2015年2月26日木曜日

近文地域の小学校とその歴史(近文尋常小学校)

 
1917年,
…大日本木管株式会社(本社尼ヶ崎,資本金三百万円)は,大正六年十一月近文に工場を設け,道産の樺・楓で木管の原料を製造した.」(旭川市史二巻四一九頁)
…大正八年の好況時代を絶頂に,それ以後不振となり,組織を改め,旭川木管株式会社となって,本道産の椴松を原料として,灌漑用,水力発電用等の導水用木管の製作に当つた.」(旭川市史二巻四三四~四三五頁)

残念ながら,その後の「旭川木管株式会社」の盛衰は追うことができません.たぶん,主要産業では無くなったのでしょう(冷たいもんですね).

(関係ないですが,「新・旭川市史」が出たのだから,「旭川市史」はテキスト化してHPで公開すべきだと思います.そうすれば,わかりにくい文章でもキーワード検索ができるようになる.)

閑話休題
大日本木管株式会社(旭川・近文工場)の絶頂期=1919(大正8)年に,
…四月一日北門尋常高等小学校の分教場を大日本木管株式会社近文工場倉庫に仮校舎として開設して西分教場と称し,尋常三年まで七十六名の児童を収容.大正九年四月一日,一学級増加尋常四年まで百十二名となる.」(旭川市史三巻二四八頁)

この記述では,1919年当時の尋常小学校四年生以上は「いなかった」とも,「本校に通った」ともわかりません.
とはいえ,地域で急激に膨張する人口.社員・工員とその家族が子弟の教育を必要としていたわけですね.

翌,1920(大正9)年,
大正九年一二月五日:西分教場校舎竣成移転」(旭川市史三巻二五二頁・表)
本文の方には「新築校舎(現・緑町一七丁目)百七坪落成,移転する」とあります.

残念ですが,前出1918(大正7)年の1/25,000地形図には,まだ該当すると思われる校舎は載っていません.現れるのは1931(昭和6)年の旭川市街図から(探せばあるのでしょうが所持してない).

二年後(1922),
大正十一年四月一八日北門校から分離し,近文尋常小学校と改称」(旭川市史三巻二四八頁)

翌,1923(大正12)には,前出・豊栄尋常小学校が廃校になり,生徒の一部は近文尋常小学校へと転校しました.
(以後,現在に続く)


(1918:大正7年の1/25,000地形図・旭川の一部:五線南三号)
大正7年にはすでに工場が建っているはずであるが,まだ反映されていないようである.
近文小は,もちろんまだない.
近文から旭川駅に続く鉄路から分岐した「大町岐線」がみえる.


(1931:昭和6年の旭川市街図の一部:五線南三号)
相当雑な地図であるが,近文小学校が見える.


(1948:昭和23年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
鉄道の南西側に巨大な木工場がある.
近文小学校建設の契機となった大日本木管株式会社近文工場は,
「近文駅前」という記述があるので,これではないと思われる.


(1956:昭和31年の同地域:1/25,000地形図・旭川の一部)
鉄道の北東側に工場のマークが二つ見える.
これが近文小学校建設の契機となった大日本木管株式会社近文工場.


(1967:昭和42年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
鉄道の南西側の木工場がさらに巨大化している.
近文小学校は新校舎に建て替えられている.


(1977:昭和52年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
鉄道の南西側の木工場が規模縮小している.
近文小学校は新校舎に建て替えられている.


(2008:平成20年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
木工場がなくなり,免許センターおよびバスターミナルがみえる.
大町岐線は撤去されている.

2015年2月23日月曜日

近文地域の小学校とその歴史(豊栄尋常小学校)

 
知里幸恵(知里真志保の姉)が通っていた小学校です.
ちなみに,真志保が旭川で一時期通っていたのが,前項の「北門尋常高等小学校の高等科」.
もともと真志保は,庁立旭川中学校を目指していたらしいのですが,不合格であったので「北門尋常高等小学校の高等科」に入学した模様.
中学校を落ちたので高等科へ.このあたりは,現代人にはちょっとわかりにくいですね.
なんで,こんなことになってたのかは,いずれ調べてみたいです(たぶん,どっかにあるでしょうけど(^^;).

明治四十三年九月十三日,(十六日開校式)特別教育規程にもとづきアイヌ児童教育の目的で,近文五線南二号に上川第五尋常小学校が設けられ…」(旭川市史一巻二八九頁)

明治43年は西暦1910年です.
“特別教育規程”というのは,これまたわかりにくいですが,政府によって明治32年3月に「旧土人保護法」が発令され,アイヌに対するさまざまな保護(規制?)が行われるようになります.そして,明治34年3月には,庁令で「旧土人児童教育規程」が定められていますが,明治41年3月に庁令で「特別教育規程」が定められ,「旧土人児童教育規程」は廃止されます(この後さらに,大正5年12月に庁令による「旧土人児童教育規程」が定められています).
この,「特別教育規程」によって「上川第五尋常小学校」が設置されたわけです.

