2020年2月27日木曜日

北海道における石灰岩研究史(5)


北海道における石灰岩研究史(5)

4)戦後の再吟味時代(1945-1969:昭和2044

 太平洋戦争の敗戦により,朝鮮,満洲,南樺太,台湾など日本が原料資源を求めていた地域は全て失われました.こうなると注目を浴びるのが,例によって北海道です.北海道は未調査部分が多く,三度,鉱産資源調査が始められ,その中には石灰石資源も含んでいました.昭和25年,道立地下資源調査所が設置され,昭和23年に発足した地質調査所北海道支所北海道大学などとともに,官公立の調査研究機関の人々が一丸となって(石灰岩調査を含む)地質調査に取組みました.
 これらの調査は長期にわたって続けられ,この間に従来知られていた鉱体の鉱量,品位と共に石灰石を含む地層の岩相,構造,地質層準等も明らかにされました.同時に行なわれた全道5万分の1地質図幅調査の進展にともない,新鉱体の発見もあり,数多くの石灰石鉱床が公表されました.

 注:現在は既に田中(1973)の時代とは異なり,1/5万地質図幅もいくつかの図幅範囲を残したまま打ち切りになり,地質調査所・北海道支所は廃止になり,道立地下資源調査所も改称して業務内容が変化し,北海道大学・地質学鉱物学教室も無くなっています.田中(1973)の時代区分には,すでに新しい時代が付け加わっているわけです.これについては,最後に考察する予定です.

 この中には,石灰石鉱体中唯一の新生界中に存在するものとして,北見国枝幸郡中頓別町旭台にある貝殻石灰岩があります.これは「中頓別層」中に存在するもので,中頓別層は鈴木(1935MS)が「モウツナイ層上部」と「中頓別層」として記載したもので,今西(1953)が「中頓別層群」として再定義し,小山内ほか(1963)によって「中頓別層」として報告されたものです.層序区分やその時代論については,長い間議論がありましたが,高清水(2009)が化石群集を検討した結果,この地層は中新世中期後半~後期(約14.8~5.4Ma)の地層であることが推定されました.その形成機構・環境については,田近(1989),高清水(2009)が詳細に検討しています.この時代になると,もう「資源としての石灰岩」ではなく,地質形成機構・形成環境などが議論されるのが当たり前になったということでしょう.

北海道地下資源調査報告
北海道石灰岩調査報告 第1報~第2報の目次
(正確には,第1号から18号までは「北海道地下資源調査報告」,第19号から70号までは「地下資源調査所報告」,第71号からは「北海道立地質研究所報告」になる)

 話を戻します.
 この時期,北海道地下資源調査所報告には,1950年に2ヶ所,1951年に4ヶ所,1952年には9ヶ所,1958年に4ヶ所,1959年に3ヶ所,1960年に2ヶ所,1961年には二ヶ所,1962年に1ヶ所,1964年に1ヶ所が報告されています.北海道地下資源調査所報告は2000年に「北海道立地質研究所報告」に変わり,現在も存続しますが,1965年以降は石灰岩に関する報告はありません.
 北海道開発庁名で発行された「北海道地下資源調査資料」には,1952年に2ヶ所,1953年に1ヶ所,1954年に1ヶ所,1957年には石灰石鉱床が1ヶ所とドロマイト鉱床が2ヶ所,1959年に1ヶ所(前出,中頓別石灰石),1964年にドロマイト鉱床が1ヶ所報告されていますが,こちらも1965年以降,石灰岩鉱床についての報告は絶えています.報告すべき岩体が尽きたのか,資源としての重要度が低下したのか,恐らくその両方なのでしょう.
 したがって,田中(1973)のいう「戦後の再吟味時代」は1965(昭和40)年には終わったと考えてもいいのかもしれません.

 田中(1973)は,石灰岩を含む古期岩類を「神居古潭系」,「空知層群」,「日高古生層」,「北見古生層」,「枝幸古生層」,「松前古生層」と分けています.しかし,この時代はまだまだこういった地層区分には混乱があった時代で,このまま田中(1973)をベースに考察を続けても,さらに混乱しそうなので,やめます(これ以下の部分,じつは五・六回書き直しています(^^;;).

