2019年1月14日月曜日

神保小虎の生涯…

 
 神保小虎については,数々の武勇伝を漏れ聞くものの,その生涯について伝記的といえるほどの著述は見当たりません.最近になって,松田義章氏や浜崎健児氏がまとめているものの,その元ネタは佐藤伝蔵の追悼文(下記)によるものらしいです.

  佐藤伝蔵(1924a)神保理学博士を弔す.地学雑誌,36年,179-182頁.
  佐藤伝蔵(1924b)小伝・神保博士を悼む.地質学雑誌,30巻,411-412頁.

 佐藤(1924a)については,地学雑誌がCD化された際に入手したものがあり,読むことができましたが,地質学雑誌については(こちらのほうが詳しいようなのですが)公開されていないので,今のところ入手できていません.どなたか親切な方がいたらpdf.化して,恵んでいただけないかと期待していますが,まあ,だめでしょうね((^^;).

 さて,それでは佐藤伝蔵(1924a)「神保理學博士を弔す」より,少しまとめてみましょう.以下は佐藤(1924a)からの情報に絞り,他の著作からのデータなどは脚注にしてあります.

1867.06.19(慶応三年五月十七日)*1:幕臣・神保長致の長男として,江戸駿河臺觀音坂下に生まれる.
1875(明治8)年7月:神田淡路町私立共立学校*2へ入学.
1880(明治13)年1月:(東京大学)予備門*3に入門.
1883(明治16)年9月:(東京)大学理学部に入り地質学を学ぶ.
1887(明治20)年7月:卒業(21歳)*4
1888(明治21)年8月:北海道庁技師試補となる.
1889(明治22)年8月:北海道庁四等技師となる.北海道の地質調査に従事する.
1892(明治25)年:「北海道地質報文」(上下),The General Geological Sketch of Hokkaidoを著す.
1892(明治25)年7月:ドイツに留学.ベルリン大学で鉱物学,岩石学,地理学,古生物学を学ぶ.
1894(明治27)年:Beitrage zur Kenntniss der Fauna der Kreidefomation von Hokkaido. を著す.
1894(明治27)年10月:単身「シベリア」大陸を横断して帰国.黒龍江沿岸の地質を概査したらしい.
1894(明治27)年11月:理科大学助教授となる*5
1895(明治28)年:遼東半島を調査*6
1895(明治28)年:理学博士となる.
1896(明治29)年:教授となり(專ら)鉱物学講座を担任する.
1906(明治39)年6月:樺太島へ出張.北緯五十度線地方の地質,地理を調査.
1912(明治45)年5月:欧米各国に出張,各国の鉱物学大家を訪問し,主として日本産鉱物に就て議論した.
1915(大正4)年12月:露領「ウラジオストック」地方を調査した.
1924(大正13)年118日 神保小虎(東京帝國大學敎授・理學博士)死去.

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*1:和暦&旧暦は漢数字で,西暦&新暦は算用数字で示した.
*2:共立学校(きょうりゅうがっこう):佐野鼎らによって神田淡路町の相生橋(現・昌平橋)に建てられた学校.のちの東京開成中学校.1878年には高橋是清が校長に就任し,大学予備門進学者のための受験予備校となる.(ウィキペディアより編集)
*3:(東京大学)予備門:18774月の東京大学発足に際し,前身機関の一つである開成学校の「普通科」(予科)は別個の中等教育機関「官立東京英語学校」とまとめられ,修業年限4年の「(東京大学)予備門」として再編された.法理文三学部への進学者はこの予備門での課程履修(すなわち教授言語である欧米語の修得)が義務づけられ,その組織は三学部の管轄下に置かれた.(ウィキペディアより編集)なお,欧米語の習得義務は,当時の教授陣は欧米人教師だったからである.また,この頃は大学は一つだけのはずで,「東京」の冠はついていなかったと思われるが,未検証である.
*4:卒業(21歳):共立学校入学から大学卒業まで,修業年数の検証をしていない.これは神保の履歴の記録が少なく,また学制の変更もあるために手がつけられないからである.
*5:理科大学助教授となる:佐藤(1924)には「理科大學助敎授に任ぜられ地質學、古生物學、鑛物學第三講座擔任を命ぜられ」とあるが,当時の学科構成が不明なので,意味はよく判らない.当時の研究者は万能型が多いとはいえ,地質学・層位学・古生物学を主としていた神保が,なにゆえ鉱物学助教授として呼び返されたのかは,謎である.二年後には教授になっているところを見ると,日本人研究者の人材不足が背後にあったのかと思わせる.のち10年に渡って鉱物学教授として後進の育成に携わったにもかかわらず,樺太に出張,その地質・地理を学会に紹介したとされているところから見ると,相変わらず万能型の地質学者であったのだろう.
*6:遼東半島を調査:佐藤(1924)には「遼東半島を跋渉し、地質學及地理學上の取調をなし其報告書は當時の學界を賑はせり」とあるが,鈴木(2015)には「鉱物を調査したが,砂金ぐらいしか見つからなかった.」とある.