2009年3月27日金曜日

「鉄と鋼」

  
 「鉄と鋼」という雑誌に載った論文を読んでいました.

1998,永田和宏「小型たたら炉による鋼精錬機構」
1999,鈴木卓夫・永田和宏「たたら製鉄(鉧押し法)の復元と村下安部由蔵の技術」
1999,鈴木卓夫・永田和宏「たたら生産物『玉鋼』の性質に及ぼす『籠り砂鉄』使用の影響」
2000,永田和宏・鈴木卓夫「たたら製鉄の炉内反応機構と操業技術」
2000,永田和宏「小型たたら炉による鉧(ケラ)と銑(ズク)の生成機構」
2004,永田和宏「たたら製鉄の発展形態としての銑鉄精錬炉『角炉』の構造」
2004,永田和宏「『角炉』の鉄滓あるいは砂鉄を用いた製鉄反応機構」
2005,片山裕之「江戸時代における奥出雲たたら製鉄の経営の展開」
2005,舘 充「わが国における製鉄技術の歴史―主としてたたらによる砂鉄精錬について―」
2005,羽場睦美「チタン酸化物の溶剤としての反応」
2005,鈴木卓夫「鉄仏の製作年代と古伝書『古今鍛冶備考』からみた銑押し法と鉧押し法の成立期の検討」

 これまで,疑問に思っていたことの大部分が,これらの論文で追求され,ある程度の解答が示されています.
 20世紀も最後の最後になって,ようやく,「たたら製鉄」に科学のメスが本格的に入ってきたということですね.逆にいえば,これ以前にかかれた多くの「たたら本」は不明確なところや不正確なところ,そして曖昧なところ,もっといえば「間違いがある」ということになります.

 上記論文を参考にすれば,もっと正確な「たたら製鉄」についての解説がかけそうな気がします.しかし,これらの論文では,以下の文献がかなり重要な意味を持って引用されています.

俵 国一(1913編)「古来の砂鉄製錬法 : たゝら吹製鐡法」
鈴木卓夫(1990)「たたら製鉄と日本刀の科学」
下原重仲(1784)「鉄山必用記事」
日本鉄鋼協会たたら製鉄復元計画委員会(1971編)「たたら製鉄の復元とその鉧について」
山田浅右衛門(編著)「古今鍛冶備考」
(蛇足:山田浅右衛門って,あの首切り浅右衛門のことですね!)

 これらの文献は,いずれも現在では入手不可能で,北海道では道立図書館にいくつかあるぐらいですか.これらを直接確認しなければ,うかつなことはいえませんね.

 さらにいえば,「鉄と鋼」はいわゆる冶金学者の研究雑誌ですから,地質・鉱床関係の記事はほとんどありません.いってみれば,「たたら製鉄」の基本の基本である,原料「砂鉄」の性状・由来が未開拓ということです.原材料の「砂鉄」および「砂鉄鉱床」に関する記述が曖昧なわけです.


 ということで,上記古典的資料のいくつかの閲覧にチャレンジすることにしました.昨日,最寄りの図書館を通じて「相互貸出」とやらで借りてもらうことにしました.いつになるかはわかりませんが,手元に届いて読み込むまで,本質的なことは棚上げになると思います(「鉄と鋼」掲載論文でわかることについては解説するかもしれません).

 

2009年3月26日木曜日

Qoo-chan


 
 釧路に住む友人がQoo-chanの写真を送ってくれました.

 なんで,これが私のブログのテーマに関わりがあるか?って

 実は「おおあり」です.
 北海道産の大型化石の著名なものに,滝川産の「タキカワカイギュウ」(=滝川海牛)というのがあります.このタキカワカイギュウの発見後,道内ではいくつものカイギュウの祖先が発見され,北太平洋でのカイギュウ類の進化が明らかになってきています.
 第四紀に入っては,カイギュウ類は北の海に適応し,巨大化して脂肪を蓄えてゆきました.このカイギュウ類の生き残りが「ステラーカイギュウ」です.

 ステラーカイギュウは1741年に発見されました.
 ベーリングを隊長とする探検隊はアラスカ探検の帰途で遭難.ベーリングは死亡.ドイツ人の医師で博物学者のステラー(George Wilhelm Steller)がかわって隊の指揮をとりますが,たどり着いた無人島(現・ベーリング島)に,この海牛が群れをなして棲んでいたのでした.まるで,平和な牧場の牛の群れに見えたとか.
 で,隊員は,この海牛を食料として生き延び,ロシアに生還します.

 ステラーは,海牛のほかにも珍しい動物をいくつも報告しますが,そこで注目を浴びたのが,この「ラッコ」!.
 
 ラッコの毛皮は,超高級品でした.
 ラッコの毛皮を求めて,商人やハンターたちが大挙してベーリング島へ.困ったことに食料は「海の牛」といわれる,この「ステラーカイギュウ」でした.
 ハンティングというよりは,殺戮に近かったようです.
 かくて,発見から30年もたたないうちに,ステラーカイギュウは絶滅.地球からいなくなりました.

 カイギュウ絶滅の原因は,もちろん人間どもの欲望でしたが,その直接の目的は「ラッコ」の毛皮でした.「ラッコ」はもともと「アイヌ語」.つまり,北海道を含む北太平洋に広く生育していたんですが,彼らも絶滅寸前です.
 最近は,人間の圧力も少し弱まったので,ちょっと釧路川まで戻ってきたという次第.

 江戸時代が終わったのは,アメリカ人がクジラの乱獲を進めていたせいですが,ロシア人が日本に開国を迫ったのは,このラッコの毛皮のため.

 大黒屋光太夫が遭難したとき,ロシア人によって助けられたのも,彼らについてカムチャッカからシベリアをさまよったのも,ラッコの毛皮を求めてロシア人がやってきていたためでした.
 最上徳内が択捉島であったロシア人・イジュヨもハンターでした.ただし,イジュヨは徳内の記述によると非常に知的レベルが高く,単なるハンターではなく,相当の背景を持って北辺まで流れ着いた訳ありの人だったと思われます.

 いってみれば,クジラとラッコが日本を開いたということですね.


 さて,ラッコの化石というのは,日本付近では発見されていないようですが,北米西海岸の後期更新世から発見されているようです.ちゃんと調べてないので,それは別の機会に.

 一般に,海に適応した生物は変異が激しいので,その進化を追うのは大変でしょうね.
 ラッコが胴長短足で愛らしい体型をしているのは,実は水中生活に適応したせいです.水中では手足はあまり役に立たないのですね.クジラしかり,トド・アザラシしかり,オタリアしかり,というわけです.
 そういう目で見ると,水中生活に適応しているとはいえ,まだまだ陸上に適応しているということになりますね.どんどん進化してゆくとアザラシやオタリアのようになってゆくんでしょうか.

現世種:Enhydra lutris (Linnaeus, 1758)
化石種:Enhydra macrodonta (Kilmer, 1972)

 

2009年3月25日水曜日

和鋼・和銑

 
 いい加減に疑似科学的な「たたら研究」はあきらめて,本筋に戻ろうとしたら,「たらら」を科学化しようとしている(しかも公開されている)雑誌を見つけてしまいました.
 それは「鉄と鋼」という雑誌です.
 日本鉄鋼協会の会報誌です.メンバーはどちらかというと,技術者が多いようですが,もちろん近代科学で鍛えた人たちですので,非常にわかりやすい論文になっています.
 現在たたら関係の記事を集めて読解中.
 原材料の「砂鉄と地質」についての記事は,さすがに無いようですが,「たたら製鉄」自体についての科学的解釈はすばらしく,大変に良くわかります.
 これについては,また別の機会に.

