2021年8月13日金曜日

パドレたちの北紀行Ⅶ(松野,1960より)


 10年近く使ってきたMacがどうしても不調となり,これを世代交代し周辺環境も整備しなおして軌道に乗ったのも束の間,ケーブルTVが在来線から光に変わるというので工事.ところがその後,リースのWi-Fiを毎日リセットしなければネットに繋がらないという状態.社の技術者がほぼ毎日原因を探りにくるという,なんとも困った状態になり,先日ようやくクリアーしました.

 その間も,冬の後片付けとか,野菜の植え付けとか,ドタバタしてましたけどね.ようやっと静かにので,探索を再開することにしました.

 と思ったのもつかの間,連日30℃を越える日照り続き,夜は熱帯夜.記録だそうです.クーラーが普通でない地域に住んでると,耐えられません.


 さて,気候も安定化.続きの「パドレたちの北紀行」つづけます.



松野武雄(1960)津軽の切支丹.


 松野武雄は「切支丹風土記」の執筆者紹介によると,「松野武雄 一八六九年弘前市生。弘前中学校卒。現住所・弘前市茂森新町。」とある.いわゆる市井の郷土史家であろう.

 松野は津軽内の古文書については詳細であるようだが,全体像についてはきわめて曖昧なところが多い.また,本項に関係あるところは,ごく少ない.その中から,いくつか拾ってみる.


慶長十九年(一六一四)四月初旬、徳川家康のために、計七十一人の士族信者たちが、監視役人にともなわれて船で来国した。これは当津軽における切支丹流謫の始まりらしく、以来数次にわたって送られてきた。


 ここは説明不足で,江戸幕府(徳川家康)が出した“禁教令”というのは,1612.4.21(慶長十七年三月二十一日)と1614.1.28(慶長十八年十二月十九日)の二つである.

 先のものは,江戸・京都・駿府をはじめとする幕府直轄地で教会の破壊と布教の禁止を命じたものだった.それまでは,江戸幕府は特に反キリスト教政策など取ってはいなかった.ところが1602年にドミニコ会やアウグスティノ会が日本に上陸すると,古参のイエズス会が慎重な布教を求める中,新参の修道会は活発な活動を開始し,幕府の反発を買っていった.キリスト教は幕府の支配体制に組み込まれることを拒否したからである.

 また,日本との貿易権を狙うイギリスやオランダ(プロテスタント国家)の暗躍や,国内神仏勢力の抵抗もあったといわれる.そんな中で貿易に関する不正が発覚した事件の関係者がキリシタンであったことから,一挙に幕府(徳川家康)を硬化させ,犯人の処刑と同日に幕府直轄地に禁教令を発布した.1612.4.21(慶長十七年三月二十一日)のことである.キリシタン大名は改易され,一部は島流しなどにあった.しかし,潜伏したものも多くいたという.

 1614.1.28(慶長十八年十二月十九日),家康は禁教令を全国に拡大し,本格的な弾圧を開始した.家康亡き後の幕府は,事態はキリスト教への寛容さに端を発すると考え,続くキリシタンらの不祥事に不信感を増大させ,これが「元和の大殉教」を招くことになる.

 津軽へ送られたキリシタンは,この初期の追放者とみなされているが,それよりも,彼らは「関ヶ原の戦い」後,改易された宇喜多家の家臣団の一部らしく(そのことは下記に続く),上記松野の記述ではキリシタンであるが故に追放され,また続いていくどもキリシタンが送られてきたような記述である.これらについての正式な記述はまだ見出されない.



