2008年12月25日木曜日

横山壮次郎・増補

 「石川貞治・増補」で,紹介した杉浦論文には,横山壮次郎についても載っていました.
 杉浦さんの元本は新渡戸稲造編「横山壮次郎君」(明治43)によるもののようなので,調べる必要がありますが,これはわかる範囲内では北大図書館にしか蔵書がありません.172頁の大著ですので,いろいろなことが書かれていそうですが,なにせ入手は不可能でしょうね.
 このために札幌までいくというのも,なんですからね.なにかの機会を待ちましょう.

 さて,困ったことに,「北大百年史」と「杉浦論文」では「生まれ」について矛盾があります.
 「1868年(明治元)鹿児島県冷水町に士族の家に生れ」とあります.「北大百年史」では1869.8.10.(旧暦に換算すると明治二年七月三日)になっていますので,一回り違うことになります.
 杉浦論文が正しいとすれば,清水昭三が書いた「壮次郎は,くまにからみついていた」という記述は,“数え”で三歳,満で一歳九ヶ月ですから,充分あり得ることになります.

 杉浦論文には,わずかですが,台湾総督府に転任以後の足跡も示されています.
 1919(明治39)年には,清国政府の招聘により満洲にわたったとあります(西暦は誤植で1906が正しいと思われます).二年後,1908(明治41)年には満洲での仕事が終わり帰国しますが,その年,「郷里の鹿児島で脳充血に罹り死去」となっています.「脳充血」という病はよくわかりませんが,横山壮次郎は「北大百年史」説に従えば,享年40歳,杉浦説では享年41歳ということになり,いずれにしても若くして亡くなったことになります.

 新渡戸稲造編「横山壮次郎君」には,満洲での行動なども記されているのでしょうか….

 
 

石川貞治・増補

 

 札幌の「I」さんからメールをいただきまして,若干微妙なことになってしまいました.

 私にとって「石川貞治」は,すでに歴史上の人物なので,北海道の地質学史に関係する地質屋である「石川貞治」を知るために「石川貞治の地質学」をさぐって公表することは,私がしなければならないことだと考えていたのですが,方針に若干修正が必要になりました.
 札幌の「I」さんにとっては,「石川貞治」は曾祖父にあたり,あきらかなプライバシーですから,「I」さんの意向を無視して書くわけにはいきません.すでに,訂正が必要なことを何ケ所か指摘されていますが,その元になる資料は「I」さんの所有物ですから,「I」さんが公表したいということでなければ,こちらで勝手に公表するわけにもいきません.

 微妙な判断が必要になりますね.

 したがって,こののちは,「すでに公表されている情報」と「I」さんの許可をえた事項しか書く気はありません.
 「I」さんが「石川貞治の歴史」を書いてくだされば,いいんですけどね.

 さて,そんなことで悩みながら再調査しているときに,富良野市郷土館の杉浦重信さんが「黎明期の千島考古学と石川貞治」について書いていることを思い出したというか,気づいたというか…全くお間抜けですが,ちゃんと調べ尽くしてから「石川貞治」について書くべきでしたね(このブログは「探索記録」であって,論文ではないから,いいんですが…).
 もっとも,杉浦さんは考古学畑の人で,私とは視点が違うはずなので,意識していなかったのも事実です.

 さっそく,連絡を取って,別刷りを送ってもらうことにしました.

 久しぶりに電話でお話ししました.
 学芸員なのに,博物館を引き払って,もっぱら事務職として勤務しているそうです(かわいそうに).市議会の季節なので,超多忙とか(かわいそうに).
 実は,これは日本の学芸職員が抱える切実な問題なのです.お役所の世界では,研究職としては偉くなれないのですね.事務職に変態しないと,まともなお役人とは(あるいはお仲間とは)見なされないのです.

