2010年9月27日月曜日

高速道路

 
 高速道路を走っていると,こぎれいな軽自動車と大型トラックが併走しているのがみえた.

 大型トラックには,荷台に幌もついていないのに,たくさんの人が乗っているのがみえる.
 その運転席は赤や金色で塗られていて,ドライバーと助手だけは,けっこういい服を着ている.
 それに引き替え,荷台の人たちは,風に煽られ生きた心地もしていないようだ.よく見ると,荷台の前のほうには,小さな風よけがついていて,ごく一部の人たちには居心地がいいようにしてあるらしい.

 ドライバーと助手は仲が悪いらしく,時々怒鳴り声が聞こえる.
 こわいなあ,高速道路だというのに.
 助手は腹いせに,軽自動車のほうに罵声を浴びせた.
 でも,高速道路.風で何も聞こえない.

 そのとき,助手は後をふり向き,こう怒鳴った.
 「おまえらの居心地が悪いのは,あっちの軽自動車の奴らが,おまえらの取り分を奪っているせいだ.」
 「悔しかったら,あっちに飛び移って嫌がらせをしてこい!」

 高速道路を走っている車から車へ飛び移るヤツもいるまい,と思う.
 しかし,いた!.

 一人の作業服の男が,軽自動車の屋根に飛び乗り,しがみついている.
 怖くて,失禁したようだ.
 こぎれいな,軽自動車は男の小便まみれになった.

 軽自動車のドライバーは,パーキングエリアで男を大型トラックに帰してやり,失禁について軽く抗議すると,大型トラックのドライバーはこういった.

 「俺たちのトラックには幌がない.」
 「トラックの上の空気はどこまでも続いているから,あんたの車の上の空気も俺たちのものだ.」
 「文句があるなら実力で来い!」

 この一言で,喧嘩が始まった.トラックと軽自動車?
 いやいや.軽自動車のドライバーと助手のあいだでだ.どうやら,ドライバーと助手のあいだで,運転席を巡っての争いがあるらしい.
 トラックの運転手と助手は先ほどまで怒鳴りあいをしていたのに,いまは仲がいいようにみえる.その乗客は,一見,一致団結して軽自動車の悪口を言っているようだが,ほとんどの人は口をつぐんでいる.

 そして,双方の乗客も混じって,怒鳴りあいが始まり,壮大な「パイ投げ」が始まった.

 この二台,高速道路に戻っても,パイ投げを続けるつもりらしい.
 乗客にとっては,ただ移動するだけのつまらない時間に暇つぶしができたと考える人もいるようだ.ドライバーへの不満を言えば怖い目にあうが,まわりの自動車へ罵声を浴びせるのは奨励されている.

 ….

 よっく,考えてほしい.
 みんな,高速で移動中なのだ.
 安全に走行するためには,ルールだけではなく,マナーやエチケットも必要なのだ.
 みんなが,「俺が!,俺が!」といって走っていては,いずれ事故が起きる.
 高速道路で起きた事故は,即,大事故につながる.

 ドライバーの義務は,他車より速く走ることではないですね.乗客を安全に目的地まで届けることです.
 ドライバーは,はっきりと「わたしには乗客の安全を第一に考える義務がある」というべきです.どちらのドライバーもね.
 あ,そういえば,車の乗り心地が悪いことを,そばを走っている車のせいにして,責任回避したりしてはいけないですね.車のオーナーの責任です.

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 注:このはなしは,アジアのどこかで起きているちょっとした騒ぎのことを寓話化しているのではありません((^^;).
 昨日,高速道路で,室蘭まで行ってきたのですが,例の実験開始以来,あまりにも,ひどいドライバーが目につくので思いついた話です.マナーやエチケットどころか,ルールもしらんのではないかと思わせることが次々と起きます.無料化実験はただちにやめてほしいものです.

 あ,そういえば,大型トラックの人たちは,軽自動車の人たちが,むかし,装甲車に乗っていて,そばを走っている車を次々と踏みつぶした過去があるのをわすれてるようですね.
 追い詰めれば,軽自動車の乗客の中にも「軽自動車はやめて装甲車にしよう」と主張する人たちがでてきます.
 第一次世界大戦で敗北し,過酷な負債をおわされたドイツにヒットラーがでてきた歴史の必然をわすれてはいけません.窮鼠は猫を咬むのです.
 むかし,軽自動車を装甲車に乗り換えようとしたのも「外国の驚異」でしたし,実際に乗り換えが決定的になったのも「ABCD包囲陣」という資源を禁輸するという処置が引き金になっていたはずですね.

