2011年2月27日日曜日

造山帯

 
 「造山帯」とは orogen に与えられた日本語訳です.
 orogen は oro+gen の合成語.

 oro-は,ギリシャ語の「オロス[ὄρος]」=「山」からつくられたラテン語の語根.「山の」を意味します(例えば,Orosaurus Huxley, 1867).
 -gen は,ギリシャ語の「ギグノマイ[γίγνομαι]」=「成る.成長する;生まれた」もしくは「ゲンナオー[γεννάω]」 =「生む,生産する」からつくられた(とされる現代科学用)ラテン語の語根で,1)「…を生じるもの.発生させるもの」もしくは2)「…からの産物」の意味で使われています.
 例えば,hydro-genは「水の(を)」+「つくり出すもの」=「水素」で,carcino-gen は「カニの,癌の(を)」+「つくり出すもの」=「発ガン物質」として使用されています.

 と,いうことで,orogenは「山をつくり出すもの」の意味.日本語訳で「帯」がついているのは,たぶん,「地向斜造山運動」とセットで輸入されてきたからでしょう.原語には「帯[zone]」の意味は入っていませんからね.


 さて,では orogen という言葉は,だれがつくったのか,または,どういう経緯で使われるようになったのか,ということに関しては,諸説あります.

 歌代ほか(1978)「地学の語源をさぐる」には,「造山運動[orogénie]」について「最初フランス語で orogénie としたのが各国語に用いられた」とし,「もともと,単に土地が高くなり,山の形ができること一般をさす言葉」とあります.しかし,ヨーロッパでは「地球は神が造ったもの」というのが疑ってはならない常識であった期間が長く,「山ができる」などという概念・言葉が「もともと」あったとは考えにくいものです.
 早くても,ド・ソシュール[Saussure, H. B. de]のアルプス(モンブラン)探検(1787)あたりまでしか遡れないでしょう.しかも,実際にアルプスの地質が知られるようになって(神がいなくても「山」ができたかもしれないと考えられるようになった),もっと後のことになりますしね.


 ほかにも,Orogeny(造山運動)として,Amanz Gressly(1840)によって用いられているという説があります.残念ながら,これには引用文献が示されていないので,追跡不可能です.
 日本では,グレスリーが造山運動について言及したことなんてことが,かかれている地学史の本なんて存在していないと思います.

 もう一人,山の形成に関する用語として,Jules Thurmann (1854)が「orogenic(造山運動の)」という言葉を使っているという説もありますが,こちらも引用文献が不明.日本では,ほとんど知られていない人物です.


 ほかには,コーベル(L. Kober, 1921)が「クラトン[craton](安定地塊:元はKratogenとして)」を定義したときに,これに対照する言葉として「オロゲン[orogen]」(造山帯)を定義したという説があります(Wikipedia;今井・片田, 1978).

 どれも,ほとんど追跡不可能です(地質学史が熟成していない証拠の一つ).
 なお,出自はともかく,orogenは地向斜造山運動と関係して使用されてきた経緯があり,その使用はタブー化しています.

 プレートテクトニクスには「山ができる」という概念はなく,プレート相互の関係によって「中央海嶺」・「海溝」・「トランスフォーム断層」と判断されてるので,「造山帯」ではなく「変動帯」が用いられます.
 まれに,プレート論で解説しているのにもかかわらず,(不用意に)「造山運動」・「造山帯」などの言葉が用いられることがありますが,これは明らかな誤用です.
 

2011年2月24日木曜日

ヴァリスカン造山運動

 
 【ヴァリスカン造山運動】
 英語では Variscan orogeny
 独語では Variskische Orogenese
 日本の地球科学界ではすでに死語.と,いうよりは,タブーと化しているらしく,国語辞典や百科事典には出ているのに,地質学用語としては禁句.不思議.

 地球科学者しか構成員がいないのに「地質学会」を名のっている学会もあることだし.ま,いいか.


