2022年10月18日火曜日

北京原人をめぐって


遠藤隆次(1965)原人発掘一古生物学者の満州25年.



 10数年前,北京原人について調べていたときに見つけた本.ある地質屋の自叙伝.

 遠藤隆次は東北地方に生まれ,東北帝国大学理学部地質学古生物学教室を卒業.南満洲鉄道株式会社に入社.満鉄社立撫順中学校,満洲教育専門学校,教育研究所教授を歴任,現地で地質・古生物調査を進め,満洲国国立中央博物館の設立に尽力した.


 地質屋の自叙伝というのは非常に珍しい.

 正史には出てこない満洲の事実というのも浮かび上がってくる.遠藤がかかわったのはジャライノール原人であるが,関連して北京原人についても一部出てくる.時代に応じての日本人,フランス人,中国人の力関係もさらけ出されている.遠藤が日本に帰ったときには,ほとんどすべての研究資料が中国に没収されたが,目立ったのは裴文中の手の平返し.まあ,当事の中国では仕方ないのかとも思った.いまもそうかな?


 調査中に見つけた不思議なことを一つ.

 1939(昭和14)年に赤堀英三が「北満ジャライノール遺跡出土の新資料」という論文を書いている.赤堀はこの論文中でジャライノールの古人骨(頭骨)について報告している.

 この古人骨は昭和9年初秋,赤堀が「ジャライノール遺跡見學に赴ける際に炭鑛技師長顧振權氏より示されたもの」であり,「その翌年炭鑛は北満鐵路總局の管理するところとなり頭蓋は満洲國立奉天博物館に移管されるに至つた」としている.

 大出尚子(2014)「「満洲国」博物館事業の研究」によれば,満洲國立奉天博物館という名称ではなく「東三省博物館(1926-1932)」もしくは(改称して)「奉天故宮博物館(1932-1936)」というものらしく,昭和10年ならば,「奉天故宮博物館」が正しいのであろう.

 赤堀は,この論文で古人骨について,写真付きで記載している.遠藤は,ある人物からジャライノール産の古人骨(頭骨)を手に入れたが,それは昭和16年も末のことと記している.すでに論文になっているもう一つのジャライノール人の頭骨について,何一つ触れていないことである.組織自体は違うとはいえ同じ国立博物館に収蔵されている資料について知らなかったのであろうか.不思議である.これは論文ではなく,単なる自叙伝であるから「必要ない」と思ったのか.出版されて二年も経っても,満洲にいた遠藤には届いていなかったのかもしれないが…



 さて,湊先生もこのくらいの自叙伝を残してくれていたらなあ…とつくづく思った一冊であった.


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 さて当時から集めていた北京原人についての文献(書籍)を下記に.


1930年代

アンダーソン,J. G. 1933)黄土地帯(松崎壽和,1987訳).

ワイデンライヒ, F.1939, 49)人の進化北京猿人の役割(赤堀英三,1956訳).


1970年代

松崎寿和(1973)北京原人世紀の発見と失踪の謎

ジェイナス(1975)消えた北京原人(宇田道夫,1976訳).

賈蘭坡(1977)北京原人(日本語版).

タシジアン, C.1977)北京原人失踪(松本清張,1979訳).


1980年代

松崎寿和(1980)ドキュメント どこへ消えたか北京原人.

賈蘭坡・黄慰文(1984)北京原人匆匆来去発掘者が語る発見と失踪


1990年代

二宮淳一郎(1991)北京原人その発見と失踪

中薗英助(1995, 2005)鳥居龍蔵伝=アジアを走破した人類学者=.


2000年代

中薗英助(2002)北京原人追跡.

春成秀爾(2005)北京原人骨の行方.


個々については,後日略述します(つづく)


2022年9月26日月曜日

おわび



 「パドレたちの北紀行」を中断してから,かなり日にちが経っています.この間,何度も下書きをつくっては断念,下書きをつくっては断念で屍累々状態です.


 これは鬼門なのかもしれません.

 一つには,多くの著者が宗教家(キリスト教徒)であること.科学者でも歴史家でもないことで,証拠がほとんど提示されずに,話がどんどん進んでゆくことがあります.それを検証していると…どんどん時間だけが経ってゆきます.