 高速道路は仲良く走らないと,危険なのです.

 それにしても,運転技術の未熟な素人ドライバーが高速で駆け抜ける高速道路は怖いですね.相手のドライバーが避けてくれるから事故が起きていないようなものじゃあないかと思いますね.
 車の性能は格段にアップしてますけど,それを運転する人間の性能は100年以上前から,さっぱり向上していないですからね.

 

2010年9月21日火曜日

広瀬隆「二酸化炭素温暖化説の崩壊」

   

 
 地球温暖化論争は,すでに科学論争とは別の次元の話なので,ほとんど興味をなくしています.

 たまたま書店に行ったら,目にとまったので買ってしまいました.広瀬隆の論理は明快なので,読むのに苦労しません.だから,新刊があると,つい,買ってしまう((^^;).
 益田昭吾「病原体から見た人間」は読みにくいと書きましたが,こちらはまだ読みおわっていません.「病原体から…」は,読むのに非常に疲れますので,休憩が必要.その休憩のときに,広瀬隆の本一冊は,簡単に読みおわってしまいます.
 つまり,わたしの読解力が落ちているのではなく,益田の本が難解なのだという証明になります(実際には,病気の後遺症もあり,かなり読書力が落ちているのは実感していますけど (^^;).

 話を戻します.

 地球温暖化論については,「IPCCのデータ捏造」が明らかになった時点で終息に向かうべきなのに,世界ではまだ続いていますね.
 IPCCの“ホッケー・スティック”図は見た瞬間に「おかしい」といえるもので,これが正しいとすれば,「中世の温暖化」とか,「天明の大飢饉」をおこした「小氷期」はなかったことになってしまいます.したがって,稲作地帯の北限の上昇がないから,蝦夷(えみし)が追い詰められることはなかったし,天明の蝦夷(えぞ)地開拓(計画)もなかったことになります(ばかな!).

 地球の温度は,どうやって測るのか,いまだに理解できません.それは置いといて,地球上のどの地点をとっても,気温は,日単位,週単位,年単位,数十年単位(さらには数万年,数百万年単位)で変動しているのは明らかです.でも,いま現在どちらの方向に向かっているかなんてことを判断できるデータは,見たことがありません(われわれの住む北半球では,これから冬に向かいますので“寒冷化”しますけどね).

 氷河期(あるいは地質学的時間)というレベルの時間単位では,寒冷化しているととらえるのが一般的です(最近の氷期・間氷期を一サイクルとする気温変化は急激な温暖化とゆっくりとした寒冷化のパタンをとっているからです:この間,比較的暖かい気温がつづく時期を間氷期,比較的寒冷な気温が続く時期を氷期といっているに過ぎません)が,これは人間の時間感覚とは,かなりずれがあると思います.人間はせいぜい数年か数十年の単位しか理解できませんが,地質学的な時間は,これより遙かに大きな(長い)単位なのです.
 現代の科学力では地震予知なんかできないのとおなじで,数年後のあるいは数十年後のある地点の年平均気温なんか推定できるとも思えません.
 「PT論を研究すれば地震予知ができる」といって研究費を稼いでいた人たちは,いったいどこへ行ってしまったのでしょうね.

 ただ研究費がほしいだけの学者と,ただ騒ぎたいだけのマスコミのジョイントで起こしている騒ぎとしか思えませんが,裏では,米ソ冷戦構造でうまい汁を吸っていたひとたちが,儲けネタがなくなったのでつくり出したあたらしい“火事場騒ぎ”というのは,いかにもありそうなことです.“火事場には儲け話が転がっている”といいますからね.
 領土問題なんかで,反・隣国運動をおこして軍事費を拡大させる手とおなじですね.ありもしない驚異を並べ立てて…濡れ手で粟….


 ところで,今年の夏は暑かったですね.
 不思議なのは,思ったほど「地球温暖化論者+マスコミ」が大騒ぎしなかったこと.これは,やはりIPCCのデータ捏造の発覚が影響してるのでしょうか.


