2008年10月31日金曜日

地質測量生徒の地質学(その5)

====1876(明治9)年====

 前述したように,1876(明治9)年2月,ライマンは内務省勧業寮と契約を交わし内務省へ移籍となります.また,前年12月に出された「当使生徒稲垣徹之進外十人勧業寮へ御借用之儀」にしたがい,明治9年1月17日付で回答があり,測量生徒は内務省勧業寮へ貸出されることになりました.有り体に言えば,弟子たちも救出できたことになります.但し,地質測量の残務整理があるので,しばらくの間,開拓使内でそれを続ける事になります.
 しかし,秋山だけは移籍を拒まれます.明治政府の要人まで動かして,秋山を救出できたのは,5月の中頃までかかりました.

 1876年5月10日,「日本蝦夷地質要略之図」発行.
 1876(明治9)年5月25日付で,地質測量生徒十名(稲垣徹之進・桑田知明・三沢思襄・高橋譲三・坂市太郎・賀田貞一・山際永吾・前田精明・西山正吾・島田純一)のほか,雇の安達仁造(足立仁造)が「内務省勧業寮」へ引き渡されました.

 以後,ライマンの弟子たちは,開拓使及び札幌農学校とは縁が切れます.もっとも,ライマンの地質調査の補助に出て以来,休学状態で実質的に農学校とは縁はありませんでした.
 農学校から借り出していた地質・鉱山関係の図書は,彼等が配置換えになった関係で,その貸出延長願いが出されています.
 拝借書籍のうち,地質学に関連するものを記しておきます.

 ライエル氏著,「地質書」(第15号の5)
 タナ氏著,「地質書」(第28号の2)
 ジユケス氏著,「地質書」(第23号)

 後日譚として,内務省に転じてからは蝦夷地の地質報告をまとめるとともに,本州の油田開発に取り組みます.明治9年9月17日には「北海道地質総論」を提出.明治10年から油田の報文が出始めます.
 明治11年には「地質学社」を結成.研究会を開き,翌,明治12年からは「地学雑誌」を発行,学習や研究成果の発表の場をつくります.「地学雑誌」は16号まで発行.明治12年に,ライマンが工部省を解雇されると,翌13年から,弟子たちは新しい職場を求めて各地に散っていきました.


この話,終わります.

地質測量生徒の地質学(その4)

====1875(明治8)年====

 1875(明治8)年4月17日,「北海道山越内石油地方略測報文」提出.
 4月26日,「北海道泉沢石油地方略測報文」提出.
 4月29日,「鷲ノ木石油地方略測報文」提出.
 5月4日,「地質測量報文竝殆ど成功せる製図の概略」提出.

 5/4付け「地質測量報文竝殆ど成功せる製図の概略」には,進行中の調査の概略およびその報告書について述べるとともに,補助手たちの技量についての評価が書かれています.
 それは「実に日本の補助手は,亞細亞洲中に於て,始て地質学を現地に学ぶの徒なり.然るに,其業を為すや,既に如此の成績あり.数年を出ずして,業成り,外邦人の助けなきも,能く満足なる地質測量を為すに至るヿ必せり.」であり,そしてそれは事実でした.

・1875(明治8)年5月6日,「測量生徒の奉職義務年限に北地調査期間算入の件」提出

 開拓使仮学校の生徒には,卒業後は北海道で開拓に従事することが義務づけられていました.官費生徒は10年,私費生徒は5年です.ライマンは地質測量生徒はすでに北海道のために働いているのだから,その期間は奉職義務の期間に算入すべきだと主張しているのです.もっともな話ですが,これには裏があります.詳しくは副見恭子(1997)「ライマン雑記(13)」を参照ください.ライマンと開拓使の関係はどんどん悪化しつつあったのです.

 また,同年5月10には,モンロー名で「北海道金田地方報文」が提出されました.これには,利別・久遠・江差・松前・武佐・十勝の砂金鉱床についての報告があり,末尾にはこれまでの調査に従事したメンバーの名前を記して賞讃しています.

  6月15日,ライマンは10名の補助手(稲垣・賀田・桑田・島田・杉浦・西山・坂・前田・山際・三沢)を率いて東京を発しました.途中、塩釜付近の地質調査(概査)をおこなったといわれています.6月20日に函館に着き,22日には補助手の一隊(稲垣・賀田・桑田・島田・西山・坂・前田・山際:八名)を,札幌に先行させます.
 翌,6月23日、ほかの一隊(杉浦・三沢・西村会計官・足立写字生)を従えて出発.茅沼経由で,7月5日に札幌着.

