2007年12月13日木曜日

うらぎられてしまった(-_-;

 もう何ヶ月も前になりますが,某・通販書店にPeter Simon Pallas (著), Carol Urness (編集) "Naturalist in Russia"が入荷になるというので,たのんでありました.

 こんな本がでているのかとびっくりしましたが,同時にうれしくもありました.
 パラスの著作が読めるなんて!

 ところが,一週間前に発送が遅くなるというメールが届き,つい先ほどキャンセルさせてくれという一方的なメールが届きました.

 ま.無いものはしょうがないですけどね.この落胆は,やっぱり文章にしておかなければね.
 (-_-;,(T_T),(▼▼#)

 ちなみに,パラスとはドイツの医者,博物学者で探検家.
 ロシア・アカデミーにまねかれて,シベリアを探検.マンモスや毛サイなどをたくさん収集しています.
 かわいいところではナキウサギ,それも直接エゾナキウサギにちかいヤツを記載.
 もひとつ.ジャンガリアン・ハムスターの記載も彼だそうです.

「日本登山史・新稿」

 「松浦武四郎と江戸の百名山」中に,「日本登山史・新稿」(山崎安治著)なる本が引用され,「武四郎が日本登山史において,その名を残す人であった」としてあります.
 「日本登山史・新稿」は旭川にある図書館には,どこにも蔵書になっていなかったのですが,ある古書店から入手可能だったので,つい買ってしまいました.(^^;

 どうやら,「松浦武四郎と江戸の百名山」は「日本登山史・新稿」を下敷きに発展させた本のようです.
 「日本登山史・新稿」では,武四郎の「日誌」や既刊の伝記などを無批判・無検討で引用していますが,武四郎の“登山”は,すでに,いくつかの研究で否定されたしまったものも多いのです.当然,これを引用した「松浦武四郎と江戸の百名山」でも,書かれていることは,すべて行なわれたこととして掲載されています.
 著者は,武四郎研究家の秋葉實氏に,武四郎の登山歴の一部を否定された件を描いていますが,その経験にもかかわらず,ほかの登山についての再検討をすることはなかったようです.

 さて,「日本登山史・新稿」ですが,既刊のたくさんの資料を引用しているので,資料集としてはずいぶん役に立ちそうです.しかし….
 登山史に関係ない人間がとやかくいうのはなんですが,関係部分を拾い読みしただけでも妙な点がいくつかあります.たとえば,「北辺の探検と測量」という節があり,「最上徳内・間宮林蔵・近藤重蔵」らがあげられているのですが,かれらが「登山」したという話は聞かないし,この本でも「登山」したことは書いてありません.なんでかれらが出てきたのだろう.(^^;

 この本の後半は,「日本アルプス」の登山史ですが,結局「日本登山史」と称しながら,「日本アルプス登山史」ぐらいにしかなっていないような気がします.そう,たとえば,「日高山脈」の登山なんかは一行もでていないようなのですね.
 なにしろ,550ページちかい大作なので,どこかに書いてあるかもしれないですが,少なくとも,ざっと読んだ部分と,目次にはありませんでした.なんか買って損したような気がしますが,旭川の図書館にはこの手の本はおいていないので,借りて読むこともできず,しょうがないんですね.蔵書してあっても,どうせ「禁帯出」だろうし.
 でも,前述のように律義に引用文献を明示してあるので,すくなくとも,その点は役に立ちそうです.

2007年12月4日火曜日

松浦武四郎と江戸の百名山

 タイトルの本(平凡社新書344)をやっと入手しました.
 相当前にAmazonに注文してあったのですが,一緒にたのんだ本の発行が遅れていて,最近になってようやくとどいたものです.Amazonでは¥1,500以下は送料を取られるので,まとめて注文します.

 著者は中村博男氏で,元NHKチーフディレクターとあります.
 8月30日に少し触れた,渡邊 隆(2007)「江戸明治の百名山を行く──登山の先駆者 松浦武四郎──」(北海道出版企画センター刊)とよく似た題名です.

 中村氏の本も,武四郎の伝記として扱うことが可能ですが,あまり重要と思われる情報はありません.
 武四郎の登山に関する雑文に近いもので,軽い読み物という所でしょう.個人的に興味のある蝦夷地に関することも,ごく一部でしか扱っていませんでした.大部分は,蝦夷地紀行以前の登山の話に使われています.それも,余り深く掘り下げたものではないので,読み飛ばしてしまいました.

 肝心の「蝦夷地(における登山)」もどうもね((^^;).

 さすがに,武四郎の“石狩岳登山”は「石狩岳」ではなく,「“大雪山”である」としていますが,この“大雪山”登山については疑問を持っていないようです.
 蝦夷地質学外伝では,サンケソマナイをでて途中で引返したという説を取りました.

 なお,“大雪山”という「山」もしくは「ピーク」は存在せず,複数のピークを総称して「大雪山連峰」と呼ぶのが正しいのですが,国土地理院の地形図でも最近は「大雪山連峰」ではなく「大雪山」としているようです.どこに登ったら「大雪山登山をした」といえるんでしょうかね.

2007年12月1日土曜日

ラマルクのこと

 「ラマルクは『自然の体系』八巻を出版する計画を立てた.しかし,そのような大部の出版物に対する国家予算はなく,その一部として書いた『水理地質学』(一八〇二)のみが出版された.」
 「この本で彼は,地表を流れる水の影響は僅かな変化をもたらすが,積もり積って,深い谷,広い平野をつくるという『斉一説Uniformitarianizum』の考えをとった.これはキュビエの『天変地異説Catastrophism』に対するものであった.」
 「この思想がフランスを訪れた地質学者チャールズ・ライエル(一七九七-一八七五)に伝わり,ライエルの『地質学原理』(一八三〇-三三)がチャールズ・ダーウィン(一八〇九-八二)に深い影響を与えたとすれば,ラマルクのダーウィンへの影響は,ダーウィンが考える以上に深いものがあるだろう.」

 木村陽二郎(1983)「ナチュラリストの系譜」の169頁からの引用です.

 以前から,ラマルクに対する評価は低すぎるように感じていましたが,今から20年以上も前に,ラマルクをこれだけ評価している人がいました.残念なことに,木村氏は生物学がご専門なので,ラマルクの地質学については,ほとんど触れられていません.
 だれか,フランス語ができる地質屋さんがラマルクの地質学に関する著作を評価してくれないですかねえ.

 近代地質学が,英国で始まったというのは,もうだいぶボロが出てきているようですが,それにしても,フランスやロシアの地質学(当時は「博物学」といった方がいいのかも知れませんが)を系統的に論じた著作というのはないですねえ.

2007年11月3日土曜日

またまた,山崎有信のこと

 ついに,山崎有信著「大鳥圭介伝」を購入してしまいました.

 原著は古書店で数十万円もするので,あきらめてました.大空社という出版社から,復刻版が出ているのはかなり前から知っていたのですが,これも二万円(!)近く,また,だいたい,いつも品切れになっているので,放置してあったものです.

 旭川の市立図書館にはこの原著があるんですが,例によって禁帯出.大鳥圭介が江川塾に入塾するあたりのごく一部は複写しましたが,なにせ,658頁という大著.榎本武揚との関係や武揚その人の記述はほとんど確認することもできずに悔し涙(:_;).

 ああ,これでゆっくり読める(^^).

 さて,目次をたどっていたら,「北海道石炭鑛の調査」というのがありました.

 その中のエピソードを一つ.
 圭介がライマンとともに石炭の調査をしていたときのこと.
 数日にわたるテント生活で,付近の「清水の澤」の水を沸かして,のどを潤したことから,そこを「湯呑澤」と名付けたそうです.のちに,この「ゆのみざわ」はなまって「いわみざわ」になったと大鳥圭介自身が語ったそうです.

 岩見沢市のHPを見ると別のエピソードが書かれています.が,ざっと調べるとさまざまなバリエーションがあるようです.石炭の調査ではなくのちの道路工事の際であるとか,大鳥圭介の名はなくただの役人であるとか,作業員であるとか,また,「湯飲み」ではなく「湯浴み」であるとか....

 私としては,やはり,大鳥圭介の「湯飲み」説を取りたい(^^;.

 ちなみに,更科源蔵の「アイヌ語地名解」では,別な語源も紹介されています.

 アイヌの古老の話として「岩見沢より志文よりのところにクトサンペツという川があって,その川の名を訳して岩見沢にしたのだ」とか.
 クトサンペツは知里真志保「地名アイヌ語小辞典」で調べると,どうも kut-san-pet かと思われます.
 kut- は「地層が現れている崖」や「岩棚」などをあらわし,san- は「坂」や「棚;棚のような平山」を意味しているそうです.pet はもちろん「川」ね.
 san- が,チョット怪しげで,「見る」,「見える」というような意味はどこにもないようです.うーん.
 なお,更科氏は「しかし,昔の地図にそういう名の川は見あたらない」と付け加えており,こちらの説はどうも怪しげですね.

2007年10月19日金曜日

メナシトマリ


 もう先月のことになってしまいますが,一家で札幌に(とある)コンサートを聴きにいったついでに,足を延ばして一泊し,小樽で遊んできました.
 「蝦夷地質学外伝」の最上徳内のところで触れた「メナシトマリ」の写真を撮りたかったこともあり,水族館で半日(^^;.

 いいお天気で,石狩の向うの丘陵地帯が見えます.
 アイヌたちが東風の時に待避場所として使った良港.メナシ(東)のトマリ(停泊地)です.鰊漁がさかんだったころは,漁港として栄えたそうです.いまは,トドの池として,子供たち(子どものような大人も含めて(^^;)を楽しませています.

 百数十年前,最上徳内が「ここらあたりには金の気がある」と蘊蓄をかたったその場所であることは,たぶん誰も知らないのでしょう.

2007年10月2日火曜日

林蔵の子孫

 「蝦夷地質学外伝」で,間宮林蔵の子孫が中学の同級生にいるという話を書きましたが,本日の昼頃,本人から電話がかかってきました.

 実は,今度の日曜日に,卒業してから40年目の同期会があるのです.
 幹事(名簿係・会計)を引き受けているので,最近懐かしい友人から連絡が入ります.

 “体が不自由なので,旭川に帰れないが,懐かしい”,“みんなに会いたい”とのことでした.
 ただ,それだけのことですが.

2007年9月15日土曜日

ガワー(Erasmus H.M.Gower)の伝習

副題「重箱の隅」(^^;

 「蝦夷地質学」の参「ガワー(Erasmus H.M.Gower)」の(1)で,ガワーがおこなった伝習について,少しふれましたが,どうもシックリこないので.

