2018年12月16日日曜日

Amazonのバナー

  ↘に,いくつかのテーマにしたがって,選んだ本をバナーのかたちで紹介して置いたのですが,Amazonの方で,そういうバナーの供給をやめてしまったので,みっともないバナーが並んでいます.

 面倒くさいので,しばらくそのままにしておきます.
 

2018年12月12日水曜日

三つの文化

 
 「新石器時代と“縄文”・“弥生”時代」で触れましたが,「“縄文”・“弥生”時代」に関する疑問.もっとスッキリさせてる本がありました.それは↓.

藤本(2009)

 この本の12頁に,下のような図があります.藤本さんは考古学者なので,層位学に逆らって「古い方を上に,新しい方を下に」描いています.「地層累重の法則」に従う地質屋としては非常に入力に苦しむ図ですが,ま,これは仕様がない((^^;).
 もう一つ.本文では(これまでに比べれば)非常に柔軟な思考をしているのですが,図にしてしまうとご覧のように枡目状の時代区分になってしまってますね.


藤本図

 これを,本文にあわせてイメージすると下のようになるかと思います.なお,時間軸を縦軸にすると,私には理解しにくくなるので横にしてみました.


メタ図

 これを見ると,「日本という天皇の国家」が幻想の上になり立つということがよくわかります.はっきり言って,戦乱の大陸・半島から流民・移民が,排他的とはいえない“縄文”人(水田文化の“弥生”人と自然の恵み重視の“縄文”人ではニッチが違う)の中に入りこみ,徐々に勢力を伸ばし“縄文”人を排除してゆく様子がよくわかります.
 縄文人の抵抗(=東北人と「日本国」との戦い)は網野(2008)の図(↓)が分かり易いですね.

網野(2008)


戦い

 そうはいっても,縄文人と弥生人とは明確に分けられるものではなく,アイヌと琉球人は比較的色濃く縄文人の血を残しているものの,北海道を含めた日本列島にいる“日本人”は,ほとんどみな縄文人と弥生人の混血なわけです.どちらかが濃い薄いはあるでしょうけど….

 最終的に列島を制覇した“弥生”人は,今度は昔追い出された大陸や半島へ向かって進軍を開始します.それが「大東亜戦争」だったのかもしれません.

 

2018年12月7日金曜日

徳内の愛妻3 徳内家の子ら

連れ子「さん」のちの「ふみ」

「「ふで」この年十九歳、初め十四歳にて一度嫁し、一女「さん」(後のふみ)を産んで夫に死なれ、出もどつてゐたのであるが、こんど六歳の「さん」を連れて俊治の徳内と結婚したのである。」(皆川,1943p.74

  1783(天明三)年生まれ.
 「ふみ」は徳内の養子「鍬五郎」と結婚.たぶん,このころはまだ「さん」と呼ばれていただろう.結婚の時期は不明.徳内の長男「俗名不明:常観童子」が1795(寛政七)年七月に死亡しているので,嗣子がいない.であるから,たぶん鍬五郎を養子とした(つまり「さん」が結婚した)のはその後ということになる.しかし,徳内の目論見は外れ,鍬五郎は1801(享和元)年二月死亡.
 その後の動向は不明.1833(天保四)年十二月二十四日死去.

養子「高津鍬五郎」

「徳内養子鍬五郎」(皆川,1943p.340
「充之進不埒のため、ふみは離縁せられ一男三女を殘して徳内の家に戻つてゐた。ふみは不幸な女であつた。生後間もなく父親に死なれ、鍬五郎と結婚して間もなく夫に死なれ、女きよを徳内に託して山城充之進に嫁したのであつたが、今度は夫と子どもに生きながら別れなければならなかつたのである。」(皆川,1943p.341

 p.339の家庭図に,養子鍬五郎(享和元年二月十日死享年二十歳)とあるので,逆算して1782(天明二)年生まれ.1801年(享和元年二月十日)死亡.
 後述の長男が1795(寛政七)年に死亡しているので,徳内一家には嗣子がいない.鍬五郎を養子として「ふで」の連れ子「ふみ」を妻合わせたのであった.しかし,一女「きよ」を儲けただけで死去.島谷(1977)の家系図には「一男」が描かれているが,島谷の本文には現れず,皆川(1943)には影も形もない.島谷が示した家系図の間違いか,あるいは生後すぐに亡くなったのかも知れない.ただ,養子の子とはいえ,徳内一家の嗣子に当たる子である.なんの記述も無いのはおかしい.島谷編の家系図の「ミス」である可能性が高いだろう.

養子「高津鐵之助」

 皆川(1943)の本文中では,徳内の墓の北側に四つの墓碑があり,それらは「善門院通譽自性居士(二代目徳内效之進;後述)」,「靜譽寂道信士(鍬五郎)」,「常觀童子(実子長男)」,「善譽達道信士」の名が刻まれているという.このうち「善譽達道信士」は俗名「最上鐵之助常準」.「鐵之助」については,ほかになにも記述がないが,四つの別の墓があることおよび俗名から,鐵之助は養子であったことが推測される.つまるところ,1804(文化元)年には養子として入っており,1807(文化七)年には死去したことになるだろう.鍬五郎が死去したのは1801(享和元)年であるから,1801年から1804年の間に養子と迎えられたのであろう(1803年に徳内の実子・效之進が生まれているので,18011802年の間の可能性が高い).ちなみに鍬五郎は鐵之助の兄.皆川は高津家の家系図も示している.
 さすがに徳内夫婦も,連れ子「ふみ」を鐵之助に妻合わせることは憚られたらしく,鐵之助は「養子」としかない.しかし,1803(享和三)年に徳内の嗣子・效之進が生まれているので,養子・鐵之助は居場所がなかったのではないかと思われる.
 文化元年家庭図の鐵之助には「文化七年五月六日死享年二十七歳か」とある.墓に刻まれていたのだろうか.逆算して,1784(天明四)年生,1810(文化七)年没となる.

長男「常觀童子」

「この年二人の間に男子が生れた。これが寛政七年七月十九日八歳で亡くなった「常觀童子」であらう。」(皆川,1943p.75

 1788(天明八)年,徳内と「ふで」の長男生まれる.生年は記載がないが没年から逆算した.童子に関する記述はこれしかない.もちろん,童子は「ふで」出奔の時,背負うていた赤子である.

長女「もじ」

「八十吉が徳内の長女「もじ」を娶つたのは遅くとも文化十一年「もじ」十八歳頃のことである。」(皆川,1943p.340

 「もじ」の生年は,逆算して1797(寛政九)年.
 1834(天保五)年,徳内(当時,須磨男と称す)が「おふで」に代筆させた手紙に付けた自筆の手紙に「おもし 同居罷在候」とある.生年から計算すれば,この年38歳.

