2008年5月28日水曜日

バーサス

J. L. パウエル(1998)「白亜紀に夜がくる(寺島英志・瀬戸口烈司,2001訳)」青土社

R. M. ウッド(1985)「地球の科学史=地質学と地球科学の戦い=(谷本勉,2001訳)」朝倉書店

 「白亜紀に夜がくる」は,ご存知「隕石衝突説」の本です.あ,白亜紀末の恐竜を含む「大絶滅」の原因論のことですね.あらすじはもう,現代人の常識と化していますので,解説する必要もないでしょう.
 「面白いな」と思ったのは,この本の「帯」にかかれているコピー(キャッチフレーズ)のことです.「〈たわごと〉はいかにして〈定説〉となったか」とあります.どこかで,聞いたようなフレーズです.

 「地球の科学史」のサブ=タイトルに見られるような「地質学と地球科学の戦い」ということを話題にするときには,しばしば用いられています.「大陸は移動する」という〈たわごと〉は,いかにして〈定説〉となったか….

 「地球の科学史」の原題は" The Dark Side of the Earth "といいます.訳すると,「地球の暗黒面」(!).
 要約すると(要約すると必ず不正確になるもんですが(^^;),「地球の暗黒面を扱ってきた“(錬金術にも等しい)地質学”は滅びて,“(真の科学である)地球科学”の時代がやってきた」ということです.
 皮肉なことに,日本にプレートテクトニクスが普及することを10年以上に渡って遅らせてきたと言われている地団研の出版している雑誌の名前が「地球科学」です.
 「10年以上に渡って遅らせてきた」と言えば,日本では「地団研」が犯人だそうですけど,海外でも(真実の普及を)「10年以上に渡って遅らせてきた」犯人がやっぱりいるそうです((^^;).「地球の科学史」の「序」に,そう書いてあります.
 「悪」は洋の東西を問わず,常にいるもののようですね((^^;).

 閑話休題
 この手の科学史には,一つのパターンがあります.結果として“勝利した”側を“正義”ととらえ,それまで主流だった(つまり“負けた”)側を“悪”と呼ぶことです.まるで,キリスト教が進出していった地域に元々いた“古い神々”を,キリスト教徒が“悪魔”と呼ぶみたいなことです.
 こういう善悪に二分する欧米的な世界観は,もともと日本人には会わないと思うのですが,“グローバル化”という(じつは)“欧米化”の著しい現代,いつの間にか私たちも,こういうパターンに疑問を持たなくなっています.

 現在の我々は,地質学者(=地向斜造山論者)と地球科学者(プレート論者)が論争して,地質学者が負けたということがあったように思っていますが,そんなことはありませんでした.
 こういう二つの理論があって,一方が生き延びて,もう片方が顧みられなくなることを「パラダイムシフト=パラダイムの転換」と呼ぶそうです.このパラダイムシフトという用語も“勝った側”の好きな言葉ですね.上記,二著者ともこの言葉で説明しています.
 調べてみると,この「パラダイムシフト」という用語も,非常に曖昧なもので,“勝った”側を正当化するために,編み出されたものかしら? と,思うぐらいです.

 さて,今を去ることン十年前.
 ちょうど,有珠山が噴火した年ですから,1977年ですか.北海道大学で地団研の総会が開かれていました.テーマは,「北日本中生代以降の造山運動の諸問題」でしたか.
 当時,私は修士課程に入ったばかりで,層位学をやりながら微化石の研究をしたいなどと,曖昧なことを考えていたお気楽な学生でした.微化石をやっているのに,本人の意思に関係なく,やがて「地向斜論者」と「プレート論者」に色分けされてしまうとは考えていなかった.ただ,北海道で地質学をやっている限りは日高山脈がなぜできたのか,には興味がありました.

 さて,シンポジウムの会場では,聴衆側の席の真ん中あたりで,大声でみなを非難する若者がおりました.若者は「地向斜造山論」を否定し「プレートテクトニクス論」を布教しているようでした.
 お分かりでしょうか?
 当時の北大で,地団研の日高山脈に関するシンポジウムの最中に,「PT論」をぶつ若者がいたのです.あり得ないことなのです.
 多分それは,今の東京工業大学教授・丸山茂徳氏だったのだろうと思います.
 お気楽な私は,その内容を覚えていませんが,こんなことを考えていました.「すごい人だなあ」,「この人,きっと湊正雄の若い頃にそっくりなんだろうなあ」と.