 それはさておき,杉浦さんはかなりレアな資料を収集していますし,さらに実際に石川家にお邪魔して聞き取り調査されたそうです(私のような,お手軽調査ではないということですね(^^;).
 面白い話をいくつか聞かされました.実際にあって,そのときの話を聞くのが一番のようですが,なにせ,杉浦さんは超多忙の人です.

 さて,杉浦さんの論文から,必要なことを拾ってゆきましょう.

 まずは,石川貞治の出身地から.
 「石川貞治・横山壮次郎の地質学(2)」では,「北大百年史」の記述から,「岡山県の出身であることがわかる」と書いてしまったのですが,杉浦論文では「貞治は1864年(元治元)現在の島根県浜田市に旧浜田藩士石川文治の四男として生まれ」たとあります.これはこのブログの「コメント」欄で,札幌の「I」さんからも指摘を受けています.
 その後,事情があり岡山の美作(みまさか)の浜田藩領に移ったということですね.いつ頃かは未詳です.

 1896(明治29)年に拓殖務省に転出してからの足跡が不詳であるとしておきましたが,杉浦論文には,その後の足跡が書かれています.
 拓殖務省は1897(明治30)年9月2日に廃止されます.業務である台湾事務は内務省が引き継ぎましたが,石川は官を辞して実業界に転身します.
 1898(明治31)年(「I」さんの資料では,1897年),「東京に『北海道鉱農商議館』を設立し,北海道の鉱業・農業に関する事業のコンサルタントを行」ったとあります.
 設立地や名称は,別途,なにかで確認する必要があるかもしれません.

 1904(明治37)年には,「株式会社インターナショナルオイルカンパニーの本道石油事業に着手」したとあります.これは「I」さんの資料には「1903(明治36)年,秋(?)」とあります.また「インターナショナルオイルカンパニーの札幌総顧問」になったとあり,ニュアンスが異なります.
 「インターナショナル・オイル・カンパニー」とは,ロックフェラー麾下のスタンダード・オイルが,1900(明治33)年に横浜に設立した石油会社です.日本国内で,かなり大規模に運営しており,1906(明治39)年には勇払郡厚真町軽舞付近で石油採掘していた記録があるそうです(まだまだ調べる必要がありそうですが…).ところが,同社は経営不振に陥り,1908(明治41)年には,全資産を「日本石油」に売却,日本から撤退します.

 このときに石川は退社したようで,同年,「幌向炭坑合資会社(詳細不詳)」を設立しました.「I」さんの資料では「幌向炭鉱合資会社」と「永豊鉱山(石灰石鉱山:「寿都」図幅には記載なし;詳細不詳)」を設立したとなっています.
 「幌向炭鉱合資会社」は1916(大正5)年まで営業していましたが,その間にも(1912(明治45)年ころ:「I」さんの資料),石川は海軍省の内命を受けて,北樺太の油田調査や南樺太の油田掘削を行ない,また満洲・朝鮮・北支の鉱産地の調査も行ったそうです.
 1916(大正5)年には手稲付近の鉱業権を買収,これを「手稲鉱山」と命名して開発に乗り出します(「I」さん資料).これも詳細は不明(「銭函」図幅には経緯の記載なし)ですが,滝ノ沢・支流の黄金沢付近の鉱床の開発に一時期成功したようです.しかし,のちに資金難となり閉山(1928(昭和3)年;「I」さん資料)に追い込まれたようです.