 現在では,加藤ほか(1990編)や,新井田ほか(2010編)のように,西から「渡島帯,礼文ー樺戸帯,空知ーエゾ帯,日高帯,常呂帯,根室帯」に分けて,地域ごとに説明するのがふつうになっています.ですが,この話はあくまで「研究史」ですので,歴史的に追ってゆきたいと思います(これもまた途中で挫折するかな(^^;;;).

それで,5)として「化石がしめす北海道の地史=石灰岩からの産出化石を中心として=」を設定します.
(つづく)


2020年2月26日水曜日

北海道における石灰岩研究史(4)


北海道における石灰岩研究史(4)

「北海道有用鉱産物調査」の時代(1925-1945:大正14~昭和20
田中1973の「3)北海道有用鉱産物調査報告の時代」改題
(報告書名は「北海道工業試験場報告 第○号 北海道有用鉱産物調査(第○報)」であり,“北海道有用鉱産物調査報告”で検索をかけても出てこないため)

 北海道工業試験場1922(大正11)年に設置されました.この工業試験場に,1929(昭和4)年,「有用鉱産物調査部」が増設され,1933(昭和8)年,有用鉱産物調査部は「資源調査部」に名称変更されています.また,1948(昭和23)年,資源調査部は商工省へ移管され,「工業技術院地質調査所北海道支所」となりました(詳しくは,「地質調査所百年史」を参照).「有用鉱産物調査報告」は,第1号が1930(昭和5)年に,第10号が1936(昭和11)年に発行されています.現在,北海道工業試験場報告のバックナンバーは入手不能のため,詳細の記述はできません.一部については古書店より入手できましたが,古書店には本文と地質図を別にして販売してよいという暗黙の了解があるらしく,付属地質図が付いていないものばかりで残念です.
 入手できたものについては,下に示しておきます.

 澤田(1930)は,北海道有用鉱産物調査(第1報)で「渡島支庁管内松前郡西半部」を調査し,渡島と檜山の境にある願掛沢および大鴨津川の上流大千軒岳附近の石灰岩について記述しています。
 福富(1932)は,北海道有用鉱産物調査(第2報)で,「上磯石灰岩」について詳述し,鉱量推定もおこなっています.上磯石灰岩は「峩朗鉱山」として長年稼行され著名です.

北海道有用鉱産物調査(第2報)

 福富(1933)は,北海道有用鉱産物調査(第3報)で「渡島支庁管内亀田郡~茅部郡」を調査し,尻岸内中流附近,銭亀沢村石崎の海岸,八木川の上流,湯の川村湯ノ沢の四ヶ所の石灰岩,および石灰華として恵山・磯谷温泉のもの,また尻岸内川支流・中小屋の沢下流で石灰華の巨大転石を報告しています.
 福富ほか(1936a)は,北海道有用鉱産物調査(第9報)において,「渡島支庁管内山越郡国縫・長万部地方~檜山支庁管内利別川右岸地方」を調査し,各種有用鉱産物を報告しました.その調査区域中で「中古生層並びに変成岩地帯に当たって,所々に石灰岩層あり」としています.しかし,その多くはレンズ状であり,品質も良くないものが多く利用価値が少ないとしました.ただし,利別川支流大根田の沢およびベタヌ沢上におけるものは良質で量も多大であると思われるが,交通が不便であることを示しています.
 福富ほか(1936b)は,北海道有用鉱産物調査報文(第10報)において,「浦河支庁管内幌泉郡および様似郡」の各種有用鉱産物を報告した.その中で,様似村に露出する古生層地帯には,多数の石灰岩が見られ,その中でも新様似(現在の「新富」附近)「メナシエサマンベツ川」下流附近および二七(になな)村(現在の「田代」)「イサカナイ」「ポンサヌシベ」などに比較的大きな岩体があるとしています.これらのうちには採掘された跡もあり,新様似の岩体は水銀鉱を胚胎している部分もあるとしています.