ちなみに,この頃「上川○○尋常(高等を含む)小学校」には,上川尋常小学校,上川第一尋常小学校,上川第二尋常小学校,上川第三尋常小学校,上川第四尋常小学校,上川第五尋常小学校,上川第六尋常小学校があり,このほかに忠別尋常小学校がありました.ほかに「北鎮尋常高等小学校」がありましたが,こちらは第七師団の軍人・軍属の子弟のための私立学校でした.

ちなみに,知里幸恵は,この年(1910)4月,上川第三尋常小学校(前出)へ入学していましたが,アイヌであることをもって「上川第五尋常小学校」に転校させられたわけですね.「旧土人児童教育規程」第三条には「修業年限は四箇年とす」とありますが,「六箇年に延長することを得」とあり,知里幸恵の年譜を見れば,幸恵は小学校に6年間在学していました.

…その維持は他の旧土人保護法による国庫支出によるものと異り,部落共有財産よりの収入によってまかなわれる」(旭川市史一巻二八九頁)

なんと,国の法律によって決められた学校の運営にアイヌの財産が使われていたわけですか.

大正7年には,ほかの第○尋常小学校も固有名詞に改称されています.同時に他校は徐々に高等科が併設されるようになってゆきますが,豊栄尋常小学校は廃校になるまで高等科が併置されることはありませんでした.

大正七年四月一日,豊栄尋常小学校と改称」(旭川市史一巻二八九頁)


(1918:大正7年の1/25,000地形図・旭川の一部:五線南二号)
こちらは第三小学校と違い学校名が示されていない.


(1920:大正9年の旭川市街図の一部)
位置がかなりずれている.


旧土人教育規程廃止により大正十二年三月三十一日付廃校」(旭川市史一巻二八九頁)

となり,児童は北門尋常高等小学校と近文尋常小学校へ転校になりました.


(1948:昭和23年の三線西(南)一号附近:米軍航空写真)
(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)
1948年は,豊栄尋常小学校が廃校になって久しいが,大きめの建物が見える.形から見て豊栄尋常小学校として使われていた建物に似ているようだ.そうすると,その東側に見える小さな建物は金成マツ(および知里姉弟と祖母)のいた聖公教会近文伝道所か.
左下に近文尋常小学校が見える.すると,その向かいは荒井和子先生のお宅.


(1956:昭和31年の同上地域.1/25,000地形図「旭川」より)
「錦町」,「緑町」の町名が使用されている.家屋の配置は1948とほとんど変わらない.


(1967:昭和42年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
急激に家屋が増えている.
豊栄尋常小学校の跡地には北門中学(旧校舎:1960年開校)が建っている.
ちなみに,この写真の撮影時,私が在校中.(^^;


(1977:昭和52年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
ほとんど空き地がないくらいに家屋が増えている.ウッペツ川改修工事が進行中.


(2008年の同地域)
(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)
豊栄尋常小学校の跡地には北門中学校が建っている.これは新校舎.旧校舎のときと同じ場所に庭木が見える.豊栄尋常小学校のときにも同じ場所に庭木があり,当時の木がまだ生えているかもしれない.

(2015/02/26:修正)

2015年2月22日日曜日

近文地域の小学校とその歴史(上川第三尋常小学校;その2)

 
北海道区制の進行に従い,1914(大正3)年4月1日,旭川町が廃止され,旭川区が誕生します.
この四年後,それまで「上川」の冠を使っていた各小学校の校名が,固有名詞に置き換えられます.上川第三尋常高等小学校は「北門尋常高等小学校」と改称されました.

この前後に北門町11丁目に移転(教育大学附属旭川小学校沿革)したという情報もあるのですが,確認できません(このあたりから(これ以前も相当ですが(^^;)記述がわかりにくくなり,情報を拾うのが大変になります).

1919(大正7)年4月1日,北門尋常高等小学校・西分校(西分教所という表現もあるが開所(これについては近文小学校の頁で).

1923(大正12)年,豊栄尋常小学校(別頁:豊栄尋常小学校で)が廃校になり生徒の一部が北門尋常高等小学校へ転入しました.
また,この年旭川師範学校が設置され,これをうけて,北門尋常高等小学校は1926(大正15)年,師範学校代用附属小学校となります.

1928(昭和3)年,新北門尋常小学校が開校.北門尋常高等小学校から519名が移籍します.
新北門尋常小学校は1932年に大有尋常小学校に改称され現在に続きます.

一方,その1932(昭和7)年11月には,北門尋常高等小学校が廃止され,生徒は北門町9丁目に新築された旭川師範附属小学校へ移籍してゆきました.

+++


(1918:大正7年の1/25,000地形図・旭川の一部:三線南一号)
第三小学校が明記されている.第七師団への引き込み線も見える.



(1948:昭和23年の三線西(南)一号附近:米軍航空写真)
(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)
北海道第三師範学校と呼ばれていた頃の教育大の敷地附近.
第三小学校は取り壊され,痕跡は判らない.
教育大敷地の右下(南東)に1932年新築の附属小学校,
さらに鉄道線路脇に大有小学校が見える.
左角の敷地はもともとアイヌに貸与された土地のはずであるが,建物がある.
附属中学校かと思われるが未確認.


(1956:昭和31年の同地域1/25,000地形図より)
三線道路の標示はあるが,北門町という町名が使われているのが判る.
町並みは,1948とほとんど変わらない.1949年に「学芸大学」に改称されている.
この年,私は三歳なので未就学(大有小卒です(^^;).


(1967:昭和42年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
1966年に「北海道教育大学旭川分校」と改称.
急激に町並みが現在に近づいている.



(2008年の同地域)
(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)
附属小学校は春光町に移転のため撤去されている.大有小学校の新校舎が見える.

 (2015.02/26:一部修正)

2015年2月21日土曜日

近文地域の小学校とその歴史(上川第三尋常小学校;その1)

 
「知里真志保の旭川時代」からのスピンオフです.

上川盆地(とくに旭川)の発展のために,行政区分が変わったり,そのため地域名が変わったりもしました.人口の増加が小学校の増加を生み,並行して学制の変更によって名称が変わったりしました.
そのため,なにかを省略すると前後関係がつかめないということが起きるようになります.

いくつか資料を集めて,近文地域の小学校とその歴史について整理してみました.
以下.

旭川市史には,以下のようにあります.
三十四年七月,三線西一号共有地,今の大町二条六丁目に…近文第五尋常小学校を設けることに指定…」(旭川市史三巻二二九頁)

三十四年は明治のことです(歴史を調べる時に不便だから天皇暦はやめてほしいと思う.せめて西暦併記を).
また,三線西一号共有地とは,この地域はもともと「鷹栖村」に属しており,第七師団設置に関連してあたり一帯が旭川村に管理替えされたとき,鷹栖村と旭川村の「共有地」(協定があったわけではなく曖昧なまま“共有地”とされたのだと思われます)と呼ばれる地域ができました.

(新旭川市史口絵)

三線南一号の北の隅に「小学校」の文字が見えるが,これは市史編纂時の加筆であると考えられる.なお,ここは現在の旭町1条9丁目であると思われる.ここに小学校が建つのは明治36年であり,この地図に載っているのはおかしい.

なお,明治35年地形図(新旭川市史口絵)によれば,「三線西一号共有地」というのは存在しません.「三線南一号共有地」というのは存在します.その理由は定かではありませんが,思うに,一線から南西側の土地は想定外だったからでしょう.この時代以前の地形図には線-号のラインが想定されていないからです.また,この地域は上流側の乾燥した地帯と異なり,湿地だらけで経済価値の低い土地だったからです(のちにそこがアイヌに貸し与えられるという意味がおわかりでしょう:ここらあたりは石狩川が氾濫するたびに水没する地域でした).
第七師団の配置後,急激にこの土地の“価値”が上がり,急遽地名を振らなければならなかったが,正式なものはなく,「西○号」と「南○号」がその時その時に適当に振られたのだと考えられます.だから,「西○号」と「南○号」は同じものと考えるべきでしょう.
じつは,「三線南一号共有地」という土地も存在しません.ここは非常に微妙な土地で,半分は「旧土人(アイヌ)開墾予定地」であり,一部は開拓のために和人に払い下げられたもので,その間になんとも判断できない土地(無塗色=無区分)が横たわっています(前出:新旭川市史口絵).それで,「三線南一号」の区画には「共有地」と判断されるところは「ない」わけです.

さらに問題があって,「三線南一号」という区画には,のちになっても「大町二条六丁目」と呼ばれる地域はありません.現在の大町二条六丁目は,昔の「二線一号」にあります.したがって,「大町二条六丁目」という市史の記述は間違いと判断されるべきでしょう(ただし,予定地として上がっていたが,最終的に建てられたのは「三線南一号」だったという可能性は残ります).