 ほかにも,「大正7年以降,『北海道鉄道株式会社』の設立発起人となり,『日本採炭窒素株式会社』の取締役に就任,あるいは『北海道永豊石灰山』の採掘,さらには新日本社・拓殖産業会館・技労資協栄会などの発起,東北・北海道・樺太の航路開発の企画に奔走した」とあります.
 「北海道鉄道株式会社」は,北海道大百科事典によれば,1896(明治29)年から「函樽鉄道会社」として免許申請が提出されていたもので,1900(明治33)年11月に社名を「北海道鉄道会社」と改称して設立されたとなっています.したがって「大正7年以降」に設立発起人となることは不可能なので,なにか間違いが忍び込んでいるようです.
 「日本採炭窒素株式会社」は該当する会社が不明.
 「北海道永豊石灰山」は,前述の「永豊鉱山」のことだと思われますが,これも「I」さんの資料では,1908(明治41)年に設立となっています.
 「新日本社」・「拓殖産業会館」・「技労資協栄会」は,いずれも実態が不詳.また,「東北・北海道・樺太の航路開発」についても,あまりにも漠然としていて追跡調査が不可能でした.
 
 確認できないことや,わからないことが増えてしまいましたが,ヒントはたくさん転がっているようです.将来,資料が見つかることを期待しましょう.

 さて,杉浦論文によれば,石川貞治は1932(昭和7)年3月11日,内中耳炎を煩い,東京鉄道病院(現:JR東京総合病院)で逝去しました.享年69歳でした.

 杉浦論文では,「結語」に以下のように書かれています.
 「北大の『札幌同窓会第55回報告』の文末に,『誠に時流に一歩先だったアンビシアスな一生であったが,酬いられることは豊かでなかった』と記されている.このことが何を意味するかは,略歴程度の資料しか残されていない現在では推測の域を出ないが,その非凡な才気を発揮できない不運な境遇に置かれたことを評しているのであろうか.」

 ほんのわずかでも,失われた歴史の発掘がすすめば幸いです.

 
 

2008年12月18日木曜日

横山壮次郎のこと

 札幌のIさんより「横山壮次郎は森有礼の甥で…」というヒントをいただきました.

●森家略系図

 さっそく,犬塚孝明「森有礼」(吉川弘文館)を見てみます.巻末には「森家略系図」が載っています.ただし,これは“家族構成図”程度のもので「略」がついたとしても「系図」といえるほどのものではありません.森家五人兄弟の四男(森有礼は五男)に喜三次(横山家を嗣ぐ:横山安武・明治三年歿)とあります(「嗣ぐ」は「継ぐ」,「歿」は「没」のこと).
 この横山安武が横山壮次郎の親なのでしょうか?


 森と最初の妻との間には,三人の子があります.
 最初の妻とは「広瀬常」のこと.ライマンが一目惚れした女性でした.
 上二人が男で,三番目が女の子.「安」といいます.「安」にはカッコ書きで「横山家の養女となる」とあります.また,巻末の「略年譜」には,明治20年5月7日「長女安を横山安克の養女とする」とあります.「安」はまだ三歳に満たない幼児でした.しかし,本文には「安」のことは一切触れられていません.横山安克なる人物についても….
 本文中に横山安武の死が「森の性格にある陰をおとすことになる」と書かれ,森の人生に大きな影響を与えたはずの兄・横山安武なのに,安武の養子先・横山家のこともほとんどでてきません.不思議なことです.
 森の家庭は相当複雑だったことが想像されます.

●「秋霖譜」

 この複雑な森家の謎に挑んだのが,森本貞子の「秋霖譜=森有礼とその妻=」(東京書籍)でした.ネタバレになるので,あまり詳しくはいえませんが….森の妻「常」の実家・広瀬家には広瀬姉妹のほかに子がいず,そのため迎えた養子が,後に大変な事件を起こしてしまいます.事件の詳細の発覚は森家にまで累を及ぼしかねません.「常」は離縁.その後「常」のことは森家のタブーとなります.
 もちろん「秋霖譜」は小説ですので,すべて事実とするわけにはいきませんが,伝記にも家のことが詳しく書かれない森家の事情をある程度反映しているのだろうと思われます.なお,犬塚の「森有礼」では,常のスキャンダルが原因であることが匂わされています.
 そして,末娘は横山家へもらわれてゆきます.