 後半に入り北大教授が参戦しますが,これがまた,ただでさえ読み難い論文なのに,論文ごとに意見が変わり,途中で腹が立ってくるわけです.

 まあ,これはわたしの読解力・記憶力の低下が,予想を超えて進行しており,これがほんとの原因かもしれないと疑ってしまうということもあります.

 そんなわけで,この話は打ち切り.申し訳ない.


 次回からはまた別の話題を…と考えておりますが,能力低下が原因だったら…また散発的になるでしょうね.


2022年3月2日水曜日

パドレたちの北紀行Ⅸ(中休み2)


 さて,二人のパドレの北紀行ですが,もちろん,彼等自身が書いた記録が直接入手できればいいのですが,それは不可能です.一つには,彼等の報告書(手紙)はある宗教団体が管理しているもので「存在するものかしないものか」がわからず,あることがわかったとしても「全部出てきているものかどうかが分からない」わけです.まれにその宗教関係者もしくはそれに無関係な人が報告することがありますが,この資料の実在確認も一筋縄ではない.ヨーロッパ世界の性質として,似たような言語で違うような似たような言語に翻訳してある場合,原意が変わっていないかどうか確認のしようがない.どれが「元」なのかの確認もなかなか困難だということになります.


 残念なことに,私はポルトガル語もイタリア語もフランス語も,不自由なことこのうえない.だから日本語に訳された文書を見るしかないのですが,たとえば,一旦フランス語に訳された言語があって,そのフランス語を日本語に訳されたものを見るわけですから,このうえなく心もとないわけです.


 一方で,パドレたちの報告書は,我々になじみのない言語で記されており,しかも大部分はめったに門外不出の宗教団体の書庫にあるわけですから,一般日本人が(じつは)見たりすることが困難なわけです.ということは,吉田小五郎訳のレオン=パジェス版「日本切支丹宗門史」か,書庫からまれにでる二人のパドレの報告書のみが,「情報元」として成立するわけです.そういう目で見れば,引用文献もなく「独自の」情報を示す文献(書籍,講演)は無視しても構わないのではないかと思われます.

 なお,「パドレたちの北紀行Ⅰ」で示したように原著Pagès (1869)にしても,歴史資料として取り扱って良いのか,という疑問があります.これも,傍証が見つからない限りは「?」マーク扱いのほうが安全でしょう.


 以下,資料のリストアップ&チェック・再チェック


ジロラモ・デ・アンジェリス(Girolamo de Angelis),

ディオゴ・デ・カルヴァーリョ(カルバリオ)(Diogo de Carvalhoのレポート

 直接の確認は不可能ですが,存在することはほぼ間違いないもの.


Pagès (1869)

Pagès, Léon, 1869; Histoire de la religion chrétienne au Japon.

 【仏語版】残念ながら入手しても読めない.吉田(1938訳)参照.「パドレたちの北紀行Ⅰ」参照.


ヴィリヨン・加古(1887;初版~第六版)

 表題は「日本聖人鮮血遺書」.「仏国ビリヨン閲/日本加古義一編」になっている.

 ヴィリヨンはヸリヨンなどとも表記される.最近はビリオンと表記されているので,以下ビリオンと表記する.

 ビリオンの講話を加古が聞き取り,編集したとされる.ビリオンはPagès(1869)を再編したというが,怪しげな部分も多い.

 いくつかは国会図書館のデジタル文庫にある.


ヴィリヨン・加古・松崎(1926)

 同上を松崎が再編したもの.表題は「校注 切支丹鮮血遺書」となっている.

 松崎が再編集し,校注を加え,当時の“現代語”訳したもの.Pagès版を参照し,多くの間違いを訂正したという.

 国会図書館のデジタル文庫にある.


姉崎正治・山本信次郎(1926監修)

 上記と同じ1926年発行.「日本聖人鮮血遺書 ヴィリヨン」(日本カトリック刊行会刊)と中表紙にある.


入江浩(1996編訳)

 「現代語訳・切支丹鮮血遺書」と題する.ヴィリヨン口述を現代語訳したと称しているが,内容は大幅に省略され,長崎で殉死した二十六聖人に限っている.

 デ・アンジェリスやデ・カルバリオの話は出てこない.これで,松崎編と同じ題名を使うのはいかがなものかと思わせる.


