2015年2月23日月曜日

近文地域の小学校とその歴史(豊栄尋常小学校)

 
知里幸恵(知里真志保の姉)が通っていた小学校です.
ちなみに,真志保が旭川で一時期通っていたのが,前項の「北門尋常高等小学校の高等科」.
もともと真志保は,庁立旭川中学校を目指していたらしいのですが,不合格であったので「北門尋常高等小学校の高等科」に入学した模様.
中学校を落ちたので高等科へ.このあたりは,現代人にはちょっとわかりにくいですね.
なんで,こんなことになってたのかは,いずれ調べてみたいです(たぶん,どっかにあるでしょうけど(^^;).

明治四十三年九月十三日,(十六日開校式)特別教育規程にもとづきアイヌ児童教育の目的で,近文五線南二号に上川第五尋常小学校が設けられ…」(旭川市史一巻二八九頁)

明治43年は西暦1910年です.
“特別教育規程”というのは,これまたわかりにくいですが,政府によって明治32年3月に「旧土人保護法」が発令され,アイヌに対するさまざまな保護(規制?)が行われるようになります.そして,明治34年3月には,庁令で「旧土人児童教育規程」が定められていますが,明治41年3月に庁令で「特別教育規程」が定められ,「旧土人児童教育規程」は廃止されます(この後さらに,大正5年12月に庁令による「旧土人児童教育規程」が定められています).
この,「特別教育規程」によって「上川第五尋常小学校」が設置されたわけです.

ちなみに,この頃「上川○○尋常(高等を含む)小学校」には,上川尋常小学校,上川第一尋常小学校,上川第二尋常小学校,上川第三尋常小学校,上川第四尋常小学校,上川第五尋常小学校,上川第六尋常小学校があり,このほかに忠別尋常小学校がありました.ほかに「北鎮尋常高等小学校」がありましたが,こちらは第七師団の軍人・軍属の子弟のための私立学校でした.

ちなみに,知里幸恵は,この年(1910)4月,上川第三尋常小学校(前出)へ入学していましたが,アイヌであることをもって「上川第五尋常小学校」に転校させられたわけですね.「旧土人児童教育規程」第三条には「修業年限は四箇年とす」とありますが,「六箇年に延長することを得」とあり,知里幸恵の年譜を見れば,幸恵は小学校に6年間在学していました.

…その維持は他の旧土人保護法による国庫支出によるものと異り,部落共有財産よりの収入によってまかなわれる」(旭川市史一巻二八九頁)

なんと,国の法律によって決められた学校の運営にアイヌの財産が使われていたわけですか.

大正7年には,ほかの第○尋常小学校も固有名詞に改称されています.同時に他校は徐々に高等科が併設されるようになってゆきますが,豊栄尋常小学校は廃校になるまで高等科が併置されることはありませんでした.

大正七年四月一日,豊栄尋常小学校と改称」(旭川市史一巻二八九頁)


(1918:大正7年の1/25,000地形図・旭川の一部:五線南二号)
こちらは第三小学校と違い学校名が示されていない.


(1920:大正9年の旭川市街図の一部)
位置がかなりずれている.


旧土人教育規程廃止により大正十二年三月三十一日付廃校」(旭川市史一巻二八九頁)

となり,児童は北門尋常高等小学校と近文尋常小学校へ転校になりました.


(1948:昭和23年の三線西(南)一号附近:米軍航空写真)
(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)
1948年は,豊栄尋常小学校が廃校になって久しいが,大きめの建物が見える.形から見て豊栄尋常小学校として使われていた建物に似ているようだ.そうすると,その東側に見える小さな建物は金成マツ(および知里姉弟と祖母)のいた聖公教会近文伝道所か.
左下に近文尋常小学校が見える.すると,その向かいは荒井和子先生のお宅.


(1956:昭和31年の同上地域.1/25,000地形図「旭川」より)
「錦町」,「緑町」の町名が使用されている.家屋の配置は1948とほとんど変わらない.


(1967:昭和42年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
急激に家屋が増えている.
豊栄尋常小学校の跡地には北門中学(旧校舎:1960年開校)が建っている.
ちなみに,この写真の撮影時,私が在校中.(^^;


(1977:昭和52年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
ほとんど空き地がないくらいに家屋が増えている.ウッペツ川改修工事が進行中.


(2008年の同地域)
(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)
豊栄尋常小学校の跡地には北門中学校が建っている.これは新校舎.旧校舎のときと同じ場所に庭木が見える.豊栄尋常小学校のときにも同じ場所に庭木があり,当時の木がまだ生えているかもしれない.

(2015/02/26:修正)

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