2015年4月26日日曜日

「北海道鑛山畧記」:(三)石炭の「ポロナイ石炭」(採炭季節〜採炭法)

 
(採炭季節)
ポロナイ煤田採炭の事業は,一周年通して操業するヿ能はず.春夏秋の三季を以て専ら之に従事し,冬期は翌年度探炭準備の爲め唯た沿層坑掘進のみを施せり.其然る所以の者は,冬季は積雪の爲め汽車運轉を中止し,随て運炭の途なく,且つ山元にも貯積すべき炭庫少きが爲め,斯の如く計畫せし者なり.故に年々掘採する炭量も,實に微々たる者にして未た需要の半をも充す能はず.二十年度採出炭量の如きも塊炭(六分目篩を通過せざる者)五万三千噸,粉炭(六分目篩を通過せしもの)壼萬五千噸.合計六萬八千噸の豫算なり.又,煤田開始明治十二年より二十年十月に至る採出塊炭總量は拾八萬七千〇二十一噸二分三厘なり.
附言:目下採炭季節變換の計畫中なり.


(採炭法)
「ポロナイ」の探炭法は「ロンウォール・」*1にして,先つ第一着に坑道を掘鑿し,後採炭す(或は鍎入*2と稱へ,岩石を掘鑿し,煤層に會し後,層に沿て掘進す).即ち,炭層に會ひ,其層に沿ひ,二條の坑道を掘鑿す.其上部の者を横風坑(平均高十四尺巾四尺)と云ひ,下部の者を坑道(六六の合脊)と稱す.又,坑道及び横風坑間に小坑を開鑿す.名けて竪風坑或は小風井(四四の合脊)と云ふ.横風坑及小風井は通風の爲めに設る者と雖とも,小風井は後日石炭漏斗口となさんため三拾尺毎に設く.其坑道横風坑間炭柱の厚さは十尺乃至二十尺を通常とす.

本坑々道は留内高さ七尺幅九尺.仝坑内各沿層坑道は留内高さ六尺幅九尺にして,共に二條の重道を布設す.而して瀧ノ澤及ひ本澤の各坑道は,留内高さ五尺幅五尺となし,車道は皆一條線にして,處々に岐線を造り,炭車の往復を便にす.

各坑道共掘進するに從ひ,下磐を切り,車道を据付る者とす.其軌鐵は鋼鐵にして,一碼の重量拾貳听及ひ拾六听の二種を用ゆ.坑道中,上盤墜落の恐れある處には大角留,或は中角留を据付け,風坑に至ては小角留を据へ付る者とす(角留は普通鳥居形の留枠なり).

各坑道とも延長するに随ひ上部の石炭を採掘す.其法二あり.第一は横風坑上部に切場(採炭場)を設け直に掘採し,之を坑道に卸し,坑外に運出す.第二は坑道中適宜の場所を撰み昇リ風坑(上部に向ひ堀り昇る小坑也)百五十尺或は二百尺乃至三百尺を掘盤し,此處に自轉車を据付け昇リ風抗ヲ斜道となし,自轉車の左右に中切と稱へ小坑道を造り,軌鐵を布設し第一着に中切上部の煤炭を採出し,右車道に落し是を自轉車に運ひ,斜道に依て坑道に卸し坑外に運出す.而して中切上部煤炭掘採を終れば坑道並に中切間の石炭採掘に着手す.即ち,第一に於ては坑道の上部三四百尺乃至五百尺の石炭を漸次上向に掘採す.第二に至ては之を中断し,二段或は三段に取るの工風にして目下第二法を多く用ゆ.

現今採炭するに「ブラチン」(火薬を以て破裂せしめ採炭する法)を使用せり.之を施すには第一着に透シ掘と稱ヘ鶴嘴を以て炭層の下部を掘採(巾五寸深さ三尺五寸許)し炭層と下磐との間に空隙を生せしめ,後其炭層中良處を撰み之に發破孔を掘り(發破孔は徑八分深さ約三尺にして火藥二十目を籠め,四尺許りの導火線を付し之に火を点す)發破を行ふて炭塊を得るなり.

漸次探炭するに従ひ上部即切塲に通風不良となる此時に當ては,該坑ロより數十尺高き處に於て仝煤層露出の点より風坑(名けて風井と云ふ)を掘り下け,採炭場に開通し,一時の通風を圖る.然れとも一抗を採炭するために數風井を掘鑿せざるを得ず,眞に策の得たる者と云ふ可らず.
火薬孔を掘るには通常径七分長さ一尺乃至五尺の鋼製八角鑽て用ひ,目方四百目乃至五百目の手槌を揮て之を捶ち,一捶一旋時々水を孔中に注で鑽鋒を援け,且つ屢々岩屑を掻き出し,深さ通例三尺に至れば凡そ二十目の火藥を籠めて,長さ四尺許の導火線を付し,之に火を點して破裂を行ふ.其導火線は渾て佐渡製の者を用ゆ.又漏水の甚たしき塲處,或は岩質堅硬にして火藥を用井難き所には爆裂藥を用ゆるを常とす.

坑道風坑風井等の掘鑿並に採炭及ひ支柱の業は悉皆請負稼にして,掘鑿は尺數を以て賃金を拂ひ,採炭は噸數,支柱は員數に因て給する者とす.

良民及囚徒に係はる請負賃錢及諸職工賃錢は左表(下表)の如し.
附言:囚徒賃銭は一ヶ年間使役囚員と支拂ふべき金額とを豫め計算して定るものに付き,年々多少の増減あるべし.


右(上)は普通賃錢にして事業の難易により増減す.


右(上)普通の單價にして事業の難易に因り科程並に賃錢を變更す.

採炭には渾て囚徒のみを使役す.其請負賃錢及一囚科程は左(下)の如し.


因徒にて採炭壱噸に係はる雑品費は左(下)の如し.


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*1「ロンウォール・」:Longwall System:下図参照.
坑道堀が主体ではなく,二本の坑道を掘ったあと,その間の炭層を壁(longwall)に見たて,炭層すべてを掘り出す方法.
*2:入:入坑道(とつにゅうこうどう).現在はほとんど使われない用語.
 

2015年4月23日木曜日

「北海道鑛山畧記」:(三)石炭の「ポロナイ石炭」(坑區及坑數)

(坑區及坑數)
現今開鑿して採炭する抗區三あり
第一區   本坑澤
第二區   瀧ノ澤
第三區   本 澤

第一區 本抗澤
此澤に在る者を本坑(留内高さは七尺幅九尺)と云ふ.海面上三百十二尺六寸三分五厘の所に在りて「ポロナイ」煤田開採第一着として,明治十二年十二月十八日開坑したる者なり.此坑道たるや炭層鞍状西北側より炭層へ直角に會せん爲め,坑ロより千五百尺迄は南八度東,其後は南二十五度東の方向を以て掘進す.開坑より本年(明治廿年)十月三十一日迄の坑道總延長は二千〇九拾四尺五寸なり.故に炭層鞍狀東南側にある者に會せんには尚ほ千五百尺餘の掘進を要す.

本坑開始より今日に至る迄に炭層鞍状西北側に於て曾掘せし炭層貳拾ありと雖とも,採炭に適する者は一番二番三番及四番の四層とす.其會合年月厚薄傾斜及ひ坑ロよりの距離等は左表(下表)の如し.



右(上)貳拾煤層の累疊を列記するは甚た冗長且つ頗る繁雑に渉るを以て,一番貳番三番四番の累疊を掲け他は之を畧す.