 【ヴァリスカン造山運動】(バリスカン造山運動)
 古生代後期,特に石炭紀を中心として起こった造山運動.
 E. Suess (1888)の Variscisches Gebirge に始まり,M. Bertrand (1887)のchaîne hercynienne の概念を受け継ぎ,H. Stille (1924)が造山輪廻説で総括したものの一つ.
 ドイツ・日本・中国を除く国ではBertrand のヘルシニア(Hercynian)を用いる.
 標準地ヨーロッパでは,アルデンヌーライン頁岩山地,ハルツなど現在は地塁をなす山地が古典的研究地で,カレドニア山地とアルプス山地との間を占める.
 中心地では先カンブリア界または下部古生界の上に海成デボン~下部石炭系が地向斜堆積物をなし,石炭紀中ごろに褶曲・広域変成・深成作用など最高の時相の認められる所が多く,上部石炭~ペルム系は含炭層または赤色岩層(新赤色砂岩)となる.北米のアパラチア(南)変動,日本の本州造山など,これに相当するものが世界各地に広く存在するとされた.[山下昇:地学事典]より


 Variscan は variscia+an(varisciaの形容詞形).
 Variscia とは,ドイツ東部のザクセン州の南部にある地域名「フォクトランド[Vogtland]」のラテン語名とされています.
 もともとの意味は,「ワリスキ[Varisci]族のすむ土地」の意味.

 しかし,この「ワリスキ」はあくまで,ラテン語風の呼び方であって,正確に,なんと呼ばれていたか,あるいは自分たちをなんと呼んでいたのかはわかっていません.この民族名はタキトゥス[Tacitus]の「ゲルマニア(第42章)」の中に突然に登場するものですが「ナリスティ[Naristi]」,「ナリスキ[Narisci]」 ,「ワリスティ[Varisti]」などの変形もあります.
 この程度のことしか知られていず,いわば幻の民族といっていいでしょう.

       


 失われた民族の名称を,失われた造山運動の名前とする.奇妙な伝統です.

 ついでにいっておけば,湊正雄北大名誉教授が日本のバリスカン造山運動のかけらを見つけたと思い,それにつけた名前が「安倍族造山運動」.
 安倍族とは,武士政権(初めは鎌倉政権)が定着する前に,「日高見」地方=「北上川流域」に勢力を誇っていた一族のこと.安倍族のことは,こちらもわかっているようでよくわからない.
 詳しくは,高橋崇「蝦夷(えみし)の末裔」を参照のこと.

    

2011年2月23日水曜日

学びなおすと地学はおもしろい

       

 
 なにかの書評で,「せんべいの力学」の絵のホンワカに惹かれて,購入してしまいました.
 まだ,こういう本が成立することが,不思議な気がしますけどね.

 わたしらは,「学びなおさなくても」=「現状のままでも」地学はおもしろいと,思ってますから(^^;.

 「はじめに」と「第1章」は,まったくその通りだと思います.高校ぐらいまでは,理科は「地学」だけで,必要十分です.受験テクニックなど忘れて,地球のおもしろさを,授業で充分に味わってほしいものだと思いますね.

 2章以降は,易しさと難しさが,カオス状態.
 ま,地学≒地質学は教科書で勉強するんじゃあなくて,そこにある地球の一部を使って勉強するのが本当ですから,カオスは仕方がないですね.

 気になったのが断層の話.
 「フォルト」は著者のいうように「失敗」の意味です.日本語で「断層」と訳すのは「意訳」です.
 もともとは,英国の炭田地帯で炭層に沿って狸堀りしていたら,炭層が見あたらなくなったので「フォルト=失敗」でした.
 なくなったからといって,あきらめるわけにはいかないので,「フォルト面」に(そのまま)沿って掘り続けると,また,炭層に再会します.これが「ノーマルな失敗=ノーマル・フォルト」.
 なかなか,炭層に再会しないので,しょうがないから(フォルト面を)逆に掘ると出てくるのが「リバースな失敗=リバース・フォルト」.
 もともと,「地層が切れている=断層」という意味はありません.
 ノーマルとリバースの語源は「学びなおすと…」の著者が推定しているようなことではありません.
 層位学ができてから,ようやっと,「地層が切れている」という概念が後付けされたのです.

