2010年8月31日火曜日

“幻”の対馬銀山

 
 いわゆる“対馬銀山”は日本最古の銀山といわれ,八世紀から十三世紀にかけて,日本でほとんど唯一の産銀地とされています(十三世紀以後は,その始まりははっきりしませんが,石見銀山が加わるとされています).

 現在追求中の「海洋史観」の初期には,対馬から産した銀が朝鮮半島との交易において重要な位置を占めていることが示されています.しかし,「対馬銀山」とは,どのようなものだったのかとなると,ほとんどはっきりしません.
 それで,あちこち調べると,ますます混乱してゆく一方なのですが,このブログは,調査の「メモ書き」のつもりですから,とりあえず,どの程度混乱しているのかを示しておきたいと思います.

●名称
 いわゆる“対馬銀山”と,書きましたが,「対馬銀山」という言葉には,なにか実態があるわけではありません.歴史資料に「対馬銀山」という言葉が出ているものはないようです(「ないようです」というのは,わたしは歴史の専門家ではありませんので,知りうる範囲はごく狭いですし,お宝のような史料には,もちろんアクセスできる権利がない:歴史のほとんどは,公開されていない史料から成り立っているのです).
 誰が,最初に「対馬銀山」という言葉を使ったのかも,不明です.

 平林(1914)は「佐須鉱山は対馬国下県郡佐須村字樫根にあり.本邦に於ける銀の最初の発見地である.」としています.続けて,「即ち,旧記に載する所の天武天皇白鳳三年(西暦六百七十五年)於対馬国佐須山得銀云々とは,此山であつて往昔に専ら銀鉛鉱のみを採掘したるものである.」とあります.
 この言葉が正しいとすれば,“対馬銀山”は,本来「佐須銀山」と呼ばれるべきものです(ちなみに,いっぱんに「石見銀山」と呼ばれているものは,正式には「大森銀山」が正しいようですね.石見国にあるから“石見銀山”,対馬国にあるから“対馬銀山”というようなセンスです.もちろんこれでは,ひとつの「国」に銀山が二つ以上あったら混乱を招くことになりますね.実際,石見銀山には混乱があります).
 なお,「対馬国下県郡佐須村字樫根」とは,現在の「長崎県対馬市厳原(いずはら)町樫根(かしね)」にあたります.また,「旧記」というのはなんであるかの記述はありません.

 また,上原(1959)によれば,「佐須鉱山,安田鉱山などその一部が銀山あるいは銀・鉛鉱山として個々に小規模に稼行された」とあります.
 1941(昭和十六)年,東邦亜鉛株式会社が「対州鉱山」を買収,鉱山の運営をはじめますが,この頃には,付近の鉱山は「対州鉱山」として統合されたようです.そうすると,「対州銀山」という名前も候補に挙がりますが,“旧記”にかかれた鉱山が「対州鉱山」のように統合されたものに匹敵するのかというと,問題ありです.
 なお,上原は「対州鉱山」を三つの鉱帯(東部・中央・西部:どうでもいいですが,「東部」・「西部」なら,「中央」ではなく「中央部」でしょうね.なぜわざわざアンバランスな命名をするのか,わかりかねます)に分け,その各々に,いくつかの「ヒ(金偏に通;以下おなじ)」(鉱脈)を割り当てており,「中央鉱帯」には「佐須[ヒ]」・「安田[ヒ]」の名前もあります.したがって,“旧記”にかかれた“銀山(銀坑)”とは,「佐須[ヒ]」のことである可能性が高いです.
 しかし,実態はまったく不明ですが,開坑年代の不詳な“間歩”もたくさんあるようで,「間違いなく佐須[ヒ]のことをいっている」と断言することはできないようです.

平林武(1914)本邦に於ける銀鑛の鑛床に就き(承前).地質学雑誌, 21(244): 12-36.
上原幸雄(1959)対州鉱山の地質鉱床とその探鉱について.鉱山地質,9(37): 265-275.


●地質
 対州鉱山(というよりは)“南部対馬島”(一時期は「下県郡」と呼ばれたこともあるようです)の地質図は,いくつか公表されていて,それらによれば,古第三系とされる対州層群(砂岩・頁岩およびその互層)と,これを貫く花崗岩が分布し,花崗岩から分岐したと思われる石英斑岩や玢岩が,岩床状あるいは岩脈状に分布しているといいます.
 これらの貫入岩類には,著しく変質したものと,そうでないものがあり,鉱脈とされるものは,この著しく変質した貫入岩類に関係があるようです.
 ただし,この石英斑岩や玢岩の一部は発泡し,熔岩状に見えるものもあるという記載があります.そうすると,これらの火成岩は対州層群の堆積時に同時的に活動した可能性もあります.
 二つの解釈は,花崗岩との関係(対州層群は花崗岩の貫入により,ホルンフェルス化しているとされる)で,矛盾を生じますが,貫入岩類には,堆積とほぼ同時期のものと,花崗岩の貫入にともなう二系統があるのかもしれません.

 なお,上原(1959)は「いずれの[ヒ]も地表における露頭はほとんどな」いとしており,史上最初の鉱脈の発見はいかなる経緯によるものなのか,興味深いところがあります.

●鉱床および鉱脈
 鉱床および鉱脈については,上原(1959)が精密に分類していますので,それを参照してください.ここでは省略します.なお,各[ヒ]の主要構成鉱物は方鉛鉱を主体に閃亜鉛鉱を伴い,わずかに磁硫鉄鉱を随伴するのが主で,閃亜鉛鉱主体の場合も[ヒ]によってはあるようです.
 「銀」については,記載がありません.