壱番層累疊
上磐       砂石
良炭     二尺二寸
黒色シェール      五分
良炭     一尺六寸
下磐       砂石
 計     三尺八寸五分

貳番層累疊
上磐       シェー
骨炭       九寸
含炭シェー 一尺
良炭       八寸
シェー      三寸
劣炭     二尺
含炭シェー 一尺五寸
劣炭     一尺貳寸
含炭シェー    三寸
劣炭     一尺三寸
含炭シェー    一寸
良炭     一尺二寸
シェー    一尺二寸
劣炭       六寸
シェー    一尺一寸
含炭シェー  二尺三寸
劣炭     一尺
爛塊炭      三寸
粘土         五分
下磐       砂石
 計    一七尺一寸五分

三番層類疊
上磐       砂石
含炭シェー    一寸五分
良炭     四尺一寸
下磐       砂石
 計     四尺二寸五分

五番*層類疊(*ママ)
上磐      斑炭荒砥石
良炭     四尺一寸
劣炭     一尺三寸
下磐      牛皮狀半腐蝕シェー
 計     五尺四寸

前に陳たるか如く本坑々道は炭層へ直角に會すへき方向を定め掘進し,探炭に適する炭層に會合するに随ひ其所より層に沿ひ左右即ち東西に坑道を掘鑿す.此坑道を名けて沿層坑と云ふ.

本坑々道内に六個處の沿層坑あり.即ち東一番西一番東二番西二番東三番西三番,是なり.而して東西一番の兩沿層は既に休坑となり,東二番沿層坑は昨年より,西二番並に東三番沿層坑は本年より採炭に着手し,西三番沿層坑のみは採炭準備の爲め坑道のみを掘進して,未た上部の採炭に着手せす.

本坑々ロより各沿層坑迄の距離は左(下)の如し
坑名        本坑々ロよりの距離
東一番沿層坑      九百〇五尺六寸
西一番仝        九百〇五尺六寸
東二番仝        千六百五拾一尺
西二番仝        千七百拾五尺
東三番仝        千九百三拾二尺
西三番仝        千九百三拾二尺

本坑々道内各沿層坑掘進着手年月坑道延長及ひ出炭量等は左表(下表)の如し.


第二區 瀧ノ澤
瀧ノ澤方面は本坑々ロの南,直徑二千二百五十尺(輪車路に沿ふての距離は二千九百四十二尺)の所に在りて,本抗々ロより高きヿ約一百八十尺とす.
該方面に坑數九あり.其開坑年月坑道の延長及ひ採出炭量は左表(下表)如し.


表中東西三番の兩坑は炭層鞍状東南側に,他は西北側に開坑せし者なり.
滝ノ沢方面の各坑は皆炭層ノ露出せし点より層に沿ひ掘進せる坑道にして,本坑水準凡そ百八十尺(炭層に沿ふての距離は約五百五十尺)の上部の石炭を採掘するの目的なり.又,右表中,西一番第二坑及ひ東西三番坑は他坑より高さ凡そ百尺の處に開坑せし者にして,第二坑は西一番坑上部の石炭を採掘せんために設け,東西三番の兩坑は炭層鞍状東南側の石炭を採掘する爲に開鑿せし者なり.

第三區 本 澤
本澤方面は本坑の東南直徑二千三百四十尺(輪車路に沿ふての距離は二千六百三十三尺)の處にありて本坑々口より高き事約九拾四尺とす.
該方面に坑數七あり.皆炭層鞍状西北側に開坑せし者にして,其着手年月坑道の延長及採掘せし炭量等は左表の如し.


本澤方面も瀧ノ澤に於るか如く各坑とも皆炭層の露面に就き開坑し,層に沿ひ掘進せる坑道にして本坑水準上九拾四尺(層に沿ふての距離約三百尺)の上部の石炭を掘採するの目的なり.
+++以下続く+++ 

2015年4月22日水曜日

桑田知明ゆかりの公園

 
大量の史料がネット上で見つかり,いろいろいじくっているうちに面白いものを見つけました.
それは「桑田記念児童遊園」というらしいです.

「來曼先生小傳」を書いたのが桑田権平,ライマンの弟子である桑田知明の甥にあたります.
桑田知明の長姉・貞とその夫・衛平との間に生まれた次男が桑田権平だとか.桑田権平は知明に連れられて渡米.ライマンの元で中学高校を経て大学まで卒業しました.
この桑田権平氏が,先代の衛平氏の邸宅・庭園を当時の赤坂区に寄贈してできたのが「桑田記念児童遊園」なんだとか.(葉賀,1987より)

機会があったら行ってみたいものです.(^^)b

 葉賀(1987)乃木坂さんさく 桑田記念児童遊園(日本鑛業会誌,1190号)

グーグルアースより
 

2015年4月16日木曜日

「北海道鑛山畧記」:(三)石炭の「ポロナイ石炭」(地形〜地質まで)

 
(三)石炭
●ポロナイ石炭 (明治廿年の報告に因る)
(地形)
ポロナイ煤田は石狩國ソラチ郡ポロナイ村に在り(「ポロナイ」の上流渓水二派相合する處に在り渓水一を「タキノサワ」と云ひ一を「ホンサワ」と云ふ兩處とも採炭場なり).北緯凡そ四十三度拾三分東經二度十一分「サッポロ」の北七十三度東直徑十三里一分(鐵道線路に沿ひ「サッポロ」停車場より「ポロナイ」役處に至るの距離三十四哩と二千七百廿一尺)の處とす.其地形たるや海面を抜くヿ三百拾貳尺六寸三分五厘(本坑々口)にして,廣袤*1里餘,僅に西一角を開ひて「サッポロ」に通し,三面は山峯回繞す.一の小水あり「ポロナイ」川*2と名く.渓間を迂曲して流下するヿ一里許「ポロナイブト°」(「ブト」はアイヌ語にて水の流れ入る口を云ふ「ポロナイブト°」は「ポロナイ」の川口なり)に至り「イクシュンベッ」の流*3に入る「イクシュンベッ」は「ホロムイ」川*4と合して「ホロムイブト°」に至り有名なる「イシカリ」川*5に注く.
「ポロナイ」周年の氣候,雨雪多くして晴天其半を減ずべし.温度は最高華氏九十度内外にして,最低五度に至る.戸数三百戸許.人口千三百有餘.各渓間に沿ふて櫛比居住す.坑業に就て生活する者,十中八九とす.煤田用地は八千六百八十五萬五千八百拾貳坪九合貳勺七才にして用地内に三煤田あり.即ち「ヌッパオマナイ」*6「イクシュムベッ」及ひ「ポベツ」*7是なり.而して「ポロナイ」煤田坑區は六拾貳萬坪なり.
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*1:廣袤:「廣」は東西の,「袤」は南北の長さ>巾と長さであるから,すなわち「面積」.
*2:「ポロナイ」川:幌内川.
*3:「イクシュンベッ」の流:幾春別川.
*4:「ホロムイ」川:幌向川.
*5:「イシカリ」川:石狩川.
*6:「ヌッパオマナイ」:抜羽の沢川(幾春別川支流).
*7:「ポベツ」:奔別.