 だから,妙なことも起きます.
 今は「横滑り断層」なんて,妙な言葉もありますが,本来はあり得ない.なぜなら,横に滑っただけでは,炭層はちぎれていないので,そのまま掘り続けることができます.だから「失敗=フォルト」ではない.

 このブログのどこかでも,いちど書いたような気がします.
 でも,20人/日程度の読者のブログでは,教授の著作には太刀打ちできませんね.


 説明すると,必ず,その説明とは矛盾する事例がでてくるのが地学.
 この本は,説明しすぎのような気もしますが,著者はかなりの雑学派のようで,いろんなことを知っている=まさに「地質学者(=博物学の末裔)」なんでしょうね.
 突っ込みどころもいっぱいありそうで,おもしろく読んでます.
 

2011年2月19日土曜日

笠巻袈裟男さん

 
 先ほど,訃報がとどきました.

 むかわ町穂別の住人,笠巻袈裟男さんです.
 札幌の病院に入院していましたが,容体が急変し,昨日亡くなられたそうです.

 遺体は献体なされたそうで,葬儀はおこなわれないもよう.
 ご冥福をお祈りします.


 わたしが穂別町立博物館(現・むかわ町立穂別博物館)に赴任したその日のことでした.
 「おれは笠巻というもんだ」と,一見ヤクザ風の初老の男性が訊ねてきました.
 “知人など一人もいないその町に赴任したとたんこれかい”と,正直な話,少しびびりました.

 話をしてみると,ホベツアラキリュウ標本(長頸龍,長頸竜,首長竜,クビナガリュウ)の発掘も手伝ったという,奇特な御仁でした.
 これが最初の出会いで,以後,わたしが穂別町を退職するまで,ほぼ毎日のつきあいでした.笠巻さん自身には,なんの得にもならないのに,「おい.山行くべ」と,つまらないデスクワークの合間に,化石採集へと誘惑します.

 ホベツアラキリュウ発掘地にも,何度一緒に出かけたでしょう.
 長和の奥のヒカリゴケ群生地にも.
 穂別町の化石産地のすべてを案内してくださいました.

 しまいには,館長から「親父(笠巻さんのこと)とばかり一緒にいると,ほかの協力会の連中から文句が出るから,やめてくれ」と脅されるほどでしたが,無償で博物館活動に協力してくれる人と,博物館からなにかを引き出そうとばかりしている人たちと,どちらをとるかといえば,考える必要もありません.


 笠巻さんといえば,日本記録をもっていると思います.
 1977年のホベツアラキリュウ標本の発掘,
 1988年の小平町標本の発掘,
 1993年の穂別町浅田の沢標本の発掘と,三度の長頸龍標本の発掘に立ち会っているのです.それも,ほぼ主要メンバーとして.こんな人は,日本人では一人もいないでしょう.しかも,かれは大学や研究所の職員でもない,普通の町民なのです.
 ギネスに申請しても,いいぐらいでしょうね.

 笠巻さん.あんたはいい人生を送ったよ.
 羨ましいぐらいだ.
 でも,もう,ゆっくりと休んでください.
 いずれ,あちらの世界で,また一緒に化石の発掘をしようね.
 さようなら


 左後方の人物:1977年,ホベツアラキリュウ標本発掘「よみがえるクビナガリュウ」より
 

2011年2月15日火曜日

サヌシュベ根無地塊

 
 石狩炭田には,いわゆる“根無地塊”と呼ばれるものが点々してとあることが知られていました.