 「たたら製鉄」実験が何度となくおこなわれ,その方法,経緯,結果が分析値をまじえて解釈されており,前記・疑似科学的「たたら」本のように「たたらはすばらしい」・「たたらはすばらしい」・「たたらはすばらしい」…ではなく,冷徹に現象が報告されています.
 そこで,ふと気がついたこと.
 たたら製鉄でできてくる「鉧」.その中でも良質な「玉鋼」は,我々が普通に思い浮かべる「鋼」とは違うようです.同時に,「銑」も我々が普通に思い浮かべる「銑鉄」とはこれまた違うようです.

 日本学士院日本科学史刊行会(1958編)「明治前日本鉱業技術発達史(1982,復刻版)」に,現在では炭素の含有量によって「鋼鉄」・「銑鉄」と区別しているが,「当時の冶金技術によってつくられた銑および鋼は,これらの性質とは若干違っている」続けて「それらと一応区別するために,『和銑』および『和鋼』と呼ぶ方が正しいと思われる」としています.具体的に何が「違っている」のか,は明記してありませんので,これを以前に読んだときには何のことだかわからなかったのですが,実験例をみると,なるほど,「『和銑』および『和鋼』と呼ぶ方が正しい」ような気がしてきます.
 まだ,ちゃんと説明はできませんが….

 もひとつ,西洋式の製鉄は「鉄を造る」のですが,日本式の「たたら製鉄」では鉄は「鐵に成る」といった方がいいような気がしてきました.
 これも,まだちゃんと説明はできませんが….

 村下(「たたら製鉄」のチーフのこと)は「鐵に成る」ように条件を揃えてあげるのですが,「鐵」になるか,「銑」になるか,「鉧」になるかは,本当のところ,鉄次第のようです.

 

2009年3月23日月曜日

ラベル増設

 
「たたら製鉄」というラベルを増やしました.
けっして,「たたら製鉄」関連が科学ではないと考えたためではありません((^^;).

もう少しで,なんだかわかりそうなんですが,もどかしいです.

 

2009年3月21日土曜日

たたら製鉄の行程

 
 前回の「赤目粉鉄」で,たたら製鉄のうち,鉧押法では「こもり」,「こもりつぎ」,「のぼり」,「くだり」という四つの行程があると書いてしまいました.これは,窪田蔵郎(1987)「改訂鉄の考古学」に出ているものです.これには,「どこで」あるいは「だれが」という記述はありませんので,読者は「たたら製鉄一般では」と思ってしまうことでしょう.私もそう受け取って読んでいました.
 ところが,飯田賢一(1976)「鉄の語る日本の歴史」でも,「たたら製鉄」の鉧押しについての解説があり,こちらでは初日を「ノボリ」といい,二日目を「ナカビ」,三日目を「クダリ」とよんでいるそうです(銑押しの場合は,第四日目を「大クダリ」という).飯田氏の方にも「どこで」あるいは「だれが」やったという記述はありません.文脈からは,中国地方の一般的な「たたら製鉄」では,と読めてしまいます.
 似てはいますが,「違いは微妙である」とはいえませんね.

    

 「たたら製鉄」自体は「科学(Science)」ではなく「技術(Art)」ですので,「地域」あるいは「親方(たたら製鉄の場合は『村下』といいます)」によって「用語」や「やり方」に違いがあっても,それを問題にする方がおかしいですが,少なくとも,科学者を自称する人が,それに惑わされてはいけません.きちんと「どこで」あるいは「だれが」やったものを採録したとか,「なに」にそう書いてあったと明示すべきです.
 「真砂粉鉄」や「赤目粉鉄」も同じですが,どうやら「たたら製鉄」に関わっている人たちは,同じ言葉で違うものを,違う言葉で同じものを現している場合があるようです.これでは議論が成立しませんね.

 

2009年3月20日金曜日

赤目粉鉄

 

 単に,武田斐三郎の熔鉱炉が失敗した理由を知りたいだけだったのに,大変な大回り・遠回りをしています((^^;).
 「鐵の道」にハマり過ぎ((^^;)

 「真砂粉鉄」は「真砂から鉄穴流しで採集した粉鉄」という非常にわかりやすい定義を持っているのに対し,「赤目粉鉄」はそうではありません.

 ある研究者は明瞭な説明を回避し,結果として「銑を涌かすに適している」としているだけです.別の研究者は,「赤鉄鉱,褐鉄鉱が混じっている」ので,赤っぽくなる(と,関連づけて説明しているわけではないのですが,そう書いてある)と考えているようです.
 真砂から採取した「真砂粉鉄」でも,風化(酸化)が進んでいれば,「赤鉄鉱,褐鉄鉱が混じってい」てもいいんじゃあないかと思われます.しかし,そうすると「真砂」と「赤目」は対立する言葉ではなくなってしまいます.

 ある研究者は,「赤目粉鉄」は安山岩に由来すると考えているようですが(これも,明瞭にはそう書いていない),母岩である安山岩が火山灰であるにしろ溶岩であるにしろ,不透明鉱物がそう簡単に鉄穴流しによって分離できたとは考えにくいです.したがって,「赤目粉鉄」も真砂化した花崗岩(閃緑岩質でも真砂化していればかまわないとおもいます)から,鉄穴流しによって採集したと考えた方が自然です.
 「安山岩から赤目粉鉄が採集できる」と考える学者は,採取した赤目粉鉄を分析値と採集した地域の地質図を添えて提示すべきです.


 「無限地獄」の解釈はこれぐらいにして,オオモトになっていると思われる「鐵山必要記事」の記述に戻ってみましょう.

「備中の国にては、赤土の中より流し取粉鉄あり。あこめ粉鉄と申。実は少なけれとも性合能粉鉄なり。伯州も日野郡の内備中え近き所は取越て吹也。のほり押の粉鉄に是を用る也。」 
>【現代語訳】備中国(岡山県南西部)では,赤土の中から流し取る「粉鉄」がある.(これを)「あこめ粉鉄」という.量は少ないが,性質のよい粉鉄である.伯州(伯耆国:鳥取県中部西部)も日野郡のうち,備中に近いところでは採取して吹くそうである.「のほり押」の粉鉄にこれを用いる.

 備中国(のうち正確にどこなのかはわかりませんが)では,赤土のなかから採取する粉鉄があって,これを「あこめ(たぶん「赤目」をあてる)粉鉄」という.量(採取できる原料が少ないといっているのか,製品としての鉄の歩合が悪いといってるのかは判断ができません)は少ないが,性質の良い粉鉄である.伯耆国も日野郡のうち,備中に近いところでは,採取して吹くそうである(この記述から,「備中国」というのは,現在の阿哲郡神郷町-新見市北部あたりに限定できると思われます.また,伯州のほうは現在の日野郡日南町および日野町あたりをさしているのでしょう).

 「のほり押」はここでは説明がありませんが,たぶん以下を示していると思われます.
 窪田蔵郎(1987)には「たたら製鉄の操業」という節があり,そこには「鉧押法」と「銑押法」にわけて解説があり,銑押法には四つの行程があって,順に「こもり」,「こもりつぎ」,「のぼり」,「くだり」とされています.この三番目の行程のことをさしているものと思われます.しかし,銑押法にはこのような行程は示されていず,赤目粉鉄は銑押しに適するという話しと調和的ではありません.