 75調査隊には,ライマンが右腕と頼むコーディネーター・秋山美丸の姿がありません.秋山は前年の“開拓峠”越えで,それこそ寝食を共にした部下であり,友でした.地質測量生徒でもないのに「日本蝦夷地質要略之図」に「地質補助」として秋山の名が山内の次に記されていることからも,ライマンの彼への信頼度がわかります.その秋山が,1875年初冬,突然ライマンの担当をはずされ,物産局へ転任させられます.その他いろいろ奇妙な出来事が頻発し,ライマンは3月27日,開拓使に辞表を提出しています.公式に知られているライマン調査隊の成果の背後には,うごめく何かがあったようです.
 また,学生たちのリーダー的存在であった山内徳三郎も1875(明治8)年3月,開拓使に辞表を提出しています.理由は持病の眼疾.4月には辞表を撤回したようですが,翌5月には開拓使を免職になっています.実際に何があったのかは判りませんが,結果は良い方へ向かいます.
 山内は7月に内務省勧業寮に奉職.そこには大鳥圭介がいました.山内は,9月には大鳥圭介とともに濃越地方の石油調査に.眼病で職を辞したにしては,大変な活躍です.そして,翌1876(明治9)年2月,開拓使内で四面楚歌状態にあったライマンは内務省勧業寮と二年契約を交わし,本州での石油調査が始まります.山内が大鳥にライマンのおかれた立場を話したに違いありません.ライマンは救出され,結局,弟子たちも開拓使から引き抜くことになります.そして,1877(明治10)年1月には大鳥とともに工部省へ移ることになります.
 秋山美丸はどうなったか.詳しくは,副見恭子(1997)「ライマン雑記(13)」を参照ください.

 話を戻します.
 75調査隊には,新しい二人のメンバーの名前が見えます.
 一人,西山会計官は,秋山の代わりでしょうけど,この人については全く判りません.もう一人,「足立写字生」とされている人物,彼については今津健治(1979)が記しています.「安達仁造」,「出雲国母里藩士族.嘉永六年十二月,母里に生まれる.父は松江藩医.明治三〜四年のころ東京に出て,学僕となり,洋行を企てたがならず.開拓使外人教師館のボーイとなる.明治六年ライマンの北海道地質調査旅行に随行.」
 つまり,安達はライマンの最初の調査旅行に同行していたことになります.副見(1999)によれば,1873(明治6)年2月付けの,ライマンからライマンの父への手紙に安達の名前がでているそうです.仮学校生徒になれた者,地質測量生徒に選ばれた者などは非常な幸運に恵まれており,安達のように学問を志すも,その機会に恵まれなかった少年たちは一体どのくらいいたのでしょう.
 副見によれば,安達が最初に書記として調査旅行に参加したのは第三回目となっています.今津の記載とは矛盾しますが,明治6年の調査行には,ライマンの私的な使用人・世話係として随行し,明治8年には開拓使の雇い人として随行したのだとすれば,矛盾はないことになります.
 以後,ライマンの全国油田調査に随行し,7年間ライマンの家に住み込んでいたそうです.副見は,安達は「師弟関係というより,主従関係であったのではないかと思う」としています.


 すでに,7月.ライマン調査隊の足取りは重かったようです.
 1875(明治8)年7月17日,「幕別炭山地質測量報文」提出.
 7月20日,平岸村の沼鉄鉱,巡検.
 7月23日,補助手の一隊(賀田・桑田・西山・前田・三沢)は美唄-空知間の測量へ.昨年の続きの測量でした.彼等は,奈井江地域まで足を伸ばし,各地において良炭層を発見しました.巨大な石狩炭田の実態が,初めて明らかにされたのでした.

 一方,ライマンは別の一隊(稲垣・島田・杉浦・坂・山際)を率いて,幌内鉄道の測量に.路線選択のため幌内太-幌内間および美唄太-幌内間の地形を踏査の上,8月16日から幌内より鉄道予定路の測量を開始.“ライマン部隊”は,なぜか地質調査もせずに,路線測量のみをおこなっています.鉄道路線測量だけなら,測量の専門家がいるはずですが….

 9月19日,幌内太の終点に達する.
 9月20日,石狩に下り,オヤフル・ウソナイ,バンナグロの鉄鉱を見て,札幌に帰る.
 函館をでて,帰京したのは10月4日でした.