 でも,“根無地塊”という用語は「地学事典」(平凡社)にはありません.「根なし地塊>クリッペ」となっており,「クリッペ」を正式用語として採用しているようです.
 「地学事典」の記述を読むかぎりでは,「クリッペ」は「ナップ」の一部が「浸食され孤立した異地性の岩体」となっています.じゃあ,「ナップ」はなにかというと,原位置から(衝上断層や横臥褶曲などによって)押し出され,(別の)現地性基盤を覆う「シート状の大きな異地性岩体」のことだとなっています.つまるところ,「クリッペ」も「ナップ」も(衝上断層や横臥褶曲などによって)移動したあとの「異地性岩体」であることには変わりなく,のちの浸食による残存部の大きさによるちがいのようです.
 要するに,シート状の大きな岩体が「ナップ」で,シート状には見えない小さな岩体が「クリッペ」ということですね.しかし,「大きさによるちがい」が何を意味しているのかわかりませんし,ちがいで区分することにどんな意味があるのかもわかりません.
 ちなみに,「ナップ[nappe]」はフランス語で「テーブルクロス」を意味する言葉だそうです.現地性岩体の上にテーブルクロス状に乗った岩体という意味なんでしょうね.困ったことに,もともと,このことを記載したのはドイツ人のA. Escher (1841)という人で,ドイツ語の「デッケ[Decke]」を使用していた(意味はやはり「テーブルクロス」)そうですから,「デッケ」を使用するべきなんでしょうね.なぜ,フランス語?.

 一方,「クリッペ」は,G. Pusch (1829)が使用した語で,こちらもドイツ語.「クリッペ[Klippe]」は「崖」の意味だそうです.専門用語として,特別な意味を持たせるのは,かなり問題がありますね.だって,「崖」も「根無地塊」も同じ意味ではね.
 しかも,「デッケ」と「クリッペ」は大きさが違うだけで,成因は同じ.大きさが違うと,なにか,地質学的に意義が違うというのでもなければ,普通名詞と誤解されやすい「クリッペ」は使用すべきではないかもしれませんね.

 日本語の「根無地塊」には「異地性岩体」の意味があり,その大きさは関係ありませんので,適切な言葉と思えますが,なぜこれが採用されないのでしょうかね.
 「根無地塊(根無し地塊:根なし地塊)」=「デッケ[Decke]」でいいと思いますけどね.


 あ~~ぁ.前置きが長くなってしまった.

 これらのデッケ群のうち,最大級のものが,「サヌシュベ根無地塊」といわれているものです.
 穂別から夕張地域に抜ける峠の手前に「サヌシュベ川」と呼ばれる川があり,この名前を取ったものです.このあたりの国道を通ると,地辷り地形や妙な地形がよく見られるのはこのためです.

 この「根無地塊」の研究をおこなってきたのが,前の記事にある「大立目謙一郎」氏.
 前述したように,この根無地塊の研究は,石狩炭田の精密な地質図を作成することから始まっています.そして,その原因を求めるうちに,「日高山脈」の成立に結びついていったのでした.
 現在の地質学史では簡単に,アルプスで発見されているデッケと同じだから,アルプス造山運動の日本版として考えられた,と,あっさり片付けられていますけど,いいんかな~,それで.
 重要なのは,ライマン流の精密な地質図を作る地質学(アメリカ式実用地質学)は,民間の炭山開発の中で生き延びていたことで,地質図とかを重要視しない大学地質学(ドイツ式象牙の塔地質学)ではこういう研究に至らなかったということです.

 結局,大立目さんは北大に戻りますが,そのため,北大には精密な地質図にうるさい学風ができあがります.湊先生が1/5,000でルートマップを作れとか,地質が理解できなければ,もっと細かい地質図を作れとかいっていたのはこのことです.
 ただ,まあ,1/500で地質図を作ったからといって,複雑な地質が理解できるかというと疑問なんですが….結局は,露頭が良くないとね.


 ところで,「サヌシュベ根無地塊」という名前について.
 
 穂別から夕張へ出る峠付近にある川を「サヌシュベ川」と呼んでいます.
 地形図には「サヌシュベ川」とありますので,一般的にはまた地質学上の用語としても「サヌシュベ」が用いられています.しかし,アイヌ語の性質からは「サヌシュペ」と書くべきものです.[-pet]は普通に「川」の意味ですからね.
 また,知里真志保「アイヌ語入門」の記述からは,アイヌ語には「シュ[sh]」という発音はなく「シ[-s]」が正しいのだそうで,現在「サヌシュベ」と呼ばれている地名は,本来は「サヌシペ[san-us-pet]」らしいです.ただし,[san-]も[-us]も複数の用法・意味があり,この地名の意味はよくわかりません.
 