 このほか,未入手の報文については田中(1973)から略述します.著者名については,このシリーズは表向きは「福富19xx)」となっていますが,実際に本文を読むと,調査には複数の別な所員(?)が示されており,要確認事項です.これは代表者のみを示す「お役所の悪弊」だろうともいわれています.
 福富1933)「北海道有用鉱産物調査(第4報)」には,檜山郡石崎川左股の石灰岩,天の川支流,厚志内沢上流の二ヶ所の石灰岩,また海岸沿いにはメノコ岬、日方泊岬、願掛沢と三条の石灰岩は地質図に描けるような岩体が示されているといいます.
 福富1936)「北海道有用鉱産物調査(第8報)」には,「常呂郡浦島内沢の支流前山の沢の白雲岩質石灰石」,また「佐呂間川河岸には径1.52mの結晶質石灰石の団塊あり」と記載されているといいます.
 また,引用文献が示されていませんが「石灰石鉱床ではないが山越郡二股温泉,江差町東南目名川支流湯の沢口、亀田半島の恵山,磯谷温泉などに混泉沈殿による巨大な石灰華があることが明らかにされ,ライマン記載による上湯の沢のものは温泉沈殿によるものであろうと指摘されている。」とされています.

 「北海道有用鉱産物調査(報告)」は10号で終了しましたが,この間,北海道地質調査会が組織され,10万分の1地質図幅として「然別沼」(大石・渡辺 1933),「帯広」(根本・大石・渡辺 1933),「大樹」(根本・佐々 1933)の3図幅が出版されました.1/10万地質図幅調査は,北海道工業試験場地質調査報告として引継がれ「浦河」(竹内・三本杉 1938),「興部」(竹内 1938),「長万部」(矢島・陸川 1939),「寿都」(矢島・古館・陸川 1939),「登川」(根本・三本杉・水口 1942),「鴻ノ舞」(竹内 1942),「余別岳」(根本 1942)が出版され,1942(昭和17年)に打ち切られました.これは前年12月の太平洋戦争開戦のためです.これらの1/10万地質図は途中で打ち切られたとはいえ,戦後に開始された1/5万地質図の基礎になっています.

 地質図をメインとする調査に変わったということは,図幅の範囲内で地質図に描けるような地質体は示さなければならないということで,これまでの鉱物調査・資源調査とは大きく変わったところです.また,これら1/10万図幅は1933(昭和8)年以来卒業生を出している北海道大学地質鉱物学科の学生らの就業論文卒業論文が基礎になっており,現在知られている石灰岩体は,ほぼその中に記述されています.特に資源開発を目的としない学生たちの調査では,石灰岩に含まれる化石の調査も行われるようになり,これまで古生層とされていた地層から中生代の化石も発見されるようになり,時代論の再吟味が必要となってきた時代でもあります.見る目がちがえば,見えるものも違うという典型的な例でしょう.
 学生たちが加わった道内の地質調査は,北海道の地質概念を一変させました.これまで古生層として三波川系に対比された神居古潭系あるいは漠然とそれに対比されていた日高~胆振の石灰岩から中生代,しかもジュラ紀後世を示す化石が矢部・杉山(1939),Yabe & Sugiyama (1939),矢部・杉山(1941)によって報告されました.このあたりの経緯は橋本(1960)に詳しい.
 このようにして,北海道には“オルビトリナ石灰岩"以外にも"烏巣(烏ノ巣)型"化石を含む石灰岩が存在することが明らかにされたのでした.しかし,道南地域の石灰岩を含む松前古生層,北見地域の石灰岩を含む北見古生層などの日高古生層と呼ばれていたものの再吟味は,まだ行なわれていませんでした.

