2008年10月31日金曜日

地質測量生徒の地質学(その3)

====1874(明治7)年====

 森本貞子の小説によれば,1874(明治7)年正月,「浜御殿内延遼館において,開拓使主催の盛大な宴席が開催」されます.この春から始まるライマンの本格的な地質調査に向けて,慰労と奨励の宴会だったそうです.開拓使の主立った面々,お雇い外人,地質測量生徒のほかに,ホステス役として開拓使仮学校・女学校から10名の女生徒が同席していました.
 この時,ライマンはひとりの女子生徒に一目惚れし,求婚を決意します.これが後に大変な事件を引き起こすのですが,この話は機会があれば別稿で.


 1874(明治7)年には,三沢思襄を除く六名の「地質測量生徒」に,新たに仮学校から前田精明・島田純一・山際永吾・西山正吾の四名が加わり,調査が再開されることになります(蛇足しておけば,山際永吾の身元引き受け人は「榎本武与」で,その在所は「榎本武揚邸内」になっています).
 三沢は体調を崩し,調査隊から外れることになったのでした.この時のライマンの三沢への思いやり,黒田清隆-大鳥圭介が絡んだ一つのドラマは,副見(1996)「ライマン雑記(12)」に詳しいので,ご参照ください.

 明治7年に,新たに加わった四名の名は,すでに「明治六年四月改正仮学校生徒表」に載っています.したがって,七名の「地質測量生徒」がライマンによる実地教育を受けている間に,四名は「(新)仮学校」で,さらに一年間授業を受けていたことになります.前述したように,「(新)仮学校」のカリキュラムは残されていませんし,これを受け持った教師の名も残されていないので,概要すらうかがい知ることはできません.
 しかし,「(旧)仮学校」時代に設定された「普通学第二」と同様の授業を受けていたとすれば「測量術」・「鉱山学」のほか「本草学(博物学)」の授業を受けていた可能性もあることになります.また,1873(明治6)年2月7日付けで,“アンチセルを仮学校専任にする”という報告書(北大・北方資料データベース)が存在するというので,これらに関係する授業をアンチセルが受け持っていた可能性があります.
 ところで,1873(明治6)年12月24日に「大試験」というイベントを行った記録があります.これは成績優秀者を表彰する儀式らしいです.困ったことに,その科目には「綴字」・「作文」・「筆跡」・「訳」・「論理」・「数学」・「漢学」という基礎科目しかなく,数学には西山正吾が,漢学には嶋田純一の名があります.つまり,すくなくとも明治6年の前期には,基礎科目しかおこなわれていなかった可能性が高いということになります.改正仮学校では「普通科第一」の授業からやり直したのでしょう.

 1874(明治7)年5月18日,十名の学生はライマンに率いられて東京を発し,20日に函館に着きました.同月24日,補助手たちは札幌へ向います.ライマンは遅れて26日に出発し,札幌着は6月4日になりました.
 ライマンの記述にはありませんが,1875年に提出されたモンロー名の「北海道金田地方報文」には,この年のメンバーには上記のほか,事務官として町田実鞆,訳官兼補助手として中野外志男そして図引方として久保田実房の名が挙がっています.この三人がどういう人物であったかの記録は全くありません.
 なお,東京出発が5/18と妙に遅いのは,新しく加わった補助手たちの教育の為と,前年の教訓で,北海道は雪解けが遅く,雪解け時には洪水を伴うことが判っていたからだと思われます.現在でも,本州のフィールドシーズンは春と秋が中心なのにもかかわらず,北海道では夏草が生い茂ったとしても,夏がフィールドシーズンです.

 ライマンの記録によれば,6月11日,補助手たちはライマンから詳細な指示を受け「石狩煤田」(正確には「幌内炭山」)に向います.ライマンは17日,事務官・秋山美丸,通訳・佐藤秀顕のほか,使用人二人,船員,日本人およびアイヌ人の人夫多勢を従え,石狩川遡行の調査行にでます.24日,幌内に着き,先発した“石狩煤田”調査隊の報告を受け,また,彼等に今後についての指示を出します.ライマン隊はさらに,石狩川の遡行を続け,多くの支流において,石炭の転石を確認します.これらをまとめて,見取り図をつくり,詳細な指導書とともに,使いを派遣して“石狩煤田”調査隊に送付します.以後,ライマンは石狩川をさかのぼり,開拓峠を越えて十勝平野に出,北海道一周の旅にかかります….
 しかし,前述したように,残念なことに,ライマンの行動は比較的詳しく残されているものの,補助手たちの行動はほとんどわかりません.

 今津健治(1979)は山内徳三郎が残した「ベンジャミン・スミス・ライマン氏小伝」を採録し,ライマンや弟子たちの行動を追っています.それによれば,明治7年には…,
「此の年,助手モンロー氏に属せしめたる補助手の一隊〔稲垣・島田・杉浦・前田・斎藤〕は「一ノ渡砂金地」を測量し,広尾および歴舟地方の砂金地,幕別炭山の測量をなし,他の一隊〔山内・賀田・桑田・西山・坂・山際〕は幌内炭山,幌内~石狩川間,および幌内~空知川間の連絡路測量に従事せり.」とあります.

 モンローを長とする調査部隊を仮に“79モンロー部隊”と呼んでおきます.
 “79モンロー部隊”のメンバーは経験者である稲垣のほかは,すべて今年補助手として加わった者たちです.一方,もう一隊は(これも仮に“79山内部隊”と呼んでおきます)すでに昨年の経験があるとはいえ,いわゆる補助手だけで構成する部隊です.
 私達の時代でも,三年目に修業論文という実習をおこなったあと,四年目には単独で卒業研究に入りました.しかし,私達の時代の卒業論文は,結果は自分にしか帰ってきませんでしたが,彼等の結果は北海道のみならず,日本の将来がかかっていたのですから,どんなにかプレッシャーがかかっていたでしょう.

 この年,ライマン一行が帰京したのは,10月27日でした.

(その4)につづく

0 件のコメント: