2008年12月25日木曜日

横山壮次郎・増補

 「石川貞治・増補」で,紹介した杉浦論文には,横山壮次郎についても載っていました.
 杉浦さんの元本は新渡戸稲造編「横山壮次郎君」(明治43)によるもののようなので,調べる必要がありますが,これはわかる範囲内では北大図書館にしか蔵書がありません.172頁の大著ですので,いろいろなことが書かれていそうですが,なにせ入手は不可能でしょうね.
 このために札幌までいくというのも,なんですからね.なにかの機会を待ちましょう.

 さて,困ったことに,「北大百年史」と「杉浦論文」では「生まれ」について矛盾があります.
 「1868年(明治元)鹿児島県冷水町に士族の家に生れ」とあります.「北大百年史」では1869.8.10.(旧暦に換算すると明治二年七月三日)になっていますので,一回り違うことになります.
 杉浦論文が正しいとすれば,清水昭三が書いた「壮次郎は,くまにからみついていた」という記述は,“数え”で三歳,満で一歳九ヶ月ですから,充分あり得ることになります.

 杉浦論文には,わずかですが,台湾総督府に転任以後の足跡も示されています.
 1919(明治39)年には,清国政府の招聘により満洲にわたったとあります(西暦は誤植で1906が正しいと思われます).二年後,1908(明治41)年には満洲での仕事が終わり帰国しますが,その年,「郷里の鹿児島で脳充血に罹り死去」となっています.「脳充血」という病はよくわかりませんが,横山壮次郎は「北大百年史」説に従えば,享年40歳,杉浦説では享年41歳ということになり,いずれにしても若くして亡くなったことになります.

 新渡戸稲造編「横山壮次郎君」には,満洲での行動なども記されているのでしょうか….

 
 

石川貞治・増補

 

 札幌の「I」さんからメールをいただきまして,若干微妙なことになってしまいました.

 私にとって「石川貞治」は,すでに歴史上の人物なので,北海道の地質学史に関係する地質屋である「石川貞治」を知るために「石川貞治の地質学」をさぐって公表することは,私がしなければならないことだと考えていたのですが,方針に若干修正が必要になりました.
 札幌の「I」さんにとっては,「石川貞治」は曾祖父にあたり,あきらかなプライバシーですから,「I」さんの意向を無視して書くわけにはいきません.すでに,訂正が必要なことを何ケ所か指摘されていますが,その元になる資料は「I」さんの所有物ですから,「I」さんが公表したいということでなければ,こちらで勝手に公表するわけにもいきません.

 微妙な判断が必要になりますね.

 したがって,こののちは,「すでに公表されている情報」と「I」さんの許可をえた事項しか書く気はありません.
 「I」さんが「石川貞治の歴史」を書いてくだされば,いいんですけどね.

 さて,そんなことで悩みながら再調査しているときに,富良野市郷土館の杉浦重信さんが「黎明期の千島考古学と石川貞治」について書いていることを思い出したというか,気づいたというか…全くお間抜けですが,ちゃんと調べ尽くしてから「石川貞治」について書くべきでしたね(このブログは「探索記録」であって,論文ではないから,いいんですが…).
 もっとも,杉浦さんは考古学畑の人で,私とは視点が違うはずなので,意識していなかったのも事実です.

 さっそく,連絡を取って,別刷りを送ってもらうことにしました.

 久しぶりに電話でお話ししました.
 学芸員なのに,博物館を引き払って,もっぱら事務職として勤務しているそうです(かわいそうに).市議会の季節なので,超多忙とか(かわいそうに).
 実は,これは日本の学芸職員が抱える切実な問題なのです.お役所の世界では,研究職としては偉くなれないのですね.事務職に変態しないと,まともなお役人とは(あるいはお仲間とは)見なされないのです.

 それはさておき,杉浦さんはかなりレアな資料を収集していますし,さらに実際に石川家にお邪魔して聞き取り調査されたそうです(私のような,お手軽調査ではないということですね(^^;).
 面白い話をいくつか聞かされました.実際にあって,そのときの話を聞くのが一番のようですが,なにせ,杉浦さんは超多忙の人です.

 さて,杉浦さんの論文から,必要なことを拾ってゆきましょう.

 まずは,石川貞治の出身地から.
 「石川貞治・横山壮次郎の地質学(2)」では,「北大百年史」の記述から,「岡山県の出身であることがわかる」と書いてしまったのですが,杉浦論文では「貞治は1864年(元治元)現在の島根県浜田市に旧浜田藩士石川文治の四男として生まれ」たとあります.これはこのブログの「コメント」欄で,札幌の「I」さんからも指摘を受けています.
 その後,事情があり岡山の美作(みまさか)の浜田藩領に移ったということですね.いつ頃かは未詳です.

 1896(明治29)年に拓殖務省に転出してからの足跡が不詳であるとしておきましたが,杉浦論文には,その後の足跡が書かれています.
 拓殖務省は1897(明治30)年9月2日に廃止されます.業務である台湾事務は内務省が引き継ぎましたが,石川は官を辞して実業界に転身します.
 1898(明治31)年(「I」さんの資料では,1897年),「東京に『北海道鉱農商議館』を設立し,北海道の鉱業・農業に関する事業のコンサルタントを行」ったとあります.
 設立地や名称は,別途,なにかで確認する必要があるかもしれません.

 1904(明治37)年には,「株式会社インターナショナルオイルカンパニーの本道石油事業に着手」したとあります.これは「I」さんの資料には「1903(明治36)年,秋(?)」とあります.また「インターナショナルオイルカンパニーの札幌総顧問」になったとあり,ニュアンスが異なります.
 「インターナショナル・オイル・カンパニー」とは,ロックフェラー麾下のスタンダード・オイルが,1900(明治33)年に横浜に設立した石油会社です.日本国内で,かなり大規模に運営しており,1906(明治39)年には勇払郡厚真町軽舞付近で石油採掘していた記録があるそうです(まだまだ調べる必要がありそうですが…).ところが,同社は経営不振に陥り,1908(明治41)年には,全資産を「日本石油」に売却,日本から撤退します.

 このときに石川は退社したようで,同年,「幌向炭坑合資会社(詳細不詳)」を設立しました.「I」さんの資料では「幌向炭鉱合資会社」と「永豊鉱山(石灰石鉱山:「寿都」図幅には記載なし;詳細不詳)」を設立したとなっています.
 「幌向炭鉱合資会社」は1916(大正5)年まで営業していましたが,その間にも(1912(明治45)年ころ:「I」さんの資料),石川は海軍省の内命を受けて,北樺太の油田調査や南樺太の油田掘削を行ない,また満洲・朝鮮・北支の鉱産地の調査も行ったそうです.
 1916(大正5)年には手稲付近の鉱業権を買収,これを「手稲鉱山」と命名して開発に乗り出します(「I」さん資料).これも詳細は不明(「銭函」図幅には経緯の記載なし)ですが,滝ノ沢・支流の黄金沢付近の鉱床の開発に一時期成功したようです.しかし,のちに資金難となり閉山(1928(昭和3)年;「I」さん資料)に追い込まれたようです.

 ほかにも,「大正7年以降,『北海道鉄道株式会社』の設立発起人となり,『日本採炭窒素株式会社』の取締役に就任,あるいは『北海道永豊石灰山』の採掘,さらには新日本社・拓殖産業会館・技労資協栄会などの発起,東北・北海道・樺太の航路開発の企画に奔走した」とあります.
 「北海道鉄道株式会社」は,北海道大百科事典によれば,1896(明治29)年から「函樽鉄道会社」として免許申請が提出されていたもので,1900(明治33)年11月に社名を「北海道鉄道会社」と改称して設立されたとなっています.したがって「大正7年以降」に設立発起人となることは不可能なので,なにか間違いが忍び込んでいるようです.
 「日本採炭窒素株式会社」は該当する会社が不明.
 「北海道永豊石灰山」は,前述の「永豊鉱山」のことだと思われますが,これも「I」さんの資料では,1908(明治41)年に設立となっています.
 「新日本社」・「拓殖産業会館」・「技労資協栄会」は,いずれも実態が不詳.また,「東北・北海道・樺太の航路開発」についても,あまりにも漠然としていて追跡調査が不可能でした.
 
 確認できないことや,わからないことが増えてしまいましたが,ヒントはたくさん転がっているようです.将来,資料が見つかることを期待しましょう.

 さて,杉浦論文によれば,石川貞治は1932(昭和7)年3月11日,内中耳炎を煩い,東京鉄道病院(現:JR東京総合病院)で逝去しました.享年69歳でした.

 杉浦論文では,「結語」に以下のように書かれています.
 「北大の『札幌同窓会第55回報告』の文末に,『誠に時流に一歩先だったアンビシアスな一生であったが,酬いられることは豊かでなかった』と記されている.このことが何を意味するかは,略歴程度の資料しか残されていない現在では推測の域を出ないが,その非凡な才気を発揮できない不運な境遇に置かれたことを評しているのであろうか.」

 ほんのわずかでも,失われた歴史の発掘がすすめば幸いです.

 
 

2008年12月18日木曜日

横山壮次郎のこと

 札幌のIさんより「横山壮次郎は森有礼の甥で…」というヒントをいただきました.

●森家略系図

 さっそく,犬塚孝明「森有礼」(吉川弘文館)を見てみます.巻末には「森家略系図」が載っています.ただし,これは“家族構成図”程度のもので「略」がついたとしても「系図」といえるほどのものではありません.森家五人兄弟の四男(森有礼は五男)に喜三次(横山家を嗣ぐ:横山安武・明治三年歿)とあります(「嗣ぐ」は「継ぐ」,「歿」は「没」のこと).
 この横山安武が横山壮次郎の親なのでしょうか?


 森と最初の妻との間には,三人の子があります.
 最初の妻とは「広瀬常」のこと.ライマンが一目惚れした女性でした.
 上二人が男で,三番目が女の子.「安」といいます.「安」にはカッコ書きで「横山家の養女となる」とあります.また,巻末の「略年譜」には,明治20年5月7日「長女安を横山安克の養女とする」とあります.「安」はまだ三歳に満たない幼児でした.しかし,本文には「安」のことは一切触れられていません.横山安克なる人物についても….
 本文中に横山安武の死が「森の性格にある陰をおとすことになる」と書かれ,森の人生に大きな影響を与えたはずの兄・横山安武なのに,安武の養子先・横山家のこともほとんどでてきません.不思議なことです.
 森の家庭は相当複雑だったことが想像されます.

●「秋霖譜」

 この複雑な森家の謎に挑んだのが,森本貞子の「秋霖譜=森有礼とその妻=」(東京書籍)でした.ネタバレになるので,あまり詳しくはいえませんが….森の妻「常」の実家・広瀬家には広瀬姉妹のほかに子がいず,そのため迎えた養子が,後に大変な事件を起こしてしまいます.事件の詳細の発覚は森家にまで累を及ぼしかねません.「常」は離縁.その後「常」のことは森家のタブーとなります.
 もちろん「秋霖譜」は小説ですので,すべて事実とするわけにはいきませんが,伝記にも家のことが詳しく書かれない森家の事情をある程度反映しているのだろうと思われます.なお,犬塚の「森有礼」では,常のスキャンダルが原因であることが匂わされています.
 そして,末娘は横山家へもらわれてゆきます.

 犬塚孝明(1986)「森有礼」では,なにがあったのかを知ることはできません.
 巻末の参考文献にも,森家の事情がわかりそうな文献は引用されていません.

●横山安武

 数年前,清水昭三という作家が「西郷と横山安武」という小説を上梓していることがわかりました.さっそく入手しましたが,まあ読み辛い本でした.
 最近の本としては珍しく誤字脱字が目立ち,理解不能な特殊な日本語がある上に,文法的にも変な部分があります.人名がたくさんでてきますが,読者はそれらをすべて知っているという前提で書いているようです.話が一挙に跳んで前後関係がよくわかりません.その割には長い会話が続いたりもします.
 どうも,あまり読者に理解してもらおうという気はないようです.
 安武が結婚したという記述がないのに,突然子供が生まれてたりします.

 しかし,横山安武の養子先のことなど,犬塚の「森有礼」よりも,かなり詳しく書いてあるので,何か元本があるのだと思われます.清水本の巻末にある参考資料のリストからすると,河野辰三「横山安武伝」(三州談義社)が怪しいのですが,これは国会図書館の蔵書にもありませんでした.
 河野辰三には「追遠ー横山安武伝記並遺稿」(横山安武伝記並遺稿刊行会)というのがありますが,こちらはすでに絶版で,古書店でも入手困難なようです.

 しょうがないので「西郷と横山安武」の本文に戻ります.
 本文67頁:妻の名は「くま」.しかし,「くま」の出自は示されていません.養子先である「横山家」の身内であるのか,あるいはどこからか嫁取りしたものかもわかりません.
 明治三年の四月,安武は妻と二人の子供と別れ,東京へ出ます.状況はさっぱりわかりませんが,安武はこのときすでに浪人.妻と二人の子はどうやって生計を立てていたのでしょうか.家族関係がわからないので,不思議なことだらけです.

 別れのシーン.
 「元千代(長男)は,安武に似た立派な少年になっていた.可愛い長男だった.壮次郎は,くまにからみついていた」(!).

 「壮次郎」がいました.
 この「壮次郎」は,あの「横山壮次郎」なのでしょうか!
 期日を見ます.「明治三年四月」,安武の次男は赤ん坊でした.そして,札幌農学校に入学した横山壮次郎の誕生日は,明治二年七月三日…!
 一歳に満たない赤ん坊が母親に「絡み付いていた」のはおかしいですが,可能性は大です.そして,まさしく「横山壮次郎は森有礼の甥」でした.

 明治三年七月二十七日払暁,横山安武は津軽藩邸前にて腹を切ります.
 切腹の理由は,閉塞した社会の状況にありました.今も昔も同じで,腐敗した政治家ばかりが我が世を謳歌していたことでした.
 幕末明治を生き延びた薩長閥の小者たちが大名と入れ替わっただけの「維新」.彼らは,全国で打ち続く農民一揆を尻目に,主のいなくなった大名屋敷に勝手に入り込み,贅沢の限りを尽くしていました(首を切られてすむ所もないままに途方に暮れる派遣社員を尻目に,夜ごとホテルのバーで酒を飲む総理大臣もどこかにいましたね).
 国の進路も決まらないまま,人を人とも思わないアイヌ政策や征韓論がまかり通る.時代の矛盾を書にしたためて,抗議の腹切りでした.

 と,まあ「西郷と横山安武」では,そういう一途な横山安武を描きたかったらしいですが,背景も安武自身も描ききれていないせいもあって,よくわかりませんでした.妻とかわいい盛りの子供が二人もいて,愚かな政治家を諌めることだけのために死ぬことができるのでしょうか.

 気になるのは,養女となった「安」の安否.
 そして,横山壮次郎の成長過程.

 もし,横山壮次郎が横山安武の次男ならば,親父は「征韓論」に腹を立てて自害し,息子は成長して植民地をつかさどる拓殖務省に勤務したことになります.これは歴史の皮肉なのでしょうか….

  

2008年11月27日木曜日

石川貞治・横山壮次郎の地質学(7)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

●新地質調査・精査

 「北海道新地質調査」は1892(明治25)年から,鉱物調査と土性調査のいわゆる細査に入ります.土性調査は開拓のための土壌調査ですから,別な専門家が受け持つことになります.ここでは鉱物調査に限って話を続けることとしましょう.
 神保は精査段階には加わることなく,明治25年に道庁を退職.その後ドイツに留学し,のちに東京大学の教授になります.神保と浅井が抜けたあと,石川と横山は新知見を加えて北海道地質図(1893:明治26年:北大・北方資料データーベースで閲覧可能)を書き直しますが,こちらには神保のみならず,浅井郁太郎の名前も明記されています.神保の名前が一番最初にきていますので,この地質図は通常,「神保ら」の著作と判断されています.
 神保のことは,もう放っておきましょう.


 石川は鉱物調査の主任となり,横山とともに事業を引き継ぎます.
 明治25年は,田村武雄・藤山胖次郎を助手として天塩川流域一帯,北見国北部の頓別川・猿払川地域を調査しました.この年から何人かの助手が加わりますが,いずれもどのような人物かはわかりません.
 明治26年は3月から4月下旬まで,本州北部の鉱山を巡検しました.これは道内の鉱山との比較研究のためだといいます.その後,石川は山田秀雄を助手として石狩平野と黒松内低地帯の間にある山地を調査し,横山は千島の国後島・択捉島のほか占守島・幌筵島を調査しました.
 明治27年は,横山は内山九三郎を助手として,北海道西部東半部地域(白老・登別・洞爺付近)の調査を行い,その後神恵内川・盃川・泊川で銀鉱床を発見しました.石川は山田秀雄と占守島や国後島のほか根室・釧路・十勝・石狩の内陸部を調査しましたが,有望な鉱床は見つかりませんでした.
 明治28年には,横山が転職し,助手の山田秀雄・内山九三郎が遠藤千尋・飯倉金三郎と交代しました.そのためにやむを得ず調査範囲を縮小しています.増毛山塊は調査を廃し,日高山脈付近の調査も縮小しました.それでも,沙流川では石灰岩体を発見し,鵡川ではクローム鉄鉱を発見しています.その他,空知川支流・ドナクベツ川では砂金と共産する辰砂を発見.イリドスミンなどの白金類も発見しました.
 夕張岳の東方では古生界よりも中生界の分布が広いこと,鵡川・沙流川の中上流部には第三系よりも古生界・中生界の分布が広く,シベチャリ川流域の古生界中に中生界があることなどを既刊の地質図(神保図:1890;明治23年発行)の訂正を必要とすることを発見しました(石川貞治増訂の1896:明治29年「北海道地質鉱産図」も北大北方資料データベースで公開されています).
 さらに,本道の古生代化石中には「クリノイド」・「ラジオラリア」・「スポンジ」のみが知られていましたが,鵡川支流の石灰岩中に「リンコネラ」を発見し,また中生代の化石の新産地を十数ケ所発見しました(注:現在ではいずれの化石も中生代のものとされています).

 精査の結果は,石川貞治・横山壮次郎(1894)「北海道庁地質調査 鉱物調査報文」,石川貞治(1896)「北海道庁地質調査 鉱物調査第二報文」となってまとめられます.「第二報文」が石川単著となっているのは,横山が1895(明治28)年5月に道庁を退職したからです.
 以下,それまでの横山壮次郎の関係論文を示します.

  横山壮次郎(1891)千島国シコタン島.(地学雑誌)
  横山壮次郎(1893)北海道新鉱産地.(地学雑誌)
  横山壮次郎(1894)千島巡検記(1~5).(地学雑誌)

 横山はこのあと地学雑誌には論文を残していません.
 足跡はまばらになりますが,1897(明治30)年に木村榮之進と共著で「台灣の石油」(地質学雑誌)を執筆.このときの肩書きは「拓殖務省技師」でした.また,北大・北方資料データーベースに残されている横山壮次郎の写真からは1905(明治38)年2月には「台湾総督府技師」であったことがわかります.

 一方,石川は大量の論文を残しており,それは下に示します.

  石川貞治(1891)千島国エトロフ島火山の話.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)シャコタン岳登山の記.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)石灰岩の新産地.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)千島群島極北の地質.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)北海道の鉱山熱.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)北海道の新大炭田.(地学雑誌)
  石川貞治(1893)北海道札幌市街の開発に就て地学上の考察.(地学雑誌)
  石川貞治(1894)アイヌの天隕石.(地学雑誌)
  石川貞治(1894)北海道来書一端.(地質学雑誌)
  石川貞治(1895)千島巡検難記.(地学雑誌)
  石川貞治(1895)北海道産二三の稀有鉱物(イリドスミン,白金,辰砂,クローム鉄鉱).(地質学雑誌)
  石川貞治(1896)「チャチャ」岳.(地学雑誌)
  石川貞治(1896)北海道産クローム鉄鉱.(地学雑誌)
  石川貞治(1896)北海道産金論.(地学雑誌)
  石川貞治(1896)北海道庁鉱物調査成績.(地学雑誌)

 石川は道庁技手のまま,1892(明治25)年2月から1896(明治29)年6月まで札幌農学校助教授を兼任,その後,横山と同じように拓殖務省技師として転出していきました.その後も,いくつか公表された論文が残っています.

  石川貞治(1897)北海道鉱産及鉱業に関する舊記.(地学雑誌)
  石川貞治(1900)北見国エサシ砂金地案内図.(地質学雑誌)

 さて,横山・石川が転出した拓殖務省とは何でしょう.
 1895(明治28)年4月17日,日清戦争が終了し,日清講和条約が結ばれました.この講和条約によって清国から日本に割譲され,日本領となった台湾を統治するために台湾総督府が台北に設置されましたが,この台湾総督府を監督する目的で1896(明治29)年4月2日,日本国内に設置されたのが拓殖務省です.
 要するに,日本の植民地の統治事務を受け持った部局で,植民地の膨張にしたがって改廃され,太平洋戦争に敗戦するまで,何らかの形で膨張し続けていました.

