2020年2月26日水曜日

北海道における石灰岩研究史(4)


北海道における石灰岩研究史(4)

「北海道有用鉱産物調査」の時代(1925-1945:大正14~昭和20
田中1973の「3)北海道有用鉱産物調査報告の時代」改題
(報告書名は「北海道工業試験場報告 第○号 北海道有用鉱産物調査(第○報)」であり,“北海道有用鉱産物調査報告”で検索をかけても出てこないため)

 北海道工業試験場1922(大正11)年に設置されました.この工業試験場に,1929(昭和4)年,「有用鉱産物調査部」が増設され,1933(昭和8)年,有用鉱産物調査部は「資源調査部」に名称変更されています.また,1948(昭和23)年,資源調査部は商工省へ移管され,「工業技術院地質調査所北海道支所」となりました(詳しくは,「地質調査所百年史」を参照).「有用鉱産物調査報告」は,第1号が1930(昭和5)年に,第10号が1936(昭和11)年に発行されています.現在,北海道工業試験場報告のバックナンバーは入手不能のため,詳細の記述はできません.一部については古書店より入手できましたが,古書店には本文と地質図を別にして販売してよいという暗黙の了解があるらしく,付属地質図が付いていないものばかりで残念です.
 入手できたものについては,下に示しておきます.

 澤田(1930)は,北海道有用鉱産物調査(第1報)で「渡島支庁管内松前郡西半部」を調査し,渡島と檜山の境にある願掛沢および大鴨津川の上流大千軒岳附近の石灰岩について記述しています。
 福富(1932)は,北海道有用鉱産物調査(第2報)で,「上磯石灰岩」について詳述し,鉱量推定もおこなっています.上磯石灰岩は「峩朗鉱山」として長年稼行され著名です.

北海道有用鉱産物調査(第2報)

 福富(1933)は,北海道有用鉱産物調査(第3報)で「渡島支庁管内亀田郡~茅部郡」を調査し,尻岸内中流附近,銭亀沢村石崎の海岸,八木川の上流,湯の川村湯ノ沢の四ヶ所の石灰岩,および石灰華として恵山・磯谷温泉のもの,また尻岸内川支流・中小屋の沢下流で石灰華の巨大転石を報告しています.
 福富ほか(1936a)は,北海道有用鉱産物調査(第9報)において,「渡島支庁管内山越郡国縫・長万部地方~檜山支庁管内利別川右岸地方」を調査し,各種有用鉱産物を報告しました.その調査区域中で「中古生層並びに変成岩地帯に当たって,所々に石灰岩層あり」としています.しかし,その多くはレンズ状であり,品質も良くないものが多く利用価値が少ないとしました.ただし,利別川支流大根田の沢およびベタヌ沢上におけるものは良質で量も多大であると思われるが,交通が不便であることを示しています.
 福富ほか(1936b)は,北海道有用鉱産物調査報文(第10報)において,「浦河支庁管内幌泉郡および様似郡」の各種有用鉱産物を報告した.その中で,様似村に露出する古生層地帯には,多数の石灰岩が見られ,その中でも新様似(現在の「新富」附近)「メナシエサマンベツ川」下流附近および二七(になな)村(現在の「田代」)「イサカナイ」「ポンサヌシベ」などに比較的大きな岩体があるとしています.これらのうちには採掘された跡もあり,新様似の岩体は水銀鉱を胚胎している部分もあるとしています.

 このほか,未入手の報文については田中(1973)から略述します.著者名については,このシリーズは表向きは「福富19xx)」となっていますが,実際に本文を読むと,調査には複数の別な所員(?)が示されており,要確認事項です.これは代表者のみを示す「お役所の悪弊」だろうともいわれています.
 福富1933)「北海道有用鉱産物調査(第4報)」には,檜山郡石崎川左股の石灰岩,天の川支流,厚志内沢上流の二ヶ所の石灰岩,また海岸沿いにはメノコ岬、日方泊岬、願掛沢と三条の石灰岩は地質図に描けるような岩体が示されているといいます.
 福富1936)「北海道有用鉱産物調査(第8報)」には,「常呂郡浦島内沢の支流前山の沢の白雲岩質石灰石」,また「佐呂間川河岸には径1.52mの結晶質石灰石の団塊あり」と記載されているといいます.
 また,引用文献が示されていませんが「石灰石鉱床ではないが山越郡二股温泉,江差町東南目名川支流湯の沢口、亀田半島の恵山,磯谷温泉などに混泉沈殿による巨大な石灰華があることが明らかにされ,ライマン記載による上湯の沢のものは温泉沈殿によるものであろうと指摘されている。」とされています.

 「北海道有用鉱産物調査(報告)」は10号で終了しましたが,この間,北海道地質調査会が組織され,10万分の1地質図幅として「然別沼」(大石・渡辺 1933),「帯広」(根本・大石・渡辺 1933),「大樹」(根本・佐々 1933)の3図幅が出版されました.1/10万地質図幅調査は,北海道工業試験場地質調査報告として引継がれ「浦河」(竹内・三本杉 1938),「興部」(竹内 1938),「長万部」(矢島・陸川 1939),「寿都」(矢島・古館・陸川 1939),「登川」(根本・三本杉・水口 1942),「鴻ノ舞」(竹内 1942),「余別岳」(根本 1942)が出版され,1942(昭和17年)に打ち切られました.これは前年12月の太平洋戦争開戦のためです.これらの1/10万地質図は途中で打ち切られたとはいえ,戦後に開始された1/5万地質図の基礎になっています.

 地質図をメインとする調査に変わったということは,図幅の範囲内で地質図に描けるような地質体は示さなければならないということで,これまでの鉱物調査・資源調査とは大きく変わったところです.また,これら1/10万図幅は1933(昭和8)年以来卒業生を出している北海道大学地質鉱物学科の学生らの就業論文卒業論文が基礎になっており,現在知られている石灰岩体は,ほぼその中に記述されています.特に資源開発を目的としない学生たちの調査では,石灰岩に含まれる化石の調査も行われるようになり,これまで古生層とされていた地層から中生代の化石も発見されるようになり,時代論の再吟味が必要となってきた時代でもあります.見る目がちがえば,見えるものも違うという典型的な例でしょう.
 学生たちが加わった道内の地質調査は,北海道の地質概念を一変させました.これまで古生層として三波川系に対比された神居古潭系あるいは漠然とそれに対比されていた日高~胆振の石灰岩から中生代,しかもジュラ紀後世を示す化石が矢部・杉山(1939),Yabe & Sugiyama (1939),矢部・杉山(1941)によって報告されました.このあたりの経緯は橋本(1960)に詳しい.
 このようにして,北海道には“オルビトリナ石灰岩"以外にも"烏巣(烏ノ巣)型"化石を含む石灰岩が存在することが明らかにされたのでした.しかし,道南地域の石灰岩を含む松前古生層,北見地域の石灰岩を含む北見古生層などの日高古生層と呼ばれていたものの再吟味は,まだ行なわれていませんでした.

(つづく)

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