一般市民とことなり,文章は洗練されていてわかりやすい(逆にいえば,平常ならば長文なんか書かなかったであろう一般市民が,なにがなんでも残しておかなければ…と書きつづった意味もわかろうというものである).戦争中ではあるが,単に遭遇した戦闘や悲惨な経験だけでなく,冷静にさまざまな事件・事象を記録してあるのがありがたい.なんと言おうか,俯瞰的に見ているのだろう.

 「忙中閑あり」ならぬ,“戦中和あり”…であろうか.つかの間の平和を切り取った瞬間,ブンガワンソロの歌が聞こえる.


BENGAWAN SOLO


Bengawan Solo Riwayatmu ini

Sedari dulu jadi Perhatian insani

 

Musim kemarau ta brapa airmu

Dimusim hujan nanti meluap sampai jauh


Mata airmu dari Solo berkurung Gunung Seribu

Air mengalir sampai jauh Ahirnya kelaut


Itu perahu riwayainya dulu Kaum pedagang slalu naik itu perahu




1943(昭和十八)年末:連合軍,ギルバート諸島上陸.

1944(昭和十九)年一月:クェゼリン玉砕.

   同年二月:トラック島空襲.同島日本軍孤立.

   同年七月:サイパン,テニアン陥落.


1944(昭和十九)年四月:米軍,西部ニューギニアへ進攻.敵戦闘機,来襲増加.

   同年九~十月:米軍大空襲,第一〇二燃料廠製油所被害.

   同年十月十日:米空軍,戦闘機・爆撃機,約百五十機来襲.潤滑油施設破壊.

 バリックパパンに敵飛行艇・敵潜水艦出没増加.スパイ配備の可能性大.同時に夜間爆撃増加.

   同年十月:第二十二特別根拠地隊(ボルネオ・バリックパパン)司令官,醍醐中将から鎌田道章中将に交代.第一〇二燃料廠付近の防空隊強化.マニラ陥落および沖縄攻撃の情報がはいる.


1945(昭和二十)年二月:米豪連合軍の南ボルネオ侵攻を予測した第二南遣艦隊司令長官・柴田弥一郎中将,バリックパパンを訪問,陸戦隊員を閲兵.

   同年四月:この頃まで第三八一航空隊は襲来する敵機に対し迎撃をおこなっていたが,次第に迎撃用の戦闘機を失い,日本は制空権を失った.敵機は自由に襲来するようになり,敵の上陸作戦は近付いているものと予想された.

 この頃には,日本のタンカーの大部分は撃沈されていて,バリックパパンから輸送船が出港することもなくなった(余った油はジャングルの中でただ燃やされたという).

   同年四月二十六日:第十方面艦隊から入電.

「敵巡洋艦,駆逐艦,掃海艇,数十隻に護衛せられた強力な輸送船団(兵員満載)が,モロタイ沖を通過してセレベス海峡を北上せり.タワオ,サンダカン,タラカン,バリックパパンは厳戒を要す」

   同年五月一日:連合軍,北ボルネオ東海岸タラカン島に上陸作戦開始.ボルネオ防衛戦始まる.

   同年六月八日:連合軍,北ボルネオ西北岸ブルネイに上陸作戦開始.

   同年六月十日:連合軍,バリックパパンに上陸作戦開始.艦砲射撃と空爆が激化連続する.

   同年六月十三日:タラカン島守備隊,連絡途絶す.玉砕との噂飛ぶ.

   同年六月十五日:見張り所より入電.

「敵大艦隊・戦艦・巡洋艦,十数隻;駆逐艦,三十数隻,見ゆ.バリックパパンの百度二十マイル」

 直ちに「千早二号作戦」が下命.千早二号作戦とは,戦況がどのように厳しくなろうとも,一歩も退かない籠城作戦である.楠木正成が千早城にたてこもった史実に基づくといわれる.

 これを遡る五月,第二十二特別根拠地隊司令官・鎌田道章中将を長とする南ボルネオの海軍各部隊は第二警備隊を編成した.現地召集の民間人を含む一万六千余で戦闘態勢をとっていた.

 やがて,バリック湾沖合遥かの水平線を埋め尽くして大艦隊が薄墨色の線のように見えた.「連日の砲爆撃で地形がすっかり変わり,山も谷も地の底から掘り返され,宿舎も兵舎も壊滅し,椰子の木もすっかり丸坊主になり,砲撃された反対の方向に倒れていた.」

 「敵が上陸一か月以前から投下した爆弾は三千トン,第七艦隊が海岸防御施設に撃ち込んだ弾丸はロケット弾七千三百発,自動火器十一万四千発,三インチから八インチまでの中口径砲弾三万八千発にのぼった.」

 六月十五日には,著者の青山軍医はバリックパパンから七キロ地点のサマリンダ街道の野戦病院に移動.しかしそこにも砲弾は雨のように降り注いだ.二十日夜に青山軍医はバリックパパンまで視察に出たが,すべては瓦礫の山であり,多くの不発弾につまずくほどであったという.

 六月三十日,この日,連合軍は上陸を試みたが日本軍の反撃に遭い撤退.しかし,その夕刻からは明け方まで執拗な艦砲射撃が続いた.


 そして,七月一日.

 早朝,三度目の攻防戦が始まった.「約二百五十隻の上陸用舟艇が海上一面に真っ白い水しぶきを上げて海岸に殺到し,クランダサン地区より上陸を開始した…」

 七月二日,第一飛行場,艦砲射撃により砲台壊滅.飛行場は連合軍に占拠.バリクパパンの日本軍,壊滅状態.一日中,負傷兵の手術続く.

 七月四日,青山氏は,バリックパパン七キロ地点の野戦病院付きだった看護婦六名を引率してスモイ地区野戦病院まで移動する.驚くべきは,この激戦地に六名もの女性看護師(もちろん当時の看護師は女性ばかりで看護婦と呼ばれていた)がいたことである.前年中に従軍看護婦および民間女性事務員は全員日本国内(当時は内地と呼ばれた)に引き上げたなか,バリックパパン残留を決めた彼女らは“鉄の看護婦”と呼ばれていた.傷病兵の治療に数日過ごした後,戦況の悪化により,スモイからサマリンダ方面へ後退を余儀なくされた(帝国陸軍では“転進”と呼ぶ).

 「歩ける者は歩け」ということで,歩けそうにない者まで歩かざるを得なくなって(では,あるけない者はどうしたか,青木氏は彼らについては記していない),患者の病状も益々悪くなり,充分な食料がなく,栄養失調で骸骨のようになった患者は,飢えきっていた.毎日毎日,死亡者が続出した.

 しばらく引用を控える.


 終戦時の調査では,戦闘地域で四百五十八名,サマリンダ街道だけでも戦死,戦傷死,戦病死の戦没者数は千九百六十五名を数えた…という.


 七月三十日,青木氏は,スモイ地区の野戦病院に一度戻る.野戦病院とは名ばかり.ただの死を待つ兵士たちのテント小屋であった.七月三十一日,看護婦六名と五十八キロ地点の仮病舎に戻る.そこでも毎日二十名,三十名と死んでいった.


 そして,誰いうとなく「死のサマリンダ街道」とか「白骨街道」と呼ぶようになった.


