2007年8月30日木曜日

松浦武四郎の伝記

 蝦夷地質学外伝,其の九 「蝦夷日誌」(松浦武四郎)で,武四郎の伝記には吉田武三の「松浦武四郎」があるが,すでに入手不可能であるとし,代わりに,花崎皋平「静かな大地」や佐野芳和「松浦武四郎」が使えると書いておきました.

 最近,ほかにも伝記代わりに使える本が出たので紹介しておきましょう.

 それは,渡邊 隆(2007)「江戸明治の百名山を行く──登山の先駆者 松浦武四郎──」(北海道出版企画センター刊)という本です.北海道出版企画センターの北方新書シリーズの008として出版されています.お値段もお手頃.
 これは,松浦武四郎を登山履歴の上から紹介した本ですが,十分に伝記として使えます.
 私が武四郎の地質学的知識をとりだして紹介したように,同じ方法論で登山履歴から武四郎を解析したものです.もちろん,私の文章とは違い,武四郎は山ほど登山したので,この話題だけで,十分に一冊の本になっています.

 もちろん,例の「石狩岳登山」の謎についても載っています.

 さて,また続きを読むので,早々に失礼.

2007年8月25日土曜日

山崎有信の著書


 昨日,市街中心部に所用があったので,自転車でいってきました.
 帰り道,以前話題にした古書店が開いていたので,寄り道しました.松浦武四郎の本がいくつかあり,食指が動きましたが,所持金が少なかったのであきらめました.
 代わりにといってはなんですが,山崎有信の著書が2冊あったので買ってきました.
 一冊にはなんと著者の送呈印が押してあったので,つい(^^;

 それは「本田親美翁傳」というのもので,旭川由来の人物の追悼記のようなものです.挿入されている写真を見ているうちに,そういえば市内中心部の常磐公園に件の石碑があったことを思いだしました.
 そのうちにいってこよう.

 もう一冊は,「旭川十傑」という本で,チョット現在の感覚では理解できないのですが,北海タイムス(当時の新聞社)主催でおこなわれた,旭川在住の名士の人気投票みたいなものです.
 上位十名は「十傑」ということで,経歴とその抱負がのせてあり,その他十六名は「旭川名士」ということで,談話や論説が載っています.非常に興味深いことがたくさん書いてありますが,まだ読みこなしていないので,内容は後日.

 さて,山崎有信氏もこの旭川十傑に名を連ねており,しかもこの本の著者という妙な立場にありますが,第一章に「著者の経歴」として,92頁にわたり,自叙伝が書いてあります.まさに「苦学力行」という言葉がピッタリな人ですが,当時平民から成り上がるには当たり前のルートだったのかも知れません.
 さて,この自叙伝ですが,山崎氏が大正五年に弁護士試験に合格した時に,謝恩会を催し,その時の“演説”を速記したものを「判検事試験及第術」という本にして,それを流用したものだそうです.これはこれで面白いのですが,“演説”ということもあり,事件の正確な年月日など抜けている所も多いので,紹介するにはまだ時間が必要なようです.
 また,この本の発行が大正十二年ということで,その時には著者がまだ活躍中なので,それ以降のことについてもわかりません.

 でも,思っていればいつかは叶う様な気がしてきました.

2007年8月23日木曜日

「ウイル船長回想録」

 いま.ブラキストンについての原稿(蝦夷地質学外伝)を書いている最中です.
 ブラキストンの資料にジョン=B.=ウイルのことがでていました.「ウイル船長回想録」(杉野目康子,1989訳;道新選書)のことは,以前から知っていましたが,一時入手しようとした時に「品切れ」もしくは「絶版」ということで,放棄していたものです.ブラキストンについて書くに当り,一度読んでおく必要があるかと,市立図書館から取り寄せました.