(つづく)

2020年2月25日火曜日

北海道における石灰岩研究史(3)


北海道における石灰岩研究史(3)

「鉱物調査報告(北海道之部)」の時代(1893-1924:明治26~大正13年)
(田中 1973の「2)「北海道鉱物調査報告」の時代」改題

 田中(1973)には「北海道鉱物調査報告」とありますが,実物の表紙には「鉱物調査報告(北海道之部)」とあるので,上記時代名を改称します.
 なお,鉱物調査報告については植村(1968)に詳しいです.また,調査報告のリストについては,こちらを参照のこと(もとに戻るときは,ブラウザの戻るボタンで).
 その調査は1910(明治43)年に始まり,関東大震災後の緊縮政策によって1924(大正13)年に閉じられるまで14年間続きました.報告書は1911(明治44)年から1930(昭和5)年の37号まで刊行されましたが,最後の37号の発行は36号の発行から5年の空白期間がありました.

 この調査は,明治43年から大正6年までの前半期と,大正7年から同13年までの後半期で,その性質が異なります.前半期は地下資源分布の広域調査で,これにより有望地域を抽出すると同時に,地質の分布および構造を理解し,将来の地質調査の基盤を築くことでありました.後半期は前半期の調査結果から抽出した地域の精査で,天塩・釧路炭田および天塩油田・ガス田の調査に重点が注がれました.
 要するに,これまでの調査では北海道全体での資源開発としては充分ではなく,効率的かつ経済的な判断も含めたということでしょうか.たとえば,同じ資源で同じ埋蔵量ならば,運搬積み出しに有利なものを選ぶというような.
 前半期の調査員は伊木常誠,大日方順三,小林儀一郎,岡村要蔵,山根新次,清野信雄,門倉三能,納富重雄です.後半期には,若手の飯塚保五郎,鈴木達夫,六角兵吉および植村癸巳男らに引継がれています.


4号コンテンツ

 報告書第4号では,岡村(1910)が日高沙流川流域のニセウ河口で,静内・新冠・三石三群地方では三石川,染退川,新冠川の石灰岩を記述していますが,交通の便が悪く採算が合わないとしています.
 一方,同第4号中で,山根(1910)は幌別川「シュンベツ」の石灰岩,新様似の「エサマンベツ」と「メナシュエサマンベツ」の合流点附近にある石灰岩は,どちらも品質も良く,馬で運搬が可能である,としています.
 また第5号で,小林(1911)が胆振国勇払郡鵡川流域の「ニニュー」附近で二層の石灰岩を認めたが両層とも「大ナラス」としています.
 同5号では,伊木(1911)が日高国元浦川流域および浦河附近で,元浦川支流「シーホロカアンベツ」川および幌別川支流「シュンベツ」川下流に露出するとし,後者は「ルーチシャンベツ」河口附近に「大ナルモノ一條」あるものの小塊が非常に多い,としています.これらは,何れも(当時の)古生層中とされ、化石は認められていません.
 第12号では,大日向(1913)は渡島国江良町の清部鉱山附近の“古生層”は「往々「レンズ」状の石灰岩」を挟在するとし,また大鴨津川,小鴨津川の石灰岩も記述しています.
 これらの報告書群には,小さな岩体を含めて多くの石灰岩の位置が報告されました.前記以外にも北見国枝幸郡の咲来峠,紋別郡上興部,上川郡奥士別のもの等があり,また十勝支庁管内では足寄郡螺湾のものが初めて知られるようになりました.調査の目的が金属,非金属,石炭,石油などの鉱物資源であり,網羅的に調査されたため,このころはまだ利用価値の低かった石灰岩も多く見いだされたのでしょう.