 さて,論争の結果はどうだったのでしょう?
 何も起きませんでした.論争自体が起きなかった.話は噛み合なかったのです.
 科学史上の論争なるものを,後追いすると,いつも似たようなことが起きているようです.二つの理論は噛み合ない.論争によって勝った負けたが決まるのではなく,いつの間にか,結果として勝った方につく研究者が増え,そうでない方は支持者がいなくなっていく.
 そしてある日,「地向斜造山論」に基づく論文は,斯界の雑誌への掲載を拒否されるようになる.
 実は,こういうことが説明できないので,「パラダイムシフト」なる便利な言葉が発明されたようです.

 お気楽な私としては,全く違う立場があれば,“その論争で,地質学自体の質が高まる”などと考えていたので,時代に取り残されることになります.言っときますが,「私は地向斜造山運動論者ではありませんよ((^^;)」.
 どちらの話も面白いと考えていた.言ってみれば,第三者的なところがありますね.
 「無責任だ」って? そんなことはありませんよ.「微化石の研究」と「造山論」とどうやって結びつけます? 地質学をやっていた人の大部分が同じ立場だと思いますね.

 昔,中国で,全く政治とは関係のない古生物の記載論文の冒頭に,毛沢東主席の肖像と彼への賛辞が書かれていました.そうしないと,印刷してもらえなかったようなのですね.かくて,日本でも,冒頭でプレートテクトニクスへの賛辞を述べないと,論文が掲載されない時代がやってきました(嘘ですよ:(^^;).
 でも,いろいろな立場で地球を考えることは,やはり許されないようです.現代科学は欧米に端を発するとはいえ,様々な立場の存在が許されないのは,やはり,キリスト教が根本にあるからなのでしょうか.
 そして,“負けた”方が,暗黒面に封じ込められる….
 悪魔の戯言だと決めつけられる….

 東洋人の考え方だと,「因果は巡る」のですけれどね.

2008年5月26日月曜日

知ってほしいこと

 昨日,「地質学史懇話会会報」が届いたので,目を通していると,面白い記述がありました.
 それは,島津光夫「風景論と風土論について」という論文なのですが,論文そのものではなくて,その「まえがき」にある記述です.そこには,“地質学者が書いた自然についての本はたくさんでているが,一般の人に読まれることはほとんどない”,“地質学の権威から酷評されるような本がベストセラーになっている”という論旨のことが書かれています.

 “どこかで,似たような記述を読んだばかりだな”と思い,記憶を探ってみると,それは,読み終えたばかりの三浦國雄「風水/中国人のトポス」のなかにある「東アジアの風水思想」でした.
 そこには,“まじめな風水研究の本は初版も売り切れずに絶版”,逆に,“机の位置を並び替えるだけで運気向上”などという「ちまちました」風水の本はベストセラー…,ということが書いてあります.



 ここからは,学ぶべきことがいくつも抽出できそうですが,それは置いといてもう一つ.
 いまだに朝のニュースショーなどで頻繁に行われている「星占い」.元々は,ニュートン物理学に従って,「初期条件がわかれば,未来が予測できる」という前程で,行われていたもんです.これも,似たようなこと.本来,その人が誕生した時間の地球と惑星と星座の位置関係などを決定して,その人の性格や未来を予想するというものですが,これは結構な作業を要することなので,こんなことができたのは,金に糸目を付けることのない権力者(王,皇帝,貴族など)の存在が前程です.
 そういう人たちがいなくなって,我々貧乏人の時代でも“占星術師”は生きていかなければならないですから,「薄利多売の時代」になる.
 だから,地球と惑星と星座の位置関係を計算するなんていう,めんどくさいことはやってられない.そこで生み出されたのが,「生まれたときに太陽がどの星座にいるか」だけ.これで,占星術師は“星座占い屋さん”に堕落します.
 以来,星のことは何にも知らなくても,星座占い屋さん”が多産します.
 こういうのにだまされているうちの娘なんかは,私が「今日は水瓶座の運勢は最低だけれど,魚座の運勢がいいから,父ちゃんは大丈夫」というと,「トーちゃんはずるい」などといいます.(^^;
 私は,2月18日生まれで,本当に翌日は魚座に変わります.