つづいて,
「鉄吹やうも流し庭と申吹方にて、まさ砂粉鉄を吹とは違ふ也。刄金はなし。若刄金の如く吹けは不折也。」
>【現代語訳】鉄の吹き方も「流し庭」という吹き方で,「まさ砂粉鉄」を吹くのとは違う方法である.刃金(=鋼)はでない.もし,刃金を吹くように行なえば,「不折」となる.

 ここに出てくる「流し庭」という吹き方についての説明は見当たりません.土井(1983)の引用文では「流し座」になっていました.どっちにしても,説明は見当たりません.
 ここでは「まさ砂粉鉄」と表現されており,「真砂粉鉄」ではないですね.前提として「真砂」もしくは「まさ砂」から採取された「粉鉄」として,この言葉が使われているという傍証になるでしょう.
 「『真砂粉鉄』を吹く」つまり「鉧押法」とは違うやり方であるという意味でしょうか.そうすると,「銑押法で行う」という意味なのでしょうかね.あとに「鋼は出ない」とありますから,その可能性が高いでしょう.「不折」の意味はわかりませんが,何か特別な意味を持つ言葉のようです.

続いて,
「此不折重鉄をは切かね迚、延、刄金の如く切割て、又吹涌して小割鉄にいたし、」
>【現代語訳】この「不折」の重ね鉄を「切かね」として延ばし,刃金のように切り割って,再び吹き涌かして『小割鉄』にして,(以下論理つながらず.切る)

 前出の「不折」は,ここでまた出てきます.その行程はよくわかりませんが,「不折」は,少し手を加えると「小割鉄」という製品にできるようです.しかし,ここで文章は途切れ,このあとには,論理的にはつながらない文章が続きます.それは,

「播州、但馬、作州にては鉄砂と申。備、伯、雲、因、石の国にては粉鉄と申。」
>【現代語訳】播州(播磨国=兵庫県西南部),但馬(但馬国=兵庫県北部),作州(美作国=岡山県北東部)では『鉄砂』といい,備(備州=備前・備中・備後国=岡山県南東部+岡山県西部+広島県東部),伯(伯州=伯耆国=鳥取県中西部),雲(雲州=出雲国=島根県東部),因(因州=因幡国=鳥取県東部),石(石州=石見国=島根県西部)の国では『粉鉄』という.

 ということで,全体からは,いわゆる「山陽道-地方」では「鉄砂」といい,いわゆる「山陰道-地方」では「粉鉄」と呼んでいるという解説です.何か間の文章が欠けているのかもしれません.

 これだけです.
 もともと,「あこめ粉鉄」は島根県日野郡のあたり,岡山県阿哲郡のあたりで「赤い土」から産出する粉鉄を示す言葉でしたが,のちに,いろいろ解釈が加わるうちに「赤目」の字があてられ,そのため「あこめ粉鉄」自体が「赤い色」をしているとされ,その赤い色から,赤鉄鉱や褐鉄鉱が多く含まれているとされてきたと考えた方がいいような気がしますが,いかがでしょう.
 なお,「粉鉄」の見分け方の記述のときに,「色赤く成は銑に涌安し」という記述があります.もし,どこで産出したにしても赤っぽい粉鉄を「赤目粉鉄」というのであれば,なぜここで「これを赤目粉鉄という」と書いていないのでしょうかね.


 気になるのは,何かまだ表に出てきていない史料・資料があるのではないかということです.
 日本学士院編「明治前日本鉱業技術発達史」では,「鉄山必要記事」の解説のところで,「その概要を理解するうえで便宜上同書より後の時代に書かれた『鉄山略弁』の記述によってみる」とあります.後注によるとこれは「山田吉眭『鉄山略弁』(写本)参照」とあります.いろいろ調べてみましたが,この実態は不明でした.
 また,土井(1983)では「鉄山必要記事」には書かれていないような詳細な記述があるのですが,その文章の末尾に(「鉄山一統之次第」)と書かれています.ところが,不思議なことに,これは末尾の「参考文献」には示されていません.明らかな「引用」なので「引用文献」として明瞭に示すべきだと思いますが,「引用文献」という概念がないようです.これは「たたら」関係の本一般に言えることですが,「だれが,そういったのか」ということはたいていの場合,明らかではありません.
 もっとも,明示されていても,ほとんどが公刊・公開されていない「古文書」・「手記」・「社内誌(校内誌)」・「会誌」・「同人誌」なんですけどね.

 ほかにも,本文中に短文と書名のみが引用されているのに,引用文献としてリストされていないものがあります.これが普通にあるので,普通に「壁」になり,読み解くことが困難になっています.

 さて,もう,いい加減なところで切り上げて,本筋に戻らなくっちゃ((^^;).

 

2009年3月17日火曜日

「真砂粉鉄」・「赤目粉鉄」

 

 土井作治(1983)「近世たたら製鉄の技術」*では,「山砂鉄」が「真砂小鉄」と「赤目(あこめ)小鉄」からなるとしています.それがなんであるか,明瞭な解説は行っていませんが,「赤目を銑,真砂を釼に適する」としています.
 ここで,「銑」は「ずく(もしくは「づく」)」といい,銑鉄のことです.「釼」は,本来は「けん(もしくは「つるぎ」)」なんですが,ここでは「釼」=「金」+「刃」で「刃金」=「はがね」=「鋼」の意味になっています.
 「真砂小鉄」からいきなり「鋼」になるわけではなく,「真砂小鉄」からは「鉧(けら)」とよばれる多層構造の鉄隗ができます.通常は海綿状の粗鋼の周りに鉱滓を伴った塊ですが,中心に玉鋼とよばれる良質の「刃金」=「鋼」ができていることもあります.

*土井作治(1983)「近世たたら製鉄の技術」.69-103頁,永原慶二・山口啓二(1983編)「採鉱と冶金」(講座・日本技術の社会史5,日本評論社)


 一方,窪田蔵郎(1987)「改訂 鉄の考古学」(考古学選書9:雄山閣出版)では,「D 外観分類(たたら場独特の分類法である)」として,以下のように解説しています.

真砂(まさ)光沢強く,磁鉄鉱を主体とするもので,酸性砂鉄に属する.(分析値からみると赤目よりT. Feが若干高く六〇前後のパーセントを示す.真砂粒子六〇メッシュピーク.TiO2は平均二パーセント程度である.)
赤目(あこめ)赤鉄鉱,褐鉄鉱が混じっているもので,塩基性砂鉄に属する.(T. Feは五〇~五三パーセント程度であり,真砂より若干低い.赤目粒子一〇〇メッシュピーク.TiO2は五パーセント程度を示す)


 意味不明な言葉および文が多いのですが,どうやら「真砂(粉鉄)は磁鉄鉱を主体」とし,「赤目(粉鉄)は赤鉄鉱,褐鉄鉱が混在している」といっているらしいです.しかし,「磁鉄鉱を主体として,赤鉄鉱や褐鉄鉱が混在している」砂鉄が存在しても不思議はないので,この違い>分類は理解ができません.

 「酸性砂鉄」と「塩基性砂鉄」は地質学用語ではないので理解ができませんが,窪田氏は一応「C 成分別分類」として以下のように解説しています.