 この「鉱物調査報告(北海道之部)」ではありませんが,この時代の地質調査所報告に,納富(1919a)が石狩及び十勝国境附近の鉄道沿線地質調査で南富良野村鹿越の石灰岩を,また納富(1919b)が北見國紋別郡遠軽から石狩國上川郡永山までの道路沿線調査にて比布の石灰岩(現.突哨山石灰岩)について報告しました.このとき比布の石灰岩については,既に5年前から焼成石灰を販売していたといいます.
(つづく)


2020年2月24日月曜日

北海道における石灰岩研究史(2)

北海道における石灰岩研究史(2)

北海道における石灰岩研究史(田中,1973の「北海道における石灰石鉱床の調査史」を改題)

1)草分け時代(1874-1892:明治725年)
 北海道における大部分の有用鉱物がそうであるように、石灰岩の地質学的な調査もまた,ライマンらの調査によって始められました(Lyman 1874; 1877。この報告には上磯を初め、石崎,上湯沢、鷲の木,神居古潭などの石灰岩が記述されています.しかし,これらのうち,上湯沢および鷲ノ木の“石灰岩”とされたものは,その該当するものは見つかっていません.

 ライマンの弟子である西山正吾がまとめた「北海道鉱床調査報文」(1891:明治24年)には,数多くの石灰岩産地も記述されていて,多数の分析値も載せられています.この報文では,北海道の石灰石鉱床はおおむね長万部以南にあるとし,東部では日高国,石狩国上川・北見国宗谷郡に限られるとされています.それらの石灰岩の時代は古生代と第三紀であるとされいますが,現在の知見から見れば正確さを欠いています.
 報文には,以下の地点の石灰岩についての記述があります.

  渡島国,亀田郡尻岸内村
    同,亀田郡石崎村
    同,亀田郡下湯川村湯ノ澤
    同,上磯郡中野村戸切地川,ガロの澤
    同,松前郡福島村ーの渡
    同,松前郡根部田村字烏の澗
    同,松前郡清部川上流シノへ沢
    同,松前郡原口村原口川およびヲンコの沢
    同,檜山郡石崎川の上流,清川
    同,後志国瀬棚郡利別川上流ピリカベツ温泉附近
    同,後志国島牧郡永豊村泊川および軽臼村大平川
  日高国,浦河郡元浦川上流
  日高国,浦河郡幌別川
    同,三石郡三石川上流
  石狩国,上川郡忠別(当時は,旭川,鷹栖,東鷹栖という地名はない)石狩川支流ピップ(比布)川
  北見国,宗谷郡チライベツ(知来別)川上流

 これらのうちでは「ガロの澤,三石,幌別,泊川,ピリカベツ」がとりあげられ,これらは石灰の原料としてのほかに,大理石として石材にも適するとしてあります.

 この後,田中(1973)は神保小虎の報告にある石灰岩についてまとめています.この部分には奇妙な点がいくつもありますが,神保(1890bJimbo (1892)はわたしには入手不可能なので,記述の確認ができません.したがって,田中の記述の通り引用しておくことにします.

「1891年神保小虎(95*)は“石灰石並びに大理石"として多くの産地を挙げているが,その内、当時採掘せるものとして、渡島国ガロの沢、同亀田郡石崎を記載している。又装飾用として使えるものは永豊村泊川の転石および三石川ドメウシの大理石があり、石灰石産地として開発可能な海岸又は道路に接したものとして次のものが挙げられている。

  1. 渡島国,亀田郡湯の川,石崎,尻岸内
  2. 渡島国、上磯郡ガロの沢
  3. 渡島国、松前郡原口、根部田,清部並びに福島村の辺り,江差港辺,石崎
  4. 後志国,利別川上流,美利河,永豊村
  5. 日高国,三石川,様似川、元浦河、幌別川
  6, 石狩国,上川郡比布
  7. 北見国,宗谷郡知来別