 読んでみてびっくり,少年時代に夢中で呼んだ冒険小説のような内容です.これなら,子供たちが夢中になれるビデオ=ゲームのあらすじとしても使えるかも知れない.惜しむらくは,訳者が女性なので,言葉がやわらかく,海の男の回想録としては,いまいち乗りきれません.いえ,決して訳が下手なわけではありません.もうちょっと,べらんめえ調の方が,楽しめるかと思うだけです.
 それにしても,メルビルの「白鯨」のような世界が,函館を舞台にごく身近にあったことに驚きました.そして,残念なことにこの本はすでに「絶版扱い」で,入手不可能なのです.

 上海から箱館へ,ブラキストン大尉を運んだのは,このウイル船長(当時は水夫)がスタッフを務めるエバ号でした.数ヶ月後,ブラキストンを上海まで連れて返り,翌々年には,二等航海士として,アキンド号でブラキストンのために製材機器を箱館まで運びました.
 ウイル船長は,主にブラキストン&マール社やその親会社である西太平洋商会で働いていたため,箱館で起きた事件を克明に記録しています.箱館海戦で甲鉄艦が発射した大砲の弾が,ブラキストン邸の窓から飛び込み,居間を横切って食堂を通過し,家を飛びだして,牛の飼葉桶を粉砕した話や,それでも平然と食事をしていたブラキストンを活写しています.

 また,数年後,ウイル船長が座礁した船を救出に来た時に,箱館戦争の一方の雄であった榎本提督に出会い,手助けをしてもらった話など,興味深いエピソードが満載です.ウイル船長はこの時に青函連絡船の前身ともいえる定期航路についていたのですが,こちらの仕事は,黒田清隆配下の役人に邪魔されて,撤退せざるを得なかったのに,榎本は積極的にウイル船長を援助しているのが面白い.
 ただし,このエピソードはこれまでしられている榎本武揚の蝦夷地巡検の行程とは矛盾することがすでに指摘されています.

 とにかく,この本を入手しない手はない.
 さっそく,古書店に手配しました.

 北海道新聞さん.この本を復刊してください.儲けるためだけではなく,文化のためにやってんでしょ.出版業を.

2007年8月16日木曜日

「アイヌ語地名と伝説の岩」

 由良勇さんから「アイヌ語地名と伝説の岩」が届きました.
 お盆前に届いたのですが,支払いを済ますまでは私のものではないと考えてますので,保留にしてました.

 私が一番に興味があったのは,もちろん,「付録」の「忠別太大番屋」についてなんですが,残念ながら,書かれていることは「旭川市史」の記述とほとんど変わりありませんでした.もっとも,永年郷土史をやられている由良さんがこうまとめているのだから,現状では「これが最大限知られていること」ということで,これで区切りがつけられます.

 もう一つの付録である「旭川市内石狩川本支流変遷図(六葉)」をみて,放り出してある作業を思い出してしまいました.明治中頃からいくつかの市街図が残されていて,平成14年というから西暦2002年に,財団法人日本地図センターから「地図で見る旭川の変遷」として,まとめて発行されているんですが,それから旭川市内を流れる川を抽出して,流路変更を図化したいと考えて,途中までやって放り出していたものです.(どうでもいいですが,発行年を元号表記だけにするのはやめてもらいたいですね.最低でも西暦と並記してもらわないといちいち換算しなければならない.自衛隊の海外派遣は「グローバリズム」なのに,こういうところは「ナショナリズム」?と勘ぐってしまう)
 娘が小学校にいるうちに「郷土史資料」として,使えるように...と,思い...いつの間にか,娘は中学生になってしまいました.(^^;
 いってることが,よくわからない?
 たぶんそうだろうと思います.上川盆地,特に旭川市街地を流れる河川は,たぶん他に例がないほど流路が変えられています.市街中心部にある「常磐公園」を,昔,中島公園とも呼んでいましたが,子どものころは「なんで島でもないのに中島?」と思ったこともあります.つまり,昔は中島だったんですが,今は別に川に挟まれているわけではないんです.つい最近でも,「永山新川」というのができまして,春秋に渡り鳥が羽を休めにくるので有名になりつつありますが,これらはじつは洪水対策の結果なんだそうです.
 明治になってから,意図的に軍都としてつくられた旭川は,本州の旧い都市とちがい,洪水対策の歴史的蓄積がないので,非常に洪水に弱い所があります.だから,市街地ができた後からでも大規模な流路変更がおこなわれていて,時代のちがう地図を並べると,驚くほど「河川」の形が変わっているのです.そして,歴史的蓄積がないぶん,たぶん,本州と同じような程度のハザードマップを作っているだけでは,いつか足をすくわれそうな気がします.