「酸性砂鉄・母岩が花崗岩系のもの.チタン・クロームの含有が少ない.」
「塩基性砂鉄・安山岩系のもの.チタン分が多い.輝石,角閃石を多く含み,特に紫蘇輝石を伴うことが多いのでマグネシウム分に富む場合が多い.」

 これも難解な文章ですが,どうやらリトマス試験紙で区別がつくようなものではないようですね.ちなみに,地質学では,「花崗岩は深成岩」であり,「安山岩は火山岩」です.また,「花崗岩はいわゆる酸性岩」ですが,安山岩は塩基性岩ではありません.「安山岩は中性岩」になります.こちらもリトマス試験紙で区別がつくものではありません.
 しかし,これはどう読んでも,「酸性砂鉄」や「塩基性砂鉄」の成分を説明している文章ではないので,どう解釈しても無意味なような気がします.

 ちなみに,窪田氏は以前は,以下のようにいっていました.

「真砂」┬荒真砂:純花崗岩のもので粒度大
    └真砂:純花崗岩のもので粒度やや小
「赤目」┬赤目:角閃花崗岩のもので褐鉄鉱を含む
    └紅葉:角閃花崗岩,特に色彩の赤色なもの

              窪田蔵郎(1966)「鉄の生活史」より

 こちらの方がよりすっきりしていますが,よく見るとやはり意味不明のところが多いですね.
 「荒真砂」と「真砂」は粒度に違いはあるようですが,“純花崗岩”を母岩とする「砂鉄」ということですね(粒度の違いとはどの程度のことか知りたいところですが,そんなことは,ほかのことに比べればたいしたことではないようです).
 「赤目」は「褐鉄鉱」を含むようですが,主体がなんなのかが書いてありません.たぶん「砂鉄」なのでしょうけど,「砂鉄」はもともと「鉄の酸化物」をも含んでいますから,ここで「褐鉄鉱」を含むとあえて書くのはおかしなことです.
 また,「赤目」と「紅葉」の違いは「赤目」は「粉鉄」で「紅葉」は“角閃花崗岩”そのもののことのようです.そんなバカなと思いますが,そう書いてあります.

“純花崗岩”と“角閃花崗岩”
 さて,地質学には“純花崗岩”という言葉はありません.また“角閃花崗岩”という言葉もありません.
 なぜこういう不正確な言葉を使うのか分かりませんが,翻訳してみることにしましょう.
 “角閃花崗岩”とは,「角閃石花崗岩」のことだと思われます.花崗岩は花崗岩なので,とくに角閃石という語をつける必要はないのですが,花崗岩中に有色鉱物がある場合で,それに意味を持たせたい場合には,その有色鉱物の名称を付加する場合があります.それにしても,“角閃”という鉱物はないので「角閃石」です.

 通常,有色鉱物が含まれている場合には,有色鉱物が多ければ多いほど,酸性岩より中性岩に近い組成を持っていることになります.この場合,「角閃石」が出る前に「雲母」が出ているのが普通です.だから,「花崗岩」-「(白/黒)雲母花崗岩」-「角閃石-黒雲母花崗岩」-「黒雲母-角閃石花崗岩」の順に酸性岩から中性岩に近づくことになります.もっとも,「黒雲母-角閃石花崗岩」になると「閃緑岩」といってしまった方が早いです.
 これを前提に考えると,窪田氏は「真砂粉鉄」と「赤目粉鉄」の違いは「母岩の酸性度の違いに由来すると考えていた」と考えると理解が可能です.しかし,酸性度が下がればそれに伴って花崗岩中に「褐鉄鉱」が増えるという話は聞いたことがありません.

 なお,蛇足しておけば,窪田氏は最初,「真砂」も「赤目」も「山粉鉄」に属すると考えていたのに,後には,「真砂」のみが「山粉鉄」に属すると考えていたことになります.なぜなら,安山岩は(通常)真砂化することがなく,「山粉鉄」になることはないからです.

話を,「鉄の考古学」の分類に戻します.
 T. Feというのは,たぶん,Total Feのことだと思いますが,「真砂粉鉄」のT. Feが60%前後で,「赤目粉鉄」のT. Feが50~53%程度とのこと.この違いがどの程度のことなのか,私にはわかりませんが,「鉄穴流し」=水簸(比重選鉱)の良否・優劣によって,また場所(あるいは源岩)によって,そのくらいの差はあっても不思議はないような気がします.T. Feが40%ぐらいの砂鉄はなんというんでしょうかね?

 さらに,これも意味不明ですが,「真砂粒子六〇メッシュピーク」および「赤目粒子一〇〇メッシュピーク」とあります.たぶん,粒度分布を調べると「真砂粉鉄」は60メッシュをピークとする分布を示し,「赤目粉鉄」は100メッシュをピークとする分布を示すということを言いたいのだろうと思います.もしかしたら,いくつか粒度メッシュの違う篩を重ねて,これに通したら「真砂粉鉄」は60meshの篩に一番たくさん残り,「赤目粉鉄」は100meshの篩に一番残ったというだけの話かも知れません.この場合は何meshの篩を重ねたのかを示してくれなければ意味がないですね.
 ちなみに,60mesh篩の開口は0.250mmで,100mesh篩の開口は0.150mmです.要するに「真砂粉鉄」のほうがわずかに大きいということを示したいらしいのですが,この違いが何を意味するのかはわかりません.ちなみに,地質学では60mshに残るサイズも100meshに残るサイズも,ともに「細砂」として分類されています.また,服部(1962)には「中国山地の現地残留砂鉄の粒度組成」が示されていますが,60mesh(服部では65meshを採用しています)と100meshで何か違いがあるようには見えません.
 もう一つ,TiO2の含有量についても,違いがあるように書いてありますが,2%と5%の違いが何を意味するのかはわかりません.これはついては別の機会に議論したいと思います.

 なんにしろ,「真砂粉鉄」と「赤目粉鉄」の違いを地質学的に理解するのは大変なことのようです.というか,(これ以外のことを含めて)考古学者や文学者の言葉を地質学でわかる言葉に翻訳するのは,本当に大変です(好きでやってるんですけどね).

蛇足しておきます.
 某地球科学者のHPで,「地質屋がいう『真砂』と考古学者(この場合は古代製鉄をテーマとしている考古学者のこと)がいう『真砂』とは違うようだ」とか書いている人をみました.こういう人が「地球科学者」を自称しているのは悲しいことです.
 地質学というのは本当に滅びてしまったんですねえ(悲しい(-_-;).
 「真砂」はもともと中国・四国地方の花崗岩地帯で原岩の構造を残したまま風化が進んだものに対して現地の人が使っていた言葉で,そういう特殊な風化の進行を表すのに,「真砂化」という地質学用語が生まれたものです(地質用語になってからは,同様の風化なら,別に原岩が花崗岩でなくても,かまわなくなりました).
 一方,たたら師が使う“真砂”は,その「真砂」から鉄穴流しで採集できる「粉鉄」に対して「真砂から出る粉鉄」だから「真砂粉鉄」とよんでいたものを,符丁としてあるいは省略形として「真砂」と表現しているもので,本来の真砂は「真砂化した花崗岩」のことです.つまり,同じものでした.

閑話休題
 さて,「真砂(粉鉄)」は「真砂から出たから真砂粉鉄」として,その由来を示しているのに対し「赤目(粉鉄)」という名称は別に由来を示してるものではありません.若干赤みがかった「粉鉄」のことをいっているだけです.