次男(嗣子)「效之進」

 皆川(1943)で次男・效之進の名が出てくるのは,339頁「文政元年徳内64歳の家庭図」が最初である.そこには「效之進十六歳」としかない.したがって,逆算すると生まれたのは1803(享和三)年となる.
 1829(文政十二)年の徳内の手紙によれば,效之進は二十七歳.嫁をもらって息子が二人いるが嫁の名前は書かれていないという.
 1835(天保六)年,「宗三郎(九歳)きみ(七歳)晴之助(六歳)三人を殘して二代目徳内效之進は遂に死んだ。」とある.

次女「かく」

 「かく」については,生没年すらはっきりしない.
 島谷(1977)の家系図によれば,二人の結婚相手が示されていて,「初婚:早川欽次郎(裕次ともいう。松前に罷越したまま帰らず)」と「再婚:太田亀吉(徳内八十歳の時にはかくの夫であった)」とあるのみ.
 1829(文政十二)年の徳内の手紙には,「末子「おかく」儀は去夏聟養子を貰ひ名は欽次郎、是は效之進子供も幼年の儀に付ひかへに致し置き、往々別家相立候樣にも可仕候。當年十九歳にて松前に舞越候早川八郎次男に御座候」とある.
 島谷(1977)がいう「裕次ともいう。松前に罷越したまま帰らず」は根拠不明であるが,皆川(1943)によれば,資料に「婿裕次」の文字があるので,「欽次郎ではなく裕次郎」の誤りかも知れないとしている.また,皆川(1943)が示した徳内の手紙の内容からは「かく」は早川家に嫁いだのではなく,「早川欽次郎」が「かく」の婿養子である.また,島谷は「松前に罷越したまま帰らず」というが,徳内の手紙からは松前に罷り越したのは欽次郎の親の早川八郎であり,その次男が欽次郎(十九歳)とも読める.1829(文政十二)年の家庭図には「かく」と欽次郎は「文政十一年夏結婚」とある.

 ところが,徳内八十歳の時の家庭図には,「おかく」の項目に,「夫 太田龜吉 子供當時無之候」とあり,欽次郎の名はない.皆川の記述によれば,「この祐次郎も「かく」と琴瑟相和さぬためか、天保三四年頃に離籍となり、太田龜吉と結婚した。婿養子だか、また太田龜吉の如何なる人物か説明がない。」とある.「ひかえ」にはならなかったようである.

この話題,おわり


徳内の愛妻2 ふでと徳内の子ら


 蝦夷地質学でも紹介したが,もう一冊,徳内の伝記がある.それは皆川新作(1943)「最上徳内」である.この本はすでに希少本と化し古書店でも容易に入手はできない.やっと入手した古書はすでにボロボロであった.
 その本から,徳内の妻・ふでと家族の姿を追ってみよう.

++++

妻「ふで」(1770~1840)
 1770(明和七),島谷「ふで」生まれる.
「嶋屋清吉(尚名又之丞)妹「おひて」もとより淫行にて嫁して不縁せり、十四時一女をもふく。先夫も後死せり。嶋屋より勘當せられたり。徳内と通し群少年(〇北行日録悪少年)の世話にて徳内秀子も嶋屋と和して嶋屋の向ふ店へ、かまとを立、野邊地の人別に入」(皆川,1943p.74

 「おひて」は「おひで」であり「ひで」である.「秀子」も同じ.上記は「征北窺管」からの引用文.「征北窺管」の著者は「濁点」を使用してない.また,本来は「ひで」と名づけられていても,上に「お」をつけて呼ぶことはふつうにあったようだ.下に「子」を付けるのも同じ.「ふで」の幼少時の名前は「ひで」だったらしい.島谷(1977)の「徳内家系図」にも「秀子」とある.
 皆川は「「ひで」は「ふで」の誤り」と書いているが,のちの徳内の娘たちは,なにか(とくに離婚・死別などの事件)あるたびに改名しているようだ.したがって,最初の名前が「ひで」で,恋愛の末に結ばれた先夫が死亡し,徳内と再婚するときに「ふで」と改名していたとしても不思議はない.

 島谷清吉の妹・「おひで」は,もともと淫行して嫁いだが縁がなかった.14歳の時に女の子を産んだ.それは「さん」,後の「ふみ」である.先夫はその後死亡.そして島谷からは勘当されていた.「群少年(=悪少年)」というのはなんだか不明であるが,彼らが仲介して「おひで」は勘当を解かれ,徳内と「おひで」は島谷の向かいの店に家庭を築き,野辺地の人別に入った.なお,野辺地時代の徳内は「俊治」を名乗っている.たぶん,このころ「ひで」は「ふで」に改名したのだろう.
 この時代の「淫行」がなにを意味するのかはわからないが,現代とはまったく意味が異なるだろう.十四歳で子どもを産むというのは,この時代ではふつうである.だから,それではない.しかし,島谷から勘当されていたというから,島谷当主・清吉の意に沿わない結婚だったことが推測できる.蝦夷地探検で有名な徳内を射止めたから勘当を解かれたのだろうか.

 たくましく想像を働かせば,「ふで」は激しく情熱的な女性だったのだろう.それは,のちに「徳内死す」の噂が伝わってきたときに,野辺地の島屋にいれば安定した生活をつづけることができたであろうに,生まれたばかりの長男を連れて江戸へと出奔したことでも想像が付く.しかし,記録は冷たく,彼女の産んだ子どもについて,しかも徳内家の嗣子関連のことしか残されていない.

  1783(天明三)年,先夫の子「さん」のちの「ふみ」を生んだ.
  1788(天明八)年に十九歳で徳内の長男を産んだ.
  1797(寛政九)年,徳内の長女「もじ」を産んだ.
  1803(享和三)年,徳内の次男「效之進」を産んだ.
   その後,次女「かく」を生むが,彼女の生年は不明である.

 ふでは,徳内を送った四年後,1840(天保十一)年六月廿八日徳内のあとを追った.享年七十一歳.戒名は「本譽浄誓信女」.次女「かく」を除く男児二人,女児二人は先に亡くなっていた.

 つづく…


徳内の愛妻1


 地質学史に関係ない女性を追いかけています.
 理由は一つ.以前「ライマンの一目惚れ」を書いたときに,ライマンの人となりがよくわかり,同時にそのころのライマンを取り巻く社会がよく理解できたような気がしたから.歴史は,点ではなく連続,過去現在未来という線でもなく広がりを持ったものだから….うまくいくかどうか.乞う御期待


 最上徳内妻「ふで」は1770(明和七)年,茂辺地の廻船問屋・島谷清四郎の娘として生まれた(島谷の屋号は「島屋」らしい).1788(天明八)年,最上徳内(三十四歳)と結婚.1836(天保七)年,徳内を送り,四年後病没.徳内と同じ墓に埋葬.七十一歳.

 われわれが,徳内の伝記として読める書籍には限りが有る.1977(昭和52)年,島谷良吉が著した「最上徳内」(人物叢書)が一般的であるが,この書はすでに絶版.徳内という人物すらも,すでに知ることが困難になっているのに,その妻などわからないことの方が多い.でも,わたしが知りたいことは,だいたいみんな知ることが困難な事ばかりなので,今さらとして,探ってみることとする.