 ガワーの伝習項目に「小銃調練」・「分離学・測量学」・「伊太里亜語学」が挙げられていました.
 そこで「『分離学』というのはたぶん金属製錬法のことであろうし,『測量学』は地質図学・(地質)測量学に近いものであろうか」と書いてしまいました.
 ガワーが「鉱山学等も熟練致し居…」から続く文書なので,それに関連したものという前提でした.しかし,高橋輝和「シーボルトと宇田川榕庵」を読んでいたら,「日本初の化学書」という節で,「chemieという言葉が入って来るまではオランダ語のscheikundeが用いられて,『分析術』とか『分離術』と訳されていました.」とありました.つまり,ガワーの「分離学」は今の「化学」である可能性がたかいのではないかと思い始めたわけです.そうすると,ガワーの伝習はガワーの専門である「鉱山学」関係の伝習ということではなく,箱館奉行サイドの要望にそった基礎的な科目というということになるのでしょうか.
 そうなると,「測量学」も「地質図学・(地質)測量学」ではなく,普通の地理的な測量学なのかもしれません(それにしても,「伊太里亜語学」はどういう位置付けなんだろう).

 蛇足しておきます.
 「化学では分析・分離だけではなく,合成も問題になることから,榕庵は新しい名称を採用したと考えられています.彼の『舎密』という名称は明治になっても使われ…(中略)….しかし,この名称はその後,一八五〇年代に中国で作られた『化学』に取って代わられました.」(高橋輝和「シーボルトと宇田川榕庵」より)

2007年9月10日月曜日

新・博物館法

 久しぶりに,小樽にいってきました.
 小樽博物館のTさんと話をしていたら,新・博物館法の話題になりました.博物館のことはもう忘れようとしていたのですが,やっぱり気になるものです.
 以前,学芸員関係のMLで流されていたのを見たのです.第一印象は「くだらない」でした.新・博物館法は都道府県立レベルの学芸員がたくさんいる大博物館のことしか念頭にないようでした.

 よ〜く考えてみると,日本の博物館では,学芸員が一人しかいないような町村立の博物館が圧倒的多数を占めているのです.それなのに,新・博物館法は都道府県に一つ二つしかないような,したがって圧倒的に少数の学芸員が日本の博物館の将来を決めようとしているのです.

 なんだか,ほかの世界(たとえば政治とか)ととっても良くにてますね.
 圧倒的に少数の人間が,圧倒的に多数の人間の将来を決めてゆく.な〜ンか変ですね.

2007年8月30日木曜日

松浦武四郎の伝記

 蝦夷地質学外伝,其の九 「蝦夷日誌」(松浦武四郎)で,武四郎の伝記には吉田武三の「松浦武四郎」があるが,すでに入手不可能であるとし,代わりに,花崎皋平「静かな大地」や佐野芳和「松浦武四郎」が使えると書いておきました.

 最近,ほかにも伝記代わりに使える本が出たので紹介しておきましょう.

 それは,渡邊 隆(2007)「江戸明治の百名山を行く──登山の先駆者 松浦武四郎──」(北海道出版企画センター刊)という本です.北海道出版企画センターの北方新書シリーズの008として出版されています.お値段もお手頃.
 これは,松浦武四郎を登山履歴の上から紹介した本ですが,十分に伝記として使えます.
 私が武四郎の地質学的知識をとりだして紹介したように,同じ方法論で登山履歴から武四郎を解析したものです.もちろん,私の文章とは違い,武四郎は山ほど登山したので,この話題だけで,十分に一冊の本になっています.

 もちろん,例の「石狩岳登山」の謎についても載っています.

 さて,また続きを読むので,早々に失礼.

2007年8月25日土曜日

山崎有信の著書


 昨日,市街中心部に所用があったので,自転車でいってきました.
 帰り道,以前話題にした古書店が開いていたので,寄り道しました.松浦武四郎の本がいくつかあり,食指が動きましたが,所持金が少なかったのであきらめました.
 代わりにといってはなんですが,山崎有信の著書が2冊あったので買ってきました.
 一冊にはなんと著者の送呈印が押してあったので,つい(^^;

 それは「本田親美翁傳」というのもので,旭川由来の人物の追悼記のようなものです.挿入されている写真を見ているうちに,そういえば市内中心部の常磐公園に件の石碑があったことを思いだしました.
 そのうちにいってこよう.

 もう一冊は,「旭川十傑」という本で,チョット現在の感覚では理解できないのですが,北海タイムス(当時の新聞社)主催でおこなわれた,旭川在住の名士の人気投票みたいなものです.
 上位十名は「十傑」ということで,経歴とその抱負がのせてあり,その他十六名は「旭川名士」ということで,談話や論説が載っています.非常に興味深いことがたくさん書いてありますが,まだ読みこなしていないので,内容は後日.

 さて,山崎有信氏もこの旭川十傑に名を連ねており,しかもこの本の著者という妙な立場にありますが,第一章に「著者の経歴」として,92頁にわたり,自叙伝が書いてあります.まさに「苦学力行」という言葉がピッタリな人ですが,当時平民から成り上がるには当たり前のルートだったのかも知れません.
 さて,この自叙伝ですが,山崎氏が大正五年に弁護士試験に合格した時に,謝恩会を催し,その時の“演説”を速記したものを「判検事試験及第術」という本にして,それを流用したものだそうです.これはこれで面白いのですが,“演説”ということもあり,事件の正確な年月日など抜けている所も多いので,紹介するにはまだ時間が必要なようです.
 また,この本の発行が大正十二年ということで,その時には著者がまだ活躍中なので,それ以降のことについてもわかりません.

 でも,思っていればいつかは叶う様な気がしてきました.

2007年8月23日木曜日

「ウイル船長回想録」

 いま.ブラキストンについての原稿(蝦夷地質学外伝)を書いている最中です.
 ブラキストンの資料にジョン=B.=ウイルのことがでていました.「ウイル船長回想録」(杉野目康子,1989訳;道新選書)のことは,以前から知っていましたが,一時入手しようとした時に「品切れ」もしくは「絶版」ということで,放棄していたものです.ブラキストンについて書くに当り,一度読んでおく必要があるかと,市立図書館から取り寄せました.

 読んでみてびっくり,少年時代に夢中で呼んだ冒険小説のような内容です.これなら,子供たちが夢中になれるビデオ=ゲームのあらすじとしても使えるかも知れない.惜しむらくは,訳者が女性なので,言葉がやわらかく,海の男の回想録としては,いまいち乗りきれません.いえ,決して訳が下手なわけではありません.もうちょっと,べらんめえ調の方が,楽しめるかと思うだけです.
 それにしても,メルビルの「白鯨」のような世界が,函館を舞台にごく身近にあったことに驚きました.そして,残念なことにこの本はすでに「絶版扱い」で,入手不可能なのです.

 上海から箱館へ,ブラキストン大尉を運んだのは,このウイル船長(当時は水夫)がスタッフを務めるエバ号でした.数ヶ月後,ブラキストンを上海まで連れて返り,翌々年には,二等航海士として,アキンド号でブラキストンのために製材機器を箱館まで運びました.
 ウイル船長は,主にブラキストン&マール社やその親会社である西太平洋商会で働いていたため,箱館で起きた事件を克明に記録しています.箱館海戦で甲鉄艦が発射した大砲の弾が,ブラキストン邸の窓から飛び込み,居間を横切って食堂を通過し,家を飛びだして,牛の飼葉桶を粉砕した話や,それでも平然と食事をしていたブラキストンを活写しています.

 また,数年後,ウイル船長が座礁した船を救出に来た時に,箱館戦争の一方の雄であった榎本提督に出会い,手助けをしてもらった話など,興味深いエピソードが満載です.ウイル船長はこの時に青函連絡船の前身ともいえる定期航路についていたのですが,こちらの仕事は,黒田清隆配下の役人に邪魔されて,撤退せざるを得なかったのに,榎本は積極的にウイル船長を援助しているのが面白い.
 ただし,このエピソードはこれまでしられている榎本武揚の蝦夷地巡検の行程とは矛盾することがすでに指摘されています.

 とにかく,この本を入手しない手はない.
 さっそく,古書店に手配しました.

 北海道新聞さん.この本を復刊してください.儲けるためだけではなく,文化のためにやってんでしょ.出版業を.

2007年8月16日木曜日

「アイヌ語地名と伝説の岩」

 由良勇さんから「アイヌ語地名と伝説の岩」が届きました.
 お盆前に届いたのですが,支払いを済ますまでは私のものではないと考えてますので,保留にしてました.

 私が一番に興味があったのは,もちろん,「付録」の「忠別太大番屋」についてなんですが,残念ながら,書かれていることは「旭川市史」の記述とほとんど変わりありませんでした.もっとも,永年郷土史をやられている由良さんがこうまとめているのだから,現状では「これが最大限知られていること」ということで,これで区切りがつけられます.

 もう一つの付録である「旭川市内石狩川本支流変遷図(六葉)」をみて,放り出してある作業を思い出してしまいました.明治中頃からいくつかの市街図が残されていて,平成14年というから西暦2002年に,財団法人日本地図センターから「地図で見る旭川の変遷」として,まとめて発行されているんですが,それから旭川市内を流れる川を抽出して,流路変更を図化したいと考えて,途中までやって放り出していたものです.(どうでもいいですが,発行年を元号表記だけにするのはやめてもらいたいですね.最低でも西暦と並記してもらわないといちいち換算しなければならない.自衛隊の海外派遣は「グローバリズム」なのに,こういうところは「ナショナリズム」?と勘ぐってしまう)
 娘が小学校にいるうちに「郷土史資料」として,使えるように...と,思い...いつの間にか,娘は中学生になってしまいました.(^^;
 いってることが,よくわからない?
 たぶんそうだろうと思います.上川盆地,特に旭川市街地を流れる河川は,たぶん他に例がないほど流路が変えられています.市街中心部にある「常磐公園」を,昔,中島公園とも呼んでいましたが,子どものころは「なんで島でもないのに中島?」と思ったこともあります.つまり,昔は中島だったんですが,今は別に川に挟まれているわけではないんです.つい最近でも,「永山新川」というのができまして,春秋に渡り鳥が羽を休めにくるので有名になりつつありますが,これらはじつは洪水対策の結果なんだそうです.
 明治になってから,意図的に軍都としてつくられた旭川は,本州の旧い都市とちがい,洪水対策の歴史的蓄積がないので,非常に洪水に弱い所があります.だから,市街地ができた後からでも大規模な流路変更がおこなわれていて,時代のちがう地図を並べると,驚くほど「河川」の形が変わっているのです.そして,歴史的蓄積がないぶん,たぶん,本州と同じような程度のハザードマップを作っているだけでは,いつか足をすくわれそうな気がします.

 さて,本文ですが,もちろん題の通り,神居古潭周辺のアイヌ語地名と,点在する岩にちなむアイヌの伝説を紹介したものです.掲載された旧い写真を見ていると,子どものころ,春や秋の行楽シーズンに町内会で神居古潭の岩の上でジンギスカンなどをやったことを思い出してしまいました.この本を持って見物に行こうかなあと,考えてしまいました.