2011年2月9日水曜日

大立目謙一郎

 
 大立目謙一郎さんは,北大地鉱教室・第一期生です.

 大立目さんは理学部卒業後,北海道炭礦汽船株式会社に入社し,石狩炭田の地質を研究していました.
 大学の地質学が実用とはかけ離れて象牙の塔化している中で,ライマン流の精密地質学は石炭開発をおこなう企業でのみ,生き延びていました(松井愈,1953)が,大立目氏はここでライマン流の精密地質学にであうことになります.
 そして,石炭開発のために精密な地質図を作成していく中で,夕張炭田(石狩炭田)には,日本の他地域には見られない複雑な地質構造があることを発見します.これは,「サヌシュペ根無し地塊」として知られています.
 これは,アルプス山脈に見いだされている「根無し地塊」に匹敵するもので,これがきっかけとなって,のちの「日高造山運動論」の展開につながって行きます.

 以下は,大立目さんが研究半ばで倒れたとき,後輩にあたる湊正雄博士がその研究をまとめ,公表したときに,当時の北大教授であった鈴木醇氏が著した「序」です.




 大立目謙一郎博士は、新進有為の士として誠に得難い地質学者であつたが、不幸にして太平洋戦争に應召出陣して、中國の戦地に於て病歿せられた事は誠に痛恨に堪えない。同博士が他界せらわてから、早や六年有半の星霜を経たが、同博士の残された数々の優秀な研究業績を顧る時、学界に於ける大なる損失を思い、今更ながら誠に感慨の深いものがある。
 大立目博士は明治40年7月13日大立目謙次氏長男として仙臺に生れ、仙臺二中、北大豫科を経て、昭和5年3月當時創設された北大理学部地質学鉱物学科に第1回学生として入学、昭和8年卒業まで極めて学究均な学生として終始し、この間長尾教授並に上床教授指導のもとに修業並に卒業論文として次の二編を完成された。

(1)1932 (A)鵡川上流地方の第三紀層並に白亜堊層 (B)胆振邊富内地方の白堊紀層(修業論文)
(2)1933 邊富内、穂別川、登川地方の白堊紀層及び第三紀層の層位並びに地質構造について、附(A)北晦道産古第三紀介化石、(B)北海道産白堊紀介化石、(卒業論文)

 これ等の論文中には層位学上及び古生物学上新に発見された幾多の新事実が発表されて居り、学生の業績としては稀に見る優秀なものであり、この時已に専門家としての頭角を現わして居り、これ等の研究はひいては、同博士他日の大成への基礎をなしたものである。
 昭和8年3月北大卒業後は直ちに北海道炭鉱汽舶株式会社に入社、昭和14年7月には再び北大理学部に戻り助手後に講師に就任、その間室蘭高等工業学校講師を兼ねて居た。昭和17年6月招れて秋田鉱山専門学校教授に就任、又東北大学理学部臨時講師の嘱託を受けて居た。これ等の間熱心なる学生指導の傍、常に北海道に於ける第三紀層並に白亜紀層の研究に没頭され、特に石狩炭田の研究に対しては最も力を蓋し、これ等に関し重要なる多数の研究業績を残されたのである。今同博士の研究の後を偲ぶため前述2編の後に発表された層位学並に古生物学上に関する主なる論文を挙げれば次の加くである。