 それはともかく,本質的なことは忘れ去られ,“金色の風水グッズを持っていると金運があがる”などということだけが浮き上がる偽物横行の時代(失礼.三浦さんは“ちまちました風水”といってますので,偽物ではなく「ちまちま風水」とよびましょう(^^;).
 読ませたい文章を書くのか,売れる文章を書くのか,選択が迫られます.

 私? もちろん,売れない方を選びます.(^^;

2008年5月12日月曜日

恐竜の謎

「図解雑学 恐竜の謎」平山廉・小田隆(2002,ナツメ社)
「恐竜 雑学 謎と不思議」平川陽一(1990,日東書院)



 比較するのは,ちょっとかわいそうな気もしますが….題名が似ているからというだけです.

 平山さんは,カメ化石が専門の古生物学者.
 海外にもしばしば出かけて,本物の恐竜化石を体験しています.だから,書いてあることはすべて裏付けのあることです.通しで読めば,結構な恐竜通になれます.拾い読みでも面白い.
 なお,この本は著者から「謹呈」で,いただきました.

 一方,平川さんのほうは,「占術・超能力」が専門とか.
 コメントしづらいですが,たとえ正しい情報でも,眉に唾をつけたくなってしまうのは,しょうがないことでしょうか.たくさん本を読んでいるなあ…,という気はします.誤解を招くような記述も多いので,要注意ですね.

2008年5月11日日曜日

恐龍はなぜ滅んだか

「恐竜はなぜ滅んだか」(小畠郁生,1984著,岩波ジュニア新書87)
「恐龍はなぜ滅んだか」(平野弘道,1988著,講談社現代新書906)





 奇しくも同じ「題名」.実は二人の専門は,これも奇しくも「アンモナイト」.
 中身はだいぶ異なります.

 平野さんのほうは,題名どうり「恐龍」全般を解説しているのに比べ,小畠さんのほうは,もっと幅広い「古生物」に関する解説が伴います.これは,小畠さんの本が「ジュニア新書」で子供向けであるのに対し,平野さんの本は一般向けであることに関係があるのでしょう.

 さて,問題の「恐龍がなぜ滅んだのか」ということに関しては,二人の表明は大きく異なります.平野さんのほうが,かなりの紙面をとって様々な絶滅原因説を解説しているのに対し,小畠さんのほうはごく簡略に済ませています.

 この当時は,まだチチュルブ隕石孔は発見されていませんので,二人とも「何にしろ,環境の変化が原因」と済ませているところが面白い.

 チチュルブ隕石孔の発見は,非常にインパクトがありますので,ここの部分は書き換えないと両著とも,もう顧みられることはないでしょう.

氷に刻まれた地球11万年の記憶

 「氷に刻まれた地球11万年の記憶」(R. B. アレイ著,ソニーマガジンズ)
 原題:The Two-Miles Time Machine



 意外と難なく読めました.
 細かいことは気にせずに読むのがコツのようです.

 迂闊でしたが,本の帯に「異常気象=それが地球本来の姿である」とあり,その実態を読もうとしてたのですが,何のことはない,いつも見ている酸素同位体による第四紀気候変動の図のことでした.
 それから,ここ一万年ぐらいは非常に気候が安定しているという判断なのですね.それ以前はたしかに気候変動が激しく常に上下しているようにみえる.
 このことから,人類が定住して農耕を始めたのは,人類の知能が高くなったからではなく,気候が安定したので,農耕が可能になっただけだという判断です.

 なにかのきっかけで,この極端に安定した気候が崩れると(というよりは,これまでは気候は変動しているのが当たり前で,そのために人類は地球を彷徨していたという訳です)カタストロフが起きかねないという訳です.

 なかなか,面白いですが,なぜそういう変動が数年の単位で起きるのか,結局,よくわかりませんでした.

 ボーリングコアの解析では,そんな精度はないと思うんですが….

マンモス絶滅の謎

 「マンモス絶滅の謎」(P. D. =ウォード著,Newton Press)
 原題,The Call of Distant Mammoths: Why the Ice Age Mammal Disappeared.



 巻末の「訳者あとがき」にもありますが,マンモス(そのものについて)の本ではありません.前半半分以上は,マンモスの時代以前の絶滅について書かれており,後半はマンモスの絶滅をテーマに書かれています.

 しかし,マンモスそのものに中心はなく,いわゆる「絶滅論」とか「絶滅論史」とか,抽象的な議論ばかりです.マンモスそのものについて知りたいひとは,買うと腹が立つでしょう.