(発見)
舊開拓使報文に依り「ポロナイ」煤田發見を尋るに,明治元年石狩國イシカリ驛の木村吉太郎なる者,「オタル」港本願寺出張所建築に用る木材を「ポロナイ」近傍の山に於て伐採せしとき,適煤炭の露出するを見る.然れとも未だ其何物たるを詳にせず.
翌二年,下山の時其片塊を採り携へて歸り,之を人に示す「シママツ」驛の獵夫紺野松五郎,之を見て其煤炭たるを知り,仝四年特に該山に行き炭塊數個を採り,之を「サッポロ」開拓使廳に呈す.然るに當時,使廳多事にして未た之を踏檢する能はす.
翌明治五年,「サッポロ」の住民早川長十郎なる者,其發見の事を聞き,亦特に行て炭塊を採り來り.具さに本廳に報す時に,開拓使四等出仕榎本武揚*1,本廳に在り.親しく其景況を長十郎に質し,其炭塊を分折せしに,其質肥前高島産に伯仲す.
因て仝六年,「アメリカ」人地質學士「ベンヂャミン、スス、ライマン」*2をして該地方を巡視せしめしに,「ポロナイ」を見て開坑適當の地となせしにより,仝七年ライマン及其助手數名をして該煤田を實測せしむ.
仝十二年十二月十八日,始めて開坑に着手し,仝十四年,更に詳細の測量をなす.
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*1:榎本武揚:榎本釜次郎(1836-1908).
*2:ベンヂャミン、スス、ライマン」:Benjamin Smith Lyman,邊治文,士蔑治,來曼 (1835.12.11-1920.08.30).


(沿革)
抑も此炭坑の業は明治十二年開拓使の創始に係り,十五年二月,移て工部省に屬し,十六年三月に至り,更に農商務省の管轄に付せられ,十九年一月,廢縣置廳*1となり三月より北海道廳炭礦鉄道事務所に於て管理し來り,仝九月,之を「ソラチ」監獄署の支配*2に移し以て今日迄繼續せり.
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*1:廢縣置廳:廃県置庁.1882(明治15)年,開拓使廃止にともない函館県・札幌県・根室県が設置.1886(明治19)年,北海道庁の設置と同時に県区分は廃止された.
*2:「ソラチ」監獄署の支配:囚人労働の様子は後出.


(地質)
「ポロナイ」煤田地質は水成岩にして夾煤粘土砂石シェール及蠻岩石*1より成る者とす.其煤炭は瀝青非焦煤質*2にして,一大鞍狀をなせり.明治十四年の地貭測量報告によれば,其機軸の長三十二町にして,北五十度東に向て走り「ポロナイ」と「イチキシリ」*3分水嶺(鉱區内最も高き山頂)の近傍より漸々左右に低降せり.而して層の傾斜に於る鞍状の西北側は稍や緩慢にして,十八度乃至二十五度なりと雖とも,南側は甚た急にして五十度乃至六十度なり.

断層夥多にして,其小なる者は寸餘に過ぎすと雖とも,大なる者に至ては數十尺に及ぶ.抑断層は坑業上許多の妨碍をなす者にして,其之あるは甚た憂ふべきの事なれとも,「ポロナイ」煤田に於は,是か爲め却て實業上好都合を得るヿあり.何となれば本抗水準上の炭量,之か爲に多額なるの一事にして,即ち炭層將に低降せんとして断層の爲に再三昂起するを以なり.若し断層なくんば,三番層以下の炭層は坑區内東南の方に於て見るヿ能はざるべし.之に反し若し該方面に於て之を見るヿを得ば,前條に陳べたる分水嶺の近傍に於ては四層の良炭は早く既に地表に出て去るべし.其然らずして現今の位置に存在する者は,眞に断層の賜と云べし.又,炭層中より多量の可燃ガスを發生し,屢々爆發の災に罹る.

炭層を包括する處の地は六十二萬坪餘にして,内に大小二十餘個の炭層ありと雖とも,當今開採に適する者と認定する者は四層(一番層二番層三番層四番層なり.但し該番號は地質年期に基き下部より上部に至る)にして,本坑(炭層鞍状西北側に開坑せし大坑道にして炭層に直角をなす坑道なり)水準下五百尺間迄を計算せば,其炭量一千百八拾五萬貳千噸なりとす.即ち左表(下表)の如し.


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*1:蠻岩石:「礫岩」のこと.
*2:瀝青非焦煤質:瀝青(天然アスファルト・コールタール・石油アスファルト・ピッチなど),焦煤(中国語.日本語訳は「粘結炭」).
*3:「イチキシリ」:市来知.
 

2015年4月14日火曜日

「北海道鑛山畧記」:(二)硫黄山

 
 以下の項目がありますが,略します.

(二)硫黄山        十四丁
釧路國アトサノボリ硫黄        同丁
○後志國イワオノボリ,ニセコアン,ニセコアンベッ硫黄        二十五丁
○北見國シレトコ硫黄        三十七丁
○クナシリ島シュマノボリ硫黄        五十一丁
○クナシリ島ラウス硫黄        五十六丁
○クナシリ島イチビンナイ硫黄        六十九丁
○エトロフ島モヨロ硫黄        七十三丁
○クナシリ島イワオイ硫黄        同丁
○渡島國エサン硫黄        七十四丁
○釧路國メアカン硫黄        七十八丁
○クナシリ島ポントー硫黄        八十丁
○雑        八十一丁
 

2015年4月11日土曜日

「北海道鑛山畧記」:(一)鉱業略沿革の舊記より.