 なお,ネット上では,「対馬銀山」は「黒鉱」であるという情報が流れていますが,上記「地質」の状況からは,「黒鉱」である可能性はありません.
 対馬北部の地質を考えても,黒鉱の鉱山の存在は考えられません.
 これらの誤情報は,某ネット百科事典から流出しているもののようで,それには,「黒鉱」と書いてあります.なお,このネット百科事典の記述は,某百科事典を引用していますが,百科事典を引用文献とするのは奇妙なことで,百科事典の編集者が地質や鉱床の研究をしているわけはなく,百科事典自体がなにかの研究を引用しているはずです.ここでは,その詳細はわからないので「名称」のところで,定義にこだわったわけです.
 

●銀もしくは鉱石
 残念ながら,対州鉱山で採取される鉱石がどのようなものなのか記載したものは,ほとんどありません.
 たった一つ,みつかったのが,平林(1914)に示された鉱石の分析値です.これは,平林が1910(明治四十三)年に調査したときのものとされています.

鉱程     金  銀    鉛   亜鉛
笊揚鉛鉱   0  0.2207 76.10  ―.―
同亜鉛鉱   0  0.0208 ―.―  49.70
手選塊亜鉛鉱 0  0.0062 ―.―  48.60

 ただし,これは,一般的な鉱石の分析値とか,高品位な鉱石と思われるものの分析値とかではなく,選鉱課程のいくつかの鉱石について,金・銀・鉛・亜鉛の値を示したものに過ぎません.単位は示されていませんが,たぶん重量%と思われます.したがって,どのような意味を持つのかということは一概には言えません.
 全鉱山中で,この鉱石が「銀」の含有量が多いのか,少ないのか,普通なのかといったことすらわかりませんが,いえることは,この鉱石の「銀」の含有量は驚くほど少ないのではないでしょうかと.
 要するに,「銀山の鉱石」とは言いがたいのではないかと言うことですね.

 これが,この鉱床の一般的な含有量だとすれば,同鉱床で「自然銀」があったとは考えにくいのではないでしょうかね.そもそも,このタイプの鉱床に「自然銀」が産出することがあるのかどうかは,鉱床学の専門家に聞いてみなければわからないですし,残念なことに,こういう具体的なことに触れた鉱床学の教科書も見あたらないもので,なんともいえません.

 一般的には,「銀」と「鉛」は親密性があり,方鉛鉱にはしばしば,銀が含まれています.これを「貴鉛」と呼ぶことがあるそうですが,先ほどの平林(1914)には,興味深い記述があります.
 「当山に於て所謂る[ヒ]筋と称せるものは真実此断層に伴へる粘土を指せるものにして,採鉱は専ら此粘土を追へるものなり.此鉱床は元来方鉛鉱を目的として採鉱されしものにして,現在見られ得べきものは其抜掘跡なりとす.故に鉱石の大部分は閃亜鉛鉱にして,稍々多量の磁鉄鉱及び少量の方鉛鉱を見るのみなるも,若し今後地下深所に及び古人の未着手なる部分に達せば,方鉛鉱の量は恐らく稍々多量に出づへきものなるべしと考ヘらる.」
 当時,残存していた粘土脈には,古人が銀採取のために,選択的に「方鉛鉱」を抜き取った形跡があり,閃亜鉛鉱が残されているようだということですね.つまるところ,“古人”は,方鉛鉱に,少ないながらも「銀」が含まれていることは承知していたのかもしれません.

・銀の産出量
 いくつかの記述には,“対馬銀山”の産出量とおぼしき記述があります.
 それは,(書き方があいまいなので,「たぶん」でしかないのですが)「延喜式」に“税金”として「1200両を納める」とあるらしいです.これは,自動的に「1200両/年」と解釈されています.もうひとつ,「對馬國貢銀記」にも「1200両」という記述があり,これもその裏付けとして扱われています.

 「對馬國貢銀記」のその部分を見ると,「満千二百両以為年輸」とあります.これだけですと,「1200両を一区切りとして,一年間の仕事とし,(国に)納めた」という意味かと解釈することが可能かとも思われます.じつはそのあとの文が問題で,(現代文訳は困難なのですが)「その一区切りが終わったからといって終わりにはできない.坑道を放置すれば,雨水が坑道に満ちてしまうからである」と書いてあるようです.
 してみると,1200両分の銀が確保できたとしても,鉱山としての業務は続けていたとするべきなのでしょうか.ただし,じゃあ「更に銀を掘っていた」ということも,たんに「排水作業のみを行っていた」とも解釈できるので,断定はできないですね.
 そう,1200両というのが、何を意味しているのかは依然と問題なわけです.

・銀の価値 
 対馬が国に納める銀の量は年間1200両と決められており,これは,我妻(1975)によれば,以下のように判断されています.
 当時の「両」には,「大両」と「小両」があり,どちらをとるかで換算量が異なります.“旧記”の「両」がいずれに当たるのかは不明なのですが,1200両は,現在の重さに換算すると大両ならば45kg,小両ならば15kgになるそうです.

 現在,銀の相場は,2010.08.30現在で1gあたり¥53前後なので,¥2,385,000もしくは¥795,000程度になります.これは,“対馬銀山”に関する記録では,対馬銀山が産出した銀の量として,しばしば記述されているものです.しかし,現在の度量・価値に換算すると驚くほど少ないという感じですね.
 しかも,これは天皇に収めた銀の量だけしか表していませんので,“対馬銀山”総体では,どのくらいの量の銀を産出したのかという話にはならないわけです.