 八月一日,五十八キロ地点から七十二キロ地点まで北上を開始する.途中,所々に白骨が転がっている.浅く埋められた遺体がスコールに洗い出され,手足が露出している.これもやがて白骨になるのであろう.八月二日,六名の看護婦は約百キロ上流のムアラカマンの病舎勤務となり,船で二昼夜かかって着任した.八月四日,青木氏はロアジャナンに仮収容所を設営し,ジャングルからたどり着いた患者の一時収容施設とした.傷病兵は応急処置ののち,程度に応じ上流のロアクール,テンガロン,あるいはムアラカマンの各病舎に送る任務となった.

 八月十五日,連日連夜飛来していた敵機が完全に停止した.

 八月十七日,無条件降伏,全軍即時戦闘中止などの情報を無線で傍受.終戦であった.


 なお,この後も,青木氏を含む日本兵等は過酷な捕虜生活を過ごすこととなるが,引用が精神的に疲れたので,省略したい.

 最後に一つ.

 「ジャワの極楽,ビルマの地獄,死んでも帰れぬボルネオ島」

…青木氏は,昭和二十一年六月六日,名古屋港に上陸.帰国した.


ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のに)

バリックパパンの戦い 終わり


2020年10月8日木曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のは)


バリックパパンの戦い・中村利光氏の場合


 続いて,中村利光氏による「大東亜戦争従軍記=下級兵士が命がけで見たボルネオ島=」を紹介しよう.



中村利光氏「大東亜戦争従軍記」


 この本は,ボルネオ島周辺を行軍した一兵士の手記を,ご子息の喜一氏がアマゾンからネット出版したものである.バリクパパン戦の頃,中村利光氏はボルネオ島を縦断しているが,バリクパパン戦とはニアミスではあったが参戦していない.しかし,利光氏の残したノートに挟まれていた太田垣正純氏のバリクパパン戦記を喜一氏が転載している.

 「大東亜戦争従軍記」はネット出版であり,ご子息個人編集の限界があり,ワープロ誤変換と思われる誤字が頻出し,意味のわからない単語も散見される.誤字でないならば,脚注が欲しいところである.また,現代日本人には馴染みのない地名が頻出するので,ボルネオ島周辺の地形図が欲しいし,行軍であるから日付の入ったルートマップも欲しい.編集者が介在しないネット出版の限界であろうか.それでも,正史に疑義を唱える現場の記録が残されているのはありがたいことである.

 ノートに挟まれていたという太田垣正純氏の手記は,昭和30年代の「雑誌に寄稿」されたものと記述がある.

 要約すると…


 昭和20年も6月に入ると,連合軍の南ボルネオ地域への空襲は,日を追って熾烈となってきた.はじめは数編隊にすぎなかったが中頃には2~300機の大編隊となり,やがて海上には機動部隊も目につくようになっていった.

 日本軍もバリクパパンの港に,水際作戦を立て,約五千名の兵を配置していた.しかし,それまでには,以前配置されていた海軍三八九航空隊は連合艦隊に転属し,バリクパパンの飛行場からは撤退し,航空兵力は存在していなかった.対空火器も十二糎以下の対空砲,二十五粍機銃が配置されていただけで,圧倒的な連合軍の攻撃には打つ手がなかった.

 そして,七月一日未明.

 連合軍数百機の大編隊による猛爆撃が一時間ほど続き,わずかな静寂のあと,さらに激しい艦砲射撃と空爆が続いた.やがて静かになると…ヤシの木はもちろん,日本軍の対空陣地,飛行場,その他施設は跡形もなく粉砕され,山容すら一変していた.

 連合軍艦隊からは,多数の上陸用舟艇が波をかき分けて接近する.日本軍からは小銃による散発的な抵抗があったが,それは集中的な艦砲射撃を呼び覚ます結果となり,やがてそのわずかな抵抗も止んだ.

 日本軍は為すところもなく,海岸より撤退してジャングルへと移動せざるを得なかった.日本軍はサマリンダ街道の「転戦」と称したが,これは約一ヶ月半に渡る飢えと病との戦い,のちにいう「地獄街道」の旅の始まりであった.

 地獄街道での転戦中,日本兵は敗戦の報を聞いた.しかし,地獄はこれで終わりではなかった.敗戦後も,食料も薬品もない現地収容所生活が続き,さらに多くの日本人の命が奪われた.やってきた連合軍兵士からは,わずかにもっていた腕時計などの金品を奪われ,いい加減な軍法会議のために,多くの元兵士が連れ去られた.残された元兵士が母国の地を踏むのには,さらに一年ほどの時が必要だった.

(続く)


2020年10月7日水曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のろ)

バリックパパンの戦い・三宅健次氏の場合


 まずは三宅健次(1997)「ジャングル無宿」から,バリクパパンの戦いの概略を見てみる.この著も個人的な経験が主であり,主な出来事の時系列を追っているわけではない.タイムラインも前後するので組直しが必要.それをやってみる.


ヨーロッパ戦線

1943(昭和18)年9月8日:イタリア,降伏.

1945(昭和20)年5月7日:ドイツ軍降伏.ヨーロッパ戦線終了.


北太平洋戦線

1944(昭和19)年7月:米軍,サイパン島占領.

      同年10月:米軍,フィリピン・レイテ島進行.マッカーサー,「帰還」.

      同年11月:B29,日本本土爆撃.

1945(昭和20)年2月:米軍,硫黄島上陸.一月半後,硫黄島玉砕.

      同年4月1日:米軍,沖縄本島上陸.6月,沖縄完全制圧.


南洋戦線

バリクパパン防衛要因『戦時回想録』

南ボルネオ会、昭和52年発行より


1945(昭和20)年5月1日:連合軍,ボルネオ東部タラカン島襲撃.

      同年6月15日:連合軍,バリクパパン空襲開始.

            :連合軍艦隊,三十数隻,バリクパパン沖に集結.

 連合軍はバリクパパン・クランダサン地区に上陸を決定.

  オーストラリア第七師団本体:21,635名

  オーストラリア陸軍支援部隊: 7,698名

  オーストラリア空軍:     2,052名

  アメリカ.オランダ軍部隊:  2,061名


      同年6月15日:日本バリクパパン守備隊,千早作戦発動.

 6月15日より,連日の空襲,艦砲射撃開始.7月1日までの20日間で,バリクパパン市街地とマンガルまでの海岸に投入された弾薬は以下の通り.文字通りの雨霰の如くである.

  爆弾         :3,000トン

  ロケット弾      :7,361発

  巡洋艦・駆逐艦の砲弾 :38,052発

  小口径砲弾      :114,000発


      同年7月1日:午前7時.連合軍,上陸作戦開始.



サマリンダ街道


 さて,「千早作戦」とはなんであろうか.この三宅氏は下っ端なので作戦の内容は判らないとしながらも,隊長・山畑主計大尉の言葉として「諸君は,ただちに所定の行動に移る.まず,書類を今日中に焼却する.諸君の武運長久を祈る…」と記録している.

 千早作戦の内容は書かれていないが,鎌倉時代に楠木正成が金剛山一帯に築いた城塞群の一つに千早城という城があり,これら城塞軍が攻められた時に100日にわたって籠城戦を繰り広げたという.この故事から,籠城戦のことをさすものと思われる.