この人たちは備前安芸領主浮田秀家*家中の人々が多く、しかも女子供を混えた貴族級の一行である。領主二代信枚は、その行状にいたく同情して、そのまま信仰を許し、城(弘前城)外の広い荒地を与えて開墾せしめたが、この地はおそらく鯵ケ沢港(弘前西方七里鉄道に添う)と弘前の城下との中間に位して、道路に添うた鬼沢村**(弘前市西方二里)であろう。鬼沢村は昔備前村と称せられたのを見ても、この一行はここに住んだものと見られている。当時弘前城内三の丸に秀家の浪人どもが、召抱えられて、備前町という一町をなしていた。なおさらに津軽家の江戸邸に勤めていたものもある。またここの城下には備前屋と称する商人たちも居る。後にはこの同国人たちは、士庶互に相通じ相婚していた。


 * 浮田秀家:宇喜多秀家であろう.「浮田」とは八丈島に流された宇喜多秀家が名乗った姓らしく,津軽に流された家臣が浮田家の家中を名乗るのは,しっくりこない.

 **鬼沢村:現青森県弘前市鬼沢.


 松野説では,鬼沢村が流刑地(入植地)であると推測しているが,2)鯵ヶ沢から弘前の間で特定できない,3)高岡(すなわち弘前市),4)十三合(十三湖),などあって確定していないようだ.

 また,「当時弘前城内三の丸に秀家の浪人どもが…」以下の話は証拠が示されていない.引用ぐらいは示すべきであろう.


慶長十九年(一六一四)より翌二十年(一六一五)にかけて、津軽では前代未聞の大飢饉が襲来して、目もあてられない哀れなさまであった。ときに江戸市中に隠れていたエロニモ神父(国籍不明)*は、この凶荒の信者たちを慰さめるために、多くの救助品を携えて入国したが、この間における津軽信者の忍耐謙遜の状況を報告している。土地の記録にも信枚は、この慶長十九年大阪表に出陣、翌二十年十二月末に下着しているが、封内街道筋には死人累々としておびただしく、これを飛越え飛び越え御通リ、とある。また藩は財政窮迫中のこととて、その救済の如きもいと心細いものであった。

このときジュジェット会の神父デ・アンジェリスが、江戸からこれも津軽と松前にきて、親しくこの有様を見て、見渡す限り家もなく、畑も見当らず、盗賊の横行さえあったと述べているが、いかにも当町の有様がよくうかがわれる。


 * エロニモ神父(国籍不明)は初出か?

 パジェス(1869)以外に,この当時の津軽のキリシタンについて記述した資料はないはずであるが,それならば,「エロニモ」ではなく「ヒェロニモ」という表記になっているはずである.また,同時期に「ジュジェット会の神父デ・アンジェリス」とあるが,「ジュジェット会」という表記は非常に珍しく,通常は「イエズス会」と表記される.

 また,松野の記述からは,「ジロラモ・デ・アンゼリス」以前に,津軽(and松前)にきた外国人宣教師がいたことになると主張していることになり,独自の見解である.なお,松野の「エロニモ」が「イエローニュモス(Ιερωνυμος:「神聖な名」という意味)」からの派生語であるとすれば(まず間違いなく「そう」であろうけど),松野が「デ・アンジェリス」と書いた神父の名そのものである.

 なお,飢饉はキリスト教徒以外の人民にも等しく舞い降りたはずで,そんな中キリスト教徒たちだけに救援が届いたのでは,反キリシタンの民衆が増えたのも一理あると思われる.


(中略)


元和五年(一六一九)、この年の夏、イエズス会*のガルバリオ神父(ポルトガル人)は、坑夫として秋田に入り**、十五日間滞在、さらに商人を装うて和田勘右衛門と名を改め、従使である日本人伝導士は板屋善兵衛と称して、矢立(青森・秋田両県堺)の嶮を越えて、高岡城下(弘前のこと)に入リ、十八日間信者の慰問と伝道につとめ、さらに松前に赴いた。


* 前段落で「ジュジェット会」と書いた松野は,この段落では「イエズス会」と書いている.こういうやり方は通常あり得ない.もしかしたら,各段落によって「引用文献」が異なるのかも知れないが,松野は引用を示していないので,追跡が困難である.