(その5)につづく

地質測量生徒の地質学(その3)

====1874(明治7)年====

 森本貞子の小説によれば,1874(明治7)年正月,「浜御殿内延遼館において,開拓使主催の盛大な宴席が開催」されます.この春から始まるライマンの本格的な地質調査に向けて,慰労と奨励の宴会だったそうです.開拓使の主立った面々,お雇い外人,地質測量生徒のほかに,ホステス役として開拓使仮学校・女学校から10名の女生徒が同席していました.
 この時,ライマンはひとりの女子生徒に一目惚れし,求婚を決意します.これが後に大変な事件を引き起こすのですが,この話は機会があれば別稿で.


 1874(明治7)年には,三沢思襄を除く六名の「地質測量生徒」に,新たに仮学校から前田精明・島田純一・山際永吾・西山正吾の四名が加わり,調査が再開されることになります(蛇足しておけば,山際永吾の身元引き受け人は「榎本武与」で,その在所は「榎本武揚邸内」になっています).
 三沢は体調を崩し,調査隊から外れることになったのでした.この時のライマンの三沢への思いやり,黒田清隆-大鳥圭介が絡んだ一つのドラマは,副見(1996)「ライマン雑記(12)」に詳しいので,ご参照ください.

 明治7年に,新たに加わった四名の名は,すでに「明治六年四月改正仮学校生徒表」に載っています.したがって,七名の「地質測量生徒」がライマンによる実地教育を受けている間に,四名は「(新)仮学校」で,さらに一年間授業を受けていたことになります.前述したように,「(新)仮学校」のカリキュラムは残されていませんし,これを受け持った教師の名も残されていないので,概要すらうかがい知ることはできません.
 しかし,「(旧)仮学校」時代に設定された「普通学第二」と同様の授業を受けていたとすれば「測量術」・「鉱山学」のほか「本草学(博物学)」の授業を受けていた可能性もあることになります.また,1873(明治6)年2月7日付けで,“アンチセルを仮学校専任にする”という報告書(北大・北方資料データベース)が存在するというので,これらに関係する授業をアンチセルが受け持っていた可能性があります.
 ところで,1873(明治6)年12月24日に「大試験」というイベントを行った記録があります.これは成績優秀者を表彰する儀式らしいです.困ったことに,その科目には「綴字」・「作文」・「筆跡」・「訳」・「論理」・「数学」・「漢学」という基礎科目しかなく,数学には西山正吾が,漢学には嶋田純一の名があります.つまり,すくなくとも明治6年の前期には,基礎科目しかおこなわれていなかった可能性が高いということになります.改正仮学校では「普通科第一」の授業からやり直したのでしょう.

 1874(明治7)年5月18日,十名の学生はライマンに率いられて東京を発し,20日に函館に着きました.同月24日,補助手たちは札幌へ向います.ライマンは遅れて26日に出発し,札幌着は6月4日になりました.
 ライマンの記述にはありませんが,1875年に提出されたモンロー名の「北海道金田地方報文」には,この年のメンバーには上記のほか,事務官として町田実鞆,訳官兼補助手として中野外志男そして図引方として久保田実房の名が挙がっています.この三人がどういう人物であったかの記録は全くありません.
 なお,東京出発が5/18と妙に遅いのは,新しく加わった補助手たちの教育の為と,前年の教訓で,北海道は雪解けが遅く,雪解け時には洪水を伴うことが判っていたからだと思われます.現在でも,本州のフィールドシーズンは春と秋が中心なのにもかかわらず,北海道では夏草が生い茂ったとしても,夏がフィールドシーズンです.

 ライマンの記録によれば,6月11日,補助手たちはライマンから詳細な指示を受け「石狩煤田」(正確には「幌内炭山」)に向います.ライマンは17日,事務官・秋山美丸,通訳・佐藤秀顕のほか,使用人二人,船員,日本人およびアイヌ人の人夫多勢を従え,石狩川遡行の調査行にでます.24日,幌内に着き,先発した“石狩煤田”調査隊の報告を受け,また,彼等に今後についての指示を出します.ライマン隊はさらに,石狩川の遡行を続け,多くの支流において,石炭の転石を確認します.これらをまとめて,見取り図をつくり,詳細な指導書とともに,使いを派遣して“石狩煤田”調査隊に送付します.以後,ライマンは石狩川をさかのぼり,開拓峠を越えて十勝平野に出,北海道一周の旅にかかります….
 しかし,前述したように,残念なことに,ライマンの行動は比較的詳しく残されているものの,補助手たちの行動はほとんどわかりません.

