2020年6月27日土曜日

ブンガワン・ソロの謎



 我が師・湊正雄先生は,教室の新歓コンパに参加する時は,いつも途中から「ブンガワン・ソロ」を原語で唄うのが常でした.学生の中には「ニャー,ニャー」としか聞こえないという不届き者もいましたが….

 先生がなぜ「ブンガワン・ソロ」を唄うのか.
 聞くところによると,南方石油の開発に徴用され,帰国時は悲劇的な阿波丸にではなく,危険といわれた軍艦で急ぎ帰国したため,逆に死を免れたそうです.帰国してからはすぐに,当時北海道帝国大学の(いや,日本の)財産とも言うべきデスモスチルスやニッポノサウルスの標本を理学部ローンに埋めたといいます.もちろん,近々起きるであろう米軍の大空襲に備えてのことです.いったいなにがあったのか.湊先生はこの間の記録を一切残していませんので,直接知ることはできません.
 それで,この謎の外堀を埋めるつもりで,この件に関係していそうな資料を集めてはいますが,外堀すら埋まるのはまだまだ遠い話です.

 そこで,気になった一冊.

岩瀬昇(2016)日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか.

 表題では,満洲大油田の話かと思われてしまいますが,そうではありません.また,帯に「昭和15年春,満洲南部 もし,日本が石油を掘り当てていたらーーー」とありますが,そんな小さな話でもありません.これぞ本当の歴史書かと思わせる内容です.

 というのは,われわれが習ってきた歴史というのは,当時の王(政権)や誰と誰が戦って誰が勝ったという,というような中身のない記録ばかりですが,こういう歴史には子どものころから興味が持てなかった.それがなぜか判ったのは最近の話で,それはあまりにも薄っぺらすぎるからです.
 たとえば,「いくさ(戦争)」にしても,A将軍のA軍何万とB将軍のB軍何万が戦ってAが勝った.それでナニナニ政権ができた…は,おかしな記録です.両軍の武器は刀にしろ槍にしろ,これは「金属」です.金属がなければ武器はできない.金属はどうしたのか?.武器がなければ「いくさ」はできないのに,まったく無視されている.「A軍何万」といっても,彼らをどうやって運んだのか.「食い物」はどうしたのか.これも無視.近代戦ならば,軍艦にしろ戦車にしろ,戦闘機にしろ,動かすのは「石油」.これも無視.そういう歴史の疑問に回答をくれるのがこの本.こういう歴史書がどんどん出てくることを望みますね.

 さて,まず驚くのが,戦前の軍人は「水がガソリンになる」という詐欺に簡単に騙されるレベルだったこと.これは無名の軍人ではなく,歴史書であれ戦史であれ,必ず出てくる重要人物(!)がです.軍人を政治に関与させてはいけないという歴史の教訓.
 そして,やがて石油の重要さが認識され始めると,戦争遂行のための石油を確保するために戦争に突入してゆくという,冷静に考えればまったくばかげた状態が「太平洋戦争の実態」.そのために日本人全員が巻き込まれ,ほぼアジア全域の人々を巻き込んだわけです.

 当時,日本国が通常使うような量の石油は北樺太に充分にありました.当時,そこは日本領であったから,技術が伴えば,ほかの土地(他国)にいく必要はありませんでした.もちろん,ロシアが邪魔したことで開発できなかったこともありますが.この北樺太(現在はロシア領サハリンとされている)から,現在日本は大量の原油と天然ガスを輸入しているはずです.
 傀儡国家とはいえ満洲国が成立した時に「満洲大油田」を発見できていれば,南方に向かう必要はなかったのでした.しかし,ここでも未熟な石油開発技術と軍部の無理解にあい開発はできませんでした.もちろん,未熟な石油開発技術自体も日本という国が学問に無理解だったせいですが….
 そして,南方石油開発という名目でたくさんの民間技術者を送り込み,撤退時に起きたのが「阿波丸の悲劇」でした.戦時に,はるか南方から石油を運ぼうという信じられない愚挙,みずからの首を絞めるような行為で,瞬く間に国力を使い果たし….というわけです.海外から石油を運ぶなどということは「平和でなければできない」ことです.日本は「平和憲法を守」らなければ,将来はないわけです.歴史に学ばない人はそれが判らない….