 もうひとつ,紹介しておかなければならないことがあります.
 この本はあくまで郷土史の範疇にはいるものなんですが,本文に入ってすぐに,「神居古潭の地質・地形と上川盆地形成経過の概要」として,神居古潭帯を中心とした,北海道の地質構造発達史が紹介されていることです.地質構造発達史も,郷土史の一つとして取り上げられている.ありがたいことです.
 いくつか間違いや誤解がありますが,これは地質屋が普及下手なことの反映なんだろうと思います.何とかしたいものです.

2007年8月11日土曜日

旭川と山崎有信



 山崎有信(やまざきありのぶ)という人がいました.
 「大鳥圭介傳」の著者であることは,すでに図書館で調べていたので知っていました.
 幕末のオランダ留学生らの,特に榎本武揚の「地質学」について調べていた私は,その関連で大鳥圭介にも興味を持ったというわけです.大鳥圭介は榎本武揚と長崎海軍伝習所からオランダ留学をへて,箱館戦争の戦友でもあり,その後の北海道開拓にも共に従事した人物です.

 ある日,市内の某古書店で,偶然に山崎有信の著作をみつけ,彼が「大鳥圭介傳」だけではなく,幕末から明治にかけてのさまざまな出来事を記録していることを知りました.同時に,彼が旭川に住んでいたことを知り不思議な気持ちになりました.
 さっそく,「旭川市史」を調べたのですが,著作については記録がありましたが,「山崎有信」という人物がわかる記述ではありません.膨大な著作を残しているわりには,忘れられてしまった人物のようです.しかし,旭川の歴史にとっては重要人物と思われます.以来,機会を見ては山崎有信の著作を探しており,いくつかは入手したのですが,とても,満足の行くものではありません.

 そうはいっても,これ以上ドラスティックな進展は期待できないので,これまで知りえたことを,記録しておきたいと思います.

 「山崎有信氏は,明治三年福岡県企救郡曽根村に生る.幼より学を好み,神童をもって近郷にその名を称せられしも,不幸にして家計豊かならざりし為,小学教育さえ中途退学の止むなきに至る.氏,修学の念禁ずる能わず,或は徒弟となりて仏門に入り,或は書生となりて苦学力行,遂に明治二十九年関西法律学校を卒業し,同時に奈良県監獄書記となる.以後内務省,陸軍省,馬政局,拓殖局等に奉職し,官海の風浪を浴びること十有五ケ年.大正五年に至り,旭川市に事務所を開き,弁護士として訴訟事務に従事し今日に及ぶ.北海道法曹界の元老たり.」
 「氏,また著述を好み,文章に巧みにして,亦和歌に錦心を流露し,殊に彰義隊の研究に於ては当今氏の右に出づる物無し.」
 「温容人に接して圭角なく,淡々談じ来って障壁なき立志伝中の紳士である.」
 (以上,「幕末秘録」末尾,「著者紹介」より.同文は「北海道市町村総覧」津守篤著からの引用である)

 存命中の著作ですので,死亡年は不明です.

 「旭川市史」では,唯一の本文中の記述になるエピソードは,第一巻の「市政」のところにあります.
 昭和三年に,「臨時市史編纂委員会」が設置されました.
 すでに大正四年,大正天皇即位の記念事業の一つとして,「旭川区史」の編纂が計画され進行していましたが,紆余曲折の末,まだ完全ではないということで,「委員会」が設置されたのです.
 その後,完成した市史を昭和六年八月に印刷するにあたって,校正を務めたのが,弁護士・山崎有信でした.(山崎の判断によれば)結局,完全というには程遠いということで,市史ではなく,「旭川市史稿」として,昭和六年十二月に発行されたそうです.

 次に,「旭川市史」(第三巻)ほかから,山崎有信の著作について記しておきます.

1911(明治四十四)年,「野辺地戦争記聞」(東京,上野彰義隊事務所)
1911(明治四十四)年,「彰義隊琵琶歌」(東京,博文館)
1913(大正二)年,「彰義隊戦史」(著者発行)
1915(大正四)年,「大鳥圭介伝」(東京,北文館)
1917(大正六)年,「彰義隊顛末」(東京,上野彰義隊事務所)
1923(大正十二)年,「旭川十傑」(博進堂)
1926(大正十五)年,「天野八郎小伝」(旭川,博進堂)
1926(大正十五)年,「幕末史譚 天野八郎伝」(旭川,博進堂)
1927(昭和二)年,「本田親美翁伝」(旭川,旭屋書店)
1928(昭和三)年,「幕末血涙史」(東京,日本書院)
1929(昭和四)年,「戊申回顧 上野戦争」(東京,上野彰義隊事務所)
1929(昭和四)年,「陪審裁判 殺人未遂か傷害か」(東京,法律新報社)
1929(昭和四)年,「大旭川建設へ」(東京,日本書院)
1932(昭和七)年,「奥士別親子地蔵の由来」(著者発行)
1933(昭和八)年,「日露戦争の懐旧」(著者発行)
1937(昭和十二)年,「胎教に就て」(東京,上野彰義隊事務所)
1937(昭和十二)年,「能行口説」(東京,上野彰義隊事務所)
1938(昭和十三)年,「五稜郭」(東京,日本書院)
1939(昭和十四)年,「護れ傷痍の勇士」(東京,日本書院)
1939(昭和十四)年,「豊前人物志」(著者発行)
1940(昭和十五)年,「旭川市功労者伝」(東京,日本書院)
1941(昭和十六)年,「大鳥圭介南柯紀行」(東京,平凡社)
1943(昭和十八)年,「幕末秘録」(東京,大道書房)

発行年不詳,「判検事弁護士試験答案集」(不詳)
発行年不詳,「判検事弁護士試験及第術」(不詳)
発行年不詳,「古社寺保存,法註解同,保存手続 古社寺保存便覧」(著者発行)
発行年不詳,「彦夢物語」(不詳)
発行年不詳,「上野彰義隊」(不詳)
発行年不詳,「日露戦没忠死者 建碑並招魂社合祀手続」(著者発行)
発行年不詳,「実例競売法手続」(不詳)

 ほかにも,「近刊」・「未刊」でいくつかの書名があがっているのですが,未確認なので割愛します.なお,旭川市立図書館には十五冊の蔵書しかなく,いずれも禁帯出扱いなのが残念です.

2007年8月10日金曜日

由良勇さん

 先日,市内の本屋をぶらついているときに,「上川郡内 石狩川本支流 アイヌ語地名解」という本をみつけました.最近はやりの自費出版・アイヌ語地名解の一種かなと思い,手に取ってみると「北海道出版企画センター」の本でした.それにしては構成が素人っぽいなあと思いながら,眺めていたら「参考文献」欄に「アイヌ語地名と伝説の岩」(由良勇著)があがっているではありませんか.

 8/4付けで,「忠別太の大番屋」について「旭川市史」・「新旭川市史」の記述をまとめておきましたが,念のためと「忠別太」・「大番屋」でグーグルと,この本に「記述がある」と出てきます.しかし,その出版社が聞いたことのない会社だったので,入手を保留にしておいたものです.もちろんAmazonなどでは扱っていませんでした.
 もしかしたら,入手可能なものなのかも知れません.
 さっそく,そこの本屋で調べてもらいましたが,通常のルートにはないという回答でした.そこで,市内最大手の書店に,Faxにて「書籍検索」の依頼を入れておくことにしました.回答はやはり「通常のルートにはなく,取り扱っていない」ということでしたが,その後がラッキーでした.市内に「マルヨシ印刷」という会社があり,そこに「その本の在庫があるらしい」というのです.
 一呼吸おいて,「マルヨシ印刷」に電話をしました.
 落ち着いた声の女性がでたので,「由良勇さんの著作について聞きたい」と訊ねると,「では,本人に代わります」.

 「エッ!..本人って!!」(いやあ.びっくりした)

 予期せぬ本人の登場に,かなり戸惑ってしまいましたが,首尾よく入手することができそうです.振込用紙同封で郵送するので送金してくれとのことでした.
 チョットお話ししたかったのですが,やっぱり動揺してて,本の購入についてしか話せませんでした.縁があればまたお会いできるでしょう.

 想像ですが,たぶん,由良勇さんは在野の郷土史家で,成果を自分の会社から自費出版していたのでしょう.最初に出てきた「上川郡内 石狩川本支流 アイヌ語地名解」はやはり「マルヨシ印刷」で,自分で編集して印刷したもののようですが,流通だけは「北海道出版企画センター」でやっているのでしょう.だから,市内の本屋にも置いてあったというわけですね.

2007年8月4日土曜日

忠別太の大番屋


 「忠別太大番屋」は,わが故郷・旭川では,和人のものとしては一番最初にあったとされる建物です.「蝦夷地質学」では「其の六 ライマン(Benjamin Smith Lyman)」の「ライマン・ルート」に少し触れています.

 「蝦夷地質学」では,「正確な位置およびその規模についてはハッキリしていない」としておいたんですが,「旭川市史」・「新旭川市史」にはもう少し詳しく書いてあるので,補足しておきたいと思います.

 文化四(1807)年,それまで松前藩が経営していた石狩場所が江戸幕府直轄となります.
 「〜場所」とは蝦夷地をいくつかに区分けしたもので,本州と違い「米」のとれない蝦夷地では,家臣にあたえる「禄」の代わりに場所をあたえ,そこからあがる収益を報酬としていました.当初は,アイヌとの直接交易をもって利益をあげていましたが,のちに効率の悪い自営よりも,商人に貸しあたえて権利金を受け取る方法が主になります.
 この商人を「場所請負人」,建物を「運上屋」,料金を「運上金」と呼びます.請負人は「支配人」や「通辞」・「番人」を場所に送り込み交易をさせていました.
 ところが,商人が入り込むと,アイヌと「交易」するよりも,アイヌを働かせて「漁業を直営」した方が儲かることに気付くには時間はかかりません.アイヌに売り渡すものを高価に,労働の対価は低くすることで,いくらでも儲かるシステムにすることができます.必然的に場所での労働は,奴隷労働と化してゆくことになります.
 そういう背景があることを,理解しておいてください.

 文化八(1811)年,伊達屋・栖原屋・阿部屋(あぶや)の三軒が石狩場所を請け負い,文化十二年には阿部屋が石狩場所を独占します(当時の当主は村山伝兵衛(六代目)というらしいのですがハッキリしません).つまり,江戸幕府の直営とはいいながら,“交易システム”は変わらなかったようです.

 そして,幕府の蝦夷地再直轄後の安政二(1855)年四月に阿部屋が提出した書類の中に,忠別太の大番屋の記述が見られます.