 今津健治(1979)は山内徳三郎が残した「ベンジャミン・スミス・ライマン氏小伝」を採録し,ライマンや弟子たちの行動を追っています.それによれば,明治7年には…,
「此の年,助手モンロー氏に属せしめたる補助手の一隊〔稲垣・島田・杉浦・前田・斎藤〕は「一ノ渡砂金地」を測量し,広尾および歴舟地方の砂金地,幕別炭山の測量をなし,他の一隊〔山内・賀田・桑田・西山・坂・山際〕は幌内炭山,幌内~石狩川間,および幌内~空知川間の連絡路測量に従事せり.」とあります.

 モンローを長とする調査部隊を仮に“79モンロー部隊”と呼んでおきます.
 “79モンロー部隊”のメンバーは経験者である稲垣のほかは,すべて今年補助手として加わった者たちです.一方,もう一隊は(これも仮に“79山内部隊”と呼んでおきます)すでに昨年の経験があるとはいえ,いわゆる補助手だけで構成する部隊です.
 私達の時代でも,三年目に修業論文という実習をおこなったあと,四年目には単独で卒業研究に入りました.しかし,私達の時代の卒業論文は,結果は自分にしか帰ってきませんでしたが,彼等の結果は北海道のみならず,日本の将来がかかっていたのですから,どんなにかプレッシャーがかかっていたでしょう.

 この年,ライマン一行が帰京したのは,10月27日でした.

(その4)につづく

地質測量生徒の地質学(その2)

====1873(明治6)年====

「地質測量生徒」
 1873(明治06)年03月,仮学校生徒から,ライマンの地質調査の補助手として七名の学生が選ばれました.直後に一名が入れ替わりましたが,ライマンとともに半年程,北海道各地を調査したわけです.翌,1874(明治7)年には,体調を崩した一人を除く六名に,新しく仮学校生徒から選ばれた四人が加わり計十名が地質測量を続けました.
 彼らを「地質測量生徒」とよんでいます.

 1873(明治6)年3月8日,「今般ライマン氏其外北海道地質検査随行申付候事」という辞令が出されています.辞令の対象は記録によれば,開拓使仮学校の生徒から選ばれた岩下周助・稲垣徹之進・坂市太郎・賀田貞一・桑田知明・三沢思襄・斎藤武治の七名です.岩下は,3月22日に随行を免ぜられ,代わって4月14日になって高橋譲三が命ぜられています.

 時期的に見ると,七名は“最初の仮学校”の生徒にあたり,七名の辞令が発行された直後に「(旧)仮学校」は閉校になり,学生はすべて退学処分となっています.さらに「(新)仮学校」が再開される前に,退学処分になっているはずの高橋譲三が辞令を受けたことになります.つまり,「閉校」-「退学処分」は名目上のことで,「地質測量生徒」を含む複数の生徒については,「(新)仮学校」に復学することが周知になっていたのでしょう.なお,同様の処置を受けた「電信生徒」とよばれるグループもいますが,本稿には無関係なので省略します.

 この七名は,「仮学校・普通科第一」の授業しか受けておらず,専門的な知識・技術は持っていませんでした.そこで,ライマンは彼らに速成教育を施したとされています.
 ライマンの“速成教育”とよばれるものの具体的な記録は見あたりません.副見(1996)では「初歩の測量・地質・鉱物学」とあります.妥当なところだろうと思われます.また,北大百年史では「図学・野外修業・数学・吹管用法など,測量・分析に関する基礎的教育」がおこなわれたとあります.
 ライマンの来日は1月18日.三ヶ月後には蝦夷地へ旅立ちました.出発は,4月18日とも19日ともいわれています.したがって,“速成教育”に使われた期間は最長でも三ヶ月.辞令発行後からであるとするとわずか40日となります.高橋譲三については,出発まで一週間もない時期に辞令が出されたので、多分まともな教育はなされなかったでしょう.したがって,彼らについてなされた教育の中心は,蝦夷地での実地教育というのが事実なのでしょう.我々の時代でも,座学よりも巡検や実習で学んだことの方がはるかに多く,異論はありません.
 そして,彼らのツアーが始まりました.

 1873(明治6)年4月21日,函館に到着.
 4月下旬,一行は札幌に到着.東京での指令通り,当初は石狩川遡行を予定していました.しかし,雪解けによる増水のため,先に道南部の調査に向います.ライマンは茅ノ澗煤田(「茅沼炭山」という名の方が現代的)を調査・測量すると同時に補助手たち(地質測量生徒+αのこと)に「初歩の測量技術・地質学・鉱物学」の速成教授をおこないます.「教師の職業をきらって,地質技師になったライマンは,初めて教える喜びを味わった」(副見,1996).
 「地質測量生徒+α」の「α」とは,開拓使から派遣された,事務官・通訳のことで,彼等のうちある者は,積極的にライマンの「地質学・鉱山学」を学びライマンと行動を共にしてゆきますが,ある者は,通訳であるとともに“本草”収集(おもに植物標本を集めたらしい)を業務としていたらしく,ライマンの指示に従わないこともあり,結局ライマンの不興を買い,ライマンと開拓使のトラブルの一つとなります.