この年十月二十日新築落成」(旭川市史三巻二二九頁)

翌年,
三十五年四月一日,旭川に町制施行とともに春光,北星地区一帯が旭川町に編入されたので,四月二十九日上川第三尋常小学校と改称」(旭川市史三巻二二九頁)

ここで「春光,北星地区」というのはのちの呼び方であり,適当ではないのですが,ほかに呼び方もありませんので我慢のこと.正確にいって,六号線以南および近文台南の平野部となります.
また,旭川町になったわけですから,本来は「旭川第三尋常小学校」と改称されるべきですが,すでに旭川村から分村していた東旭川村が学校に「旭川」の冠を使っており,混乱必至であったので「上川」を被せたようです.なお,東旭川地域の各校は現在でも「旭川」の冠を使っています(なんかね).

三十六年九月三線西一号,今の旭町一条九丁目に新校舎落成」(旭川市史三巻二二九頁)

前述と矛盾する市史の記述ですが,困ったものです.
前年(35年)の10月20日に新築落成している校舎が,また落成しています(困ったものです:なお,すでに新旭川市史が発行されています.このあたりの記述が整理されてるかと期待したのですが,記述が減ったぐらいで放置でした.無駄金使ってしまった.(^^;).
考えられるのは,“二線一号(大町2-6)”(あるいは別のところに)に「近文第五」が建てられ,旭川町に編入されたときに名称を変え,翌年,三線西(南)一号に新築転居したということですが,裏付けはありません.

三十九年修業年限二ヶ年の高等科併置」(旭川市史三巻二二九頁)

本文には「三十九年高等科併置」とありますが,後・沿革一覧表(旭川市史三巻二三四頁)には「四〇・四・一:高等科併置上川第三尋常高等小学校と改称」とあります.

当時の小学校は義務教育で修業年限が四年でした.しかし,全国的のプラス二年の高等科を併置するところが増え,それに沿ったものと思われます.この時,義務教育であった小学校は無料,高等科は授業料を払うのが普通だったそうです.その年,小学校令が一部改正され,就業期間が六年間に延長することが決まります.

翌年,
「四一・四・一:上川第三尋常小学校と改称」(旭川市史三巻二三四頁・一覧表)

つまり,「高等」の名は自然消滅したわけです.高等小学校は就業期間四年であったところが,二年に短縮.もちろん,高等小学校三年生が一年生に,四年生が二年生ですね.
ところが,1913(大正2)年に,

「大正二・四・一:高等科併置,上川第三尋常高等小学校と改称」
されるわけです.(続く)


(1903;明治36年「旭川市街全図」より一部)

線の記述はあるが,号の記述がない.第三線とかかれた文字の三区画南西に家屋マークがあり,解像度が悪いが,「第三尋常小学校」と読めると思う.しかし,ここは三線一号(現在の旭町2条10丁目あたり)であり,そこに小学校があったという記述は見あたらない.もしかすると,近文第五尋常小学校建設予定地は,この場所であり,市史の記述の間違いはここであった可能性もある.

2015年2月18日水曜日

知里真志保教授の略年譜に関する間違い(さらに訂正)

 
前回,湊(1982)*におかしな点があるということで,限られた情報をもとに,下のように結論しておきました.

1909.02.24:知里真志保,誕生(0歳)
1915.04:真志保,上川第五尋常小学校入学(6歳)
1921.03: 〃 ,豊栄尋常小学校(上川第五尋常小学校,改称)卒業(12歳)
1921.04: 〃 ,旭川北門尋常高等小学校・高等科入学(12歳)
1923.03: 〃 ,旭川北門尋常高等小学校・高等科卒業(14歳)

そのあとも,気になって,いくつかの資料を見比べていました.
まずは,本棚にあった「荒井源次郎遺稿 アイヌ人物伝」**に「知里真志保」の項があり,そこに略年譜が示してありました.
それを比べると,湊(1982)とまるで同じですから,この時の結論としては,湊先生が引用したとする「知里真志保著作集」の年表が間違っているか,荒井さんが(引用元を明記していない)湊先生の間違いを,そのままコピペしてしまったかのどちらかになります.

そこで,しようがないので,湊先生が引用したとする「知里真志保著作集」を借りだし(市図書館としては珍しく,禁帯出ではないのがあった(^^;).
で,結論は,湊(1982)の「知里真志保著作集」からの引用間違いが明らかに.ほかにも,旭川との関わり合いがいくつか明確になりました.
以下.

1909.02.24:知里真志保,誕生(0歳)
1915(T.04).04:真志保,幌別村登別小学入学(6歳)
1921(T.10).03:真志保,登別小学校卒業(12歳)
 その年,庁立旭川中学校を受験するも不合格.
1921(T.10).04:旭川北門尋常高等小学校***・高等科入学.
1922(T.11).xx:登別の尋常高等小学校****・高等科2年転入学.
1923(T.12).03:高等科卒.
1923(T.12).04:庁立室蘭中学校*****入学.
1927(S.2).02:旭川にて蓄膿症手術*******
1927(S.2).04:~一年間休学********
1928(S.3).04:復学
1929(S.4).03:室蘭中学,卒業.