 「ふで」の実家は島谷家である.島谷といえば,1977年に徳内の伝記を書いた著者は島谷良吉という.たぶん,島谷ふでの家系なのだろう.だが,人物叢書「最上徳内」には,明確には書かれていない.「はしがき」の最後の一行に「私の島谷宗家にもその御厚意に対し深甚なる謝意を表して止まない」とあるだけである.

 島谷(1977)には,わずかに「ふで」に関しての記述がある.
 第四章の四に「島谷ふでとの結婚」という節があるが,5頁にわたるこの節で「ふで」に関する記述はほとんど無く,野辺地の由来と町の概要が大部分を占め,その町に失意の徳内がやってきたことで占められる.徳内が参加した「天明の“蝦夷地探検隊”」は田沼意次の失脚により頓挫.再度蝦夷地に渡ろうとするも松前藩に阻止され,南部領野辺地で船頭・新七に厄介になっていた.
 そのころ,茂辺地の廻船問屋・島谷清四郎(島谷家三代目:清吉)は徳内が遠縁に当たること,また蝦夷地探検の有名人であることを知り,島谷分家の後継にと,清吉「妹ふで(秀子)と結婚」させることとした.この時,1788(天明八)年,上記のように,徳内は三十四歳,ふでは十九歳であった.それがいつの日のことであったのかは記述されていない.また,「ふで」は「秀(ひで)子」という別名を持つのか,あるいは単なる誤記なのかも,ここではわからない.
 1789(寛政元)年五月,クナシリ騒動の報が伝わり,徳内は青嶋俊蔵と合流し野辺地を発つ.松前に上陸したのは七月十五日というから,徳内とふでの新婚生活は一年前後であったろう.

 つぎに「ふで」が登場するのは,翌年,1790(寛政二)年である.クナシリ騒動後,青嶋俊蔵の獄死,俊蔵に随行した徳内も入牢の上死刑という噂が野辺地に伝わった.徳内を心配した「ふで」は神仏に祈ったが耐えきれず,七月末,“八戸の神事見物に行く”と偽り,家を出た.そのとき「幼い男児」を背負っていたという.「ふで」が二百里余りの道を歩き通し江戸に着いたときには,すでに十月になっていた.男脚の約二倍の日数がかかっている.
 江戸に着いた「ふで」は日本橋に宿を取り,徳内の無事を神仏に祈願したあと人通り多い道筋にたち,見知った顔を捜し徳内の消息を得るつもりであった.七日後,知り合いを見つけ徳内の消息を聞くと,すでに罪を許されて本多利明宅にいるという.そのまま本多宅へ向かう道で,偶然にも徳内に出会い,涙の再会を果たした.
 二人は,そのまま江戸は神田に借家し,親子三人で暮らし始めた.しかし徳内は,その年十二月二十二日,再び蝦夷地御用を仰せつけられ,二十九日には江戸を立った.二ヶ月足らずの家庭であった.

 その後の徳内の八面六臂の活躍は詳述されているが,「ふで」についての記述は見当たらない.最終章の「家庭生活」にもほとんど記述はない.ただ,徳内はたくさんの蔵書を持っていた“らしい”ので,その支払いを任されたであろう「ふで」はよき妻であった“のだろう”としかない.わずかに徳内八十歳の時に,野辺地に送った書簡の中から,当時の徳内の家族構成が示されている.そして最終章のあとに「最上徳内家系図」が掲載されているが,本文とはほとんど整合しない唐突さである.
 末尾には「略年表」がある.そこには,徳内二十九歳の時(ふでは十四歳),「一女ふみ生まる」とあるが,徳内と「ふで」が結婚したのは,上記のように1788年,徳内三十四歳の時である.「ふみ」は徳内が江戸で修行中の時に生まれたのだ.島谷はこの件に関してはなにも語っていない.
 「ふで」の実家の家系であろうと考えられる著者・島谷の割には,島谷良吉自身は分家である(明瞭には書いていないがそう読める)とはいえ,島谷宗家に謝意を表しているにもかかわらず,「ふで」の姿は見えてこない.

 こうなると,性格の悪い私は「ふで」の姿を追い求めてみたくなる.「ふで」と地質学はまるで関係がないのであるが,ご容赦(m(_ _)m).
   次回に続く…

 

2018年12月6日木曜日

家大人小傳

「家大人小傳」

 この文章は,かなり前に書いたものであるが,その後よりディープな探索中である.で,正確でないことはわかっているが,もったいないので投稿しておく.


 「蝦夷地質学(*1)」で「皆川の記述は,徳内の「自叙伝ともいうべき『家大人小傳(*2)』」から引用してるようだが,島谷の文献リストには「家大人小伝」は,「高津鍬五郎著」になっている.なお,「高津鍬五郎」は,徳内の養子である.「家大人小伝」というのはその所在は不明である.」と書いておいたが,その後,探検中にいくつかわかってきたこと(?わからないこと?)があるので記しておく.

 この「家大人小傳」は山形県村山市の文化財として現存することがわかった(*3).しかし,完全な「お宝」であるから,これを検討することはわたしには不可能であろう.それはともかく村山市HPによれば「女婿・鍬五郎が書いたものを、その死後、次男・鉄之助が校定印刷したものです。」とある.
 女婿・鍬五郎とは何者か.そこで,島谷良吉の「最上徳内」から「第十一 家庭生活」を見てみると,おかしなことがわかる.本文文章の記述と家系図とに整合性がない.たとえば徳内の妻の名は,本文では「ふで」であるが家系図では「秀子」になっている(無断引用を禁ず,とあるので図示しない).鍬五郎は長女「ふみ」の夫「高津鍬五郎」.これでは徳内は鍬五郎の義父ではあるが,婿養子とは見えない.徳内の長男は幼くして死亡したようであるが,総領として「效之進」がおり,婿養子をもらう必要もないのだ.ちなみに,村山市HPにある「鍬五郎の次男・鉄之助」は島谷の載せた家系図には出ておらず,娘の名「きよ」は出ているものの,男子の方は「男」ひと文字で略されている.
 そこで,皆川新作の「最上徳内」から家系をひろってみると,じつは「ふで」は再婚であり,長女「ふみ」とされる女性は「ふで」の先夫の子となっている.これでは「ふみ」が「高津鍬五郎」と結婚していたのだとしても,鍬五郎が徳内を「家大人(=父親)」と呼ぶのは奇妙である.