 “対馬銀山”が産出した銀の量は「不明」ということです.
 ただし,一般人について,当時の「銀」にはどういう価値があったのかということを考えると,一般人は「そんなものは持っていてもしょうがない」というのが常識的なところかと思います.(当時の社会体制・経済機構は,わたしにはわかりませんが,)銀は対朝鮮半島,対中国の貿易についてのみ意味があって,個人にはあまり意味がなかったのじゃあないかと思います(こういうことを解説している歴史書はないもんでしょうかね).
 そうすると,“対馬銀山”の銀産出量は1,200両/年以外のものはなかったと考えるのが妥当ということになります.
 一方で,産出量の半分を天皇に召し上げられていたとすれば,2,400両/年となり,1/10を召し上げられていたとすれば,12,000両/年となります.
 いずれにしても,わからないことだらけということなんですが…(歴史は,こういうあいまいなことで成り立っているのですから,怖いですね).
 

 我妻 潔(1975)「対馬国貢銀記とその製錬法」(日本鉱業会誌,91(1051): pp.不詳:日本鉱業会誌は公開されていないですが,カマサイ氏のHP「冶金の曙」(番外編>銀製錬事始>★「対馬国貢銀記とその製錬法」)に一部が転記されています(わたしにとっては,虎の巻のようなありがたいHPです).


●幻の金山
 日本学士院編「明治前日本鉱業技術発達史」によれば,「続日本紀」による記述とことわったうえで,以下の記述があります.

 「天皇の五年三月に,さきに対馬に派遣した三田首五瀬から金が献上された.天皇は大いにこれを賞賛し…(中略)…賞与をあたえた.そして,天皇はこの対馬からの献金を記念して年号を大宝と改元し,天皇の五年をもって大宝元年と定めた.」

 つまり,対馬に金山があったという記述です.
 しかし,これは,三田首五瀬(みたのおびいつせ)の起こした詐欺事件であったとも書かれています.

 対馬国から最初に銀が献上されたのが,674(白鳳三)年とされていますから,「銀があるんだったら,金があってもいいだろう」ぐらいの感覚で派遣されたのでしょうけど,まんまと引っかかったものです.

 しかし,その献上された「金」はどこから産出したものなのでしょうね.

 この金山詐欺事件のことを知ったときには,先ほどの「銀の産出量」のことも絡めると,いっしゅん「銀山」も詐称ではないかと疑ってしまいました.

 歴史には,わからないことがたくさんあります.
 わからないことがあるのはいいんですが,わからないことがあいまいなまま,いい加減な情報が一人歩きして,歴史が構成されているというのは…,どうもね.
 

2010年8月28日土曜日

海洋史観

 
 「文明の海洋史観」という本で,歴史の見方を変えなければならないという強迫観念みたいなものができてしまって,あちこち探し回ってました.
 でも,また,だまされてたみたいです((^^;).

 なにかというと,簡単なことでした.
 以前,「蝦夷の古代史」のところで,ちょっと触れてますけど,朝鮮半島の影響下にある“西日本”をネグレクトしてしまえば,それこそ,縄文時代(もしかしたら,旧石器時代から?)からこの方,海域を舞台としたダイナミックな「人と物」の移動があったことが見えてくるわけです(逆に,この西日本の“大和”政権の勢力圏が,どんどん拡大して,固定していくのが,公的な“日本の歴史”ですけど).

 “日本の歴史”の中では,縄文時代なんか,素朴な小集団が手近にあるもを採集して,その日暮らしの生活をしていたなんてイメージで教えられてきましたね.だけど,かれらは移動するのが常態なので,少人数の集団でしかありえないし,だから国家なんかつくってるヒマもない.かれらの文化が原始的なのではなくて,それがかれらの文化なわけです.
 “日本の歴史”を見直していたんでは,「日本の歴史」はわからないというパラドクス.

 さて,以前に読んだ本ですけど,また読みなおすことにしました.

中橋孝博「日本人の起源」
池橋 宏「稲作渡来民=「日本人」成立の謎に迫る」
海保嶺夫「エゾの歴史=北の人びとと「日本」」
瀬川拓郎「アイヌの歴史=海と宝のノマド」
後藤 明「海を渡ったモンゴロイド=太平洋と日本への道=」
後藤 明「海から見た日本人=海人で読む日本の歴史」
 などなど.

 それにしても,読んだはずの本が,新鮮だこと((^^;)
 & 読むスピードが遅くなってること…((^^;).

   
   
 

2010年8月27日金曜日

最近ビックリしたこと

 
 地質学雑誌に,JGL(=日本地球惑星科学連合ニュースレター)というのが,添付されるようになって久しいです.
 このニュースレターには,しばしば無神経な記事が載るので有名ですが,最新号(vol. 6, no. 3)にもそういう記事がありました.
 あ,いや,別に不快感を表明しているわけではなく,こちらとしては,無料で「トンデモ本」みたいな記事を送ってくれるので,おもしろ半分に読んでいるだけです.

 その記事は,「白堊紀末の大量絶滅と小惑星衝突」というもの.中身は,マスコミ受けがいいので,しばしばTVの“科学番組”などでもやりますから,周知のことですが,おもしろいのはその副題「30年の論争に終止符」というやつ.
 勝手に終止符を打たれても困りますが,すごいのは,“反論はしてはならぬ”というメッセージ.
 わたしなんかは,意見の違う人が互いの意見をぶつけ合うので,科学が前進すると思ってますから,「論争は終わった」ので,“部分的な反証など,あげてはならぬ”などということが文章になっていると,ゲシュタルト崩壊をおこしてしまいます.ましてや,それが,科学を標榜する“学会”のニュースレターに記事としてのってるなど….

 一つの仮説に対して,「それに沿わない事実がある」ということを表明するのを拒否する学会ってなんなんだろう.
 もちろん,そういうことを気にする研究者なり団体なりがいたとして,「この記事はおかしいのではないか」と表明したら,例の如く「これは投稿記事なので,当局は一切責任を負わない.反論したければ,その記事は掲載してもよい」となるんでしょうね.