 茅ノ澗煤田調査(補助手たちにとっては「実習」でもあります)ののち,ライマンは補助手たちを二つに分けます.一つはモンローを部隊長とする六名で,仮にこれを“モンロー部隊”と呼んでおきます.“モンロー部隊”は,ライマンによれば「佐藤・稲垣・三沢・賀田・坂」となっています.「佐藤」を除く四名はいずれも「地質測量生徒」ですが,「佐藤」は名前が明記されていません.モンローの「北海道金田地方報文」には,地質測量生徒四名の名のほかに,事務官の伊地知李雅,訳官兼補助手として佐藤秀顕の名が揚げられています.したがって,「佐藤」は「佐藤秀顕」となります.
 後に,佐藤はライマンから不興を買い,ライマンからモンローに着くように命じられますが,佐藤は“元々ライマン付けの通訳として開拓使からつけられた”という命令書をもってライマンの元に帰ります.しかし,前記の事実から,当初は“モンロー部隊”についていたわけで,しかもモンローは佐藤を訳官兼補助手と認識しており,のちの開拓使の言い分とは矛盾があります.これでますますライマンは開拓使に疑問と不満を持つことになります.

 それはさておき,話を戻します.
 ライマンとは,ほとんど別行動をとった“モンロー部隊”の行動の詳細は不明です.しかし,ライマンの記述から,“モンロー部隊”の行動を再構成すると,全員で「茅沼炭山」の調査を行ったあと,「利別砂金鉱床」の精査をおこないます.ライマンが九月に「利別」に行ったときには,“モンロー部隊”は「久遠」・「江差」の砂金鉱床に移動していました.
 彼等はその後,「勇羅夫鉛鑛」=「遊楽部鉛鉱山」に移動し,雪が降ってライマンの撤退命令がでるまで,鉱山の精査をおこなっていました.

“モンロー隊”:H.S.モンロー・稲垣徹之進・三沢思襄・賀田貞一・坂市太郎(+佐藤秀顕・伊地知李雅)
・(茅沼炭山)>利別砂金鉱床>久遠・江差砂金鉱床>遊楽部鉛鉱山

 一方,ライマンは残りの補助手五名と積丹半島を巡検しながら札幌へ.
 この補助手五名の名は記載されていませんが,前記四名の「地質測量生徒」を除けば,それは「桑田知明・斎藤武治・高橋譲三」のほかに二名ということになります.その二名はたぶん,「山内徳三郎」と「秋山美丸」でしょう.
 この二人は,佐藤秀顕と同様に,開拓使からライマン付けにされた人物です.「山内徳三郎」は山内堤雲の弟で,開拓使・御用係(翻訳方)という肩書きでした.山内は医学・英語を修めた秀才でしたが,ここでもその能力を発揮し補助手たちのリーダーとなります.「秋山美丸」は事務官・会計官とかかれているのが普通です.彼は調査のコーディネーターとして抜群の能力を持ち,ライマンに愛された人でした.翌年のほぼ北海道一周の調査旅行のときもライマンに同行し,数々の困難を解決してゆきます.又,留萌付近では彼の過去の一部が判明します.秋山はこの地方の奉行だったといいます.ライマンは,このように土地の人に慕われる人物が,なぜその職を追われたのか不思議に思います.

 話を戻します.
 “モンロー部隊”と別れたライマン一行は,雷電付近の石膏産地,泊村付近の閃亜鉛鉱・方鉛鉱・黄銅鉱の鉱脈を巡検,さらに古平で転石で発見されたという石炭の由来を調査しました.約50日を費やし,札幌へ戻ります.いずれも経済価値のある鉱床ではありませんでしたが,学生たちには貴重な経験となったでしょう.

 札幌では調査結果のまとめと次の調査の準備に一週間かけ,幌向の煤田(幌内炭山)に向いました.猛スピードで測量をおこない,約一ヶ月後,札幌に戻りました.
 札幌から「山内氏其他當時我同行タリシ三員」の補助手を茅ノ澗炭山付近の補測に派遣し,ライマンはしばし補助手たちと別行動.「山内氏」とは「山内徳三郎」で,「同行タリシ三員」とは「桑田・斎藤・高橋」でしょう.
 この山内徳三郎以下三名のパーティを仮に“山内部隊”と呼びます.“山内部隊”は,もうすでに彼等だけで,独自の調査ができるようになっていたことになります.