 そう思って,島谷の「最上徳内」の年譜ながめて,またまたびっくり.
 徳内は,1788(天明八)年,「島谷清吉・妹ふで(19歳)と結婚」とある.もっと驚くことには,結婚を遡ること五年前,1783(天明三)年に「一女ふみ生まる」とある.19歳で既に離婚歴があり,しかも13~14歳で生んだ娘を連れて再婚….あり得なくはないけど,なにかおかしい.皆川の示した系図がおかしいのだろうか.
 1801(享和元)年二月十日,「長女ふみ(さんに改名)の婿養子・鍬五郎病没(20歳)」とある.結婚したのがいつであったか書いていないのでなんだが,この年「ふみ」は18歳のはず.この部分では鍬五郎が徳内を「家大人」と呼ぶのは整合する.しかし,村山市HPを信ずれば,20歳でなくなった鍬五郎には「次男・鉄之助」が既にいたことになる.これはおかしい.
 なんとならば,1810(文化七)年五月六日,「高津家より養子に迎えたる鉄之助病死す(27歳)」とあるからだ.この年,1781年生まれの鍬五郎は生きていれば29歳.鉄之助27歳ならば,鍬五郎の次男は鍬五郎が3歳の時に生まれたことになるからだ.したがって,鉄之助は高津家の生まれであるにしても,「鍬五郎の弟」というのが,一番あり得るところだろうか.であるとすれば,鍬五郎が徳内を「家大人」と呼ぶのは整合する.それでもこの時期,徳内の嗣子・效之進は健在であるし,鍬五郎と結婚していた「ふみ」は山城充之進と再婚しているので「鉄之助」を養子にする必然性はないのであるが….
 つまり,よくわかってないことが,あちこちに書いて印刷してあると云う事ね.

 さて話は変わるが,「家大人小傳」では,なんのことかわからないので,「家大人小傳(最上徳内小伝)」とでもした方がいいだろう.
 なお,人物叢書に「最上徳内」を書いた島谷良吉は,徳内の妻・ふで(もしくは秀:ひで)の実家の系譜な可能性が高いが,明示されていない.

以下,よりディープな世界に移動・探索中…

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*1:蝦夷地質学:地団研・北海道支部のHPに連載していた.北海道支部がいつの間にか崩壊状態となり,こちらには何の連絡もないままにHPは閉鎖され,今は“まぼろしの「蝦夷地質学」”となっている.支部はほぼ無政府状態(だれに連絡すればいいのかサッパリわからない)なので,こちらで勝手に復活させようかな,とも考えている.
*2:家大人小伝:家大人(かたいじん)とは,自分の父親を敬っていう語である.したがって,高津鍬五郎は徳内の息子ということになる.

*3:村山市のHPにて紹介.公開はされていない.

2018年11月25日日曜日

新井白石の地質学

 
 新井白石は江戸時代中期の旗本であり,学者であった.現代的な分類で「~~学」,「~~学」といってもあまり意味のないことになるが,その頃の代表的な知識人といっていいだろう.かれは1657(明暦三)年に生まれ,1725(享保十)年に亡くなった.
 白石はたくさんの業績を残しているが,それは置いて,地質学に関係あるところを抜き出してみる.かれは1720(享保五)年,その時代の蝦夷地に関する知識を網羅した「蝦夷志」をあらわした.蝦夷志は,蝦夷地とその住人に関する記述であるが,「序」,「蝦夷地図説」,「蝦夷」,「北蝦夷」,「東北諸夷」からなる.
 そこに,地質学に関係する記述が一つ.以下.蝦夷志の「蝦夷」より….

「夷中は金玉を宝とせず(山に金銀を産し、海に青琅玕〈青玉〉を出すも皆採らず)。」
(奥州デジタル文庫「蝦夷志」より)

 具体的な地名こそないものの,蝦夷地の「山に金銀を産」するという.また「海に青琅玕〈青玉〉を出す」が,蝦夷(アイヌ)は「金玉を宝とせず」という(縄文時代の遺跡からは装飾として用いた翡翠が産している).

 「青琅玕」とは「青色の硬玉(=翡翠)」のこと.「青玉」とはサファイアを意味することが多いが,この場合はやはり「硬玉翡翠」のことであろう.道内に硬玉翡翠の産地は知られていない.「日高翡翠」といわれているのは「硬玉翡翠=翡翠輝石」ではなく,「クロム透輝石」(=軟玉翡翠)である.しかもこれが知られるようになったのは20世紀になってからのこと.「海から青玉が出る」というのは,本州の糸魚川や大陸から交易で持ってきたものが,間違って伝えられたものであろう.

 蝦夷地(道内各地)から銀はともかく,金は豊富に産し,松前藩を中心に民間人が採掘していたはずであるが,新井白石は知らなかった様である,この頃は,まだまだ「蝦夷地」は未知の世界だったのである.


2018年11月20日火曜日

林子平の地質学

林子平の地質学

 林子平は「江戸時代後期の経世家」として知られる.
 1738(元文三)年生まれ.1793(寛政五)年に死去.
 俗に「六無の歌」と呼ばれる「親もなし妻なし子なし板木なし金もなければ死にたくもなし」が,彼のすべてを表している.

 「板木」とは「版木」のこと.彼は「板木」と書いたのだが,のちの人間が勝手に「版木」に書きかえたらしい.この「板木」とは「三国通覧図説」(1785;天明五),海国兵談」(1786:天明六)の版木のこと.両著は幕府重鎮の逆鱗に触れ,発売禁止の上,版木は没収された.

 天明六年といえば,江戸幕府内で経済改革をおこない,蝦夷地開発を進めていた田沼意次が失脚した年.何が起こったか想像できるであろう.一方でこの年は,意次が派遣した蝦夷地探検隊の一人・最上徳内が千島を探検して得撫(ウルップ)島に到着している.

 さて,子平の「三国通覧図説」の「蝦夷」には,以下のような記述がある.本人の著作権は切れているので,できれば原文を載せたいところだが,いわゆる“お宝”なのでトラブル回避のため,わたくしめの現代語訳を示す.