姉崎(1930a, b

 【Pagès版】を情報源とするといわれている.入手済み.こちらの目的には合わない.


レオン・パジェス(1869)日本切支丹宗門史(上~下巻)(吉田小五郎,1938訳)

 入手済み.年号順の記述.人物中心ではなく,事件中心である.逮捕された切支丹と役人あるいは現場に居合わせた一般人の感想,会話などまで含まれており,疑問な点も多い.

 下巻末尾に人物名索引があるが間違いが多い.理由は,登場人物はほぼ“聖名”であるため,同姓あるいは同名が多いためと思われる.


フーベル, G.1939

 【Pagès版】が主de Angelis, de Carvalhoの直接の引用はない).

 いくつか別の文献からの引用があるが,引用形態が特殊なので,追跡困難および不可能(「備考並びに参考書目」とある).おおくは宗教関係組織の蔵書らしい.なおフーベルは,デ・アンジェリスは1616, 1618, 1621, 1622年の4回,デ・カルバリオは1617, 1620, 1623年の3回訪蝦していると明言している.



 以下,1941年から兒玉作左衛門が登場する.

 兒玉は,有名な北海道帝大教授.アイヌを差別的に扱った研究でも有名である.


 彼が登場してから,研究は大きく進展したが,一方で多くの混乱ももたらした.彼の研究を引用して(しかも引用は示さない)論じた書籍は多く出版されたが,初期の混乱がある時代の論文を引用しているものが多い.その出版が,兒玉が混乱を整理した論文を出したあとに出版されているのにもかかわらず.これが混乱を増幅させている.

 しかし,兒玉の研究は外人宣教師の「アイヌおよびアイヌモシリについての記述」の研究であるから,わたしの目的とは似て非なるものである.以下,兒玉の研究については別に設けよう.


(つづく)


2022年3月1日火曜日

パドレたちの北紀行Ⅷ(中休み1)


 本来ならば,永田(1960)のパートをやる予定でしたが,ここまで来て当初の目的は果たせそうもないことがわかり,またこれまで入手できなかった文献についても,いくつか入手できたので,ここで「中休み」を入れて,全体を振り返るとともに,今後の道筋を考えて見ようと思います.

 ここで,当初の目的とは,ジェローニモ・デ・アンジェリス(Jeronymo de Angelis S. J.)とディオゴ・デ・カルヴァーリョ(Diogo de Carvalho)の二人の北紀行をたどり,可能であれば,松前金山(大千軒金山)の概要に触れて見ることでした.加えて,誰かが喋ると必ず出てくる伝道者たちが鉱山技術を教えた」というのは事実かも.

 しかし,入手できない(しかも重要と思われる)文献もいくつかあり,あたりが見えないままに手探りで探索している状態でした.今回入手した(じつは入手はもっと前ですが,諸般の事情で報告できなかった)文献のおかげで,いい切ることができるものが増えたようです.

 これまで所在が分からなかった文献の一つ(一つ以上?)が“鮮血遺書”と呼ばれるものです.


 一般に“鮮血遺書”と呼ばれるものは非常に複雑で,版によって書名や編著者が異なっており,非常に混乱したものです.以下に整理すると…


初版は「加古義一(1887編)日本聖人鮮血遺書」.その中表紙には「弗国ビリヨン閲/日本加古義一編」となっています.これでは意味がわかりませんが,のちに松崎実が編集した版では,“ビリヨン”宣教師が祭礼ごとに物語った聖人の話を加古義一が筆記し,表題の「日本聖人鮮血遺書」は「やまとひじりちしおのかきおき」と読ませます.これは第六版まで同じです(3~5版は不明のため未見).


 松崎(1926編)の「校注切支丹鮮血遺書」の「二 鮮血遺書の典據と編纂」によれば,「本書の典據となったものはレオン・パジェスの日本基督教史卽ち Léon Pagès: -- "Histoire de la religion chrétienne au Japon"である.」としてあります.