 実際に,三宅氏は約三週間に亘る重爆撃・砲撃の中,この戦場にとどまっている.日本兵には,一度爆弾の落ちた場所に「二度目はない」というジンクスが伝わっていたそうだが,そのジンクスが破られるほどの猛爆撃であったにもかかわらず.

 一方で,食料・医薬品を分散させるために,サマリンダ街道を北上する兵隊もいた.バリクパパン市街地が壊滅状態になって「転進」とよぶ後退が始まるが,あまりにも連合軍の攻撃が凄まじかったため,食料や医薬品の輸送も,傷病兵の輸送もままならず.サマリンダ街道は別名「地獄街道」と呼ばれるまでになった.地獄街道の話は省略したい.

 連合軍が上陸を開始する前夜・6月30日の夜,不気味な色をした月食であったという.

(続く)

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三宅健次(1997)ジャングル無宿(1~6).

太平洋学会誌,19巻3/4号,7-25;20巻1/2号,35-56頁;20巻3/4号,25-41頁;21巻1/2号,25-49頁;21巻3/4号,11-17頁;22巻1/2号,11-24頁.


ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:2のい)

(* 長くなりすぎたので,分割しました)

バリックパパンの戦い・我が叔父の場合


 子どものころ,わが家の二階に父方の祖母のキク婆ちゃんが住んでいた.物心ついた時にはキク婆ちゃんがいたので,いるのが当たり前であった.だが,よく考えると我が父は三男坊.近所で主婦の店を経営していた長男がいたにもかかわらず,婆ちゃんは三男坊の家に同居していたことになる.


キク婆ちゃん


 お婆ちゃんの部屋には,大きな仏壇があり,長押には三枚の写真が掲げてあった.一枚は,わたしが生まれるひと月前に亡くなった爺さんの写真であり,二枚目はなぜかキク婆ちゃん.三枚目には軍服を着た若者の写真があった(キク婆ちゃんは,わたしが中学生のときに長男の家に引っ越し,その時に全財産を持っていったが,その家で亡くなり,写真を含めて一切はどこへ行ったのかわからない).


 若者の名は「守」,キク婆ちゃんの四男坊,わたしの叔父にあたる.叔父は太平洋戦争中にボルネオ島バリクパパンで戦死した.昭和20年6月29日没.二十歳であった.

 最近になっての話である.惚け始めている我が母の脳内の記憶が,なにかの拍子に蘇ったのかもしれない.むかしの話をポツリといった.ある日,叔父の戦友という人がわが家を訪れ,キク婆ちゃんに守叔父さんの戦死について報告にきたという.連合軍の猛攻の下,「お前たちは逃げろ.俺は残る」,それが叔父の最後の言葉だったと,その戦友は涙を流しながら語っていった,と.

 叔父の話はその時初めて聞いた.わが家の墓石の横に「守徳院釈智成信士 同守行二十才」「昭和二十年六月二十九日於南ボルネオバリックパパン戦死」とあり,叔父が戦死したことは理解していたが….この墓はキク婆ちゃんが昭和二十八年五月に建てたものであった.この当時からかなり傷んだので,現在は亡き父が改装し,もう少しこじんまりとしたお墓になっている.


キク婆ちゃんが建てたお墓
(わたしが小学生当時の写真)


 バリクパパンといえば終戦間際の大激戦地.ボルネオ島の石油基地であった.「石油の一滴,血の一滴」といわれた当時,大日本帝国が石油を求めて進出した赤道直下の島の一つである.湊先生が軍属としていったスマトラ島と同じ背景を持つ.終戦直前の湊先生の行動を追うには,その背景としてバリクパパンの戦史を追ってみるのも,無駄ではないであろうと思う.そして,叔父の戦死の前後についてもなにかわかるかもしれない….


 ボルネオ島バリクパパンに関する戦記はいくつかでているようであるが,個人的な記録ばかりで,全体的な流れや概要を明示した戦史戦記は見当たらない.イヤ,単に見つからないだけかもしれないが.

 足立巌・ボルネオ島バリックパパン思い出の会戦記編集部(1995)「バリックの空は赤く燃えて」は446頁にわたる大著であるが,多人数の個人的な思い出を集大成したもので,通しの視点がなく,なかなか消化が困難なので後回しとする.

続く…


2020年9月12日土曜日

ブンガワンソロの謎(例によって遠回り:1)



 湊先生の南方油田調査の背景を知りたくて,関連していそうな文献を漁ってみました. 
 時代が時代なので,ほとんど全てが絶版で古本探し.内容が内容なので,客観描写だろうと思われる本を探すのもけっこう骨が折れます.小説は除外しなけりゃならんし.

 さて,一冊目は高橋健夫「油断の幻影=一技術将校の見た日米開戦の内幕=」から.

高橋健夫(1985)

 筆者は副題の通り戦前戦中をかけての技術将校.軍用燃料関連の実務を一手に引き受けていたようです.したがって,だれよりも石油と戦争の関連を語れる重要人物.
 著者が記録しておきたかったことの一つは,帝国陸海軍の愚かさと因習だろう.当時の軍首脳部は軍事行動に於ける石油の重要性が理解できていなかった.また,理解できても,具体的にどうするかということを考える能力がなかった.
 また,石油がなくては軍事行動ができないので石油関係者を軍属にしたのに,軍属は軍馬,軍用犬,軍鳩以下の扱いでした.南洋油田占領後,その修理運営に行くはずだった軍属たちは,軍人なら飛行機で三日でいける現地に,船で何ヶ月もかかっています.負けるわけだ.その当時の日本の「秩序という名の差別構造」が透けて見える話です.筆者は敗戦後,進駐軍から事情聴取を受けていますが,その相手は民間石油会社の社員であり,同時にこの仕事のために将校待遇で雇用され,正式の将校と同じ扱いを受けていたことに感銘を受けたといいます.
 戦前戦中に関する石油事情はこの本一冊で充分だろうと思われます.

 二冊目は,石井正紀「石油人たちの太平洋戦争=戦争は石油に始まり石油に終わった=」.

石井正紀(1991

 筆者は理工学部建築家出身の建築技術者らしい.しかし,戦記関連の著述が複数あり,本業の傍ら関連の著述を続けていたらしいです.大量の戦記関連の書籍を読んでおり,末尾にたくさんの文献資料のリストがあるのがありがたい.もちろん前記,高橋(1985)は重要文献ですね.
 昭和12年生まれなので,実体験に基づいたものではないですが,構成や文章は非常に読みやすいものです.
 出版社が「光人社」.月刊「丸」や数々の戦記物を出版している会社です.

 最後は,岩瀬 昇「日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか」.

岩瀬 昇(2016

 筆者は商社マン.東京大学を卒業して三井物産に入社し,石油を中心としたエネルギー関連業務に携わってきた人物.現在から第三者の目で,日露戦争から軍用エネルギーについて概観しています.
 筆者は1948年生まれ.完全に戦後育ちです.

 三冊の著者は,世代および立場の違いがありますので,読むなら,それを頭において進めるのがいいでしょう.

 さて,湊先生を初めたくさんの地質屋,また石油技術者を南方に送り込んだ社会情勢はなんとなく理解できました.次は,現地における戦闘の実態について調べてみたいと考えています.


