2015年5月26日火曜日

雑草と虫

 
この時期,何回読んでも「目からウロコ」の二冊.
ということは,その概念がまるで頭に入ってないってことだ.(^^;;

   

やってるのは,雑草を5cmくらいに刈り込むことくらい.
あと,虫が酷いといっても,それほどでもないことに気づかされたこと.

それにしても,生き物の関係って不思議だなあと,自分の庭で実感させられる.
 

2015年5月22日金曜日

「北海道鑛山畧記」:(三)石炭の「カヤノマ石炭」(明治十七年〜二十一年,採炭行業)

(明治十七年(自七月至十二月)採炭行業)
一,採炭は伊季鋪・東壼番抗より新二番坑の前層に増設し,是に於て貳拾坑炭層東西に爲換軌道を掘進す.且つ空氣の流通を能くする爲め,上部大澤貳番抗に逹す其質善良なり.
一,抗夫,採炭する器械は従來用ひ來る(ツルハシ),又は(タガ子)等にて,火藥は目下炭質柔軟なるにより用せす.
一,本材拾五石目
   此代金五圓
一,石炭一噸の代金,壹圓三拾壹錢

(坑内略図:「開礦坑百年史」より)
(残念ながら「伊季鋪」は不詳.文中「新二番坑」は,図の右上「旧二坑」と思われる.「砂ハッチ」部分は「採掘跡」とあるから,ここに記載の坑道があったと思われる)


(販賣地名)
「イワナイ」*1
フルウ郡サカヅキ村*2
    カムイナイ村*3
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*1:「イワナイ」:岩内(現在の岩内郡岩内町)
*2:サカヅキ村:盃村(現在の古宇郡泊村盃村)
*3:カムイナイ村:神恵内村(現在の古宇郡神恵内村)


(運送費)
「カヤノマ」より「イワナイ」迄      壹噸賃金三拾七錢
同所    より「フルウ」郡サカヅキ村  仝  金三拾錢
              カムイナイ村 仝  金四拾錢


(役員及坑夫の生計)
採炭組合正副惚代入  二名
仝   取締人    四名
仝   坑夫頭取   壹名
仝   出納係    壹名
仝   事務扱人   壹名
 雑役夫は其時々に雇入使役せり.
  但,事務扱人は毎月三回出勤するのみ.
一坑夫は石炭一噸を掘採して,其賃金五拾五錢を給す.且つ,坑内使役一工賃三拾錢とす.坑外使役の一工賃貳拾五銭とす.一ヶ月に凡金七八圓を給す.以て食料に充つ.


(明治十八年(自一月至十二月)採炭行業)
明治十八年に至り,採炭着手の事を議せんと欲し,頻に集會をなすと雖とも來會者少く,其議決せす.僅に五拾五噸を掘採せるのみにして止む.
一,「カヤノマ」炭坑附屬物件,炭車器械は前年拜借の通り.
一,探炭場は前年の如く,伊季舗東壹番より新二番坑前層に逹し掘採す.
   抗夫 一四一人に付百八拾壱貫目を採掘す.工數七拾八工五分七厘.
一,本材貳拾石目.
   此代金拾貳圓五拾錢.
一,石炭壹噸代金壹圓三拾三銭六厘.


(販賣地名)
「イワナイ」
フルウ郡サカヅキ村
    カムイナイ村
ハコダテ*1
新潟
--
*1:ハコダテ:「箱館」.明治4年ころには「函館」の表記が優勢となる.


(運送費)
「カヤノマ」村ヨリ「イワナイ」迄     壹噸賃金三拾七錢
 仝       フルウ郡サカヅキ村   仝  金三拾錢
             カムイナイ村  仝  金四拾銭


(職工賃金幷に抗夫使役高及工程)
一,職工賃金    壹工の賃金貳拾五錢 使役工數千五百五拾九工九分五厘
一,坑夫坑内使役賃 壹工賃金三拾錢   使役工數七拾八工六分
   従来用ひ來る「ツルハシ」を使用し,一工に付石炭百八拾壹貫目を採掘す.
一,坑夫七拾八工五分七厘
   従来用ひ來る「ツルハシ」「タガ子」等の器械を用井,一工百八拾壹貫目を採掘す.