 札幌農学校出身の二人の地質屋の足跡をたどれるのはここまでです.今のところ.
 残念ながら,台湾総督府関係の資料は一切手元にありませんし,公表論文をたどることもできないので,打つ手無しです.二人の地質屋は歴史の波に飲まれていったのかもしれません.

この項,おわり

石川貞治・横山壮次郎の地質学(6)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

神保グループ
 さて,時計を少し巻き戻して,神保グループについて見直してみましょう.

●新地質調査・概査
 1888(明治21)年:道庁は「北海道新地質調査」を開始します.この事業は山内徳三郎の後任である河野鯱雄が立案し,最初の四年間で概査を行ない北海道全体の地質を押さえること,その後それをもとに有用鉱物の細査を行なう計画で始められました.
 同年,神保小虎を主任とし,その年札幌農学校を卒業した石川貞治が助手となりました.
 翌,1889(明治22)年7月,この年札幌農学校を卒業した横山壮次郎が助手として加わります.この成果は,神保小虎(1890)「北海道地質略論」(北海道庁),神保小虎(1892, 1893)「北海道地質報文(上・下)」(北海道庁)として現れます.
 なお,「北海道地質略論」の表紙には「明治廿二年三月編輯」と印刷されていますが,内容からは,どう考えても「明治23年3月編集」としか考えられません.そうであれば,発行が明治23年5月6日になっていることと調和的になります.

 この三冊は,通常,神保一人の著書として扱われていますが,前述のように石川貞治・横山壮次郎を助手とし,浅井郁太郎を嘱託として調査が進められたものです.そのことは別に隠されているわけではなく,本文にそう書いてあります.石川・横山・浅井らは人夫ではなく,地質学者・技術者として調査の一端を担ったわけですので,現代的な感覚では,共著者として扱われるべきものだと思われますが,そうなっていません.現代の我々の感覚とはずいぶん異なりますので,注意が必要でしょう.
 実際にみられる地質現象はともかく,報告書に現れているそれについての解釈は,神保一人のものだったと考えるのは,穿ちすぎているでしょうか.
 ともあれ明治22年には,前年の調査とともに,前人の調査の記録をまとめて報告しているわけです.

 明治21年には,神保は石川・横山らとともに北海道の所々を巡見しました.これが本当ならば,横山の卒業は明治22年6月ですから,横山は学生のときに神保に随行したことになります.考えられるのは三年生から四年生になるときの夏休みでしょうか.これを裏付けるかのように,横山は「地学雑誌」(第一集第三巻,明治22年3月25日発行)に「北海道の琥珀及建築材」という論文を掲載していますが,このときの肩書きは「札幌農学校」.興味深いことに,横山は言及した「安山岩」についてブラウン博士が「角閃石安山岩」と“確定”したと岩石鑑定を引用しているのですが,これについて神保が「確定せぬ方が宜し」と付言ししています.
 「横山壮次郎の学歴」で前述したように,横山はどうやら「地質学」の授業は受けていない可能性があるのですが,四年生であるこのときには,すでに「地学雑誌」に論文を投稿していたことになるのです.


 「北海道地質略論」は「緒言」のほか,六つの章からなっています.
 以下.
第一 北海道新規地質調査の主意・方法ならびに最初一年半の成績
第二 ライマン調査の結果,その他旧来北海道に関する地質実見の記事
第三 北海道,地勢と地質の関係
第四 北海道,地質構造と鉱物産出の関係
第五 北海道鉱産地
第六 結論

 このほかに,別冊として「北海道地質図説明書(英文)」なるものがあったようですが,入手した資料にはこれは欠如していました.見ていないものについて論じるのはなんですが,いったいどんな「地質図」と「説明書」があったのか,実に興味深い限りです.
 また,神保がこき下ろすライマンの調査と神保の調査とどれほど差があるのか,内容を確認したいところです.現代的な目で比較すれば,それはざっとみただけでもいくつか指摘することができそうです.しかし,それは神保と同じレベルで先人の苦労や業績を否定することになりますので,いずれ別の機会を見てのこととして,ここでは調査ルートの足跡だけを確認しておきましょう.

 初年(明治21)年,神保らは石狩平野以東の海岸部を巡検しました.日高国では主要な河川を見,釧路国では雌阿寒岳やアトサヌプリに赴き,十勝国・釧路国・北見国・天塩国においては時々大川の一部を観察しました.また,幌内炭山や幾春別炭山,湯内の鉱山(余市)や古平の鉱山を巡視しました.
 この年,神保は「北海道庁の旧採集品と西山らの鉱山調査中に集めた地質材料」を参考にして,英文の地質通論と邦文の略報告を道庁長官に提出したとあります.
 翌(明治22)年は,西部の沿岸と鉱山を巡検し,天塩川と石狩川を巡検しました.天塩川は「主要なる支流を大抵略察」し,石狩川は「本流の外に支流・空知川,美瑛川,幾春別川,夕張川等を多少巡視」したそうです.このとき,石川と横山は別行動をとり,石川は利尻島・礼文島にわたり,横山は石狩川の上流・ルベシベ(上川町から北見峠方面に抜ける沢)を調査したとあります.

 つまるところ,神保は語るに落ちて「北海道庁の旧収集品」=ライマンやライマン調査隊の収集品,「西山らの鉱山調査中に集めた地質材料」=旧ライマン調査隊で道庁に集まった技師たち,さらに助手の石川や横山の成果を使ったといっているわけです.それでも「主として自己の実見に依」るものだそうですが….

 横山の初論文はすでに示しましたが,参考までに石川の1890(明治23)年までの論文を示しておきましょう.

  石川貞治(1889)登別温泉及間欠泉.(地学雑誌)
  石川貞治(1889)北海道沿岸の段丘及砂丘.(地学雑誌)
  石川貞治(1890)北海道西部ウス山見聞概略.(地学雑誌)

 1889(明治22)年9月25日発行の地学雑誌(第一集第十号)の「会員の往復」には,神保と石川は冬期間,大学(もちろん東大のことです)地質学教室において研究を行なったこと,横山壮次郎はこの夏札幌農学校を卒業して道庁に採用され,神保とともに北海道を調査中であるとされています.また,大学(もちろん東大のこと)地質学生・淺井郁太郎がある地域で地質調査を行なっていることが書かれており,このとき浅井は東京大学の学生だったことがわかります.

 1890(明治23)年7月には,浅井郁太郎が嘱託として調査グループに加わります.浅井は旧字の淺井になっている場合があります.このときの浅井の肩書きは「理学士」になっています.当時,浅井は理科大学の大学院生でした.
 1892(明治25)年4月25日発行の地学雑誌(四巻四十号)には,「理学士浅井郁太郎氏は過日島根県尋常中学校に赴任」とあります.浅井は1896(明治29)年9月から1897(明治30)年7月まで,札幌農学校の嘱託講師をしています.このとき,浅井の本職は札幌尋常中学校の校長でした.
 以下,参考までに浅井の投稿論文を示しておきます.

  小藤文次郎(口述)金田楢太郎・浅井郁太郎・細川兼太郎(筆記)(1889)普通地理学講義.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1889)ラットリー氏鉱物学初歩.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1890)大風の記事.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1890)石狩国上川地理小誌.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1891)胆振国鵡川巡見摘要.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1892)山相を以て地質を断言する能はす.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1892)ゴビ沙漠の動物.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1892)地熱叢談(第1回).(地学雑誌)

 浅井の「地熱叢談」は第二回目以降は掲載されることはありませんでした.それは多分,就職してしまったからだと思われます.浅井がまた地学雑誌に投稿しだすのは,1908(明治41)年になってからで,その題は「有用鉱物の発見について」でした.

 浅井は,神保グループの中では,主に石狩国全体の概査を受け持っていました.
 この年からは,神保グループの三人は別々に調査を進めました.したがって,明治23年の報文は各人が独立して提出しています(この報文は道庁に提出されたものですが,現在その所在はわかりません).
 明治25年発行の「北海道地質報文(上)」には,各人が調査した地質図のリストがあがっています.これらの地質図の所在も不明ですが,各人がどのようなところを調査したのか具体的にわかります.

1889(明治22)年
  神保・石川・横山「北海道天塩川」
  神保・石川「北海道西部九葉」
  神保・横山「石狩川筋」
  石川「礼文島」
  石川「利尻島」
  横山「石狩国定山渓」
1890(明治23)年
  神保・横山「石狩国空知川」
  横山「十勝国十勝川」
  横山「十勝国ピリベツ」
  横山「根室・釧路間」
  石川「北見国ポロナイ川」
  石川「北見国モペツ川・渚滑川・ドコロ川」
  石川「択捉島」
  横山「色丹島」
1891(明治24)年
  神保「十勝国芽室川・ペルフネ川・広尾川」
  神保「日高国様似川・ポロマンベツ川」
  神保「日高国沙流川・胆振国鵡川」
  神保「石狩国石狩川水源地方」
  石川「北見国頓別・猿払・マシポポイ」
  石川「手塩国天売島・焼尻島」
  石川「手塩国宇園別・築別・古丹別・小平蕊」
  石川「石狩国モイ村コガネ川
  石川「渡島国大島・小島」
  石川「胆振国ポロベツ・シキウ・鷲別」
  横山「根室国離島全体」
  横山「十勝国十勝川水源その他」
  横山「奥尻島」
  横山「後志国泊川・チバシリ川」
1890・1891(明治23・24)年
  浅井「石狩国上川郡雨竜川・夕張川」

 リストを見ればお判りのように,石川と横山は(職制上はともかくとして)神保とは対等の研究者であって助手なんかではないことは明らかです.
 また神保は,このリストに続いてその年までの出版物のリストも掲載しています.

  北海道地質略論(明治23年5月出版,神保小虎)
  北海道地質略図(明治23年5月出版,神保小虎)
  同説明書(英文;明治23年5月出版,神保小虎)
  北海道火山并に火山岩播布の図(明治24年2月,神保小虎)
  北海道地勢并に鉱産の図(明治24年3月,阿曽沼次郎輯)
  北海道地質図(明治24年3月出版,神保小虎)

 これらは所在不明なものもありますが,「北海道地質略図」(明治23年)と「北海道地質図」(明治24年)は北大・北方資料データーベースで公開されており,見ることが可能です.「北海道地質略図」(明治23年)は,神保一人の業績とするのはおかしいのですが,署名は「神保小虎」のみになっています.神保が嫌ったライマンは助手の地質測量生徒のみならず,コーディネーターの秋山美丸の名まで明記したのとは対照的と言えるでしょう.
 ただし,明治24年の方は,調査員として小さく石川・横山・浅井の名が入っています.


 

2008年11月26日水曜日

石川貞治・横山壮次郎の地質学(5)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

北海道庁第二部地理課
 1888(明治21)年,北海道庁は「北海道新地質調査」の実施を決定.前年帝国大学を卒業した神保小虎を北海道庁技師としました.蛇足ながら,この頃には,大学は東京大学しか存在せず,帝国大学といえば,東京帝国大学のことです.神保は新しい調査チームを結成.このときに札幌農学校を卒業したばかりの石川貞治が助手となります.

 石川が道庁にいったとき,そこには山内徳三郎・桑田知明・坂市太郎・前田清明・西山正吾がいました.覚えているでしょうか? 彼らはライマン調査隊の元メンバーでした.一度は本州に渡ったライマン調査隊のメンバーの多数が,また北海道に集結していたのです.全員ではないにしても.


●北海道鉱床調査報文

 1882(明治15)年に開拓使が廃止されたとき,鉱業に関する事業はすべて工部省に移管されました.そのため北海道における地下資源開発調査は中断していたわけです.
 1886(明治19)年に北海道庁が設置されたとき,長官・岩村通俊は再び全道の地質鉱床調査事業を企画しました(この企画には正式な名称がついていなかったらしく,記事によって呼び方がバラバラです).それはライマン調査隊のリーダーだった山内徳三郎を主任とし,大島六郎・桑田知明らを助手としました.また,一方で空知煤田(炭田)の調査も計画され,こちらは大日向一輔・米倉清族・前田精明らが調査を行っていました.
 1887(明治20)年には,空知煤田調査を地質鉱物調査事業に併合し,それまで地質調査所にいた技師・西山正吾を加えます.
 ところが翌1888(明治21)年,地質鉱物調査主任だった山内は,なぜか林務に配置換え.理学士・河野鯱雄が主任になります.そして,坂市太郎・神保小虎・加藤清のほか,この年札幌農学校を卒業した石川貞治が加わります.記事によってはこの年,“神保が主任になり,山内は道庁第二部地理課長を辞職した”とされているものもあります.なにがあったのかはわかりませんが,1890(明治23)年3月の「坂-神保論争」の火種は,もしかしたらこのときに蒔かれていたのかもしれません.
 なお,坂の夕張炭田の発見は1888(明治21)年のことでした.
 これらの調査の結果は,1891(明治24)年になって「北海道鉱床調査報文」として道庁第二部地理課から出版されます.非常に妙なことですが,著者・編集者として名前がでてくるのは西山正吾のみ.西山は報文を書き上げたあと,農商務省に転出しています.

 わからないことばかりですが,以下に,いくつかのヒントになりそうなことを記録しておきます.

【目次から】
 「北海道鉱床調査報文」には,まずは「地形」の概説から始まり,気候や人口,物産のほか道路や鉄道,水路灯台にまで言及します.これはまだ北海道に関する情報の少なかった時代なので,やむを得ないところがあるでしょう.
 オヤッと思うのが次の章の「地質と鉱床との関係」です.
 西山はライマンの地質系統ではなく,神保小虎が1889(明治22)年に出した「北海道地質略論」に掲げた地質系統を採用しているのです.これが多分,西山以外の著者名が消えている原因でしょう.特に,坂などは我慢がならなかったと思われます.西山一人が泥をかぶって,脱稿し道庁を去ったのだとすれば,辻褄が合います.
 並行して,神保単著の北海道地質論がまとめられており,これは「北海道地質略論」(1889),「北海道地質報文」(1891)として出版されています.一方で神保を主任とする調査グループの「鉱物調査報文」(1894, 1896)がまとめられていますが,著者は石川貞治・横山壮次郎になっており,これには神保は編著者には入っていません.

 話を戻します.
 次の「鉱床」の章には,「石炭・「硫黄」・「石油」・「砂鉄」・「砂金」・「金属鉱山」のほか「褐炭」・「泥炭」・「石灰石」・「珪藻土」・「建築石」・「満俺黒鉛,石膏等」・「鉱泉」が詳述されています.石川・横山の報告書,神保の報告書の三者を比べれば,何かわかるような気がしますが,ちょっと読みこなす余裕がありません.またの機会に.

【付図から】

 北大北方資料データーベースには,この「北海道鉱床調査報文」の付図とされるものが残されています.この中のいくつかには「坂市太郎」・「桑田知明」・「西山正吾」の署名があります.公開されている図には,このほかにも署名があるようですが,画像の解像度が低くて残念ながら読めません.以下,付図の名前だけでも記しておきます.

 1. 亜細亜東部之図
 2. 北海道地質及鉱産図
 3. 石狩煤田全図
 4. 空知煤田地質測量図
 5. 夕張煤田シホルカベツ鉱区地質測量図 / 坂市太郎
 6. 夕張煤田久留喜鉱区地質略図 / 坂市太郎
 7. 留萌煤田略測図
 8. 宗谷煤田地質略図
 9. 古潭石油地地質略図
 10. 利別砂金地質略図
 11. 凾館四近灰石砂鉄地略図
 12. 恵山四近鉱産地地質略図
 13. 石狩国厚田郡古潭石油地地質略図 / 桑田知明
 14. 後志国瀬棚郡利別砂金地地質略図 / 西山正吾

石川貞治・横山壮次郎の地質学(4)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

「閑話」
 前に「ライマンの一目惚れ」という記事を書きましたが,このときのライマンの恋敵が「森有礼」という人物.森は若い頃に米国留学していて,米国風のスタイルを身につけ,男女平等論を日本に植え付けようとしました.とにかくカッコ良かったらしい.今でいう「イケメン」ね.米国留学を果した秀才で,仕立てのいい洋服がよく似合い,男女平等論をぶつ.「アラ・フォー」のおっさん・ライマンが勝てるわけがないです….
 そんなわけで,ライマンが惚れた女性と森は対等の立場で結婚します.
 ところが,この森という人物,相当いい加減なやつで,アメリカに居るときはアメリカ風,でも日本に帰ってくると日本風,に思想がかわってゆきます.明治も20年頃になると,「男女平等」ではなく「良妻賢母」教育に方針が変わります.身も蓋もない言い方をすれば「軍国の母」という言い方が一番よくあっているようです.森の変節とともに,それまでの妻では都合が悪くなったのか,離婚.以後,森家では前妻のことは「タブー」となったそうです.
 森は,1889(明治22)年2月11日にテロにあって翌日死亡.
 森がテロにあった日は,「大日本帝国憲法」の公布式典の当日でした.
 「大日本帝国憲法」は(ま,評価はいろいろあるでしょうけど)ドイツの憲法を手本にしたといわれています.アメリカ合衆国と国交を開くことで鎖国を解き,文明開化まっしぐらにやってきた日本,アメリカ式自由主義は明治初期には日本人のあこがれだったようです.しかし,明治も20年ほどたつと揺れ戻しが….日本の指導者たちは「ドイツ国家主義」が日本に合うと考え始めました.世の中はそういう風に流れていたらしい.
 そういう時代だったのですね.
 森の変節もその典型だったようですが,どうも,この典型が札幌農学校にも現れているようです.

 クラーク博士が始めたマサチューセッツ農科大学式全人教育が崩れ始めます.一般知識中心だった教科が専門色の濃い教科へ変わってゆきます.外国語は英語だけだったのがドイツ語中心へ.本科は農学科だけだったのが,「農学科と工学科」に増えます.実習コースである「農芸伝習科」も.さらに「兵学科」や「兵学別科」も.
 もちろん,息も絶え絶えだった「札幌農学校」を復活させた“佐藤昌介改革”のことを,こういう風にいうのは気が引けるのですが….

 クラーク博士の言葉「Boys, Be Ambitious」.クラークはこんなことはいわなかったという説もよく聞きます.「言った」か「言わなかった」かは,見送りにいって,その場にいた札幌農学校一期生しかわからないことなので,今更何をいっても水掛け論にしかならないのは明らかです.「個人より国家」を優先しようという時代には,クラークはそんなことはいわなかった方が都合がいいわけですね.だから,「言わなかった」説がでてくる.
 「言わなかった」と主張する人たちの大きな根拠になっているのが,クラーク博士が去ってしばらくの間はこの言葉が話題になっていないことがあげられています.明確に話題になったのは,札幌農学校創立15周年の記念式典での第一期生・大島正健の講演でのことといわれています.創立15周年記念式典は「北大百年史」には記録がありませんが,計算上は1891(明治24)年になります.「個人よりも国家」の風潮が進行しているこの時期,クラーク博士の精神を思い出せよと,その言葉が「象徴」として取り上げられたのも,理解できるような気がします.
 クラーク博士が死去したのが1886(明治19)年3月9日.すでに一つの時代が終わっていたのです.

 最近また,クラーク博士は「そんなことは言わなかった」説が流れているようですが,「個人より国家」の時代がまたくるのかと不安です.

石川貞治・横山壮次郎の地質学(3)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

横山壮次郎

●横山壮次郎の履歴
 横山壮次郎は1869年8月10日(明治2年7月3日)鹿児島に生まれました.
 横山壮次郎の「壮」は,旧字体で「横山壯次郎」と表されている場合もあります.まれに同一人物と思われるひとで「横山荘次郎」とされていることがありますが,これは誤植あるいは誤変換でしょう.
 1889(明治22)年に札幌農学校を卒業し,翌年,1890(明治23)年12月に「土壌学」の嘱託講師として札幌農学校に雇われています.そのとき,横山の本職は北海道庁の技手でした.札幌農学校はこのときすでに北海道庁の管轄下にありましたから,横山は兼任ということになります(北大百年史・通説,第3章の付表一,二).
 また,「同・通説,第3章の付表一」には,その後,
  92.2~94.9:助教授:道庁技手兼任
  94.9~95.2:助教授
  95.2~95.5:助教授:道庁技手兼任
 となっています.チョット意味不明なんですが,90.12~92.2は道庁技手が本職で農学校の(非常勤)講師,92.2~94.9は道庁技手が本職で農学校助教授を兼任し,94.9~95.2は農学校助教授が本職で道庁技手を兼任し,95.2~95.5は(元に戻って)道庁技手が本職で農学校助教授を兼任ということらしいです.職制としてはともかくとして,ただ複雑になるだけですし,助教授と技手を兼任していたことには違いないので,92.2~95.5:道庁技手で札幌農学校・助教授兼任ということで進めさせていただきます.

 したがって,以下のようになります.
1869年8月10日(明治2年7月3日):鹿児島県に生まれる.
1889(明治22)年7月:札幌農学校卒業
1890(明治23)年12月:札幌農学校卒業の嘱託講師(土壌学)となる.
1892(明治25)年2月:札幌農学校の兼任助教授となる
1895(明治28)年5月:札幌農学校の兼任助教授を離任する

●横山壮次郎の担当教科
 前述したように,横山の嘱託講師時代の担当は「土壌学」になっています.しかし,この時期,本科である「農学科」や「工学科」で「土壌学」という授業が行われた形跡はありません.そういう専修科目自体が見あたらないのです.並置されている実習コースである「農芸伝習科」(修業2年)では「土壌論」が行われていたようですから,横山は「農芸伝習科」で教えていたのかもしれません.

 湊正雄「北大における地質学と北海道」(北大百年史・通説,「北大100年の諸問題」)中に示された「表1.札幌農学校本科における地質学の授業」には横山壮次郎の名はありません.もちろん,みた範囲では工学科の授業でも横山の授業はありませんでしたので,横山はもっぱら「農芸伝習科」で「土壌学」の教鞭を執っていたと考えるべきなのでしょう.

●横山壮次郎の学歴
 横山壮次郎が札幌農学校に在学していたころは,不幸なことに学生のデータがほとんど残されていません.書いてあるのは鹿児島県出身で1889(明治22)年7月の卒業ということだけ.
 これではどうしようもないので,いくつか仮定を加えてみることにします.
 まずは,横山は健康で優秀な学生だったとします,そうすると,

  1年級:1885(M.18).09~1886(M.19).06.
  2年級:1886(M.19).09~1887(M.20).06.
  3年級:1887(M.20).09~1888(M.21).06.
  4年級:1888(M.21).09~1889(M.22).06.
だったことになります.

 この時期,「地質学」の授業は,通常第3年級の後期に行われることになっていました.したがって,横山は1888年の1月から行われる後期の授業で「地質学」を受けていたはずです.しかし,この時の「後期時間割」には「地質学」はなく,「春季休業後より『地質学及び金石学』を授業す」という但し書きありました.
 さらにしかし,ですが,これは実現しなかったようです.
 と,いうのは横山が四年生になった年の前期の授業時間割が残されていて,それには,月曜日の11:30から12:30まで「地質学」の授業をストックブリッジが行うことになっています.おかしなことに,この時期通常一週間に5回授業を行うのが普通ですが,なんと,このときはたった一週間に一回だけでした(もしかしたら,三年生の後期に一部授業が行われ,不足分を四年生の前期に補習したのかもしれませんが…ま,三年生から四年生への進級の判断ができなくなるので,これは難しいといえば難しいですがね).
 さらにもっと不思議なことに,この授業が行われている最中であるはずの11月1日に,突然時間割が改正されています.そして「地質学」の授業が忽然と姿を消すのです.それだけでなく,前年の1888(明治21)年の四年生後期の授業では,「獣医学」・「農学」・「農業経済及農業法律」・「土木工学」・「物理学」・「獣医学実験」など多彩な授業を展開していたのに,改正後には「獣医学」・「独逸語」・「物理学」しかありません.
 いったい何が起きたのでしょう.

 1889(明治22)年2月22日に出された「札幌農学校沿革略」によれば,
「明治21年10月,雇教師ストツクブリチ公用を帯び米国へ帰省せり.」
 !?ストックブリッジは日本に戻らぬままに,
「明治22年1月,曩に帰省せし雇教師ストツクブリチ,満期離任す.」

 付け加えておけば,「明治21年10月,雇教師ブルツクス,22年8月まで雇継の処,願に拠り本月20日限り解約離任」
 授業が進行している最中に,外人教師の一人が突然離任,もう一人の外人教師も故国へ帰ったまま離任.いったい何が!?

 これに呼応するように,1888(明治21)年10月,北海道庁技師試補の「吉井豊造」が嘱託講師となり,翌年9月に教授として雇傭されています.湊先生の表によれば,吉井は1889年から「地質学」を担当していることになっていますが,当然ストックブリッジがやり残した旧課程・第四年級の授業をやっていたとも考えられます.なお,吉井の専門は「化学」・「農芸化学」でした.
 この交代劇には,なにか意図的なものを感じさせます.この頃,外国語にドイツ語が取り入れられたり,米人教師を日本人に置き換える現象が見られます.明らかに当初のアメリカ・マサチューセッツの影響下からドイツの影響下への転換期にあたるようです.

 1889(明治22)年1月,後期授業が始まりますが,もちろん「地質学」の授業はありません.この年の旧課程最後の卒業生17名が農学校を旅立ちます.その一人が横山壮次郎でした.

石川貞治・横山壮次郎の地質学(2)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

石川貞治

●石川貞治の履歴
 石川貞治は1892(明治25)年1月に「地質学」の嘱託講師として札幌農学校に雇われます.本業は北海道庁の技手でした.同年2月には助教授になりますが,本職はやはり「北海道庁技手」でした.そして,1896(明治39)年6月まで助教授として在任していました(北大百年史・通説,第3章,付表一,二).
 同,付表一には,石川は1864.12.20生まれであることが示されています.つまり,元治元年十一月二十二日生まれということになります.
 もう一つ,「北大百年史・史料」の「明治25年」には,その年までの卒業生のリストが載せられており,ここから,石川は「明治21年7月」の卒業で,「岡山県」の出身であることがわかります.
 つまり,以下になります.
1864(元治元)年12月20日:岡山県に生まれる
1888(明治21)年7月:札幌農学校卒業
1892(明治25)年1月:札幌農学校の嘱託教師(地質学)となる
1892(明治25)年2月:札幌農学校の兼任助教授となる
1896(明治39)年6月:札幌農学校の兼任助教授を離任する

●石川貞治の学歴
 明確にわかることは上記のことぐらいで,あとはいくつかの仮定を積み重ねるしかありません.つまり,石川は健康で,非常に優秀な生徒だったと仮定します.そうすると,

  1884(M.17).09~1885(M.18).06.:第1年級
  1885(M.18).09~1886(M.19).06.:第2年級
  1886(M.19).09~1887(M.20).06.:第3年級
  1887(M.20).09~1888(M.21).06.:第4年級
 だったことになります.

 1884(明治17)年から1886(明治19)年にかけて,毎年のように校則の手直しがあったので,各学年で受けるべき授業名が記録されています.それによれば,
 1884(明治17)年:第三年級・後期「鉱物学及地質学(3/週)」
          第四年級・前期「地質学(3/週)」
 1885(明治18)年:第三年級・後期「地質学及金石学(5/週)」
 1886(明治19)年:第三年級・後期「地質学及金石学(5/週)」
 1887(明治20)年:第三年級・後期「地質学(5/週)」
 と,なりますが,これは「校則」上のことで,実際に行われた時間割が示されていた訳ではないので注意が必要です.以上の仮定を組み合わせると,石川は1886(明治19)年:第三年級・後期「地質学及金石学(5/週)」の授業を受けたことになります.
 このときの「地質学」類の授業を受け持っていたのは,ストックブリッジ(Horace E. Stockbridge)でした.「北大百年史・通説」表2-2によれば,ストックブリッジは米国籍(1857.5.19.生まれ)で雇用期間は1885.5.17~89.1.31,専門は「化学」と「地質学」になっています.
 学問が専門分化した現代ではストックブリッジの専門は不思議に思えますが,この時代では当たり前だったのでしょうか.いえいえ違います.もっと深いわけがあったのです.我が師,湊正雄先生が,この「北大百年史 通説」中の「北大百年の諸問題」で,「北大における地質学と北海道」として論じています.農学校の地質学は「土壌生成のメカニズム」を理解するために設けられていたのです.ストックブリッジの専門といえるのは実は化学であり,したがって,この「地質学」のメイン・パートは「岩石の風化から始まる土壌形成」だったと思われます.しかし,ストックブリッジの「博物学的知識」は相当なものだったようで,着任早々の夏休みに四年生を連れて「地質実習旅行」に出かけています.行く先はポロナイまで.幌内付近の地質現象の観察のみならず,多数の動植物の標本も収集したようです.ストックブリッジの先代にあたるペンハロー(David P. Penhallow)も同様の学問を修めた人でした.
 これはマサチューセッツ農科大学出身者の共通の性格のようで,極端な専門家を目指しているというよりは,広く一般教養を身につけているのを理想としているようです.
 思い出してください.
 遠く日本の,そのまた辺境の蝦夷地までやってきて札幌農学校の精神的基礎を作ったクラーク博士(Dr. William S. Clark)は現職のマサチューセッツ農科大学の学長でした.クラーク博士はドイツのゲッチンゲン大学で地質学を学び,隕石の研究で学位を取ったとされています.その上で植物学を志し,そして農業の専門家でもありました.
 なんで,こんなに強調するかはあとでわかります.

 蛇足しておきます.
 石川貞治は札幌農学校本科に入る前は,予科(予備科と表現される場合もある)で学んだ可能性があります.学生の数が少ない場合は外部から募集していますが,原則予科から本科に入るのが普通とされているからです.ところが,予科の学生のレベルが低く,本科に進級できる学生は非常に少なかったといわれています.たとえば,1881(明治14)年までは修業年限が三年だったのに,あまりに進学率が悪いため修業年限が四年に延長されています.
 こういう事実を考慮すると,石川が予科出身だったことは考えにくいのですが….え?,何にこだわっているのかって,ですか?.
 札幌農学校予科では,当初は「読み書き算盤」的な基礎的教科ばかりだったのですが,明治14年から予科第一級で,後期に「地文学」が授業科目として取り入れられました(後期ですから,実際に行われたとすれば,明治15年の1月からになります).「地文学」とは聞きなれない学問ですが,現代の高校地学に博物学的植物学・動物学を含めたものと考えるといいでしょうか.そうすると,基礎レベルの博物学的地質学は,ここで学んでいることになります.
 悲しいかな,実際に行われた授業時間割や担当教官の名は示されていないので,最悪の場合は本当に授業があったのかなんてことまで,疑おうと思えば疑えますが,行われたという前提で進めることにしましょう.そうすると,石川が受けたであろう1884(明治17)年の入学試験では,当然「地文学≒博物学」的知識が要求されていたと考えられます.したがって,石川にはすでに,相当の素養があったと考えられるわけです.

●その後
 石川貞治は1888(明治21)年6月に札幌農学校農学科を卒業したことはわかりましたが,また悲しいかな,この次期の卒業生そのものの情報は「北大百年史」には示されていず,卒業後どうなったかはわかりません.
 これで終わり? いいえ,そうではありません.
 翌1889(明治22)年,現在でも発刊され続けている「地学雑誌」が創刊され,その第一集(現代的には第一巻のこと)に石川が華々しくデビューします.そのときの肩書きは「北海道庁地質調査員」でした.

 さて,石川がどのような「地質学」を行っていたかをこれから紹介してゆきたいと思いますが,その前にもう一人の人物をさぐってみます.その人は石川の一年後輩にあたる横山壮次郎です.

石川貞治・横山壮次郎の地質学(1)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

はじめに

 ここ何ヶ月か「札幌農学校の地質学」についてまとめようと努力してきました.一つにはまとまりそうもないことと,「開拓使仮学校の地質学」,「地質測量生徒の地質学」が分けられそうなので,先にまとめておきました.これはすでに公開してますね.
 で,引き続き,「札幌農学校の地質学」について資料を読み込んでいたんですが,これは,なかなか困難な作業であることがわかりました.

 原因は,「北大百年史」です.

 「北大百年史」には,「通説」もあるし「史料」もあるので,読めばわかると思っていたのですが,なかなか.
 「史料」は不完全であるとしか言いようがありません.例えば,最初のころは入学生や卒業生は総数や個人の名前も示されていますが,後に行くほど不完全になり,名前どころか,卒業生徒数や入学生徒数すら記述されていないことが多くなります(初期の札幌の農学校は四年に一度程度,新入生募集が停止されていますので,注意していないと年代をまちがえることがあります).
 実際に行われた授業についても,初期はともかく後期になればなるほど,時間割や授業担当者の名前も記述されないことが多くなります.また,示されている限りのことをピックアップしても,「史料」に示されていること,「通説」で解説されていること,あるいは各論=「北大100年の諸問題」などで示されていること,その「付表」で示されていることなど,矛盾することも少なくありません.
 考えにくいことですが,「史料」以外になにか別の史料があるのかもしれません.が,それらは示されていません.「史料」に何かのバイアスがかかっているのだとしたら,何のための史料なのかな? と思わせますが,何か,わかられてしまっては困ることもあるのかもしれませんね.

 正直なところ,札幌農学校史を何か一つのテーマで通してみるなんてことは,手のつけようがないと感じているのですが,そこはそれ,もう少し頑張ってみることとして,一つの話題を先にまとめておこうと思います.
 それは,札幌農学校を卒業して,現場の技術者として北海道庁に入り,のちに札幌農学校で教鞭を執るようになった人たちのことです.

2008年11月1日土曜日

白野夏雲

 
 白野夏雲の名を私に教えてくれたのは,ある友人です.レゴ人形を巧みにつかって地質学の普及をしている人です.

 話の発端は,ライマンの開拓峠越えの件で"chat"中のことです.
 「道北の自然を歩く」(北大図書刊行会)には「突哨山の石灰岩は、1873年にライマンが発見したと伝えられている」と書かれていますが,「旭川市史」には「白野夏雲が二十二年,…東鷹栖のトッショ(突哨)山,俗にいう石灰山を発見…」と書かれていることを指摘してくれたのです.

 彼女の指摘は正しく,1873年のライマン調査隊は道南部しか調査していません.北海道における第一回目の調査でした.翌年は,石狩川を遡って上川盆地を通過し,開拓峠を越して十勝平野にでる大調査旅行を敢行しますが,上川盆地では「『チユーベツ』の小石は、全く熱変石と火山石との二種より成りしものの如く、石炭 石灰石及び『セルペンタイン』等は、片塊だもあることなし。且、露営を占めたる河岸の小石も亦同質なり。」と記しています.
 ライマンは突哨山の石灰岩は見ていないのですね.石狩川を遡ると,比布川との合流点付近を通ると,突哨山の露頭はよく見えるのですがね.ちなみに,アイヌの昔話では,ここに「アフン・ル・ハル(あの世への入り口)」があったとされており,鍾乳洞の開口部があったことが想像されます.鍾乳洞自体は昭和前〜中期の採掘ですでに無くなっています.

 さて,私の調査行(古書・文献漁り)でも白野夏雲の名前は何回か出てきているはずですが,迂闊なことに,これまでは全く白野夏雲に興味を持っていませんでした.すでに持っていた佐藤博之(1983)「先人を偲ぶ(1)」(地質ニュース)には,白野夏雲のとんでもない人生の一部が記されていました.


 友人に教えてもらった白野仁(1984)「白野夏雲」(北海道出版企画センター)はすでに絶版状態にあるので,古書店からようやく入手.厚さ3cmもある大著でした.
 しかし,読んで見ると悲しいかな,夏雲のことは良く分かりませんでした.
 著者は,北海道放送株式会社の社員で,報道を専門にしていたそうです.本人は夏雲の曾孫にあたります.伝記というのは身内が書くと,どうも判りづらくなる傾向があるようですね.著者が伝記の主人公をあまりにも好きな場合も同様のことが起ります.
 前者の場合は,読者にとっては判らないことでも,身内にとって当たり前のことなら省略されてしまって,読者は良く判らないまま読み進めなければならなくなり,途中で興味を失ってしまうということがよくあります.
 後者の場合は,「贔屓の引きたおし」みたいなことが起きて,記述が不正確になることがあるわけです.どちらの場合も,不要なことまで書き込みすぎて,読者には「なんだか良く判らん」となってしまいます.

 夏雲は若い頃から石好きだったという記述が後半になってから出てきますが,「生い立ち」の所ではそんなエピソードは一つも出てきません.「本草学」を誰かに習ったなどという話も….
 また,途中から「地質学」・「鉱物学」の先駆者だということになってしまいますが,そういうエピソードもどこにもありません.

 強いていえば,夏雲が集めた岩石鉱物の類を息子(次男)の己巳郎がまとめて「金石小解」として出版しますが,どうもこれをもって地質学・鉱物学に詳しいということにしているようですね.
 この「金石小解」は一般の図書館ではダナ氏の「マニユル・ヲブ・ミネラロジー」の訳本だということになっている場合が多いようです.幸い,国立国会図書館のデジタル・ライブラリーで公開されているので,明治12年版,明治15年版および明治17年版を見ることができます.
 読んで見ると判りますが,これはそんなものではありません.夏雲が収集していた2〜3千余の標本のうち,息子の己巳郎が鑑定し,典型的と思われるものを選んで,その説明をダナ氏のマニュアル・オブ・ミネラロジーから和訳してつけたというしろもんです.
 標本ではなく名前だけを抽出したもので,本文では夏雲の標本と対照すらしてませんから,実際には夏雲の標本は存在していなくてもよかったわけです.勿論,背景には夏雲が収集した標本がありますから,少なくとも「日本で産出した」岩石・鉱物を抽出しているということにはなります.

 具体的にあるのは,名前と短い解説だけ.いってみれば,平賀國倫源内の「物類品隲」にそっくりです.「物類品隲」には産地が書いてあるからまだいいので,「金石小解」は辞典ないしは単語帳といったところです.
 要するに,江戸時代の「本草学」から,一歩も出ていないわけです.
 夏雲自身はこれを良く判っていたと見え,明治17年版「金石小解」では,大幅に改定を加え,中身を教科書風に整えています.

 「白野夏雲」の著者・白野仁は,夏雲がつかった(標本の単なる集合名である)「金石」という言葉を曲解して,「金石学」とし,この「金石小解」を金石学の教科書であるかのように扱いました.そうすると(仁の説明によると)「簡単にいえば,金属器や石器に刻まれた文字を研究する学問だが,当時は,今の鉱物学も含まれ金属鉱石学といった幅広い分野にわたっていた」となり,夏雲=鉱物学者あるいは地質学者になってしまったわけです.
 仁には,本草学と近代(-現代)鉱物学・地質学・鉱床学などの区別はついてませんので,意図的なのではなく,単なる勘違いなのかも知れません.

 それにしても,当時の地質調査所の展示室は夏雲の集めた標本がほとんどだった(佐藤博之,1983)というから,優秀な本草学者であったことは間違いないようです.


 え〜.ずいぶん,文句を付けてしまいましたが,知りたいことのいくつかは,見つけることができました.
 確かに,「此石灰石は北海道石狩国上川郡忠別村字突所に於て,明治22年,予の発見する所なり」と「発見人,白野夏雲記す」とあります.翌23年9月には,「払下げ願い」をしたその書類が白野家には残っているそうです.なお,白野仁著「白野夏雲」には「明治32年」と一部誤植がありますので,注意してください.
 なお,この「払下げ願い」の書類は,昭和12年に旭川中学(現在の旭川東高)教諭の村上久吉氏が「高畑家」資料から発見したものなんだそうです.「高畑家資料」というのは説明がありませんが,多分,高畑利宜のことだと思います. 

 なお,某友人は突哨山の露頭前に立ち,“どうしてこんな歴史的なことが放置されているのだろう”,“せめて看板でも立ててあればよいのに”と,思ったそうです.旭川市は自然科学を含めて,文化・歴史的なものの扱いには首を傾げることが多く,私は何も感じませんでしたが….
 そういえば,某学校の先生が,この露頭で化石の様なものを発見して旭川の博物館に寄贈したが何の音沙汰もないと言っていたのを思い出しました.

 もう一つ付け加えておきましょう.
 うちの近所の嵐山には「近文山国見の碑」というのがあります.これは,明治18年8月27日に岩村通俊・永山武四郎らが石狩川上流の調査にやってきて,近文山に登り上川盆地を見渡して,“札幌以北の置くべき都はここ”ということで開発を決意したと伝えられています.翌19年に部下に命じて「国見の碑」をつくらせ,近文山に設置したのでした.この部下というのが,白野夏雲その人でした.

 私が,生まれ故郷の旭川に戻って暫くしてから,体力をつけるためと付近の旧跡調べのために,マウンテンバイクでこのあたりを走りました.その時,この国見の碑までいったのですが,現地で物凄い違和感を覚えたのを覚えています.その時はなんだか判らなかったのですが,今は良く判ります.
 くだらないことですが,「国見の碑」からは,上川盆地は見えないのです.
 その時は,碑の周りに林が茂っているので見えないのだろうと漠然と思っていましたが,地形図を見ると嵐山展望台からつづく尾根が邪魔をして上川盆地方面は見えません.その尾根は「国見の碑」よりも高いのです.そこから見えるのは,かろうじて南側のみ.東海大学・旭川校の下流側,神居町忠和と呼ばれるごく狭い範囲だけ.なにか,間違いが忍び込んでいるのでしょうね.