2020年8月30日日曜日

ブンガワン・ソロの謎(安田信行さんの手記より)


 安田さんの手記は八年くらい前,湊先生の論文の収集と整理をしていた時に偶然web上で発見したものです.「交通医学」という安田さん個人のHPでした.その時は別なことをしていたので,あとで熟読しようと思いましたが,念のためpdf.にして保存してありました.

 前項「ブンガワン・ソロの謎」を書き始めて,そういえば…と,思い出し,安田さんのHPを探しましたが見つかりません.八年の歳月は長いですね.たぶんお亡くなりになったかHP運営が面倒になったか….当時,HP作成は一種のブームになっていて,いろんな人がたくさんのHPをつくっていました.こういうような私的な記録もたくさんあったのです.

 ですが,このようなHPは書籍にしたものと違って,生きている時間が短い.本人が飽きたり亡くなったりしてプロバイダに会費を払わなくなれば,その時点で「消えて」しまいますし,個人HP作成のブームが終わった現在としては,プロバイダも儲けが少なくなりますから突然「サービスを終了します」というメッセージを残して廃業したりします.

 わたしは,それがあるから(ほかにも理由はありますが)無料のサービスを利用しています.わたしが死んでも,会費制じゃないわけですから,しばらくは維持されると踏んだからです.ところがこちらも「新しいサービスに移行します」という一方的な通告で「終了」したりします(じつは今それで困っています).まあ,Google社も商売ですから,膨れ上がるデータ量を維持するのは大変だろうということは理解できますが,当時多くのひとが作った多量のデータは…そうやって「消えて」いった模様です.


 それはともかく,幸いにもpdf.にした安田さんの手記が,我がMacのHDDに残っていたのを幸いに,手記を読んでみることにしました.


 ただし,この手記は1989年に書かれたもので,その時点で戦後40年以上経っていますから,記憶が曖昧で思いだすままに,ほとんど脈絡もなく書かれたものです.それでもわずかに湊先生の戦時中を知ることができました.


 安田さんは,昭和18年,予備士官学校を卒業し南方燃料廠に転出しました.翌年,シンガポールを経由してパレンバンに行き,南スマトラ燃料工廠に配属.そこで地質課調査隊湊隊に属することになりました.

 湊隊では隊のサポート役として,機材や備品の管理,作業員の確保などを業務としていたらしいです.このHPでは「7)地質調査隊」という章があるので,湊先生の地質調査の話が少しでも出てくるかと期待したのですが,まったくありませんでした.もちろん,安田さんは地質屋ではないのですから,地質調査そのものに興味があるわけはないのは当然です.また,調査地プラブムリーでは湊先生と一緒の宿舎にいたにもかかわらず,当時の湊先生をイメージするような思い出は一切ありませんでした.あるのは,個人的な生活の記録や現地の人々の生活の様子,珍しい動植物の記憶など,人間の記憶とはそういうものかと思わせるものでした.

 唐突ですが,わたしの伯父はスマトラの隣のボルネオ・バリクパパンで戦死しているので,このあたりの戦記をいくつか読んでいますが,それらはこの世の地獄の様相を示しているのに,収容所暮らしを経験している安田さんの手記では,なんとまあ能天気な…と思わせるほどでした.人間の記憶という不思議な機構のなせる技なのかもしれませんが….



安田さんの手記中に添付された図(Palembang (B))から


 pdf.からそのまま起こしたもの.解像度が非常に悪く見づらいが原図はもっと見づらいです.収容所にいる間に大学ノートに記録したものはインクの色があせて見づらくなっていると書いてありましたが,それををコピーして貼り付けたものだろうと思います.凡例がA~Pまで二セットありますが,下のセットは「’(ダッシュ)」つきなのかもしれません.凡例「A」に「湊サンノ宿舎」とあります.現地調査に行く前の仮の宿舎なのでしょう.中央付近の「A'」ではなく,右端中あたりの「A」がそうであると考えられます.



安田さんの手記中に添付された図(プラブムリー 湊さんと共に暮らした家)から


 プラブムリー地質調査中に使用した宿舎と思われます.


 調査隊は青山隊・熊谷隊・湊隊の三つがあったそうです.安田氏は湊隊に配備される前に,ジャンビーという所を調査していた隊に仮配置され調査隊の概要を見学していたといます.湊隊がプラブムリーに実際に調査にはいった時の支援作業をおこなうための勉強や下調べであったそうです.しかしその後,湊隊で働いているうちに病気になり陸軍病院に入院し,退院した時には別の組織に移動になったとあります.そのため,湊隊の記憶は少ないのかもしれません.

 「プラブムリーの調査隊には、隊長の湊正雄さんと私、そして軍属の剣さんと言う人と台湾出身の李黄さんと言う人がいた。その他に何人かいたような気もするが記憶は確かではない。」とあります.

 安田さんは,敗戦後帰国してから10年後に金沢大学の構内で再会したそうです.湊先生は学会で金沢大学にいたらしい.地質学会の開催地を調べれば,もっと詳しい年月日がわかるでしょう.しかし,その時になにがあったかは書いてありません.なぜ安田さんが金沢大学にいたのかも書いていない.

 また,この手記を書く数年前に,湊先生の落雪事故の新聞記事を見たそうです.


 安田さんの手記やほかいくつかのスマトラ・ボルネオの油田に関する本を読んでいて,思ったこと.ヨーロッパ人のつくった町の立派であること.そこを占領した日本人はもちろん,ヨーロッパの植民地支配者の生活を体験したことになります.当時の日本本土の日本人と比べても,なんと豊かな生活であったか.比べて,現地住民の貧しさ.

 太平洋戦争はたしかに日本の侵略戦争でした.しかし,当時の兵隊の多くは,やはり「八紘一宇」や「アジアを開放する」というスローガンを信じていたのかもしれません.まるで現在の若者が,自衛隊の本来の仕事ではない災害救助が仕事だと信じて入隊し,悲惨な目に遭っているような….

 そして,それを信じている末端の兵士と接触の多かった現地人は,大いにそれに影響を受けたのでしょう.敗戦で撤退する日本兵とは対照的に現地の若者は,本当にアジアを開放する戦いに突入していきました.一部の日本兵は日本に帰らず,その戦いに参加したといいます.その話を調べるのは,今のわたしには手に余ります.

 今しばらくは,湊先生のブンガワン・ソロの謎を追ってみたいと思います.この話題もうしばらく続きます.



2020年7月22日水曜日

まぼろしの赤山紀行(「赤山紀行」探索記Ⅱ)



 上野(1918)が最初に引用した「赤山紀行」は,

(一七)、寛政十一年(西一七九九、119)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ(ル)

というものでした.これには著者名の記載がなく,わかる情報は1)1799(寛政十一年)年,作者はここを通過した,2)ルートは,オタノシキ川(現:阿寒川)から釧路原野を左に見てクスリ川(現:釧路川)まで,さらに桂戀(桂恋)附近のシヨンテキ海岸(現地名:不詳)附近まで.3)オタノシキ川からクスリ川まで石炭の転石があることです.
 話は繋がっていますが,著者は大楽毛川から釧路川まで,釧路原野を左に見て歩いているわけですから,「今度シラヌカにて石炭を掘りしに…」は過ぎ去ったルートのことを思い出して書いているわけです.4)その白糠では“石炭を掘っていて坑道掘りであること”,“坑道は三百間(約500m)に伸びるが石炭層は続いている”ということです.