 “山内部隊”はライマンが現れるまで,茅ノ澗煤田の補足測量を続けていました.ライマンは“山内部隊”の成果を確認すると,彼等とともに茅ノ澗煤田からの石炭積出港になる予定の「茶津内」・「渋井」の二つの港を略測します.その後,古平川を上流まで巡検し,反転して岩雄登へ.岩雄登では,ライマンの指導下,硫黄山を略測します.

 その後,“山内部隊”の補助手たちはライマンと別れて,「山越内」・「鷲ノ木」の石油産地の測量に向います.
 ライマンは秋山事務官を伴って,有珠・登別・樽前の硫黄鉱床の確認へ.ついでに幌別付近の新鉱産地を巡検し,室蘭の鷲別で発見されたという石炭を確認.その後,噴火湾沿いに訓縫を経て,“モンロー部隊”と合流する為に「利別砂金地」に向います.
 この時,モンロー隊は入れ違いで,すでに久遠の金鉱床調査に移動していました.ライマンは「利別砂金地」で独自に調査をおこなったあと,山越内に向いました.

 山越内には“山内部隊”の残した略図が残されていたので,産油地を観察して産出量を量り,同時に海浜の砂鉄も検分.次に,ライマンは遊楽部鉛山にゆき,“モンロー部隊”に精査についての細かい指示を残して,さらに鷲ノ木に向います.途中,いくつかの温泉地を巡視し,鷲ノ木では“山内部隊”の成果を見届けて「泉沢」で同様の調査をおこなうように指示しました.
 ライマンは鷲ノ木で石灰岩を確認後,噴火湾沿いの「褐炭」や「油徴地」,「温泉」や「硫黄」などを検分しました.そのあと,函館から津軽海峡の海岸部にでて,「硫黄」・「砂鉄」,「鉄鉱石」および「石灰岩」,「カオリン鉱床」・「温泉」などを巡視しています.
 その後,ライマンは西方に転じて,「泉沢油徴地」に向い,“山内部隊”の成果を点検し,茂辺地川の煉瓦窯と粘土鉱床を見て,富川の「リグナイト」さらに一ノ渡(市ノ渡)の鉛鉱山などを巡検しました.

 さらに,山内・高橋と共に鵞呂沢の巨大な石灰岩体(現在の峩朗鉱山のこと)を検分し,帰路,桑田・斎藤と合流しました.

“山内部隊”:山内徳三郎・桑田知明・斎藤武治・高橋譲三
・(茅沼炭山)>(札幌)>幌内炭山>堀株・茶津内・渋井>岩雄登>山越内・鷲ノ木>泉沢

 ライマンがすべての野外作業を終え,函館に戻ったのは11月1日.翌日は暴風が吹き,“モンロー部隊”が調査を進めている遊楽部鉛山は大雪になったので,“モンロー部隊”に帰還命令を出しました.“モンロー部隊”が函館に着いたのは7日のこと.翌日には,地質測量チームの慰労晩餐会が開かれたといいます.11月9日には函館付近も大雪となり,翌10日には江戸へ向けて,函館を出帆しています.

 ライマンは12月25日には,1973(明治6)年の事業報告を提出しています.
 翌,1874(明治7)年4月27日に,モンローの名で「煤炭分析報文」(北海道産石炭分析試験報告)がでます.このモンローの報告書は,「新撰北海道史第6巻」で見ることができますが,これはあくまで報告書形式なので,調査中の出来事などは知ることができません.
 それでも,1873(明治6)年11月24日付けの,「マンロー氏の測量補助手への化学教育並び鉱物分析のための化学器具、薬品入手要請」(ライマン発:北大・北方資料データーベース)という書類が残されていますので,東京では報告書をまとめる一方,補助手たちへの分析術等の教育がなされていたことは間違いないことでしょう.

(その3)につづく

地質測量生徒の地質学(その1)

 明治五年四月十五日(1872.05.21.)に開校された「開拓使仮学校」には,将来「鉱山科」が設置される予定でしたが,学校自体のシステムと学生の質が悪く,翌年3月14日*には,一時閉校**となります.
 その間,開拓使は北海道内の鉱物資源を開発するために,外国から地質・鉱山技術者を雇傭します.それが,B.S.ライマン(邊治文,士蔑治,來曼)でした.ライマンは,実際の彼の調査の助手として,また,彼がいなくなったあとも独自に調査を続ける事ができる人材の養成として,複数人の若者を要請します.
 ライマンの要請は,開拓使仮学校の方針と一致し,仮学校から複数人の学生が選出されます.これを歴史では「地質測量生徒」と呼んでいます.