(明治十八年一月役員)
採炭組合正副惚代人  二名
仝   取締人    四名
仝   事務扱人   一名
仝   坑夫頭    一名
仝   小使     一名
 雑役夫は時々雇入使役す.

一,坑夫は石炭壹噸を採掘し,其賃金五拾七錢を給す.是を精撰して濱石炭庫に運搬し,其賃金壹噸貳拾錢を給す.其他,坑内にて使役賃は一工に付金三拾錢,坑外は一工に付金貳拾五錢を給す.一ヶ月壹名にして凡金八九圓を給し以て食料に充つ.
仝年十二月廿二日,伊季舗大坑道内東西貳番,横坑道入ロの處に火起りて延焼す.之を去る四拾貳尺の處に於て防火壁を築造*1し,怠りなく是に注意す.
明治十九年一月に至り,木材を以て防火壁を堅め掘採塲の火災を防き,各所修繕のみに失費し,然して開坑熱心の者四・五名をして採炭の義を談合せしも,殘炭若干あるを以て賣却の後,採炭着手するに決し,販路を探索し,三井物産會社等に販賣したり.
--
*1:防火壁を築造:この当時は坑内火災に対処する方法がなく,封印して酸欠状態をつくり出す方法をとったものと思われる.


(明治十九年自一月至十二月採炭行業)
一,カヤノマ村石炭坑,附屬物件,運搬車,器械等,前年拜借の通り.
一,木材五拾四石七斗九升四合
   此代價金貳拾七圓三拾四錢七厘
一,産出石炭,壹噸代價,壹圓三拾七錢四厘七毛


(販賣地名)
「イワナイ」
フルウ郡サカヅキ村
    カムイナイ村
ハコダテ
新潟


(運搬費)
「カヤノマ」ヨリ「イワナイ」迄     壹噸賃金三拾七錢
 仝      フルウ郡サカヅキ村   仝  金三拾錢
            カムイナイ村  仝  金四拾銭
 仝      ハコダテ迄       仝  金壹圓五拾銭


(職工賃金幷に坑夫使役高及工程)
一,職工賃金  一日一人に付 金貳拾五錢 四百拾二工四分
一,坑夫賃金         金参拾銭  六百九十五工六分
一,坑夫    一工にて従来用井來る「ツルハシ」「タガネ」等の器具を用ひ,一日石炭百八拾壱貫目を採掘す.


(明治十九年九月役員)
組合正副惣代人 貳名
仝 取締人   三名
仝 事務扱人  一名
仝 坑夫頭   一名
仝 小使    一名
 雑役夫は其時々雇入使役す

一,坑夫生計
前年に仝し.
明治十九年十二月,組合を會して鑛業興廃の決局を議せんとせしに,會するもの役員のみ.終に決せす.依て開坑熱心の者(長濱彦太郎,安田半兵衛,佐野川弘治,澤口荘治,大崎亀吉)五名にして,各自更に採炭資本を出金し,明治二十年一月より着手したり.


(明治二十年自一月至十二月採炭行業)
「カヤノマ」村石炭坑並に付屬物件,運搬車,器械等,前年拜借の通り.
一,採掘は前年の箇處,則ち伊季鋪東一番坑より通し,新二番坑東西前層へ通したる炭層を掘採す.火藥は炭質柔軟に付不用.
   採炭坑夫一人にして百八拾一貫目を得る.工數六百拾四工三分七厘
一,木材貳百七拾三石
   代價金百三拾六圓五拾錢
一,産出石炭代價,金壹圓四拾錢貳厘   (但,壹噸にて)