 著者の文章は,抽象的な「お話し」が多く,なかなか論旨についていけません.「かもしれない」とか,「らしい」が多く,個々のキーワードもいきなりでてきたりして,解説もないので面食らいます.
 多分,「『うちわ受け』的なジョークなんだろか」と思います.

 腹が立つので,ヴェレシチャーギン著「マンモスはなぜ絶滅したか」(東海大学出版会)を探し出してきて,今読んでいます.こちらには,マンモスそのものやマンモス動物群についても詳細に書いてあります.
 もう一つ,こんな昔の本が未だに販売されてることに感動しながら.

 そもそも「マンモス絶滅の謎」をなぜ読み始めたかというと,C.=コーエンの「マンモスの運命」(新評論)を読んだからなんですが.こちらも,本の題名と中身が違います.マンモス研究を題材に,「古生物学の歴史」を概観するのが目的のようです.
 こちらの文章はもっとひどいです.回りくどく,何がいいたいのか,さっぱり伝わってこない.

 最近特に感じることですが,この手の「普及書」は難解な文章が多くて,「読み手」を意識していないんではないかと思わせます.こういう本ばかり出版してたら,「そりゃあ本を読む人はいなくなるわな」と思わせます.
 出版業界の不況は,たぶん構造的なもんなのでしょう.出版社が「書き手」と「読み手」を育ててこなかった.そのつけが今きてるんでしょうね.ついでに言えば,「訳者」も.

 さて,ウォードの「マンモス絶滅の謎」のせいで,もう一冊読まなけりゃあならなくなりました.それは,ここ10万年程度の気候変動の話なんですけど,途中で放り出してあるやつです.最悪な文章なもんで(実はアマゾンの書評にもありますが,訳者が悪いらしい.文章が難解なだけではなく,単語の訳も間違っているらしい).それは,R. B.=アレイの「氷に刻まれた地球11万年の記憶」です.

 気候変動ものの本は増えてきていますが,やっつけ仕事が多いのでしょうかね.

日本列島の誕生

「日本列島の誕生」(平朝彦著,岩波書店(新赤版148))

 4/28の湊・井尻「日本列島」の現代版ですね.

 某博物館に勤めていたとき,日本列島の地史をヴィジュアル化しなければならなかったんですが,苦労に苦労を重ねて,やっと出来上がったあとに,この本が出版されました.
 知らない人にパクったといわれました.(^^;

 当時は,古地理図などは湊正雄(編)の地向斜造山論に基づくものしかなくて,PT論に変換するのが大変でした.この頃はすでに,地向斜造山論はゴミ同然の扱いを受けていたんですけどね.それでも,博物館では延々と地向斜造山論に基づく“古地理図”を表示していたものでした.それしかなかったからですが.

 実際にこの作業をやった立場から見ると,地向斜造山論もプレートテクトニクスも大して変わりませんでした.学者の論争ほど違いがある訳ではないんですね.

 詳しいことは,そのうち機会があれば説明しましょう.

 この本も,丸山・磯崎の「生命と地球の歴史」と同じで,“教科書”ですね.読んで面白い本じゃあないんですね.地質学の素養があれば別ですが.

 このあたりが,湊さんの本と違うところでしょう.

 今見直していたら,この当時はまだ,井尻・湊の「地球の歴史」が生きていたようで,裏表紙の見返しに広告が載ってました.

地球の歴史

「地球の歴史(第一版)」(井尻正二・湊正雄著,岩波書店(青版285))
「地球の歴史(改訂版)」(井尻正二・湊正雄著,岩波書店(青版554))
「地球の歴史(第二版)」(井尻正二・湊正雄著,岩波書店(青版887)) 

 いずれも絶版.
 「日本列島」とセットで読んだものです.

 もしかしたら,地球の歴史を解明する学者になれるかもしれないと思い込んでしまった.

 今,読み返しても,面白いことがたくさん書いてあります.著者はすでに亡くなっていますので,復刊は無理なんですけど,もったいない.

 現在は,これに匹敵する本としては,「生命と地球の歴史」(丸山茂徳・磯崎行雄著,岩波書店(新赤版543))がありますが,こちらは正直な話,あまり面白くない.教科書みたいですね.