 
●奮記
○1191(建久二)年:シリウチ砂金を發見す.
○1604(慶長九年正月):暮府,松前藩に金山を賜ふ.
○1608(同十三)年:幕臣・大久保長安「シリウチ」の金を開採せんとす.松前藩辭して曰く,不毛の地,糧を他邦に仰ぐ,坑夫を養ふ可らずと.遂に止む.
○1917(元和三)年:東部楚湖「オーサワ」の兩山砂金を出す.
○1620(元和六)年:松前公廣,砂金一百兩を慕府に献す.慕府,金山及其金を公廣に賜ふ.後,諸国の坑夫來て,砂金を淘汰する者多く,年々獲る所亦夥し.皆三十分一の冥加を松前藩に納む.是に於て,諸物價皆砂金量目を以て稱するに至る.
○1631(寛永八)年:西部「シママキ」に砂金,アカガミ山に白銀を産す.
○1633(寛永十)年:松前藩東部サルル及シピチャリ金山を檢し,仝十二年,始めて「トカチ」連山兩所に採金の業を開く.
○1671(寛文十一)年:酋長「シャクシャイン」,坑夫庄太夫と與に叛す.坑首文四郎,坑夫三百餘人を率井て,松前の軍に歸す.爾後其業を禁ず.土人,大に利を失ひ,松前藩亦其収入を減ず.
○1685(貞享二年三月):「ソーヤ」より金石を出す.
○1690(元禄三)年:ハポロ,濱砂金を出す.松前藩より吏員を遣し採集洗淘せしむるヿ七八年,其間毎年得る處の量百目或は二百目とす.
○1713(正徳三年十二月):松前家臣下國要委,藩主に告て曰く渡島エサシ,ササヤマ鉛鑛採掘一日鉛塊五十個を得,半は渣滓に屬するも,其得る處二十五貫目に至り,白銀亦多く含有すと.
○1721(享保六年):東部「シビチャリ」より砂金を出す.
○1736(元文元年十一月):板倉源次郎,松前藩本領分界圖を製し,松前領外所在の金鑛を慕府に告く.仝十二月,慕府,源次郎に松前金銀山掘採を命ず.源次郎,採鑛人夫を南部領に募り「マツマイ」に到る.
○1737(元文二年):幕府金座,後藤庄三郎を「ソーヤ」に遣り,砂金を探討せしむ.遂に得ずして歸る.
○1738(元文三年二月):幕府,松前藩に命し,金銀産出の量を檢せしむ.
○?(寶徳十三年八月)(1763;宝暦13か?):カミノクニ銅山を試掘し,後,之を廢す.
○1766(明和三年五月):幕府,中村安右衛門に「マツマイ」金山掘採を命し,小人目付二名を屬し「マツマイ」に遣る.安右衛門センゲン岳金鑛及ユーラ鉛山を踏檢掘採す.収支償はざる理由を復命し,事遂に止む.仝十一月,渡島國エサシ村某,従來掘採の豐部内鉛山,鑛脈減せしを以て,更に蝦夷地ユーラ鉛山,明年より十ケ年間を期し,出産額十分の一の冥加を以て掘採を松前藩に請ひ許さる.
○ 1767(明和四年八月):松前藩近藤權九郎,アカガミ村産鉛,目方一貫六百目より九百目に至る鉛盤四枚を藩主に致す.
○1799(寛政十一)年:幕府,又委員を派し「シビチャリ」銀山を試掘す.其結果詳ならず.
○1842(天保十三)年:「ハコダテ」商某,始て「エサン」の硫黄を開採す.
○1846(弘化三)年:「ハコダテ」商某,エサン硫黄を掘採し,嘉永元年に至て止む.
○1855(安政二)年:村民之を請負掘採す.「子タナイ」(今カメダ郡シリキシナイ村支村)村民「トドホッケ」銀鑛及銅鑛を開發し,后,廢す.「ハコダテ」奉行所,「フルベ」「カクミ」山松大澤等の銀鑛試掘に従事す.「ハコダテ」某「カクミ」「ショージンガワ」鉛鑛を開發す.函舘奉行竹内保徳,コブイ(今シリキシナイ村)海濱の鐵砂を檢査し,熔鑛爐反射爐を築き,大砲鑄造を幕府に請ふて製煉す.又,フルペ山黄土石黄を掘採す.「オサッベ」村「カクミ」川の砥石,「カクミ」の硯石等を開發す.幾もなくして皆廢す.
○1856(安政三年三月):慕府,イチノワタリ山鉛鑛を採掘す.砂鉛五分銀二分を含有す.後,之を廢す.
○1856(安政三)年:「ハコダテ」商某請て「エサン」硫黄を掘採す.坑夫二十人乃至三十二人を役し,毎月に得る所,製品百石餘.
○1856(安政三)年:幕府始めて釧路オソツナイ石炭を掘採し,幾くもなくして止む.
○1857(安政四年四月)年:慕府,先きに開發に着手せるユーラ山銀鑛,利益少なきを以て止め,更に其鉛鑛を開發す.世俗賽の目鉛と名け,最上品を出す.鉛千分の中四分の銀を含有す.
○1858(安政五年):硫黄販路未た開けず.「ハコダテ」産物曾所,精製硫黄を百石價金一百兩にて買上げ,之を諸方に轉買す.
○1858(安政五年三月):函館奉行屬吏・鈴木尚太郎,イワナイ硫黄を發見し,文久元年,始て試掘す.其量一年凡そ五百石目に下らず.
○ 1859(安政六年五月):佐渡金工等來て,東部クンヌイ山砂金を洗淘す.一人一日得る處九分より一匁に至る.幾なくして止む.
○ 1859(安政六年):曾津藩シャリ郡シレトコ山字「イタシベウニ」,硫黄開採に着手し,慶應三年遂に廢止す.
○1861(文久元)年:物價騰貴.硫黄製造収支償はず.百石價,金百六拾兩と定む.是歳,幕府地質學者米人「ブレー」「パンペレー」二人を聘し,蝦夷地鑛物開採を圖る
○1862(文久二年五月):「ブレーク」「パンペレー」に官吏・學生・譯官等を屬し,「カククミ」金鑛,クンヌイ金鑛,イチノワタリ鉛鑛,ユーラ鉛鑛,コブイ鐵鑛,シベッ炭坑,ヤムクシナイ油井等を點檢し,「ユーラ」鉛山に火藥を用ひ,岩石を破碎す.
○ 1862(文久二年七月):「イワナイ」「ポロベッ」「タルマイ」等の硫黄を精製し,物産曾所に買上け,大坂及江戸曾所に廻送し,餘は「ハコダテ」地方に販賣す.
○1863(文久三)年:硫黄精製品價格,百石に付き四拾兩を加へ,二百兩とせんと請ふ.聴さず.更に令して,年々税金若干分,硫黄五拾石を納る者は石數の多寡を問はず掘採を許す.
○1866(慶應二)年:「ハコダテ」藥種商コブイ硫黄を開採す.
○1867(慶應三)年:エサン硫黄収支償はずして掘採を止む.
○1867(慶應三)年:函舘奉行官吏「イワナイ」「カヤノマ」石炭發見を幕府に報ず.幕府,英人「ガール」を派して,海岸より炭山に至るの道路を開き,官舎を築き,以て其坑を開かしむ.(以上舊記の部,北海道志幷開拓使事業報告等に依る)
 

2015年4月9日木曜日

「北海道鑛山畧記」:(一)鉱業略沿革より

(一)鉱業略沿革

〔1869(明治二)年〕
七月:開拓使が設置され,全道鉱山の事務を総轄することとなる.
八月:イワナイ石炭山*1に詰所を置き,これを管轄し,のちにイワナイ分署の所轄とする.
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*1:イワナイ石炭山:イワナイは,もちろん岩内のこと.イワナイ石炭山は茅沼炭山のこと.現在は活動停止中の原発がある.


〔1870(明治三)年〕
十月:金銀鉱山については,外国人技術者を雇い,存在を調査し,これを鉱山司に報告することに決定した.
同年:「カメダ郡*1エサン硫黄*2」の採掘を許可する.以来,断続的に借区*3が行われ,事業が行われた.
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*1:カメダ郡:亀田郡,現在は七飯町一町からなるが,当時は亀田半島全域を含んでいた.
*2:エサン硫黄:恵山硫黄鉱床のある恵山火山は,現在函館市恵山町となっている.
*3:借区:鉱業法によれば,地下資源はすべて国が独占することを前提としている.個人・会社は国から地域を決め権利を借りることによって,採掘することが可能となる.これを「昔区」という(正確な法律文章ではない).