(販賣地名)
「イワナイ」
フルウ郡サカヅキ村
    カムイナイ村
ハコダテ
新潟


(運送費)
「カヤノマ」ヨリ「イワナイ」迄    壱噸金三拾七錢
 仝      フルウ郡サカヅキ村  仝 金三拾錢
            カムイナイ  仝 金四拾錢
 仝      ハコダテ迄      仝 金壹圓五拾錢


(職工賃金並に坑夫使役高及工程)
一,職工賃金 一日一人に付金貳拾五錢 工數三百四拾五工五分三厘
一,坑夫賃金 仝     金三拾錢  仝 千二百九拾六工一分
一,坑夫               仝 六百拾四工貳分七厘
   器械は従來使用し來「ツルハシ」,「タガネ」等を用井,一日掘採,炭百八拾壹貫目を得る.


(明治二十年十一月役員)
組合惚代人  壹名
仝取締人   貳名
仝事務扱人  壹名
坑夫頭    壹名
雑役夫請負人 壹名
 坑夫生計
  前年に仝し.

前述の如く常に組合人の不仝意より,開坑に盡力せさるのみならす,却て巨多の金員を失費し,事業容易ならざるより,拜借人並に株主決議の上,拜借物件を残らず返上し,且つ,後日異論なきを確約し,更に組織を換へ,借區開坑を出願せしに付,右有志の者は,速に來會,加名相成度旨,普く組合株主に通知し,然して明治二十年十二月,拜借物件一と先返上を願,更に開坑熱心の者,長濱彦太郎,安田半兵衛,大崎龜吉,佐野川弘治,澤口荘助,五名に於て,借區開坑,並に前拜借の諸物件,拂下出願せしに,明治廿一年二月十五日,許可せらる.依て,各自出金し炭庫・炭車の修繕を加へ,専ら採炭に従事す.


(明治二十一年自一月至十二月採炭行業)
一,カヤノマ石炭坑
   借區坪數五万坪
   附屬
    坑内外軌道据置キノ儘
一,炭庫,見張所,倒潟塲等,及炭車,前年拜借の分は盡く拂下けを受けたり.
一,掘採は明治二十年迄拜借之通り伊季舗東一番より新二番坑の前層に達したる.則ち二番坑炭層東西にて掘採す.
   但し坑内より運搬するは拂下の炭車を用ひ,且つ坑内にては「ハコダテ」・「サツポロ」より購求したる「ツルハシ」を以て掘採す.坑夫一日に採掘する石炭,百八拾貫目.
    使役高,千四百貳拾八石五分.壹噸に付採掘賃金,五拾七錢.
一,木材三百石目
   此代價百五拾圓
一,石炭        壹噸代價,金壹圓八拾錢
             但濱石炭庫に於て.


(販賣地名)
「イワナイ」
フルウ郡サカヅキ村
    カムイナイ村
ハコダデ


(運送賃)
「カヤノマ」より「イワナイ」迄    壹噸賃金三拾七錢
 仝      フルウ郡サカヅキ村  仝  金三拾錢
            カムイナイ村 仝  金四拾錢
 仝      ハコダテ迄      仝  金壹圓五拾錢


(職工賃金幷に坑夫使役高及工程)
一,職工 一日壹人に付 金貳拾五錢  工數,千七百七拾七工
一,坑夫 仝      金参拾錢   工數,二百八拾三工三分三厘
一,坑夫               工數,千四百貳拾八工五分六厘
   従来用ひ來る「ツルハシ」・「タガ子」等を用ひ,一工,石炭百八拾壹貫目を採掘す.


(明治二十一年一月役員)
組合惣代人    壹名
仝 取締人    貳名
仝 事務取扱人  壹名
  坑夫頭    壹名
雑役人夫請負人  壹名

 坑夫生計
前年に仝し.
 