*年月日の漢数字-アラビア数字の使い分けについて:明治五年十二月二日までは旧暦で,翌日は新暦:グレゴリオ暦に切り替えられたので明治6年1月1日となります.私の文章では旧暦は漢数字で新暦はアラビア数字で表しています.
**一次閉校:「開拓使仮学校の地質学」でも示したように,ライマンの来日に前後して仮学校閉鎖があります.開拓使では,質の悪い生徒を排除する為に,またそれに「キレ」てしまった黒田に配慮して,「閉校」したのでしょうけど,中でも優秀な生徒については,事前に「再募集」することを周知してあったもだと思われます.

 さて,これから「地質測量生徒の地質学」について追っていこうと思いますが,ライマンは細かい記録を残し,後のライマン研究者もライマンの行動を詳しく追っています(今ひとつ,決定版がないのが残念ですが).ところが,地質測量生徒の方はほとんど記録を残していず,彼等の行動を追った研究もほとんどありません.残念!.
 ライマンと行動をともにした時は,比較的情報が多いのに対し,そうでない時は,ほとんどわかりません.著しくバランスを欠いているのですが,そのつもりで….

 なお,原文中では,マンローを「助手」,地質測量生徒のことを「補助手」と呼んでいますが,「日本蝦夷地質要畧之図」ではライマンが「地質主任」で,マンロー以下は皆「地質補助」として扱われています.現実には,マンローは指導者の一人であり,この扱いに怒ったという話が伝わっています.マンローの名誉の為に,ライマンが「地質主任」ならば,マンローは「副主任」,地質測量生徒たちは「助手」と呼ぶべきですが,混乱を避ける為に,ここではマンローを「助手」,地質測量生徒たちを「補助手」と呼んで,区別だけしておくことにします.

(その2)に続く

2008年10月22日水曜日

ライマンの一目惚れ

 生涯を独身で通したライマン(邊治文,士蔑治,來曼:Benjamin Smith Lyman)ですが,たった一度だけ,ある日本女性を生涯の伴侶としようとした形跡があります.もちろん生涯独身を通したわけですから,ライマンの恋は実らなかったわけです.ただし,この件,あまりにも謎が多すぎます.謎が多いあまりに,少ない点と点をつなぐ線はいくらでも描くことができて,小説ネタになったりもしています.

 森本貞子は,二つの小説でライマンを単なる「エロ外人」として描きました(四十も近いのに,十八の乙女に恋するなんて).もっとも,二つの小説共に,ライマンは重要な役割を果たしていず,主人公である女性を魅力的に見せるための道具でしかないからです.ライマンに興味を持つ人には不愉快な解釈ですが,何かがあったらしいことが示され,その「あらすじ」にはなるようです.
 小説ではなく伝記から判断すると,ライマン自身はある種の「陰謀」があったと考えています.副見恭子はその陰謀の全貌をライマンの残した資料から明らかにしようとしていますが,成功していません.藤田文子は,その件は置いておいて,「正義派ライマン」として開拓使との確執を描き出そうとしています.

     

 関係者はまず,ライマンその人.そしてライマンが一目惚れした相手の「広瀬常」.恋敵といわれる「森有礼」.陰謀を働いたとされる開拓使女学校係の「福住三」.
 開拓使を統括する「黒田清隆」.開拓使に巣食う薩摩閥の面々.間でとばっちりを食う開拓使吏員の秋山美丸および通訳・佐藤秀顕.開拓使吏員でありながら蚊帳の外の元幕臣の技術者たち.

 実際に何があったのかは判りませんが,ライマンはその後,一生を独身で通しました.そして,福住は彼が管理していた「開拓使女学校」の女学生の二人と特殊な関係にあることが噂となります.開拓使はこの噂を否定しましたが,直後「女学校」は廃止に.
 広瀬常はライマンが北海道の調査を行っていて不在のうちに,森と婚約そして結婚.ところが,のちに離婚され,常は消息不明に.森家では,常のことは「タブー」となります.その後,森は再婚しますが,その相手は「岩倉具視」の娘でした.
 黒田清隆が統括していた開拓使も,(ライマンが指摘したように)膨大な予算を費やしたのにもかかわらず,見るべき成果もあげられず,薩摩閥の巣窟と見なされ,やがて廃止に追い込まれます.その時に,開拓使の官有物を薩摩出の資本家や薩摩閥の元開拓使吏員に払い下げるという事件を起こして,一次閑職へ.すぐに返り咲きますが….