 上川チユクヘツブト
 一.番家 壱軒 桁間 五間半・梁間 三間 (縦:約10m,横:約5.5m)
 一.板蔵 弐軒 桁間 三間・梁間 弐間半 (縦:約5.5m,横:約4.5m)

 ただし,これがいつからあったものかはハッキリしません.
 また,まじにこれを「大番屋」と呼ぶにはつらいかも知れませんね.ただし,武四郎の記述には「むかしは相応の家なりし由なるか.当時は本の形斗の小屋也.酉年の洪水までは此二丁斗下に有りしか,崖崩れて流し故今此処へうつせしとかや」とあり,これは今は“大番屋”だけれども,洪水前の建物は本当に「大番屋」だったともとれる記述です.

 「新旭川市史」では,松浦武四郎(安政四),高畑利宜(明治五),ライマン(明治七)の記述を「忠別太の大番屋」と認めていますが,近藤重蔵(文化四)の記述:チユクヘツブトに「番屋が一棟」その近くに「家屋が弐軒」描かれていることを認めているものの,「にわかに(おなじものと)断定することはできない」としています.つまり,付属する二軒が板蔵とも民家とも判断できないので,この「番屋」が「大番屋」とすることはできないという論理です.「大番屋」以前の「二丁ほどチユクヘツ川を下った所」にあった旧い番屋である可能性を指摘しているのでしょうか.
 あまり整理がついていなくて,「新旭川市史」の記述ではよく理解できませんが,いつからあったものかはハッキリしないというのが「公式の見解」というところで我慢するしかしかたないようです.

 さて,松浦武四郎(安政四)のときにはまだ使えた“大番屋”も,高畑利宜(明治五)のときには,草小屋(“大番屋”のこと)は「空家にしたる為大破」しており,板蔵は○に「十五」の阿部屋の印が残っているものの一棟しかありませんでした.
 ライマン(明治七)のときには,目にしたのは「板蔵一棟」のみで,“番屋”については記述がありません.すでに無くなっていたのでしょうか.
 開拓大判官・松本十郎が明治九(1876)年6月17日(すでに太陽暦が使用されているはずなので,月日は漢数字では表記しない)にここを訪れ,「板倉一棟」が残っていることを記述しています.そして,その屋根の上から上川盆地を眺め,草原や雑木林・その間に流れる河川を見,石狩岳の麓まで見わたせることに感動しています(石狩岳は上川盆地からは見えません.この“石狩岳”はたぶん,大雪山連峰の旭岳のことしょう).「市史」では興味深いエピソードして,これ取り上げていますが,これには若干の違和感があります.「番屋」の周辺は草原だったとしても,また,板倉がどんなに立派でも高さが5mもあったでしょうか.巨大な原生林の密生する上川盆地で,そんなに見通しが良かったのでしょうか.

 もひとつ.
 「番屋」は「新旭川市史」によれば「軽物・干鮭などの交易に使用されるものだった」とされていますが,軽物はともかく,鮭は海岸地方で十分に獲れたはずですし,神居古潭では舟は使えないので,運搬が困難で鮭は扱わなかったろうと思います.
 また,「旭川市史」では「毎年秋の末出稼ぎアイヌの上川へ帰るとき,番人一名,時には二名同伴,丸木舟で石狩川をさかのぼり,忠別太に来て越年,冬中アイヌの狩した熊の皮や熊の胆・かわうその皮・狐や狸の皮等を集め,翌春氷とけて舟の通ずるようになると,酋長とともに労働に堪えるアイヌを引きつれ,数隻の丸木舟で石狩川を下る.」とあります.
 最上徳内や間宮林蔵の頃と比べて暖かくなっているとはいえ,旭川です.草小屋で和人が越冬できたという話はどうも眉唾です.とはいえ,上川アイヌを石狩場所まで連れて行く必要はあったでしょうから,越冬はしなかったものの高価な「熊の胆」や「毛皮」を集めるのと同時に,人集めに石狩場所からやってきた番人はいたのでしょう.

2007年7月19日木曜日

正断層・逆断層

 先日,うれしいニュースが入りました.
 函館の岩間先生と中嶋先生がやっている「渡島半島の自然を訪ねて」というHPの記事に,お礼のメールがはいったそうです.
 「正断層と逆断層」の違いが,どのHPの解説を見ても「いまいちピンとこなかった」のが,「渡島半島の自然を訪ねて」上の記事で「ああ、こういうことか、と明快に理解しました」とのことです.

 なんのことか知りたい人は,リンク欄から「渡島半島の・・・」の解説記事「資料を見る」から「正断層,逆断層って何?」をごらん下さい.

 記事中にもありますが,この話しは私が,我が師・湊正雄教授の授業中の雑談を中嶋先生に教えたことから始まります.

 いろんな人に見てもらうためにやってることですが,こうやってお礼のメールが来るなんて,うれしいことですね.私にとっても,湊先生のエピソードが役に立つなんて,うれしいことはなく,二重の喜びです.

 先日の新潟での地震の時も,TVで地震学者と称する人が,「今回の地震は逆断層で前とタイプが同じ」とかいってましたけど,何を説明してるのかよくわからんですね.
 「逆断層と横ずれ断層では地震の質が違うんかい!」とツッコミ入れたくなりますが,彼らはそれでなにかを説明したつもりなんですからね.

 こんな説明では(+いろんなHP上でおこなわれている断層の解説では),地表に見える「地割れ」を引張による正断層ではないかと勘違いする人が出てきても,不思議ではありません.
 TVで,いい加減な情報やトンチンカンな解説をまき散らす「学者」にはウンザリです.

2007年7月11日水曜日

武四郎「日誌」購入始末

 いま,「蝦夷地質学外伝」の松浦武四郎のところを書いています.
 幕府への報告書が「北海道出版企画センター」から,「一,二,三航」と「廻浦」・「丁巳」・「戊午」の日誌類として現代語訳されて出ているので,見直しておこうと思いましたが,当市の図書館にはその手の本は,ほとんどありません.まれにあっても,「閉架」で「禁帯出」なので,役にたたないのです.
 また,当地の大学の図書館にもこれらはなく,系列大学の図書から借り出すことになります.

 「うーん」

 それでは,買ってしまえと決意.
 インタネットで調べたところ,当市のほぼ中央に位置する古書店に,ほぼそろっていることが判明.
 見に行って,程度がよければ買うかと決め・・・.
 札束そろえて(全部で8万位します),今朝,開店時間に合わせて自転車で行きました(そこらあたりは古い町並みで,駐車場所なんか無いのです.すぐ裏に市立図書館があるのですが,ここにも公設駐車場がない!).片道約二十分でした.

 やっと着いたと思ったら,開店はしていますが,玄関に「外出中」の看板.「ん.いい商売してやんな.しゃあない少し待つか」と,20分.30分待っても帰ってこなかったら止めようと,決心.

 結局,店番の人は帰ってきませんでした.

 縁がなかったのね.結局,往復40分のサイクリングになりました.

 それにしても・・・,なんちゅう文化都市かなあ・・・.

2007年7月1日日曜日

授業「北海道の化石」

 最近,忙しくって書くペースが落ちてますね.
 七月五日に,旭川の北星公民館で「北海道の化石」についてお話しします.「女性大学」というのがあるんだそうですが,その中の授業の一つとしてですね.

 旭川で,「地球と生命の歴史」を市民相手にお話しするのは,一つの夢でしたから,たいへんにありがたいことだと思っています.そういう仕事が出来ればと思って旭川に「Uターン」してきたのに,市教委からはそんな人はいらないっていわれましたからね.

 マスコミで,「環境」って言葉がでない日はないのに,根本である「地球と生命の歴史」に関する扱いってのは,最低っていっていいんじゃあないでしょか.

 旭川にも大学がいくつかあるンですが,この間調べたら「地球と生命の歴史」に関連する授業をおこなっているのは(私が非常勤でいってる大学を除いて),二校でした.しかし,いずれも関連する標本は「一つもない」と答えてます.つまり,「生命の歴史」をやりながら,「化石」一つ見たことがない学生を育ててるってことです.

 これはまあ,ある程度しかたのないことなんですね.というのは,一校は現世の生物学の先生が教えており,もう一校は(自称)「木製バットの専門家」が教えているそうです.要するの畑違いの人がやってるんですね.大学も経営がきついですから「地質学」や「古生物学」の専門家なぞ置く余裕がないということでしょう(フム.これが,昔の地質学科がみな「(地球)環境学科」に看板かけなおしてる理由か).
 「化石」を見たことがない先生が「化石」について授業をして,「化石」を見たことのない学生が卒業していってる・・・.

 いま,非常勤でいってる大学でも,自分のコレクションの中から関連するものをさがして授業で使ってますが,大学自体には「一つの標本」もありません.

 「女性大学」の講演では,できるだけたくさんの化石を見せるつもりですが,そうすると,旭川の“大学”で,一番標本をつかってる大学になったりして・・・.

2007年6月21日木曜日

釜次郎 北へ?

古書店から二冊の本を入手しました.
阿部たつを(1973)「函館郷土随筆」(北海道出版企画センター)と,
阿部たつを(1965MS)「函館炉辺閑話」(阿部たつを,自費出版)です.

 きっかけは,「大野土佐日記」のことが書かれているという情報からです.この話も興味深く読ませていただきましたが,別に記録しておかなければならない事項がみつかりました.

 地団研・北海道支部HPで公開中の「蝦夷地質学の伍」,「榎本武揚(4)若き日(箱館留学?)」のところで,釜次郎がつくったとされる漢詩(の和訳)を引用し,井黒弥太郎氏の考察を紹介しました.井黒氏の著作は「榎本武揚伝」(1968)と「榎本武揚」(1975)であり,二冊ともに同様のことが記されています.この漢詩は榎本武揚の二男である春之助翁から井黒氏に示されたものであるとの記述でした.
 ところが,阿部たつを氏によると,神山茂さんから教えられたとして,雑誌「旧幕府」(第四号)から問題の詩を引用しています.阿部氏は「柳川熊吉と榎本武揚」の関係,「榎本武揚と堀織部正」の関係を論じているのですが,この記録は前述のように1965MS(?)と1973なので,詩の紹介は明らかに阿部氏の方が早いのです.

 また,井黒氏が竹内運平のノートに書かれてあったのをみたと紹介した「ペルリノ日本ヘ来タリシ時分,余ハ樺太ヲ跋渉シ,箱館ノ船問屋佐藤軍兵衛ト言フ者カラ地図ヲ得シガ故ナリ」という榎本談話は,阿部(1965MS)によると雑誌「旧幕府」(第五号)に「榎本子談話」として載っていることが示されています.つまり,この件に関しては,阿部たつを氏のほうが初出が早いし,正確だということになります.

 では,その「榎本子談話」を再録しておきましょう.

「函館戦争の時,鷲ノ木へ兵を上陸せしめ,本道と間道の二手に別れて進み,或は松前を撃ちし時,吉岡峠の敵を敗る為に,間道に兵を送りしも,蝦夷の地理を知りし故なり.此の地を知りしは,ペルリの日本に来たりし時分,余は蝦夷を跋渉し,函館の船問屋佐藤半兵衛と云ふ者から地図を得しが故なり」

 ついでに,同誌第四号の榎本の漢詩を示しておきましょう.