 そして湊先生も,その愚挙に巻き込まれたひとりであったわけです.

 しかし,この本でも湊先生の「ブンガワン・ソロの謎」についてのヒントはありませんでした.とはいえ,大量の参考文献が示されており,ほとんどはわたしの立場では見ることはできませんが,中にはいくつか入手可能なものもあるようです.
 探索は,まだまだ続きます.



2020年6月26日金曜日

谷元旦の著作(「赤山紀行」探索記)



 例によって,資料探索ネットサーフィン中.谷元旦の研究者である山下真由美(鳥取県立博物館)さんの論文を発見.非常に興味深く読みました.

山下(2012)「蝦夷地への派遣―島田(谷)元旦が果たした役割とその成果ー」より

 山下さんによれば,谷元旦(島田元旦)の著作は以下の通り.
①『蝦夷蓋開日記』(えぞふたあけにっき:俗に『元旦日記』)
②『蝦夷釈名』【写本】
③『東蝦夷紀行(蝦夷奇勝画稿)』(以下、『画稿』。個人蔵)三巻【自筆】
④『蝦夷山水図巻』(四巻、北海道立近代美術館蔵)【自筆】
⑤『蝦夷地真景図巻』(二巻、個人蔵)【自筆】
⑥『谷文晁奥羽游歴写生模本』(二巻、東北大学附属図書館蔵)【写本】
⑦『蝦夷器具図式』(一冊、個人蔵)【自筆】
⑧『蝦夷器具図巻』(一巻、北海道立近代美術館蔵)【自筆】
⑨『蝦夷風俗図式』(一冊、個人蔵)【自筆】
⑩『蝦夷国風図式』【写本】
⑪『毛夷武餘嶌図』(一幅、個人蔵)【自筆】(【図32】)
⑫『蝦夷草木写真』(一冊)【写本】

 ここで,【自筆】,【写本】と区別があるのは,「自筆」であれば,書名としてそのまま通用できますが,「写本」の場合は写した人の気分で「別名」になっている場合が多々あるためですね.

 さて,困った事に「赤山紀行」がどこにもありません.
 以上終了…というわけにもいかないので,詳しくみてみることに.

 ここで③以降は「画」中心のいわゆる“お宝”で,わたしの立場では一見するのも不可能ですね.といって“お宝”ですから,たとえ画集として公刊されても,まあ手は出ないでしょう.蝦夷地の地質に参考になる画があるのかないのか,今後の成り行き次第.

 テキストとして,わたしにも見ることができそうなのは①と②のみ.②は和語とアイヌ語を併記した“和夷辞典”のようなものだといいますから,たぶん(実際に見てみるまでは判りませんが)候補から外してもいいでしょう.

 問題になりそうなのは①です.
 ①は「寛政十一年三月二十一日に江戸を発し,七月二日に厚岸に到着後,九月二七日に江戸に帰着するまでの道中を毎日記した紀行文」とありますから,ものすごく可能性が高い「もの」です.実際に,これの解説には「文末には「東都 谷元旦記」と記されるが自筆本は未だ見つかっていない。『蝦夷蓋開記』、『蝦夷記』、『蝦夷日記』、『蝦夷紀行』、『蝦夷地紀行』、『蝦夷秘録』等多くの別名があり、管見の限りで二十冊近くの写本が確認でき、おそらくもっと多くの写本が全国に所蔵されていることと思われる。」とされています.問題になっているこの「蝦夷蓋開日記」は「函館市立中央図書館本を定本とした翻刻」を収録した『近世紀行文集成 第一巻 蝦夷篇』(板坂耀子編、葦書房、2002年)によるもので,原著になんと題してあったかは,じつは不明なのです.写本に「赤山紀行」とあった可能性もありますし,元旦自筆の書に「赤山紀行」とあった可能性もあることになります.

 さて困りましたねえ.どうしましょう….
 とも,云ってられないので,再度「赤山紀行」が引用された経緯から整理することにしますか….


①上野(1918):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述「寛政十一年(西一七九九)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ」

②作者不詳(1931):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).後注に「昭和六年七月刊行の『北海道炭砿港湾案内』の冒頭に引用されているが、筆者不詳。」とある(⑤児玉,2000参照).

③山口(1934):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述「北海道に於ては1797年に釧路で發見*1され「赤山紀行」に次の如く記されてゐる。「寛政11年オタノシキ川より左に原を見て行けば原愈廣くクスリ川迄は皆原なり。此の附近石炭あり。又柱戀(「桂恋」の誤記)の附近なるシヨンテキ海岸には磯の中にも石炭夥しく,總べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり。」」
*1 この文章では,「北海道の石炭は1797年に発見された」と読めるが,上野(1918)と読み比べれば,赤山紀行を書いた著者がその附近を通ったのが「寛政十一年(西暦1799)」であり,それは発見年ではない.

④山口(1935):「赤山紀行」(著者名・著作年不記載).記述以下
北海道に關しては赤山紀行に次の如き記事が見えてゐる
寛政十一年(邦紀二四五九,西紀一七九九)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くクスリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと言ふ

⑤児玉(2000):谷元旦(1799)「蝦夷紀行」および不詳(1799)「赤山紀行」:児玉(2000, p. 60-61)に
「旅行の禁が解けてすぐこの年、東蝦夷を旅した人々は幾つかの紀行文を残しているが、その中に石炭の記事がある。幕府の小石川薬園を管理していた渋江長伯に従って、この地方を旅した谷元旦(画家谷文晁の弟)の『蝦夷紀行』六月二十四日の条。
「此の浜邊平にしてしめりよし。歩行も易し。石炭など、この邊より出づる。尤も上品なり。光黒くして滑澤あり。」
 その前二十日から二十三日まで白糠に滞在して二十四日出発。大楽毛川を越え釧路への道中だから、この石炭産地は白糠石炭岬(シリエト)のものと分かる。
 また、同年の「赤山紀行」(昭和六年七月刊行の「北海道炭砿港湾案内」の冒頭に引用されているが,筆者不明)。
 「オタノシキ川より左に原を見て行けば、原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり。この附近石炭あり。桂戀の附近なるションテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総てトカチ嶺よりクスリ嶺までのうち、山谷海邊とも石炭なり。今度、シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども石炭豪も盡くることなしという。」

⑥大場・児玉(2011):児玉(2000)より「図-1 我が国主要石炭鉱業の時代別成立」を引用.図の説明(表-1 我が国石炭鉱業の推移)に「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」と記述.なお,児玉(2000)の図には釧路地域において,「27.天明元年(1781),松前広長『松崎志(松前志の間違いか?)』,釧路より出づ。石炭紹介。」とあり,谷元旦より前の記録になっている.


 タイムラインから見れば,書名「赤山紀行」としているものは,記述内容が同じであるところを見ると,各論文はみな①を引用している可能性が高いように思えます.
 また,「赤山紀行」は谷元旦の「蝦夷蓋開記」の別名写本の可能性が浮かび上がってくるかと予想したのですが,児玉(2000)は別物として扱っています.児玉が両者の実物を読んでいるのだとすれば,「赤山紀行」は谷元旦の著作の別名という仮説は崩れます.

 この後は,「蝦夷蓋開記」をなんとか探し出して,全部読んでみるしかないですねえ….



2020年6月23日火曜日

手塚治虫の山




物心ついた頃から知っている漫画家=手塚治虫.
昨日ゲットしたこのマンガ集は「山」をテーマにしたもの.

手塚治虫が生涯発信し続けた「生きる」ことの尊さ。
山・自然・動物をテーマに描かれた手塚漫画の傑作アンソロジー

だそうです.
何といっても圧巻は「三松正夫と昭和新山」を題材とした「火の山」.たった一人の男と火山との戦い.そして火山を無知から護るための戦い.

ワクワクしながら読みました.

ところで発行日が今年の七月一日….まだ来てないんですが.(^^;
 

2020年6月16日火曜日

「赤山紀行」探索



 ガワーについての文献散策中.自分の書いた「北海道・地質・古生物」の「蝦夷地,最初の炭鉱 pt. 1」がヒットしたので読み直し.そこにあった「シラヌカ」の「石炭掘り」についての記述を読み直し.そこで「赤山紀行」なる文献を思い出しました.