 日本人は怪談話が好きですが,某カルト教団がおこした騒動のあと,TV界ではUFOや心霊現象の話題は,なりを潜めてました.しかし,時が過ぎてしまい,忘れっぽい日本のマスコミは某カルト教団およびその末裔はもう存在しないかのように振る舞っています.それと並行して,某カルト教団のおこした騒動の前のような,悪質な怪談話・心霊話が復活してきているような気がします.

 忘れっぽいですからね.75日も過ぎれば,温暖化狂想曲がまた復活しますかね.いま,冬に向かってますけど….


 ところで,広瀬隆「二酸化炭素温暖化説の崩壊」です((^^;).わかりやすいですが,なにか目新しい話があるわけではありませんでした.ネタはほとんど尽きているのですね.
 特記すべきは,一番最後にでてくる「エネファームの普及が,一番地球の負担を減らすだろう」という方針の提示ですかね.
 ENEOSは偉かったんだ….

 

2010年9月17日金曜日

感染症とはなにか:三論

 
 漠然とですが,「感染症というものは存在しない」のではないかと考えていました.
 生物同志は共生に向かうのが成りゆきで,出合った生物同志の共生がスムースにいけば外観上は何も起きないですし(遺伝子レベルなり,細胞レベルで共生関係が成立する),多少トラブルが起きて発熱その他の異常が出れば,それを“感染症”と呼ぶのではないかと漠然と考えていたのです(感染自体は不断に起きている).
 つまり,「感染症」という状態は「共生にいたるまでの葛藤」なのではないか,と思っていたわけです.

 それで,それこそ10数年ぐらい前には,そのあたりのことを考察している生物学者ないしは医者がいないかとさがしていたのですが,みつからなかった.
 言い過ぎかもしれませんが,近視眼的な「感染症(=病気)」の概念の主張しかなかったので,しばらく放ってあったわけです.
 しかし,最近になって,「感染症」というものの全体像をとらえようとするひとたちがでてきたようです(ま,昔からいたんでしょうけど,そういう主張を文章に(本に)する人がいなかったということなのですかね).
 「傷はぜったい消毒するな」を読んで,またぞろ刺激されて,探索を再開したということです.
 以下,その探索で,それらしきことが書いてあるような「表題」の本を三冊選んでみました.

 悲しいかな,某「科学本の書評サイト」で「医者の書いた本は,概して面白くない」と書かれてありましたが,実際その通りです.
 書かれている内容がつまらなければ(だいたいが近視眼的),読書をすぐに放棄すれば,それでいいのですが(だから,すぐには購入しないで,図書館から借りだして数頁読んでみる.合格点であれば購入),内容自体は興味深いものなのに,文章がヘタクソで,理解にものすごく時間がかかるものが多いのです.
 編集担当者がいないか,「わかりやすい文章を書いてください」といえる編集者が皆無に近いようなのです.ま,相手は大学教授や大病院の医者あるいは国公立研究所の大先生ですからね.いえないよね.
 
 簡単に言ってしまえば,「AはBである.BはCである.よってAはCである」というような明快な文章ではなくて,「AであるBは,CであるDのようだが,EであるFはDであり,またGでもあるので,HはIである.なお,HとはJとされている.」みたいな….複合文章で,省略されている主語が異なっていたりなんて有り得ないことが起きていたりもする(もしかしたら,著者の意図はちがっているのかもしれないですが:どっちにしても難解なのでわからない(^^;).

 そんなわけで,読書にものすごく時間がかかるのです(もちろん,老化でわたしの読書力が落ちているということもありますけど(^^;).
 さて,本題に戻します.

 まず一冊目.
●本田武司「病原菌はヒトより勤勉で賢い」(三五館)

  


 最近は,こんな立派な装丁で,¥1,400なんて本はお目にかかれなくなりました.¥1,000台後半の定価なのに,開くこともままならない糊で頁をくっつけただけのお手軽装丁の本ばかりになりましたからね.

 この方の文章は,わかりやすいです.比較的スムースに読むことができます.
 しかし,「細菌の発見史」や「細菌そのもの」についての説明が長く,なかなか,「病原菌がヒトより勤勉で賢い」という話には進んでゆきません.
 もしかしたら,著者の中では「そういう話」をしているつもりなのかもしれませんが,どうもピンとこない.
 別な方面からいえば,「細菌そのもの」についてが,一般に対しあまりにも普及されていないので(この医学が進んだ日本での状況としては,理解ができないですが),本題よりも基礎知識のほうにページを割かなければならない背景があるということでしょうかね.
 逆に言えば,「細菌の発見史」や「細菌そのもの(個々)」について知りたければ,非常によい本ということになります.