 学問は別に多数決でするわけではないですね.
 各々が,信じる仮説の証明に向かって進めばよい.反証をあげる人がいたら,その部分が仮説の完成には足りないわけだから,そこを掘り下げればよい.それだけの話(逆にありがたい話でしょう).
 他人の研究や,その公表の邪魔をしたら,「…穴二つ」になってしまわないですかね.
 「一つのことしか考えるな」というのは,ちょっと前なら「ファシスト」とよばれたかも.


 もっとも,この「日本地球惑星科学連合」というのは,たぶん,パラダイムのちがう異種の学問の野合集団なので,論争が成立しにくいのも事実だと思います.なんのためにできた連合なのか,まだよくわからないですからね.
 数年後,数十年後に,この「日本地球惑星科学連合」が,科学史上,科学論上,どのような位置づけになっているのか楽しみでもあります(その頃には,もう生きとらんだろうなあ).
 学問体系ではないのに“科目”として,文部省の都合で無理矢理でっち上げられた「地学」が,その故に崩壊したように,おなじ道をたどるのではないかと…,老婆心ながら….
 
 

2010年8月26日木曜日

「黒鉱」その後

 
 前に書いたように,鉱床学や鉱山の歴史を概観した研究というのは無いようなので(いい方が不正確ですね.経済学的見地から「鉱山の歴史」を概観した研究ならあります),なんでもいいから,入手可能な「鉱山関係」の本ということでさがしたら,以下の二冊が入手可能だったんでみてみました.

鹿園直建(1988)「地の底のめぐみ=黒鉱の化学=」(裳華房)
石川洋平(1991)「黒鉱=世界に誇る日本的資源をもとめて=」(共立出版)

    


 残念ながら,両方とも,わたしの目的にはあわない本でした.
 本の題名からいえば,普通なら「黒鉱研究の歴史」を略述してあっても,ふしぎはないはずですが…,まあ,あることはあるんですが,読むとますます混乱してしまいました.研究史だけじゃあなくて「黒鉱」そのものについても.

 わたくし,一応地質学を専攻していたんで,理解できるであろうという前提でいたんですが,どうも無理でした((^^;).原因はいくつかあるようですが,わかりやすいところから.
 両氏とも,普通にいう「地質屋」ではないのですね.鹿園氏は,「地球化学者」を名のっていますし,石川氏は「金属鉱山学」者ということです.


 鹿園氏は,本の中のおおくの知識が「地質学」を基盤としているのに,地質学の成果を軽視しています.そこでは「研究史」を「地質学の時代」,「地球化学の時代」と「ダイナミックスの時代」に分けてはいますが,地質学の扱いは,あまりにも粗略なので(1961年以降の成果はないように書いてある),「ひょっとしてこの人は地質学が嫌い」なのかなと思わせます.
 分析値についての製図は素晴らしいのに,地質学的成果は(ほとんど引用ですが)凄まじくいい加減.引用図の凡例にあるマークやシンボルが,図そのものに存在しなかったりしますし,「だれだれ,何年」から引用と書いてあるのに,その引用文献そのものが示されてないから,確認のしようもない.
 内容自体がかなり高度なのに,引用文献による補足や確認もできないのですね.

 一番気になったのは,どの程度の人たちを読者層としてかんがえているのかということです.引用文献を示さないということは,「読み捨て」を前提としていて,この本の読者から「後継者が育つ」ことは意識していないということだろうと思われます.「読み捨て」する読者を前提としているなら,もっとわかりやすい文章・内容でなければならないと思います.中途半端なんですね.

 本人も,書き終わったあとで,気にしたらしく,「あとがき」で,言い訳らしきものを書いていますけど.どうもね.

 と,いいつつも,わたくし,学生時代のことを想い出してしまいました.
 それは,(金属)鉱床学実験のときには,これまでみたこともない鉱石をみたり触ったり,さまざまな実験をしたり,非常に楽しかった.また,実際に鉱山にいって,斜抗を下ったり,坑道を歩いたり(これはすごい体験でした),鉱山技術者から現場の話を聞いたことも,わくわくするような経験でした.
 ところが,「鉱床学概論」みたいな(理論的な)授業は,まったく理解ができなかった((^^;).
 最初の授業で,「あ,これは単位を落とすな」と直感した連中は数人ではなかったですね.その原因は,鉱床学という学問は,かなり応用地質学的なところがあり,広範な知識を要求されるので,ちょっと地質学をかじったぐらいの学生では,なかなか全体像が理解できない(今,何を勉強しているのかが理解できない)ところがあります.
 一方で,一つの鉱山を構成する地質・鉱床・鉱石を理解できたとしても,別の鉱山に応用がきくとは限らない.金属鉱床をある程度理解できたとしても,非金属鉱床には応用がきかない.石油・石炭はもちろん.ま,要するに一筋縄ではいかないわけです.
 だから,まあ,ある程度仕方がないというわけですね.

 それにしても気になることが一つ.
 後半には,鉱床の成立には海嶺から噴出する熱水が関係ある(要するに,海嶺で時々見いだされるチムニーとかブラック&ホワイトスモーカーとかいわれる現象が頭にあるらしい)ようなことが書いてありますが,黒鉱は日本独特な鉱床形態という前提なのに,なぜ中央海嶺?
 中新世のグリンタフ地域に海嶺があったということなのかしら?
 地質学的には,黒鉱の周囲は酸性火山岩で蔽われているのが普通と書いているのに,玄武岩が噴出する中央海嶺とイコールで結ぶのはなぜ?(無理しゃりにでも,PT論に結びつけたかったのでしょうかね?)