【現代語訳】
 蝦夷地には,まず金山が非常に多いことが挙げられる.しかし,それを掘ることが知られていず,埋もれたままになっている.これは銀山や銅山もまた同じである.
 さらに砂金の出る地域が多い.それはクンヌイ(*1)、ウンベツ(*2),ユウバリ(*3),シコツ(*4)、ハボロ(*5)などである.この砂金は川に流れ出たものだけではなく,その産地は数10kmにわたって一面に生じる.たとえば,ハボロの砂金は海底より打上るとみえて,北西風で大荒れした後は浜に百数十㎞にわたって一面に金色になるといわれている.
 これらの金銀を採取せずに放置することは,まことに残念なことである.強く思うに,今これを採取せねば,こののち必ずロシア(*6)が取るであろう.ロシアがこれを採取したのちに後悔しても時既に遅しである.
 一説に,砂金を取ろうとしてハボロで越冬すれば極寒のため必ず死ぬという.たとえ死に至らなくても病を得て廃人となるのは必至で,行く人はいないと聞く.思うにそれは準備不足が甚だしいからである.ハボロにおいて寒さのために死人がでるのならば,ハボロより北に住む人たちはどうやって生きていけるというのだろうか.寒さのために人が死ぬというのは,暖かい地域の住人がなんの準備・対策もなく酷寒の地に行くからである.寒さ対策があれば,どうして死ぬことがあろうか.考えるべきである.
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*1:クンヌイ:kunne-nay (?) 「黒い川」というアイヌ語が語源とされる.訓縫(現在の長万部町字国縫)の事.「黒い川」の意味には諸説あり,川底が砂鉄で黒いからとか,川口から尾根まで10kmもなく日が暮れるのが早いからとかいわれている.別に伝説の巨鳥フリカムイが飛んできてあたりが暗くなったからというのもある.どれもイマイチ.さて,クンヌイの事であるが,実際は峠を一つ越えた今金町の利別川上流地域のことである.
*2:ウンベツ:不詳.様似郡を流れる「海辺川」流域か.様似町町勢要覧には1635(寛永十二)年「運別(西様似)の東金山で金採掘を行い,その河川に繁華な部落が形成された」とある.
*3:ユウバリ:夕張川のことと思われるが,その流域は広く,特定できない.しかし,石川貞治(1896)は「ユーバリ金田」の砂金・砂白金について書いている.このユーバリ金田とは主夕張川(シューパロ川)流域のことである.
*4:シコツ:「シコッ(sikot)」とはアイヌ語で,「大きな窪地」を意味するという.これは現在の「支笏湖」を意味するとか,支笏湖から流れ出る「川」(現在の千歳川:シコツの音が悪いので箱館奉行が縁起のいい「千歳」に改めたという)を意味するとか,諸説あるようであるが,たぶん両方なんだろうと思う.支笏湖周辺には「光竜鉱山・恵庭鉱山・千歳鉱山」などの金銀鉱山があった.
*5:ハボロ:現・羽幌川付近.ハボロに該当するアイヌ語は諸説あって不詳.子平はハボロについて詳しく著述しているが,実際にこの付近の海岸段丘・河岸段丘および沖積層の砂礫中には砂金および砂白金が含まれていることが知られている.羽幌の北約10kmの初山別村第二栄(旧セタキナイ)南方,南セタキナイ川上流では三浦鉱山が稼行していた.
*6:ロシア:原著では「莫斯哥未亞」(モスコウビアと読むか?)とある.

 さて,子平の原著では,蝦夷の地理・風俗に詳しい解説があるが,この部分の砂金に関する記述も,恐ろしく詳細である.では,これはどうやって入手した情報なのだろうか.

 じつは既に調べが付いている.詳しくはのちほど.乞う御期待.

2018年11月5日月曜日

新石器時代と“縄文”・“弥生”時代

 以前,「蝦夷の古代史」で縄文文化や弥生文化はあっても,縄文時代とか弥生時代はないのではないか…と書きました(2008.09.14)が,それは関根達人さんの「モノから見たアイヌ文化史」(2016)に図として明示されていました(2018.06.17).

 

 これは本土の時代区分と「東北地方」と「北海道」について示した図で,しかも,“弥生時代”末期からしかありませんが,このように図示することで明確になっています(関根氏は考古学者なので古い時代が上に示されていて,地質学を基盤とするわたしにはもの凄く違和感があるのですが…(層位学の原則として,下にある地層は古く,上にある地層は新しいから).それは別として…(^^;).



 これを別な面からサーチしたのが崎谷満(2008)「DNAでたどる日本人10万年の旅」です.明確に,日本列島には沖縄と本土(とくに関西)と北海道(ときどき東北も含む)の,最低でも三つの歴史がある,としています.これを図示してくれれば,ありがたいのですが,かれは分子生物学者で,他分野との無用な軋轢は避けようとしてるのか,言葉で示しているだけです(最近は「日本はひとつ主義者」たちも五月蝿いですしね).
 崎谷氏は歴史区分を「旧石器時代」と「新石器時代」にわけたうえで(新石器時代を「縄文と弥生」時代には分けていない:つまり,日本列島に縄文文化が散在するところに大陸から弥生文化がやってきて広がっていった:なお,「縄文人」といういい方もじつはおかしい;“縄文人”には複数のグループが混在している)議論しているのでわたしとしてはスッキリ.日本の歴史には「旧石器時代があるのに新石器時代がない」という,ずっと気になっていた違和感も解消.というわけで,学校で習った(即,国定の)「日本の歴史」はチャラに.こんなことを書くと,歴史家の方から,「地質学だって第三紀と第四紀があるのに,第一紀・第二紀はどしたんだ」といわれそうですが,これには深い(不快?)ワケがあります(「北海道化石物語」(構築中断中)の「新生代」あたり参照).簡単にいってしまえば,「第一紀~第四紀」という区分は廃止して,「古生代・中生代・新生代」という枠組みに組み直したはずなのに,新生代の区分は「第三紀と第四紀」を引き継いでもかまわないと考える研究者がいたことと,新生代を区分する「パレオジン・ネオジン」に「古第三紀・新第三紀」という誤訳を与えてしまった日本地質学会の重鎮がいたことです.この誤訳は,いまだに尾を引いています.

 崎谷(2008)について,もう一つ残念なのは,表題は「DNAでたどる…」なのに,材料がY染色体だけによるパースペクティブなこと.
 一方,篠田謙一「日本人になった祖先たち」(2007)は,こちらも副題「DNAから…」なのですが,ミトコンドリアDNAがメイン(一部,Y染色体についての記述もあります).こういったことをまとめて解説できる研究者はいないのでしょうかねえ….


 さて,全部一度(一度以上かな?(^^;;)読んだのですが,忘れている…というか,まったく自分のものになっていない((^^;;;).一遍全部通しで読みなおして,常識を再構築しなければ(^^;;;;).
 


2018年7月1日日曜日

有珠嶽とアイヌの傳説

 吉田巌(1910)「有珠嶽とアイヌの傳説」が入手できましたので,脚注つきでUPしておきます.

有珠嶽とアイヌの傳説     吉田巌

地理學上より見たる有珠嶽、歴史學上より見たる有珠嶽、古人の紀行に日誌にその記事や求む可し。近くは加藤學士の調査報告書*1及吉田博士の大日本地名辭書*2これを盡くせり。然も余はアイヌの傳説にして未世に紹介せられざるものあるを怨む。もとより零啐*3のものなりといへども一は以て這般*4の噴火を記念し、一は同好の士の參考に資せむとするまた強ち徒事にあらじと信ず。讀者希くは微意を諒せられむことを。
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*1:加藤學士の調査報告書:加藤武夫(1910)北海道有珠岳火山及び洞爺湖地質調査報文:第一編 地形論,第二編 一般地質構造論,第三編 有珠火山論,第四編 洞爺湖論,第五編 雑纂,のことと思われる.
*2:吉田博士の大日本地名辭書:吉田東伍(1907)大日本地名辞書.目次を見るかぎり北海道の地名には触れていない.
*3:零啐:漢語らしい.零=「0(この場合は「無」のことか)」,啐=「おどろく,よぶ,さけぶ,しかる」:「誰も言及しない」の意か.
*4:這般:(しゃはん)「この度の」.
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有珠嶽の名義に就きて
傳説を叙せむとするに先ち、一言有珠嶽の名義に就きて辮ずる處あらむとす。有珠嶽の名義に就きては諸説あり。然れどもアイヌ名はウスヌプリ*1にて原名ウショロヌプリ*2より轉約せし者なり。ウショロは灣、ヌプリは山の義、これ恰も陸奥宇曾利郡(宇曾利はアイヌ語ウショロ)に於ける恐山(恐はアイヌ語ウショロ)のそれと地形の髣髴たるを見る。又或書にイケウヱウセグル*3を以て有珠嶽の本名なりと註したる者あり。その解に曰く輕石を切り出すの義と、これ何によりてさる解釋を與へられしものなるか、余はこれを疑ふ者なり。何となればイケウヱウセグルとは山名にあらずして山神又は山靈の名なればなり。獨有珠嶽に限らず、山各靈ありと信ずるはアイヌの常習なり。イケウヱウセグルの名は有珠嶽占有のものにはあらざるなり。
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*1:ウスヌプリ:初出は松浦武四郎か.山田秀三(1984)が引用.
*2:ウショロヌプリ:初出は松浦武四郎か.
*3:イケウヱウセグル:永田方正(1891).「Ye kere use guru イェ ケレ ウセ グル 軽石ヲ削リ出ス神(有珠ノ噴火山ノ名ナリ)」とある.カタカナ綴りの違いについては,不詳.知里(1956)には「ye」の項目はあるが,「イケ・」に該当する項目はない.
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 「ウㇱ(us)」は,「入江;湾」(知里,1956).「ウソㇽ(us-or)」は「湾;湾内」(知里,1956).知里(1956)のどちらの項目にも有珠山の例は出ていない.