 前々回は,児玉(2000)に掲載された「我が国主要石炭鉱業の時代別成立」の図の注の付表…

 「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」

から「赤山紀行」は“谷元旦の著作である”と書いてあると解釈しましたが,前回の山下(2012)から谷元旦が作者である可能性は,ほとんどなくなりました.そういう目で見ると,上記付表の注:34も,「釧路紀行=赤山紀行」とも「釧路紀行≠赤山紀行」とも解釈できます.困ったものです.
 そこで,この「赤山紀行」,喉に刺さった棘のように気になって,気になって…

 ついに「蝦夷蓋開記」のテキストをゲットしました.それは板坂耀子(2002編)の「蝦夷蓋開日記」で,「近世紀行文集成 第一巻」の中にありました.


 結論から言うと,文体は似ているものの書いてある内容はまったく違い,“赤山紀行”は「蝦夷蓋開日記」でも,そこから派生したもの(写本など)でもないようです.文体は当時流行っていた美文調でも,怪しげな漢文でもない,まったくムダがない.また筆者は当時の科学的知識(本草など)の造詣が深いことを物語るような内容です.化石などを採集したことも記録されています.
 さて,クスリ附近の海岸の石炭の様子…

ヲンネツフヨマイの出崎より石門を通り、懸崖絶壁の根より波の打入る洞六ケ所あり。夫より赤壁の間を行。此辺、壁の内壁珀を含む。石炭など多し。名づけて「石炭崖」となす。夫より出崎、浪高く、山路を越て浜へ出。流れあり。ヲソウナイといふ。又、出崎、越がたく山路を廻り浜へ出。石門あり。ヲコツヲ、沢川を経てロクネホツルに至る。

ということで,まったく「赤山紀行」の文章とは異なります.したがって,赤山紀行は元旦の書いたものではないということになりましょう.

 不思議なのは,シラヌカを通過しているのにもかかわらず,この行程の行きも帰りも「石炭窟」についてひと言もないこと.白糠に石炭窟があったとしたら,元旦がまったく触れないというのは,異様としかいいようがありません.本当に三百間もあったという白糠の石炭窟は,この時に存在したのでしょうか.

 なお,この板坂(2002編)には「解題」がついていて,「蝦夷蓋開日記」の概要が示されています.板坂(2002編)時点での「国書総目録」に示されている元旦の著作とされているものは「蝦夷紀行図譜」「蝦夷山川地理紀行」「蝦夷釈明」「蝦夷蓋開日記」「蝦夷風俗図式」の5点のみ.これらの書の内容や相互の関係は不明な点があるものの,いずれも寛政十一年の蝦夷地探検が題材である…寛政十一年といえば…

 江戸幕府が東蝦夷地を直轄とした時代で,北海道史には重要な時代なハズだけど,ここら辺りをまとめた研究はめったに見ない.和人の探検家が大挙してやってきた時代なのに.この時代の登場人物の個々についての伝記などならあるんだけどねえ….いずれ調べてまとめるとして.話を続けることにしましょう.


 

2020年6月27日土曜日

ブンガワン・ソロの謎



 我が師・湊正雄先生は,教室の新歓コンパに参加する時は,いつも途中から「ブンガワン・ソロ」を原語で唄うのが常でした.学生の中には「ニャー,ニャー」としか聞こえないという不届き者もいましたが….

 先生がなぜ「ブンガワン・ソロ」を唄うのか.
 聞くところによると,南方石油の開発に徴用され,帰国時は悲劇的な阿波丸にではなく,危険といわれた軍艦で急ぎ帰国したため,逆に死を免れたそうです.帰国してからはすぐに,当時北海道帝国大学の(いや,日本の)財産とも言うべきデスモスチルスやニッポノサウルスの標本を理学部ローンに埋めたといいます.もちろん,近々起きるであろう米軍の大空襲に備えてのことです.いったいなにがあったのか.湊先生はこの間の記録を一切残していませんので,直接知ることはできません.
 それで,この謎の外堀を埋めるつもりで,この件に関係していそうな資料を集めてはいますが,外堀すら埋まるのはまだまだ遠い話です.

 そこで,気になった一冊.

岩瀬昇(2016)日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか.

 表題では,満洲大油田の話かと思われてしまいますが,そうではありません.また,帯に「昭和15年春,満洲南部 もし,日本が石油を掘り当てていたらーーー」とありますが,そんな小さな話でもありません.これぞ本当の歴史書かと思わせる内容です.

 というのは,われわれが習ってきた歴史というのは,当時の王(政権)や誰と誰が戦って誰が勝ったという,というような中身のない記録ばかりですが,こういう歴史には子どものころから興味が持てなかった.それがなぜか判ったのは最近の話で,それはあまりにも薄っぺらすぎるからです.
 たとえば,「いくさ(戦争)」にしても,A将軍のA軍何万とB将軍のB軍何万が戦ってAが勝った.それでナニナニ政権ができた…は,おかしな記録です.両軍の武器は刀にしろ槍にしろ,これは「金属」です.金属がなければ武器はできない.金属はどうしたのか?.武器がなければ「いくさ」はできないのに,まったく無視されている.「A軍何万」といっても,彼らをどうやって運んだのか.「食い物」はどうしたのか.これも無視.近代戦ならば,軍艦にしろ戦車にしろ,戦闘機にしろ,動かすのは「石油」.これも無視.そういう歴史の疑問に回答をくれるのがこの本.こういう歴史書がどんどん出てくることを望みますね.

 さて,まず驚くのが,戦前の軍人は「水がガソリンになる」という詐欺に簡単に騙されるレベルだったこと.これは無名の軍人ではなく,歴史書であれ戦史であれ,必ず出てくる重要人物(!)がです.軍人を政治に関与させてはいけないという歴史の教訓.
 そして,やがて石油の重要さが認識され始めると,戦争遂行のための石油を確保するために戦争に突入してゆくという,冷静に考えればまったくばかげた状態が「太平洋戦争の実態」.そのために日本人全員が巻き込まれ,ほぼアジア全域の人々を巻き込んだわけです.

 当時,日本国が通常使うような量の石油は北樺太に充分にありました.当時,そこは日本領であったから,技術が伴えば,ほかの土地(他国)にいく必要はありませんでした.もちろん,ロシアが邪魔したことで開発できなかったこともありますが.この北樺太(現在はロシア領サハリンとされている)から,現在日本は大量の原油と天然ガスを輸入しているはずです.
 傀儡国家とはいえ満洲国が成立した時に「満洲大油田」を発見できていれば,南方に向かう必要はなかったのでした.しかし,ここでも未熟な石油開発技術と軍部の無理解にあい開発はできませんでした.もちろん,未熟な石油開発技術自体も日本という国が学問に無理解だったせいですが….
 そして,南方石油開発という名目でたくさんの民間技術者を送り込み,撤退時に起きたのが「阿波丸の悲劇」でした.戦時に,はるか南方から石油を運ぼうという信じられない愚挙,みずからの首を絞めるような行為で,瞬く間に国力を使い果たし….というわけです.海外から石油を運ぶなどということは「平和でなければできない」ことです.日本は「平和憲法を守」らなければ,将来はないわけです.歴史に学ばない人はそれが判らない….