** 坑夫として秋田に入り:記述されているところによれば,「坑夫として」行ったわけではなく,関所を越えるための道中手形をそう偽造したというだけである.



元和七年(一六二一)ガルバリヨ神父*は、またまた松前出帆、日時不明、弘前へ一里半程の港に着港したという。油川(青森から北へ一里半位)らしい。この時の師の記述に、京・大阪・越前・越中・能登・加賀などの信者になつかしく逢ったとある。この諸国から集まった信者たちは、商人として弘前の街にそうとう入込み、しかもすでにかなりなおちついた生計を立てていた。しかし商業に適さない農耕武士たちの生活は、寒国の農業法に馴れないため、甚だ不仕合せなものであったと思われる。また士族農耕者の外に、ここに集まった信者の大半は、やはり百姓となったが、藩の方針も専らこれが奨励に努めていた。


* :「元和七年(一六二一)」「またまた松前出帆」と書いてある.つまり三度目の渡航である.この記述と整合的なのは,フーベル(1939)である.前段落で「ガルバリオ」としていて,この段落では「ガルバリヨ」としていることはもう問わないが,フーベルが言及しているのは「ガルバリオ」ではなく,「デ・アンジェリス」である.いったい誰のなにを引用しているのか,わかりかねる.

 ただし,私の勘違いということもありうるので,後日問題点を整理して,見直す必要があるかも知れない.



かくて、岩木村方面(弘前西方二、三里、駅よりバスあり)、大光寺方面(弘前東方一里半、二里、駅より電鉄あり)、目屋方面(弘前南西方三四里駅よりバスあり)などの比較的土地の肥えた方面に集まっているが、その他、海岸に出て半漁半農の暮しをする者、及び目屋の尾太金山*(弘前南方七、八里、バス途中まで)、虹貝金山**(弘前東方三里位、途中まで電車あり)などに潜入して、坑夫となったりなどして、おのおのそこを永住の地として生計にいそしんでいた。

とりわけ鉱山の如き***は、山中深く目立たない場所であるから、諸国の世をはばかる信者たちが集まり、相寄り、時ならぬ繁昌振りであった。





* 尾太金山:尾太(おっぷ)鉱山.「金山」と書いてあるが,銀・銅鉱山だったらしい.高度経済成長期には黄鉄鉱・黄銅鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱を産した.いわゆるグリーンタフの銅・鉛・亜鉛鉱床である.(地質図あり)

** 虹貝金山:歴史関係の記述には出てくるが,地質鉱床関係の論文は見当たらない.おそらく虹貝川中上流にあったものと推測できるが,不詳.

*** とりわけ鉱山の如き:鉱山が特殊社会であったというのはよくいわれることであるが,確かにそうであろう.しかし,当時の一般社会の人別の厳しさと,鉱山社会のの特殊性を明示しなければ,この論は成り立たない.と思う.それにつけても,この当時の鉱山に関する資料や研究が少ないのは如何ともし難い.


ガルバリヨ神父は,ここを去って碇ケ関*(弘前より東方五里位、鉄道沿線)の難関を越えたが、幸い切支丹である関所役人の心ある取計いによって、無事に通過している。


* 碇ケ関:青森県平川市碇ヶ関碇ヶ関.天文十二年(一五四三年)この里に、後に「厳重なること、箱根の御番所などの及ぶ事にあらず」(古川古松軒「東遊雑記」)とまでいわれた関所が置かれ「嗔の関」と呼ばれました。これが転訛して「碇ヶ関」となったようです。(現地案内板より)

 古松軒が書くほど厳しい関所をなぜ通過できるのか.そもそも追放令が出ているキリシタンがなぜ関所役人(しかも相当上位)にとどまっていられたのか.数行で終われるようなことではないはずであるが.


 以上のように,松野(1960)は記述もその内容も曖昧であり,かつ蝦夷地もしくは切支丹がいたといわれる鉱山についても記述はなく,引用する価値はないものと思われる.