(3)1933. The Upper Cretaceous Oil-bearing Sedimentary Rocks of Hokkaido, Japan(北大理学部紀要 Ser. IV. Vol. II. No. 2)(上床教授と共著)
(4)1938. Molluscan FossiIs of the Hakobuti Sandstone of Hokkaido(北大理学部紀要 Ser.lV. No. 2)(長尾教授と共著)
(5)1938. A New Calianassa from the Palaeogne Isikari Series of Hokkaido(地質学雑誌 第45巻)
(6)1940. 北海道中部に於ける下部菊石層と輝緑凝灰岩層の層位関係に就いて(北海道地質調査会報告 第11号)
(7)1941. 石狩炭田南部の推被衝上構造の新事実に就いて(矢部教授還暦記念論文集)
(8)1941. 日高国南端部の所謂「歌露礫岩層」に就いて(地質学雑誌 第48巻)
(9)1942. 石狩油田産 Calyptogena 層化石に就いて(地質学雑誌 第49巻)
(10)1942. A Melanian Fossil from the Isikari Series (Palaeogene) in the Isikari Coal-field, Hokkaido.(地質学雑誌 第49巻)
(11)1943. A Brief Note on Fossil Corbiculids from the Kusiro Coal-Field in Hokkaido.(地質学弊雑誌 第50巻)
(12)1943. The Fossil Corbiculids from Hokkaido and Karahuto.(地質学雑誌 第50巻)
(13)1945. 夕張炭田邊富内地方の地質構造特に其の推し被せ構造について(石狩炭田の地質構造特に其の推し被せ構造に就いての研究 其の一)(地質学雑誌 第50巻)
(14)1943. 岩手県北端部Vicarya化石に就いて(地質学雑誌 第50巻)
(15)1943. The Fossil Corbiculids from the Palaeogene Isikari Series in the Isikari Coal-Field, Hokkaido.(北大理学部紀要 Ser. IV, Vol. VII, No. 1)(長尾教授と共著)
(15)1943. Three Species of Fossil Corbiculids from the Tertiary formation of Karahuto.(北大理学部紀要 Ser. IV, Vol. VII, No. I)
(17)1943. On the Two Fossils Corbiculids from the Palaeogcne Coal-bearing Tertiary of Obiraisibe, Tesio Province, Hokkaido (北大理学部紀要 Ser. lV, Vol. VII, No. I)
(18)1945. 石狩炭田の地質構造、特に推し被せ構造についての研究(遺稿)(其二)

 上述の論文中特に優秀なる石狩炭田の地質特に推し被せ構造についての研究に對し地質学会学術奨励金が與へられその後問題(其二)に對しては理學博士の學位が授與せられた。
 同博士は更に石狩炭田研究継続中昭和19年6月應召直に出陣されたが不幸中国の戦地に於て病を得て同年9月14日湖南省衡陽縣楊家拗野戦豫備病院に於て遂に逝去せられた事は返す返すも遺憾の至りである。
 同博士の業績は上述の如き発表せられたものに留まらず、更に幾多の未発表の遺稿が残されて居た。これ等の内特に“石狩炭田の地質構造、特に推し被せ構造についての研究(其三)は已に学位論文として提出された同題(其二)のものに更に新しい材料を加えて完壁としたものであるので、この得難き資料を深く框底に蔵するに忍びず、此度機会を得て上梓するの運びに至つた事は学界にとり誠に喜びに堪えない。
 由來石狩山地は層位学上及び古生物学上のみならず、地質構造の複雑なる點に於て幾多興味ある問題に富む地方なる事は人の知る所であるが、更に同地が北海道に於て最も重要なる炭田である事は云うまでもない。大立目博士の論文が、学問上の種々の問題を解明したと同時に、此の後同地方の地下資源開発の上にも極めて重要なる指針となるものである事は明かである。この事を思えば短い生涯を閉じた同博士の貢献は長く世を稗盆するものであつて、同博士も以て瞑すべきである。
 大立目博士の重要な遺稿の一つが発表せらるるに當り、これと関連ある同博士の従來の業績を紹介して序言とするものである。尚本遺稿の発表に際しこれが整理其他に當られた北大湊正雄博士の努力に對し衷心感謝の意を表するものである。

昭和25年8月

北海道大学教授 鈴木  醇



北海道地質要報.第18号,資料「大立目謙一郎:夕張炭田夕張地方の地質構造特に其の推し被せ構造に就いて」より.
 

2011年2月5日土曜日

榎本の予言

 
 「蝦夷地質学」で,榎本武揚が「石狩炭田」の存在を予言していたと書きました.
 その記述を引用しておきます.