2015年5月20日水曜日

「北海道鑛山畧記」:(三)石炭の「カヤノマ石炭」(地名,発見の原由並びに坑業の景況)

●カヤノマ石炭

(地名)
後志國イワナイ郡「イワノイ」*1より北三里餘なる「カヤノマ」村*2の溪間にあり.南「シブイ」*3「チャツナイ」*4の兩村に接し,東北「ホリカ」*5の背後に連る.其區域は海岸より山に入る一里餘にして,石炭の露出せるもの諸所に在り.
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*1:後志國イワナイ郡「イワノイ」:後志国岩内郡岩内.
*2:「カヤノマ」村:茅ノ澗村.現在の古宇郡泊村茅沼村.
*3:「シブイ」:渋井.現在の古宇郡泊村渋井.
*4:「チャツナイ」:茶津内.現在の古宇郡泊村茶津.
*5:「ホリカ」:堀株.現在の古宇郡泊村堀株.

(炭砿位置)
(「開礦百年史」より.地名の参考まで)


(發見の原由幷に坑業の景況)
安政三*1辰年四月,茅潤村住民・武井忠兵衛*2,鱈釣船頭役に雇入たる加賀出生の忠藏と申者,漁具・櫓櫂伐採の爲め登山し,帰路に際し「イワ炭」と申者なりとて右(上)忠兵衛方え持來り.試みに爐に焚きくるに,火勢烈しくして異なるより,雇漁夫寄り集り,噂に聞く唐船(滊船を云)にて焚く石炭とか申すものなるへしと評せり.其後,右の忠藏,現品を持参して「ウスベッ」*3村番屋(舊請負人出張所を云ふ)・平森徳藏宅に到り,産地を告け,然して番屋・徳藏は「イワナイ」運上屋(舊請負人)・佐藤仁左術門に告け,同人より則ち領主・松前御役所へ上申したり.翌安政四年己九月,松前御役入(舊福山藩士)・櫻場丈左衛門,來着し番屋・平森徳藏に命して,人足五六人を出さしめ,彼の「イワ炭」を掘採し,叺三拾個程「カヤノマ」村に持参り,直に「イワナイ」に運搬す.安政五年八月其頃,「ウタスツ」詰の公義御役人・長谷川儀三郎及下た役・大島佐十郎・土屋文治兵衛・川久保龜太郎と共に來り,石炭の檢分を為す.然して長谷川儀三郎は歸り,下た役二人殘り居り,人足をして石炭叺入百個程「イワナイ」に運搬したり.斯くの如くなすヿ年々續きたり.

文久三*4亥四月,舊幕府開採の議を起し,大島惣左衛門*5をして試掘せしめ,慶應元丑年に至り一旦廢業す.
慶應二年*6丙寅十月廿五日,舊幕府本坑輸出の盛大を謀り,實地の測量をなさしむ.海岸より大澤炭床の距離を測量するに凡一万零六百六拾尺ありと云ふ.
同三年丁卯,蛯原某(調役)・石井某・川久保某・郷田某・英国人イー=エチ=エム=ガール*7を鑛山師として來り,開坑の業に着手す.實に六月卅日なり.坑夫五名を「ハコダテ」に,土工を各地に募り,先つ「カヤノマ」海岸より炭坑迄,道路を開通し,坑夫は更に坑業に従事し,始めて一の炭坑を開く.今の本口,是れなり.
同年十月,道路落成し,官舎を築造す.
同四年,戊辰の亂*8,起る.
明治二*9巳己年,當地騒然として休坑に屬せるが如し.同年八月に至り,鈴木金吾*10來り主任となる.官吏屢交代せり.此年始て車道を作り,四噸車を運轉し,且つ坑内一輪車を用井たり.
同五年,事業大に進み,始て新口坑を開き,同六年,伊地知季雅*11來り多量坑を開く.二三番の石炭庫を新築し,海岸石垣を築き,同九年,大澤二番西向,同三番等の諸坑を試掘せしむ.
十年,石炭庫二棟を建築す.
同十一年,「チャツ」煤炭に着手す.同年六月,チャツ一番抗より稲荷坑迄道路を開鑿し,十二月四日,季雅病に罹り卒す.氏の當鑛に盡力し功を奏したるは許多なりと云ふ.
仝十二年二月五日,物産局長・佐藤秀顯*12來り見る.此時中功坑を伊季鋪と改む.是れ伊地知季雅の功を表せしものと云ふ.仝年九月十一日,煤田開採事務係りの所轄となる.仝年十月十五日,火薬庫一宇焼失せり.
仝十三年辰一月十二日,伊季坑中に火起る.其原因と發所を詳にせす.諸官吏百方消滅に力を盡す.
仝十六年一月十一日,「カヤノマ」炭山事業廢止の令を聞き,「イワナイ」「フルウ」兩郡に有志を募り,炭抗并に軌道,諸建物,諸器械等に至る迄,拜借の上坑業を興し,専ら鰊釜焚用に供せんヿを目的とし,武井忠兵衛外貳拾名,一つの組合を結ひ,明治十六年二月物件拜借開坑の儀を出願したり.尤も拜借の炭庫倒潟場等は破損數ヶ所に及ひたり.且,石炭及留木,矢木等御拂下け願,其他諸官舎建物,舎具等は當地に於
て悉く御拂下け又は取毀「イワナイ」へ運搬したる者なり.