 誰が儲けて,誰が損をしたか.誰が誇りを貫いて,誰が恥をかいたか.誰がいい目を見て,誰がつらい目にあったかを考えれば,どちらを支持すべきか答えは出ると思います.

 

2008年10月16日木曜日

開拓使仮学校の地質学

 明治の始め,北海道開拓の人材を育てるために,開拓使所管の学校開設が計画されました.札幌に開設する予定で,当初は東京・芝の増上寺を仮の施設としたため,これを「開拓使仮学校」とよんでいます.

 明治五年四月十五日(1872年05月21日)に開校.

 仮学校では「普通学」と「専門学」の二つを設置する予定でしたが,それはのちのこととして,当初は「普通学第一」および「普通学第二」がおかれました.名前は「普通学」ですが,要するに今日の「教養課程」,もしくは旧時代の「予科」に当たるものと考えるとよいでしょう.

 「普通学第一」では「英学(英語)・漢学・手習・画学(製図学)・日本地理・究理(物理)・歴史」など基礎科目を教え,進級して「普通学第二」になると,「舎密学(化学)・器械学(機械学)・測量術・本草学(博物学)・鉱山学・農学」を学ぶことになる予定でした.

 「普通学」を修了したものは,「専門学」に進級することになります.
 「専門学」は第一から第四に分かれ,「専門学第一」では「舎密学・器械学・画学」を,「専門学第二」では「鉱山学・地質学・画学」を,「専門学第三」では「建築学・測量学・画学」を,「専門学第四」では「舎密学・本草学・禽獣学・農学・画学」を教授する予定でした.それらは,順に「工業科」・「鉱山科」・「土木工学科」・「農学科」に当たるものと思われますが,詳細は不明です.いずれにしても,これらが実現することはなかったからです.

 初年度は,すべての学生は「普通科第一」に入れられ,「英仏学(英語・仏語)・算学(算数)・幾何学・高等数学・画学(製図学)・和読書・漢作文・和漢習字・和漢歴史」が教えられました.「英仏学」は正確に言うと,外国語で「英語」コースと「仏語」コースが設置されたもので,ほかの授業については同じだったようです.しかも,「仏語」コースは間もなく廃止されました.

 授業は始まったものの,学校組織としては計画不足・付焼き刃の評を免れず,そして募集した生徒のレベルは低かったのです.開校当初から順調にいったとはいえず,翌年3月14日には,仮学校は閉校,学生はすべて退学という事態に陥ります.なお,明治五年十二月二日(この日まで旧暦)の次の日は明治6年1月1日(新暦:グレゴリオ暦)に切り替えられているために,実質10ヶ月程度の教育期間でした.

 仮学校が再開されたのは,1873(明治6)年4月21日のこと.授業は翌日から行われました.
 再開後のカリキュラムは「今のところ見あたらない」(北大百年史・通説)とされています.しかし,授業そのものは,以前とそれほど変わらなかっただろうと思われます.器械学教師・ランドルフは生徒の学力の低さに不満を抱き,開拓使との間に軋轢を生じ,間もなく解雇されました.開拓使側でも公募生徒の質の低さに懲りたのか,「公募はおこなわれなくなったようである」と,あります.

 再開された仮学校では,専門科の開設準備を進める一方で,札幌移設の準備が進められました.
 1875(明治8)年7月,仮学校は「札幌学校」と改称し,8月には教職員生徒一同が札幌へ移動しました.札幌学校の開業式は9月7日.35名が晴れて札幌学校の生徒となりました.

 なお,札幌にはすでに「(旧)札幌学校」が存在していましたが,同校で英語を学んでいた生徒十数名が「(新)札幌学校」に転学し,「(旧)札幌学校」は「雨竜学校」と改称した上で授業内容は小学校程度に改められました.
 また,「女学校」および「アイヌ学校」が「仮学校」に併設されていましたが,本稿の目的ではないので,説明を省きます.どちらにしても,当初の目的は果たせず,ひとりの卒業生も出さずに閉校しています.

 通してみると,「開拓使仮学校」の時代には,専門科はまだ存在せず,「地質学(鉱山学も含めて)」の授業は行われていず,また,関連が深い「博物学(当時はまだ本草学の名が使われていました)」もおこなわれていなかった,というのが事実です.

 ところが,この仮学校の中から,二つの実技にたけたグループが旅立ちます.
 一つは,「電信生徒」と呼ばれており,もう一つは「ライマンの弟子」になる「地質測量生徒」です.

 「地質測量生徒」については,現在調査中ですので,別稿で.