 そして湊先生も,その愚挙に巻き込まれたひとりであったわけです.

 しかし,この本でも湊先生の「ブンガワン・ソロの謎」についてのヒントはありませんでした.とはいえ,大量の参考文献が示されており,ほとんどはわたしの立場では見ることはできませんが,中にはいくつか入手可能なものもあるようです.
 探索は,まだまだ続きます.



2020年6月26日金曜日

谷元旦の著作(「赤山紀行」探索記)



 例によって,資料探索ネットサーフィン中.谷元旦の研究者である山下真由美(鳥取県立博物館)さんの論文を発見.非常に興味深く読みました.

山下(2012)「蝦夷地への派遣―島田(谷)元旦が果たした役割とその成果ー」より

 山下さんによれば,谷元旦(島田元旦)の著作は以下の通り.
①『蝦夷蓋開日記』(えぞふたあけにっき:俗に『元旦日記』)
②『蝦夷釈名』【写本】
③『東蝦夷紀行(蝦夷奇勝画稿)』(以下、『画稿』。個人蔵)三巻【自筆】
④『蝦夷山水図巻』(四巻、北海道立近代美術館蔵)【自筆】
⑤『蝦夷地真景図巻』(二巻、個人蔵)【自筆】
⑥『谷文晁奥羽游歴写生模本』(二巻、東北大学附属図書館蔵)【写本】
⑦『蝦夷器具図式』(一冊、個人蔵)【自筆】
⑧『蝦夷器具図巻』(一巻、北海道立近代美術館蔵)【自筆】
⑨『蝦夷風俗図式』(一冊、個人蔵)【自筆】
⑩『蝦夷国風図式』【写本】
⑪『毛夷武餘嶌図』(一幅、個人蔵)【自筆】(【図32】)
⑫『蝦夷草木写真』(一冊)【写本】

 ここで,【自筆】,【写本】と区別があるのは,「自筆」であれば,書名としてそのまま通用できますが,「写本」の場合は写した人の気分で「別名」になっている場合が多々あるためですね.

 さて,困った事に「赤山紀行」がどこにもありません.
 以上終了…というわけにもいかないので,詳しくみてみることに.

 ここで③以降は「画」中心のいわゆる“お宝”で,わたしの立場では一見するのも不可能ですね.といって“お宝”ですから,たとえ画集として公刊されても,まあ手は出ないでしょう.蝦夷地の地質に参考になる画があるのかないのか,今後の成り行き次第.

 テキストとして,わたしにも見ることができそうなのは①と②のみ.②は和語とアイヌ語を併記した“和夷辞典”のようなものだといいますから,たぶん(実際に見てみるまでは判りませんが)候補から外してもいいでしょう.

 問題になりそうなのは①です.
 ①は「寛政十一年三月二十一日に江戸を発し,七月二日に厚岸に到着後,九月二七日に江戸に帰着するまでの道中を毎日記した紀行文」とありますから,ものすごく可能性が高い「もの」です.実際に,これの解説には「文末には「東都 谷元旦記」と記されるが自筆本は未だ見つかっていない。『蝦夷蓋開記』、『蝦夷記』、『蝦夷日記』、『蝦夷紀行』、『蝦夷地紀行』、『蝦夷秘録』等多くの別名があり、管見の限りで二十冊近くの写本が確認でき、おそらくもっと多くの写本が全国に所蔵されていることと思われる。」とされています.問題になっているこの「蝦夷蓋開日記」は「函館市立中央図書館本を定本とした翻刻」を収録した『近世紀行文集成 第一巻 蝦夷篇』(板坂耀子編、葦書房、2002年)によるもので,原著になんと題してあったかは,じつは不明なのです.写本に「赤山紀行」とあった可能性もありますし,元旦自筆の書に「赤山紀行」とあった可能性もあることになります.

 さて困りましたねえ.どうしましょう….
 とも,云ってられないので,再度「赤山紀行」が引用された経緯から整理することにしますか….


①上野(1918):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述「寛政十一年(西一七九九)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ」

②作者不詳(1931):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).後注に「昭和六年七月刊行の『北海道炭砿港湾案内』の冒頭に引用されているが、筆者不詳。」とある(⑤児玉,2000参照).

③山口(1934):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述「北海道に於ては1797年に釧路で發見*1され「赤山紀行」に次の如く記されてゐる。「寛政11年オタノシキ川より左に原を見て行けば原愈廣くクスリ川迄は皆原なり。此の附近石炭あり。又柱戀(「桂恋」の誤記)の附近なるシヨンテキ海岸には磯の中にも石炭夥しく,總べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり。」」
*1 この文章では,「北海道の石炭は1797年に発見された」と読めるが,上野(1918)と読み比べれば,赤山紀行を書いた著者がその附近を通ったのが「寛政十一年(西暦1799)」であり,それは発見年ではない.

④山口(1935):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述以下
北海道に關しては赤山紀行に次の如き記事が見えてゐる
寛政十一年(邦紀二四五九,西紀一七九九)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと言ふ

⑤児玉(2000):谷元旦(1799)「蝦夷紀行」および不詳(1799)「赤山紀行」:児玉(2000, p. 60-61)に
「旅行の禁が解けてすぐこの年、東蝦夷を旅した人々は幾つかの紀行文を残しているが、その中に石炭の記事がある。幕府の小石川薬園を管理していた渋江長伯に従って、この地方を旅した谷元旦(画家谷文晁の弟)の『蝦夷紀行』六月二十四日の条。
「此の浜邊平にしてしめりよし。歩行も易し。石炭など、この邊より出づる。尤も上品なり。光黒くして滑澤あり。」
 その前二十日から二十三日まで白糠に滞在して二十四日出発。大楽毛川を越え釧路への道中だから、この石炭産地は白糠石炭岬(シリエト)のものと分かる。
 また、同年の「赤山紀行」(昭和六年七月刊行の「北海道炭砿港湾案内」の冒頭に引用されているが,筆者不明)。
 「オタノシキ川より左に原を見て行けば、原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり。この附近石炭あり。桂戀の附近なるションテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総てトカチ嶺よりクスリ嶺までのうち、山谷海邊とも石炭なり。今度、シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども石炭豪も盡くることなしという。」

⑥大場・児玉(2011):児玉(2000)より「図-1 我が国主要石炭鉱業の時代別成立」を引用.図の説明(表-1 我が国石炭鉱業の推移)に「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」と記述.なお,児玉(2000)の図には釧路地域において,「27.天明元年(1781),松前広長『松崎志(松前志の間違いか?)』,釧路より出づ。石炭紹介。」とあり,谷元旦より前の記録になっている.


 タイムラインから見れば,書名「赤山紀行」としているものは,記述内容が同じであるところを見ると,各論文はみな①を引用している可能性が高いように思えます.
 また,「赤山紀行」は谷元旦の「蝦夷蓋開記」の別名写本の可能性が浮かび上がってくるかと予想したのですが,児玉(2000)は別物として扱っています.児玉が両者の実物を読んでいるのだとすれば,「赤山紀行」は谷元旦の著作の別名という仮説は崩れます.

 この後は,「蝦夷蓋開記」をなんとか探し出して,全部読んでみるしかないですねえ….