2008年5月10日土曜日

日本列島

「日本列島(初版)」(湊正雄・井尻正二著,岩波書店:岩波新書(青版310))
「日本列島(第二版)」(同上:岩波新書(青版589))
「日本列島(第三版)」(同上:岩波新書(青版963))

 いずれも絶版
 私が初めて読んだ,湊先生の著書です.

 北大地鉱教室に学部移行してから,自主ゼミで使った本ですね.すぐに第三版がでたので,それも買って読みましたが,第二版のほうは「ボロボロ」(^^;.

 何回も読み返したようですが,細部はほとんど覚えていないですね(^^;.今,読み返すと,ほとんどすべてがそこにありました.

 この本で,はじめて「地向斜造山運動論」なるものを知りました.

 学部移行する前に,すでに上田誠也(1971)「新しい地球観」を読んでましたし,当時は小松左京の「日本沈没」がベストセラーになってましたから,最初に接したのは「プレートテクトニクス」だったんですが,なぜかなんの疑いもなく,湊正雄にハマりました.

 言い方が非常に不正確ですね.

 実は,地質学をやるのに,「地向斜造山運動論」を信じていようが,「プレート論」を信じていようが,何の問題もなかったんですね.どちらの話も面白かった.

 地質学が面白かった.そんな時代の本です.

地質学の本

 本棚があふれてきたので,頻繁には使わない本から,別の場所にしまい込む必要がでてきました.

 しまい込む前に,ここで紹介してから……と,思いまして.

 何のことはない.「地質学の本」というラベルが,一つ増えるだけなんですが(^^;

2008年5月7日水曜日

石狩炭田の興亡

没ネタは,一応12で終わりです.
ただ,データを並べただけにすぎませんが.

昔,シムシティーとか言うゲームがあったと思います.初期値を与えておけば,人が集まってきて文明を生み出し,最後は宇宙へ向かって旅立つとか(私はやったことがないのでよく知りませんが).

こうやって,データを並べてみると…,
アイヌが時々,猟にやってくるほかは誰もいなかった山中に,ある日,ハンマーの音が響き渡り,また静かになります.
しばらくすると,ガヤガヤと人がやってきて,鉄道を造り,町を作り,石炭を掘り出し,あっという間に都市ができあがります.
しかし,まだ石炭を掘り尽くしてもいないのに,どんどん人がいなくなり,廃墟だけが残される.

要するに初期値を間違えたのでしょうけど.残るは「諸行無常」.
なにか悲しい.
こちらをうまく表現できると,いいんですけどね.

真谷地・登川付近の炭鉱と鉄道




没ネタ,その12です.

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真谷地・登川付近の炭鉱と鉄道

「真谷地炭鉱専用鉄道」
・真谷地炭鉱には,国鉄沼ノ沢駅から北炭・真谷地炭鉱専用鉄道が分岐,真谷地炭鉱から石炭を搬出していました.

1905(明治三十八)年 沼ノ沢貨物駅新設.
  ・翌年,追分~夕張間が買収・国有化され官設線となりました.その翌年,官設鉄道の紅葉山~楓間が開通しました.
1905(明治三十八)年 北炭,クリキ炭鉱を買収.これを「夕張第二礦」と呼ぶ.
  ・同年,夕張第二礦(真谷地坑と楓坑)の開発に着手.
1913(大正二)年 沼ノ沢~真谷地間に専用鉄道を開通.
1919(大正八)年 北炭,三井鉱山から登川坑を買収.
1978(昭和五十三)年 北炭再建に伴い,北炭・真谷地炭鉱として分離,独立.
1987(昭和六十二)年 北炭・真谷地炭鉱閉山.
  ・同年,北海道炭礦汽船・真谷地炭鉱専用鉄道,廃止.

「夕張線・登川支線」
・この地域には,三井鉱山専用線として敷設された鉄道があり,のちに国鉄・夕張線・登川支線になりました.登川炭鉱・楓炭鉱の石炭を搬出していました.

1910(明治四十三)年 “登川炭鉱”開坑.
  ・翌年,三井鉱山が登川鉱区を買収し,登川炭鉱の開発に伴い,三井鉱山専用線(登川~楓間)が開通.
  ・1916年に三井鉱山専用線が国鉄に譲渡され夕張線・登川支線となりました.
1919(大正八)年 北炭,登川鉱区を買収.真谷地礦の楓坑と共に操業.
1953(昭和二十八)年 登川炭鉱,廃止.北新工業と新北海鉱業が旧登川本坑で採炭.
1981(昭和五十六)年 石勝線開業準備のため,夕張線・登川支線,廃止.
  ・同年,楓駅移転.登川駅廃止.石勝線営業開始.紅葉山駅を新夕張駅と改名.