 いくつか気になった記述があるので,ご紹介しておきましょう.
「病原菌は本来,人間の体などには入りたくないのに,人間の不注意によって偶然に食べ物の中に紛れ込んだために,あるいは空中を遊泳(?)中に呼吸で無理やり吸い込まれたりして,ヒトの体の中に入ってしまうという“偶然の取り込み”が起こる可能性がある.」

 病原菌(菌にとっては不本意な名称ですけど)は早くヒトの体から脱出したいが為に,下痢や咳などの症状を起こす(そして,飛び出す).と,考えられるわけです.
 それを,人間が勝手に「病気」と呼び,かれらを「病原菌」と呼んでいるというわけですね.

 もうひとつ.

「一説によると,ジャングルの野生動物たちの中で共存していた微生物が,その動物が絶滅しかけたために新たな宿主としてヒトを選んで,戦いを挑んできた(病気を起こしだした)のではないかという.」

 これは気になる点です.
 宿主を殺してしまえば,困るのは“病原菌”のほう(宿主が居なくなるという単純な事実)なのに,なぜ「病気」をおこすのか.
 ヒトに対する攻撃が一段落すれば,「共生関係」が成立し「病気」ではなくなるのか.そのあたりは,残念ながら記述されていません.


 二冊目.
●吉川泰弘「鳥インフルエンザはウィルスの警告だ!=ヒトとウィルスの不思議な関係」(第三文明社)

  



 「ヒトとウィルスの不思議な関係」という副題から,前述の「共生関係の成立」などのことが書かれているかと思いましたが,残念ながら,この著者の頭にあるのは「病気そのもの」のことです.
 前半の内容からは,ひょっとして「そういう話にいたるのかな」と,思わせましたが,期待はずれでした.なにが「鳥インフルエンザはウィルスの警告」なのかもよくわかりませんでした.
 中身は表題をこえていないという,よくある本です(たぶん,出版社側で決めた表題なのでしょう).

 本としては,「病原菌はヒトより勤勉で賢い」と似たような内容で,どちらか一冊読めば充分でしょう.わたしとしては「知りたいことが書かれていそうで,書かれていない」もどかしさだけが残りました.
 

 三冊目.
●益田昭吾「病原体から見た人間」(ちくま新書)

 すっごく,読みづらい本です.

  


 途中で何回も読み返す必要があります(文章構造が難解.途中で文脈が跳んでいるような気がする.専門用語の説明がないか,あとからでてくる)し,書かれている内容が「です・ます体」とは不調和なので,文体は違和感バリバリです.
 とはいえ,既存の本とは異なり,個々の病気についての解説ではなく,「病気」そのものがトータルにとらえられているので,もしかしたら,わたしの知りたいことに話が進んでいくかもしれない.
 しかし,ものすごく読みづらいので,図書館の返却起源に間に合いそうもありません.しょうがないので購入してしまいした.すでに,第四章の途中まで読んでいたのですが,結局,また最初から読みなおしています.

 著者の主張のツボは,生命の「階層構造」にあります.
 (通常は)あらゆる生命は,すぐ上の階層構造とは仲良くやっているのが普通(共生関係が成立している)ですが,さらに上の階層とは仲良くできるとは限らない.これが「病気」なわけです(詳しくは,やはりこの本を読んでもらわないとね).
 たぶん,この話が進んでゆくと,「ヒト」という生命体は(すぐ上の)上部構造である「地球=環境」とは仲良くやってゆくのが当たり前ですが,「ヒト」の下位構造である「脳=知能」は直接の上部構造であるヒトとは仲良くやってゆけますが,ヒトのさらに上部構造である「地球=環境」と仲良くやってゆけるとは限らない.という話にいたる(ヒトはそのもつ「知能」のせいで,地球についての「病原菌」になってしまう)ものと予想されます.

 そして,最初に書いたわたしの「病気とは,共生にいたるまでの葛藤である」という予測は,見事に外れることになります.
 
 

2010年9月6日月曜日

「傷はぜったい消毒するな」pt. ii.