〔1871(明治四)年〕
七月:「カメダ郡イチノワタリ鉛鑛*1」及「ヤマコシ郡ユーラプ銀鉛鑛*2」および「同郡クンヌイ金鑛*3」を調査*4し,借区を許し,幾許もなくして之を止む.
同年:釧路國クシロ郡オソツナイ石炭*5を採掘する.のち中止.
同年八月:雇アメリカ人トーマス・アンチセル,諸鉱山を巡検*6
同年:トーマス・アンチセル,「イワナイ」炭山*7を蹈檢し,開採改良の議を呈す.
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*1:イチノワタリ鉛鑛:市渡鉱山.大野鉱山ともいうらしい.
福富忠男(1932)には,以下のようにある.
〇大野村の含銀・鉛
亀田郡大野村江差街道戸切地川の南渓に曾て市の渡鍍山あり。目下廢山潰滅して舊坑の位置探査すら容易ならず。「安政三年三月岩尾勝右工門及び石川仁吉兩氏發見し、幕府之を稼行して鉛を産せり」と傳ふ又曰く「此山往昔より開坑せしが、安政元年より幕府の直轄となり、石井平一郎之に長たり。關定吉、渡邊大助、同吉郎三人は佐渡の者にして採礦製煉を監督せり。坑夫一〇〇人雑夫六〇人あり。家屋二〇軒、水車一擣、礦杵九本、吹床二ヶ所毎日六〇貫の撰礦を吹き、二〇貫の鉛を得たり。
坑數七ヶ所毎日粗礦一〇〇貫餘を出せり。幕府業を廢する後二ヶ年は民坑と為れり。文久元年ブレーキポンペリーの兩氏巡視の時は、人夫一〇〇人を使役し、毎日の出鉛一〇貫目にして、惣入費五弗九八錢(原文の儘)なりし。此山の最も盛なりしは安政六年にして、毎日の出鉛高七五貫に達し、文久元年前三年間は六六噸の鉛を製出せりと。而して此山は永續すべきも大利なき旨明言せり」云々の記事あり。(明治二十四年三月二十八日北海道廳発行北海道鑛床調査報文参照)本山の位置は海抜八五米、渓口は第三紀黒色頁岩より成り、西南へ七〇度の傾斜を爲し渓頭は安山岩、鑛床は之等兩岩の接線に沿ふ裂罅充填鑛脈脈石は方解石を主とし、含銀方鉛鑛の外黄銅鑛硫化鐵鑛及び閃亜鉛鑛を交へたるが如し。因に明治四年鉛の外、銀の採取をも企て幾何もなく休山せりと傳へらる。
*2:ユーラプ銀鉛鑛:遊楽部鉱山(鉛川鉱山,八雲鉱山ともよばれた).
 日高進(1950MS)北海道八雲鉱山付近の地質・鉱床.北大理地卒論,手記.
 原田準平・日高進(1951)北海道八雲鉱山の鉱床の構造.地質雑,57(670): 269.
*3:クンヌイ金鑛:不詳.カニカン岳東麓から美利河にかけての利別川上流部が推定されている(寺崎,1996).
 來曼ほか(1876)「大日本北海道登志別金田之地理及地質的略測之図」
*4:調査:1871(明治4)年7月といえば,アンチセルの巡検はまだ始まっていない.その頃ほかに地質調査が行われたという記録も見あたらない.もしかしたら,江戸時代末期のブレイクやパンペリーの調査のことか,あるいはその時に随行したといわれる日本人学生の誰かが,再度検分したものなのかもしれない.
*5:オソツナイ石炭:現・釧路市益浦の海岸あたりをオソツナイ(岩見浜ともいうらしい)といい,この付近に石炭露頭が見られる.北海道最初の石炭採掘場ともいわれているが,試掘程度であり産業化には至らなかったと思われる.
*6:諸鉱山を巡検:「蝦夷地質学」参照.
*7:「イワナイ」炭山:「イワナイ」は現在の岩内であるが,「イワナイ」炭山は茅沼炭山のこと.
明治一〜五年は旧暦のため,算用数字ではなく漢数字で示す(2015.03.24:修正)


〔1872(明治五)年〕*1
五月:開拓使,四等出仕榎本武揚*2,七等出仕北垣國道*3,諸鉱山を巡視.
同年:ヤマコシ郡「ワシノキ」*4「ヤマコシ」*5「イズミサワ」*6石油を採掘したが,のち中止.
同年九月:鑛山允許畧則*7を定めた.
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*1:明治五年は十二月二日まで.翌日は明治6年1月1日になる(太政官布告337号).
*2:榎本武揚:蝦夷地質学参照.
*3:北垣國道:北垣国道(1836-1916);幕末反政府軍から明治政府へ.政治家としては高知県令,徳島県令,京都府知事,北海道庁長官,貴族院議員などを務めるが,技術者としての業績は不明.
*4:「ワシノキ」石油:鷲ノ木油田.
北大図書蔵

*5:「ヤマコシ」石油:山越内油田.
*6:「イズミサワ」石油:泉沢油田.
北大図書蔵

*7:鑛山允許畧則(鉱山許可略則):自今開坑を請ふ者は鑛脈の性質,鑛業成否及願人身元等を糺し,確實と認むるときは本使限り之を許可し,後開申すへき稟裁を經….


〔1873(明治6)年〕
2月:全道地質鑛物調査順序を協議し,雇米国人ライマン,マンローおよび助手*1をして地質鉱物を調査させることとする.
同年4月:大主典石橋俊勝*2ほか三名を派遣し,「日高天鹽以北鑛山を蹈檢せしむ」.
同年:ライマン「ポロナイ」石炭山*3を調査,鉱業化可能と判断.
同年:渡島國ニシ郡クマイシ山石炭*4を採掘し,のち中止.
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*1:ライマン,マンローおよび助手:蝦夷地質学参照.
*2:石橋俊勝:不詳.北大図書には石橋俊勝の肖像写真がある.また,十勝川から佐幌岳を通って空知川までの測量図が残されており,「三角術測量北海道之図」(1875(明治8)年発行)の当該部分のデータは石橋ほか三名の測量と思われる.これらから,石橋らは測量作業が中心であり,鉱山踏査はサブであったことが推測される.
*3:「ポロナイ」石炭山:幌内炭山.
北大図書蔵

*4:ニシ郡クマイシ山石炭:爾志郡熊石町(現:二海郡八雲町).石炭山については不詳.熊石町史に「見市川右岸の福山層 中に石炭層があり、一時採掘も行ったことがあるが、低品位のため中止」とある.


〔1874(明治7)年〕
6月:黒田開拓長官,ポロナイ炭山*1を巡視.
同年8月:クシロ郡ハルトリ沼*2近傍石炭試掘を許可,しばらくして中止.明治20年,借区を再許可.
同年:ライマン,助手を「ポロナイ」煤田に派遣.地質調査,測量*3
同年:サル郡*4ならびに「モロラン」郡*5に石炭を発見し,試掘を許可.のち中止.
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*1:ポロナイ炭山:幌内炭山.上記参照.
*2:ハルトリ沼:現・釧路市春採湖附近.前記事「オソツナイ石炭」参照.
*3:派遣.地質調査,測量:この年,ライマンは石狩川を遡り,十勝川にでて,北海道略一周する調査行に.助手たちは二班に分け,一班はマンロー指揮下,一渡・広尾・歴舟地方の砂金地と幕別炭山を調査,もう一班は幌内炭山・幌内-石狩川間・幌内-空知間の地質測量を行っている(蝦夷地質学参照).
*4:サル郡:沙流郡.炭山については不詳.
*5:「モロラン」郡:室蘭郡.炭山については不詳.