かなり,複雑なので,省略があると前後関係がつかめなくなっても不思議はないですね.
1927(昭和2)年の旭川での蓄膿症手術のあと,一年間中学を休学していますが,この期間どこにいたかの記述は,今のところ見あたりません.ただし,藤本(1994)の伝記を読むかぎりでは,近文の金成マツのもとにいて,伯母・金成マツおよび祖母モナシノウクからアイヌ語およびユカルを学んでいたとすれば,その後の生涯が理解しやすいと思います.
「休学あけ,2回目の5年生の学籍簿に「将来の希望」は「語学者」とある」(「知里真志保著作集」年譜より)
ただし,金成マツの近文・聖公会赴任については記述は普通にありますが,いつ登別に戻ったのかの記述は見あたらないですし,祖母の没年についても同様ですので,引きつづき確認作業を進めないと,確定はできません.

資料の拾い読みをしていると,エピソードにいくつか矛盾が見あたります.
たとえば藤本(1994)の室蘭中学でのエピソード.

「室蘭中学の新入生百五十人中,知里君は第三位の合格点であった.従来のしきたりでは,成績のすぐれたものを二人ずつ各クラスの正・副の級長としていたので,知里君は第三組の級長になる順序.職員間では二,三人の反対者もあったが,私は彼を級長にした.別に支障はなかったように記憶する(福山********書簡)」

立派な校長事務取扱いの態度だが,知里真志保(2000)の「和人は舟を食う」中の「図書館通いー私の中学時代ー」の冒頭に,こうある.

「私が当時の室蘭中学校に入学したのは関東大震災の年,つまり大正12年のこと.登別の小学校から室中1年1組の副級長として中学生活の第一歩を踏み出した私は,現在振りかえってみてもあまり楽しい思い出をもたない.」

さても,歴史をふり返る作業は,まことに興味深いことが多い.

--
* 湊正雄(1982):アイヌ民族誌と知里真志保さんの思い出(築地書館)の「略年譜」
** 荒井源次郎(1992):「荒井源次郎遺稿 アイヌ人物伝」(加藤好男:札幌)
*** 旭川北門尋常高等小学校:現在は存在しない.1928(昭和3)年,新北門尋常小学校(現在の大有小学校)へ519名移籍.1932(昭和7)年,廃校.廃止と同時に旭川師範附属小学校(現在の教育大・附属小学校)として新築移転.
**** 登別の尋常高等小学校:原著にそうあるので,正式名称不明.また,転入学の時期については姉・幸恵が亡くなった9月18日の直後とされるが,記述のある資料が見つからない.このときは,旭川にいた期間は二年に満たないことになる.
***** 庁立室蘭中学校:現在の室蘭栄高等学校.
****** 蓄膿症手術:「知里真志保著作集」年譜では期日不明だが,藤本(1994)*******では2月となっている.
******* 藤本英夫(1994)「知里真志保の生涯」(草風館)
******** 福山惟吉:真志保入学当時の校長事務取扱い


 

2015年2月13日金曜日

「消されたマンガ」

 
高速道路(ほんとうはただの有料道路)で,浴びた融雪剤を落としにガソリンスタンドへ.
待ち時間に,某全国ネット古書店で本漁り.ちょっと,買いすぎたかなと反省. (^^;

その中の一冊.
赤田祐一+ばるぼら「消されたマンガ」を読んだ.
公表されたにもかかわらず,多種多様な理由で「消されてしまったマンガ」について調査した本.




権力者側が自分の都合で「消す」ことは普通にあるのだが,まあ,そちらの件に関しては,放置.(^^;


気になったのが,PTAが関わったとされるものがいくつか.
一時期,PTAの役員をしていたことがあるので,関わり方が気になりましたね.
でも,PTAとはいいながら,よくわからないボスとか,PTAを隠れ蓑にしたある集団とかが働いていたと考えた方がいいみたいですね.


うちの娘の誤解.
「とーチャンもゲーム禁止令を出すの?」
「なんで,とーちゃんがゲーム禁止令を出すんだ?」
「PTAだから…」

学校の役員会でそんな話題がでてきたら,即「くだらないからやめなさい」といってたと思う.
理由は簡単ですね.
その昔,「小説なんか読んだら不良になる」といってた人たちがいるけど,今どき,そんなことをいう人はいないですよね.むしろ「たくさん読め」といわれている.
わたしらが子どもの頃は,「マンガなんか読んだらバカになる」といわれました.でも,今はマンガやアニメにも世界を動かす力があり,素晴らしい作品があることは周知ですよね.
今,「ゲームなんかやったらバカになる」といってても,将来的にもそう言われ続けるかどうか,保証は無いですわな.