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2008年5月6日火曜日

夕張川流域の炭鉱と鉄道





没ネタ,その11です.


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夕張川流域の炭鉱と鉄道

「大夕張鉄道」
・夕張川上流域沿いには,大夕張鉄道があって,付近の石炭を搬出していました.

1907(明治四十)年 大夕張炭鉱会社,設立.
  ・1911年には,大夕張炭鉱専用鉄道(清水沢~二股:のち南大夕張間)が開通します.
  ・1916年,三菱合資会社が大夕張炭鉱会社を買収.二年後には,三菱合資会社の鉱山部が独立して三菱鉱業株式会社を設立しました.
1929(昭和四)年 炭鉱の北部展開に伴い専用線を延長.
  ・南大夕張~通洞(のちの大夕張炭山)間が延長されました.
1944(昭和十九)年 北炭,遠幌鉱区で遠幌斜坑の開発を開始.
  ・1951(昭和二十六)年 清水沢斜坑が遠幌斜坑と開通.翌年,清水沢坑と遠幌坑を統合し,清水沢炭鉱と改称しました.
1950(昭和二十五)年 三菱鉱業,美唄鉄道を買収.
  ・三菱鉱業・大夕張鉱業所・鉄道課による三菱鉱業・大夕張鉄道となりました.
1966(昭和四十一)年 三菱鉱業・南大夕張鉱が新鉱開削に着手。
  ・1970(昭和四十五)年,三菱南大夕張炭鉱,操業開始.
1969(昭和四十四)年 三菱鉱業,石炭部門を分離.
  ・鉄道は三菱大夕張炭鉱株式会社大夕張鉄道となる.
1973(昭和四十八)年 三菱石炭鉱業・鉄道となる.
1975(昭和五十)年 北炭・夕張新炭鉱の営業出炭を開始.
  ・夕張新炭鉱は1970年から清水沢方面で開発されていたものです.
1973(昭和四十八)年 三菱大夕張炭鉱,閉山.
  ・同年,南大夕張~大夕張炭山間,廃止.同年,三菱大夕張炭鉱は三菱石炭鉱業となり,鉄道名は三菱石炭鉱業鉄道となりました.
1980(昭和五十五)年 北炭・清水沢炭鉱,閉山.
1987(昭和六十二)年 三菱南大夕張炭鉱の合理化で鉄道廃止.
1990(平成二)年 三菱南大夕張炭鉱閉山.

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2008年5月4日日曜日

志幌加別川・阿野呂川付近の炭鉱と鉄道





没ネタ,その10です.


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志幌加別川・阿野呂川付近の炭鉱と鉄道

「夕張鉄道線」
・夕張鉄道線は野幌~新夕張(のち夕張本町)間に敷設され,主に北炭・夕張炭鉱からの石炭を輸送していました.途中の新二岐駅からは角田坑・専用線が分岐し,角田坑の石炭も輸送していました.
・夕張鉄道は,室蘭本線の栗山駅と連絡し,函館本線の野幌駅とも連絡していました.

1890(明治二十三年) 北海道炭鉱鉄道会社,夕張炭鉱の開坑に着手.
  ・夕張郡志幌加別に夕張採炭所を設置.(のちの)夕張第一礦を開坑.
1892(明治二十五)年 夕張炭鉱(本坑,のちの第二礦)の採炭を開始.
  ・同年,北海道炭鉱鉄道(追分~夕張間)により,鉄道開通.
1897(明治三十)年 落合徳,新夕張炭山開坑に着手.
  ・新夕張炭山は何度か所有が替わり,谷新夕張炭山,新夕張礦と名称を変え,1920年に北炭の所有となり,1938年から夕張三礦と呼ばれるようになりました.
1926(大正十五)年 夕張鉄道,開業.
  ・当初は,栗山~新夕張(=のち夕張本町)間が開業し,四年後に野幌~栗山間が延伸開業されました.
1954(昭和二十九)年 北炭・平和炭鉱,本格出炭開始.
  ・平和炭鉱は,石狩石炭を買収したもので,かつては若菜辺礦とよばれていました.
1971(昭和四十六)年 夕張鉄道線(鹿ノ谷~夕張本町)間,廃止.
  ・1975年には夕張鉄道線(野幌~鹿ノ谷)間が廃止され,夕張鉄道線は消滅しました.
1975(昭和五十)年 北炭・平和炭鉱閉山.
1980(昭和五十五)年 石炭博物館開館.
1982(昭和五十七)年 北炭・夕張新炭鉱,閉山.