〔1875(明治8)年〕
4月:全道の鑛物調査をほぼ終え,旧来の「開採畧則」を廃し,今後「日本坑法」に準拠すべきである旨決済をうけ,北海道庁において全道の鉱山を統括することとする.
同年7月:ライマン,イワナイ煤田*1を踏査し,開採改良を建議.
同年10月:ヒヤマ郡カミノクニ村石炭*2試掘を許可.のち中止.
同年:後志國セタナイ郡トシベッ砂金*3,採取を許可.のち中止.
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*1:イワナイ煤田:既出.
*2:カミノクニ村石炭:桧山郡上ノ国村(現・上ノ国町).石炭は不詳(1/5万地質図幅未刊).褐炭があったという記録あり.
*3:トシベッ砂金:瀬棚郡利別川上流(現・今金町美利河付近).
西山ほか(1891)より


〔1876(明治9)年〕
3月:イワナイ郡硫黄山*1,試掘を許可.また借区を許可.硫黄鉱山は実測したところ「アブタ」郡*2に属していた.
同年5月:鑛物開採は毎年4月より9月までを一期と定める.
同年7月:イワナイ炭坑*3を物産局所轄とする.
同年8月:太政大臣三條實美*4,北海道巡視の時,参議伊藤博文,山縣有朋*5,特に「ポロナイ」煤田*6を巡視.
同年9月:カワカミ郡クッチャロ村アトサノボリ*7および「シャリ」郡シレトコ山硫黄*8試掘を許可し,のち借区とした.
同年:ホロベッ郡字ノボリベッ山,硫黄*9試掘を許可,のち採掘中止.
同年:ライマン,「北海道地質總論」を出版.
同年:トーブイ郡ベルフ子川,砂金*10試掘を許可.のち中止.
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*1:イワナイ郡硫黄山:不詳.記述からは虻田郡倶知安町と磯谷郡蘭越町にまたがる「イワオヌプリ(岩雄登)」かと思われる.
西山ほか(1891)より

*2:「アブタ」郡:虻田郡.
*3:イワナイ炭坑:既出.
*4:三條實美:幕末の反政府勢力,公家.いわゆる尊王攘夷派.明治政府成立後は議員・大臣などを歴任した.
*5:伊藤博文,山縣有朋:ともに長州藩士で幕末反政府勢力.幕末の動乱を生き延びて,政治家となる.
*6:「ポロナイ」煤田:「ポロナイ」既出.煤田は炭田のこと.現代的には「炭田」は石狩炭田,空知炭田などの広範囲を指すので少し用法が違う.もしくは,このときは「ポロナイ」を石狩炭田全域の代表名として使用していたのかもしれない.
*7:アトサノボリ:アトサヌプリ(跡佐登);現・上川郡弟子屈町.
西山ほか(1891)より

*8:シレトコ山硫黄:知床硫黄山の北西麓.
西山ほか(1891)より

*9:ノボリベッ山,硫黄:幌別郡登別(幌別鉱山と思われる)
*10:ベルフ子川,砂金:ペルプネイ(現・歴舟川)


〔1877(明治10)年〕
1月:カメダ郡シリキシナイ村コブイ硫黄*1,試掘を許可,のち中止.明治21年,再び試掘を許可.
同年2月:オクシリ郡硫黄*2,試掘を許可.のち中止.同22年,再び試掘を許可.
同年11月:8年4月以来,日本坑法に準拠してきたが,(当地は)きわめて寒く,また積雪が多いために稼働日数が少なく「借区税」は当分のあいだ月割りで徴収するべき事を上申した.
同年12月:開拓大書記官,山内堤雲*3ら,ポロナイ炭山*4開採経費概算書を作成,開採を議決.
同年:イワナイ炭山*5改良の議起り,山内堤雲ら経費概算書を作成.
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*1:コブイ硫黄:古武井硫黄山
高畠(1952)より

*2:オクシリ郡硫黄:奥尻(島硫黄)鉱山
伊木(1912)より

*3:山内堤雲:wiki参
*4:ポロナイ炭山:既出.
*5:イワナイ炭山:既出.


〔1878(明治11)年〕
2月:これからの北海道坑区税は月割を以て徴収.
5月:「サッポロ」農學校敎師「ペンハロー*1」に「サッポロ」近傍の石材調査をさせる.
5月:「ポロナイ」炭坑開採.「イワナイ」炭坑*2改良の予算は別に予算を組むことを許可.
8月:アツタ郡石油*3試掘を許可.のち借区を許可.
9月:クナシリ郡トープッ村*4ラウス山硫黄*5,試掘を許可.のち借区を許可.また,ヒヤマ郡キノコ村*6,石炭の借区を許可,のち採掘中止.
10月:煤田*7開採係を本庁に置き,山内堤雲*8を事務長とし,松本荘一郎*9を副長とする.
不詳月:フランス万国博覧会*10に各地の砂金・銅・石炭を出品.
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*1:ペンハロー:David P. Penhallow (1854-1910):米国の植物学者.1976(明治9)年,W.S.クラークとともに来日したいわゆる“お雇い外国人の一人”.札幌農学校で植物学,化学,農学,英語を教える.1880年帰国.札幌硬石はペンハローの発見といわれる(未確認).
*2:「イワナイ」炭坑:既出.茅沼炭山のこと.
*3:アツタ郡石油:厚田郡の油田のこと.複数個所あることがわかっているので,特定できない.
*4:クナシリ郡トープッ村:国後郡東沸村.
*5:ラウス山硫黄:国後島・羅臼山周辺には昭和初期まで大きな硫黄鉱山があった.
*6:ヒヤマ郡キノコ村:桧山郡木ノ子村(現・上ノ国町木ノ子).石炭山については不詳(1/5万地質図幅未刊).褐炭(?)であった(商業上品質が悪い)とかいう情報があるものの,公式な論文・報告書の類は未見.
*7:煤田:既出(現在は炭田の意味:採炭可能な炭鉱が広域に期待できる地域;の意味で使う).
*8:山内堤雲:既出.
*9:松本荘一郎:(1848-1903)明治時代のテクノクラートのひとり.大学南校卒.土木工学専門.東京府,開拓使などをへて,鉄道庁へ(北海道では重要人物ではない).
*10:フランス万国博覧会:1878年パリ万国博覧会.パリで開催された万博としては三回目.


〔1879(明治12)年〕
2月:雇鉱山師米国人「レ子ー、グロウド、オル子、ゴウジヨー*1」を鉱山監督に任しアメリカ坑夫頭「エドワルド、パレー*2」及び「ヂョセフ,エッチ、ダウス*3」を雇入る.
3月:千島國シャナ郡シャナ村チリプ山*4,硫黄試掘を許可.のち中止.
3月:ポロナイ炭山より「ポロナイブト°*5」まで鉄道線を測量*6
7月:イワナイ炭山出張所ヘ電信を開く.
10月:千島國シベトロ郡モヨロ山*7,ならびに「エトロフ」郡ベルタルペッ山*8,硫黄試掘を許可し,のち中止.
12月:クナシリ郡ペトカ村イチビシナイ硫黄*9の試掘を許可.のち借区とする.
12月:ポロナイ炭山より「ポロナイブト°」に至る鉄道を延長し「エベッ」を経て「サッポロ」にあたり「オタル」港「テミヤ」に至らしむることを許可*10
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*1:レ子ー、グロウド、オル子、ゴウジヨー:Lene Claud Ernest Gaujot, 業績,人物とも不詳.
*2:エドワルド、パレー:Edward Parry,業績,人物とも不詳.札幌市教育委員会(1981編)によれば「イギリス人」とある.
*3:ヂョセフ,エッチ、ダウス:業績,人物とも不詳.札幌市教育委員会(1981編)によれば「米国人」らしい.
*4:千島國シャナ郡シャナ村チリプ山:千島国紗那郡紗那村・散布山;硫黄鉱山については不詳.
*5:ポロナイブト°:ポロムイブト(幌向太)の間違いか?
*6:鉄道線を測量:この測量はクロフォード,J. U. (1842-1924)による.
*7:千島國シベトロ郡モヨロ山:千島国蘂取郡蘂取村・茂世路岳(正確には,副峰の硫黄岳).硫黄鉱山に関しては不詳.
*8:「エトロフ」郡ベルタルペッ山:択捉郡留別村・ベルタルベ山.硫黄鉱山に関しては不詳.
*9:クナシリ郡ペトカ村イチビシナイ硫黄:国後郡米戸賀村一菱内(湖).硫黄鉱山に関しては不詳であるが,三井物産が経営していた.
*10:…ことを許可:当初の計画では,幌内から幌向太まで鉄道を敷き,そこから船で石狩港経由で小樽に運ぶ計画だった.しかし,クロフォードは幌内から江別までを鉄道,江別から石狩川を船で輸送することを提案した.3月の測量時には,その予定であった.ところが,四月下旬の雪解け水による大洪水で,石狩川利用の非現実性が浮上した.そのため,開拓使は幌内から手宮までの「幌内鉄道」案に改正.12月25日に許可された.(近藤喜代太郎,2005「幌内鉄道史」より)