たぶん,学校の役員会だったらそれで押さえられたと思う.
でも,市~道レベルの役員会になると,それは判りませんね.

たとえば,ある時全道レベルのPTA役員会が旭川市であって,そのとき某○ンキー先生の講演がありました.その時,ほぼ一番前で聴いてたんだけれど,弁舌さわやかだけれどなにを言ってるのか(なにが言いたいのかが)よくわからない(中身まるでなし).で,飽きて周りを見渡すと,眼を♡マークにしたおばさんたちが多数.
あとで,どんなことをいってたのか聴いてみたら,やはり「なにを喋っていたのか」はまったく判っていませんでしたね~.いってないことを聴いていたようで.
結局,「有名な○ンキー先生の講演を聴いた」事実だけが重要なんで,講演の中身は二の次以下.
彼女らが暴走し始めたら,たぶん止められない.
結局,○ンキー先生は,あーいう話だけ(なんか,本もでてるし,TVドラマにもなったらしいけど,読んでないし見てもいない.興味もない)で国会議員になってますからね~.


もう一つ,重要な講演がありました.
それは,アスベストに関する話.しかし,当時はまだ,「アスベストは危険か」といわれ始めた程度で,実体は,ほとんど判っていませんでした.そういう話だったんですが….
昼休み,おっさんたちがタバコを吹かしながら「アスベストって危険なんかな~~」.
あのね,通常そのへんを漂ってるアスベストなんか,問題になりませんって.それよりも,あんたらが吹かしてるタバコの煙による受動喫煙のほうがよっぽど害があると証明されとりますよ.

まあ,これがPTAの全道大会の実体ですから,悪意あるヤツがコントロールしようとすれば,たぶん簡単なんでしょうね.小説や,マンガや,ゲームなど「悪」と決めつけるのは簡単なこと.


エピローグに面白いコラムが紹介されとりました.
非行少年は「悪書にそそのかされて非行を行った」と“自白”を誘導されるそうですが,次のようにやれば非行少年はもっと力強く同意するだろうという.
「お前は大臣や官吏や金持が色々悪いことをしても決してつかまらず,真面目にやつているのが馬鹿らしくなつたのでそんなことをしたのではないか」

相当前から,ふてぶてしい一般人犯罪者が増えてる気がするのは,そーいう「大臣,官吏,金持」が目立つようになった影響なのだろうな~~と思ってましたわ.

2015年2月9日月曜日

知里真志保教授の略年譜に関する間違い

 
湊先生がまとめた「知里真志保さんの略年譜」にちょっとした混乱があることがわかりました.

一九一五年(大正四年)四月,登別小学校を卒業し,四月に旭川北門尋常高等小学校高等科一年に入学,六歳.金成マツの家に住む.

と,いう記述です.
なお末尾注に(なお,「知里真志保さんの略年譜」作成にあたり,『知里真志保著作集』4(平凡社刊)を参照した.)とあります.従って,原著に当たらないと,どこから間違いが始まったのか判りませんが,この年譜は,すでにあちこちに引用され,一人歩きしているようで,別な記述でもみたことがあります.

さて,なにがおかしいかというと,北門尋常高等小学校ができた(上川第三尋常小学校を改称:近文地域が鷹栖村から旭川区に編入されたため)のは1918年であり,1915年に入学するのは不可能であること,また,このころの尋常高等小学校は現在の中学1~2年に当たるために,六歳で入学するのも不可能であること.
などです.


そこで,旭川の「小学校(近文地区)の歴史」を調べてみたのですが,これがなかなかの難物でした.
たとえば,北門尋常高等小学校が前身であるとされる「北海道教育大学附属旭川小学校」のHPには「本校の沿革」という頁があります.

それは,明治34年7月「近文第五尋常小学校」から始まるわけですが,まったく史実に即していません.近文第五尋常小学校といえば,当時は鷹栖村に属していました(学校は現在の大町2-6にあったらしい).その後,紆余曲折があって,旭川師範が設置された頃には,すでに北門尋常高等小学校(そのころは北門町11に移動していたとされる)として,旭川区立で存在していたものです.
その学校が,師範設置後数年たってから「旭川師範学校代用附属小学校」として用いられ,さらに1932(昭和7)年に,北門町9丁目(現在の教育大学附属旭川校・自然科学棟あたり)に新築移転して「旭川師範学校附属小学校」となったものです.
したがって,附属小学校のルーツといえば「旭川区立北門尋常高等小学校」が最初で,それ以前は無関係といった方がいいものでしょう.