 さて,本文ですが,もちろん題の通り,神居古潭周辺のアイヌ語地名と,点在する岩にちなむアイヌの伝説を紹介したものです.掲載された旧い写真を見ていると,子どものころ,春や秋の行楽シーズンに町内会で神居古潭の岩の上でジンギスカンなどをやったことを思い出してしまいました.この本を持って見物に行こうかなあと,考えてしまいました.

 もうひとつ,紹介しておかなければならないことがあります.
 この本はあくまで郷土史の範疇にはいるものなんですが,本文に入ってすぐに,「神居古潭の地質・地形と上川盆地形成経過の概要」として,神居古潭帯を中心とした,北海道の地質構造発達史が紹介されていることです.地質構造発達史も,郷土史の一つとして取り上げられている.ありがたいことです.
 いくつか間違いや誤解がありますが,これは地質屋が普及下手なことの反映なんだろうと思います.何とかしたいものです.

2007年8月11日土曜日

旭川と山崎有信



 山崎有信(やまざきありのぶ)という人がいました.
 「大鳥圭介傳」の著者であることは,すでに図書館で調べていたので知っていました.
 幕末のオランダ留学生らの,特に榎本武揚の「地質学」について調べていた私は,その関連で大鳥圭介にも興味を持ったというわけです.大鳥圭介は榎本武揚と長崎海軍伝習所からオランダ留学をへて,箱館戦争の戦友でもあり,その後の北海道開拓にも共に従事した人物です.

 ある日,市内の某古書店で,偶然に山崎有信の著作をみつけ,彼が「大鳥圭介傳」だけではなく,幕末から明治にかけてのさまざまな出来事を記録していることを知りました.同時に,彼が旭川に住んでいたことを知り不思議な気持ちになりました.
 さっそく,「旭川市史」を調べたのですが,著作については記録がありましたが,「山崎有信」という人物がわかる記述ではありません.膨大な著作を残しているわりには,忘れられてしまった人物のようです.しかし,旭川の歴史にとっては重要人物と思われます.以来,機会を見ては山崎有信の著作を探しており,いくつかは入手したのですが,とても,満足の行くものではありません.

 そうはいっても,これ以上ドラスティックな進展は期待できないので,これまで知りえたことを,記録しておきたいと思います.

 「山崎有信氏は,明治三年福岡県企救郡曽根村に生る.幼より学を好み,神童をもって近郷にその名を称せられしも,不幸にして家計豊かならざりし為,小学教育さえ中途退学の止むなきに至る.氏,修学の念禁ずる能わず,或は徒弟となりて仏門に入り,或は書生となりて苦学力行,遂に明治二十九年関西法律学校を卒業し,同時に奈良県監獄書記となる.以後内務省,陸軍省,馬政局,拓殖局等に奉職し,官海の風浪を浴びること十有五ケ年.大正五年に至り,旭川市に事務所を開き,弁護士として訴訟事務に従事し今日に及ぶ.北海道法曹界の元老たり.」
 「氏,また著述を好み,文章に巧みにして,亦和歌に錦心を流露し,殊に彰義隊の研究に於ては当今氏の右に出づる物無し.」
 「温容人に接して圭角なく,淡々談じ来って障壁なき立志伝中の紳士である.」
 (以上,「幕末秘録」末尾,「著者紹介」より.同文は「北海道市町村総覧」津守篤著からの引用である)

 存命中の著作ですので,死亡年は不明です.