 
 最後まで,興味深く読めました.
 何しろ,「傷の治し方」から始まって,現代医術批判になり,科学論の様相を呈したあと,生命の進化の話にいたります.

 いくつかのパーツは,すでに読んだことのある本に書かれていることですが,こんなに,「全体的な世界観・生命観」が描かれているのは,ホントにめずらしい.

 以前に,サーチしたときには,こういう世界観の本は,めったに見あたらなかったので,あきらめて放置していたのですが,いつの間にかたくさんでているようです.
 いま,調べ直しているところ(なぜかうれしい(^^)).

 なぜか,そういう時代なのか,新書形式で出版されているものが多いので,我が町の貧弱な図書館でも蔵書になっているのが相当数あり,「読んでおもしろければ購入」という手が使えそうです(逆に,普通の装丁の本だと,まず蔵書にはなっていないですけどね).
 

2010年9月5日日曜日

「傷はぜったい消毒するな」

 
 先日の「感染症は実在しない」という本と一緒に借りた本が,マイナス分を取り返すほど,非常におもしろいので….

 それは,夏井睦「傷はぜったい消毒するな=生態系としての皮膚の科学」(光文社)です.
 まだ読書途中ですが.

   

 書かれていることの真偽は,あたしゃあ医者じゃあないのでわかりません.が,この本には,「パラダイムシフト」の非常におもしろい例がいくつも示されています.まじめで深刻な本なのに,笑いながら読んでます.

 「パラダイム」という用語には,もともと,いろいろな用法,意味がある*のですが,この本の著者は,「ひとつの盲信」と考えているようです.つまり,「パラダイムシフト」とは,「ひとつの盲信から,べつの盲信に変わること」ととらえているわけです.

「するって〜と,なにかい? ご隠居.」
「PT論者がよく使う「PT論は新しいパラダイム」という言葉の意味は,「PT論はあたらしい盲信」という意味かい?」(長屋のクマさんの口調で)


 そうでしょうね.わたしらはずーっと,「地向斜造山論」も,「PT論」も,「仮説」に過ぎないって,いってましたけどーっ.語尾に「論」がついてるしー.
 歯に衣を着せぬいい方をすれば,「仮説とは証明されていない盲信」に過ぎないともいえるでしょうね.

 後半,もっとおもしろいことが書かれてそうなので,読書を続けます((^^;).


* 中村雄二郎「術語集=気になることば=」(岩波書店)など

   
 

2010年9月4日土曜日

「感染症は実在しない」

 
 久しぶりに,大タコな本にであってしまいました.
 それは岩田健太郎「感染症は実在しない」(北大路書房)

 この本は言葉のマジックというか,言葉のトリックというか…,腹の立つレトリックも使われています.

 最初に「病気は実在するか」という話題から入ります.
 だまされてはいけませんよ.設問は「病気は存在するか」ではなく,「病気は実在するか」です.

 そもそも,「実在」という言葉は,自然言語でもなければ,われわれが普通につかう言葉のひとつでもありません.哲学者が「(われわれから見れば)言葉の遊び」としてつかう用語のひとつです.
 哲学者の頭の中に「リンゴが実在」しようが,しまいが,われわれには無関係のことです.
 たとえてみれば,理論物理学で「宇宙の果てはどうなっているか」と考えるようなもの.宇宙の果てが「無」であろうが,果てから向こうはわれわれの行けない世界であろうが,あるいは,崖があって,すべてが落ちている世界であろうが,…話としてはおもしろいでしょうけど(もちろん,おもしろくないと考える人もいるでしょうね),われわれ一般人の生活にはまるで関係がない.
 それと,おなじです.

 われわれにとって,「リンゴ」とは,見てリンゴだとわかり,触れることもできて,食べたらリンゴの味がすれば,それでいい.
 流行りの脳科学者ならば「それは,脳がそう感じているだけで,実際にあるという証明にはならない」というでしょうね.
 でも,われわれには,どっちだってかまわない.なんだってかまわない.