 犬塚孝明(1986)「森有礼」では,なにがあったのかを知ることはできません.
 巻末の参考文献にも,森家の事情がわかりそうな文献は引用されていません.

●横山安武

 数年前,清水昭三という作家が「西郷と横山安武」という小説を上梓していることがわかりました.さっそく入手しましたが,まあ読み辛い本でした.
 最近の本としては珍しく誤字脱字が目立ち,理解不能な特殊な日本語がある上に,文法的にも変な部分があります.人名がたくさんでてきますが,読者はそれらをすべて知っているという前提で書いているようです.話が一挙に跳んで前後関係がよくわかりません.その割には長い会話が続いたりもします.
 どうも,あまり読者に理解してもらおうという気はないようです.
 安武が結婚したという記述がないのに,突然子供が生まれてたりします.

 しかし,横山安武の養子先のことなど,犬塚の「森有礼」よりも,かなり詳しく書いてあるので,何か元本があるのだと思われます.清水本の巻末にある参考資料のリストからすると,河野辰三「横山安武伝」(三州談義社)が怪しいのですが,これは国会図書館の蔵書にもありませんでした.
 河野辰三には「追遠ー横山安武伝記並遺稿」(横山安武伝記並遺稿刊行会)というのがありますが,こちらはすでに絶版で,古書店でも入手困難なようです.

 しょうがないので「西郷と横山安武」の本文に戻ります.
 本文67頁:妻の名は「くま」.しかし,「くま」の出自は示されていません.養子先である「横山家」の身内であるのか,あるいはどこからか嫁取りしたものかもわかりません.
 明治三年の四月,安武は妻と二人の子供と別れ,東京へ出ます.状況はさっぱりわかりませんが,安武はこのときすでに浪人.妻と二人の子はどうやって生計を立てていたのでしょうか.家族関係がわからないので,不思議なことだらけです.

 別れのシーン.
 「元千代(長男)は,安武に似た立派な少年になっていた.可愛い長男だった.壮次郎は,くまにからみついていた」(!).

 「壮次郎」がいました.
 この「壮次郎」は,あの「横山壮次郎」なのでしょうか!
 期日を見ます.「明治三年四月」,安武の次男は赤ん坊でした.そして,札幌農学校に入学した横山壮次郎の誕生日は,明治二年七月三日…!
 一歳に満たない赤ん坊が母親に「絡み付いていた」のはおかしいですが,可能性は大です.そして,まさしく「横山壮次郎は森有礼の甥」でした.

 明治三年七月二十七日払暁,横山安武は津軽藩邸前にて腹を切ります.
 切腹の理由は,閉塞した社会の状況にありました.今も昔も同じで,腐敗した政治家ばかりが我が世を謳歌していたことでした.
 幕末明治を生き延びた薩長閥の小者たちが大名と入れ替わっただけの「維新」.彼らは,全国で打ち続く農民一揆を尻目に,主のいなくなった大名屋敷に勝手に入り込み,贅沢の限りを尽くしていました(首を切られてすむ所もないままに途方に暮れる派遣社員を尻目に,夜ごとホテルのバーで酒を飲む総理大臣もどこかにいましたね).
 国の進路も決まらないまま,人を人とも思わないアイヌ政策や征韓論がまかり通る.時代の矛盾を書にしたためて,抗議の腹切りでした.

 と,まあ「西郷と横山安武」では,そういう一途な横山安武を描きたかったらしいですが,背景も安武自身も描ききれていないせいもあって,よくわかりませんでした.妻とかわいい盛りの子供が二人もいて,愚かな政治家を諌めることだけのために死ぬことができるのでしょうか.

 気になるのは,養女となった「安」の安否.
 そして,横山壮次郎の成長過程.

 もし,横山壮次郎が横山安武の次男ならば,親父は「征韓論」に腹を立てて自害し,息子は成長して植民地をつかさどる拓殖務省に勤務したことになります.これは歴史の皮肉なのでしょうか….