アイヌ神話の一
昔時大海の中に一の噴火山ありき。多くの神々其の周圍に集り、如何せばやと鎮火の議を凝しぬ。さる折しも一匹の燕、何思ひけむそのあたりを飛翔りて、切に嘲笑ひぬ。神々見とがめて曰く燕よ、汝何條鎮火の術をか知る、むだ口すな、そこ退けと追ひ立てければ、彼少からず怒り、體こそ小けれ吾が爲さむ様見給へとて天上さして舞ひ登るよと見えしが矢の如く走せ下りてスックと許焼山を含み抜き放ちてぞ陸上に移しける。もとより神ならぬ烏の仕業鎭火す可くもあらばこそ、其儘ひた焼けに焼けたるは今の有珠嶽なり。

 有珠山の創世にツバメが関係している伝説は,更科(1981)にもありますが,プロットはまったく異なります.もっと,別なバージョンもあったのかもしれません.
 記録されることもなく,伝承がなくなってしまったとすれば,まったく残念なことです.


アイヌ神話の二
昔老アイヌ子供を随へて有珠岳に登る。子供『山が育つたな』とつぶやきしに老アイヌさることやあると叱しけれは山神聞きとがめて怒をなし噴火せしめきといふ。

 山神はなにを聞きとがめたのでしょうね.
 子供にバカにされたと思ったのでしょうか,あるいは子供に「成長した」と褒められたのに,爺さんがとがめたので,それを怒ったのでしょうか.
 この文だけでは,どちらにでも解釈できそうです.


アイヌ神話の三
太古モシリ(蝦夷島)成れる時、天神、使者キラウシカムイ*1(額に角ある鬼の如き神と云ふ)をして下界にイナオ(木幣)を數多持ち下らしめ人類をしてこのイナオに倣ひて削り成さしめ惡といふ惡を祓ひ善徳を得しむ可き術を授けしめむとしき。故キラウシカムイ獨功を壇にせむと慾心を發して今の有珠缶を指して天降りぬ。天神、使者が邪心あるを知悉して大にこれを惡み、未山に達せざるに先ち引捕へてイナオを奪ひ使者をばテイネポキナシリ*2(地獄)にまで踏落し畢んぬ。故、その地獄の穴とは今の噴火口なり。使者絶命せり。獨彼のイナオは罪なきアイヌの手に入りぬ。これをイナオの起源とす。
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1*:キラウシカムイ:正確な綴りは不明であるが,「kiraw」は「つの(角)」(知里,1956)である.
*2:テイネポキナシリ:teyne-poknasir(ティネポㇰナシㇽ)「'じめじめした下界'の意.悪人の霊が死後に行く世界」(知里,1956).

 この話は,更科(1981)が引用・再掲載しています.
 しかし,プロットはおなじですが,内容が微妙に異なります.引用したい方はご注意ください.
 また,吉田が「キラウシカムイ」としたカムイは,更科では「キラウシコロカムイ」に,吉田が「テイネポキナシリ」とした地獄は,更科では「ポクナモシリ」になっています.「ポクナモシリ」は「pokna-mosir(ポㇰナモシㇽ)」,意味は「あの世(下方の・国)」(知里,1956)でしょう.


アイヌ神話の四
(天)
昔アブタ(膽振國虻田、古名ポンチプカ*1)に一人のオツテナ*2(酋長)ありけり。性兇猛、一村擧つて彼が振舞を悪みぬ。誅伐の天刑は村民の手によりて演ぜられぬ。然るにその怨靈有珠岳の三兄弟なる妖魔*3と結托し村民に仇を報ぜむとしき。怨靈妖魔相共に魔劍を揮ひて村民を惱ましぬ。魔劍もと錆びたるが如く光を認むる能はず。村民暗中刄に倒るる者多し。天神これを憐み、ヤアウオシケツプ*4(蜘蛛)をして怨靈妖魔を逮捕せしむ可く下界せしむ。ヤアウオシケツプ乃絲を吐き網を張りつつ有珠岳を覆ひ一擧して彼等を得むとし、山麓六隅の柳を柱として、六條の綱を結び固めぬ。魔靈恐怖して其逃途を求む。不幸なる哉、一個の網の目のち切れたる處を發見せられ遂に彼等を逸し畢んぬ。かくしてその切目こそはやがて火を吐き石を飛ばしいやましに良民を苦しましむる穴とはなりぬ。噴火口は實に魔靈の仕業に因りて作られしものなり。
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*1:ポンチプカ:不詳.ポン・チュㇷ゚カ(pon-chup-ka)か?,しかし,「小さな東」では意味不明.ポン・チカㇷ゚(pon-cikap)か?.ポンチカㇷ゚は「小さな鳥」であるが,ポロチカㇷ゚をタカ(オオタカ),ポンチカㇷ゚で「ハヤブサ」と区別することがあるらしい.
*2:オツテナ:オッテナ(ottena)=日本語「乙名」よりできた言葉らしい.①(内地の人が決めた)集落の頭となる役人.②(和人からアイヌ男子を呼ぶ場合は)「旦那」であり「おっさん」の意でもあるらしい.集落の長としての「酋長」のアイヌ語はkotankonnispa/kotankor nispaもしくはkotankor kur.性格が「凶猛」で人望がないのに「長」と呼ばれるのは不思議である.この場合は,和人が勝手に決めた「村役人」であるか.
*3:有珠岳の三兄弟なる妖魔:不詳.前後に解説なし.
*4:ヤアウオシケツプ:yaoskep ヤオㇱケㇷ゚(あみ・編む・もの=クモ)(知里,1962; 1976)のことか?

 このお話はまだ,ほかでは未見です.