 「旭川市史」では,唯一の本文中の記述になるエピソードは,第一巻の「市政」のところにあります.
 昭和三年に,「臨時市史編纂委員会」が設置されました.
 すでに大正四年,大正天皇即位の記念事業の一つとして,「旭川区史」の編纂が計画され進行していましたが,紆余曲折の末,まだ完全ではないということで,「委員会」が設置されたのです.
 その後,完成した市史を昭和六年八月に印刷するにあたって,校正を務めたのが,弁護士・山崎有信でした.(山崎の判断によれば)結局,完全というには程遠いということで,市史ではなく,「旭川市史稿」として,昭和六年十二月に発行されたそうです.

 次に,「旭川市史」(第三巻)ほかから,山崎有信の著作について記しておきます.

1911(明治四十四)年,「野辺地戦争記聞」(東京,上野彰義隊事務所)
1911(明治四十四)年,「彰義隊琵琶歌」(東京,博文館)
1913(大正二)年,「彰義隊戦史」(著者発行)
1915(大正四)年,「大鳥圭介伝」(東京,北文館)
1917(大正六)年,「彰義隊顛末」(東京,上野彰義隊事務所)
1923(大正十二)年,「旭川十傑」(博進堂)
1926(大正十五)年,「天野八郎小伝」(旭川,博進堂)
1926(大正十五)年,「幕末史譚 天野八郎伝」(旭川,博進堂)
1927(昭和二)年,「本田親美翁伝」(旭川,旭屋書店)
1928(昭和三)年,「幕末血涙史」(東京,日本書院)
1929(昭和四)年,「戊申回顧 上野戦争」(東京,上野彰義隊事務所)
1929(昭和四)年,「陪審裁判 殺人未遂か傷害か」(東京,法律新報社)
1929(昭和四)年,「大旭川建設へ」(東京,日本書院)
1932(昭和七)年,「奥士別親子地蔵の由来」(著者発行)
1933(昭和八)年,「日露戦争の懐旧」(著者発行)
1937(昭和十二)年,「胎教に就て」(東京,上野彰義隊事務所)
1937(昭和十二)年,「能行口説」(東京,上野彰義隊事務所)
1938(昭和十三)年,「五稜郭」(東京,日本書院)
1939(昭和十四)年,「護れ傷痍の勇士」(東京,日本書院)
1939(昭和十四)年,「豊前人物志」(著者発行)
1940(昭和十五)年,「旭川市功労者伝」(東京,日本書院)
1941(昭和十六)年,「大鳥圭介南柯紀行」(東京,平凡社)
1943(昭和十八)年,「幕末秘録」(東京,大道書房)

発行年不詳,「判検事弁護士試験答案集」(不詳)
発行年不詳,「判検事弁護士試験及第術」(不詳)
発行年不詳,「古社寺保存,法註解同,保存手続 古社寺保存便覧」(著者発行)
発行年不詳,「彦夢物語」(不詳)
発行年不詳,「上野彰義隊」(不詳)
発行年不詳,「日露戦没忠死者 建碑並招魂社合祀手続」(著者発行)
発行年不詳,「実例競売法手続」(不詳)

 ほかにも,「近刊」・「未刊」でいくつかの書名があがっているのですが,未確認なので割愛します.なお,旭川市立図書館には十五冊の蔵書しかなく,いずれも禁帯出扱いなのが残念です.

2007年8月10日金曜日

由良勇さん

 先日,市内の本屋をぶらついているときに,「上川郡内 石狩川本支流 アイヌ語地名解」という本をみつけました.最近はやりの自費出版・アイヌ語地名解の一種かなと思い,手に取ってみると「北海道出版企画センター」の本でした.それにしては構成が素人っぽいなあと思いながら,眺めていたら「参考文献」欄に「アイヌ語地名と伝説の岩」(由良勇著)があがっているではありませんか.