2020年6月23日火曜日

手塚治虫の山




物心ついた頃から知っている漫画家=手塚治虫.
昨日ゲットしたこのマンガ集は「山」をテーマにしたもの.

手塚治虫が生涯発信し続けた「生きる」ことの尊さ。
山・自然・動物をテーマに描かれた手塚漫画の傑作アンソロジー

だそうです.
何といっても圧巻は「三松正夫と昭和新山」を題材とした「火の山」.たった一人の男と火山との戦い.そして火山を無知から護るための戦い.

ワクワクしながら読みました.

ところで発行日が今年の七月一日….まだ来てないんですが.(^^;
 

2020年6月16日火曜日

「赤山紀行」探索



 ガワーについての文献散策中.自分の書いた「北海道・地質・古生物」の「蝦夷地,最初の炭鉱 pt. 1」がヒットしたので読み直し.そこにあった「シラヌカ」の「石炭掘り」についての記述を読み直し.そこで「赤山紀行」なる文献を思い出しました.

 それは,以下の文.

「オタノシキ川より左に原を見て行けば,原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり.この附近石炭あり.桂戀の附近なるションテキ海岸には,磯の中にも石炭夥しく,総てトカチ領よりクスリ領までのうち,山谷海邊とも石炭なり.今度,シラヌカにて石炭を掘りしに,坑内凡そ三百間に至れども石炭毫も盡くることなしという.」
 この「赤山紀行」は「北海道炭砿港湾案内」(昭和六年刊)の冒頭に引用されていると児玉清臣「石炭の技術史」にありますが,詳細不明です.
 そもそも「北海道炭砿港湾案内」そのものの存在が確認できないですし,「赤山紀行」の存在も確認できません.著者も不詳.

ということだったんですが,そう言えば「赤山紀行」についての探索は放置状態のままでした.
 「北海道炭砿港湾案内」は10年たった今も,日本の古書店ですら見つからず.Googleにも引っ掛からず.
北大図書・北方資料データベースに「北海道炭砿港湾案内」も「赤山紀行」もなし.
国立国会図書館Dコレクションに「北海道炭砿港湾案内」も「赤山紀行」もなし.
CiNiiにもなし.
万事休す.

 まあ念のためということで,J-STAGEで「赤山紀行」を検索.
上野景明(1918)明治以前に於ける北海道礦業の發達
山口彌一郎(1934)炭礦聚落の漸移性
山口彌一郎(1935)炭礦民俗誌稿
がヒット

 順番にチェック.
 上野(1918)には,「赤山紀行」は旧記のリストに「(ル)赤山紀行」として載っていて,これは本文「(一)北海道鑛業沿革年表」の「(一七)、寛政十一年(西一七九九、119)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くク スリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ(ル)」として引用されています.
 残念ながら,著者名の記載はなし.

 続いて,山口(1934)では,上記と同様の文が引用されていますが,こちらも引用文献としての記載がなく,著者名は不明.
 さらに,山口(1935)では,二ヶ所に引用.上記と同じ文章が記載されているも,これも引用文献としての記載無し.

 なんとまあ,時代が古いせいか,文系研究者の習いなのか,引用している文献が明示されていないのですね.ダメかな.

 というとろで,駄目元で再度「赤山紀行」でググってみました.やってみるものです.そうしたら,大場・児玉(2011)「戦前期石炭鉱業の資本蓄積と技術革新(一)」が引っ掛かりました.そこには児玉(2000)に掲載された「我が国主要石炭鉱業の時代別成立」の図に引用された文献として載っていました.
 それによれば…
 「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」
とあります.

 !.なんと,著者は「谷元旦」でした!.
 谷元旦については,ウィキペディアでも参照してもらうこととして,簡単に説明すると,谷元旦は超有名な絵師「谷文晁」の実の弟.養子に行って「島田元旦(しまだげんたん)」を名乗ります.文晁の弟だけあって元旦も絵が得意.円山応挙の弟子でもありました.
 しかし本業は鳥取藩士.「寛政11年(1799年)松平忠明が蝦夷地取締御用掛として蝦夷地警備に赴いた際、蝦夷地の産物調査の一員として同行した。元旦の一行は植物調査を主体としたもので、幕府奥詰の医師で薬園総管を兼ねていた渋江長伯を隊長としていた。元旦は絵図面取りを担当し、蝦夷地各地の実景、植物、鉱物、アイヌ風俗を北海道の太平洋岸一帯で、4ヶ月に渡って調査した。(from ウィキペディア)」

 絵の得意な元旦は記録係として随行したものでしょうね.
 じつは,谷元旦は地質学界では有名な人物でもあります.当時の蝦夷地(北海道)のスケッチをいくつも残していて,その中には有珠山の当時の姿なんかもあります.1977年噴火前の姿をとどめる貴重なスケッチでありました.




 しかし,残念なことに「赤山紀行」そのものは,どこにあるものなのか,まったく判りません.まあ,見つかったとしても,超有名人の著作ですから,入手は不可能だと思いますが…

2020年3月11日水曜日

北海道における石灰岩研究史(9)


北海道における石灰岩研究史(9)

まとめ

 日本には江戸時代の末期に,すでにほぼ完成した地質学が,この蝦夷地に入ってきました.すぐに使える地下資源の調査が要求されていましたが,それは無知な政治家のむちゃな要求でした.ただでさえ,未開の北海道は簡単な調査すら,たくさんの神々=自然が拒む世界でした.にもかかわらず,ライマンはピンポイントの「資源調査」,北海道全体の概査「全道地質図作成」,くわえて「後継者の育成」までやってのけています.

 本来ならば全体の概査から有望地の選定,そして精査とすすむべきでしたが,当時の日本人には,最先端西欧科学技術である地質学への理解は,…なかったわけです.日本では政財界の要求するピンポイントの「資源調査」から入り,技術者および技術の理解者の増加をまって「地質調査」が始まるというパターンを取っています.現在でも,しばしば見聞きすることですが,「金メダルを取れる選手の育成」とか,「ノーベル賞を取れる学者の育成」とか,現場を知らない無知な政治家,お金しか頭にない財界の言い分ですね.
 そのような優秀なスポーツ選手,優れた学者を生み出すつもりなら,そのような「お役所視点」から,国民全体にすそ野を広げる「研究・教育視点」に軸足を移動する方が,結局目的地には早く着くんだと思いますがね.

 さて,近代地質学誕生の地(といわれる)英国では,資源開発や土木工事を進める中で,近代地質学が構築されてきたといわれています.それまでは,貴族や有閑階級のお遊びとしての「自然学」が中心でした.そこでは「地層累重の法則」とか,「(化石による)地層同定の法則」とか,観念的にではなく,現場で確認されてきたのでした.
 こういった法則は近代地質学の根本法則とされてきました.ところが,江戸時代末期から明治時代始めにかけて蝦夷地(北海道)に輸入されてきた「近代地質学」は,輸出先の蝦夷地で大変な試練にあいます.「地層累重の法則」や「地層同定の法則」は限定的にしか適用できないことが,昭和時代末期に明らかにされ地質学・層位学に激震が走りました.
 そして,この地の複雑な地質を解釈するために「付加体地質学」という現代地質学が誕生したのでした.

 以上.「北海道における石灰岩研究史」を終わります.
 なお,引用文献に関しては,とくに示しておりません.理由はいろいろです.あしからず.