  明治十七年四月,拝借物件左(下)の如し.
一,「カヤノマ」炭坑
    附属物件
一,坑内外の軌道据置きの儘.
一,大小炭車,坑内外運搬車,拾六輛并に一輪車,貳拾輛.
一,貯炭庫并見張所及倒潟塲とも建物   八棟
一,附属山林并に(炭庫軌道)鋪地とも惣坪數六百八万貳千五百九拾三坪七分五厘
    右(上)は拜借
一,殘石炭貳千六百五拾噸并採炭用留木矢板及石叺
    右(上)拂下け

右(上)出願,明治十七年四月十日を以て許可せられ,出願者及「イワナイ」「フルウ」兩郡有志者をして株金千二百五拾圓を募り(但一株金拾円),尚金千百七拾六圓を六名(武井忠兵衛,佐野川弘治,大崎龜吉,安田半兵衛,長濱彦太郎,澤口荘助)より出金す.
明治十七年七月より右(上)拂下石炭の販賣に盡力すと雖とも,一旦粗悪の評判を受けたる者なれは,絶て買ふ者無く,只坑内外貯炭庫軌道等の修繕のみを爲せり.而〆採炭着手の協議をなすも,組合出願者にして開鑛熱心の者,僅に四五名にして餘は集合に應せす.爲めに空しく數ヶ月を経過せり.
--
*1:安政三年:1856年.
*2:武井忠兵衛:鰊漁の網元.初代,武井忠兵衛.当主は代々忠兵衛を名のるらしい.「北海道開拓の村」には「武井商店酒造部」の建物が移設されている.
*3:「ウスベッ」:臼別(古宇郡泊村臼別).
*4:文久三年:1863年.
*5:大島惣左衛門:大島高任.
*6:慶應二年:1866年.
*7:イー=エチ=エム=ガール:Erasmus H. M. Gower.(「蝦夷地質学の参」参照)
*8:同四年,戊辰の亂:1868(慶応四)年の戊辰戦争のこと.のちの明治政府によってかなり歪められた歴史が伝えられているが,この時点では江戸幕府軍と薩長連合軍による内戦である.
*9:明治二年:1869年.
*10:鈴木金吾:開拓使官吏,不詳.
*11:伊地知季雅:伊地知李雅と表記されている場合もあるが,季雅が正しいようだ.開拓使五等属.不詳.ライマン調査隊に同行したことがある.
*12:佐藤秀顯:佐藤秀顕.開拓使八等出仕.ライマン付け通訳および助手として探検に随行したことがある.明治18年,永山武四郎に同行,近文山山頂で国見をしたと伝えられる.
  