 「鐵山必要記事」では「備中の國にては、赤土の中より流し取粉鐵あり、あこめ粉鐵と申」とされています.備中の國とは現在の岡山県西部のこと.続けて「伯州も日野郡の内備中え近き所は取越て吹也」とあります.伯州は伯耆国のことで鳥取県中西部のこと.島根県日野郡も岡山県に近いあたりは,この「赤目粉鉄」を採集しているということです.
 「鐵山必要記事」では,このように,岡山県西部や鳥取県中西部では「赤目粉鉄」として採集していると書いてあるだけですが,いつの間にか「粉鉄」には「真砂(粉鉄)と赤目(粉鉄)がある」などということが平気で語られるようになります.ほかの地域では,特に「粉鉄は真砂(粉鉄)と赤目(粉鉄)がある」とか書かれた古文書が見つかっているという話は見当たりませんのですが….
 ひどく混乱しているようです.
 たとえば,前出の九州地方の砂鉄について論じた原田種也(1966)「黒い砂」には,「赤目粉鉄」どころか「真砂粉鉄」という言葉も出てきません.ローカルな名前をいつの間にかグローバルな名前に取り違えて,しかも分類用語として誤用してしまったものでしょう(しかし,「赤い」ということには,何か意味を見いだせるかもしれません).

話は変わりますが,
 「鉱山必要記事」では,もう一つ「こもり粉鉄」という言葉が出てきます.不思議なことに,これを「真砂(粉鉄)」や「赤目(粉鉄)」のように,分類用語として取り扱われたことはない(どころか,あまり説明されることもない)ようです.なぜでしょうね.
 「こもり粉鉄」とは,たたら製鉄を始める最初の過程を「こもり」といい,そのときに使われる「粉鉄」だと書いてあります.非常に重要なものという書き方です.しかし,その実態については,延々と解説(のようなもの)が書いてありますが,相互に矛盾するような表現も多く,私の能力では解読できそうにありません.

 なんにしろ,「真砂(粉鉄)」,「赤目(粉鉄)」は「こもり粉鉄」を含めて「分類用語」としては,まだ熟成していないようです.

 

2009年3月15日日曜日

山粉鉄・川粉鉄・浜粉鉄

 

「山砂鉄・川砂鉄・浜砂鉄」
 考古学者がよく使う「砂鉄の分類」です.

 例えば,土井作治(1983)「近世たたら製鉄の技術」*では下図のように「高殿鑪の製鉄行程図」をわかりやすくまとめています.この基本になっているのが,原料としての「山砂鉄」・「川砂鉄」・「浜砂鉄」です.「山砂鉄」を「真砂小鉄」と「赤目小鉄」に分けていることに関しては,また,別の機会に.

 

*土井作治(1983)「近世たたら製鉄の技術」.69-103頁,永原慶二・山口啓二(1983編)「採鉱と冶金」(講座・日本技術の社会史5,日本評論社)

 一方,窪田蔵郎(1987)「改訂 鉄の考古学」(考古学選書9:雄山閣出版)では,「生成時代別産状別分類」として下図のように示しています.



 なお,窪田氏は窪田蔵郎(1966)「鉄の生活史」では,その産状から「山砂鉄」・「川砂鉄」・「浜砂鉄」の三種類に分けられるとしています.


「鉄砂」・「粉鉄(=小鉄)」
 これらの「山砂鉄」・「川砂鉄」・「浜砂鉄」という分け方は,どこからきたのか厳密にはわかりませんが,可能性が高いのは下原重仲が天明四(1784)年に著述したといわれている「鐵山必要記事」(もしくは「鐵山秘書」といわれています)の記述からだと思われます.ただし,三枝博音が編纂した「鐵山必要記事」(日本科学古典全書10)には,これらの言葉はありません.
 「砂鉄」という言葉自体がないのです.
 「鐵山必要記事」では「粉鉄」と書いていますが,同書には「播州・但馬・作州にては鐵砂と申」といい,「備・伯・雲・因・石の國にては粉鐵と申」とあります.
 播州=播磨国=兵庫県南西部,
 但馬=兵庫県北部,
 作州=美作=岡山県北東部,
 備=備州=岡山県南東部・岡山県西部・広島県東部,
 伯=伯州=伯耆国=鳥取県中西部,
 雲=雲州=出雲国=島根県東部,
 因=因州=因幡国=鳥取県東部
 石=石州=石見国=島根県西部
 で,いわゆる山陽道では「鉄砂」といい,いわゆる山陰道と岡山県・広島県では「粉鉄」といったということです.
 「粉鉄」は「小鉄」と書く場合もあったらしいのですが(私は,原著に近いものではみたことがありません).これは共に「こがね」とよんだらしいです.つまり,「黄金」と同じ発音で,同じように重要視されたといわれています.

 この「鉄山必要記事」は俵国一が日本鉱業会誌に連載し,その後「古来の砂鉄精錬法」に収録した経緯があります.現在では,この本は,ほとんどが失われてしまって,古書店でも数万円の値がつく代物です.そこで,俵氏が解説するときにか,あるいはそれを別の研究者が引用し続けるなかで,「川粉鉄」が「川砂鉄」,「濱粉鉄」が「浜砂鉄」にかわり,また「山砂鉄」という言葉もできてきたものなのだろうと考えています(と,書いている間に,この復刻・解説版が出ていること知ってしまいました.確認しなきゃ>今日はもう「品切れ」になってました(-_-;).

 私は,いくつかの理由で,この「粉鉄」もしくは「小鉄」を「砂鉄」とするのはよろしくないと考えています.それは,「粉鉄」(この場合は,これは明らかに「山粉鉄」なんですが)の善し悪しを見分けるのに,「炎勢の上に打ちまき焼べてみる」という記述がありますが,このとき,「上品」は「バラバラ」とはじけ,そうでないものは音がしないという記述があります.「バラバラ」とはじけるのは「砂鉄」の粉末であり,そうでないものは有色鉱物の破片なのでしょう.
 これは,水簸(比重選鉱)の結果がよろしくなく,多量の(不透明鉱物ではない)有色鉱物(の破片)が残留していることを意味し,チタン鉄鉱や赤鉄鉱を含む広い意味にしても「砂鉄」とイコールにしてしまうのは,あまりよろしくないと思うからです.

「山粉鉄」
 「鉄山必要記事」には「山粉鉄」というものは出てきません.

 「鉄砂」は「鉄山」からで採集するのが当たり前で,これは「真砂化」した花崗岩の露頭から「鉄穴流し」で軽量鉱物を排出し,「砂鉄」を含む重鉱物を残留させるものです.したがって,「山粉鉄」は地質学的に母岩として花崗岩の存在を前提とし,花崗岩が存在しない地域では,「山粉鉄」も存在しません.
 九州の砂鉄鉱床について論じている原田種也(1966)「黒い砂」は,「九州ではまだ山地鉱床とよばれるものは発見されていない」と述べています.なぜなら,宮崎県・鹿児島県下の「いわゆる現地残留鉱床」は「シラス層が風化されて砂鉄が流出し堆積したもので 稼行できるものでない」からです.ただし,九州でも福岡県地域には花崗岩が分布しているはずですが,原田氏はこれについては何も触れていません.
 地質学的(あるいは鉱床学的)には「山粉鉄」は,どういう意味を持っているのでしょうか.人為が加わると「地質学的」な意味を判断するのは,常に困難が伴います.しかし,地質学的には「(風化)残留鉱床」というものがあり,拡大解釈すれば,(人為的・人工的な)「残留鉱床」と判断することもできるでしょう.