 失 題     榎本 梁川

 靺鞨之山青一髪 我行至此漸堪豪
 宝刀横処鬼呵護 胡馬嘶時風怒唬
 短鞨早天衝暁霧 孤帆残月乱秋濤
 扶桑南望三千里 頭上驚看北斗高

(付記:榎本釜次郎氏十八歳にて堀織部正に従ひ蝦夷地を跋渉せし時に吟ぜしものなり)

 阿部たつを(1965MS)からの引用を続けます(ただし,榎本はこの年まだ「釜次郎」を名のっていたはずなので,原著の「武揚」は「釜次郎」に訂正させていただきます).

 釜次郎十八歳は嘉永六年で,まさにペリーが日本に来た年である.
 釜次郎が織部正に従って蝦夷地を跋渉したのは十八歳(嘉永六年)とあるが,織部正の蝦夷地巡視は翌安政元年であるから,釜次郎十九歳の時であろう.

2007年6月9日土曜日

最近の和訳本

 どうも,最近は本を読むのがつらいですね.
 頭がだんだん悪くなっていっているせいか((^^;),本の内容がスムースに頭に入ってこなくなっていますねえ.若い頃は,読むのに時間はかからなかったし,すぐに頭に入ってきたんですがね.「年はとりたくないもんだ」とあきらめかけていると,そうじゃあない本もあることに気付きました.
 読むのに時間もかからずに,すぐに頭に入ってくるんですね.

 もちろん,興味ある分野かそうでないかでも読むスピードや理解に差が出てくるのは当然でしょうけど,そういうことではないようです.
 だいたいその現象は,外国で出版されて和訳された本に多いようです.
 信じられないことに,原文が悪いのか訳し方が悪いのか,ほとんど日本語になっていないんですね.そういう風にAmazonのレビューで書いたら,反応がありました.原著のせいではなく訳者に問題があるんだそうです.
 “まるでPCの翻訳ソフトの訳そのままだ”というよな書き方でしたね.“原著はいいので原著を読め”とも書いてありましたが,もっと読むのが遅くなりますね(だいたい,「原著の方がいい」では,和訳本のレビューになってませんよね(^^;).専門用語の訳し間違いもおおいし,だいたい文自体が日本語になっていないそうです.

 そーか.私の頭が悪くなったせいじゃあなかったんだ((^^;).
 ホッとしたのもつかの間,腹たちますよね.そういういい加減な翻訳者と編集者のせいで,いい本が駄本になって,読む人が少なくなってゆくなんて….
 ただでさえ,本を読む人が少なくなっているのに,出版関係者自体が自分で自分の首を絞めてるなんて….
 え? 売れる本は別にあるからいい? なるふぉど...

Amazonのレビュー

 Amazonから本を買おうと,レビューを読んでいると妙なことに気付きました.
 すでに読んだ本についてのレビューをながめていたら,どう見ても公正とは思えないものがあります.いわゆる“提灯記事”に近い感じ?
 それは最初に投稿されたレビューに多いようです.
 ひょっとして出版関係者(作者or訳者or編集者)の作成したものなのかな?

 お金をドブに棄てたような気がする本なので拙い点を指摘したレビューを投稿すると,最初の二人ぐらいは「参考にならなかった」という評がつきます.その後「参考になった」という評が増え,さらに拙い点を指摘したレビューが増えていきます.
 ひょっとして,最初の二人はその本の関係者なのかな?

 ま,本の評価を一番気にしてるのは,その人たちでしょうけどね.
 
 最近は「カスタマーレビューは他のお客様により書かれたものです。ご購入の際はお客様ご自身の最終判断でご利用ください。」って但し書きがついてるようですね.

 もちろん,良いか悪いかの判断は個人によってかなり異なるから,どんなにひどい本でも「いい」って人もいるし,どんなに良い本でも「悪い」っていう人がいるのはしかたのないことなんだけど,レビュー数のすくないものは,公平性に問題があるかも・・と思って読んだ方がいいでしょうね.

2007年5月3日木曜日

青色片岩


 赤色チャートと同様に,神居古潭帯によく見られる岩石.
 この街では,やはり「神居古潭帯」からの岩石を庭石に使うひとが多いのです.

 似たような岩石に「緑色片岩」・「黒色片岩」などがあり,いずれも堆積岩が低レベルな変成作用を受けた岩石です.「変成作用」とは,「熱と圧力」によって,もとの岩石とはちがう鉱物ができたり,構造が変えられてしまうような作用の総称です.うすく剥げるような「片理」をもっている弱変成岩を「片岩」といいます.変成帯の中央部へ行くにしたがって,もっと高度な変成岩になりますが,「片岩」はふつうの堆積岩と変成岩の境目あたりの岩石と考えたらいいでしょうか.

 では,「黒色」・「緑色」・「青色」などの色のちがいは何なのでしょう.
 「黒色片岩」は,よく見ると,黒だけではなく「黒と白」の縞模様になっているのが判ります.ところで,砂粒サイズの「砂岩」から泥・粘土サイズの「泥岩」までがリズミカルに積み重なっている様子を表現して「砂泥互層」といっています.これは海底の斜面にふつうに見られる堆積岩です.実は,黒色片岩はこの「砂泥互層」が変化したものなんです.黒は泥岩の部分が変化したもの,白は砂岩の部分が変化したものでした.
 「緑色片岩」の「緑色」は,火山噴出物(とくに「塩基性のもの」)が変化して緑色の鉱物ができ,弱い変成作用をうけて「片理」が加わったものです.
 つまり,日本のような大陸と海洋の境目あたりにある地域では,よく見られる岩石が変成作用を受けるとその変成帯の縁辺部にみられるのが,「黒色片岩」・「緑色片岩」ということになります.

 では,「青色片岩」は?
 「青色片岩」の「青」は,変成作用によってできたまったく新しい鉱物の色です.困ったことに,この青色の鉱物は「黒色片岩」や「緑色片岩」とはまったくちがった条件でしかできないのです.言ってみれば,「黒色片岩」や「緑色片岩」は変成帯の縁辺部の「低温・低圧」でふつうにできる変成岩と考えることができますが,「青色片岩」の青い鉱物は,「低温(ですが),高圧」の条件でないとできないものなのです.
 そうすると,変成帯の縁辺部に「低温(ではあるが),高圧」という,特殊な環境を考えなければならなくなります.しかし,「青色片岩」は「黒色片岩」や「緑色片岩」とにたような場所にでてくるのです.これはいったいどういうことなのでしょう.

 むかしは,山脈ができる中央部が変成帯の中心部で「高温高圧」,外側に向って徐々に「低温低圧」になり,一番端はふつうの堆積岩になっていると考えられていたのですが,「青色片岩」の存在は,そうではないことを「無言」で訴え続けてきたわけです.

 現在では,海底に降り積もった堆積岩が,プレートの移動によって大陸の下に引きずり込まれたためにできたと考えられています.大陸の縁辺部で沈み込む海洋プレートは「温度が低く」,沈み込むために「圧力が高い」.ということで,「青色鉱物」の誕生が説明できるわけです.

 おかしいなと思ったひと.あなたは偉い.
 まだ,「青色片岩」が「黒色片岩」や「緑色片岩」とにたような場所にでるということが説明できてませんよね.
 「赤色チャート」のところで,斜面を滑り落ちて「グチャグチャ」になったのを「メランジ」というと説明しましたが,これは「堆積性のメランジ」のこと.べつに,「構造性のメランジ」というものもあって,大陸プレートと海洋プレートの境目などで,地層がもみくちゃにされて,もとの構造がわからなくなったものを指しています.これで,別な条件の下でできた岩石も「同居」できるというわけです.(ふー,なんとか説明できた(^^;)

 最後に言い訳しときますと,私はまだ「地向斜造山論」の世界で生きてる「生きている化石」((^^;)なので,この部分のプレート・テクトニクスによる説明がプレート論者による説明と一致してるかどうかは知りません.専門家に訊いてもなかなか教えてもらえない部分です.

2007年4月30日月曜日

熔岩(安山岩質熔岩)


 日本では最もありふれた岩石.

 「安山」は南米の「アンデス山」の意味.太平洋を取り巻く火山帯は安山岩質の岩石が多いので,安山岩線と呼ばれています.
 約三百〜二百万年前に,北海道のあちこちで同様の熔岩を流す火山活動がありました.これらをまとめて「平坦熔岩」といいます.
 表面に見える穴は,熔岩が地表に吹き出したために,圧力が低下しガスが発生.気泡ができたもの.気泡が方向をそろえて,並んでいるのは,溶岩の流れの方向に沿って延びたためです.
 「鉄平石」という石は,この溶岩の流れた方向に板状に割れやすくなった石のこと.

 この石は,北海道中に(日本中に)普通にある岩石なのに,一般のひとにチョット判りにくいものになっています.
 それは第一に,もともと「アンデス山脈中のある地域に産する岩石」につけられた固有名詞なのに,同様の岩石が太平洋を取り巻く地域に産出するので,それにも普遍的に使ってしまい普通名詞化してしまったことにあります.昔は,日本に産出するものには「富士岩」の名前も使われていたことがあります.
 第二に,もともと「アンデス山脈中のある地域に産する岩石」につけられた固有名詞,もしくは「環太平洋によく見られるある種の火山岩」につけられた普通名詞なのに,岩石の研究が進むにつれて,岩石の化学成分をあらわす言葉としても使われるようになったこと.このことが判っていないと,一般のひとには「安山岩質玄武岩」とか「安山岩質流紋岩」とかいわれても,理解ができませんね.

 それだったら,「これは安山岩です」などといわずに,「これは熔岩です」と説明すればいいものを,知識が売り物の学者はどうしても「安山岩です」といいたくなる.ところが,「ホントに安山岩ですか?」と訊かれたら,知識がありすぎる学者は逆に困るのだ.「えーと,薄片をつくって顕微鏡で見てみなければ…」とか,「化学分析してみなければ…」になってしまう.でもそこまでしなければ,岩石に名前がつかないのでは「どーか」と思う.みれば,やっぱりこれは安山岩質の熔岩なのだ(玄武岩に近いかも知れないけれど(^^;).

 もひとつ.
 実は「熔岩」であるかどうかも条件が良くないと判らない.地表に出てきたために発生したガスの跡である気泡とか,空気や水に触れて急冷したためにできたガラス(急冷周縁相という)であるとか,熔けて流れた構造がなどが見えないとね.それでも,不思議なもんで,見れば何となく判ってしまうのですが.