 たとえば,10歳で不治の病にかかって死んだ少女がいたとしましょう.
 われわれ外部の人間にとっては,10歳で死んだ少女がいただけです.身内か,他人か,その情報を知っているか,知らないかで,われわれがいだく感情は,多少,あるいは大きくちがうでしょうけど,われわれがどんな感情を持とうが,死んだ少女にはまるで関係がない.
 ところで,その少女にとって,死の瞬間に「そのとき死なないで,幸せな青春時代を送り,幸せな結婚をして,おおくの家族に看取られて死んだ」夢を見たとしましょう.
 それは,それは,夢だったかもしれないが,少女は幸せな人生を送って死んだのです.「実在」しようが,しまいが,脳の作用のひとつであろうが,なかろうが,哲学者や脳科学者がとやかく言うことではない.少女の「夢」のほうが,哲学者の「言葉の遊び」より,「(それこそ)実在した」のでしょう.

(似たようなお話)

    



 じつは,著者も「言葉の遊び」であることを,知っているらしくて(あるいは,途中でめんどくさくなったのか),途中で「病気は「現象」であって,「もの」ではない」とネタバレをやってます.
 始めからそう書けばいいものを,哲学者気取りで,一般人を惑わすような言葉をつかう,いやなヤツです.

 さて,読むには,相当なガマンを強いられますが,読み続けると,著者のいいたいことがわかってきます.
 それは,「医者個人には,医者としての適正の問題がある」し,「現行の医療システムにも問題がある」.そして,それを統括する「医療行政(具体的には厚生(労働)省のお役人)の能力にも,大きな問題がある」ということです.それならわかるでしょ.しかし,問題はそのあとです,
 「そんなに問題があるなら,解決に向けて努力したらどう?」と普通は思うし,それほどの問題点を指摘できる医者なら,「そうではない「医者」・「医療体制」・「医療行政」をどう目指すか」という話になるのが,当たり前だと思うのですが,この著者はそうではない,それは,「別な選択をしない患者(あるいは,まだ患者でもない一般市民)が悪いのだ」というのが,結論なのです.

 「別な選択とはなにか?」というと,一般市民が,一人一人,医者(それも,普通にいう「名医」)並の知識を身につけ,自分が死の直前にいたとしても,目の前の医者と「(自分に対して)どういう治療をするか」という議論ができるほどの能力を身につけることです.
 そんなことできるか?
 具体的にいうと,「医療を拒否して死ぬという選択」しかないわけですね.

 なにか,最近の「裁判員制度」をおもいこさせます.
 高い給料をもらっている専門職である「裁判官」がたくさんいるのに,自分の仕事がなくなってしまう危険を冒させながら,素人を裁判に引きずり込むというアレです.で,終われば,死ぬまで明かしてはならない秘密をしょわされて,放り出されるというアレです(裁判員として選ぶなら,退職後の時間のある老人か,失業中の人のみにしてほしいものですね.それで,名判決を下したら,そのまま裁判官として雇用するとか(^^;).
 早い話が,プロがプロとしての責任を負わない無責任体制です.


 ということで,読んでいて相当血圧が上がり,なかなか下がりませんでした.ヤバイなあ.
 
 え? なんでそんな本を,ガマンしてまで読んだのかって?
 じつはあることで,「感染症」について,知りたかったのです.
 この本にも,一部書いてありましたが,「人は感染したからといって,必ずしも病気になるわけではない」ようなのです.
 新型インフルエンザが「パンデミック」をおこしたのは,検査すれば「“ピタリ”とあたる検査薬」が使用されたためで,そんなものがなければ,「ただの風邪ですね」ですんでしまった人や,ちょっと不調なだけの人も「新型インフルエンザ患者」になってしまったようだと(あいまいながらも)書いてあります.
 もちろん,「新型インフルエンザ」に感染しながらも,なんの症状も示さずに,普通に過ごしてしまった人もいたのではないか,という疑問があることです(もちろん,重篤になってしまった人もいるでしょうけど).
 
 感染症のメカニズムには,もっと奥深いものがあるのじゃあないかと,比較的新しい「感染症の本」に,当たったら,大タコの本に当たってしまったという次第.

 なにかというと,人間のDNAには(にも)いつ感染したのかもわからない,ウィルスのDNAが隠れているようだという話をなにかで聞いたことが関係あります.それが,延々と受け継がれているかもしれないというわけです.
 人間の体の中,外,細胞の中には(にも),別の生物がたくさん生きています(感染してます).腸内細菌や皮膚常在菌,はてはミトコンドリアまで.
 むかし,劇症を引き起こすといわれた病気で,今は消えてしまった病気があります.
 なにか,こうモヤモヤしたものがあって,このあたりを考察した書籍はないものかと….

 ダメか.