 さて,波瀾万丈の人生を送った白野夏雲ですが,複雑すぎて私にはまとめられませんので省略します.1890(明治23)年,その時勤めていた北海道庁を辞め,札幌神社の宮司になります.札幌神社とは現在の北海道神宮のことです.開拓使で物産調査をやり,地質調査所でも土石類調査をやり,道庁でも技術者として働いていた.それが故に地質学・鉱物学の専門家と勘違いされた白野夏雲が,…です.
 現代的な感覚では,なぜ科学者が宗教に…?と,疑問に思うことでしょう.
 私もそう思っていました.

 それは,森本貞子の二冊の小説を読んでいるうちに理解できました.二冊の小説には共通の人物=森有礼が出てきます.森は,軽薄この上ない人物で,アメリカ留学中は男女平等に目覚め,帰国してしばらくはその政策を推し進めますが,日本で暮らすうちに女性は良妻賢母=軍国の母でなければならないと考えるようになります.
 時代もそうで,幕末から明治維新にかけて,日本国民は欧米の文化に憧れますが,明治二十年代に入ると,逆に欧米を敵視するようになってゆきます.江戸時代まで,住民は宗門改で,みなお寺に人別帳がありました.つまりお寺が住民を管理していたわけですが,1873(明治6)年に廃止され,廃仏毀釈が始まります.逆に勢力を強めていったのが,明治政府が神社神道と皇室神道を結びつけて創造した国家神道でした.

 白野夏雲は,自分の能力の限界に気づいていたのでしょう.資源開発は,本草学ではもう無理で,近代地質学が必要なことを.そして,彼が国に尽くす方法は,科学ではなく,宗教なのだと考えたのでしょう.
 

2008年10月31日金曜日

地質測量生徒の地質学(その5)

====1876(明治9)年====

 前述したように,1876(明治9)年2月,ライマンは内務省勧業寮と契約を交わし内務省へ移籍となります.また,前年12月に出された「当使生徒稲垣徹之進外十人勧業寮へ御借用之儀」にしたがい,明治9年1月17日付で回答があり,測量生徒は内務省勧業寮へ貸出されることになりました.有り体に言えば,弟子たちも救出できたことになります.但し,地質測量の残務整理があるので,しばらくの間,開拓使内でそれを続ける事になります.
 しかし,秋山だけは移籍を拒まれます.明治政府の要人まで動かして,秋山を救出できたのは,5月の中頃までかかりました.

 1876年5月10日,「日本蝦夷地質要略之図」発行.
 1876(明治9)年5月25日付で,地質測量生徒十名(稲垣徹之進・桑田知明・三沢思襄・高橋譲三・坂市太郎・賀田貞一・山際永吾・前田精明・西山正吾・島田純一)のほか,雇の安達仁造(足立仁造)が「内務省勧業寮」へ引き渡されました.

 以後,ライマンの弟子たちは,開拓使及び札幌農学校とは縁が切れます.もっとも,ライマンの地質調査の補助に出て以来,休学状態で実質的に農学校とは縁はありませんでした.
 農学校から借り出していた地質・鉱山関係の図書は,彼等が配置換えになった関係で,その貸出延長願いが出されています.
 拝借書籍のうち,地質学に関連するものを記しておきます.

 ライエル氏著,「地質書」(第15号の5)
 タナ氏著,「地質書」(第28号の2)
 ジユケス氏著,「地質書」(第23号)

 後日譚として,内務省に転じてからは蝦夷地の地質報告をまとめるとともに,本州の油田開発に取り組みます.明治9年9月17日には「北海道地質総論」を提出.明治10年から油田の報文が出始めます.
 明治11年には「地質学社」を結成.研究会を開き,翌,明治12年からは「地学雑誌」を発行,学習や研究成果の発表の場をつくります.「地学雑誌」は16号まで発行.明治12年に,ライマンが工部省を解雇されると,翌13年から,弟子たちは新しい職場を求めて各地に散っていきました.


この話,終わります.

地質測量生徒の地質学(その4)

====1875(明治8)年====

 1875(明治8)年4月17日,「北海道山越内石油地方略測報文」提出.
 4月26日,「北海道泉沢石油地方略測報文」提出.
 4月29日,「鷲ノ木石油地方略測報文」提出.
 5月4日,「地質測量報文竝殆ど成功せる製図の概略」提出.

 5/4付け「地質測量報文竝殆ど成功せる製図の概略」には,進行中の調査の概略およびその報告書について述べるとともに,補助手たちの技量についての評価が書かれています.
 それは「実に日本の補助手は,亞細亞洲中に於て,始て地質学を現地に学ぶの徒なり.然るに,其業を為すや,既に如此の成績あり.数年を出ずして,業成り,外邦人の助けなきも,能く満足なる地質測量を為すに至るヿ必せり.」であり,そしてそれは事実でした.

・1875(明治8)年5月6日,「測量生徒の奉職義務年限に北地調査期間算入の件」提出

 開拓使仮学校の生徒には,卒業後は北海道で開拓に従事することが義務づけられていました.官費生徒は10年,私費生徒は5年です.ライマンは地質測量生徒はすでに北海道のために働いているのだから,その期間は奉職義務の期間に算入すべきだと主張しているのです.もっともな話ですが,これには裏があります.詳しくは副見恭子(1997)「ライマン雑記(13)」を参照ください.ライマンと開拓使の関係はどんどん悪化しつつあったのです.

 また,同年5月10には,モンロー名で「北海道金田地方報文」が提出されました.これには,利別・久遠・江差・松前・武佐・十勝の砂金鉱床についての報告があり,末尾にはこれまでの調査に従事したメンバーの名前を記して賞讃しています.

  6月15日,ライマンは10名の補助手(稲垣・賀田・桑田・島田・杉浦・西山・坂・前田・山際・三沢)を率いて東京を発しました.途中、塩釜付近の地質調査(概査)をおこなったといわれています.6月20日に函館に着き,22日には補助手の一隊(稲垣・賀田・桑田・島田・西山・坂・前田・山際:八名)を,札幌に先行させます.
 翌,6月23日、ほかの一隊(杉浦・三沢・西村会計官・足立写字生)を従えて出発.茅沼経由で,7月5日に札幌着.

 75調査隊には,ライマンが右腕と頼むコーディネーター・秋山美丸の姿がありません.秋山は前年の“開拓峠”越えで,それこそ寝食を共にした部下であり,友でした.地質測量生徒でもないのに「日本蝦夷地質要略之図」に「地質補助」として秋山の名が山内の次に記されていることからも,ライマンの彼への信頼度がわかります.その秋山が,1875年初冬,突然ライマンの担当をはずされ,物産局へ転任させられます.その他いろいろ奇妙な出来事が頻発し,ライマンは3月27日,開拓使に辞表を提出しています.公式に知られているライマン調査隊の成果の背後には,うごめく何かがあったようです.
 また,学生たちのリーダー的存在であった山内徳三郎も1875(明治8)年3月,開拓使に辞表を提出しています.理由は持病の眼疾.4月には辞表を撤回したようですが,翌5月には開拓使を免職になっています.実際に何があったのかは判りませんが,結果は良い方へ向かいます.
 山内は7月に内務省勧業寮に奉職.そこには大鳥圭介がいました.山内は,9月には大鳥圭介とともに濃越地方の石油調査に.眼病で職を辞したにしては,大変な活躍です.そして,翌1876(明治9)年2月,開拓使内で四面楚歌状態にあったライマンは内務省勧業寮と二年契約を交わし,本州での石油調査が始まります.山内が大鳥にライマンのおかれた立場を話したに違いありません.ライマンは救出され,結局,弟子たちも開拓使から引き抜くことになります.そして,1877(明治10)年1月には大鳥とともに工部省へ移ることになります.
 秋山美丸はどうなったか.詳しくは,副見恭子(1997)「ライマン雑記(13)」を参照ください.

 話を戻します.
 75調査隊には,新しい二人のメンバーの名前が見えます.
 一人,西山会計官は,秋山の代わりでしょうけど,この人については全く判りません.もう一人,「足立写字生」とされている人物,彼については今津健治(1979)が記しています.「安達仁造」,「出雲国母里藩士族.嘉永六年十二月,母里に生まれる.父は松江藩医.明治三〜四年のころ東京に出て,学僕となり,洋行を企てたがならず.開拓使外人教師館のボーイとなる.明治六年ライマンの北海道地質調査旅行に随行.」
 つまり,安達はライマンの最初の調査旅行に同行していたことになります.副見(1999)によれば,1873(明治6)年2月付けの,ライマンからライマンの父への手紙に安達の名前がでているそうです.仮学校生徒になれた者,地質測量生徒に選ばれた者などは非常な幸運に恵まれており,安達のように学問を志すも,その機会に恵まれなかった少年たちは一体どのくらいいたのでしょう.
 副見によれば,安達が最初に書記として調査旅行に参加したのは第三回目となっています.今津の記載とは矛盾しますが,明治6年の調査行には,ライマンの私的な使用人・世話係として随行し,明治8年には開拓使の雇い人として随行したのだとすれば,矛盾はないことになります.
 以後,ライマンの全国油田調査に随行し,7年間ライマンの家に住み込んでいたそうです.副見は,安達は「師弟関係というより,主従関係であったのではないかと思う」としています.


 すでに,7月.ライマン調査隊の足取りは重かったようです.
 1875(明治8)年7月17日,「幕別炭山地質測量報文」提出.
 7月20日,平岸村の沼鉄鉱,巡検.
 7月23日,補助手の一隊(賀田・桑田・西山・前田・三沢)は美唄-空知間の測量へ.昨年の続きの測量でした.彼等は,奈井江地域まで足を伸ばし,各地において良炭層を発見しました.巨大な石狩炭田の実態が,初めて明らかにされたのでした.

 一方,ライマンは別の一隊(稲垣・島田・杉浦・坂・山際)を率いて,幌内鉄道の測量に.路線選択のため幌内太-幌内間および美唄太-幌内間の地形を踏査の上,8月16日から幌内より鉄道予定路の測量を開始.“ライマン部隊”は,なぜか地質調査もせずに,路線測量のみをおこなっています.鉄道路線測量だけなら,測量の専門家がいるはずですが….

 9月19日,幌内太の終点に達する.
 9月20日,石狩に下り,オヤフル・ウソナイ,バンナグロの鉄鉱を見て,札幌に帰る.
 函館をでて,帰京したのは10月4日でした.

(その5)につづく

地質測量生徒の地質学(その3)

====1874(明治7)年====

 森本貞子の小説によれば,1874(明治7)年正月,「浜御殿内延遼館において,開拓使主催の盛大な宴席が開催」されます.この春から始まるライマンの本格的な地質調査に向けて,慰労と奨励の宴会だったそうです.開拓使の主立った面々,お雇い外人,地質測量生徒のほかに,ホステス役として開拓使仮学校・女学校から10名の女生徒が同席していました.
 この時,ライマンはひとりの女子生徒に一目惚れし,求婚を決意します.これが後に大変な事件を引き起こすのですが,この話は機会があれば別稿で.


 1874(明治7)年には,三沢思襄を除く六名の「地質測量生徒」に,新たに仮学校から前田精明・島田純一・山際永吾・西山正吾の四名が加わり,調査が再開されることになります(蛇足しておけば,山際永吾の身元引き受け人は「榎本武与」で,その在所は「榎本武揚邸内」になっています).
 三沢は体調を崩し,調査隊から外れることになったのでした.この時のライマンの三沢への思いやり,黒田清隆-大鳥圭介が絡んだ一つのドラマは,副見(1996)「ライマン雑記(12)」に詳しいので,ご参照ください.

 明治7年に,新たに加わった四名の名は,すでに「明治六年四月改正仮学校生徒表」に載っています.したがって,七名の「地質測量生徒」がライマンによる実地教育を受けている間に,四名は「(新)仮学校」で,さらに一年間授業を受けていたことになります.前述したように,「(新)仮学校」のカリキュラムは残されていませんし,これを受け持った教師の名も残されていないので,概要すらうかがい知ることはできません.
 しかし,「(旧)仮学校」時代に設定された「普通学第二」と同様の授業を受けていたとすれば「測量術」・「鉱山学」のほか「本草学(博物学)」の授業を受けていた可能性もあることになります.また,1873(明治6)年2月7日付けで,“アンチセルを仮学校専任にする”という報告書(北大・北方資料データベース)が存在するというので,これらに関係する授業をアンチセルが受け持っていた可能性があります.
 ところで,1873(明治6)年12月24日に「大試験」というイベントを行った記録があります.これは成績優秀者を表彰する儀式らしいです.困ったことに,その科目には「綴字」・「作文」・「筆跡」・「訳」・「論理」・「数学」・「漢学」という基礎科目しかなく,数学には西山正吾が,漢学には嶋田純一の名があります.つまり,すくなくとも明治6年の前期には,基礎科目しかおこなわれていなかった可能性が高いということになります.改正仮学校では「普通科第一」の授業からやり直したのでしょう.

 1874(明治7)年5月18日,十名の学生はライマンに率いられて東京を発し,20日に函館に着きました.同月24日,補助手たちは札幌へ向います.ライマンは遅れて26日に出発し,札幌着は6月4日になりました.
 ライマンの記述にはありませんが,1875年に提出されたモンロー名の「北海道金田地方報文」には,この年のメンバーには上記のほか,事務官として町田実鞆,訳官兼補助手として中野外志男そして図引方として久保田実房の名が挙がっています.この三人がどういう人物であったかの記録は全くありません.
 なお,東京出発が5/18と妙に遅いのは,新しく加わった補助手たちの教育の為と,前年の教訓で,北海道は雪解けが遅く,雪解け時には洪水を伴うことが判っていたからだと思われます.現在でも,本州のフィールドシーズンは春と秋が中心なのにもかかわらず,北海道では夏草が生い茂ったとしても,夏がフィールドシーズンです.

 ライマンの記録によれば,6月11日,補助手たちはライマンから詳細な指示を受け「石狩煤田」(正確には「幌内炭山」)に向います.ライマンは17日,事務官・秋山美丸,通訳・佐藤秀顕のほか,使用人二人,船員,日本人およびアイヌ人の人夫多勢を従え,石狩川遡行の調査行にでます.24日,幌内に着き,先発した“石狩煤田”調査隊の報告を受け,また,彼等に今後についての指示を出します.ライマン隊はさらに,石狩川の遡行を続け,多くの支流において,石炭の転石を確認します.これらをまとめて,見取り図をつくり,詳細な指導書とともに,使いを派遣して“石狩煤田”調査隊に送付します.以後,ライマンは石狩川をさかのぼり,開拓峠を越えて十勝平野に出,北海道一周の旅にかかります….
 しかし,前述したように,残念なことに,ライマンの行動は比較的詳しく残されているものの,補助手たちの行動はほとんどわかりません.

 今津健治(1979)は山内徳三郎が残した「ベンジャミン・スミス・ライマン氏小伝」を採録し,ライマンや弟子たちの行動を追っています.それによれば,明治7年には…,
「此の年,助手モンロー氏に属せしめたる補助手の一隊〔稲垣・島田・杉浦・前田・斎藤〕は「一ノ渡砂金地」を測量し,広尾および歴舟地方の砂金地,幕別炭山の測量をなし,他の一隊〔山内・賀田・桑田・西山・坂・山際〕は幌内炭山,幌内~石狩川間,および幌内~空知川間の連絡路測量に従事せり.」とあります.

 モンローを長とする調査部隊を仮に“79モンロー部隊”と呼んでおきます.
 “79モンロー部隊”のメンバーは経験者である稲垣のほかは,すべて今年補助手として加わった者たちです.一方,もう一隊は(これも仮に“79山内部隊”と呼んでおきます)すでに昨年の経験があるとはいえ,いわゆる補助手だけで構成する部隊です.
 私達の時代でも,三年目に修業論文という実習をおこなったあと,四年目には単独で卒業研究に入りました.しかし,私達の時代の卒業論文は,結果は自分にしか帰ってきませんでしたが,彼等の結果は北海道のみならず,日本の将来がかかっていたのですから,どんなにかプレッシャーがかかっていたでしょう.

 この年,ライマン一行が帰京したのは,10月27日でした.

(その4)につづく

地質測量生徒の地質学(その2)

====1873(明治6)年====

「地質測量生徒」
 1873(明治06)年03月,仮学校生徒から,ライマンの地質調査の補助手として七名の学生が選ばれました.直後に一名が入れ替わりましたが,ライマンとともに半年程,北海道各地を調査したわけです.翌,1874(明治7)年には,体調を崩した一人を除く六名に,新しく仮学校生徒から選ばれた四人が加わり計十名が地質測量を続けました.
 彼らを「地質測量生徒」とよんでいます.

 1873(明治6)年3月8日,「今般ライマン氏其外北海道地質検査随行申付候事」という辞令が出されています.辞令の対象は記録によれば,開拓使仮学校の生徒から選ばれた岩下周助・稲垣徹之進・坂市太郎・賀田貞一・桑田知明・三沢思襄・斎藤武治の七名です.岩下は,3月22日に随行を免ぜられ,代わって4月14日になって高橋譲三が命ぜられています.

 時期的に見ると,七名は“最初の仮学校”の生徒にあたり,七名の辞令が発行された直後に「(旧)仮学校」は閉校になり,学生はすべて退学処分となっています.さらに「(新)仮学校」が再開される前に,退学処分になっているはずの高橋譲三が辞令を受けたことになります.つまり,「閉校」-「退学処分」は名目上のことで,「地質測量生徒」を含む複数の生徒については,「(新)仮学校」に復学することが周知になっていたのでしょう.なお,同様の処置を受けた「電信生徒」とよばれるグループもいますが,本稿には無関係なので省略します.

 この七名は,「仮学校・普通科第一」の授業しか受けておらず,専門的な知識・技術は持っていませんでした.そこで,ライマンは彼らに速成教育を施したとされています.
 ライマンの“速成教育”とよばれるものの具体的な記録は見あたりません.副見(1996)では「初歩の測量・地質・鉱物学」とあります.妥当なところだろうと思われます.また,北大百年史では「図学・野外修業・数学・吹管用法など,測量・分析に関する基礎的教育」がおこなわれたとあります.
 ライマンの来日は1月18日.三ヶ月後には蝦夷地へ旅立ちました.出発は,4月18日とも19日ともいわれています.したがって,“速成教育”に使われた期間は最長でも三ヶ月.辞令発行後からであるとするとわずか40日となります.高橋譲三については,出発まで一週間もない時期に辞令が出されたので、多分まともな教育はなされなかったでしょう.したがって,彼らについてなされた教育の中心は,蝦夷地での実地教育というのが事実なのでしょう.我々の時代でも,座学よりも巡検や実習で学んだことの方がはるかに多く,異論はありません.
 そして,彼らのツアーが始まりました.

 1873(明治6)年4月21日,函館に到着.
 4月下旬,一行は札幌に到着.東京での指令通り,当初は石狩川遡行を予定していました.しかし,雪解けによる増水のため,先に道南部の調査に向います.ライマンは茅ノ澗煤田(「茅沼炭山」という名の方が現代的)を調査・測量すると同時に補助手たち(地質測量生徒+αのこと)に「初歩の測量技術・地質学・鉱物学」の速成教授をおこないます.「教師の職業をきらって,地質技師になったライマンは,初めて教える喜びを味わった」(副見,1996).
 「地質測量生徒+α」の「α」とは,開拓使から派遣された,事務官・通訳のことで,彼等のうちある者は,積極的にライマンの「地質学・鉱山学」を学びライマンと行動を共にしてゆきますが,ある者は,通訳であるとともに“本草”収集(おもに植物標本を集めたらしい)を業務としていたらしく,ライマンの指示に従わないこともあり,結局ライマンの不興を買い,ライマンと開拓使のトラブルの一つとなります.

 茅ノ澗煤田調査(補助手たちにとっては「実習」でもあります)ののち,ライマンは補助手たちを二つに分けます.一つはモンローを部隊長とする六名で,仮にこれを“モンロー部隊”と呼んでおきます.“モンロー部隊”は,ライマンによれば「佐藤・稲垣・三沢・賀田・坂」となっています.「佐藤」を除く四名はいずれも「地質測量生徒」ですが,「佐藤」は名前が明記されていません.モンローの「北海道金田地方報文」には,地質測量生徒四名の名のほかに,事務官の伊地知李雅,訳官兼補助手として佐藤秀顕の名が揚げられています.したがって,「佐藤」は「佐藤秀顕」となります.
 後に,佐藤はライマンから不興を買い,ライマンからモンローに着くように命じられますが,佐藤は“元々ライマン付けの通訳として開拓使からつけられた”という命令書をもってライマンの元に帰ります.しかし,前記の事実から,当初は“モンロー部隊”についていたわけで,しかもモンローは佐藤を訳官兼補助手と認識しており,のちの開拓使の言い分とは矛盾があります.これでますますライマンは開拓使に疑問と不満を持つことになります.