 ま,鉱床学は難しいから仕方がないか(部外者に理解させる気はないのね).


 石川氏の「黒鉱=世界に誇る日本的資源をもとめて=」についても,似たようなことがいえます.

 こちらは,鉱山地質学者ですので,地質学的な成果の引用は多いのですが.ふと,こう思いました.この人は「黒鉱」全体の説明をしてるのではなく,東北地方にある一部の黒鉱鉱床についての説明をしてるのではないか,と.
 それを一番感じたのは,第6章の「新鉱床の発見」のところです.なぜ,こんなところに,不自然に,ローカルな新鉱床発見の話があるのか?

 黒鉱鉱床の法則性が明白になったから,その応用で新鉱床が発見されたというシナリオなら,なんとなく理解できますが,どうもそうではないよう.その辺しか知らないから,その話題を入れたのかな,と勘ぐってしまいます.
 それにしても,1991年出版といえば,もうPT論全盛の時代のハズですから,PT論による「黒鉱成因論」をやっててもいいはずですが,「これからやる」というような話です.本文の解説のほうでは,どうも地向斜造山論がパラダイムだったような気もするし,残念!残念!!残念!!!です.

 ということで,現在入手可能な二冊の「黒鉱」の本を読んでも,「黒鉱の全体像」ことはわかりません(もっとも,わたしの脳のレベルが低いのでわからないということかもしれませんけど.も少し経ったら,読みなおしてみよう).


 いろいろさぐっていたら,おもしろい著述を見つけたので,最後に紹介しておきます.
 それは,北卓治「わが国の黒鉱(式)鉱床について(1)〜(4)」です.これは,地質ニュースの121号から134号に渡って掲載されていました.これらは,無条件で「産総研HP」からダウンロードできますので,興味のある方はDLしてみてください.非常に詳しいですし,黒鉱鉱床について理解させたいという熱気が伝わってきますよ.
 残念なのは,時代が時代ですから,PT論による解釈というのが全くないことです.
 PT論による知見も入れて,書き直してくれれば,ありがたいのですが….

 

2010年8月23日月曜日

アイディア園長>アイディア市長?

 
 「アイディア園長」として有名な,小菅正夫さんが,次期旭川市長選に出るそうな.

 わたし,この人は「アイディア園長」なんかじゃあないとおもう.
 あの程度のアイディアなら,現場の職員なら,常に二つや三つ持っているハズだからね.逆にあの程度で「アイディア〜〜」とつくなら,「アイディア~~」の底が知れるというものです.

 小菅さんを評価するとするならば,その「マネジメント力」だとおもう.

 小都市の住民統治機構(首長+役場職員+議会議員を含む.場合によっては町内会長なんかも)というのは,完全なる邑社会で「大ボス・中ボス・小ボス」が,がっちりスクラムを組んでいる.
 獣医出身で,現場たたき上げの園長のアイディアなんて,(アイディアというだけでは)取り上げてくれるわけがない.完全に部外者だからだ.博物館の学芸員なんてのもおなじで,完全に外人部隊である.だまって働けばいい(いやなら出て行けといわれる)だけであって,意見なんか採り上げてもらえるはずがないのが普通である(いいたいことは,いっぱいあるが,グッとこらえる(^^;).

 そこを,わずかづつとはいえ,予算を確保し,少しずつ理想に近づけていった,その「マネジメント力」こそを評価すべきなのだ.

 なぜ,「アイディア園長」とよばれたのか?
 これは一つの戦略であるとおもう.

 展示が有名になれば,必ずマネをするヤツがでてくる.実際に,あちこちから視察があったろう.そのときに,「金(予算)がなくても,アイディアがあれば」といっておけば,かなりの数の連中がだまされる.「足らぬ足らぬは,工夫が足らぬ」というヤツ.
 視察のメンバーとして,役場職員や管理職,議会議員などを送り込んだ自治体は,たぶん簡単にだまされたろう.現場のことなんか,なんにも知らないからだ(そもそもが,「視察にいこう」なんて発想そのものがね…).
 帰ってから,現場職員に「アイディアを出せ」,「金は出さぬ」といってればいいのだから.

 しかし,視察メンバーに「現場職員」を入れた自治体は,だまされなかっただろう.だって,「現場職員」だ.旭山動物園がやったようなアイディアなんか,始めから持ってるに決まっているからだ.
 かれは,帰庁して,どう報告するだろうか.
 「アイディアを実現できるだけの必要最低限の予算*をつけないと,突破口はありません」というに決まっている.

 アイディアなんかいくらあっても,それだけではしょうがない.現実に「予算」というヤツをつける(ぶんどってくる)能力がないと,なんにもならないのだ.

 市長選では,「アイディア〜」よりも「マネジメント力」がキーポイントだね.必要なところに予算をつける能力さ.


 もうひとつ.
 小菅さんの業績を上げておかなければならない.

 それは,「文化は金になる」ことを示したことだ.いい方は汚いけど,「金」しか頭のない人たちには,こういういい方をしないとね. 

 「福祉・教育・文化」に予算が回ってくるのは,ものすごく景気のいいときで,しかももう,ほとんどのところに予算をつけてしまって,ほかにつけるところがなくなったころに,ようやっと予算が回ってくる(景気の後退が,はじまりかけたころね).
 で,景気の後退が始まると,真っ先に予算が取り上げられる場所でもある.

 理由は,「福祉・教育・文化」では,潤う業界が,ほとんどないからだ.「大ボス・中ボス・小ボス」が連なっている邑社会だからね.

 ところが,小菅さんは,旭山動物園の成功で「文化も金になる」ことを示してしまった.正確には「文化で人を呼ぶことができる」し,「人が集まれば,金が落ちる」ということだけどね.

