2015年2月6日金曜日

アイヌ民族誌と知里真志保さんの思い出(あとがき)より

 
どうしても,この「あとがき」を公開したくって,かってにコピペします.
築地書館さんご免なさい.

あとがき
(前略)
この書物には私の非力から、アイヌ民族が東北地方や北海道で受けてきた不当な圧制といわれのない差別待遇についての真相が、ほとんど述べられていないことは申しわけない次第です。また知里真志保博士の逝去ののちの、アイヌ学界の動向について、これまた私の無能力から何も述べることができませんでした。しかしながら、アイヌ民族出身の多くの方がたがアイヌ文化についていろいろの出版物を公表しているのは顕著なことがらであるように思われます。

私は希望者に日本語と平行してアイヌ語の教育をする国立の小・中・高校というものができればよいと思っています。いわゆる同化政策の一本槍を、やむをえないと言うのは少数となった民族に対する正しい政治とは思われません。国民のなかにアイヌ語およびアイヌ文化が正しく理解されるのは大切なことだと思われます。
イギリスにおいても、英語のほかにウェールス語の教育は重要なことになってきていると聞きます。さらに朝鮮民族起源の日本人に対しても同様の教育が保証されるべきものであると考えています。

適当な都市や地方を選び、少なくも四つの権威ある民族博物館が建設さるべきものとも考えます。そこで、いわゆる日本人の祖先集団の言語や文化が、本格的に掘り起こされる必要があると思います。縄文人の末裔をはじめ、古南方民族・アイヌ民族・弥生時代に渡来した人びとの子孫集団、さらに近世になってからの、中国や朝鮮からの移住者は、みな近い親類であり、いまでは言語・習慣のうえでたがいに何の相違もなくなっております。たがいに影響し合い差別意識などをもったり、差別的な行為を許すべき何の理由もありません。遠い祖先がどんな系統に属するとしても、人としてまったく平等であることは自明のことであります。民族学や人類学には、それぞれの方法も目的もあるのでしょうが、その基礎には、すべての人びとがたがいに兄弟であり、同じ仲間であり、したがってたがいに幸福に生き続けなければならないという共通の理念がなければなるまいと思います。

人に関する科学は終局において深い人類愛を信条とするものでなければ無意味であるとも思われます。このことを私は強調したいと思うのです。さらに狭く日本国民というわくをはずし、広い視野から、世界のいかなる土地に住む人びとも、われわれの兄弟であるという自覚に到達するような人類学こそが発展させられるべきものでありましょう。したがって戦争がいかに罪ぶかい行為であるかということを確信させるようなものが人についての科学から当然なこととして浮びあがらなければならないものだと私は信じます。
(後略)
              一九八二年七月          湊 正雄


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今から,30数年前の本の「あとがき」ですが,ひとつも実現するどころか,正反対の動きが席巻していることが哀しいかぎりです.

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