 これら石灰岩は全て古生層中にあって、第三紀並びに中生層中の泥灰岩団球は工業上採る可き価なしとされている。
 これらの石灰岩産地は現在も大体その位置を知るととができるが,その中の湯の川は上湯の川の温泉鼻と推測されるものであり、又根部田のように所在不明のもの、知来別のように増幌層礫岩中の石灰岩礫と推定されるものも存在する。又この文献中石狩川の神居古潭中のものは三株系(御荷鉾系のこと)中てあって質,量共に良き石灰を得るに適せずとしている。
 また、これら石灰岩を含む古生層は内地のもののように多種の化石を含まず、僅かにシヤールスタイン中にラデイオラリヤや海綿の遺殻を見るにすぎず,海百合の破片を見たものは永豊と根部田並びに原口だけであると記せられている。」
---
* 神保小虎(95):「(no.)」は田中の引用文献提示法です.しかし,論文中の「(95)」は全く別の文献で,田中のリストでは(89)が正しいのです.また,(89)は「神保小虎 1891 北海道地質報文 北海道庁」とありますが,正確には「神保小虎(1892a, b)北海道地質報文(上下巻).北海道庁」であり,わたしが入手できた「上巻」には,そのようなことは書かれていないので,たぶん,1892b(下巻)にあるのだろうと思われます.

「続いて出された1892年の神保小虎(96)*の報告中には、まことに興味のある石灰岩が記載されている。これは空知川下流,空知川の滝から3里程上流のPanketoptuyeushiと空知滝に近い Shirikeshomapの下手のPanketeshima2ケ所に露出あり、古生層中の石灰岩とはおもむきを異にし、又日本の他の石灰岩とも異なっており海胆の棘と珊瑚、有孔虫があり,海胆の棘が鳥巣産のものとよく似ているので恐らくは中生代であろうとされているものである.」
「また、これら石灰岩を含む古生層は内地のもののように多種の化石を含まず、僅かにシヤールスタイン中にラデイオラリヤや海綿の遺殻を見るにすぎず,海百合の破片を見たものは永豊と根部田並びに原口だけであると記せられている。」
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* 神保小虎(96):田中のリストでは,(96)は無関係の論文であり,(90)が正しい.したがって,神保(or Jimbo)(1892)は計3冊あることが推測でき,和文下巻と英文は同一内容であることが推測できます.これらは現在入手不可能で,北大図書館には全て蔵書としてあると考えられますが,このためだけに確認におもむくのは「しんどい」ので懸案事項としておきます.

 以下,わたしの編集文章に戻します.
 上記,Jimbo (1892)によって「恐らくは中生代のものであろう」とされた石灰岩からは,後述のように,矢部(1901)が有孔虫・オルビトリナを報告し,「白亜紀セノマニアンである」とされます.蛇足しておけば,神保が類似を指摘した“鳥巣型石灰岩”はジュラ紀~(一部)前期白亜紀であるのにたいし,矢部が指摘したオルビトリナは後期白亜紀のものであり,時代が違うということを示したものです.
 石川貞治,横山壮次郎は「北海道庁地質調査 鉱物調査報文」において北見国枝幸郡トンベツ屯支流ペッツアンで“古生層”の中から石灰岩の新産地を報告しました(石川・横山 1894編).

石川・横山(1894編)表紙

 石川は翌々年の「北海道庁地質調査 鉱物調査第二報文」では,日高国沙流郡「サル」川,「ム」川,「シビチャリ」川に多数の石灰岩露出地を記録し,またそれらとは異なる石灰岩の転石をも記録しています(石川 1896編).

石川(1896編)表紙

 上記報告書にある石灰岩産地は,ほかの地質記載も含めてアイヌ語地名によって示されています.ところが,現在ではこれらのアイヌ語地名のほとんどは失われ,その位置を確認するのは困難になっています.また,これらの調査をまとめた「北海道地質鉱産図(120万分の1)」が1896(明治29年)に発行され,石灰岩の産地もいくつかマークされていますが,正確な位置についてはこれでは読み取れません.
(つづく)


2020年2月23日日曜日

北海道における石灰岩研究史(1)

北海道における石灰岩研究史(1)

 「勝手にジオパーク」を再開しようとして,「まぼろしの鷹栖石灰岩」について書こうとしたら,なんとブログで一切触れていないことに気がついた.
 しからばと,まとめ始めたら,「オルビトリナ」も「石灰岩」も混乱(わたしの中だけの混乱ですが(^^;)してることが判明.今,北海道の石灰岩研究史から整理中.急がば回れです.