2015年5月16日土曜日

「北海道鑛山畧記」:(三)石炭の「ポロナイ石炭」(「テミヤ」「ポロナイ」間鐵道)

 
(「テミヤ*1」「ポロナイ*2」間鐵道)
「テミヤ」「サッポロ」間鐵道起工は,明治十三年一月八日にして,同年十一月二十四日竣工し,同二十八日開業す.又,「サッポロ」・「ポロナイ」間は明治十四年六月二十四日起工し,翌十五年十一月十二日竣工し,同十八日開業す.
鐵道は平低軌條*3にして,其一碼の重量四拾五听なり.之を横枕木上に架設す.而て其軌間は三咫六吋とす.此鐵道に使用する處の諸事は,悉皆米国風の者にして五種あり.即ち最上等・上等・並等・貨車及臺車是なり.
最上等客車は中央兩側に二鏡を懸け卓二脚あり.便室,暖爐,飲水斗等,皆備り頗る美を盡せる者にして,客四拾貳人を載すべし.此客車は平常使用せず.上等客車は長さ四拾呎,幅八呎(最上等客車も略ほ同し)にして,乗客四拾六人を容る.車中又便室,暖爐及列車長の室あり.並等客車は乗客六拾人を容るヽと雖とも,其長さは上等客車より五呎を減ず.以上三客車に付する車輪は,皆上等馬車形彈機を用ゆ.故に,車躰動揺少なく,且軌轢の聲を聞く甚しからず.車中の人,平聲以て談話すべし.貨車幷に臺車の積荷は約八噸を通量とす.以上各車基枠は二個の自在回轉低車に構造せし者にして,當地の如き屈曲の甚たしき鐵路上を曳行する列車には實に適せりと云ふべし.

現今六個の機関車あり.命するに本道に関係ある往時の人名を以てす.即ち辨慶號,義經號,静號,光國號,比羅夫號,信廣號,是なり.

機関車は「モーグル」形*4と稱する者にして,機関圓壔は内徑十二吋,〓子運動*5の長さ拾六吋.逐進輪の數は六個にして,其徑三拾六吋.不動輪底の距離は,僅に九呎なり.故に能く半徑二百三十尺の四度なる孤線を進行すべし.逐進輪の受く可き重量は,凡そ三萬三千听とす.附屬炭水車は,八輪にして石炭壱噸半,用水千零五拾「ガロン」を容るべし.
又,機關車前面に「カウケッチヤ-」と唱る者あり.其形扇子を倒懸せる如くにして,突出す.牛馬之に觸るれば,刎ね飛ばされ壓殺するの憂少し.又,車上に一鐘あり.市街を通過するときは,常に之を鳴し,人を警戒し,危險を避けしむ.
各機關の公稱馬力は五十六にして,實馬力は凡そ一百八十なりと云ふ.目下使用する速力は一時間十二哩の低度にして,通例客車二輛及石炭積載の臺車十二輛乃至十五輛を牽く.

「テミヤ」に棧橋あり.海岸より東南に向ひ,海水二十一尺餘の深さまで突出する者にして,其總延長千四百四拾尺.幅は九百尺間二十尺.夫より橋端迄は,四拾尺,高さ海面より凡そ八尺にして,左側全幅の半に軌道を設け,廣き所に至り,岐て二線となり,以て列車の往復に便ならしむ.其製法は木製にして,距離拾五尺毎に,四個の徑九寸の杭を並べ,椽を其上に,角梁を横に載せ,更に角桁を装置し,二寸五分の板を張付す.軌鐵を敷くの下,即ち左側は,板一枚右側は二重にして貸物を置く等に供す.

【注意】前一篇(ポロナイ石炭)は,明治二十年十二月,幌内炭山在勤・北海道廳技師・間宮伊賀次郎の報告書に據る.