 ももひとつ.
 写真の岩石はT字路の突き当たり側にある民家に,突き当たりをふさぐ様に置いてあります.
 これは「古典風水」の考え方から来ています.
 風水では「気」の流れというものを考え,道路や川あるいは山脈はこの「気の流れ道」ととらえています.T字路の突き当たりでは,この気の流れの影響がもろに「突き当たりの民家」に影響をあたえるととらえるのです.
 この気の流れは「良い」とか「悪い」とかに関係なく,ただ「強い」ものですから,「平穏な生活にはむかない」と考えるのです.「古典風水」は誰でも結論が同じになるので,ある種の“科学”でした.そのころは本来,風水ではこういうところに家を建ててはいけないので「引越なさい」ということになります.
 王侯貴族相手の「風水学」だった頃はそれでも良かったのですが,世の中が変わってそれほどお金持ちではないひとも相手にしなければならない「風水師」はコストのかからない解決法を考え出さなければならなくなりました.
 それが,こういう風に丈夫な岩石をおいて,気の流れをせき止める方法です.
 いったんこういうことを考え出すと,歯止めが効かなくなって,金運を良くするには「金色(のもの)」だとか,愛情運を良くするには「ピンクもしくは赤(のもの)」だとか,連想ゲームみたいになっていきます.それが今生き延びている「メタ風水師」です.

 おっと,「ご近所の自然」と「科学史」が合体してしまった(^^;

 「古典風水」について付け加えれば,現代的に説明すれば,T字路の突き当たりにある家には,たとえば「暴走トラック」が突っ込んだりすることを考えれば理解できると思います.昔でいえば,コントロールの利かなくなった牛車が突っ込んだりというとこですか.結構頻繁に起こっていたと思いますね.
 T字路の場合と同様に,川がカーブしている場合,その曲がり初めの突き当たりあたりの地域も「風水」では良くないとされています.これも,普通に川が流れている場合はいいのですが,まれに起こる洪水時には,突き当たりの地域は水流により堤防が壊れ,もろに洪水の被害を受けることになります.「だから,そういうところは避けなさい」というのが「風水」だったわけです.

2007年4月29日日曜日

アカゲラの啄痕


注:「啄痕」は適当な言葉が見つからなかったので,私が造語しました.

 ここは住宅街の公園なんですが,以前から生えていた大きな木がどういう理由でか,ある高さで皆伐られてしまいました.伐り跡が傷んでしまって枯れはじめ,そこについた虫を狙ってアカゲラが木をつついています.この穴がもっと大きくなると,小鳥たちが巣穴として利用するようになるのでしょう.
 実はこのそばに,もっと立派な穴があいた木があり,時々小鳥が出入りしていたのですが,冬の間に根元から伐られてしまいました.この公園の管理には,疑問な点が多いのですが,公園課の連中と話すると,心が冷たくなってゆくのがわかるので,あまりいいたくありません.
 人間の都合で,生えていた木が切られたりすると,そこにいた動物たちは大変な迷惑をこうむるのですが,それに気がつかない人が管理しているという矛盾.

 それにもかかわらず,切られた木を利用して,逞しく生きています.
 ガンバレよ!


 ついでに.
 アカゲラの学名は Dendrocopos major (Linnaeus, 1758) です.以前は Picoides major Linnaeus, 1758 としている図鑑が多かったようですが,訂正が進んでいるようです.日本の図鑑は学名を粗略に扱いますので,そのあたりを説明しているものは見つかりません.シノニムぐらい,どこかのサイトに書いてないかと探しましたが,学名モドキしかないですな.

 わずかな情報をたよりに,いきさつを検討してみます(怖い物知らずで…どうも(^^;).

 Picoides Lacepede, 1799 はもともと,北米にいたキツツキ類につけた属名のようです.日本にいたキツツキの仲間は安易にここに放り込まれ,かなり雑多なものが混ざっていたようす.そこで,アカゲラは Picoides major Linnaeus, 1758 と分類されました.ところが, Picoides の再検討が進んで,アカゲラは Dendrocopos major (Linnaeus, 1758) と判断されることが多くなったようです.1976年にでた図鑑にはもう Dendrocopos major になっているものがありますから,最近になっても,まだ Picoides major を使ってる図鑑は学名の検討なんかしてないんだろうな.それとも, Picoides が有効名だという根拠があるのだろうか.だったら,そのあたりを書いといて欲しいですね.

 さて, Picoides は,Picus (ヤマゲラ属)に似ているという意味で-oidesの語尾がついたもの.picus は「ピークス」と読み,ラテン語でキツツキ・ヤマゲラのたぐいを指していました.サンスクリット語では pikas は「インドのカッコー」意味しているそうですが,あまり共通点があるようには思えませんね.
 もひとつの Dendrocopos は,dendrosとcoposの合成語.dendrosはもともとギリシャ語がラテン語化したもので「木」を意味します.copos は手持ちのラテン語辞典には載っていません.ギリシャ語の「コポス」はオックスフォード・ギリシャ語辞典には pains, trouble; hard work とあまりいい意味ではでていませんね.Brown (1954, 1956) Composition of scientific words にも weariness, fatigue とでています.どうも,この名前を付けた人は「木をつついて弱めるもの」の意味をもたせたようです.ちなみに,ギリシャ語の「コプトー」(ラテン語化すると kopto もしくは copto )には「打つ,小さく切る」の意味があります.これと勘違いしたのかも知れません.
 Dendrocoptos にしてくれれば判りやすかったんですがね.もしかしたら,この名前は別の生物にすでに使われていて,わざとこういう綴りにしたのかも知れませんが.

 さて,さて,種名の方の major は英語のメジャーの語源(というよりはそのままですが)のラテン語で「マイヨル」とよみ,意味は「より大きい」.コアカゲラが Dendrocopos minor (Linnaeus, 1758) ですから,学名と和名が素晴らしく調和しています.
 ちなみに,minor は「ミノル」とよみ,意味は「より小さい」.


 さて,さて,さて,化石のキツツキ類は非常に数が少なく,その進化の様子はほとんどわかっていないようです.
 それでも,キツツキ科と思われる化石が北米の中期中新世の地層から産出しています.その後も鮮新世の北米からキツツキ科の化石がでています.もしかしたら,キツツキは北米で進化したのかも知れませんね.

2007年4月19日木曜日

間宮林蔵の資料(2)

 4月6日付,「間宮林蔵の資料」で,「現在入手可能な林蔵についての資料は,洞富雄(1950)『間宮林蔵』(人物叢書新装版;吉川弘文館)のみ」と書いてしまいましたが,間違いでした.
 赤羽榮一(1984)「未踏世界の探検◎間宮林蔵」(清水新書036)というのが,市販されています.これは,中表紙裏に「本書は『人と歴史』シリーズの『間宮林蔵』として,昭和四九年に刊行したものです」と,あります.多分これは洞富雄(1950)『間宮林蔵』に,赤羽栄一「間宮林蔵〔東方地理学の建設者〕」としてリストアップ,かつ赤羽栄一「間宮林蔵ー北方地理学の建設者ー」(清水書院)として「新装版重刷付記」で引用されているもののことだと思われます(それにしても,なんでこんなに副題が違うのだろう).

 昭和四十九年刊なら,もう市販されてないだろうという予想を裏切って,復刻されていたものですね.読めばますます,洞富雄(1950)『間宮林蔵』(とくに付記を読まずに本文だけを)読んだだけでは拙いと思わされます.
 かなりの激論があったようで,これらを理解するには学会誌に書かれたものも読む必要があるようです.議論を理解したいわけじゃあなくて,林蔵の行動・能力・業績を理解したいだけなので深入りしたくありません.
 でも,だれか専門家に整理してもらわないと,林蔵の生涯は実は疑問符だらけのままということになりそうですね.

 もう一つ出てきた疑問が,ほかの著者と解釈が異なっている部分は強調されてますが,共通している(したがって,史実と合意されている)部分はいったい誰が最初に提案したものか,さっぱりわからないことです.
 歴史学というのは先達の業績に無頓着なのか知らん.

2007年4月18日水曜日

最上徳内記念館の皆川さん

 3月21日付記事で,最上徳内記念館から返事がないという事を書きましたが,忘れた頃に返事がありました(^^;.
 でも残念ながら,記念館では最上徳内の文献・資料等は販売していないということでした.「うーむ,残念」と思いながら,返事を下さった事務補助員さんのサイン代わりの印を見てピンとくるものがありました.
「皆川」さんとあります.「もしや」.

 同じく,3月21日付の記事の中に皆川新作という人が「最上徳内」という本を書いている,しかも「重要な情報が書かれている」と書きました.
 で,早速お手紙を書いたら,今日返事が来ました.
 やはり,皆川新作の親戚の方でした.丁寧に「家系図」の写しまで送ってくださいました.

 ものすごく不思議な気がしました.

 私のような北海道人は,三代さかのぼれば,たいてい“馬の骨”状態ですから,一族が何代にもわたって「最上徳内」に関わっているなんて...「すごい」としかいいようがありませんね.

2007年4月9日月曜日

鉱床学のお勉強から

 「蝦夷地質学」中ではどうしても,鉱山・鉱床の話が出てくるのに,私の知識はおぼつかない.(^^;
 それで,鉱床学のおさらいをしようと思って,教科書を探しましたが,すでに日本の鉱床学は滅びてるらしく,適当なものがみつかりません.そういえば,番場さんが教科書を出してたなと思い出し,Amazonで調べたら,もう絶版扱い.

 ようやく古書店でみつけだし,送ってもらったら,旧版でした.ま.いいか.(^^;

 上記で,番場教授のことを「番場さん」と書きましたが,別にお友達ではありません.教授と学生(専攻は違ってましたが)の関係でした.当時の北大地鉱教室では,先生も「さん」付けでよぶ習慣があり,それが癖になっています.教室の運営には学生や大学院の意見も吸い上げられ,意見を述べることは自由でした.今では不思議に思えますが,教室主任は選挙でえらばれ,学生も大学院生も教室の世話をしている事務職員・掃除のおばさんまで一票を持っていました.

 教室構成員全員が善かれ悪かれ選択の自由を持っていたというわけです.

 太平洋戦争敗戦直後,北大で「イールズ事件」というのが起きまして(事件の説明は省きますが),学生を中心として反対運動が起きました.確か「北大ん年史」とかいうのに行動する学生の写真が載ってるはずですが,その真ん中にいるのが,番場さんだという話を聞きました.

 こういう人達が北大の民主主義を身体を張って守ってきたんですね.

 私が大学院修士課程の頃,教室主任の選挙制度を廃止しようという動きが起きまして,連日議論がなされたのですが,当時教授になっていた番場さんのほか,民主派と考えられていたほかの教授たち(すでに少数派になっていましたが)も,勢いに逆らえず,まともに意見を述べることもできず,結局選挙制度は廃止になったのを覚えています.

 「麒麟も老いては駄馬にも等しい」という言葉を覚えたのはこの時ですね.