 それは,以下の文.

「オタノシキ川より左に原を見て行けば,原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり.この附近石炭あり.桂戀の附近なるションテキ海岸には,磯の中にも石炭夥しく,総てトカチ領よりクスリ領までのうち,山谷海邊とも石炭なり.今度,シラヌカにて石炭を掘りしに,坑内凡そ三百間に至れども石炭毫も盡くることなしという.」
 この「赤山紀行」は「北海道炭砿港湾案内」(昭和六年刊)の冒頭に引用されていると児玉清臣「石炭の技術史」にありますが,詳細不明です.
 そもそも「北海道炭砿港湾案内」そのものの存在が確認できないですし,「赤山紀行」の存在も確認できません.著者も不詳.

ということだったんですが,そう言えば「赤山紀行」についての探索は放置状態のままでした.
 「北海道炭砿港湾案内」は10年たった今も,日本の古書店ですら見つからず.Googleにも引っ掛からず.
北大図書・北方資料データベースに「北海道炭砿港湾案内」も「赤山紀行」もなし.
国立国会図書館Dコレクションに「北海道炭砿港湾案内」も「赤山紀行」もなし.
CiNiiにもなし.
万事休す.

 まあ念のためということで,J-STAGEで「赤山紀行」を検索.
上野景明(1918)明治以前に於ける北海道礦業の發達
山口彌一郎(1934)炭礦聚落の漸移性
山口彌一郎(1935)炭礦民俗誌稿
がヒット

 順番にチェック.
 上野(1918)には,「赤山紀行」は旧記のリストに「(ル)赤山紀行」として載っていて,これは本文「(一)北海道鑛業沿革年表」の「(一七)、寛政十一年(西一七九九、119)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くク スリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ(ル)」として引用されています.
 残念ながら,著者名の記載はなし.

 続いて,山口(1934)では,上記と同様の文が引用されていますが,こちらも引用文献としての記載がなく,著者名は不明.
 さらに,山口(1935)では,二ヶ所に引用.上記と同じ文章が記載されているも,これも引用文献としての記載無し.

 なんとまあ,時代が古いせいか,文系研究者の習いなのか,引用している文献が明示されていないのですね.ダメかな.

 というとろで,駄目元で再度「赤山紀行」でググってみました.やってみるものです.そうしたら,大場・児玉(2011)「戦前期石炭鉱業の資本蓄積と技術革新(一)」が引っ掛かりました.そこには児玉(2000)に掲載された「我が国主要石炭鉱業の時代別成立」の図に引用された文献として載っていました.
 それによれば…
 「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」
とあります.

 !.なんと,著者は「谷元旦」でした!.
 谷元旦については,ウィキペディアでも参照してもらうこととして,簡単に説明すると,谷元旦は超有名な絵師「谷文晁」の実の弟.養子に行って「島田元旦(しまだげんたん)」を名乗ります.文晁の弟だけあって元旦も絵が得意.円山応挙の弟子でもありました.
 しかし本業は鳥取藩士.「寛政11年(1799年)松平忠明が蝦夷地取締御用掛として蝦夷地警備に赴いた際、蝦夷地の産物調査の一員として同行した。元旦の一行は植物調査を主体としたもので、幕府奥詰の医師で薬園総管を兼ねていた渋江長伯を隊長としていた。元旦は絵図面取りを担当し、蝦夷地各地の実景、植物、鉱物、アイヌ風俗を北海道の太平洋岸一帯で、4ヶ月に渡って調査した。(from ウィキペディア)」

 絵の得意な元旦は記録係として随行したものでしょうね.
 じつは,谷元旦は地質学界では有名な人物でもあります.当時の蝦夷地(北海道)のスケッチをいくつも残していて,その中には有珠山の当時の姿なんかもあります.1977年噴火前の姿をとどめる貴重なスケッチでありました.




 しかし,残念なことに「赤山紀行」そのものは,どこにあるものなのか,まったく判りません.まあ,見つかったとしても,超有名人の著作ですから,入手は不可能だと思いますが…