2007年8月4日土曜日

忠別太の大番屋


 「忠別太大番屋」は,わが故郷・旭川では,和人のものとしては一番最初にあったとされる建物です.「蝦夷地質学」では「其の六 ライマン(Benjamin Smith Lyman)」の「ライマン・ルート」に少し触れています.

 「蝦夷地質学」では,「正確な位置およびその規模についてはハッキリしていない」としておいたんですが,「旭川市史」・「新旭川市史」にはもう少し詳しく書いてあるので,補足しておきたいと思います.

 文化四(1807)年,それまで松前藩が経営していた石狩場所が江戸幕府直轄となります.
 「〜場所」とは蝦夷地をいくつかに区分けしたもので,本州と違い「米」のとれない蝦夷地では,家臣にあたえる「禄」の代わりに場所をあたえ,そこからあがる収益を報酬としていました.当初は,アイヌとの直接交易をもって利益をあげていましたが,のちに効率の悪い自営よりも,商人に貸しあたえて権利金を受け取る方法が主になります.
 この商人を「場所請負人」,建物を「運上屋」,料金を「運上金」と呼びます.請負人は「支配人」や「通辞」・「番人」を場所に送り込み交易をさせていました.
 ところが,商人が入り込むと,アイヌと「交易」するよりも,アイヌを働かせて「漁業を直営」した方が儲かることに気付くには時間はかかりません.アイヌに売り渡すものを高価に,労働の対価は低くすることで,いくらでも儲かるシステムにすることができます.必然的に場所での労働は,奴隷労働と化してゆくことになります.
 そういう背景があることを,理解しておいてください.

 文化八(1811)年,伊達屋・栖原屋・阿部屋(あぶや)の三軒が石狩場所を請け負い,文化十二年には阿部屋が石狩場所を独占します(当時の当主は村山伝兵衛(六代目)というらしいのですがハッキリしません).つまり,江戸幕府の直営とはいいながら,“交易システム”は変わらなかったようです.

 そして,幕府の蝦夷地再直轄後の安政二(1855)年四月に阿部屋が提出した書類の中に,忠別太の大番屋の記述が見られます.

 上川チユクヘツブト
 一.番家 壱軒 桁間 五間半・梁間 三間 (縦:約10m,横:約5.5m)
 一.板蔵 弐軒 桁間 三間・梁間 弐間半 (縦:約5.5m,横:約4.5m)

 ただし,これがいつからあったものかはハッキリしません.
 また,まじにこれを「大番屋」と呼ぶにはつらいかも知れませんね.ただし,武四郎の記述には「むかしは相応の家なりし由なるか.当時は本の形斗の小屋也.酉年の洪水までは此二丁斗下に有りしか,崖崩れて流し故今此処へうつせしとかや」とあり,これは今は“大番屋”だけれども,洪水前の建物は本当に「大番屋」だったともとれる記述です.

 「新旭川市史」では,松浦武四郎(安政四),高畑利宜(明治五),ライマン(明治七)の記述を「忠別太の大番屋」と認めていますが,近藤重蔵(文化四)の記述:チユクヘツブトに「番屋が一棟」その近くに「家屋が弐軒」描かれていることを認めているものの,「にわかに(おなじものと)断定することはできない」としています.つまり,付属する二軒が板蔵とも民家とも判断できないので,この「番屋」が「大番屋」とすることはできないという論理です.「大番屋」以前の「二丁ほどチユクヘツ川を下った所」にあった旧い番屋である可能性を指摘しているのでしょうか.
 あまり整理がついていなくて,「新旭川市史」の記述ではよく理解できませんが,いつからあったものかはハッキリしないというのが「公式の見解」というところで我慢するしかしかたないようです.

 さて,松浦武四郎(安政四)のときにはまだ使えた“大番屋”も,高畑利宜(明治五)のときには,草小屋(“大番屋”のこと)は「空家にしたる為大破」しており,板蔵は○に「十五」の阿部屋の印が残っているものの一棟しかありませんでした.
 ライマン(明治七)のときには,目にしたのは「板蔵一棟」のみで,“番屋”については記述がありません.すでに無くなっていたのでしょうか.
 開拓大判官・松本十郎が明治九(1876)年6月17日(すでに太陽暦が使用されているはずなので,月日は漢数字では表記しない)にここを訪れ,「板倉一棟」が残っていることを記述しています.そして,その屋根の上から上川盆地を眺め,草原や雑木林・その間に流れる河川を見,石狩岳の麓まで見わたせることに感動しています(石狩岳は上川盆地からは見えません.この“石狩岳”はたぶん,大雪山連峰の旭岳のことしょう).「市史」では興味深いエピソードして,これ取り上げていますが,これには若干の違和感があります.「番屋」の周辺は草原だったとしても,また,板倉がどんなに立派でも高さが5mもあったでしょうか.巨大な原生林の密生する上川盆地で,そんなに見通しが良かったのでしょうか.

 もひとつ.
 「番屋」は「新旭川市史」によれば「軽物・干鮭などの交易に使用されるものだった」とされていますが,軽物はともかく,鮭は海岸地方で十分に獲れたはずですし,神居古潭では舟は使えないので,運搬が困難で鮭は扱わなかったろうと思います.
 また,「旭川市史」では「毎年秋の末出稼ぎアイヌの上川へ帰るとき,番人一名,時には二名同伴,丸木舟で石狩川をさかのぼり,忠別太に来て越年,冬中アイヌの狩した熊の皮や熊の胆・かわうその皮・狐や狸の皮等を集め,翌春氷とけて舟の通ずるようになると,酋長とともに労働に堪えるアイヌを引きつれ,数隻の丸木舟で石狩川を下る.」とあります.
 最上徳内や間宮林蔵の頃と比べて暖かくなっているとはいえ,旭川です.草小屋で和人が越冬できたという話はどうも眉唾です.とはいえ,上川アイヌを石狩場所まで連れて行く必要はあったでしょうから,越冬はしなかったものの高価な「熊の胆」や「毛皮」を集めるのと同時に,人集めに石狩場所からやってきた番人はいたのでしょう.

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