2015年2月26日木曜日

近文地域の小学校とその歴史(近文尋常小学校)

 
1917年,
…大日本木管株式会社(本社尼ヶ崎,資本金三百万円)は,大正六年十一月近文に工場を設け,道産の樺・楓で木管の原料を製造した.」(旭川市史二巻四一九頁)
…大正八年の好況時代を絶頂に,それ以後不振となり,組織を改め,旭川木管株式会社となって,本道産の椴松を原料として,灌漑用,水力発電用等の導水用木管の製作に当つた.」(旭川市史二巻四三四~四三五頁)

残念ながら,その後の「旭川木管株式会社」の盛衰は追うことができません.たぶん,主要産業では無くなったのでしょう(冷たいもんですね).

(関係ないですが,「新・旭川市史」が出たのだから,「旭川市史」はテキスト化してHPで公開すべきだと思います.そうすれば,わかりにくい文章でもキーワード検索ができるようになる.)

閑話休題
大日本木管株式会社(旭川・近文工場)の絶頂期=1919(大正8)年に,
…四月一日北門尋常高等小学校の分教場を大日本木管株式会社近文工場倉庫に仮校舎として開設して西分教場と称し,尋常三年まで七十六名の児童を収容.大正九年四月一日,一学級増加尋常四年まで百十二名となる.」(旭川市史三巻二四八頁)

この記述では,1919年当時の尋常小学校四年生以上は「いなかった」とも,「本校に通った」ともわかりません.
とはいえ,地域で急激に膨張する人口.社員・工員とその家族が子弟の教育を必要としていたわけですね.

翌,1920(大正9)年,
大正九年一二月五日:西分教場校舎竣成移転」(旭川市史三巻二五二頁・表)
本文の方には「新築校舎(現・緑町一七丁目)百七坪落成,移転する」とあります.

残念ですが,前出1918(大正7)年の1/25,000地形図には,まだ該当すると思われる校舎は載っていません.現れるのは1931(昭和6)年の旭川市街図から(探せばあるのでしょうが所持してない).

二年後(1922),
大正十一年四月一八日北門校から分離し,近文尋常小学校と改称」(旭川市史三巻二四八頁)

翌,1923(大正12)には,前出・豊栄尋常小学校が廃校になり,生徒の一部は近文尋常小学校へと転校しました.
(以後,現在に続く)


(1918:大正7年の1/25,000地形図・旭川の一部:五線南三号)
大正7年にはすでに工場が建っているはずであるが,まだ反映されていないようである.
近文小は,もちろんまだない.
近文から旭川駅に続く鉄路から分岐した「大町岐線」がみえる.


(1931:昭和6年の旭川市街図の一部:五線南三号)
相当雑な地図であるが,近文小学校が見える.


(1948:昭和23年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
鉄道の南西側に巨大な木工場がある.
近文小学校建設の契機となった大日本木管株式会社近文工場は,
「近文駅前」という記述があるので,これではないと思われる.


(1956:昭和31年の同地域:1/25,000地形図・旭川の一部)
鉄道の北東側に工場のマークが二つ見える.
これが近文小学校建設の契機となった大日本木管株式会社近文工場.


(1967:昭和42年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
鉄道の南西側の木工場がさらに巨大化している.
近文小学校は新校舎に建て替えられている.


(1977:昭和52年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
鉄道の南西側の木工場が規模縮小している.
近文小学校は新校舎に建て替えられている.


(2008:平成20年の同地域:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)
木工場がなくなり,免許センターおよびバスターミナルがみえる.
大町岐線は撤去されている.

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