2020年3月10日火曜日

北海道における石灰岩研究史(8)


北海道における石灰岩研究史(8)

当麻の石灰岩群
 藤原・庄谷(1964),鈴木ほか(1966)は当麻・愛別地域において,先第三系を先白亜系(日高累層群)と未分離白亜系に分け,先白亜系を「愛別層」と「当麻層」,未分離白亜系を「開明層」としました.そのうち,石灰岩を含む地層は当麻層で一括されています.鈴木ほかは当麻層は「空知層群の一部に…対比できそうである」としています.石灰岩は,顕著なものは熊の沢岩体(北隣の愛別図幅内),三丿沢岩体(当麻鍾乳洞を含む),小沢岩体(牛朱別川支流小沢沿い),椴山岩体(牛朱別川支流石渡川沿い)と呼ばれ,四ヶ所あります.
 1975年,橋本亘等は椴山岩体からペルム紀の紡錘虫と三畳紀のコノドントを報告しました(橋本ほか,1975英文).椴山岩体は地層の累重関係は以下のように示されています.

  火砕岩……………………………………………………………………………10m
  琥珀色塊状チャート……………………………………………………………20m
  含ペルム紀紡錘虫灰色石灰岩…………………………………………………2m
  塊状チャートと粗粒砂岩の互層………………………………………………180m
  含後期三畳紀コノドント石灰岩レンズを挟んだ黒色頁岩とチャート……10m
  塊状チャートと火砕岩類………………………………………………………30m

 ペルム紀石灰岩は紡錘虫のほかに石灰藻,小型有孔虫,苔虫類を含んでいます.紡錘虫類として見いだされたものは以下の通り.

  Nankinella cf. inflata (Colani),
  N. spp.,
  Staffella sp.,
  Reichelina sp.
  Schubertella (?) sp.

 これらの化石群では確定的なことはいえませんが,Reichelinaの存在から,上部の中部~上部ペルム系を示していると橋本らは結論しています.

 一方,三畳紀石灰岩は3m以下の厚さで,Batostomella様苔虫類と石灰藻を含みます.見いだされたコノドントは以下の通り.

  Palagondolella polygnathiformis (Budurov and Stefanov)
  Xaniognathus tortilis (Tatge)

 P. polygnathiformisはラディニアン階~カーニアン階の示準化石であり,おなじ群集はすでに猪郷ほか(1974英文)によって比布町の突哨山石灰岩から報告されています.当麻層はペルム紀と三畳紀の石灰岩を含み,その下部は(日高層群に属するとされる)愛別層を整合的に覆っていると考えられていますので,いわゆる日高層群とされる各地の地層は再検討されるべきだと橋本らは主張していました.そして,再検討が始まります.

 北海道のあちこちで再検討がされましたが,それを全部追いかけるのは大変なので,上川盆地・当麻・比布地域の石灰岩を中心に歴史を追います(本当は道南地域もやりたいのだけど,力尽きたので別の機会に(^^;).

 加藤幸弘は1983年度の卒業論文として当麻周辺の先第三系の層序を再検討しました.その結果とその後の追加調査の結果は,加藤ほか(19841986),Kato and Iwata (1989)として報告されています.すでに,“日高累層群”が分布するといわれたあちこちの地域から,様々な時代の化石が報告され,整合で累重するとされた地層同士の関係も,ほとんどが断層であるとされる時代に入っていました.
 当麻地域でも,当麻層中の石灰岩からペルム紀の紡錘虫,三畳紀のコノドントが発見され,当麻層は1)ペルム紀から三畳紀にかけての堆積物であること,2)全体として開明層,当麻層,愛別層の順に整合的に累重していると考えられていました(Hashimoto et al., 1975;橋本ほか,1975)が,多くの地域で石灰岩から産出する化石とその基質/母岩からでる化石とは時代が異なることが指摘されはじめていたのです.
 当麻地域の再検討でも,各地層はブロックとして断層で接触しているとされました(そう考える方が判りやすい,そう考えないと理解ができないということでしょうけど).そして,開明層の頁岩からは白亜紀後世(Early Cenomanian)の放散虫が産出し,当麻層からは橋本らが報告した中~後期ペルム紀の石灰岩,三畳紀(Late Ladinian ~ Carnian)の石灰岩のほか,(加藤ほか,1986の)TC1(チャートと石灰岩の互層)からジュラ紀末(Kimmeridgian~Tithonian)の放散虫,TC2(淡緑色頁岩)から白亜紀前期(Valanginian~Hauterivian)の放散虫,TC3(黒色~琥珀色層状チャート)からは三畳紀後期の放散虫が産出したとされています(加藤ほか,1986).一方,加藤らが“当麻層の泥質基質”と考えている資料からは,白亜紀前期(Barremian ~ Aptian)の放散虫が産出し,これより古い岩体は全て「異地性である」と結論しました.つまるところ,これらは「地層」の概念には当てはまらず,「地層」とよぶことはできない.そこで,加藤らは“当麻層”を「当麻コンプレックス」と呼ぶことを提案しました.

 Kato and Iwata (1989)では,さらに鷹栖方面に調査範囲を広げて,三つのゾーンに分け,おのおのゾーンでの発達史を構築しました.ゾーンⅠの鷹栖町地域ではすでに示したオルビトリナ石灰岩(アルビアン階)が報告されていますが,加藤らはそれを見いだせなかったようです.そして,その基質である鷹栖層の頁岩は放散虫化石の産出から当麻地区の“開明層”と同時代のセノマニアン階であるとしています.そして,これらの現象はオリストストロームにほかならないと結論しました.


加藤・岩田の三帯区分.
元図はあまりにも見にくいので,編集し直したかったが,
読み取り不可能な地層区分が多く,納得がいかないがご容赦.


加藤・岩田の「比布ー当麻地域の先第三系層序再編図」.
凡例の説明文が欠けているので推測.


 しかし,オリストストロームであるという解釈だけでは,三つのゾーンに分ける意味が不明です.推測するに,たぶん,遠く離れた堆積盆中に堆積した地層が多くの地殻変動を経て,現在たまたま接して同じ地域にあるのだ,と言いたいのでしょう.これはのちの「付加体地質学」に繋がっていくのだろうけど,この時点ではまだ明確に言われていません.
 また前期白亜紀の地層になぜこんなにオリストストロームが多発するのかという点に関してもなにも触れられていませんでした.

 こういったことで,古生層とされてきた“日高層群”は再編され,「地層」ではなく,「異地性岩体」より構成された「複合岩体」として扱われるようになってきました.
 と言う説明でなんとなく納得がいくかと思いますが,困ったことが生じます.ある地層から地質時代を示す化石が産出したとしても,その化石がその地層の時代を示しているとは限らない,ということです.また付加体として,遠くから運ばれてきた地質体が上下関係もバラバラに近接しているということは,地質学が科学として成立した時代から基本法則として信じられてきた「地層累重の法則」が成立しない,ということを意味しています.
 また,そのようなことがあるんだったら,化石で地層の時代を決めるということも限定付きということになり,地質の研究は大型化石・微化石・物理年代測定などなど,あらゆる研究者が必要なビッグサイエンス化せざるを得ない時代になったということでしょうね.

(つづく)