 あの頃から,徐々に学生は大学の構成員ではなく,大学を通過するだけの人になっていったんじゃあないかと思っています.(別の大学ですが)非常勤で時々学生に教えにいってますが,大学に愛着を持たない学生のなんと多いことか.でも,上記歴史を見ている私は,学生がなぜそうなのか,理解できると思っています.

 数年前に,番場さんは亡くなりました.

 北大理学部同窓会誌46(2004)に,番場さんのお弟子さんが追悼文を書いています.
 私が在学中にいた教授連の中では結構好きな人だったんですが,訃報を聞いた時にはすでに葬儀が終わってました.最期までカッコいい生き方を貫いたそうです.確かに.
 さて,読まさせていただくか.

 これも,一つの「地質学史」.

2007年4月6日金曜日

間宮林蔵の資料

 現在入手可能な林蔵についての資料は,洞富雄(1950)「間宮林蔵」(人物叢書新装版;吉川弘文館)のみ.
 この本は,「新装版」化のほか,「重刷付記」,「第二刷付記」,「第三刷付記」などが付け加えられていますが,改訂履歴がよくわからないので注意が必要.また,第一版は昭和二十五年発行になっているが,クレジットは"Tomio Hora 1960"になっています.
 本文は多分初版のままだと思われますが,上記「付記」は付記というよりはまったくの「訂正」があるようなので本文を読んだだけでは,非常にマズイことになりかねない.全面書き換えが必要な本だと思われますが,著者は明治三十九年生まれなので,不可能でしょう.しかし,書店ではこの本しか入手できないというのが,日本の現状.

 この不明な改訂がおこなわれている間に,間宮林蔵述・村上貞助編「東韃地方紀行他(洞富雄・谷澤尚一,1988編注)」(平凡社東洋文庫484)が出版されています.
 ここに至って初めて,それまで林蔵の著作だとされていた「北夷分界余話」・「東韃地方紀行」・「窮髪紀譚」は別人の著作であることが明らかになりました.つまり,林蔵には著作が存在しないことになります.歴史はまだまだわからないことの方が多いのでしょう.また,それまでは,「東韃地方紀行」は独立した著作だと考えられていたのですが,「北夷分界余話」つまり樺太編を前編とした後編であり,二つで一つの著作だということです.
 なお,この東洋文庫版は品切れになってから久しく,古書店でしか入手できません.平凡社ではオンデマンド版で東洋文庫の復活を目指しているようですが,値段が高めで注文しても入手まで一月ほどかかるようです.これが日本の現状.(^^;

 ほかに,大谷恒彦(1981現代語訳)「東韃紀行」(教育社新書,原本現代語訳104)は,比較的キレイな状態のものが,古書店では入手可能.
 大谷さんの著作には,ほかに(1982)「間宮林蔵の再発見」(ふるさと文庫,筑波書林)もあり,こちらは現在でも市販されていて入手可能です.内容は林蔵の地元で掘り起こしたエピソード集なので,歴史好きには面白いですが,間宮林蔵の全体像がわかるわけではありません.

 あと,間宮林蔵をあつかった歴史小説はたくさんあります.
 あまりお勧めはありません.理由の多くは,表向きは偉大な探検の記録といいながら,背後にちっぽけなナショナリズムを感じるからです.ま,林蔵が注目されること自体がそういうことなんですが...(^^;
 あと,最近の歴史小説は上記したような資料にある年表をそのままなぞって「作品」だというようなお気楽な作家が多いのはなぜでしょうかね.あ.これは,とくに林蔵についてということではなく,最近の歴史小説一般についてのことです.
 ということで,やはり吉村昭の「間宮林蔵」が定番でしょうか.文庫版で買えますしね.

2007年4月3日火曜日

高畑利宜の復命地図


 蝦夷地質学の六(3):ライマン・ルートの所で,「『高畠氏の図』については,存在もよくわからない.」と書いてしまったが,別件で「旭川市史 第一巻」を見直していたら,ありました.
 この原図は,「今も滝川町の高畑家にあり,その模写したものは旭川市立郷土博物館に蔵している」と,あります.その問題の部分(層雲峡の滝の件)だけ添付します.

2007年3月25日日曜日

最上徳内の資料(4)

 北大図書の「蝦夷草紙」
 北大図書の北方資料データベースには,たくさんの“蝦夷草紙”が収蔵されています.その中で,画像が公開されているのは5点のみ.だから公開されているものについてのみの話しということになります.

一点目は「蝦夷國風俗人情之沙汰 巻の壱」とされているもの.
 内容は相当いい加減.たぶん,「勝安房」の蔵書印があるからという理由でのみ資料価値があるのではないかと思われます.「産物」に関する項目はなし.勝安房が勝海舟のことだとすると,彼が蝦夷地の産物に興味を持たなかったのは奇妙.いい加減な写本をつかまされたのかも知れませんね.

二点目は「蝦夷草紙 全」とされているもの.
 この写本を,現代語訳或いは活字翻刻に使ったものはないようです.
 「物産」の節で,地質鉱物に関係する項目は「金山」・「銀山」・「銅山」・「鐵山」・「鉛山」・「黄山(!)」・「碗青」・「硯石」・「鍾乳石」・「石炭」・「明礬」・「温泉」の12項目.ただし,他の写本では「黄銅」になっている項目が「黄山」になっており,「碗青」以下は項目名が記されていない.写本した人はたぶん,本草学の知識に欠ける人だったんでしょう.

三点目は「蝦夷草紙 上」「蝦夷草紙 下」のセット.
 これは,「北門叢書」と吉田常吉編「蝦夷草紙」で活字翻刻に使われたとでています.
 「物産の事」の節は下巻にあり,地質鉱物に関係する項目は「金山」・「銀山」・「銅山」・「鐵山」・「鉛山」・「黄銅」・「餘糧」・「碗青」・「硯石」・「鍾乳石」・「石炭」・「明礬」・「温泉」の13項目.

四点目は「蝦夷草紙 上巻」「蝦夷草紙 下巻」のセット.
 これは,DB上ではとくに解説がありませんが,「物産」の節は欠けています.その他の部分を検討する余裕がないのでなんですが,「勝安房」写本よりは程度がいいものの,写本としてはいい加減なものと思われます.

五点目は「蝦夷國風俗人情之沙汰 上」「蝦夷國風俗人情之沙汰 中」「蝦夷國風俗人情之沙汰 下」のセット.
 DBの解説では,「活字翻刻本:近世庶民生活史料集成4」とされていますが,これは多分「日本庶民生活史料集成 第四巻」のことでしょう.
 これは,東大図書・南葵文庫に蔵書の「蝦夷國風俗人情之沙汰 三冊」の編集本と考えられているようです.こちらは徳内の談話に本多利明の編集・加筆が加わって成立したものらしく,北大図書のものはさらにそれを整理したものと考えられているようです.
 「物産の事」の節は中巻にあり,地質鉱物に関係する項目は「金山」・「銀山」・「銅山」・「鐵山」・「鉛山」・「黄銅」・「餘糧」・「碗青」・「硯石」・「鍾乳石」・「石炭」・「明礬」・「緑礬」・「温泉」の14項目.

 古い本は印刷物ではなくて,写本で伝えられてゆくことがリアルにわかります.同時に研究には,いい資料をみつけることが非常に重要だということもわかります.古書店で数10万円単位の「蝦夷草紙」写本が時々売られてますが,中身をよく検討しないとダメですね.
 たくさん集めて,加除の順や筆跡を解析すると系統発生の様子がわかる面白い資料ができそうですが,経済的にいって個人では不可能でしょう.(^^;

2007年3月22日木曜日

最上徳内の地質学(3)

 不要だろうとは思いつつ,「日本庶民生活史料集成」の第四巻(探検・紀行・地誌 北辺編)を借りだして(例によって,図書館の壁を乗り越えて(^^;),最上徳内「蝦夷國風俗人情之沙汰」を見直してみました.

 これは,「東大図書館旧南葵文庫本を底本とし,北大図書館所蔵『蝦夷風俗人情之沙汰一名蝦夷草紙』を参考」にしたものだそうです.つまり,前に示した徳内の師・本多利明によって書き加えられている系列ですね.これによると,「産物の事」の項目(とくに地質・鉱物関連だけ)は,・金山・銀山・銅山・鉄山・鉛山・黄銅・余糧・碗青・硯石・鍾乳石・石炭・明礬・緑礬・温泉の14項目ありました.これまで確認した三冊総て記述(内容ではなく項目数)が異なることになりますね.心配なので,「北門叢書」版も確認しなければね(大学図書館は現在使用不能です(-_-;).
 ちなみに,北海道大学図書館蔵書の「蝦夷草紙」は,現在,画像が公開されていて,見ることが可能です.しかし,上記「蝦夷風俗人情之沙汰一名蝦夷草紙」と表題するものは見あたりません.また,この蝦夷草紙に関しては,複数のものが所蔵されているので,別途検討する必要がありそうです.

 さて念のために再録しておくと,吉田常吉(1965編)の「産物の事」の項目(とくに地質・鉱物関連だけ)では,
・黄銅・餘糧・碗青・硯石・鍾乳石・石炭・明礬・緑礬・温泉の9項目.

 須藤十郎(1994編)の「産物の事」の項目(同上)では,
・金山・銀山・銅山・鉄山・鉛山・黄銅・余糧・碗青・硯石・鍾乳石・石炭・明礬・温泉の13項目.

2007年3月21日水曜日

最上徳内の地質学(2)

 本日,近所の大学図書館の姉妹校の図書館から,たのんだ本が届いたという連絡が入ったので借りてきました.
 あまり期待していなかったのですが,その期待はおおきくはずれました.いい方に.

 その本は皆川新作「最上徳内」(1943)といいます.古いですね.私の生まれる前です.
 それには,徳内の行動が細かに示してあり,島谷良吉「最上徳内」(1977)よりもはるかに詳しいのです.というよりは,島谷のは皆川のをダイジェストしたといった方がいいかも知れません.もちろん,島谷の本は新しいだけあって,新しい情報がはいってはいますが,骨子は皆川のままというところです.
 今,両方とも存命だとしたら,著作権問題が起きていたかも知れないですね.

 とくに,徳内の地質学的知識に関する重要な情報が書かれてました.島谷の記述では謎だらけだったのですが,氷解しました.いずれ別なHPで,紹介することになるでしょう.

 早速古書店に注文しました.(^^)

最上徳内の資料(3)

 須藤十郎編「蝦夷草紙」の入手が困難という話しを前にしました.同書の「序」に「○○市では最上徳内○○館をオープンさせた」ということがかいてあり,徳内の業績を伝えてゆきたいというようなことがかいてありました.
 発行元では「絶版・重版未定」扱い.インタネット「○本の古本屋」でも数年来在庫店なし.出版当時の著者の住所には,家族ともども「宛先に尋ね当たりません」でした.
 博物館ならば,関連資料を販売していることも多々あるので,徳内○○館なら可能性があるかと,一週間前にFaxを入れておきましたが,未だに返事がありません.
 なければ「ない」という返事だけでもいただきたかったのですが,帰ってきたのは「梨のつぶて」だけでした.(^^;

 昭和初期に出版された書籍というならともかく,10数年前に出版された本が入手できないというのは,困りますね.出版界の衰退も関係あるのでしょう.