(地)
ニサッサホ*1(曉明星)一人の兒星を持てり。兒星先ちて現はるる時は天災地妖ありと稱す。その故は己れの兒に災渦あらむとすれば先だてて看護せむとする親の情なればなりと云ふ。さてニサッサホは絶世のピリカメノコカムイ(美女神)にしあれば、天神、即其の美容に獰猛なる彼酋長の怨霊を魅し、耳目を迷眩せしめ手足身心の自由をさへ束縛せしめし一刹那に乗じヤアウオシケプを下したりし苦心も遂に水泡に歸し殆策の出づる處を知らざりし折柄アイヌの大英雄ポンヤウンベは同族ポンチプカウングル(虻田住民)の難を聞き其の居所エシカラ、トミサンペツ、コンガニヤマ、カニチセ*2より雲に乗りて飛來せり。時にアプタのウヱンメノコ(烏呼なる女)何思ひけむ裾をかかげで(ママ)有珠山に向ひ臀をあふりぬ。ポンヤウンベ烈火の如其非禮を怒り、同族の難を救はむ勇氣だに失せて呆れにこそは呆れたれ。今は悪靈の爲すがままに打任せたるのみかは己れも山を踏破り履にじりて散々に破壊せしめ、ここに虻田の生靈は悲惨なる最後を見るに到りにき。
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*1:ニサッサホ:nisatsawot nociw(田村辞書),nishat-shaot-kamui(ネフスキー「アイヌ・フォークロア」).
*2:エシカラ、トミサンペツ、コンガニヤマ、カニチセ:不詳.ポンヤウンベの伝説にはしばしば出てくる地名のようであるが,意味不明.


アイヌ神話の五*1
昔トカプチ*2(十勝)にイモシタグル*3とて暴戻慳貪飽くを知らざる大惡漢ありき。一朝忽焉として鬼籍に入りしが彼が現世の罪業は以てカンドモシリ*4(極樂)に入るを許されざれければ怨靈妖魔と化して至る處に出現していたく良民を害しぬ。遂に十勝を脱して有珠山に來りて放火したり。天神これを捕へもて蹂躙したり。山の噴火口を生ぜしは天神の踏しだきし餘勢に基くと。
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*1:この話は工藤梅次郎(1926),更科源蔵(1981)が引用している.細部が微妙に異なる.工藤(1926)は「神様のお怒り」という題名,更科(1981)は「有珠岳の噴火」という題である.
*2:トカプチ:不詳.リーズナブルな解説をおこなった地名解は未見.
*3:イモシタグル:不詳.工藤(1926),更科(1981)は「イモシタクル」としている.「-クル」は「-kur(・クㇽ):魔神;人」の意と思われる.
*4:カンドモシリ:不詳.工藤(1926),更科(1981)は「カムイモシリ」としている.



噴火と説話
有珠山の噴火はアイヌの口碑に存するものによればその幾度かの災禍に事實相前后し、年代相錯綜し複難を極めたれば、稍正確に近きものは、和人の古記録に其の片影を窺ひ知るを得可きのみ、然も再三噴火の慘狀を經驗せし古老は往々生存せざるに非らざれども今や年一年に亡し殆全く其實を傳ふる者なきに至れり。
有珠嶽の噴火は有珠虻田を中心として、辨邊*1禮文華*2長萬部*3遊樂部*4、落部、其他噴火灣一帯の各部落、舊室蘭*5、幌別、白老より遠く十勝地方に迄も聞えその神話さへ傳へられたり。
今本章を終らむとするに當り、有珠、虻田等のアイヌ古老の口碑による昔時噴火の説話要領を摘記せむ。
有珠嶽の噴火は、前のは春、後のは秋なりき。(前とは文化*6、後とは嘉永*7に事實年代相符合す)その以前の噴火(寛文)*8にはアブタ(當時のアブタは今の所謂虻田村トコタン*9の地)全部、熱火を浴び、土砂、石灰のため廢村に歸し、酋長の如きは實に壮烈なる最後を遂げたりとぞ。虻田會所詰の役人巡檢せし折、酋長が灰中に座したるまま合掌して山神に禱り動かざるを見て、怪み觸るれば全身壊れて灰となりぬ*10。彼が最愛の美女チシコサンの如きは如何にもして行方を知るを得ざりきといへり。爾來鮭の漁獵盛なりし河川も乾きて跡を没しアブタは廢村となり(アイヌの所謂トコタンの意義はこれなり)僅に逃れし者はフレナイ(今の虻田)に部落を移すに至れり。文化、嘉永の噴火には、有珠虻田共飲料水の盡きむを恐れ、豫め、多量を汲みて貯へたりと言ふ。又鹿、熊の皮などを打ち被ぎて逃げ延びしも、土砂、熱灰を浴びて全身焼欄し、海水に飛込む者はさながら釜中の魚の如く死にきと言ふ有珠の如きは降灰の甚しき爲、自他の家を辮別し難からむを慮り豫め各戸長き棒杭等を立てゝ落延びたるものなりと言ふ。
(完)
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*1:辨邊:弁辺(べんべ).現在の豊浦町.弁辺はアイヌ語の「ペッ・ペッ(pe-peか?)」に由来するとされる(更科,1982).
*2:禮文華:礼文華(れぶんげ).
*3:長萬部:長万部(おしゃまんべ)
*4:遊樂部:遊楽部(ゆうらっぷ).八雲町遊楽部.
*5:舊室蘭:元室蘭(現在の崎守町)か?
*6:文化:文政噴火のことか?.1822(文政五)年旧暦閏一月十六日より有感地震.十九日午後八時ころ噴火.上記の通りのことが起きた.
*7:嘉永:嘉永六(1853)年.旧暦三月六日から鳴動.十五日大噴火.二十二日火砕流発生.
*8:その以前の噴火(寛文):1663(寛文3)年,旧暦七月十一日から十三日まで微震.十四日の明け方より山頂カルデラよりプリニー式噴火.
*9:トコタン:この表現では「トコタン」という地名があるように受け止められるが,トコタンは「ㇳコタン(tu-kotan)」=「廃村」の意味.
*10:酋長が灰中に座したるまま合掌して山神に禱り動かざるを見て、怪み觸るれば全身壊れて灰となりぬ:同様の伝説が更科(1981)に記録されている.なお,アブタコタンの廃村は文政噴火のこととされているので,この記述には混乱がある.



2018年6月17日日曜日

関根達人(2016)モノから見たアイヌ文化史.

ようやく数十年来の疑問に答えてくれそうな本が出た.


いちばんの疑問は,「縄文文化」とか「弥生文化」とかはあるかもしれないが,“縄文時代”とか“弥生時代”はないんじゃろうと言うこと.
それは四頁の図1をみると一目瞭然.

といっても,まだ読み始めたばかりです.だから「答えてくれそうな…」なんですけれどね.(^^;;

 

2018年5月25日金曜日

山名考

 
 ネット上をぶらついてる最中に,とても詳細な山名考を展開しているページに出会いました.それは「あまいものこ」さんのページです.