〔1880(明治13)年〕
2月:クナシリ郡チッカリペッ村*1シュマノポリ山*2,硫黄試掘を許可.のち,借区とする.
6月:鉱山試掘借区券書式を改正.
7月:セタナイ郡セタナイ村*3瑪瑙マンガン*4の試掘を許可.のち,中止.
8月:メナシ郡ツチベッ山*5の硫黄試掘を許可.のち廃止.
12月:フルウ郡,銅鉛鑛*6の採掘に着手し,のち中止.同20年に再び試掘し,のち借区とする.
12月:第二回内国勧業博覧会に各種鉱物見本を出品.
不詳月:根室國メナシ郡ウエベッ村字チウンベッ硫黄*7の採掘を許可.のち中止.
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*1:クナシリ郡チッカリペッ村:国後郡秩苅別村.
*2:シュマノポリ山:不詳.羅臼山付近の火山と思われる.
*3:セタナイ郡セタナイ村:瀬棚郡瀬棚村(発足当時の瀬棚郡は現在とかなり異なる).
*4:瑪瑙マンガン:不詳.メノウは利別川上流部.マンガンは利別川下流附近が有名であるが,この鉱山は特定できない.
*5:メナシ郡ツチベッ山:目梨郡.“ツチベッ山”は不詳.
*6:フルウ郡,銅鉛鑛:不詳.古宇郡にはこの当時も知られていた銅鉛鉱山は多い.しかし,明治13年に開坑し,また20年に再開した鉱山というのは該当するものが見つからない.
*7:根室國メナシ郡ウエベッ村字チウンベッ硫黄:不詳.知円別岳のことか?


〔1881(明治14)年〕
7月:カメダ郡下ユノカワ村,鉛鑛*1試掘を許可.のち廃止.
8月:メナシ郡ウエベッ村*2,「トリポリ*3」試堀を許可.のち,廃止.
8月:アッケシ郡オッチシ村*4の石炭試掘を許可.のち廃止.
月不詳:ウラカワ郡キ子ウス村*5の石炭試掘を許可.のち廃止.
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*1:カメダ郡下ユノカワ村,鉛鑛:不詳.銭亀沢鉱山のことか?
*2:メナシ郡ウエベッ村:目梨郡植別村(現:羅臼町)
*3:トリポリ:不詳
*4:アッケシ郡オッチシ村:厚岸郡落石村(現:根室市落石).炭山については不詳.
*5:ウラカワ郡キ子ウス村:浦河郡杵臼村(現:浦河町杵臼).炭山については不詳.


〔1882(明治15)年〕
1月:アッケシ郡チリプ村*1の石炭試掘を許可.のち廃止.
1月:クナシリ郡字トクカリムイ*2,硫黄試掘ヲ許ス.
2月:開拓使,廃止.三県時代(札幌・函館・根室)となる.
月不詳:鉱山事務は開拓使廃止にともない工部省に所属となる.窓口業務は三県に分離.
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*1:アッケシ郡チリプ村:厚岸郡散布(現:浜中町散布).石炭山については不詳.
*2:クナシリ郡字トクカリムイ:国後郡トッカリムイ.硫黄山については不詳.


〔1883(明治16)年〕
4月:鉱山試掘・借区出願人取扱手続を制定.
8月:ヤマコシ郡オシャマムベ村クンヌイ*1の銅鉱試掘を許可.のち廃止.
11月:借区図の雛形を作成.
11月:借区税怠納者処分法を作成.
月不詳:ヨイチ郡ヨイチ川上字シロイカワ*2の銅鉱試掘を許可.のち廃止.
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*1:ヤマコシ郡オシャマムベ村クンヌイ:山越郡長万部村訓縫(現:山越郡長万部町字訓縫).銅鉱山については不詳.
*2:ヨイチ郡ヨイチ川上字シロイカワ:余市郡余市川上字白井川.銅鉱山については不詳.


〔1884(明治17)年〕
5月:試掘借区願人身元並に資力調査法制定.
6月:メアカン山*1の硫黄試掘を許可.
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*1:メアカン山:雌阿寒岳.


〔1885(明治18)年〕
月不詳:オタル郡アサリ川奥*1の銀鉱試掘を許可.のち廃止.
1月:ルルモペ郡*2の石炭山試掘を許可.のち廃止.
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*1:オタル郡アサリ川奥:小樽郡朝里川.
*2:ルルモペ郡:留萌郡.


〔1886(明治19)年〕
1月:札幌,函館,根室三県を廃止,北海道庁を置く.
3月:借区税怠納または一ヶ年以上休業および試掘期限経過のため証券引揚処分を受けたものの処分法制定.
4月:借区税徴収後,廃坑または減坪にかかわる既納税金は返却しない旨通達.
3月:試掘借区願は本庁においてこれを審査し,のち監督官庁に開申する.
11月:サッポロ郡ツキサプ村字ツキサプ山*1の石油試掘を許可.
月不詳:地質鉱山調査を起業する.主任・山内徳三郎*2,工學士・大島六郎,桑田知明*2などが従事.また,ソラチ煤田*3調査を開始.山内徳三郎が主任となり,工學士・大日方一輔,工學士・米倉清族,前田精明*4が従事.
月不詳:フルビラ郡字イナクライシ銀銅山*5試掘を許可.のち,廃止.22年,再び試掘を許可.
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*1:サッポロ郡ツキサプ村字ツキサプ山:札幌郡月寒村字月寒山(現:札幌市豊平区月寒).
*2:山内徳三郎,桑田知明:地質測量生徒の地質学(その2)参照.
*3:ソラチ煤田:空知炭田.
*4:前田精明:地質測量生徒の地質学(その3)参照.
*5:フルビラ郡字イナクライシ銀銅山:古平郡稲倉石銀銅山(現:古平町稲倉石).


〔1887(明治20)年〕
4月:鉱山事務取扱手続を制定.
4月:空知郡ホロムイ川上字ナヱベツ*1の石油試掘を許可.
11月:クナシリ郡ペトカ村字イワオイ*2の硫黄試掘を許可.
12月:アカン郡テツベツ村メアカン山*3の硫黄借区を許可.
月不詳:ソラチ煤田*4調査を地質調査に合す.又,西山正吾を増員,該事業に従事せしむ.
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*1:空知郡ホロムイ川上字ナヱベツ:空知郡幌向川上字.ナヱベツは不詳(現:栗沢町上志文を流れる苗川,もしくは美流渡を流れる石油の沢のことか?).
*2:クナシリ郡ペトカ村字イワオイ:国後郡米戸賀村,字イワオイは不詳.
*3:アカン郡テツベツ村メアカン山:阿寒郡徹別村雌阿寒山(現:足寄町雌阿寒岳)
*4:ソラチ煤田:空知炭田.