 8/4付けで,「忠別太の大番屋」について「旭川市史」・「新旭川市史」の記述をまとめておきましたが,念のためと「忠別太」・「大番屋」でグーグルと,この本に「記述がある」と出てきます.しかし,その出版社が聞いたことのない会社だったので,入手を保留にしておいたものです.もちろんAmazonなどでは扱っていませんでした.
 もしかしたら,入手可能なものなのかも知れません.
 さっそく,そこの本屋で調べてもらいましたが,通常のルートにはないという回答でした.そこで,市内最大手の書店に,Faxにて「書籍検索」の依頼を入れておくことにしました.回答はやはり「通常のルートにはなく,取り扱っていない」ということでしたが,その後がラッキーでした.市内に「マルヨシ印刷」という会社があり,そこに「その本の在庫があるらしい」というのです.
 一呼吸おいて,「マルヨシ印刷」に電話をしました.
 落ち着いた声の女性がでたので,「由良勇さんの著作について聞きたい」と訊ねると,「では,本人に代わります」.

 「エッ!..本人って!!」(いやあ.びっくりした)

 予期せぬ本人の登場に,かなり戸惑ってしまいましたが,首尾よく入手することができそうです.振込用紙同封で郵送するので送金してくれとのことでした.
 チョットお話ししたかったのですが,やっぱり動揺してて,本の購入についてしか話せませんでした.縁があればまたお会いできるでしょう.

 想像ですが,たぶん,由良勇さんは在野の郷土史家で,成果を自分の会社から自費出版していたのでしょう.最初に出てきた「上川郡内 石狩川本支流 アイヌ語地名解」はやはり「マルヨシ印刷」で,自分で編集して印刷したもののようですが,流通だけは「北海道出版企画センター」でやっているのでしょう.だから,市内の本屋にも置いてあったというわけですね.

2007年8月4日土曜日

忠別太の大番屋


 「忠別太大番屋」は,わが故郷・旭川では,和人のものとしては一番最初にあったとされる建物です.「蝦夷地質学」では「其の六 ライマン(Benjamin Smith Lyman)」の「ライマン・ルート」に少し触れています.

 「蝦夷地質学」では,「正確な位置およびその規模についてはハッキリしていない」としておいたんですが,「旭川市史」・「新旭川市史」にはもう少し詳しく書いてあるので,補足しておきたいと思います.

 文化四(1807)年,それまで松前藩が経営していた石狩場所が江戸幕府直轄となります.
 「〜場所」とは蝦夷地をいくつかに区分けしたもので,本州と違い「米」のとれない蝦夷地では,家臣にあたえる「禄」の代わりに場所をあたえ,そこからあがる収益を報酬としていました.当初は,アイヌとの直接交易をもって利益をあげていましたが,のちに効率の悪い自営よりも,商人に貸しあたえて権利金を受け取る方法が主になります.
 この商人を「場所請負人」,建物を「運上屋」,料金を「運上金」と呼びます.請負人は「支配人」や「通辞」・「番人」を場所に送り込み交易をさせていました.
 ところが,商人が入り込むと,アイヌと「交易」するよりも,アイヌを働かせて「漁業を直営」した方が儲かることに気付くには時間はかかりません.アイヌに売り渡すものを高価に,労働の対価は低くすることで,いくらでも儲かるシステムにすることができます.必然的に場所での労働は,奴隷労働と化してゆくことになります.
 そういう背景があることを,理解しておいてください.

 文化八(1811)年,伊達屋・栖原屋・阿部屋(あぶや)の三軒が石狩場所を請け負い,文化十二年には阿部屋が石狩場所を独占します(当時の当主は村山伝兵衛(六代目)というらしいのですがハッキリしません).つまり,江戸幕府の直営とはいいながら,“交易システム”は変わらなかったようです.

 そして,幕府の蝦夷地再直轄後の安政二(1855)年四月に阿部屋が提出した書類の中に,忠別太の大番屋の記述が見られます.