 以前は,こういう場合「E・・y seek」というサイトがあって,登録しておけば古書店さんやマニアの方々が協力して探してくれたのですが,数年前に閉鎖になり別のオークション・サイトに移管されました.ここには,ずいぶんお世話になったんですが,オークションになってからは,ほとんど総ての古書店が脱退したようで,全く本が見つからなくなり,そこを見に行くこともなくなりました.
 世の中便利になる一方とは限らないようで.

 時々,「日○の古本屋」に探しに行くこととして,当面は無かったものとして扱うしかないですかねえ.

2007年3月18日日曜日

赤色チャート



 近くに神居古潭帯の模式地でもある神居古潭があるので,庭石に神居古潭帯の岩石を使っている家が多いです.これもその一つ.赤色チャート.
 “神居古潭帯”は「北海道中央部を南北に分布する蛇紋岩・各種高圧変成岩を含む構造帯」と定義されているので,赤色チャートはメインの岩石ではない.赤色チャートは「弱変成岩類と前期白亜紀メランジ」として一括される地層のメンバーで,メインの「蛇紋岩・各種高圧変成岩」とどういう関係にあるのかはあいまい.
 専門家に時々訊いたりするが,あまり明確には教えてもらえない.(^^;

 さてどういう石なのかとムリシャリわかりやすくすると….
 前期白亜紀(14,500〜9,700万年前ころ),古太平洋の西側にあった火山島が活発に活動.周囲に熔岩を流し,これが現在「枕状熔岩」として観察される.火山島の周辺には湧昇流がおき,微生物の活動が活発化する.そこで,珪酸塩の殻を持つ「放散虫」が大量発生して,たくさんの死骸が堆積する.
 放散虫が作りだしたたくさんの珪酸塩は再結晶して,チャートを作りだす.これが赤色チャートの起源.含まれている微量元素の違いのせいで,青いチャートもできる.
 本来ならば,このチャートと枕状熔岩の分布を調べれば,それは火山体の形を残しているはずなんだけど,どういう理由でか,斜面を滑り落ちて,並び方がグチャグチャになってしまう.この「グチャグチャ」を科学的な言葉で「メランジ」という.
 枕状熔岩も在所の付近で観察できるんですが,あまり典型的ではないんですねえ.いい写真が撮れたら,そのうち紹介しましょう.

2007年3月17日土曜日

最上徳内の資料(2)

 北門叢書版「蝦夷草紙」を確認しようと思い,近所の大学図書館に行きました.
 工事中とかでしばらく休館してたので,やっと確認できると思ったのですが,本を移動・整理中でどこにあるかわからないとのこと.書庫も入室禁止.いつごろ整理がつくのかもわからないというので,残念.あ.断念.
 ついでに,神保小虎の「北海道地質略論」も見ておこうと思いましたが,これもいつになるかわからないとのことでした.(-_-;
 他のどこで見ろというんだよ!

 この大学図書館は,ここ数十年ぐらいの地質関係の蔵書はほとんどないですが,こういうものすごく古い妙な蔵書が時々あります.感激ものです.昔は,地質学を専門とする教官がいたのでしょうね.在所の市立図書館にも同様の非常に古い地質関係の蔵書があり,調べたら,この大学の教官だった人が寄贈したものらしいということがわかりました.いったいどういう人物なのだろう.
 いまは,残念ながら,火山屋さんしかいないので,地史・古生物は完全に放棄状態のようです.

 実は,「北門叢書」は在所の市立図書館にもあるのですが,例によって禁帯出です.ここは,まともな本はほとんど総てが禁帯出なので,利用はつらい.閲覧室では,十分な検討は出来ませんからね.比較検討のために自分の本を持ち込むこともできないし.
 また,市立図書館本館は駐車場がないので,利用には結構根性が必要です.暖かくなれば,自転車で30分ぐらいかけてでも,いきますけどね.公共図書館ってのは,利用しづらいように,何重にも罠をかけてるって感じ?

チゴハヤブサくん(たぶん(^^;)



 2000年に今の家に引っ越した時に,向いのお家の屋根の上にチゴハヤブサの一家が子育て真っ最中でした.その時は一眼デジを持ってなかったので,アナログ・プリントからの複写です.
 巣立ちの時に家の三階の窓にぶつかったようで,書斎で仕事中にドスンと音が聞こえました.心配してたのですが,無事旅立ったようです.
 毎年かわいい姿がみれるかな...と,期待してたのですが,翌年からいなくなりました.すると,それまで姿を見せなかったカラスがゴミステーションを荒らすようになりました.二重に残念.
 ちなみに,チゴハヤブサは渡り鳥のようで,毎年夏に北海道にやってきて子育てをしているようです.

 数年後のことですが,近所の生協で買い物をしようと側を歩いていたら,生協の向いの六階建てのマンションの屋上に彼らがいました.今度はそこで子育てしているようでした.少し安心しました.

 学名は,Falco subbuteo Linnaeus, 1758
 falco はラテン語で「タカ,ハヤブサ」のことですが,学名としては「ハヤブサ属」に限定.subbuteoはsub+buteo=「下-,次-,亜-,やや,殆ど」+「ノスリ」=「殆どノスリのような」という意味.属名と合わせて「殆どノスリのようなハヤブサ」となります.若干小さめのハヤブサ類にピッタリの学名ですね.
 分類学の祖:リンネさんが1758年にオリジナルに記載してますね.
 チゴハヤブサの進化について調べてみましたが,ほとんどわかってないようです.残念.

【分類】
ハヤブサ型目[oder FALCONIFORMES]
  ハヤブサ科[Family Falconidae]
    ハヤブサ属[Genus Falco]

 ハヤブサ型目[oder FALCONIFORMES]:いわゆる“ワシタカ類”ですね.ハヤブサ科・ヘビクイワシ科・タカ科・ミサゴ科などが含まれる.ちなみに,ワシやタカはこのグループの代表ではないので,“ワシタカ目”とか“タカ目”と訳すのは混乱をまねくだけで不適当ですね.でも,鳥類研究者は平気でこの訳語を使うので要注意.タカ型目だったら[ACCIPITARIFORMES]になってるはずです.
 ハヤブサ属[Genus Falco]:世界で37属確認.南極を除く全大陸に分布.こういうのをコスモポリタン(=汎世界)といいます.コスモポリタン.いいですねえ.「我に国境はなし」.絶滅の危機にさらされている種は4種.チゴハヤブサくんはがんばっているようです.

【化石】 
 化石では,ハヤブサ型目に属する化石は,前期中新世から報告されてます.鳥の仲間としては,非常に新しいタイプ.
 チゴハヤブサ属に属する化石は,北米の下部中新統,オーストラリアの上部更新統から産出しています.現世ではコスモポリタンとして生息.

2007年3月14日水曜日

最上徳内の地質学

 蝦夷草紙の上巻 巻之二には「産物の事」という項目がある.
 この部分は,須藤十郎編と徳内自筆とされる吉田常吉編とは記述が異なる.
 須藤十郎編は「蝦夷国風俗人情之沙汰,一名蝦夷草紙」となっており,山形大学付属博物館の蔵書を底本としているそうだ.
 須藤十郎編の「はしがき」によれば,「蝦夷草紙」には,三つの系統があるそうだ.
 一つ目は,山形県村山市の高宮家に所蔵されているもので,「行文が最も素朴」なので,徳内の最初の稿本と考えられているそうだ.
 二つ目は,「蝦夷風俗人情之沙汰」とされているもので,内容は一つ目とほとんど変わらないものの,字句がかなり訂正されており,徳内の師・本多利明によって加筆されたものと考えられているそうだ.
 三つ目が,近藤重蔵ゆかりの永沢家に伝わるもので,徳内自筆といわれているが,附録の一部が欠けているらしい.本文が他の二つとどう異なっているのかは示されていない.
 また,この三つの系統が,のちに編纂された“蝦夷草紙”のどれにあたるのかも示されていないが,少なくとも,須藤十郎編は二つ目の系統にあたるようである.

さて,吉田常吉編の「産物の事」の項目(とくに地質・鉱物関連だけ)は
・黄銅・餘糧・碗青・硯石・鍾乳石・石炭・明礬・緑礬・温泉の9項目である.
一方,須藤十郎編の「産物の事」の項目(同上)は
・金山・銀山・銅山・鉄山・鉛山・黄銅・余糧・碗青・硯石・鍾乳石・石炭・明礬・温泉の13項目である.

 徳内自筆とされている方が,項目数が少ない.多い分は本多利明の加筆なのだろうか.それとも,徳内自筆とされている本に欠落部があるのだろうか.

2007年3月13日火曜日

最上徳内の資料

 現在入手可能な最上徳内の伝記は島谷良吉「最上徳内」(吉川弘文館;1977)のみ.
 これには,徳内の著書リストのほか,主要参考文献のリストが載っている.
 しかし,徳内の著書はほとんどが未刊.
 「蝦夷草紙」正・後編ぐらいしか出版されていない.これらは北門叢書(1943, 1944刊)中に採録されている.1972年に複製が出版されたが両方とも現在は入手不可能.古書店で見つかれば,一冊¥5,000〜¥8,000ぐらいで購入できるが,正編と後編は別々の巻に掲載されている.ただし,この底本は写本であって,徳内自筆ではないそうだ.
 吉田常吉編の「蝦夷草紙」(時事新書;1965刊)は,少なくとも正編は徳内の自筆本だそうである.この時事新書版は,まれに古書店でみつけることができるが,紙質装丁ともに上質とはいえず,保存のいいものは少ない.
 須藤十郎編の「蝦夷草紙」(MBC21;1994刊)は,ごく最近のものであるが,すでに絶版扱い.古書店でも見つからないので,出版社を調べたら,「自費出版専門」とある.自費出版だったのか!
 著者さま&ご家族さま宛で手紙をかいたら,「宛先に尋ねあたりません」で帰ってきた.もう入手不可能かも.現在,「最上徳内記念館」に問い合わせ中.

 徳内の「地質・鉱物・化石」に関する記述はごくわずかしかない.
 内容は「本草学」から一歩も出ていないようだ.しかし,島谷良吉『最上徳内』には気になる記述が一ヶ所ある.西蝦夷地の鉱山の話しである.

 もっと調べる必要があるが,取っ掛かりがない.

始めるぞー

昨年から,某HPで北海道の地質学の歴史に関する雑記を公開しはじめました.
ところが,なかなかそれには書けないこともあって,このブログを始めることにしました.
ブログは初めてなので,よくわからんけど,とにかくやってみるぞーということで,取りあえず読者がつくまでやってみます.