 小菅市長が誕生して,これまでの邑社会では気付かなかった分野,「旭川の文化」を「街おこし」にジェネレートする実験をおこなってほしいものだとおもう(郷土史研究会もない悲しい町ですけどね).
 支持する市民は,「あの人なら,なにかするかもしれない」という単純な発想だと思うけどね.それで充分.今までの政治屋には無い臭いが…,すればよい.
 ん? 象の臭いか? (トラの臭いかもね(^^;)


* 必要最低限の予算:これは,効果を生み出すための「必要最低限」という意味で,ついてりゃいいという程度の「必要最低限」という意味ではない.「費用と効果」は完全に比例するものではなく,「少し」の予算では効果がみられない範囲というものがあるので,予算はそこまでつけなければ意味がないのだ.
 

2010年8月20日金曜日

反プレートテクトニクス論,読後

 
 星野通平「反プレートテクトニクス論」(イー・ジー・サービス出版部)が到着したので,読んでいました.
 ほとんど新知見はないですね.しかし,プレートテクトニクスに対する疑問の集大成というところ.どの主張にも違和感を感じないのが,逆にふしぎ.

 Ⅰ章は,「プレート説の誕生」で,ごく短い略説.
 Ⅱ章は,「プレート説が主張する観測事実の検討」で,この本のほとんどを占めています.
 Ⅲ章は,「地球の歴史」ですが,これは星野さんの独擅場.
 Ⅳ章は,「プレート説流行の背景」.これが,この本の本論ですね.

 わたしは,単純に「プレート論は「軍事科学」と「キリスト教」が創りだしたもの」という話を授業でしたことがありますが(そんな話をしてるから,非常勤講師を切られるんだな(^^;),こんなにたくさんのデータをそろえてしゃべったわけではありません.

 で,読んでいて,気分が高揚してきたかというと,どんどん沈んできました.
 なぜなら,この本に対する反応は,「たぶん,ない」だろうから.

 理由はたくさんありますが,第一に,PT論者にとっては“プレートテクトニクスは観測された事実”であるから,今さら,土俵を下げて相手をしても「得るものがない」からですね.
 だから,無視される.

 第二に,実際には,PTが「パラダイム」でなければ困る人は(その他のテクトニクスでなければ困る人たちにしても),ホントはごく少数だと思われること.
 地質学会に,いったい何人の会員がいるかは知らないですが,圧倒的多数が,(個々の)論文レベルでも(個人の)研究テーマレベルでも,別に「どっちでもかまわない」人たちでしょう*.地向斜造山論がパラダイムのときは,地向斜造山論で解釈し,PT論がパラダイムのときはPT論で解釈するだけ**.
 したがって,自分に向かっていわれているとは,だれも思わない.よって反論も肯定もしない.

 悲しい.

 そういえば,「パラダイム論」そのものも,「唯一絶対神」の影が見えるなあ.

* 化石の記載論文や,新鉱物の記載論文,露頭現象の記載論文,はては地域地質の記載にいたるまで,「地向斜」とか「プレート」とかの存在を前提としてしか書けない論文は,これまで,いったい,いくつあったのでしょうか.

** たとえば,昔の「鉱床学」の教科書などを読むと,もちろん「地向斜造山論」に調和的に書かれていますが,よく読むと,「マグマの活動に関係がある」といってるだけで,背後に「地向斜」があろうが「プレート」があろうが,そんなに関係ないことがわかります.PT論による新しい「鉱床成因論」など,ないだろうかとさがしていますが,そんなものはみつからない.以前それらしき論文を見つけたとき,いっしゅん喜びましたけど,書かれていたことは,鉱脈を裂罅としてみて応力場解析をやっているだけで,鉱床成因論をやってるわけではなかったですね.
 つまり,現象を「解釈」しているだけでした.
 

2010年8月15日日曜日

リンク

 
 ごくまれにですが,それまでなんの関係もないと思い込んでいた複数の事項が,ある日突然リンクして,「ああ,そういうことだったのか」とふしぎに思いつつも,納得することがあります.

 そんな例を一つ.
 たとえば,「海洋史観」を身につけようと,彷徨している最中に,見つけた本一冊.

 村井章介「海からみた戦国日本=列島史から世界史へ=」(ちくま新書127)

    


 個人的な興味で調べている「アイヌ史」「石見銀山」が一つの本に載っているというのは,はじめてのことです.
 日本海を内海とした交流・物流の視点から見る「コシャマインの戦い」.
 石見銀山の「起承」.
 銀山革命と世界史.

 ただ,残念なことは,この本は,どうやら歴史をよく知っている人のためのようで,ダイジェスト版にしか見えません.書いていないことが多すぎるような気がします.
 もちろん,わかっていないことも多すぎるのでしょうけどね.
 アイヌ民族の成立と世界史がどうかかわっているのか.北方世界の交流と物流.
 たしか,むかし,函館で「学芸職員研修会」をやったときに,「館」の発掘の話があったと記憶します.当時は,発掘が進んでいるというような,現状報告に近いものだったかとおもいますが,少しリアルになったような,まだまだ,霧の中のような….

 石見銀山の話もそうです.
 たんに掘り出した銀鉱石を朝鮮半島へ運び出すだけだったものが,朝鮮半島にあった銀製錬の技術が日本に渡ったことで,石見銀山に革命が起き,世界の銀の1/3を産するほどになる.たぶん,そこで活躍したであろう「倭寇」.

 でも,まだわからないことのほうが多すぎる.
 たとえば,石見銀山よりはるか以前からあった「対馬銀山」の位置づけはどうなっているのか.
 そこでおこなわれていた「鉱山技術」・「冶金技術」は…?.