 上川チユクヘツブト
 一.番家 壱軒 桁間 五間半・梁間 三間 (縦:約10m,横:約5.5m)
 一.板蔵 弐軒 桁間 三間・梁間 弐間半 (縦:約5.5m,横:約4.5m)

 ただし,これがいつからあったものかはハッキリしません.
 また,まじにこれを「大番屋」と呼ぶにはつらいかも知れませんね.ただし,武四郎の記述には「むかしは相応の家なりし由なるか.当時は本の形斗の小屋也.酉年の洪水までは此二丁斗下に有りしか,崖崩れて流し故今此処へうつせしとかや」とあり,これは今は“大番屋”だけれども,洪水前の建物は本当に「大番屋」だったともとれる記述です.

 「新旭川市史」では,松浦武四郎(安政四),高畑利宜(明治五),ライマン(明治七)の記述を「忠別太の大番屋」と認めていますが,近藤重蔵(文化四)の記述:チユクヘツブトに「番屋が一棟」その近くに「家屋が弐軒」描かれていることを認めているものの,「にわかに(おなじものと)断定することはできない」としています.つまり,付属する二軒が板蔵とも民家とも判断できないので,この「番屋」が「大番屋」とすることはできないという論理です.「大番屋」以前の「二丁ほどチユクヘツ川を下った所」にあった旧い番屋である可能性を指摘しているのでしょうか.
 あまり整理がついていなくて,「新旭川市史」の記述ではよく理解できませんが,いつからあったものかはハッキリしないというのが「公式の見解」というところで我慢するしかしかたないようです.

 さて,松浦武四郎(安政四)のときにはまだ使えた“大番屋”も,高畑利宜(明治五)のときには,草小屋(“大番屋”のこと)は「空家にしたる為大破」しており,板蔵は○に「十五」の阿部屋の印が残っているものの一棟しかありませんでした.
 ライマン(明治七)のときには,目にしたのは「板蔵一棟」のみで,“番屋”については記述がありません.すでに無くなっていたのでしょうか.
 開拓大判官・松本十郎が明治九(1876)年6月17日(すでに太陽暦が使用されているはずなので,月日は漢数字では表記しない)にここを訪れ,「板倉一棟」が残っていることを記述しています.そして,その屋根の上から上川盆地を眺め,草原や雑木林・その間に流れる河川を見,石狩岳の麓まで見わたせることに感動しています(石狩岳は上川盆地からは見えません.この“石狩岳”はたぶん,大雪山連峰の旭岳のことしょう).「市史」では興味深いエピソードして,これ取り上げていますが,これには若干の違和感があります.「番屋」の周辺は草原だったとしても,また,板倉がどんなに立派でも高さが5mもあったでしょうか.巨大な原生林の密生する上川盆地で,そんなに見通しが良かったのでしょうか.

 もひとつ.
 「番屋」は「新旭川市史」によれば「軽物・干鮭などの交易に使用されるものだった」とされていますが,軽物はともかく,鮭は海岸地方で十分に獲れたはずですし,神居古潭では舟は使えないので,運搬が困難で鮭は扱わなかったろうと思います.
 また,「旭川市史」では「毎年秋の末出稼ぎアイヌの上川へ帰るとき,番人一名,時には二名同伴,丸木舟で石狩川をさかのぼり,忠別太に来て越年,冬中アイヌの狩した熊の皮や熊の胆・かわうその皮・狐や狸の皮等を集め,翌春氷とけて舟の通ずるようになると,酋長とともに労働に堪えるアイヌを引きつれ,数隻の丸木舟で石狩川を下る.」とあります.
 最上徳内や間宮林蔵の頃と比べて暖かくなっているとはいえ,旭川です.草小屋で和人が越冬できたという話はどうも眉唾です.とはいえ,上川アイヌを石狩場所まで連れて行く必要はあったでしょうから,越冬はしなかったものの高価な「熊の胆」や「毛皮」を集めるのと同時に,人集めに石狩場所からやってきた番人はいたのでしょう.