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*1:テミヤ:手宮(小樽市手宮)
*2:ポロナイ:幌内(三笠市幌内町)
*3:平低軌條:レールの種類.現在使われているものとおなじ形状.その断面は頭部よりも底部が広く安定しいている.
*4:「モーグル」形:日本では国鉄7100形と呼ばれる.小樽市総合博物館で展示されている.
*5:〓子運動:〓は「卩」に「卽」という文字.現在は使用されていない.「往復運動」のことと思われるが不詳.
 

2015年5月11日月曜日

「北海道鑛山畧記」:(三)石炭の「ポロナイ石炭」(疎水法〜石炭分析表)

 
(疏水法)
「ポロナイ」煤田に於ては,坑道上部の石炭掘採のみに従事し,未た其下部に着手せず.故に疏水は自然排水を利用し,堅坑等掘り下る時,其底部に溜澱する處の水を他に通ずるヿ能はざるときは,木筩を用井,人力捲上け器を以て便宜の處に流す.又斜に掘り下る時には,人夫をして石油の空罐を以て漏水を汲み出さしむるのみにして,別に器械等を使用せし事なし.

(空氣流通法)
石炭山に在りては坑内の空氣流通法,最も緊要なることは今更めて喋々するを要せず.況や「ポロナイ」煤田の如き炭層中より多量の可燃「ガス」を發生し,屢々爆發の災に罹り,人を傷るに於ておや.然るに今日までの當山坑氣流通法は唯た數十の風井(風坑)によりて天然の大氣流通を利用せしに止り,未だ器械等を使用せしことなし.加るに坑内は追日深遠となり,随て天然大氣流通を適用するには,風井開鑿に多費を要するのみならず,天氣晴朗ならざる節は可燃瓦斯爆發の危険多く,爲めに屢々採炭を妨けらるヽを以て,今後は風扇器を使用し,通風の便を圖り瓦斯爆發の憂を除かんと目下計畫中なり.

(坑内燈具)
空気流通悪しき坑内に於ては「クラニー」及「デビー」氏の安全燈*を用ひ,通風宜き所に於ては鐵葉製の坑内「ランプ」にて,裸火を取り就業す.安全燈には種油を用ひ,通常「ランプ」には鯨油を用ゆ.

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*:「クラニー」及「デビー」氏の安全燈:安全灯の一種で,最近まで使われていた模様.Googleれば写真なども含めて検索可能.

(石炭運搬法)
坑内各冠に於て既に採掘せし石炭は運炭箱(長さ三尺巾二尺,深さ一尺)に積載し,坑道側石炭漏斗口迄人力を以て引き卸し(自轉車を使用する所は冠用運炭車,長さ四尺八寸三分,巾一尺五寸八分,深さ二尺八寸二分を以て,石炭漏斗口迄運下す.此自轉車に用ゆる綱は周圍二寸半の「マニラロープ」にして,一尺の重量三十二匁なり).坑道より炭車迄は四輪車を以て輸車路上を運送す.
四輪車は長さ四尺五寸,巾二尺五寸,深さ二尺にして,其重量は車輪車軸及鐵臺等は三十六貫目.箱は四拾五貫目にして,合計八拾壹貫目なり.
輸車路は都て二條線にして,石炭運搬の爲め布設せし小鐵道なり.其軌間一尺五寸にして,軌鐵は悉皆舶來品の鋼製丁字形にして,一嗎の重量十二听及十六听の二種を用ゆ.運炭の爲め布設しある輸車路全延長(坑内及硑捨塲車道を除く)六千六百四十六尺にして其内譯左(下)の如し.
  本坑より第二炭庫に至る
   三百三拾七尺五寸          一條線
  本坑より第三炭庫に至る
   百四拾四尺五寸           仝 上
  瀧ノ澤方面より第一及第二炭庫に至る
   四千百五拾尺            二條線
  本澤方面より第一及第四炭庫に至る
   二千拾四尺             仝 上