「角田炭鉱専用鉄道」
・夕張鉄道・新二岐駅からは角田炭鉱専用鉄道が分岐し,角田坑から石炭を搬出していました.

1933(昭和八)年 北炭,角田炭鉱を直営とする.
  ・それまで下請けに採掘させていた角田炭鉱を角田坑として夕張鉱業所の所管としました.
1934(昭和九)年 北炭角田炭鉱専用線(角田坑~新二岐間),開通.
1954(昭和二十九)年 北炭・角田礦,廃止.
  ・同年,角田炭鉱株式会社・新二岐炭鉱として再生.新二岐駅接続の北炭角田炭鉱専用鉄道を角田炭鉱株式会社に譲渡しました.
1970(昭和四十五)年 角田炭礦・新二岐礦,閉山.角田炭砿・専用鉄道廃止.

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2008年5月2日金曜日

幌向川流域の炭鉱と鉄道



没ネタ,その9です.






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幌向川流域の炭鉱と鉄道

万字線
・万字線は,万字炭鉱から石炭を搬出するために,万字軽便線として敷設されました.
・1892年,北海道炭鉱鉄道の岩見沢~室蘭間が開通.その後,志文~万字炭山間を結ぶ軽便鉄道が1914年に開通しました.途中の美流渡駅から,美流渡坑・専用線が分岐し,美流渡炭鉱の石炭を搬出していました.美流渡炭鉱閉鉱後,1967年に美流渡専用線が廃止.万字線も万字炭鉱閉山後,貨物輸送が廃止され,やがて全線が廃止されました.

1905(明治三十八)年 北炭,万字坑を開削開始.
  ・四年後,万字坑の出炭開始(架空索道により夕張第一鉱・選炭場へ搬出).
1914(大正三)年 万字軽便線(志文~万字炭山間),開業
1918(大正七)年 北炭・美流渡炭鉱,開削開始.
  ・三年後,専用鉄道(美流渡炭鉱坑口~美流渡),開通
1922(大正十一)年 万字軽便線,万字線と線名改称.
1960(昭和三十五)年 万字炭鉱,北炭から独立し万字炭鉱株式会社となる.
  ・同年,美流渡炭鉱も独立し美流渡炭鉱株式会社・美流渡鉱業所となりました.
1966(昭和四十一)年 北星炭鉱が美流渡炭鉱の経営を引継ぐ.
  ・しかし,すぐに採掘中止.翌年,美流渡専用線,廃止.
1971(昭和四十六)年 北海栗沢炭鉱,閉山(開鉱年不詳).
1974(昭和四十九)年 朝日炭鉱,閉山(明治末期から運営されていたとされる).
1976(昭和五十一)年 万字炭鉱,閉山.
  ・1985年,万字線は全線廃止されました.
  ・北星炭鉱撤退後,伊藤炭鉱が美流渡炭鉱跡に進出し,露天掘りをおこなっていました1988年に中止されました.

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幾春別川流域の炭鉱と鉄道





没ネタ.その8です.





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幾春別川流域の炭鉱と鉄道

幌内鉄道
・幌内鉄道は,幌内炭田からの石炭輸送のためにつくられました.のちに,幾春別まで延長され,百年以上にわたって石炭を運んでいました.