 それはさておき,話を戻します.
 ライマンとは,ほとんど別行動をとった“モンロー部隊”の行動の詳細は不明です.しかし,ライマンの記述から,“モンロー部隊”の行動を再構成すると,全員で「茅沼炭山」の調査を行ったあと,「利別砂金鉱床」の精査をおこないます.ライマンが九月に「利別」に行ったときには,“モンロー部隊”は「久遠」・「江差」の砂金鉱床に移動していました.
 彼等はその後,「勇羅夫鉛鑛」=「遊楽部鉛鉱山」に移動し,雪が降ってライマンの撤退命令がでるまで,鉱山の精査をおこなっていました.

“モンロー隊”:H.S.モンロー・稲垣徹之進・三沢思襄・賀田貞一・坂市太郎(+佐藤秀顕・伊地知李雅)
・(茅沼炭山)>利別砂金鉱床>久遠・江差砂金鉱床>遊楽部鉛鉱山

 一方,ライマンは残りの補助手五名と積丹半島を巡検しながら札幌へ.
 この補助手五名の名は記載されていませんが,前記四名の「地質測量生徒」を除けば,それは「桑田知明・斎藤武治・高橋譲三」のほかに二名ということになります.その二名はたぶん,「山内徳三郎」と「秋山美丸」でしょう.
 この二人は,佐藤秀顕と同様に,開拓使からライマン付けにされた人物です.「山内徳三郎」は山内堤雲の弟で,開拓使・御用係(翻訳方)という肩書きでした.山内は医学・英語を修めた秀才でしたが,ここでもその能力を発揮し補助手たちのリーダーとなります.「秋山美丸」は事務官・会計官とかかれているのが普通です.彼は調査のコーディネーターとして抜群の能力を持ち,ライマンに愛された人でした.翌年のほぼ北海道一周の調査旅行のときもライマンに同行し,数々の困難を解決してゆきます.又,留萌付近では彼の過去の一部が判明します.秋山はこの地方の奉行だったといいます.ライマンは,このように土地の人に慕われる人物が,なぜその職を追われたのか不思議に思います.

 話を戻します.
 “モンロー部隊”と別れたライマン一行は,雷電付近の石膏産地,泊村付近の閃亜鉛鉱・方鉛鉱・黄銅鉱の鉱脈を巡検,さらに古平で転石で発見されたという石炭の由来を調査しました.約50日を費やし,札幌へ戻ります.いずれも経済価値のある鉱床ではありませんでしたが,学生たちには貴重な経験となったでしょう.

 札幌では調査結果のまとめと次の調査の準備に一週間かけ,幌向の煤田(幌内炭山)に向いました.猛スピードで測量をおこない,約一ヶ月後,札幌に戻りました.
 札幌から「山内氏其他當時我同行タリシ三員」の補助手を茅ノ澗炭山付近の補測に派遣し,ライマンはしばし補助手たちと別行動.「山内氏」とは「山内徳三郎」で,「同行タリシ三員」とは「桑田・斎藤・高橋」でしょう.
 この山内徳三郎以下三名のパーティを仮に“山内部隊”と呼びます.“山内部隊”は,もうすでに彼等だけで,独自の調査ができるようになっていたことになります.

 “山内部隊”はライマンが現れるまで,茅ノ澗煤田の補足測量を続けていました.ライマンは“山内部隊”の成果を確認すると,彼等とともに茅ノ澗煤田からの石炭積出港になる予定の「茶津内」・「渋井」の二つの港を略測します.その後,古平川を上流まで巡検し,反転して岩雄登へ.岩雄登では,ライマンの指導下,硫黄山を略測します.

 その後,“山内部隊”の補助手たちはライマンと別れて,「山越内」・「鷲ノ木」の石油産地の測量に向います.
 ライマンは秋山事務官を伴って,有珠・登別・樽前の硫黄鉱床の確認へ.ついでに幌別付近の新鉱産地を巡検し,室蘭の鷲別で発見されたという石炭を確認.その後,噴火湾沿いに訓縫を経て,“モンロー部隊”と合流する為に「利別砂金地」に向います.
 この時,モンロー隊は入れ違いで,すでに久遠の金鉱床調査に移動していました.ライマンは「利別砂金地」で独自に調査をおこなったあと,山越内に向いました.

 山越内には“山内部隊”の残した略図が残されていたので,産油地を観察して産出量を量り,同時に海浜の砂鉄も検分.次に,ライマンは遊楽部鉛山にゆき,“モンロー部隊”に精査についての細かい指示を残して,さらに鷲ノ木に向います.途中,いくつかの温泉地を巡視し,鷲ノ木では“山内部隊”の成果を見届けて「泉沢」で同様の調査をおこなうように指示しました.
 ライマンは鷲ノ木で石灰岩を確認後,噴火湾沿いの「褐炭」や「油徴地」,「温泉」や「硫黄」などを検分しました.そのあと,函館から津軽海峡の海岸部にでて,「硫黄」・「砂鉄」,「鉄鉱石」および「石灰岩」,「カオリン鉱床」・「温泉」などを巡視しています.
 その後,ライマンは西方に転じて,「泉沢油徴地」に向い,“山内部隊”の成果を点検し,茂辺地川の煉瓦窯と粘土鉱床を見て,富川の「リグナイト」さらに一ノ渡(市ノ渡)の鉛鉱山などを巡検しました.

 さらに,山内・高橋と共に鵞呂沢の巨大な石灰岩体(現在の峩朗鉱山のこと)を検分し,帰路,桑田・斎藤と合流しました.

“山内部隊”:山内徳三郎・桑田知明・斎藤武治・高橋譲三
・(茅沼炭山)>(札幌)>幌内炭山>堀株・茶津内・渋井>岩雄登>山越内・鷲ノ木>泉沢

 ライマンがすべての野外作業を終え,函館に戻ったのは11月1日.翌日は暴風が吹き,“モンロー部隊”が調査を進めている遊楽部鉛山は大雪になったので,“モンロー部隊”に帰還命令を出しました.“モンロー部隊”が函館に着いたのは7日のこと.翌日には,地質測量チームの慰労晩餐会が開かれたといいます.11月9日には函館付近も大雪となり,翌10日には江戸へ向けて,函館を出帆しています.

 ライマンは12月25日には,1973(明治6)年の事業報告を提出しています.
 翌,1874(明治7)年4月27日に,モンローの名で「煤炭分析報文」(北海道産石炭分析試験報告)がでます.このモンローの報告書は,「新撰北海道史第6巻」で見ることができますが,これはあくまで報告書形式なので,調査中の出来事などは知ることができません.
 それでも,1873(明治6)年11月24日付けの,「マンロー氏の測量補助手への化学教育並び鉱物分析のための化学器具、薬品入手要請」(ライマン発:北大・北方資料データーベース)という書類が残されていますので,東京では報告書をまとめる一方,補助手たちへの分析術等の教育がなされていたことは間違いないことでしょう.

(その3)につづく

地質測量生徒の地質学(その1)

 明治五年四月十五日(1872.05.21.)に開校された「開拓使仮学校」には,将来「鉱山科」が設置される予定でしたが,学校自体のシステムと学生の質が悪く,翌年3月14日*には,一時閉校**となります.
 その間,開拓使は北海道内の鉱物資源を開発するために,外国から地質・鉱山技術者を雇傭します.それが,B.S.ライマン(邊治文,士蔑治,來曼)でした.ライマンは,実際の彼の調査の助手として,また,彼がいなくなったあとも独自に調査を続ける事ができる人材の養成として,複数人の若者を要請します.
 ライマンの要請は,開拓使仮学校の方針と一致し,仮学校から複数人の学生が選出されます.これを歴史では「地質測量生徒」と呼んでいます.

*年月日の漢数字-アラビア数字の使い分けについて:明治五年十二月二日までは旧暦で,翌日は新暦:グレゴリオ暦に切り替えられたので明治6年1月1日となります.私の文章では旧暦は漢数字で新暦はアラビア数字で表しています.
**一次閉校:「開拓使仮学校の地質学」でも示したように,ライマンの来日に前後して仮学校閉鎖があります.開拓使では,質の悪い生徒を排除する為に,またそれに「キレ」てしまった黒田に配慮して,「閉校」したのでしょうけど,中でも優秀な生徒については,事前に「再募集」することを周知してあったもだと思われます.

 さて,これから「地質測量生徒の地質学」について追っていこうと思いますが,ライマンは細かい記録を残し,後のライマン研究者もライマンの行動を詳しく追っています(今ひとつ,決定版がないのが残念ですが).ところが,地質測量生徒の方はほとんど記録を残していず,彼等の行動を追った研究もほとんどありません.残念!.
 ライマンと行動をともにした時は,比較的情報が多いのに対し,そうでない時は,ほとんどわかりません.著しくバランスを欠いているのですが,そのつもりで….

 なお,原文中では,マンローを「助手」,地質測量生徒のことを「補助手」と呼んでいますが,「日本蝦夷地質要畧之図」ではライマンが「地質主任」で,マンロー以下は皆「地質補助」として扱われています.現実には,マンローは指導者の一人であり,この扱いに怒ったという話が伝わっています.マンローの名誉の為に,ライマンが「地質主任」ならば,マンローは「副主任」,地質測量生徒たちは「助手」と呼ぶべきですが,混乱を避ける為に,ここではマンローを「助手」,地質測量生徒たちを「補助手」と呼んで,区別だけしておくことにします.

(その2)に続く

2008年10月22日水曜日

ライマンの一目惚れ

 生涯を独身で通したライマン(邊治文,士蔑治,來曼:Benjamin Smith Lyman)ですが,たった一度だけ,ある日本女性を生涯の伴侶としようとした形跡があります.もちろん生涯独身を通したわけですから,ライマンの恋は実らなかったわけです.ただし,この件,あまりにも謎が多すぎます.謎が多いあまりに,少ない点と点をつなぐ線はいくらでも描くことができて,小説ネタになったりもしています.

 森本貞子は,二つの小説でライマンを単なる「エロ外人」として描きました(四十も近いのに,十八の乙女に恋するなんて).もっとも,二つの小説共に,ライマンは重要な役割を果たしていず,主人公である女性を魅力的に見せるための道具でしかないからです.ライマンに興味を持つ人には不愉快な解釈ですが,何かがあったらしいことが示され,その「あらすじ」にはなるようです.
 小説ではなく伝記から判断すると,ライマン自身はある種の「陰謀」があったと考えています.副見恭子はその陰謀の全貌をライマンの残した資料から明らかにしようとしていますが,成功していません.藤田文子は,その件は置いておいて,「正義派ライマン」として開拓使との確執を描き出そうとしています.

     

 関係者はまず,ライマンその人.そしてライマンが一目惚れした相手の「広瀬常」.恋敵といわれる「森有礼」.陰謀を働いたとされる開拓使女学校係の「福住三」.
 開拓使を統括する「黒田清隆」.開拓使に巣食う薩摩閥の面々.間でとばっちりを食う開拓使吏員の秋山美丸および通訳・佐藤秀顕.開拓使吏員でありながら蚊帳の外の元幕臣の技術者たち.

 実際に何があったのかは判りませんが,ライマンはその後,一生を独身で通しました.そして,福住は彼が管理していた「開拓使女学校」の女学生の二人と特殊な関係にあることが噂となります.開拓使はこの噂を否定しましたが,直後「女学校」は廃止に.
 広瀬常はライマンが北海道の調査を行っていて不在のうちに,森と婚約そして結婚.ところが,のちに離婚され,常は消息不明に.森家では,常のことは「タブー」となります.その後,森は再婚しますが,その相手は「岩倉具視」の娘でした.
 黒田清隆が統括していた開拓使も,(ライマンが指摘したように)膨大な予算を費やしたのにもかかわらず,見るべき成果もあげられず,薩摩閥の巣窟と見なされ,やがて廃止に追い込まれます.その時に,開拓使の官有物を薩摩出の資本家や薩摩閥の元開拓使吏員に払い下げるという事件を起こして,一次閑職へ.すぐに返り咲きますが….

 誰が儲けて,誰が損をしたか.誰が誇りを貫いて,誰が恥をかいたか.誰がいい目を見て,誰がつらい目にあったかを考えれば,どちらを支持すべきか答えは出ると思います.

 

2008年10月16日木曜日

開拓使仮学校の地質学

 明治の始め,北海道開拓の人材を育てるために,開拓使所管の学校開設が計画されました.札幌に開設する予定で,当初は東京・芝の増上寺を仮の施設としたため,これを「開拓使仮学校」とよんでいます.

 明治五年四月十五日(1872年05月21日)に開校.

 仮学校では「普通学」と「専門学」の二つを設置する予定でしたが,それはのちのこととして,当初は「普通学第一」および「普通学第二」がおかれました.名前は「普通学」ですが,要するに今日の「教養課程」,もしくは旧時代の「予科」に当たるものと考えるとよいでしょう.

 「普通学第一」では「英学(英語)・漢学・手習・画学(製図学)・日本地理・究理(物理)・歴史」など基礎科目を教え,進級して「普通学第二」になると,「舎密学(化学)・器械学(機械学)・測量術・本草学(博物学)・鉱山学・農学」を学ぶことになる予定でした.

 「普通学」を修了したものは,「専門学」に進級することになります.
 「専門学」は第一から第四に分かれ,「専門学第一」では「舎密学・器械学・画学」を,「専門学第二」では「鉱山学・地質学・画学」を,「専門学第三」では「建築学・測量学・画学」を,「専門学第四」では「舎密学・本草学・禽獣学・農学・画学」を教授する予定でした.それらは,順に「工業科」・「鉱山科」・「土木工学科」・「農学科」に当たるものと思われますが,詳細は不明です.いずれにしても,これらが実現することはなかったからです.

 初年度は,すべての学生は「普通科第一」に入れられ,「英仏学(英語・仏語)・算学(算数)・幾何学・高等数学・画学(製図学)・和読書・漢作文・和漢習字・和漢歴史」が教えられました.「英仏学」は正確に言うと,外国語で「英語」コースと「仏語」コースが設置されたもので,ほかの授業については同じだったようです.しかも,「仏語」コースは間もなく廃止されました.

 授業は始まったものの,学校組織としては計画不足・付焼き刃の評を免れず,そして募集した生徒のレベルは低かったのです.開校当初から順調にいったとはいえず,翌年3月14日には,仮学校は閉校,学生はすべて退学という事態に陥ります.なお,明治五年十二月二日(この日まで旧暦)の次の日は明治6年1月1日(新暦:グレゴリオ暦)に切り替えられているために,実質10ヶ月程度の教育期間でした.

 仮学校が再開されたのは,1873(明治6)年4月21日のこと.授業は翌日から行われました.
 再開後のカリキュラムは「今のところ見あたらない」(北大百年史・通説)とされています.しかし,授業そのものは,以前とそれほど変わらなかっただろうと思われます.器械学教師・ランドルフは生徒の学力の低さに不満を抱き,開拓使との間に軋轢を生じ,間もなく解雇されました.開拓使側でも公募生徒の質の低さに懲りたのか,「公募はおこなわれなくなったようである」と,あります.

 再開された仮学校では,専門科の開設準備を進める一方で,札幌移設の準備が進められました.
 1875(明治8)年7月,仮学校は「札幌学校」と改称し,8月には教職員生徒一同が札幌へ移動しました.札幌学校の開業式は9月7日.35名が晴れて札幌学校の生徒となりました.

 なお,札幌にはすでに「(旧)札幌学校」が存在していましたが,同校で英語を学んでいた生徒十数名が「(新)札幌学校」に転学し,「(旧)札幌学校」は「雨竜学校」と改称した上で授業内容は小学校程度に改められました.
 また,「女学校」および「アイヌ学校」が「仮学校」に併設されていましたが,本稿の目的ではないので,説明を省きます.どちらにしても,当初の目的は果たせず,ひとりの卒業生も出さずに閉校しています.

 通してみると,「開拓使仮学校」の時代には,専門科はまだ存在せず,「地質学(鉱山学も含めて)」の授業は行われていず,また,関連が深い「博物学(当時はまだ本草学の名が使われていました)」もおこなわれていなかった,というのが事実です.

 ところが,この仮学校の中から,二つの実技にたけたグループが旅立ちます.
 一つは,「電信生徒」と呼ばれており,もう一つは「ライマンの弟子」になる「地質測量生徒」です.

 「地質測量生徒」については,現在調査中ですので,別稿で.

 

2008年9月27日土曜日

「大千軒岳とキリシタン」より

橋本誠二著「あの頃の山登り」の中に,「蝦夷地質学・外伝」に若干関係ある記述があったので,紹介します.

「大千軒岳とキリシタン」より

 本文を引用すると長くなるので,抄訳.
 橋本氏は,大千軒岳金山の存在に,疑問を持っているようです.

 その理由は,次のようなものです.
 第一に記録に残っている砂金の大きさから,それは古生層中の石英脈に産を発していると推定しています.そうすると,砂鉱床の起源は第三系の基底=不整合面に濃集したものと考えることができます.これは,砂金が産出したといわれている地域が大千軒岳の山体の高高度の地域にあることと整合的です.
 次に,金山の発掘の様子を記録したキリシタン神父の記述からは,段丘堆積物ではなく,現河床堆積物を掘っていたらしいので,金鉱床が地表に現れてからさほど時間が経っていないと推測できます.
 そうすると,巨大な金鉱床というのは考え難く,記録にある程の大人数で長期間掘ったというのは,おかしいということになります.

 橋本氏は,当時の地質調査所のS博士の談を引用しています.
「まったく訳の判らぬ金山ですね.大体明治以降一粒の砂金も出ないのもいっそう不思議です」

(これは,正確ではなく,明治八年のH. S. モンローによる「北海道金田地方報文」によれば,「一粒の砂金」もでなかったのではなく,砂金は出るが,起業出来るほどではないという報告でした.)

 橋本氏は,この矛盾を説明するには,金は日高静内からもってきたもので,大千軒岳麓に住んでいたキリシタンたちは,海外との密貿易要員だったのではなかったのかと推理しています.
 江戸幕府のキリシタン弾圧の強化に耐えきれなくなった松前藩は,キリシタンの粛正に走り,106名を惨殺しました.が,おかしなことに,千軒もの小屋と五万人以上もいたというキリシタンのその後がどうなったのか,全く判りません.
 大金山は元々虚構だったのだと考えると,腑に落ちるという訳です.

 一考の余地はありそうです.

 

2008年9月26日金曜日

橋本誠二名誉教授

蝦夷地質学(後編)のワンピース

 ぼちぼちと,蝦夷地質学(後編)の資料を集めています.
 先日,橋本誠二教授のエッセイ集を入手しました.没後,登山仲間が残されていた原稿を整理したものだといいます.
 私は橋本誠二教授とは,ほとんど面識がないので,どういう人だったのかは,まったく知りません.当時の大学院生の評価は,どうもあまり芳しいものではなかったような気がします.わかっているのは,いくつか日高山脈関係の論文に名前があるのと,北大教養部の教授をしていたことぐらいです.
 舟橋三男先生との共著論文があるので,それを手配した所です(私には,岩石の論文は,ほとんどチンプンカンプンなのですが…(^^;).

 橋本誠二(2002)「あの頃の山登り=北海道の山と人=」(茗溪堂)

 ザッと目を通してみましたが,登山に関することばかりでした.たまに本業の「地質学」に関することが挟まっているという感じでしょうか.本人も,登山がしたいばかりに北大に入って,登山がしたいばかりに地質学を始めたというようなことを書いています.
 実は,湊正雄先生が若い頃に巻き込まれたという,「上ホロカメツトク山」での雪崩事件について,何か書いてないかというのが,入手の当初のきっかけでした.こちらは,数行書いてありましたが,参考になるようなものではありませんでした(別途,資料が身近な所にあることがわかったので,これから調べに行く予定).

 それでも,いくつか気になる記述があるので,読み込んでみようと思います.

橋本誠二
1918(大正7)年1月19日〜1995(平成7)年6月5日
札幌に生まれる.札幌第一中学校に入学,登山を始める.
1936(昭和11)年04月;北海道帝国大学予科入学.山岳部入部.
1941(昭和16)年12月;同大学理学部地質学鉱物学科卒業.日本山岳会入会.
1947(昭和22)年02月;同大学,予科教授.
1955(昭和30)年;日本山岳会,第三次マナスル登山隊,先遣隊
1957(昭和32)年 04月;北海道大学理学部教授
1960(昭和35)年;アラスカ,メンデンホール氷河調査隊
1974(昭和49)年;秩父宮記念学術賞受賞(ヒマラヤ山地の地質研究)
1981(昭和56)年04月;北海道大学名誉教授
1984(昭和59)年06月〜1990(平成2)年5月;日本山岳会北海道支部長
1991(平成3)年05月;勲二等瑞宝章授章
1992(平成4)年;日本山岳会名誉会員
1995(平成7)年06月05日:逝去

         「あの頃の山登り」奥付より

2008年9月20日土曜日

「石井次郎教授追悼論文集」より

 東海大教授だった石井次郎氏は,1992年3月に定年退職した.その直後の4月1日に,心不全で死去されている.
 一年後,たくさんの関係者が集まり,「石井次郎教授追悼論文集」を発行した.
 その論文集の第三部には,石井教授の「思い出」が多数寄稿されている.