 謎解きは,まだまだ続く.
 

2010年8月13日金曜日

「黒鉱」

 
 鉱床学は地質学の滅亡とほぼ同時に滅びた学問のようです(滅亡の原因は多少異なるようですけどね).だから,現在では鉱床学関連の書籍をさがすのは容易ではないです.
 さらには,日本の鉱床学あるいは鉱山の歴史を概観した本というのは,もはや入手不可能なようです.

 「鉱床成因論」などは,大学において「鉱床学」が普通に研究されていたころは,パラダイムは「地向斜造山論」でした.成因論は「造山運動論」に密接に関係していたと思います.
 しかし,PT論でしかものを考えてはいけない現在では,どのような解釈がおこなわれているのか.これは,以前から気になっていたことです.

 やっと,それらしき本がみつかりましたので,紹介しておきます.
 それは,石川洋平(1991)「黒鉱」(共立出版株式会社)です.その第7章「黒鉱研究の将来」の7-3に「黒鉱とプレートテクトニクス」という節がとってあります.あとでゆっくり読むつもりです.
 ただ,入手してから気付いたのですが,「PT論による黒鉱成因論」と「地向斜造山論による黒鉱成因論」どちらがよりリーズナブルなのかということは,わたしには,判断能力がありませんでした(困ったもんだ (^^;).
 なにせ,「鉱床学」はむずかしい.ま,努力してみるつもりですけれどね.

    

 ところで,興味深いことに気付いたので,特記しておきます.
 それは,この本は「地学ワンポイント」シリーズの一冊で,このシリーズの編集者は,「藤田至則・南雲昭三郎・森本雅樹」の三人です.後二者の方は存じ上げませんが,「藤田至則」氏は「グリンタフ造山運動」の提唱者として有名であり,藤田氏は「グリンタフ造山運動」は「PT論」では説明できないとしていました.

 しかし,石川氏は著書「黒鉱」の「はじめに」で,藤田氏へ「原稿を読んでいただいた」として謝辞を述べています.もちろん,藤田氏は人格者なので,PT論による各種解釈の出版を邪魔するような人でないことは,多くの人の知るところでした.
 そういえば,わたしの北大地鉱教室の先輩であり,尊敬する卯田強さん(新潟大学)も「さまよえる大陸と海の系譜=これからの地球観」を訳されたときの「訳者あとがき」で,つぎのように記しています.

「本書の翻訳は,新潟大学積雪地域災害研究センターの藤田至則教授から紹介された.本書の内容が自らの地球観とは相反する内容であるにもかかわらず,翻訳を勧められたばかりか,原稿を読んでさまざまな指摘から細かな語句の訂正までしていただいた.藤田先生の熱心さと寛大さにあらためて敬服するとともに,御厚意に心から感謝を申しあげたい.」

   


 ちなみに,卯田さんは(当時,大学院生でした),一般的には“地団研の牙城”とよばれた北大地鉱教室にいながら,PT論による地質現象解釈をおこなっておられましたが,同時に地団研の会員でもあり…,というよりは,当時,私ら学生にとっては,ほとんど指導者的な立場におられました.
 わたしが学部移行した年の,春の自主巡検に全行程でつきあっていただき,非常に熱心に指導していただきました.その後も,ことあるごとに,卯田さんのはたした影響は大きいものだったと,いま,想い出します.
 当初は,あまりにも“うるさい”(失礼(^^;)ので,若干苦手な先輩でしたが,ただひたすらに「熱い心を持った人」なのだと気付いたときに,大好きな先輩の一人になりました.

 話がずれました.元に戻します.
 現在,「地団研=悪の帝国.PT論者=虐げられた正義の人たち」,みたいな単純な図式が大手を振ってまかり通ってますが,このたった二つの「謝辞」からも,そんな単純なものではないことがわかるかと思います.
 わからないかな?
 「善悪二元論」,「勧善懲悪」,「ばいきんまんとアンパンマン」のほうが,わかりやすいもんな.

 わたしのように,「ちがう立場でものを考える人がいるから,学問が前進する」と考えるのは,幼稚なようで…(でも,書いておかなくっちゃ(-_-;).

 

2010年8月8日日曜日

反プレートテクトニクス論

 
 「反プレートテクトニクス論」という本の新刊案内がとどきました.
 著者は,星野通平さん.

 「う~~ん,ガンバルなあ」という気持ちと,「もう,いいんじゃあない」という気持ちが半々.星野通平さんには,わたしがまだ学生のとき,湊正雄教授の部屋でお目にかかったことがあります.もちろん,わたしのことなど覚えていないでしょうけど.
 当時もじいさんだったから,いまは相当な歳かとおもいますが,元気いっぱいのようですね.

 「まえがき」が紹介されています.

「私が本書で主張したかったことは、プレート説一辺倒の地球科学の世界に、若い人たちがおのおのの仮説をもって、もっと自由闊達に討論をまきおこしてもらいたいことである。そして、科学の世界だけでなく、政治・経済・教育など、あらゆる分野にはびこっている、閉塞感あふれた世の中の風潮を、少しでも打ち破ってもらいたい、というねがいを、本書にこめたつもりである。」

 これは無理だと思います.

 皆が口をそろえて「おなじこと」をいうことを「パラダイム」といいます.ちがうことをいうのは,先行する「パラダイム」に矛盾が蓄積し,その「パラダイム」ではどうしようもなくなってきたときに,やっと始まるとなっています.
 数十年前に「地向斜造山論」から「プレートテクトニクス」というパラダイム変換が起きました.これは,「地質学」から「地球科学」へというパラダイム変換でもあったらしい.
 前者はともかく,後者のパラダイム変換は,近代地質学が成立したといわれているのが1800年代の初めですから,170年はかかっているわけです.ここしばらく,これに匹敵するパラダイム変換は起きそうにない.