しようがないので,附属小学校・豊栄尋常小学校・近文小学校・大有小学校の歴史を,旭川市史から拾いなおし,年表をつくって確認しました.所在地や経緯に若干の不明な点が残るものの(市史の記述では確認できない),知里さんの年譜確認には問題ない程度まで漕ぎ着けたとは思っています.


さて,知里真志保さんが生まれたのが1909(明治42)年.この年,伯母の金成マツは旭川市近文(当時は鷹栖村.現在の錦町15丁目.旭川市立北門中学校が建っているあたり)の聖公会伝道所に赴任.姉・幸恵は金成マツの元で上川第五尋常小学校に通学.
年譜では,“1915(大正4)年,四月,登別小学校を卒業”となっていますが,当時,真志保は6歳で卒業は不可能(尋常小学校の入学が6歳).
“四月に旭川北門尋常高等小学校高等科一年に入学”となっていますが,これは「旭川北門尋常高等小学校の前身である上川第三尋常小学校」でしょうか.しかし,なぜ姉・幸恵といっしょの「上川第五尋常小学校」ではなかったのでしょう?
じつは,当時「上川第五尋常小学校(1918(大正7)年,豊栄尋常小学校と改称)」は俗に“アイヌの学校”と呼ばれ,「旧土人教育規定」によって運営されていた“学校?”でした.こういうことがあって,このあたりが非常に判りにくくなっているのか,とも思われます.

さて,“1923(大正12)年三月,高等科を卒業し”となっていますが,この高等科とは,いったいどこだったのでしょう.大正12年3月までは,豊栄尋常小学校は存在していますので,豊栄尋常小学校を卒業してから北門尋常高等小学校・高等科に入学し,二年後の1923年3月に高等科を卒業したとすれば,この記述から入学時の記載を間違ってしまったという解釈ができます.


そうすると,
1909.02.24:知里真志保,誕生(0歳)
1915.04:真志保,上川第五尋常小学校入学(6歳)
1921.03: 〃 ,豊栄尋常小学校(上川第五尋常小学校,改称)卒業(12歳)
1921.04: 〃 ,旭川北門尋常高等小学校・高等科入学(12歳)
1923.03: 〃 ,旭川北門尋常高等小学校・高等科卒業(14歳)

となると思われます.

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この記事は訂正しました(2015.2.18)
 

2015年2月8日日曜日

大立目謙一郎氏の肖像

 
以前に北大地鉱教室の大先輩である大立目謙一郎氏について紹介しました.
その時は,残念ながら氏の御尊影が見つかっていず,載せられませんでした.

以前に古書店から入手した「鈴木醇=人とその背景=」を眺めていたら,掲載された写真の隅に写っているのを見つけました.

「昭和九年 北大理学部地鉱教室職員」という写真です.
この中で,実際にお目にかかったことがあるのは,石川俊夫先生ぐらいですかね.

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2015年2月6日金曜日

アイヌ民族誌と知里真志保さんの思い出(あとがき)より

 
どうしても,この「あとがき」を公開したくって,かってにコピペします.
築地書館さんご免なさい.

あとがき
(前略)
この書物には私の非力から、アイヌ民族が東北地方や北海道で受けてきた不当な圧制といわれのない差別待遇についての真相が、ほとんど述べられていないことは申しわけない次第です。また知里真志保博士の逝去ののちの、アイヌ学界の動向について、これまた私の無能力から何も述べることができませんでした。しかしながら、アイヌ民族出身の多くの方がたがアイヌ文化についていろいろの出版物を公表しているのは顕著なことがらであるように思われます。

私は希望者に日本語と平行してアイヌ語の教育をする国立の小・中・高校というものができればよいと思っています。いわゆる同化政策の一本槍を、やむをえないと言うのは少数となった民族に対する正しい政治とは思われません。国民のなかにアイヌ語およびアイヌ文化が正しく理解されるのは大切なことだと思われます。
イギリスにおいても、英語のほかにウェールス語の教育は重要なことになってきていると聞きます。さらに朝鮮民族起源の日本人に対しても同様の教育が保証されるべきものであると考えています。

適当な都市や地方を選び、少なくも四つの権威ある民族博物館が建設さるべきものとも考えます。そこで、いわゆる日本人の祖先集団の言語や文化が、本格的に掘り起こされる必要があると思います。縄文人の末裔をはじめ、古南方民族・アイヌ民族・弥生時代に渡来した人びとの子孫集団、さらに近世になってからの、中国や朝鮮からの移住者は、みな近い親類であり、いまでは言語・習慣のうえでたがいに何の相違もなくなっております。たがいに影響し合い差別意識などをもったり、差別的な行為を許すべき何の理由もありません。遠い祖先がどんな系統に属するとしても、人としてまったく平等であることは自明のことであります。民族学や人類学には、それぞれの方法も目的もあるのでしょうが、その基礎には、すべての人びとがたがいに兄弟であり、同じ仲間であり、したがってたがいに幸福に生き続けなければならないという共通の理念がなければなるまいと思います。