 1970年代の終わりから,積極的にプレート・テクトニクスによる日高変成帯の研究を展開してきたM氏は,その思い出を語っている.
 M氏が,北大理学部地質学鉱物学教室で研究生活をやっていたころの話である.

 M氏は指導教官と折り合いがわるく,博士論文提出後もオーバー・ドクターとして長い間研究職に就けない時期があった.そんなM氏に石井教授は「くじけないで,頑張ってくれ」と常に温かい言葉をかけ続けたのだという.

 少し関係を整理しておこう.
 石井さんは東海大学海洋学部の教授で札幌校に勤務していた.M氏は北海道大学理学部地質学鉱物学教室に籍を置くOD.両者の関係は薄い.わずかなつながりは,石井さんが北大教養部の非常勤講師(地学I担当)を併任していたということだけである.

 M氏はその後,石井教授のすすめで,東海大の海洋調査船に乗り,重大な発見をすることになる.


 少し脇道にそれる.
 石井さんがM氏に向けた気持ちは特別なものではない.石井さんは常に,若い研究者に対して,温かい気持ちをもって接していた.「思い出」の中には,いくつかそれが示されている.

 A氏も,博士号取得後,何年も就職が決まらずに,所属先を失うという最悪の事態を迎えていた.石井さんは,それまで全く面識がないにも関わらず,苦境を説明するA氏に「それは大変だな.ここの研究生になるか.」の二言で,救ってくれたのだという.三年後,A氏はS大学に就職が決まる.A氏は石井研究室を「駆け込み寺」と呼んでいる.

 T氏は,期限内に博士論文を提出することができず,研究生としての受け入れ先も見つからないという危機的状況にあった.石井さんは,またしても,T氏を研究生として受け入れる.T氏は「なぜ私が東海大学の研究生にならねばならないのか,といったことを全く気にもかけておられないことに,正直言って驚いた.」と書いている.
 石井さんは,充分にわかっていたのだと思う.当時の北大の大学院生たちの状況を.そして,若き研究者達の将来を気に留めていたのだろう.
 T氏は,現在,T大学に奉職している.

 かくいう私も,石井さんのお世話になりかけたことがあった.
 研究材料が集まらないのに,時間だけが過ぎて行き,「このままでは…」という状況のときだった.石井さんが,海洋調査船で収集した粘土鉱物を集めたミリポアフィルターを提供してくださったのだ.もしかしたら,その中に私が研究していた「石灰質超微プランクトン」が混じっているかもしれない,というのだった.
 結果は,僅かに「石灰質超微プランクトン」の産出がが認められた.しかし,残念ながら,論文として成立するような産出量ではなかった.採集地がかなり北洋だったためである.石井さんは我が事のように残念がっていた.






石灰質超微化石Braarudosphaera bigelowiのコッコスフェア(これは石井資料産ではなく,瀬棚層産の化石)石井資料からは現生のB. bigelowiのコッコスフェアが産出した.


 その関係で,指導教官から「船に乗りますか?」と聞かれたが,「地質屋は地表を歩くもので,船に乗るものではない」などと私は考えていたので,この話は具体化はしなかった.
 今考えれば,あのとき石井さんのお世話になっていれば,今こんなヤクザなことはやっていなかったかもしれない((^^;).


 話をM氏に戻そう.
 M氏が,石井さんの態度を怪訝におもうのは当然である.
 石井さんは,舟橋三男・湊 正雄両先生を尊敬しており,この舟橋・湊両先生は,ともに「地向斜造山運動論」の旗手であったのだ.その石井さんが,プレート・テクトニクス論を展開しているM氏に親切な言葉をかける….

 「当時の北大地鉱教室には,戦後の地質学において一時代を画した舟橋・湊両先生などが活躍していた最後の頃でした.その頃,プレート・テクトニクスが急速に台頭してきましたが,断固として地向斜造山論の旗を守っていました.」(M氏の追悼文より)

 石井さんは,元々,物理学が専門で応用電気研究所の助手をしておられた.学生時代は,ニセコ山頂で「零戦着氷防止」の戦時研究(中谷宇吉郎研究室)の手伝いをなさったこともあるそうだ.
 石井さんは,応用電気研究所・助手の席を蹴って地質学の路を選ぶ.山岳部の先輩でもあった湊先生が,熱く「地球の謎」について語る姿に憧れていたためだ.北大地鉱教室の大学院生となり,定時制高校の教員をしながらの研究生活であった.
 鈴木醇教授に連れられ,日高のクロム鉱山をまわる.
 湊正雄教授の指導下,幾春別に入る.桂沢ダムの建設に伴う水没予定地のアンモナイト層序学をおこなう.この時の標本は北大博物館に展示されているはずだ.
 十勝国上厚内産のデスモスチルス類の産出層準を決める研究を行う.定時制高校の教員というアルバイトのため,フィールドワークに夏休み中の一ヶ月という時間しかとれず,タイムリミットを悟り,石狩段丘の粘土層に関する研究に切り替える.以後,粘土鉱物の研究が発展し,「北海道第四紀火山噴出物の風化過程」で博士論文提出.北大理学部助教授を経て,北大水産学部製造学科海洋化学講座の助教授に.1968年,東海大学・札幌校に海洋学部が開設され,その教授となる.翌年から,北大教養部で非常勤講師も兼任し,このころM氏を含む若き研究者達と懇意になる.

 石井さんは,すでに応用電気研究所に職を持っていたのにもかかわらず,身につけていた物理学を捨て,地鉱教室・層位古生物学講座の湊教授の元で古生物学をやるという.1950年,石井さん27歳の春だった.苦労して博士号を取得したが職はなかった.湊教授の尽力で北大水産学部に職を得るが,ある事件が起き職を辞することを強要される.
 (石井さんが,経済的に苦労しながら研究生活を続ける若者たちを放っておけない所以である.)
 石井さんにかかわるたくさんの人たちが動き,たくさんの葛藤があり,そして,幸いなことに,石井さんは東海大学・海洋学部に職を得た.そして石井さんは,石井さんが大好きな若者たちと,ともに学び,ともに遊び,そして多くの研究者達を輩出していった.(この部分,八木健三さんの追悼文から抄訳した)


 何年前になるだろうか,科学史家と称する連中が,「地向斜造山運動論」から「プレート・テクトニクス」への転換を「善悪二元論」で展開し,この“パラダイムの転換”を「錬金術師にも等しい地質学者」に対する「真の科学である地球科学者」の勝利であるとした.私には,とてもそんな単純なことであるとはおもえない.

 

2008年9月15日月曜日

パーラートーエー(旭川)の広告(II)




 この広告担当者は本当にすごい人のようです.
 今日の広告の隅にあった「日本ってこんな国だったんだ!」シリーズです.

 ここに出ている本は「高田屋顕彰館・歴史文化資料館」のミュージアムショップでのみ扱っているオリジナルな本です.普通の本の流通ルートには乗っていません.つまり,この「顕彰館」の存在を知っていないと,判らない本なのです.

 ゴロヴニンの「日本幽囚記」は岩波文庫でも出てますが,このところヅーッと品切れ(本屋の「品切れ」は,意味がよくわからない言葉ですが)状態.購入不可の状態が続いています.

 この人は本当に歴史が好きなんですね.

 

2008年9月14日日曜日

蝦夷の古代史

 いくつか理由があって,北海道の古代史について知識を仕入れようと,かなり頑張ったのですが,判らないということが判りました((^^;).

 まず,北海道の古代史が本州の古代史とは異なる道筋を通ってきたことは明らかです.少なくとも江戸末期から明治初期に「日本」に組み込まれるまでは….じゃあ,どこまで遡れるのかということで,関連の資料を集めてみました.
 例えば,工藤雅樹さんの一連の「古代蝦夷」に関する著述,海保嶺夫さんの一連の「近世蝦夷地成立」に関する著述,関連して高橋崇さんの一連の「東北古代史」など.ほかにも類書はたくさんあるようですが,この御三方の著述が系統的で判り易いかと(若干,私には理系と文系の壁があるようにも感じられますけど).

 これらを読んでいるうちに気づくことは,「日本の歴史」のほとんど大部分は判っていないんだなあということです.「北海道」と「西日本」の歴史が大きく異なることは,誰でも納得することと思いますが,間に挟まる「関東~東北」日本の歴史は「西日本」の歴史に収斂するかどうかは難しいところですね.この背後には「日本は一つ」幻想があり,これらはナショナリズムと固く結びついていますから,なかなかほぐし難いところがあるのだと思います.
 むしろ,「沖縄の歴史」を持ってきて,日本には少なくとも「四つの地方史」があるとした方が,受け入れられ易いかもしれません.
 以下,いくつかの疑問から羅列してみましょう.

●「縄文式土器」,「縄文文化」,「縄文時代」,この三つの言葉の違いを説明せよ.
 これができる人は少ないと思います.辞書なんかを見ると,「『縄文式土器』をもつのを『縄文文化』といい,その時代を『縄文時代』という」なんてことが平気で書かれていたりします.確かに,そうなんでしょうけど,これは「定義」ではありませんね.

 では,
●「縄文時代」と「弥生時代」の違いはなんでしょう.

●「縄文式土器」と「続縄文式土器」の違いは?
 北海道では,「弥生時代は無く,代わりに続縄文時代がある」なんてことが平気で書かれています.「語るに落ちる」で“本州の時代区分”は北海道とは合わないことを示しているのですが,上記設問にしたがって「縄文式土器」と「続縄文式土器」の違いを調べると,「特徴は連続していることが多く,厳密な区分はできない」なんてことが書かれています.区別ができないのに区別をするのは,いったいなんなんでしょう.
 重要なことは,“本州”で弥生(式)土器がでるころを北海道では「続縄文時代」ということらしいですね.これも,背後に「日本は一つ」幻想があることの現れなのでしょう.

●「弥生式土器」と「弥生土器」の違いはなんでしょう?
 「弥生」は「縄文」と違い,土器の形式ではありません.単に「弥生」という地名のとこから出た土器というのが元々の意味ですから,「弥生式土器」というのは存在しないのです.

では,
●「縄文式土器」と「弥生土器」の違いはなんでしょう?
ついでに,
●「弥生土器」と「弥生文化」と「弥生時代」の三つの言葉の違いはなんでしょう?
 弥生土器は土器の形式ではなく,弥生文化に伴う土器のことですから,多種多様なものがあります.縄文式土器のように「縄文」があるから「縄文式土器」というわけにはいかないのです.

 これらの混乱は,次の「古墳時代」になっても続きます.
 「古墳時代」には,日本全国に「古墳」があるとされています.この時代の「古墳分布図」を見ると,(北海道を除いて)なるほど全国に「古墳」があるように見えます.
 ところが,典型的な「古墳」があるのは,実は「西日本」だけのようにも見えます.最近はGoogle Earthなどという便利なものがありますので,実際に見てもらえれば判りますが,「西日本」の古墳と「東日本」の古墳では一個の大きさ,群としての数・密度,比べ物になりません.
 面白いことに,北海道にも古墳があるんですが,これは北海道の時代区分では「擦文時代」に当たります.困ったことに,「擦文時代」は「西日本」ではすでに古墳時代が終わってしまったあとになり,すでに平安時代を迎えています.

 「…文化」を「…時代」に置き換えるのは大変危険なことなのだと思いますが,「日本は一つ」幻想に便利なせいか,個々の遺跡の「時代」が総合的に判定されることは,まだまだ少ないようです.

 最近,C14法などを駆使して測定すると,求められた年代が予想外に古く,縄文時代,弥生時代の開始の下限がぐっと下げられたようです.それはそれで,大陸の遺跡との対比はどうなるのかという問題を生んでいますが,それよりも,時代の分解能が上がったせいで,当然のごとく,各地での弥生文化の始まりが不揃いになり,「弥生時代」の始まりをどうするかという議論がやっと出ているようです.

 で,調べれば調べるほど,“日本”の歴史は判らなくなってくるのですが((^^;),実は,ヒントがあちこちに落ちていることに気づきました.
 例えば,高校の歴史参考書です.
 吉川弘文館「日本史年表・地図」の「縄文式文化」には「縄文式文化遺跡の分布」という図があるのですが,そこには縄文式土器には本州の東西では文化相の違いが見られることが示されています.
 「山川日本史総合図録」の「縄文文化〈I〉」には「縄文文化遺跡と貝塚の分布」という図があり,それは「(草創)・早・前期」・「中期」・「後・晩期」の三期に分けられており,「(草創)・早・前期」には北海道・本州・四国・九州に散発的に現れた縄文文化が,「中期」には関東地域に密集し,「後・晩期」になると東北地方へ,その中心が移動していく様子が見て取れます.
 つまり,精密な時間軸が設定できれば,どこかで新しい文化が発生し,発展して伝播して行く様子,消滅して行く様子を見ることができそうだということになりそうですね.逆に,現在の見方のように,団子状態にすると,当然,日本全土に縄文文化があったことになります.

 次の「弥生文化遺跡」では,「山川日本史総合図録」では「弥生文化〈I〉」に「弥生文化遺跡の分布」の図がありますが,これは弥生時代を一つにまとめているために北海道および本州最北端を「続縄文文化」としているほかは,すべて弥生文化で日本中が統一されているように見えます.
 吉川弘文館「日本史年表・地図」でも,「弥生式文化」の「弥生式文化遺跡の分布」では,一見すると,本州最北端(と北海道)を除き,弥生文化で統一されているように見えます.しかし,よく見ると,この図には時間による区分が取り入れられていて,前期には「西南日本」にしかなかった弥生文化が,中期になると「関東地域」に進入し,後期になると東北日本最北端を残しほぼ日本全域に広がった様子が見て取れます.
 弥生文化を示すもう一つの文化要素=青銅器ではもっと極端で,これらは,ほぼ西南日本のみにしか分布していません.

 つまるところ,「縄文-弥生」は時間軸の上下関係にあるだけでなく,(もちろん,「縄文」と「弥生」が同時に存在する時間もある上で)縄文は東日本,弥生は西日本という地域的な関係にもあるわけです(もちろん,沖縄地域はまた別な関係にある).したがって,日本全土を「縄文-弥生-古墳」という時代区分するのは「おかしい」ことになるのですが….

 この辺までは判ってきたのですが,「南日本(沖縄地域)」-「西日本(朝鮮半島影響下にある地域)」-「東日本(西日本と北日本双方の影響を受けている地域)」-「北日本(北海道)」の四つに分けた日本の古代の解説を見いだすことができません.ほとんどみなが「西日本」の歴史を「日本の歴史」として区分し,その時代に「その外の三つの地域」では何があったかは「西日本」との関わりで示される.そうでないところは,結局ほとんどがよくわからないということになりそうです.
 こういう認識をすると,「南日本」・「西日本」・「東日本」・「北日本」という名称自体にも問題がありそうですが,これ以上は…「北海道の歴史」を概観するついでに「日本の歴史」の概略を押さえておきたいというだけなのに,あまり深入りしてもしょうがないようです.

 

2008年9月12日金曜日

日高山脈・その名の起源

 日高山脈の研究は地質学者にとっては,長い間重要な研究テーマでした.
 ところが現在では,山をつくるメカニズム(=造山運動)などというものは存在せず,ただプレートの生成・消滅の過程でプレート同士がどういう位置関係にあるかだけで,海嶺ができたり,海溝ができたり,たまたま山脈ができたりするだけということになっています.つまるところ,現在では,山脈の研究は一級の研究テーマとは見なされていないことになります.
 洋の東西を問わず,天は神のもの,地は人のもの,その間にある高い山は魔のもの,として恐れられてきましたが,現代地球科学は山脈から魔物もたたき出してしまったようです.
 でも,実際に巨大な山脈に抱かれてみると,そこには,まだまだ魔物がいることを感じずにはいられません.地球の理論がわかっても山を征服したわけではないのです.


●神保小虎の提案
 さて,ものの起源が知りたければ,ググればよい時代ですが,「日高山脈」という名前を誰が付けたのかという話は,見たことがありません.
 「日高山脈」の名が最初に印刷物に登場したのは,1889(明治二十二)年1月25日のことです.当時,北海道庁の技師をしていた神保小虎(のちの東大教授)が,地学雑誌の第1巻第1号の「雑報」に「日高山脈」と題して以下の文を載せました.

 「北海道の圖を見れば,南の方エリモ崎より十勝岳に向ひたる眞直の山脉あり.之を日高山脉と假稱す.」
 以下,専門的な地質用語が頻出しますので(…中略…)しますが,外側に第三系があり,中軸には“太古層”が整然と帯状配列していることが書かれています.そして,最後に…
 「唯之のみに非らず.面白きヿ誠に多し.東京の地學研究者金槌を提げて来れ」
 とくくっています.

 この時代,実際に日高山脈に調査に入るのは,それこそ神保のように国のバックアップでもないと不可能だったので,そう簡単に地質屋たちが東京からハンマーをぶら下げて,やってきたとは思えませんね.その後どうなったか.それは現在調べている最中ですが,もちろん,本格的に「日高山脈」の研究が行われるのは,もっともっと後からのことになります.


●松浦武四郎の上申書
 では,ここで「日高山脈」と名付けられたその「日高」とは,一体なんだったのでしょうか.

 1869(明治二)年七月十七日.松浦武四郎が開拓使(この頃はまだ,「北海道開拓使」ではなく,「(蝦夷)開拓使」でした)に「蝦夷地道名之儀勘辨申上候書付」を提出しました.これは,渡辺隆「江戸明治の百名山を行く」(北海道出版企画センター)に示されているもので,通常は「道名の義につき意見書」と書かれていることが多いものです.
 実際に我々が見ることができるものでは,北大図書館の北方資料DBで公開されている「北海道々国郡名撰定上書」があります.なお,これ自体は市立函館図書館蔵書を昭和二年に写本したものとされていますので,表題(および内容も含めて)が元々と同じものなのかどうかは保証の限りではありません.

 ともかくも,この上申書の中で,武四郎は「蝦夷地」の新名称に,以下の六つの候補を順に挙げています.
 ・「日高見道」
 ・「北加伊道」
 ・「海北道」
 ・「海島道」
 ・「東北道」
 ・「千島道」

 一番最初にあげられているのは「日高見道」.
 この「日高見道」には,その名の由来が示されています.それは,「景行天皇二十七年春二月武内宿禰自東國還而奉言東夷之中有日高見國」(日本紀)というものです.砕いていうと,「景行天皇27年の2月に,武内宿禰が東国遠征から帰って『東の方に「日高見国」がある』と報告した」ということです.
 この「日高見国」が現在のどこに当たるのかは後でふれます.
 武四郎はもう一文を続けています.
 それは「三十二代崇峻帝四年八月狗襲発矣於狗襲有威人名曰雄猛狼也力當百人略當千人撃國人成王遂望日高見発兵撃陸奥陸奥重竹青為表練牛皮為裏合之造甲冑塗毒於矢先」というもの(ただし,この文字は私が写本から読み取ったものなので読み間違いがあるかもしれません).これもたぶん「日本紀」(=日本書紀)からの引用だと思われますが注記はありませんでした.どこかで読んだような記憶もあるのですが,何せ,最近は物覚えがわるくて((^^;).
 なんにしろ,武四郎は「日高見」が日本の古典に出ていることを強調しているわけです.

 一方,「北加伊道」以下の名称は武四郎オリジナルの発案によるもの.蛇足ですが,たぶん,武四郎はこの順に新名称を推薦したのだろうと思います.もしかしたら,我々は「北海道」ではなく「日高見道」に住んでいることになっていたかもしれないのですね.

 さらに蛇足すると,二番目の「北加伊道」の「加伊」は,武四郎によれば,熱田大神宮縁起に「夷人自らの國を加伊という」とあることを引用しています.武四郎は,今もアイヌは互いを「カイノー」と呼ぶとしています.いくつかアイヌ語関係の書物をあさって見ましたが,これはよくわかりません.ただ,知里むつみ・横山孝雄「アイヌ語会話イラスト辞典」(蝸牛社)には,「一人称(私,ボク,おれ)」を「kuani」としています.聞こえ方によっては,これが近いかなとは思いますが,その筆者は「普段の会話ではあまり使わない」としています.