〔1888(明治21)年〕
1月:ヨイチ郡オキ村ユーナイ*1の銅銀鉱試掘を許可.
2月:イワナイ郡カヤノマ村*2の石炭山借区を許可.
5月:フルウ郡オキシナイ村*3の銅鉱試掘を許可.のち試掘延期を許可.
5月:セタナイ郡トシベッ川*4ほか六ヶ川において砂金採取を許可.
5月:アツタ郡字モーライ*5の石油試掘を許可.
7月:クナシリ郡ペトカ村ポントー*6の硫黄借区を許可.
7月:山内徳三郎,林務に転出.理學士・河野鯱雄,これに代る.
7月:ソラチ郡ポロナイ村イクシユムベッ炭鑛*7の借区を許可.
7月:クナシリ郡トープッ村字トクカリモイ硫黄*8の借区を許可.
9月:ソラチ郡ソラチ石炭*9試掘を許可.
10月:フルウ郡サンナイ村*10の銅鉱試掘を許可.
11月:アツタ郡各村,石油試掘を許可.
12月:マツマイ郡アカガミ村*11の銀鉱試掘を許可.
12月:オクシリ郡アオナイ*12の石炭試掘を許可.
12月:カヤベ郡オサッベ村*13の硫黄試掘を許可.
12月:オクシリ郡ツリカケ村*14の硫黄試掘を許可.
月不詳:地質鑛山調査に阪市太郎*15石川貞治*16・神保小虎・加藤清を増員し,該事業に従事せしむ.
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*1:ヨイチ郡オキ村ユーナイ:余市郡沖村湯内(現:余市町豊浜町湯内川上流).
*2:イワナイ郡カヤノマ村:岩内郡茅ノ澗村(現:古宇郡泊村茅沼).
*3:フルウ郡オキシナイ村:古宇郡興志内村(現:古宇郡泊村興志内).
*4:セタナイ郡トシベッ川:瀬棚郡利別川(現:今金町利別川).
*5:アツタ郡字モーライ:厚田郡望来(現:石狩市厚田区望来).
*6:クナシリ郡ペトカ村ポントー:国後郡米戸賀村ポントウ.
*7:ソラチ郡ポロナイ村イクシユムベッ炭鑛:空知郡幌内村幾春別炭鉱(現:三笠市幾春別).
*8:クナシリ郡トープッ村字トクカリモイ硫黄:国後郡東沸村.トクカリモイは不詳.
*9:ソラチ郡ソラチ石炭:空知郡空知石炭(現:歌志内市の元空知炭鉱).
*10:フルウ郡サンナイ村:古宇郡珊内村(現:古宇郡神恵内村珊内村).
*11:マツマイ郡アカガミ村:松前郡赤神村(現:松前郡松前町赤神).
*12:オクシリ郡アオナイ:奥尻郡青苗(現:奥尻郡奥尻町青苗).
*13:カヤベ郡オサッベ村:茅部郡尾札部村(現:函館市尾札部町)
*14:オクシリ郡ツリカケ村:奥尻郡釣懸村(現:奥尻町釣懸)
*15:阪市太郎:坂市太郎の誤記.地質測量生徒の地質学(その2)参照.
*16:石川貞治:石川貞治・横山壮次郎の地質学(1)~(7),増補,参照.


〔1889(明治22)年〕
2月:カメダ郡トドホッケ*1,アカイ川*2の硫黄試掘を許可.
3月:大日方技師*3,非職となり民間に転職.
4月:ヨイチ郡サンドー村*4ならびにシロイカワ銅鑛*5の試掘を許可.
4月:クシロ郡コンブモリ村カツラコイ村*6の石炭試掘を許可.
4月:カバト郡トク川*7の石油試掘を許可.
4月:ユーバリ郡*8の石炭試掘を許可.
4月:余市郡シカリベッ*9銀鉱,試掘を許可.
4月:ヨイチ郡ヌツチノ澤*10,シロイカワ三ッ俣*11の金銀銅鉱試掘を許可.
4月:ソラチ郡ホロムイ川支流ナエベッ*12の石油借区を許可.
4月:ヨイチ郡ヲキ村ユーナイ*13:銀鉱借区を許可.
4月:ヤマコシ郡ヤクモ村ユーラプ村*14の銀鉛山試掘を許可.
5月:タカシマ郡シクヅシ村字ヤマナカ*15銅鉱試掘を許可.
5月:米倉*16桑田技師*17,退職し民間へ.
6月:ウス郡オサル村*18ニシモンベツ村*19マレプ村*20の銀銅鑛試掘を許可.
6月:アツタ郡モーライ村「フラトマリ」*21,の石油借区を許可.
6月:アツタ郡モーライ村シュンベッ*22,シャッカリ*23,コタン村*24の石油試掘を許可.
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*1:カメダ郡トドホッケ:亀田郡椴法華(現:函館市新浜町,新八幡町,元村町,銚子町など)
*2:アカイ川:不詳.
*3:大日方技師:大日方一輔(長野出身).
*4:ヨイチ郡サンドー村:余市郡山道村(現:余市郡仁木町).
*5:シロイカワ:余市郡余市川上字白井川.
*6:クシロ郡コンブモリ村カツラコイ村:釧路郡昆布森村(現:釧路町昆布森)・桂恋村(現:釧路市桂恋)
*7:カバト郡トク川:樺戸郡徳富川.
*8:ユーバリ郡:夕張郡.
*9:余市郡シカリベッ:余市郡然別(現:仁木町然別).
*10:ヨイチ郡ヌツチノ澤:余市郡ヌッチノ沢(現:余市郡ヌッチ川)
*11:シロイカワ三ッ俣:余市郡余市川上字白井川三俣.
*12:ソラチ郡ホロムイ川支流ナエベッ:空知郡幌向川支流ナエベツ(現:岩見沢市上志文町,苗川).
*13:ヨイチ郡ヲキ村ユーナイ:余市郡沖村湯内(現:余市町豊浜町湯内川上流).
*14:ヤマコシ郡ヤクモ村ユーラプ村:山越郡八雲村遊楽部村(八雲村までは記録にあるが,ユーラプ村/遊楽部村は記録が見つからない;誤植か?)
*15:タカシマ郡シクヅシ村字ヤマナカ:高島郡祝津村字山中(現:小樽市祝津)
*16:米倉技師:米倉清族(佐賀県出身:以下不詳).
*17:桑田技師:桑田知明(既出);技師たちの移動が激しいが,これは事務官偏重・技官軽視の上に,帝国大学出身者が増え学閥ができたため(ともに現代に続く悪しき伝統)といわれる.さらに,当時は薩長閥偏重という背景もあった(官員録,出身などを調べれば明らかになるかとは思う.いずれ調べてみたい).
*18:ウス郡オサル村:有珠郡長流村(長流村は,現在伊達市と壮瞥町に分割されている).
*19:ニシモンベツ村:西紋鼈村(現在地は不詳).
*20:マレプ村:稀府村(現:伊達市北稀府,中稀府.南稀府)
*21:アツタ郡モーライ村「フラトマリ」:厚田郡望来村フラトマリ(現:石狩市厚田区望来フラトマリ)
*22:アツタ郡モーライ村シュンベッ:厚田郡望来村春別(現:石狩市厚田区望来春別).
*23:シャッカリ:厚田郡望来村知津狩(現:石狩市厚田区望来知津狩).
*24:コタン村:厚田郡望来村古潭(現:石狩市厚田区望来古潭).