 地下資源の代表である金属資源鉱山や,エネルギー資源である石炭山も根こそぎ廃山したあとも,石灰岩は日本で唯一,自国で賄うことのできる鉱産物であり,コンクリートの材料としても肥料としても,重要な資源として各地で採掘されています.
 北海道の「石灰岩調査史」については,田中寿雄が博士論文の中でまとめています.しかし,残念なことに少し時代が古いこと,また田中の興味は「鉱床としての石灰岩」にあるようなので,そのままでは現代的ではありません.そこで,田中(1973MS)をベースに「石灰岩研究史」を作り直してみたいと思います.この論文は,どこで入手したのか忘れましたが,活字で組んだ小冊子の形態をとってました.

田中寿雄の「北海道における石灰石鉱床の調査史」

 田中は「北海道における石灰石鉱床の調査史」を三つの時代にわけています.それは…

  1)くさわけ時代(1874-1892:明治725
  2)北海道鉱物調査報告の時代(1893-1924:明治26~大正13
  3)北海道有用鉱産物調査報告の時代(1925-1945:大正14~昭和20
  4)戦後の再吟味時代(1945-1969:昭和2044

 1)「草分け時代」は北海道というよりは,日本全体で「地質調査」が始まった時代でした.そしてその調査は未開の北海道では,まさに「草やぶを分ける」時代でした.ライマンやその弟子たちの一連の仕事や,神保小虎石川貞治横山壯次郎浅井郁太郎たちの調査があります.実際にはライマンの地質調査と神保らの調査の間には,10年の空白がありますが,それもまた,一つの特徴なのでしょう.

「來曼先生と其の若かりし門下生」

 2)「北海道鉱物調査報告」については,植村(1968に詳しいです.これは農商務省「地質調査所」の所管事業として行われたもので,明治43年から大正13年(19101924)の14年間にわたって実施されました.したがって,田中の「明治26」年からというのは空白期間を多く含み正確とはいえません.大正13年に,この鉱物調査報告が終了したのは,関東大震災が原因です.例によって,北海道は国策のダンパーとして,そのときどきでいいように扱われてきたのですね.この鉱物調査報告の前には「北海道庁地質調査(「新地質調査」という俗称もあるらしい;もちろんライマン等の調査が「旧」ということでしょう)」として石川貞治,横山壯次郎らの「鉱物調査報文」(1894),「鉱物調査第二報文」(1896)が出されています.

 3)「北海道有用鉱産物調査」については,佐藤・斎藤(1968)にその概略が記されています.昭和4年,北海道庁が工業試験場を使って全道の有用鉱産物調査を行うことになりました.その報告は第1報から第10報(昭和511年)まで発行されています.その間に北海道大学に地質学鉱物学教室が設置されています.また北海道庁,札幌鉱山監管局,帝室林野局,札幌鉄道局,北海道帝国大学などと民間業界の援助によって,財団法人北海道地質調査会が昭和6年(1931)に設立され,北海道の地質に関するデータは飛躍的に増大した時代でもあります.
 「北海道有用鉱産物調査」については,いつかブログで紹介したいと考えていますが,古書店で入手したものの,一部欠如してますし,なによりも付属しているはずの地質図が抜かれていますので,いつになるかわかりません.

 4)太平洋戦争の敗戦によって,戦争によって得た植民地とその産出資源はすべて失われました.復興のためには,どうしても国内の資源調査が必要でした.そのため未調査部分の多い北海道には多くの期待がかけられたのでした.そして地質調査所北海道支所1948:昭和23年),北海道立地下資源調査所1950:昭和25年)が設置されました.
 田中の論文は1973年ですから,当然その後の研究史については示されていません.では,田中のいう意味での「戦後の再吟味時代」は,その後も続いているかというと,そうとは思えません.現在は既に地質調査所北海道支所は閉鎖され,北海道立地下資源調査所は「道立地質研究所」と名前を変え,その業務内容も大きく変わってきています.では,その後の時代はいつ始まり,なんと名付けるべきか.それは,この後,歴史を整理しながら考えてゆくことにしましょう.

(つづく)