 さて,これが「ほくかいどう」と読むのか「きたかいどう」と読むのかは判断できませんが,開拓使はこれを取り上げ,アイヌの土地を意味する「加伊」を「海」に換えてしまいました.そうすると,古くからある本州各地の呼び方「西海道」・「南海道」・「東海道」と非常に調和的な,大和的な名称に変わってしまったのです.
 これによって,武四郎は「北海道の名付け親」との肩書きを持つことになりますが,武四郎の真意からは「とんでもない改竄」と感じたのだろうと思うのは私だけでしょうか.結局,武四郎はこの後,開拓使を辞職し,蝦夷地には二度と足を踏み入れることはありませんでした.

●日高見国
 話を元に戻します.
 武四郎は,同上申書で「国名」についても提案しています.国名というのは判り難いかもしれませんが,その区分は,ほぼ現在の「支庁」に当たります.以下.
 ・渡島
 ・後志
 ・膽振
 ・日高
 ・石狩
 ・天塩(出塩・出穂)
 ・十勝(刀勝・利乳・尖乳)
 ・釧路(久摺・越路)
 ・根諸
 ・北見
 ・千島

 ここでも,「日高」が出てきます.武四郎はこの名前について「土地が南面していて,冬が早く明け,晴天が早くから続く」ことと,やはり「景行天皇二十七年春二月」の武内宿禰の報告を引用しています.ただし,こちらは引用が長く,前記に「其国人男女椎結文身為人勇悍是摠曰蝦夷亦土地沃壌而曠撃可取也」と続きます.
 この意味は,「その国の人は,男女とも髪を結び,入れ墨をしている.人となりは勇ましく猛々しい.これを総て蝦夷(えみし)と曰う.また,土地は肥沃であり,広大である.」となります.そして最後に「撃ちて,取るべし.」が付け加えられています.

 現代日本人の感覚では,「野蛮人の土地だけど,土地は肥沃で広大」だから「攻撃して,分捕ってしまえ」なんて,どっちが野蛮人だと思ってしまいますが,この当時では普通の感覚だったのかもしれません.もっとも,現代でも世界中の多くの国が同様のことを考え,同様の行動をしているようですが…(それらの国には,残念ながら「平和憲法」が無いのですね).

 さて,当時の「日高見国」はどこにあったのかというと,よくわかっていないようで,いまだに議論が続いているようです.武四郎は「常陸國または陸奥相馬郡」と記していますので,現在の茨城県と福島県から宮城県南部あたりなのでしょうか.
 宮城県石巻市桃生町太田拾貫壱番には,その名も「日高見神社」があり,その側を「北上川」が流れています.また,岩手県奥州市(2006年,水沢市・江刺市,胆沢郡前沢町・胆沢町・衣川村が合併して成立)水沢区字日高小路にも「日高神社」があり,もちろん水沢区にも「北上川」が流れています.
 そう,「北上(キタカミ)」は「日高見(ヒタカミ)」を語源としているようなのです.


●北上…>日高
 話を,グーッと元に戻しますと,日高山脈の語源は,「麓に日高国を抱く」こと.その「日高国」は,昔“まつろわざる”民がいた「日高見国」が語源.「日高」は北の地の山脈名になってしまいましたが,「日高見」は「北上」になってしまったらしいのですね.
 ちなみに武四郎は,アイヌはその昔,東北地方全域に住んでいましたが,大和政権の侵略によって最後は蝦夷ヶ島(=北海道)まで追いつめられてしまった,と考えていたようです.

 その昔,北上山地は「バリスカン造山運動」のかけらが残っている地域と考えられていました(私は,卒論でその一部の地質を明らかにすることを命じられていました).日本のバリスカン造山運動は「安倍族造山運動」と呼ばれていました.「安倍族」とは,東北地方に居を置く一族で,蝦夷だったのだろうともいわれています.
 同じ頃,日高山脈は「アルプス造山運動」の日本版と考えられていました(私はその麓にある博物館で,日高山脈がまだ海の底であったころに生きていた生物の化石の収集・研究・保存を仕事としていました).

 悲しいかな,「造山運動」という言葉は,現在では「死語」になっていて,地球の謎は「山脈」にあるのではなく,「海底」にあることになってしまいました.地表を歩いて調査する「地質屋」も絶滅し,高価な船や調査機器を使って海底に穴を掘る「地球科学者」に交代してしまいました.レリックもまだいるようですが….
 ハンマー一つで地球の謎に挑戦できる時代から,一部のエリートにしか肉薄できない学問になるのに平行して,地球の謎に挑む学問は市民の支持を失いつつあるようです.この(科学の)巨大化につれて市民の科学離れが起きるのは,ほかの科学の分野でも同じですね.もちろん,アマチュアの参加が許されないからです.

 そのうち地質学も,蝦夷の歴史と同じように,時間の狭間に埋もれてしまうかもしれません.蝦夷の歴史もまるで「化石」のように点々とヒントが残されているようで,昔地球の謎に挑んだ地質屋も「化石」を残してくれるでしょう.

2008年8月25日月曜日

パーラートーエー(旭川)の広告


 以前からこの広告のファンでした.
 いつも,この広告の下にこのシリーズがあります.

 私は,パチンコどころか,まるでギャンブルはしませんが,毎週この広告を楽しみにしています.これは,幕末から明治始めにかけての「日本」のことを紹介しているシリーズですね.ほかにも「零戦シリーズ」とかあり,こちらも面白いです.
 ちまたにも,こんな歴史マニアがいるんだと感心させられます.

 今週は,米人宣教師が自分たちを取り締まる役割の役人の意外な感情について述べています.そういえば,最近読んだみなもと太郎の「風雲児たち・幕末編(13)」に,ハリスが感じた日本人(役人)の同様な感情がとらえられていました.

 過去の記事もみたくって,パーラートーエーのHPを探してみましたが,残念ながらありませんでした.もったいない.ぜひ,残してほしいですね.本になったら絶対に買います((^^;).(出版のときには,引用文献:ネタ本をぜひとも明示してほしいですね)

2008年8月15日金曜日

恐龍と“文学”

ちょっと,別なことで忙しくて,サボってました.
また,本棚の整理シリーズです(^^;.

 佐貫亦男(1994)「恐竜たちと遊ぶ1時間」(朝日新聞社)

 佐貫亦男さん(1908-1997)といえば,航空技術者として有名ですが,非常にわかり易い科学解説をおこなうのでも有名です.私も子供の頃から何冊か読んだ記憶があります.
 さて,この本は,単行本時代には「進化の設計」として発行されたものです.地質時代時々の生命を取り上げ,その形態や生き様についてのエッセイをオムニバスに並べたもの.したがって,「恐龍たち…」という題は不適切.
 「よくまあいろんな話を集めたなあ」と感心しますが,材料が材料だけに,詳しく書けば書くほど,その寿命が短くなるのが悲しい.科学的な事実というのは「結論」ではなくて,真実への「通過点」なので,ある程度仕方がないんですが….
 大人向けの“怪獣図鑑”というところでしょうか.
 面白いんですが,こういう本を読める大人はどんどん減っているのだろうと….
↓こちらが元の本.


 東雅夫(1998)「恐竜文学大全」(河出書房新社)

 地質学に関係した文学・音楽・アートなどを探っていたときに見つけた一冊.肝心な「地質学」関連の方はなかなか目処が立ちませんが,恐竜に関する文学がこんなにあったんだと,目を開かせてくれた本.
 星新一,豊田有恒,荒俣宏,中谷宇吉郎,宮沢賢治,筒井康隆など,昔よく読んだ作家の名前が出てきました.実はあまり読んでいなかったのね,と,反省.
 ちなみに,豊田有恒「過去の翳」には,(エゾ)ミカサリュウが出てきますが,ティランノサウルス科の「恐龍」となっています.

 巽 孝之(1997)「恐竜のアメリカ」(筑摩書房)

 著者は,博覧強記というのだろうか.題材はロックミュージックから始まり,文学を経て映画にまで至る.どれも,聞いたり,読んだり,観たりしていなければ,話題にはついていけそうもない.もちろん,聞いたり,読んだり,観たりしたことがあるものについては,なるほどそうであったかと,再認識できます.
 末尾の文献リストは結構便利です((^^:).

2008年7月26日土曜日

八木健三先生の訃報

 本日(2008.07.26.),マスコミを通じて,八木健三先生の訃報が流れました.
 お亡くなりになったのは,18日とのことです.すでに葬儀は内々に行われたとのことで,後日,「お別れの会」なるものが催されるそうです.

 私が八木さんに初めてあったのは,北大・教養部から理学部・地鉱教室に仮移行したその日でした.八木さんは,その時の教室主任でした.
 教養部のつまらない授業に飽き飽きして,なにか機会があったら退学しようかとなどと考えていたころでした.
 教養部の貧相で無気力な教授たちに見飽きていて,大学ってこんなにつまらない所だったのかと思い込んでいたのです.

 私は八木さんを見て,一目で気に入ってしまいました.

 八木さんは仕立ての良い背広を着ていて,言葉の端々に「知性」があふれているような人でした.
 仮移行した私たちは,教室の中を案内していただきました.その時にも,途中であった用務員のおじさん・おばさんたちにも親切・丁寧な声をかけ,偉そうな態度は見せませんでした.その時,酷く貧相なお爺さんにも,なにか声をかけていましたが,その時は気にも止めませんでした(その夜,先に学部移行を済ませていた友人に,その老人が「湊正雄」という大教授であることを指摘されて,驚くのですが…).
 事務のお姉さんたちにも,軽いジョークを飛ばし,なにか明るい気持ちにさせてくれる人でした.

 八木さんは,北大という所に飽き飽きしていた私に,地鉱教室に学部移行したことが,もしかしたら「当り」だったかもしれないと思わせた人でした.
 八木さんが専門とした「火山学」や「鉱物学」からは,少し離れたことを専攻しましたが,地質学を学ぶことによって,楽しい青春時代を送らせていただいた,そのシンボルのような人でした.

 あれから,30数年,未だ,地球のことはさっぱりわかりませんが,八木さんは天国にいったのではなく,地球の一部になったのではないかなどと考えています.

 ご冥福をお祈りいたします.

2008年7月14日月曜日

アンチセル調書

 2008/02/25に、「ライマン展」関連で,アンチセルについての雑文を書きましたが,やはり気になっていて,あちこち調べていました.

 といっても,調べられるのはネット上で公開されている資料ぐらいですけどね.
 道・教育大関係の図書室には無し.
 道立図書館には「気候説」なるものが蔵書されているみたいですが,どうせ貸出禁止なので無視((^^;)(同じものは,北大図書館にも蔵書されています).多分,開拓使に出した報告書の抜粋でしょう.

 国立公文書館には該当資料なし(「アンチセル」・「Antisell」でヒットなし).
 国立国会図書館にも該当資料なし(「アンチセル」・「Antisell」でヒットなし).

 ま,こんなもんです.

 ありがたい事に,早稲田大学の大隈重信関係資料に「アンチセル調書」第八と第十一というのが,画像で公開されていました.あとで判るのですが,これは,北大・北方資料室に所蔵されている「教師報文録」の一部を筆写したものです.
 「アンチセル調書 第八」は題を「大野平野の事」となっており,「アンチセル調書 第十一」は「北海道を開き生産の道を起す事」になっています.これらは,「教師報文録」では第二集の中の「第五 大野の事」と「第二 北海道を開き生産の道を起す事」にあたります.

 「教師報文録」から,目次をつくってみると,アンチセルの報告が約半分を占めており,アンチセルは重要人物だったことがわかります.

 どこかで,この「教師報文録」をテキスト化していないかと探してみましたが,案の定見つかりませんでした.そこで,自分でやってみることにしましたが,北大・北方資料室のHPで公開されている同書の画像は,文字の判読がギリギリの解像度で,けっこう時間を取りました.それが,しばらくこのブログを書けなかった理由(ほかにも,EGBridgeが使えなくなったので,やむなく「ことえり」に切り替えましたが,予想をはるかに超える頭の悪さで,変換に時間を食いました(^^;).

 我々現代人には,原文の英語版の方が理解しやすいと思うのですが,英語版は見当たりませんでしたね.ホントに日本のお役所は,資料の保存については,鼻から頭にないという感じですね.昔,外国のキューレーターから「日本の博物館は,世界で最低レベル」という評価をされてしまいましたが,「全くその通りだ」と思ってしまう瞬間です.
 ここで,解読した文章を公開してもいいのですが,苦労したので,もったいない(ウソ.ウソ((^^;).北方資料室からクレームがくるといけないので公開を控えるだけです).

 なかなか,面白いことがわかってきました.
 アンチセル氏の地質学的知識は結構なものです.この時代の知識人の地質学的素養には,いつも驚かされるのですが(一般現代人の地質学的知識をはるかに越えています),彼もそう.要するに「博物学者」なんですね.
 いろいろな所で,アンチセル氏を「地質学者」であるとしているのですが,そこだけ取れば,そう勘違いされても…「納得」…と,いう所です.
 それだけではありません.「地形」・「地質」から「動植物」まで,基礎的知識は言うまでもなく,応用/実用的知識は,「鉱山」・「農場」その他の運営法,「移民推進」の方法から,開拓に関係することなら何でも…と,いう感じ.さすがフロンティアの国=USAからやってきた人です.
 才能があることを鼻にかけて,ケプロン将軍に嫌われたという噂がある人ですが,これだけ多才ならしょうがないでしょうという気もします.

 さて,前回問題になった,「札幌軟石」と「ホップ」についてですが,確実な証拠はやはり見つかりませんでした.
 「札幌軟石」については,前回,「札幌建府不適切論」を展開しているアンチセルが,軟石をみつけて,これで札幌の町を造ろうと言ったという話は「疑問である」としましたが,彼の議論を読んで,その気持ちを強くしました.その話は「いかがわしい」と言ってもいいかもしれません.
 また,この「教師報文録」には,全く「札幌軟石」の話は出てきませんでした.もちろん,タイムテーブルをつくって,他の機会に発見している可能性はないか,他の報告書にはないのかなど,確認しなければなりませんが.
 なんにしても,この報告書を読む限りは,もしこの期間内に「札幌軟石」を見つけていたら,必ず記載していたことを思わせますので,少なくとも1871.9.11から1874.10.19の間には,見つけてはいない様です.

 もう一つ.
 「ホップ」について.
 少なくとも,この「教師報文録」中には,アンチセルは「ホップ」については,報告していません.付け加えておけば,アンチセルは,巡検した地域の植生について,この「教師報文録」で報告しています.他にも自生している植物や栽培可能な植物についても書いていますが,「ホップについてだけ」はありません.

 しかし,この「教師報文録」には「ホップ」についての報告があります.
 それは,アンチセルではなく,ケプロン将軍の手によるものでした.しかも,植生のリストで単に存在を報告したとかいうのではなく,「ホップ培養并に製法略説」という一章を設けて,「概説」のほか「ホップ雌雄の辭」・「ホップ摘採法」など詳細に述べています.もし,アンチセルが発見したのなら,そのことが明記されているはずですが,ざっと見た所,それはありません(このあと,解読してみようと考えています.また時間がかかるなあ(^^;).
 思うに,なにかの間違いがありそうです.ケプロン将軍が書いたこの章の直前にアンチセル氏の報告があることが原因かもしれません.
 それにしても,あちこちで伝えられている「アンチセル,ホップ発見」説は,いったい何が根拠になっているのでしょうか….

2008年6月26日木曜日

長頸竜の海



 トートツですが,私の書いた本を紹介しておきます.
 昔は,胆振・日高地域では有名人でしたのですよ.(^^;
 ローカルにしか流通してませんが,下記から買うこともできます.

http://www.tomamin.co.jp/book/book.htm

 前半は,「苫小牧民報」の日曜版で連載していたものです.
 後半は,退職するすこし前,肺炎を起こしてボロボロ・ヨレヨレの状態で,花巻の宮沢賢治イーハトーブ館で講演したものを膨らませて…って,講演自体が賢治の「イギリス海岸」を膨らませたものですから,膨らませ過ぎで原形をとどめてませんが…(^^;.

「金・銀・銅の日本史」

村上 隆「金・銀・銅の日本史」岩波書店

 先日,上記,村上 隆著「金・銀・銅の日本史」を読んでいたら,末尾の「参考文献」に,私の「蝦夷地質学」があげられていました.

 ありがたいことです.
 こんな仕事でも見ていてくれる人がいるなんてネ.

 専門家が認めてくれれば,そうでない人たちが認めてくれるのももう一歩.過去に弱小博物館に勤めていたときに学んだことですね.腐らずに,ガンバロウ!(^^;

 村上さんは「材料科学」や「材料技術史」がご専門だそうです.だいぶ畑が違いますが,現実に転がっている,興味を持つ史料には共通点があるようです.しかし,そこから導きだしているものは,結果として違う.不思議なもんですね.

 さて,近いうちに,どこかの出版社から,本にしたいとオファーがありそうな予感が…無理かな?

 あ.「蝦夷地質学」?
 左のリンクから,見てみてください.

*

2008年6月21日土曜日

ネメシス

ミューラー, R. A.(1987)「恐竜はネメシスを見たか(手塚治虫,1987訳)」集英社

ゴールドスミス, D.(1985)「暗黒星ネメシス(加藤 珪,1986訳)」サンケイ出版

 どちらもほぼ同じ内容.
 08.06.07.の記事「コスミック・カタストロフィー」に似ていますが,こちらは,地球上に落ちた隕石がメインではなく,何がそれを落としたのかというのが中心.
 無の空間で踊り続ける「シバ神」.シバが踊り続けることによって,「無」を拒否し,そこで繰り返される「生と死のリズム」.シバが踊ると,「無の空間」に乱れが生じ,「生と死のドラマ」が生じます.我々小さな人間には目前の「生と死」しか理解できませんが,少し頭のいい人間には,別のことが見えるらしい.

 「コズミック・ダンス」,「踊るシバ神」といえば,

カプラ, F.(1975)「タオ自然学(日本語版,1979)」工作舎

を,思い浮かべてしまいますが,こちらはミクロの物理学で,ロマンあふれるものだったのに対し,「ネメシス」は,なにかドロドロしています.

 我々の太陽には,未だ未発見の伴星「ネメシス」があって,約2600万年の周期で太陽の周りを回っています.ネメシスが公転の途中で彗星群(オールト雲)を刺激し,活発化した彗星がたまたま地球を襲う.そして,地球表面に生息する生物たちには,約2600万年に一度の悲劇が襲うわけです.恐竜はちょっと大きめの悲劇に襲われただけのこと.
 かくて,ダーウィンのお世話にならずとも,日々営みを続ける生命の大部分が失われ,空白のニッチに侵入した生命によって一大進化のドラマが繰り広げられる.

 と,いうわけです.

 なにか,表面だけ聞いていると,“衝突するベリコフスキー”と何ら変わらないような気もしますが.ベリコフスキーは有史時代(伝説の時代)に火星や金星の公転軌道が変わったというから,底が割れてしまうのですね.

 さて,ミューラー(1987)には,巻頭に「主な登場人物」のリストが掲げられ,ゴールドスミス(1985)にも,「まえがき」に謝辞の形で人名のリストがあげられています.この名簿を見た瞬間に,あるグループのリストとイメージがダブってしまったのですが,それについてはあとにしましょう.

 さて,その「ネメシス騒動」を,より地質学・古生物学に近い形(もちろん,その素養がある人には判りやすい形で)で紹介しているのが,

ラウプ(1986)「ネメシス騒動=恐竜絶滅をめぐる物語と科学のあり方=(渡辺政隆, 1990訳)」平河出版

です.「ネメシス」と「シバ」の違いも明確です.やっぱり,「激変説vs.斉一説」がでてくる((^^;).

 さて,チチュルブ・クレーターが発見されてから(というよりも,チチュルブ・クレーターが証拠であると見なされるようになってから),いよいよ「真打ち登場」で,

アルヴァレズ, W.(1997)「絶滅のクレーター=T・レックス最後の日=(月森左知,1997訳)」新評論

が発行されます.
 ウォルター=アルヴァレズはいわずと知れた,ルイス=アルヴァレズの息子.二人が「隕石衝突説」の中心人物です.
 隕石衝突説のエピローグを語る重要な本のはずですが,正直な話,あまり興味深い内容ではありません.


 息子・アルヴァレズの方は地質学者ですが,親父・アルヴァレズの方は核物理学者.親父はノーベル賞を受賞しています.ノーベル賞受賞者といえば,それだけで「天才」というレッテルがつきますが,親父は核物理学者なのに,畑違いの地球科学で大発見をしたということで,天才の上に「大」がつきます.


 実は,親父アルヴァレズの方は,私は昔から知っていました.
 科学史のある一断面で,昔から登場していた人物だったのです.

 1945年8月6日,午前8時15分,広島市上空570mで,人工の太陽が輝きます.