 「山粉鉄」は花崗岩の存在を前提とするとともに,その「山」は,「平地(あるいは海岸)ではない地域にある」という意味も持っています.
 後背地に真砂化した花崗岩を持つ地域では,第四紀・洪積世に現河床堆積物として「川粉鉄」が自然に堆積しますが,これは次の第四紀・沖積世には段丘堆積物となります.これは,すでに「堆積鉱床」ですから,鉄穴師たちにとっては宝の山だったでしょう.
 鉄穴師たちにとっては,母岩がどうであろうが,結果として「粉鉄」がとれればよいわけですから,現代地質学的な意味で,母岩について検討したとは思われません.したがって,これらも「山粉鉄」とよばれたはずです.実際,窪田氏もそう判断しています(窪田氏の表参照).
 「山粉鉄」と一口にいっても,地質学的・鉱床学的には,全く別のものが混じっているわけです.

「川粉鉄」
 「山粉鉄」を「鉄穴流し」で採集したとき,これを前提として流れ出し,「鉄穴」からすぐ下流に溜まっている「粉鉄」を「川粉鉄」とよんでいます.
 しかし,「鉄穴」から流れ出してしまった「粉鉄」を前提としているのですが,すでに自然に流れ出してしまい現河床に堆積していた(つまり,第四紀・沖積世の堆積物としての)「粉鉄」も「川粉鉄」とよぶようです.要するに,平地に流れる川にあるものであれば,「川粉鉄」とよんだわけです.
 つまり,人為的・人工的につくった「堆積鉱床」も,自然にできていた「堆積鉱床」も「川粉鉄」とよんでいるわけです.
 この「川粉鉄」のうち,自然にできていた「川粉鉄」の方には,特殊な,かつ「たたら師」たちにとっては非常に有益な性質を持っているのですが,それは後で書くこととします.

 なお,大山山麓での「川粉鉄」によく似た「もの」についての注意書きがあります.外見上は(真砂化花崗岩地域の)「川粉鉄」によく似ているが,「温石砂」が混じっており,これは水簸(比重選鉱)でも「粉鉄」と分かれてくれないので,役に立たないと述べています.しかし,この大山の「偽-粉鉄」でも川末(=海岸地域)のものは「銑鉄になる」としています.現代地質学的な意味での違いは理解していなかったにしろ,中国地方-中軸部=真砂化した花崗岩,大山(=火山岩)という違いは理解していたということになるのでしょう.

「浜粉鉄」
 海岸付近には「演粉鉄」もしくは「潰粉鉄」というものがあると書いてあります.これは前後の関係から「濱粉鉄」の書き間違いと考えられています.「濱」は「浜」の旧字.
 要するに,海岸地域にある堆積鉱床なんですが,海岸の環境は複雑なので,一概には説明ができません.基本的には河川の後背地の地質を反映しているはずですが,地形による波の強弱あるいは海流の状況によって,ミクロにまたマクロに粒度および組成が変化し解析は容易ではないことが服部富雄(1962)「本邦砂鉄の構成鉱物と粒度分布について」にかかれています.
 これを反映して,「鉄山必要記事」の記述も,良いものもあれば悪いものもあり,総じて余りよくないというような書き方になっています.


分類? 産地?
 「砂鉄は『山砂鉄』・『川砂鉄』・『浜砂鉄』に分けられる」という記述がしばしば見受けられますが,「産業考古学的な分類だ」としたら文句をつける筋合いではないですが,地質学的には意味がない分類だとおもいます.上に示した窪田蔵郎(1987)の「生成時代別産状別分類」の“地質時代の砂鉄”のように,時代別に分類したあげくに,分類結果がみな「山砂鉄」というのは「不合理な分類」としかいえません.
 “現世の砂鉄”の分類にしても,これは「分類」というよりは,「ある場所」を示しているだけで,意味のあるものにはなっていないからです.「ある場所」を示すなら,「山」にあるか,「川」にあるか,「浜」にあるかだけで十分.こんなに細かくわけてもそれで何かがわかるわけでもない.「分けた」結果として「何も分からない」なら,結局「分ける」必要はないのです.

 窪田氏も最初は単純な「山砂鉄」・「川砂鉄」・「浜砂鉄」という分類(というか産地を示す用語)しか使っていなかったようですが,地質学的な意味を持たせようとして…失敗してしまったのだと思われます.

 

2009年3月12日木曜日

黒川金山関連

 

 1/24付け記事「金山草」をみて,アマゾンを通じて,なぜか大藪宏「戦国武田の黒川金山」を購入した人がいるようです.
 本人が読みたいと思って買ったのならかまわないのですが,私はこの本を紹介していません.

 そのときに紹介した今村啓爾「戦国金山伝説を掘る=甲斐黒川金山衆の足跡=」に,こういう一文があります.
「最近大藪弘(ママ)という人が、この坑道を近代のものだと知りながらもそれを伏せて、その探訪を探検記のごとく大げさに書いた著書を出している。物書きの良識を疑わせる行為と言わざるをえない。」

 「これ」と「それ」が一致するかどうかは知りませんし,また,興味もありません.
 これを知った上で,読むとまた別の興味もあるのかなとは思いますが,それは,また別の次元の話です.「ト○○」次元のね.

 とにかく,私は上記本は紹介していませんので,面白くても,そうでなくても,責任おいませんよ〜〜.

 

古世代・中世代・新世代

 

 皆様ご承知の通り,この表題は間違っています.

 勉強の仕直しというか,「技術史」のおさらいをしておこうと思って,下記の本を購入しました.

    


 その,「表1-1」に「古世代・中世代・新世代」という言葉が出てきます.また,「3紀」とか「4紀」とか,「大氷河時代」とか,学生用の教科書としては全くふさわしくない「妙な用語」がたくさん出てきます.
 よく知っている(つもりの)分野に関して,これだけ「妙な言葉」が使われているのなら,当然,よく知らない分野に関しても,「同じだけの間違いがある」と考えるのが当たり前でしょうから,開いて8頁目で,この本を読む気が失せました(「金,返せ」とまではいいませんが).

 著者の専門外のことで,こき下ろしてもしょうがないですから,しませんが,実に悲しい.なぜなら,地質学の基礎の基礎みたいな「用語」がこれだけ粗略に扱われているのは,地質学関係者(特に大学で教鞭を執っている人たち)すべてに責任があると思わざるを得ないからです.
 もっとも,大学の「地質学者」は,すでに「地球科学者」に看板を架け替えているので「オラ,知らんよ」というかもしれないですが….
 それでも,「地球の歴史の基礎の基礎」を表す言葉であることにはかわりありません.

 全く,悲しい(-_-;)

 

2009年3月6日金曜日

処分

 

 湊先生の別刷りを処分しました.
 と,いっても学生時代に複写した南部北上山地に関する一連の論文です.

 あちこちに,書き込みがしてあって,必死で内容を理解しようとした形跡がありました.私はその時,卒論学生で,なにか凄いことのお手伝いができるんだと思ってました.

 山歩きなんか嫌いだったのに,いつの間にか,けっこう楽しんでいる自分に気がつきました.キャビネサイズの乾板にサンゴの化石を貼付けて,薄片にするなんてことは思っても見なかったですが,たくさんつくりました.
 いまだに何をやっていたのかは,よくわかってませんが….

 ただの思い出になってしまいました.

 

北海道炭鉱資料総覧

 

 大変な資料を入手してしまいました.
 2/7付け「空知地方史研究協議会」と,2/14付け「空知の鉄道と開拓」で紹介した「石狩炭田炭鉱変遷図」を探し求めていたら,当の「空知地方史研究協議会」と連絡がつきまして,3月5日付けで「石狩炭田炭鉱変遷図」を上回る「北海道炭鉱資料総覧」が出版されるというのです.