人に関する科学は終局において深い人類愛を信条とするものでなければ無意味であるとも思われます。このことを私は強調したいと思うのです。さらに狭く日本国民というわくをはずし、広い視野から、世界のいかなる土地に住む人びとも、われわれの兄弟であるという自覚に到達するような人類学こそが発展させられるべきものでありましょう。したがって戦争がいかに罪ぶかい行為であるかということを確信させるようなものが人についての科学から当然なこととして浮びあがらなければならないものだと私は信じます。
(後略)
              一九八二年七月          湊 正雄


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今から,30数年前の本の「あとがき」ですが,ひとつも実現するどころか,正反対の動きが席巻していることが哀しいかぎりです.

2015年2月5日木曜日

アイヌ民族誌と知里真志保さんの思い出

 
最近は便利なもので,すでに絶版になった書籍がインタネットで簡単に手に入ります.
で,つい買ってしまったのが湊正雄(1982)「アイヌ民族誌と知里真志保さんの思い出」.
以前は,その気で古書店巡りしても,巡り会うことは困難でしたね.




いい本でした.
現代的な,学問的な意味での妥当性については,私には評価できませんが,いくつか謎だったことが理解できたような.

そのひとつは,「おっちゃん(注:湊先生のこと)はストリー・テラーなんだよ」(小M先生談).
湊先生はたくさんの本(専門書も一般読者向けも)を書いてますから,そのことだろうと思っていましたが,どうやら,そうではなかったようです.
湊先生は,数少ない事実から遠くを見通して,ひとつの判りやすいストーリーをつくるのが天才的だったようです.
この本では,アイヌ民族の歴史が判りやすいかたちで示されています.先生の本以降に書かれた本を読んでも,曖昧なところが多くて,アイヌの足跡というのは理解できなかったものです.見方が違うんでしょうね.
ただ,今から三十年以上も前に書かれたストーリーですから,それ以降に集められたデータと調和的なのかどうか,それは私には判りません.
きっと穴だらけ,矛盾だらけなんだろうとは思いますが.


もうひとつは,なぜ北上山地の「古生界の研究」で,すでにエキスパートだった湊先生が「第四紀学」にも手を出したのかということ.

北大地鉱教室では,戦前に千島列島の調査に教室として取り組んだことがあります.その時に湊先生も(最初の調査時は学生だったらしい)参加なされているわけですが,調査を手伝ってくれた千島アイヌたちの人間的なすばらしさに感激して,アイヌ民族に興味を持ったそうです.
そして,当時岩石学講座や鉱床学講座を担当しておられた鈴木醇教授の紹介で,知里真志保氏と面識を持つことになります(昨年の,北大博物館の講演会では「おたがい偏屈同士で友達がいなかったから仲良くなったらしい」などと冗談で言ってしまいました.乞う,お許し:今度機会があれば訂正しときます.(^^;).
そして,日々,アイヌ民族とその歴史について,知里さんと議論を戦わせていたようです(湊先生は「教えられた」と,いっています).

一方,湊先生は知里さんから教えられた情報を元に,自らのルーツを考えることになります.
湊先生は,秋田県出身ですが,自らの容貌から秋田あたりに居た蝦夷の血を強く受け継いでいることを意識したようです.
知里さんは,秋田はおろか沖縄あたりまで,現在のアイヌ民族を成立させたルーツが住んでいたと考えていたそうです.南方から,朝鮮半島から,サハリンから,現代では考えられないほどの機動力をもって日本列島に移動してきた,といった方がいいのでしょうか(現代日本人はハイブリッド民族なのです).
必然,湊先生は知里さんが専門としない地史=第四紀学に引きつけられて,知里さんのアイヌ学を補完しようとしていたのだと考えられます.

そして,湊先生の学問の,もう一方の柱である「古生界の研究」の集大成には,蝦夷・安倍貞任を首魁とする安倍族から「安倍族造山運動」が名付けられたわけです.
あれから,約30年.「地向斜造山運動論」は単なる虚構とみなされ,「安倍族造山運動」は死語になってしまいました.

人の命と同じように,学説も儚いもののようです.
イヤ,ひとつひとつの積み重ねが,少しずつわれわれを取り囲む謎を明らかにしていってるんだと,考えるべきなのでしょう.偽か,正か,ではなく,積み重ねのひとつなんでしょう.
そして,わたしは若い頃に,学問の巨人に会えたことを「幸せ」と考えています.