一、此地ノ石炭山ハ思フニ当(マサ)ニ 「イクシベツ」石炭山ト脉絡相貫通スルナルベシ。但シ「ホルムヰ」河口ヨリ空知河口迄舟行十六里余及ブト雖ドモ、両石炭山ノ距離ハ直路恐ラクハ五六里ニ過ギザル可シ。然レドモ此件ハ「ウアツソン」氏、荒井氏等ノ石狩河地図ト予ガ自ラ測定セシ図ノ成サレシ後ナラデハ確保シ難シ

 この文章は,加茂義一氏が「榎本武揚」(1960刊)の中に再録したもので,原本は松本十郎・開拓使大判官が榎本から貰いうけ,当時は松本十郎の孫に当たる松本友という人物の個人所有物だったそうです.
 現在どうなっているのかは不明ですが,いわゆる「お宝」なので,現物を確認することは不可能でしょう.

 なお,加茂氏は「開拓使あての報告書」であるとも書いていますが,開拓使あての公文書が個人所有物というのも変な話ですね.ま,これは「写し」であって「原本」は開拓使で保存されていたのかもしれません.そうだとすると,原本は道立文書館あたりにあってもよさそうですが,そうだったら,加茂氏がすでに発見してても,よさそうですね.
 よくわかりません.
 現在,道立文書館のHPでは,所蔵資料の検索ができるようになっているようなんですが,インタフェイスが「?」で,検索方法がよくわかりません(もしかしたら「Windows-MSIE」にしか対応してないのかも.表示が変ですから).
 ま,結果が出てきたとしても,どの資料もネット上で公開されているわけではないので,意味がないですけどね.なんのためのHP&検索窓なんでしょうかね?


 原形が不明ですが,加茂氏の記述を解析すると,どうも表紙は以下のようになっているらしいです.

 明治六年十月七日
 イクシベツ石炭調査
           榎本武揚


 しかし,次の行には「石狩河枝流「イクシベツ」石炭山及「ソラチ」河石炭山略記」とあります.こちらのほうが記録の内容を正確にあらわしていますね.
 上記文章は,付録の「ソラチ」河石炭山のほうにある記述です.つまり,空知川で発見された石炭脈が,はるか南方の「イクシベツ」=「幾春別」の炭脈までつながっているだろうと断言したわけです.これは,「石狩炭田」が存在することの予言でもありますし,この石炭を求めて,たくさんの人や資本が入りこんでくるであろうことの予言でもあります.
 そして,そうなりました.


 ところで,もし,この報告者が道立文書館の所蔵物だったら,どのようにデータ化されているんでしょうね.これが綴じられている,「開拓使公文書・第何巻」とかだけだったら,どんなふうにに検索をかけても,結果は出てこないでしょうね.そういうことかも.

 たくさんある「壁」のひとつです.(^^;
 

2011年2月2日水曜日

つまらない話

 
 天皇制でも
  民主主義でもない
   バカ殿政治

 エジプトに政変が起きてますね.
 ついこの間は,チュニジアでも政変がありました.

 日本の政治家は幸せですね.
 いくら失政を重ねても,糾弾されたことがない.
 灰色どころか,黒でも捕まることがない.

 これは,日本の中では,暗黙のうちに,「バカ殿政治」であることが共通理解となっているからでしょうね.
 殿様はバカなんだから,糾弾してもしょうがない.悪いのは,「よきに計らえ」なかった家臣ども.だから,一線をしりぞけば,誰もなんにもいわない.

 国民も,文句は一応いうけど,だいたいが「しょうがない」と思っている.
 まれに捕まった政治家は,なにか裏があると思われている.
 悪いことをしたからではなく,庶民の出で「バカ殿政治」体制の逆鱗に触れたからかな?


 ウォーラーステイン風にいえば,左翼も右翼も政権担当能力がない.
 昔の社会党が,万年野党だったのもそういうこと.

 自民党が,長期間安定政権だったのは,左でも右でもなく,あいまいな中間だったから(思想がなかったから).過去,自民党が政権離脱したときは,相手もやっぱり中間だった.

 民主党が,政権奪取したのは,やっぱり中間だったから.
 いってみれば,政権にかかわったのは,みんな“日本(バカ殿)党”の中の,中身があんまり変わらない派閥で,日本式“政変”は,単なる派閥争いだったということ.
 「ねじれ国会」なんか存在してない.