又,炭庫内輸車路全廷長は千五百〇四尺にして,其内譯左(下)の如し
第一炭庫内
   三百八十三尺            三條線
  第二炭庫内
   五百二十二尺            一條線
  第三炭庫内
   四百十三尺             二條線
  第四炭庫内
   百八十六尺             仝 上

輸車路は四輪車の自轉し得へき丈の勾配を以て布設せし者故,炭車の坑内より出るや二人の囚徒,車上に乗れば(運炭には渾て囚徒を使役す.但し一車に付二人)自己の重力に因り輸車路上を回轉し自から炭庫に至るの装置なり.
本坑より運出する石炭は,直に第二及第三炭庫に入り,本澤方面よりの石炭は二千十四尺の輸車路上を轉下し,瀧ノ澤より來る者と相會し,延て第三及第四炭庫に入る.又,瀧ノ澤方面より運輸し來る石炭の内,西一番第二坑の者は輸車路上,五百二十尺を自轉し,東三番西三番兩坑よりの石炭は七百二十尺の輸車路上を自轉し來り.以上三坑の者相合し第二斜道(長さ三百八十尺,傾斜十二度半にして上部に經六尺の自轉車を据付け之に「マニラロープ」を通し,上より石炭を積みたる四輪車を下し,仝時に下に在る空車を引揚げ,坑内に返るヿを得せしむ.此「マニラロープ」は周圍五吋に〆一尺の重量百目なり)を,下り二百尺を走りて,仝方面他坑の石炭と合し,輸車路上を降るヿ六百六十五尺にして,第一斜道(長さ三百七十尺,傾斜十二度)に達し,前同様自轉車に依て仝所を降り,後ち一千二百八十八尺の輸車路上を運搬して第一及第二炭庫に入る.

(石炭庫)
冬季坑道掘進中,採出せる石炭を貯積すへき爲に設置せし炭庫四棟あり(外に建築中の者一棟あり.桁行二十五間梁間八間)其坪數等は左(下)の如し
  第一炭庫   桁行十九間半     梁間六間
   百十七坪
  第二炭庫   桁行四十五間     梁間六間
   二百七拾坪
  第三炭庫   桁行拾五間      梁間六間
   九拾坪
  第四炭庫   桁行三拾間      梁間七間
   二百拾坪

(撰炭及輸送法)
各坑よりの石炭々庫に入るや皆「ポ」に落し,後精選をなす.「ポ」は積炭箱にして臺車へ石炭積込便利の爲め据付る者とす.箱の高さ拾八尺,幅拾一尺,深さ上部にて一尺五寸,下部三尺にして二十度内外の傾きを有せり.
「ポト」二十二個あり.内九個は,本坑より採出せし石炭を落すため,第三炭庫の側に据付け,其他は第一炭庫内にありて,七個は瀧ノ澤よりの石炭を落し,六個は本澤よりの石炭を落す.以上二十二個の積炭箱には六分目の淘瀉器を据付け塊炭粉炭を分別す.
石炭庫内に於ては,人夫(良民男女並に囚徒を使役す)をして撰炭をなさしめ,塊炭粉炭及ひ磐石の三種に區分し,塊炭粉炭は日々手宮へ輸送し,販賣引受人に渡し,磐石は適宜の場處に放棄す.
既に精撰せし石炭は臺車(長さ二十六尺,巾八尺,深さ一尺五寸)に積込み「ポロナイ」より鐵道に因て「テミヤ」迄運送す(石炭を臺車へ積込むは請負にして,其賃錢は壹噸に付金壹錢貳厘八毛なり).石炭「テミヤ」に至れば船積み便利の爲め,直に棧橋に卸し或は石炭庫内に貯積す.

(石炭價格及運賃)
販賣者と特約に係る石炭山元價格,並に「テミヤ」迄の運賃は左(下)の如し.


(石炭分析表)
明治十七年舊東京大學に於て幌内石炭を分析せしに其結果は左表(下表)の如し.


(続く)