 で,本日それが届きました.
 凄まじい量のデータです.関係者に敬意を表します.これを読みこなすのは,相当の時間と根性,そして基礎知識が必要ですね.
 ざっと見たところ,「引用文献」および「参考文献」(概念および実際の記述)に,かなりの問題がありそうです.原著にあたることができればいいんですけどね.これは,そのうち実際にあたって確認することとしましょう.

 なんにしろ,こういう組織があることがうらやましいですね.
 旭川に戻って,図書館で「『郷土研究会』みたいなものはないか」と尋ねたら,「そんなものはない」といわれましたからね.彼我の差を感じます.
 もっとも,私は上川地域の代表でもなんでもないんですが….

 悲しいかな,その「空知地方史研究協議会」が,この本の出版をもって活動を停止するそうです.発展的解消であってくれればいいんですがね.

  

2009年3月4日水曜日

斐三郎の失敗?

 

 前の記事で,武田斐三郎の熔鉱炉について,その評価に疑問があるので資料を集めていると書きましたが,意外と簡単なところで,光明が見えてきました.
 斐三郎の熔鉱炉は,(成功したという)記録がほとんどないので,失敗したと考えられてきましたが,そう考える理由というものは,今ひとつ納得できないものでした.ひどいのは「技術が未熟だったから,失敗した」という完全なトートロジーで終わらせているものもありますが,かなり綿密に検討している場合でも,今ひとつ論理がつかめない,今ひとつ裏付けに欠けるんでは…と,思われるものばかりでした.
 それで,もう少し詳しく…と,思っても,前の記事で書いたように,情報の壁は厚いものでした.ようやく,検討できる状態に達したわけです.

 あっという間に解決しました.
 まだ,熔鉱炉計画のタイムテーブルができてませんので,完全にそうだとは言い切れませんが,多分間違いないでしょう.

 個々の研究者の論点についての細かい検討は別にするとして,だいたい誰もが「これが原因である」とすることは,砂鉄を高炉の原料に用いると1)(砂鉄が砂状であることが原因で)それが高温ガスの通路をふさぎ高炉の熔解メカニズムが十分に働かなくなること,2)(砂鉄に通常含まれる)チタン成分が高温でしか熔融しない鉱滓を生み出し操業不能となることです.

 とくに高木幸雄(1967)*では,「必ず次のような障害が起きるものである」と,福田連(1930)**を引用して,裏付けを示しています.福田は実験岩石学者なので,「そうか,無理なのか」と思い込んでしまいそうです.しかし,幸いなことに,この引用文献は雑誌「岩石鉱物鉱床学」であり,これらは同学会のDBで公開されていますので,誰でも見ることができます.

*高木幸雄(1967)古武井熔鉱炉に関する研究=幕末期蝦夷地開拓と外国技術=.人文論究,第27号.
**福田 連(1930a-c)含チタン可熔性礦滓の研究,特に灰長石,透輝石,[クサビ]石三成分系に就て(1〜3).岩石鉱物鉱床学,3〜4巻.

 実際に引用文献を読んでみると「びっくり」なのですが,福田氏の論文は,砂鉄を高炉の原料に用いると,上記のような困難が生じるが,工夫によって「鎔銑ができる」という論文なのです.実際に福田氏は福田氏以前の鎔銑成功例を何件も示していますし,その実験岩石学的裏付けが,この論文そのものなのです.
 「びっくり」でしょ.

 高木氏の論文はけっこう困った引用があって,たとえば,「道南地方は元来砂鉄が豊富で,古くから砂鉄の精錬が行なわれていた」として,「新撰北海道史」採録の「休明光記」を引用しています.実際にそれを見てみると,「志苔の砂鉄 貞享の頃,近江の商人西川庄右衛門が出願し,十二年営業した.正徳年中同じく近江の商甲屋平七が再び出願し許可されたが,収支償はず,幾くもなくして廃止した.」となっています(貞享元年は1684年.正徳元年は1711年です).
 ところが,天野哲也氏が,たたら研究会(1991編)「日本古代の鉄生産」で,「製鉄ということに限定しますと,古代に相当する時期,あるいは中世に,北海道では鉄の生産は行なわれていなかったと思います」と述べています.そして「僅かに近世末になって製鉄が行なわれた形跡が認められている」と付け加えています.

 この近世末の製鉄とは「古武井の熔鉱炉」のことですが,それも「試みられていたらしい」という程度です.つまり,文献的な証拠はあっても,発掘考古学的な証拠は見つかっていないということです.このことについては,何回か紹介してきましたが,要するに,精錬の証拠はなく,残されているものは(古武井は別としても)すべて鍛冶に関する遺物だというのです.蛇足しておくと,どこかで製品として完成された「鉄」をもってきて,熱して鍛え,なにかの鉄製品にしていた跡ならあるということです.

 「なかった」ことを示すのは大変ですが,「あった」ことを示すのもけっこう大変のようですね.
 また,引用文献というやつは,気をつけないと,「そんなことは書いていない」どころか,「全く真逆のことが書いてある」場合があるので,実際に確認してみるのがいいようです.

 さて,話を戻しましょう.
 1)の「砂鉄」が「砂鉄」であるための存在理由に近い「砂状の形態」は事前に処理をすることによって塊状の形にし,2)の不熔性鉱滓の生成は,熔剤の成分を調整することによって実動可能になるといいます.
 ここで,「熔剤」というのは「熔融剤」ともいわれ,熔鉱炉において鉄鉱原料やあるいは燃料としてのコークス中の不純物と化合させて,結果として1)熔融点が低い,2)流動性が高い,3)鉄との比重差が大きい「鉱滓」をつくる物質をいいます.コークスではなくて,木炭を使う場合は,その分の熔剤は不要になるわけです.

 斐三郎の時代は,「熔剤」といえば「石灰石」というのが常識だったそうですが,海外では明治にはいってすぐに「高チタン鉱石」の熔鉱に玄武岩や古煉瓦を使った例があり,何の問題も起こさなかったという記録があります.
 英国人が気づいたことを,斐三郎は気づかないとする法はありません.実験が続けられれば,気づいた可能性があるのは否定できません.
 蛇足しておけば,熔鉱炉のメカニズムがわからず,「熔剤」とはなんであるかを理解するのにしばらくかかりました.ひどい解説書になると「製鉄の原料は,鉄鉱石と石灰石と石炭(コークス)である」と書いてあります.石炭は燃料だから原料ではないのは明らかですが,石灰石の役割はなかなか明示されることはないようです.

 もうひとつ.
 「砂鉄には必ずチタン鉄鉱が含まれている」などと,平気で書いてあります.これは,どうも怪しい.藤原哲夫(1962)は「北海道の砂チタンおよび含チタン砂鉄鉱石」を調査し,これらをTiO2/T.Fe比によって,「砂チタン」,「高含チタン砂鉄」,「低含チタン砂鉄」,「砂鉄」にわけています.
 「磁鉄鉱中に,ほとんどチタン分を含まないもの」を「砂鉄」と呼んでいます.これは道内でも非常に特殊なもので,「中頓別」付近でしか見られません.では,志海苔・古武井をふくむ道南部の“砂鉄”はどうなのでしょう.
 「道南部」の“砂鉄”は「磁鉄鉱を主要構成鉱物とし,その中に固溶体あるいは離溶共生体として,少量のチタン鉄鉱・ウルボスピネル・含チタン赤鉄鉱を含むもの」で「低含チタン砂鉄」として分けられています.TiO2/T.Fe比で0.10〜0.24.オホーツク海沿岸部の“砂鉄”が重量%で40〜50%近くのチタン鉄鉱を含むのに対し,道南部のものはもともと10%以下しか含まれていないのです.