1878(明治十一)年 幌内炭鉱,開坑に着手.
  ・順次,坑道を整備し,本格的な出炭は1882年から.
1880(明治十三)年 嶋田純一・山際永吾が幾春別及び奔別にて炭田を発見.
  ・5年後,官営幾春別炭鉱の開坑に着手.中断を繰り返す.
1882(明治十五)年 手宮~幌内間鉄道開通.
  ・1888年,幌内鉄道,延伸(幌内太:のちの三笠~郁春別:のちの幾春別)開業.
1889(明治二十二)年 北海道炭鉱鉄道会社(以下,北炭と略す),設立.
  ・幌内炭鉱・幾春別炭鉱と幌内鉄道も北炭に譲渡されました.
1902(明治三十五年) 奔別炭鉱(1902~1928),開坑.
1905(明治三十八年) 唐松炭鉱(1905~1943),開坑.
1906(明治三十九)年 幌内鉄道,国有化.
  ・1909年に名称が国有鉄道幌内線となり,1943年に幌内太駅を三笠駅と改称しました.
1914(大正三)年 弥生炭鉱(1914~1960),開鉱.
1928(昭和三)年 住友,奔別炭鉱を買収.
  ・住友奔別炭鉱は,1960年に弥生炭鉱も買収,1970年まで住友奔別炭鉱・弥生坑として出炭していました.
1931(昭和六)年 昭和鉱業・新幌内坑,開鉱.
  ・昭和鉱業は1941年に北炭に売却され,北炭・新幌内鉱業所となりました.
1953(昭和二十八)年 北炭・幾春別坑,採掘中止.
  ・四年後,北炭・幾春別坑,廃止.
1971(昭和四十六年) 住友・奔別炭鉱,閉山.
1973(昭和四十八)年 新三笠炭鉱,閉山.
1976(昭和五十一)年 桂沢で「エゾミカサリュウ」発見.
1987(昭和六十二)年 JR・幌内線,廃止.
1989(平成元)年 北炭・幌内炭鉱,閉山.

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2008年5月1日木曜日

美唄川付近の炭鉱と鉄道




没ネタ,その7です.

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美唄川付近の炭鉱と鉄道

「三菱鉱業美唄鉄道線」
・美唄市東方の美唄川には,三菱鉱業美唄鉄道線があり,周辺の炭田から石炭を搬出していました.当初,美唄軽便鉄道(美唄~美唄炭山)が運営開始し,のちに三菱鉱業専用鉄道(美唄炭山~北二ノ沢)が営業開始します.これらは,美唄鉄道によって買収され経営が一本化されて,美唄川流域の中小の炭田を含むたくさんの炭山から石炭を供給しました.のちに三菱鉱業が美唄鉄道を買収し,三菱鉱業美唄鉄道になります.

1914(大正三)年 石狩石炭,美唄軽便鉄道(美唄~美唄炭山)の運輸営業を開始.
  ・翌年,美唄鉄道が美唄軽便鉄道を買収.
1915(大正四)年 三菱合資会社,飯田美唄炭鉱(1913~1915)を買収.
1919(大正八)年 三菱鉱業専用鉄道(美唄炭山~北二ノ沢),運輸開始.
1924(大正十三)年 美唄鉄道,三菱鉱業専用鉄道を買収.
  ・美唄鉄道の買収によって経営が一本化され,常盤台駅を設置し,美唄炭山~常盤台間の営業が始まりました.
1941(昭和十六)年 三井美唄,新美唄炭鉱(1915~1941)を買収.
  ・新美唄炭鉱は,もとは徳田炭鉱(1910~1915)と呼ばれていました.
  ・三井新美唄炭鉱をへて,1951年,三井美唄炭鉱・第二坑に改称されました.
1950(昭和二十五)年 三菱鉱業が美唄鉄道を買収.
  ・三菱鉱業美唄鉄道事務所が運営する三菱鉱業美唄鉄道となります.
1952(昭和二十七)年 北菱産業,我路炭鉱を開坑.
  ・我路炭鉱はこの地域の炭山としては最後になる1973年まで営業していました.
1972(昭和四十七)年 三菱美唄炭鉱が閉山.
  ・同年,美唄鉄道線,廃止.

「南美唄支線」
・美唄川支流・南一の沢には,南美唄支線が敷設されていました.南一の沢から奥には複数の炭鉱がありましたが,三井美唄炭鉱に吸収され,南美唄支線から石炭を運び出していました.

1915(大正四)年 沼貝炭鉱,開坑.
1924(大正十三)年 光珠炭鉱,沼貝炭鉱を買収.
1928(昭和三)年 三井美唄炭鉱,創立.光珠炭鉱を買収.
1931(昭和六)年 南美唄支線(美唄~南美唄間),開通.
1962(昭和三十七)年 三井美唄炭鉱,子会社・三美鉱業を設立.
  ・三美炭鉱は三井美唄炭鉱の一部を引き継いで操業を開始し,翌年,三井美唄炭鉱は廃業しました.
  ・三美鉱業は1970年に露天坑を開設,1973年まで出炭していました.
1973(昭和四十八)年 三美炭鉱,閉山.
1973(昭和四十八)年09月09日 南美唄支線,廃止.

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