 わたしが悩みに悩んでいる「オㇷ゚タテㇱケ山」や「大雪山」の名についても,過去の例を網羅して,考察を展開しています.

 一度お話ししてみたいですね.
 

オプタテシケ・プルプルケ.その後

 
久保寺逸彦「アイヌの神謡」に目を通していたら,ある一文が目にとまりました.

「ウポポの中で、最もポピユラーで各部落で謡われ、曲調も、土地によって種々違っているものに「Optateshke purpurke」云々というものがある。私は、これを胆振幌別、日高平取、石狩近文、北見美幌、樺太落帆等で録音したが、随分ヴァラエティに富んでいる。」

 非常に残念なことに,この「Optateshke purpurke」のウポポは内容が示されていません.また,「随分ヴァラエティに富んでいる」としていますが,そのバリエーションもまったく示されていません.厚さ3cmもある本なのに.アイヌ文化研究者ってのは,こういうのが多い様に感じるね.裏付けになるような肝心なことは書いていない.言ったモン勝ちの世界だね.そしてそれが,古典的研究として金科玉条になる….

 こうなったら,「近文アイヌのウポポ(神前に捧げる祭詞)にオプタテシケ,プウルケ,プウルケの祭文がある.」(近江,1931)を再検証する必要があるなあ.ほとんど不可能だろうけれど.

 最低でも,知里真志保の「アイヌ民俗資料」を確認する必要があるなあ.入手不可能なので,図書館に行ってくるかあ.自転車が使える季節になったし.

 でも,自転車ひき逃げ事件が連続して起きてるので,自転車族には辛い時期だなあ….

 

2018年3月22日木曜日

止まってます

ブログ更新が滞ってますが,体調を崩しているわけではありません.
もう書かないと決めていたのに,成りゆきで論文を書くことになってしまったからです.

原稿は昨年12月始めに提出しましたが,締め切りに間に合わせるために,かなり雑.形式はいちおう整えたつもりですが.中身はボロボロだということはわかってました.
もう,何十年も論文書きどころか,レジュメ用の外国語からも遠ざかってますからね〜.
生まれつき,語学苦手だし.

で,案の定,ボロボロで帰ってきました.(^^;
詳細は,ここには書けません.いろいろマズイことがあるもので.(^^;;
地理的ハンデや,研究環境ハンデなんて,編集者・査読者には関係ないですからね〜.(^^;;;

ヤッパ,やるんじゃあなかったかな〜,と思いながら…

で,地学史発掘は滞ったまま.
もうしばらくお待ちください.
 

2018年1月13日土曜日

メッチルイの丘

メッチルイの丘
 その昔,旭川駅前にチャシ*があったことは,現在ではあまり知られていない.
 そこには全長200m,比高約15m**という丘があり,チャシコツ(砦跡)があった(図1890年旭川).当時のアイヌは「メッチルイ」と呼び,和人は「義経台***」と呼んでいたという(写真:義経台).

渡辺(1983)「まちは生きている」より

「義経台跡」の案内看板

石狩川河原にある標柱

メッチルイとは石狩アイヌ****の大酋長の娘の名である.
 十勝アイヌが上川に攻め入った*****ときに,十勝アイヌの若者に恋をしたメッチルイが仲間を裏切り,父の大酋長に殺害されるという事件があった.戦いが終わったあと,上川アイヌはメッチルイを悼み,戦場となったチャシのある丘を「メッチルイ」と呼んだのだそうだ.
 仲間を裏切ったメッチルイを記念する.不思議なことである.
 よほどメッチルイが美人であったのか,あるいは,裏切られても皆が涙するようなドラマがあったのか,この伝説を採録した近江も詳細は残していない.

 さて,この丘は1896(明治29)年から始まる鉄道-旭川駅の建設に伴い,削られて消滅******してしまった.削ったときに出た土砂はすぐそばの忠別川の埋め立てに使われたそうである.
 今となっては,この丘がどのような地質でできていたのか,それを知る術はないが,北海道立地質研究所(2009編)の上川盆地断面図を見ると,旭川駅前付近は基盤の中生界が深く,旭川層が厚く埋めており,比布~当麻方面で見られる古生代末~中生界のメランジ堆積物の残丘であったとは考えにくい.そうすると,南にある神楽岡丘陵(あるいは東にある東神楽町の“新”義経台)の地質とたぶん同じ火砕流堆積物ということになるだろうか.
 鈴木(1955)は,“洪積世”(更新世)の溶結凝灰岩として一色に塗っていたが,研究が進むにつれて,池田・向山(1983)では,上川盆地周辺の火砕岩類は「雨月沢火砕流堆積物」(松井ほか,1968),「美瑛火砕流堆積物」(池田・向山,1983)の二つに分けられている.この時,美瑛火砕流堆積物は古地磁気層序の検討によりオルドバイ事件(1.87~1.67Ma)の中であることが明らかにされた.
 さらに,西来ほか(2017)は,美瑛川中流域~下流域の火砕岩は約70~80万年前であることを指摘し,美瑛火砕流とされているものは二層以上の地質ユニットで構成されることを明らかにしている.


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* チャシ:(chási=砦;館;柵;柵囲い:知里,1956).チャシコツ(chási-kot)は砦の跡.桑原・川上(2015)はチャシが造られたのは主に16~18世紀であり,アイヌ文化の成立に関係があるとしている.
** 全長200m,比高約15m:宮下通5~7(4~6の異説あり)丁目付近という記述と,明治23年旭川市街図より推定.比高は宇田川(2005)より.
*** 義経台:この台地には,アイヌ神話の英雄神の一人・オキクルミの伝説が残されていたらしい.その上で,オキクルミと源義経は混同されていることが多く,このチャシでおこなわれたアイヌの神事の最中に「ギケイコウ(義経公),〃」と合いの手が入るところから,それを聞いた和人がこの丘のことを「義経台」と呼び始めたという話がある.なお,東神楽町の東神楽神社がある台地は,現在でも「義経台」と呼ばれているが,それは消滅した義経台に似ていたからだともいう.
**** 石狩アイヌ:ここに登場する「メッチルイの伝説」の初出(近江,1931;1954)には確かに「石狩アイヌ」とある.しかし,村上(1959)では近江(1931)を引用しながら「上川アイヌ」となり,これらを引用した宇田川(2005)は,このちがいに注意を呼びかけている.
***** 上川に攻め入った:アイヌの伝承では,十勝に限らず北見やそのほかのアイヌ(あるいは異民族も含めてか)が上川に攻めてきたという事件が頻繁にあらわれる.上川には攻め入る理由があったのか,あるいは当時のアイヌ社会の状態を示しているのか,興味深いところである.
****** 削られて消滅:じつは,この時までに,この丘の上には和人が建てた神社があり,この丘の下の通りだから宮下通の名が起こり,丘が消えたあとも「宮下通り」の名が残った.宮そのものは何度か移転をくり返したあと,上川離宮建設予定であった神楽岡に移設して「上川神社」を名乗っている.