 ビリオン(Pére A. Villion:初版では「ビリヨン」と表記されていましたが,松崎編では「ヸリヨン」と表記され,現代ではビリオンとされていますので,以後ビリオンとします)は1843(天保十四)年生まれ.長州萩や奈良において伝道していた公教会の宣教師でした.ビリオンが京都にいた頃,Pagès (1869)をテキストとして,殉教の事実を物語りました.それを信徒の一人であった加古義一が筆記し,この筆記を集めて,ヴィリヨン師校閲のもとに加古が編纂して出版したのが“鮮血遺書”でした.説教が始まったのは1884(明治17)年からで,“鮮血遺書”の初版が1887(明治20)年でした.書名は「日本聖人鮮血遺書」と書き「やまとひじりちしほのかきおき」と読むそうです.今風に示すならばヴィリヨン口述,加古義一(1887編著)「日本聖人鮮血遺書」となるのでしょうか.

 重要なことは,これは研究書ではもちろんなく宣教師が信者に物語った“お話し”であったので,話者が日本語の不自由な外国人であることもあり,用語や修辞の稚拙,地名人名などの固有名詞の不備,年月日などの間違いは非常に多かったそうです.しかし,初版において目に付くそれは再版三版と版を重ねるにつれ訂正が進み,六版では文章構造の異なるところもあるそうです.

 しかし,ヴィリヨンはフランス人であるからして,引用文献は Pagès (1869)であることは疑いなく,間違いが多々あっても正統であると考えて良いでしょう.パジェスの原著は歴史書構成であって人物ごとの構成ではないため,人物を追うのは不適ですが,ヴィリヨン口述は人物ごとに構成されており,分かりやすいといえます.

 なお,ヸリヨン・加古・松崎(1926)の「切支丹鮮血遺書」は,松崎の再編集(当時の現代語訳.地名人名年号の訂正.パジェスの原著と対照しての訂正)によりますが,史伝としての形態をとり,ヴィリヨン・加古(1887)とは叙述順も異なるようです.


 「日本聖人鮮血遺書」(ヴィリヨン・加古,1887初版~第六版),および「校注切支丹鮮血遺書」(松崎編,1926改造社版)「では,「天使のエロニモ聖師」,「リダツシヨカルバリヨ」,「ヂダシヨカルヷリヨ聖師」,「ジダシオ・カルバリヨ師」という,ほかにはない非常に特殊な表記をしているので,これで追跡ができるかも知れません.


 なお,現代語訳が燦葉出版社から1997年に出版されているが,すでに絶版です.

 古書店を通じて入手したところ,これはまったくの別物でした.表紙には,松崎本とおなじ絵柄を使っているにもかかわらず,また,帯には「復刊」とか「ビリオン神父、松崎実氏が編んで出版された本書を、このたび読み易い現代語訳として刊行されることになったのは誠に喜ばしい」という某枢機卿の推薦文が示されているにもかかわらず.

 引用文献として正確に示す(ほぼ不可能ですが)とすれば,書名は入江浩(1996編訳)「現代語訳・切支丹鮮血遺書」なのでしょうか.しかし,奥付では「著者 松崎 實/現代語訳 入江 浩」となっていますが,これまで書かれていた「天使のエロニモ」および「ヂダシヨカルヷリヨ」の逸話は本文ではなくなっています.わずかに後半の「日本殉教者一覧」において「第百三十二次殉教者」に「エロニモ・アンゼリス」,「第百四十二次殉教者」に「ジダシオ・カルバリヨ」とリストアップされているだけなのです.これで著者が“松崎實”といえるのでしょうかね.


 もっと不思議なことには,松崎編と同じ年に「著作者 ヴィリヨン/姉崎正治 山本信次郎監修」という本が日本カトリック刊行会から出版されていることです.書名は「日本聖人鮮血遺書」.これはヴィリヨンの正統なのでしょうかね.こちらの本には「天使のエロニモ」および「ヂダッシヨ・カルバリヨ」の逸話が残されています.


 つまるところ,「日本聖人鮮血遺書」の第何版を読んだのか,あるいは「切支丹鮮血遺書」を読んだのかで,引用内容は微妙に(あるいは大きく)異なるであろうし,これがしばしば出てくるノイズの元なのかも知れませぬ.この場合,引用を明示していない著述は検証も不可能ですね.またどれを引用したものであっても,これは宗教関係者の講話であって,検証できない部分は参考程度であって,まともには取り上げるべきではないということになるのでしょう.実際あり得ない会話の再現など,フィクションと考えられる部分が多過ぎます.

(つづく)