 また,福田(1930)には,十分ではないにしろ,比重選鉱や磁力選鉱を用いてチタン鉄鉱分を下げることは可能だと書いてあります(もちろん,ものによっては,とくに磁力選鉱は効果がないと書いてありますが).他の方法との併用により,結果として,鉱滓中のチタン成分を低下させ,出銑の障害を低下させることは充分可能であり,道南部の「(低含チタン)砂鉄を原料とした高炉製鉄はもともと不可能である」とは言えないはずだと思われます.

 

 
 ある事情で,昨晩はず〜〜っとイーグルスのホテル・カリフォルニアを聴いてました.
 ま,なんでも良かったんですけどね.

 やめようか.いや気を取り直して,頑張らなくっちゃ.

 

2009年3月3日火曜日

資料探索・武田斐三郎の熔鉱炉

 

 武田斐三郎の熔鉱炉がなぜ失敗したのかが,まだ気になっていて,いくつか情報を集めていました.これに関する記述の大部分は,いわゆる科学論文ではないので,収集はなかなか困難なのです.

 たとえば,白山友正氏の「武田斐三郎伝」は「北海道経済史研究所」から出版されていますが,「北海道経済史研究所」なるものは現存しません.古書店の店主が初めて見たという,その「武田斐三郎伝」を入手して初めてわかったのですが,「北海道経済史研究所」というのは白山氏が北海道学芸大学(現・北海道教育大学;多分函館校)に在職中に設立した機関ですが,その業務は不明.唯一,「北海道経済史研究所・研究叢書」を出版していたことがわかっていますが,「武田斐三郎伝」はその叢書の第46編にあたります.それ以前のすべての叢書の著者も,白山友正しでした.
 つまるところ,「北海道経済史研究所」というのは,白山氏の著作を出版することが業務であったようです.形式上はともかく,自主出版に近い形だと考えられるのです.

 実は,入手したこの「武田斐三郎伝」の中には,切った原稿用紙に書いた「手紙」が挟まれていました.それには,相手が完成させた著書を一冊頂きたいということが書かれていました.一般に流通することが目的ではなく,このように,同じような研究者同士の名刺代わりのものだったのだろうことが推測できるわけです.
 つまるところ,できあがった印刷物の数は,数百がいいところで,地方都市図書館程度では所蔵しているところは無いと思われます.道立,函館,北大などでは所蔵していますが,当然のように禁帯出(もしくは貸出禁止).
 あれば見に行けばいいではないかと思われるかもしれませんが,実際に出かけていったとしても,一日二日で読み終えられるようなものではないですね.
 ならば,複写という手があるではないかと思われるかしれませんが,著作権をたてに半分までしか複写できないという妙なルールがあります(本当にそういうルールがあるのかどうかは知りませんが,現場ではそういわれます).「残りは,翌日どうぞ」というわけです(つまり,司書様たちは前日のことは覚えていないということです).まことに不思議なルールです.

 お目にかかるのは,けっこう大変なのですよ.

 この手の資料に関しては,現行の図書館は博物館の資料保存庫と変わりがありません.保存が目的であって,情報提供は目的外ということ.それでも,不思議なことに,関係者の閲覧および使用はフリーパスのようで,そこの図書館の司書が自分の著書に引用(写真や複写など)してたりするんですが….

 話がずれてしまいました.元に戻します.
 そんなわけで,形式上は「北海道経済史研究所」の出版物となっていますが,明らかに白山氏個人の自主出版物であると思われます.つまり,白山友正(1971)ではなく,白山友正(1971MS)に限りなく近いということですね.
 文系の人の文章は,一般的に理系の人間には読み難いということはありますが,それ以上に,この(MS)には編集者の手が入っていないので,いろいろ困ったことが起きます.一番困るのは,引用が不完全で,原著にあたるのがほとんど不可能であること.引用文献が明示してあるものでも,同人誌的な雑誌や手記,あるいはお宝的古書が多くてほとんどが入手,確認不可能になってしまいます.
 もうひとつは,やはり引用の仕方が不完全なので,著者個人の考えなのか,引用した人の考え(あるいは引用文献にそう書いてあるのか)なのか,あるいは一般的にそういわれていることなのか,の判断に苦しむことがあります.誰が先にそういったのかは,非常に重要なことなのですが,そこが曖昧になっているのですね.そこで,確認しようとすると第一の壁に当たってできないということがしばしばあるのです.これは,白山氏個人のことをいっているのではなく,一般的な現象のように思えます.


 斐三郎の熔鉱炉について記述している,白山氏とほぼ同世代の人がいます.
 それはペンネームを「阿部たつを」,本名を「阿部龍夫」という函館で医者をしていた人でした.
 彼の武田斐三郎もしくは斐三郎がつくった熔鉱炉に関する著作は,わかる範囲では以下のようなものがあります.

・阿部たつを「武田斐三郎と溶鉱炉」『函館郷土手帖』 1957
・阿部たつを「武田斐三郎は反射炉を作ったか」『道南郷土夜話』 1958
・阿部たつを「古武井溶鉱炉について」『北海道地方史研究』 1966
・阿部たつを「古武井溶鉱炉について(再論)」『北海道地方史研究』 1966
・阿部たつを「尻岸内溶鉱炉について」『道南の歴史』 1966
・阿部たつを「古武井溶鉱炉に関する研究を読む」『道南の歴史』 1967 

 しかし,これらは,現実に入手しようとすると大変な困難が伴います.
 どれもが,同人誌あるいは自費出版のたぐいで,現在では入手方法は,ほとんどないのです.
 前にも書きましたが,「大野土佐日記」のことを調べていて,阿部氏のその関連の著作が「函館郷土随筆」(北海道出版企画センター)に載録されているということがわかりました.しかし,この本は出版元である北海道出版企画センターでは,すでに絶版になっていて,入手不可能でした.たまたまある古書店にあることがわかり,入手できましたが,そのとき全く偶然に,武田斐三郎に関する上二作が「武田斐三郎と溶鉱爐」として載録されていることがわかったのでした.


 斐三郎の熔鉱炉に関する著述をしている人がもう一人います.
 高木幸雄という人で,たぶん北海道教育大学関連の人だと思いますが,こちらは「北海道學藝大學函館人文學會」が「人文論究」という名で出している雑誌ですので,一応論文誌の体裁をとっていて,近所の教育大学の図書室で入手可能でした.
 中身からみると,多分,査読者もレフリーもいない,投稿,即印刷という形式ではないかと思われます.
 妙な感じがするのですが,この高木氏の論文の著作が(1967).阿部たつを氏の一連の自費出版が,1957〜1967年.白山氏の「武田斐三郎伝」の出版が1971.ほぼ同時代に,侃々諤々の議論があったようなんですが,皆それぞれ別々の印刷物でやっています.
 不思議です.

 その後,1975年になって製鉄技術者である大橋周治が「幕末明治製鉄史」を発行しました.私が入手できたのは,これの改訂版である大橋周治(1991編著)「幕末明治製鉄論」なので,1975年時には斐三郎の熔鉱炉についてどういう風に書かれていたのかは,正確にはわからないのですが,一応役者がそろったようなので,斐三郎の熔鉱炉研究史について取りかかることができそうです.
 見直しですね.

 情報の壁は…,厚いですね.