 しかも,現代の科学者が求めているのは,「地球の真実」などではなく,学会における自分の立場.しばらくの間,「プレートテクトニクス」と「地球科学」というパラダイムに安住できるわけです.「ちきゆう」なんていう船は,このための強力な盾(武器ではないです)(「ちきゆう」は,どうして,仕分けの対象にならなかったのだろう?)(地質学は政治的に不要だけど,地球科学はまだまだ,政治的に「つかえる」のかな?).


 わたしは,「パラダイム論」にも「パラダイム論」が適用されるだろうと思っています.しかし,それが当分のあいだ,くずれないであろうことは,「プレートテクトニクス論」の本は市販ルートにのりますが,「反プレートテクトニクス論」の本は,市販ルートにのらないことからもわかります(もちろん,地質学雑誌にものらない).

 勝ち馬にのること自体は,決して恥ではないとはおもいますが,大多数が「勝ち馬にのっている」以上,自由闊達な議論など,起きるはずがない(そもそも,パラダイムがちがうのだから,議論自体が成立しない).
 ちなみに,わたしは,地向斜造山論者でもPT論者でもないので,どうでもいいのですが,科学史・科学論の興味深いテーマが,ここに転がっていますので,先ほど,ファックスで,この本を注文をしました.

 

2010年8月7日土曜日

ハリマオ+α

 
 土生良樹「神本利男とマレーのハリマオ=マレーシアに独立の種をまいた日本人」という本があります.

   


 おもしろい本でした.
 村上もとかの「龍-RON-」を彷彿とさせる冒険小説です.
 一気に読めます.しかし,読んでる途中で,違和感「バリバリ」になります.

 なぜなら,最初から最後まで,当事者しかわかるはずのない「会話」が多用されていることから,これはフィクションである筈なのです.
 いくつか,神がかり的なエピソードも挿入されています.

 しかし,「序文」では,拓殖大学総長・小田村四郎が,これを「伝記」とよんでいます.同時に,「一時的に史実を歪曲捏造し,祖国の歴史と父祖の偉業を敵視する自虐史観に充ちた,独立国家にあるまじき歴史教科書が出現した…」とかいていることから,かれは,これを「ノンフィクション」であり,「歪曲」されていない事実と見なしていると考えられます.

 また,帯に示された一文「アジア解放の理想を胸に戦争のさ中、「マレイの虎・ハリマオ」こと谷豊を救出、ともにイギリス植民地主義と戦った一代の快男児・神本利男。マレーシア在住の著者により10年がかりで明らかにされた、その壮絶な生涯。」とあります.
 「明らかにされた…」が微妙ですが,普通ならこれは「(調査によって)明らかにされた」と読むでしょう.たとえば,Amazonの分類では「ノンフィクション」に入っていますし,現在,一つだけある「書評」も「ノンフィクション」という前提で書かれています.
 しかし,本文を読めば,これはどうも「(筆力によって)明らかにされた」ということしか考えられません.

 前の記事「ハリマオ」で,紹介した二冊は,「不明」のところは「不明」とかく,あきらかな「ノンフィクション」ですが,そういう姿勢は,こちらにはありません.
 どちらかというと,前二冊の「ノンフィクション」が「伝説」を解体しようとしたのに対し,こちらは「伝説」を製造する側であるらしい.

 断っておきますが,「冒険小説」としてはおもしろいし,ある程度のレベルに達していると思います.しかし,これを「事実」と見なすひとたちがいるのは,どうも….
 怖いので,これ以上立ちいる気はありませんが,「歴史論争」なるものの,一端を見たような気がします.

 あ,もうひとつ.
 この本は,少数の理想主義者がいたとしても,「軍人」は無知蒙昧であり,「軍」は暴走するものだから,「正義の戦争はあり得ない」ことを示していますが,こちらは,フィクションではないようです.
 しかし,「自虐史観」という妙な言葉を使う人たちは,このことには触れないようにしているようですね.
 

2010年8月2日月曜日

ハリマオ

 
 「海洋史(観)」で,彷徨を続けています.

 手当たり次第によんでいますが,いまひとつピンとこないですね.
 そこで手をだしたのが,「ハリマオ」.

     



 もちろん,これはこれで,おもしろい話題なんですが,背景のほうが重要.
 谷一家のように,「マレーにいって一旗」あげようというような人たちが,普通にいたことです.
 わたし自身は,いちど居ついたら,まず腰をあげないタイプなので,日本人にも,海外で「一旗」という人たちが,けっこう居たことが,実感できないのです.しかし,子供のころみたTVドラマが,(その背景に)そういう人たちが居たことを証明しているわけです.

 もちろん,TVドラマの「ハリマオ」は子供だまし(荒唐無稽に近いもの)ですが,子供のころみたものは,なんとも,否定しがたい((^^;).

 現在,そのDVDが販売されているようですので,ついでに,紹介しておきましょう.

    
 
 いかが?


 そういえば,むかしカラオケでよく歌った「石狩挽歌」の歌詞.
 「沖を通るは笠戸丸」の笠戸丸は,ブラジル移民で有名な船ですね.

 わたしの親父は,戦争中,軍属として北支にいました.青春を過ごした北支が懐かしいのか,死ぬ数年前に北支に旅行に行きました.親父の子供のころは,そういうのが当たり前だった時代なんでしょうね.
 わたしの子供のころは,海外で生活するなんて,考えられない時代だった.
 なにせ,一ドル=360円の時代ですからね.
 これが外に出たいと思わない理由なのかな.

 してみると,海外を彷徨するなんてのは,じつは普通にやってたことなのかもね.