 その数時間前,テニアン島から三機のB29が飛び立っています.一機は,日本人なら誰でも知っている「エノラ=ゲイ」号.その腹には「リトル=ボーイ」と名付けられた,ウラン爆弾が収まっていました.
 後続の二機については,ほとんどの日本人は知らないでしょう.二番機の機長はチャック=スウィーニー少佐.「グレート=アーティスト」と名付けられていました.機には十五人の搭乗員と三人の科学者,そして多くの観測機器が積まれていました.
 三番機は,「ビッグ=スティンク」と呼ばれ,カメラが山のように積まれていたそうです.(戦史研究会;1980編「原爆投下前夜=ベルリン,ワシントン,モスクワ,そして東京=」角川書店)


 二番機機長スウィーニー少佐は,テニアン島に帰還すると,「ボックス=カー」号に機を乗り換えて,長崎に向います.その腹には,「ファットマン」と名付けられたプルトニウム爆弾が積まれていました.
 ボックスカーは二番機の観測機「グレート=アーティスト」を従えて,長崎へ(三番機の「ビッグ=スティンク」とは途中ではぐれてしまったそうです).

 さて,ご想像の通り,「グレート=アーティスト」に乗って,人工の太陽が炸裂する様子を観測していた科学者の一人は親父・アルヴァレズでした.
 親父・アルヴァレズは,長崎に落とされたウラニウム爆弾の(インプロージョン)発火装置の開発者として,その名を記録しています(詳細に書きたい気もするのですが,長くなるので割愛:山崎正勝・日野川静枝;1990編「原爆はこうして開発された」青木書店など参照のこと).

 親父・アルヴァレズの活躍はそれだけでは終わりません.第二次世界大戦が終わると,米ソ冷戦の時代に入りますが,彼はJASONの中心メンバーとして活動し始めます.

 JASONの話をすると,ほとんど総ての人が,「ゴルゴ13の見過ぎじゃあない?」と感じるようですが,JASONは空想上の機関ではありません.
 JASONについては,

佐藤文隆(1995)「科学と幸福」岩波書店
柴谷篤弘(1973)「反科学論」みすず書房
名和小太郎(1998)「科学書乱読術」朝日新聞社
池内 了(1996)「転回の時代=科学のいまを考える=」岩波書店

などに,ほんのわずかづつですが,記されています.

大江健三郎(1974)「状況へ」岩波書店

では,「破滅するジェイソン」という,一章を設けて論じていますが,JASONはまだ破滅もせずに,生き延びているようです.

 このJASONのメンバーだとされる人たちのリストが,最初にあげたミューラーやゴールドスミスのあげたリストと奇妙に一致する部分が多いのです.なお,ミューラー自身もJASONのメンバーだと思われます.「恐竜はネメシスを見たか」の表紙裏の著者紹介には「国防総省の科学諮問機関のメンバーでもある」と書かれています.

ダイソン, F. J.(1984)「核兵器と人間(大塚ほか,1986訳)」みすず書房

 JASONは,米国防総省の中の一部局であるとされていますが,メンバーはみなノーベル賞受賞者クラスの天才ばかり.先ほどまで,フリーマン=ダイソンの「核兵器と人間」を読み直していたのですが,彼はこの「序文」でJASONのメンバーであることを告白しています.


 JASONは何をやったか?

 もちろん,JASONの素性からは,その全貌が明らかになることはまずないと思いますが,いくつかは知られています.米国がなにか戦争遂行の上で,不都合なことがあると,集まってきて,効率的に戦争を終わらせるアイディアを話し合い,いいアイディアが生まれると国防省に売り込み,莫大な報酬を得るというわけです.
 そういうアイデアには,グラベル(砂利)爆弾という対人爆弾のアイディアや対人地雷,レーザー爆弾などがあげられています.グラベル爆弾は現在,クラスター爆弾と呼ばれ,対人地雷と同様に,憎むべき兵器として,これを禁止する条約が結ばれようとしています.効率のいい対人兵器として造られたものですが,戦争が終わってからも,一般市民とくに子供に大きな犠牲を強いているからです.

 隕石衝突説のアイディアのもとになったイリジウムの含有量は,非常に微小なもので,当時は普通の研究所では分析できるようなものではありませんでした.そういう高度な分析機器を(海のものとも山のものとも判らない状態のK-T境界の資料の分析に)使えたのも,彼がそういう立場にあったからではないと誰がいえるでしょうか.

 前述したように,気をつけてみていれば,JASONのことはたくさんの人が話題にしています.それなのに,日本のマスコミは「天才科学者」として持ち上げるばかりです(もちろん,天才であることは事実なんでしょうけど).
 ある日本の地質学の教授が,「彼の人格攻撃にまで発展した」という表現で(もちろん,JASONであることは触れずに),この話題をつまらないことのようにいいました.

 日本の科学者は,太平洋戦争に負けた時,科学を戦争の道具にしてはならないと反省したはずです.私が学生だった頃は,まだベトナムで戦争が続いていて,JASONのメンバーは「戦争教授[War Professor]」と呼ばれ,世界中で糾弾されていました.
 平和ボケした日本では,科学を戦争の道具にしてはならないどころか,法人化が進む中で,研究予算獲得の為に,かなりの割合の大学の研究室が軍事研究に関わっているのではないかと心配になります.

 うう.嫌なことをしゃべりすぎてしまいました.別な記事で「若者に夢を持たせたい」と言ったばかりなのに.(-_-;


….

 そういえば,シバ神は「ただ踊っている」だけだそうですが,ネメシスは「度をこえた繁栄や高慢などに天罰を下す」復讐の神なんだそうです.JASONやその支持者が安泰である以上,ネメシスは存在していないようですね.

2008年6月14日土曜日

Y. mikasaensis OBATA et MURAMOTO pt.2

Y. mikasaensis OBATA et MURAMOTO pt.2

 今朝の,北海道新聞の「卓上四季」に“エゾミカサリュウ”のことが載っていました.

 この筆者は,驚きです.
 ものすごく,滄龍や長頸竜に詳しいですね.

 今日いっぱいはこの記事は無料で見られるとおもうので,ぜひ見てください.
 一読の価値ありです.

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fourseasons/

 こんなに理解ある記者がいるのに,道新はどうも「古生物」の扱いが….
 私に解説記事でも書かしてくれないですかねえ.(^^;

「夢」を持たせたい pt.2

 6/7に「『夢』を持たせたい」という記事を書きましたが,悲しい事件が起きてしまいました.別のこの事件を予想していたわけではないですが.

 夢を持てなくなった若者が,歩行者の群れにトラックで突っ込み,そのあと複数の人をナイフで殺傷したという事件です.この事件の何が悲しいかというと,私たちの誰もが加害者にも被害者にもなりかねないということです.

 一生懸命働いても,月末にもらう給料は,生活保護に毛の生えた程度.しかも,それすらいつクビになるかわからない.悲しいことに,これは特殊なことではないのですね.街頭インタビューで,涙ながらに答えていた若者が印象的でした.
 彼も派遣社員で,彼の同僚は「奴らはすぐに切れるん」だそうです.「彼らのために何かをしなければならない」そうも言っていました.彼も,彼の同僚なる人物が,いつ同じことをしてもおかしくないと感じたのでしょう.

 普通に働けば,普通の暮らしができる.
 そんな日本はどこへ行ってしまったのでしょうか.「勝ち組」・「負け組」なんて言葉が使われていますが,そんな分類はやめてほしいものです.
 皆それぞれに「能力」を持っているのに,その能力を使える場所がないというのが,事実なんでしょう.その人の責任ではなく,「笑って働ける」そういう社会を壊してしまったこの国の指導者の責任でしょう.相対的に,どんどん若者が減っているというのに,貴重な若者を犯罪に走らせていいのでしょうか.

 マスコミでは「ネット社会」の問題とか,「心の闇」とか言って,個人の責任で済まそうとしていますが,「普通に働けば,普通の暮らしができる」そんな社会を取り戻さないと,まだこの手の事件は起きることになると思います.
 ダガーナイフを規制しただけでは,なくならないと.

 平原綾香さん,彼らにあなたの歌を届けてやってください.
「望むように生きて 輝く未来を」

 若者に夢を

2008年6月13日金曜日

Yezosaurus mikasaensis OBATA et MURAMOTO


Yezosaurus mikasaensis OBATA et MURAMOTO

 今朝,北海道新聞に“エゾミカサリュウ”についての記事がありました.
 中身は,今更ながら,「“エゾミカサリュウ”は海トカゲの新種でした」というもの.発見後,30数年もたって,ようやく“あたりまえ”になったという感じ?

 いえいえ.新聞記事にはおかしなことがたくさん載ってました.

 まずは,「当初の鑑定も含め,論文などでの正式発表はなく,学術的に『未判定』だった」とあります.

 エゾミカサリュウは,図版つきですでに出版されています.

村本喜久雄(1977)「恐竜への道=エゾミカサリュウの発見=」北苑社.

 すでに絶版あつかいですが,アマゾンでも取り扱っています(現在マーケットプレイスでも在庫なし).

 図版はこの記事の最初にのせたものです.

 かなり奇妙なもので,記載論文として扱えるかどうかは微妙なものですが,とにかく印刷物として残っています.
 新聞記事には「近く米国の科学専門誌に発表する」とありますが,この本は無視してすすめられるのでしょうか.もっとも“エゾミカサリュウ”は話題になるたびに,「近く正式に論文になる」といわれて30数年経った過去があります.

 「今度もならない」とはいえませんが,疑問があります.
 それは,“エゾミカサリュウ”は天然記念物に指定されていて,鑑定のために傷をつけることはおろか,その位置を移動するにも「文化庁」の許可が必要だといわれてきました.いったいどうやって「鑑定」したのでしょうかねえ.

 そもそも,なんだか正体のわからないものを「天然記念物」とした「文化庁」にも「?」なんですが,こんどは研究のためにとはいえ「クリーニング(骨格の形状を確かめるためにバラすこと)」を「天然記念物」の解除を許可したんでしょうかねえ.
 「天然記念物」の扱いって,そんなに軽いものなんでしょうか?

 それから「海トカゲ」って新聞にはでてましたが,昔から使われている「滄龍類」という学術用語があります.「長頸竜」も「クビナガリュウ」などというマスコミ用語がしばしば使われていますが,JK語じゃあないんだから,勝手につくってほしくないですね.

 さて,問題の“エゾミカサリュウ”はタニファサウルス属の一種だとでていました.
 綴りは,Taniwhasaurusですね.
 Taniwhaというのはニュージーランドは,マオリ族の伝説に登場する「海の怪獣」のこと.もちろん,最初のTaniwhasaurusはニュージーランドの上部白亜系から発見されています.マオリ族はなんと発音しているのかわかりませんが,その発音を英語化したものでしょう.本来は学名に使用する場合はラテン語化しなければならないのですが,そのまま使っているようです.
 なぜなら,ラテン語に「w」という綴りはなく,「u」を使うからです.従って,「タニウハサウルス」というのがラテン語的呼び方.タニファと読ませたいのなら,「Tanifa」と綴るべきでした.
 でも,いっぺん印刷物になってしまった学名は変えることができません.残念.


 日本産の滄龍類については,最近どんどん再検討が進んでいるようで,私が論文化したTylosaurus sp.も現在では「?」だとされているようです.当時は,比較標本もなく,過去に報告された論文を入手するのも大変でしたが,最近は,海外へ出かけて,実物そのものを見てくることが当たり前のようにできるようになりました.
 うらやましい限りです.

2008年6月7日土曜日

コスミック・カタストロフィー

チャップマン, C. R. & モリソン, D.(1989)「コスミック・カタストロフィー(上・下:山崎・川合,1991訳)」吉岡書店

 上下巻,合わせて372頁の大著.
 訳者は,二人を「惑星科学者」として紹介しています.
 話の中心は,宇宙からの訪問者が,地球の生命の運命を握っているというもの.バックボーンは「斉一説vs.激変説」です(やっぱり〜(^^;).

 「地質学史は『斉一論者』と『激変論者』の戦いの歴史である」という話が昔からありました.然し,それは幻想であることが,最近になってしばしば指摘されています.こういう「神と悪魔の戦い」みたいな話は,わかりやすいのでよく使われるのですね.

 いくつか調べると,「斉一説」にしても,「激変説」にしても,よくいわれているようなこととは違うことがすでに指摘されています.
 あ,これは,「『ハットン神話』と『ライエル神話』」(2008.02.07.)で少し触れてますね.

グールド,S. J.(1987)「時間の矢・時間の輪(渡辺政隆,1990訳)」工作舎

 実は,グールドもすでに議論してました.

 話を戻します.
 チャップマン & モリソンの論点は,宇宙から巨大な隕石が落ちてくるという現象は「激変説」に対応するというものです.「巨大な」隕石だけを取り上げてみればその通りなんですが,宇宙から地表に落ちてくるものは「巨大な」隕石だけではないですね.サイズはバラバラです.
 TNT火薬20 キロトン未満に相当する爆撃(もちろん,隕石の地球に対する)は年一回ぐらいの確率で起きているそうです.ツングースカ級(〜50メガトン)の爆撃は1000年に一回程度で,「確実に地球規模の大変動を起こすような爆撃」は100万年〜1,000万年に一度は起きるのだそうです(チャップマン & モリソン;1989, p. 356).
 そうすると,地球生物史上での五大絶滅ぐらいの事件が起きるのは,やはり1億年に一回ぐらいなのでしょうか.

 よ〜く考えてください.これは「地球を爆撃する隕石のサイズは,時間に比例する」ことを示していて,“爆撃そのもの”はいつも起こっていることをしめしているのです.

 そしたら,爆撃は「激変説」に属するものではなく,「斉一説」に属するものじゃあありませんか?
 こんなとこが,「地質学史は『斉一論者』と『激変論者』の戦いの歴史である」という歴史観に「?」と疑問を抱かせるはじまりですね.

 さて,天文学者が「恐竜絶滅」を含めて,「地球の生命」に大きな影響を及ぼしているという主張は,日本人学者にもあります.

 それは,
籔下 信(1988)「巨大分子雲と恐竜絶滅」地人書館
 です.

 こちらは,隕石が地球を爆撃するという話ではなく,太陽系そのものが,銀河の中心面に対し上下運動するために,銀河の回転面上にある物質の濃厚な場所=巨大分子雲の密集地を通過するために,地球環境に様々な影響を及ぼすというものです.
 もちろん,「恐竜絶滅」をはじめとする「大絶滅」もそう.

薮下さんは,
籔下 信(1980)「彗星と生命」工作舎
では,「彗星」がその原因であるとしてましたが,その彗星の発生も「巨大分子雲」の密集地を通過するためにおこる,としているので,これから発展した理論といえるでしょう.

 ここで,我に返る((^^;)
 これらの議論は,地質学の範疇には入りません(何が地質学かということも,そのうち議論したいですね).だから,わたしにはこれらの議論が現実に合っているか,いないかということはわかりません.
 いってみれば,「衝突するベリコフスキー」とどれぐらい違うのかもよくわかりません.正直言うと,「どちらも面白い話ですねえ」ぐらいにしか考えていないのですが,正統派天文学者からは,ベリコフスキーはオカルトにも等しいと考えられています(蛇足すると,あたしには,もちろん,判断できません).

ヴェリコフスキー,I.(1950)「衝突する宇宙(鈴木敬信,1974訳)」法政大学出版局

うん.ほんとに面白い((^^;).

「夢」を持たせたい

 先日,ある校長と酒を飲んだときに,つい熱が入りまして….

 「小学生は,まともな精神をしていて,夢もある.しかし,中学・高校と進むにつれて,目先のことしか考えず,勉強もしなくなる.いったい教育って何なんだろう!」と,まあ,例によって,こんな調子で校長をいじめてしまいました.相手はさすがに校長だけあって,私のように熱くなることはなかったですが….

 しかし,これは私の間違いですね.
 「今」を見れば,自明のことなのですね.
 学校を卒業して,就職しようとしても…「無い」.
 やっと見つかっても…「ワーキング=プア」.
 まともなところに就職できても,体調でも崩して「一時休業」でもしようものなら,もう働き場所は無い.
 なんとか勤め上げて,年金をもらえる年になっても,昔と違い冗談のような支給額.
 さらにそこから,「天引き」.……!.

 今の子供たちは頭がいいですから,そんなことはすぐにわかってしまうわけですね.
 これでは,子供たちに『夢を持て』というのが,どんなに非現実的なことか.

 若者に「夢を持たせる」ことができない,今の日本という国は,滅びるのが当たり前.
 悲しいことですね.

 

2008年6月6日金曜日

巨大隕石

松井孝典(1998)「巨大隕石の衝突」PHP研究所
磯部琇三(1998)「巨大隕石が地球に衝突する日」河出書房新社

 どちらもほとんど同じ内容.
 宇宙から隕石が降ってきて,地表の生物が死滅するというもの.

 違いは,副題に現れていて,前者は=地球大異変の歴史を読み解く=であり,後者は=人類最大の危機を回避するために=となっています.
 これは,松井氏は専攻が惑星物理学であり,磯部氏の専攻は天文学であることによるものですね(磯部氏は「日本スペースガード協会会長」だそうです).
 だから,同じ恐竜絶滅事件のことを扱っていても,松井氏の方が終章を飾る「大事件」として取り扱われているし,磯部氏の方はイントロとして小さく扱われているのにすぎません.
 両者とも,チチュルブ=クレーターが発見されたあとですから,鼻息が荒い.この時点では(現在でもそうだと思いますが),「地下構造の解析から,どうもクレーターの痕跡と思われる」というのが正確だと思いますが.

 さてこれらは,正確にいうと,地質学の本じゃあありません((^^;).
 だから,第三者的に「おー,面白い,面白い」といいながら読める本です.地質学的な記載や古生物に関することがでてくると,「どれも仮説ジャロ」突っ込みを入れたくなることがありますが,相手が地質屋じゃあないのでしょうがないですね(地質屋がこういう題材で本を書くとは思えませんが).

 さて,松井氏は,チチュルブ=クレーターの実際の調査行も本にしています.
松井孝典(1997)「地球大異変=恐竜絶滅のメッセージ」WAC株式会社
 ただ,肝心なその調査行は,クレーターがあるというユカタン半島には入れず,メキシコ湾周辺で「津波堆積物」があるということだけでした.
 その他のことは,ほかの本にも書いてあるので,地質屋の端くれとしては少しがっかり.コストパフォーマンスは最低でした((^^;).

 さて,古生物屋の端くれとしての私は,(隕石衝突による大絶滅説は)周期的に地表に降ってくる隕石が,生態学的空白を生み出し,それが進化の原因であるというを示しており,ダーウィンをはじめとする「進化論」にこそ,大きな痛手を与えていると思うのですが,その辺りを整理している本はないのでしょうかね.

2008年6月5日木曜日

「蝦夷地質学」のイメージ


 PC中のファイルを整理していたら,以前考えていた「蝦夷地質学のイメージ図」が出てきました.地団研HPで連載中に使えばいかったんですけどね.

 林子平・近藤重蔵・最上徳内・間宮林蔵らの蝦夷地探検の上に,松浦武四郎の探検があるわけですが,一方で,五稜郭や弁天台場を建設した「武田斐三郎」をキーマンとして,地質屋の動きがある.

 明治になって出てきた地質屋である榎本武揚は,彼らの存在を基盤としてあるわけです.

 蝦夷地開拓の方針を巡って,技術者としての榎本とライマンの確執があり,榎本の背後には黒田清隆がおり,ライマンの背後にはケプロン将軍がいる.彼らは,協力したり反発したりして,北海道の開拓を進めて行くわけです.そちらの方は正史ですでにたくさんの人が論じていますから,放っておくとして,地質屋としての見方でいきましょう.

 結局,箱館戦争で黒田清隆に負けた榎本は,今度は開発技術者としての戦いでライマンに負けてしまい,技術者としての道を放棄してしまうわけです.最も,このあと榎本は,政治家として大成功するのだから,「塞翁が馬」です.

 この図には書かれていませんが,このあと,蝦夷地質学の中心はライマンの弟子たちにうつってゆくはずですが,これはまだ資料不足でよくわからない.で,しばらく放っておきます.

 話を少し戻して,
 ライマンは北海道地質調査の際に,江戸時代の蝦夷地探検家である松浦武四郎の作成した地図を使って,石狩川を遡り,旭川をとおり,層雲峡を渡り,開拓峠を越えて,十勝平野へと出ます.その時,武四郎の地図の不正確さに不平を述べるわけですが,事の起こりが,どうやら,上川アイヌの乙名・クーチンコロの動向にあったらしいという推理を「蝦夷地質学」でやりました.

 詳しく知りたい人は,左のリンク欄から,「蝦夷地質学」へ.

2008年6月4日水曜日

Be Gentleman



「この学校の前身である札幌学校には極めて細密な規則があって,生徒達の一挙一動を縛っていたようであるが,その内容に非難すべき点は一つもない.然し,自分が主宰するこの学校では,その凡てを廃止することを宣言する.」

「今後,自分が諸君に臨む鉄則は只一語に尽きる.
    " Be Gentleman "
         これだけである.」

「ゼントルマンというものは,定められた規則を厳重に守るものであるが,それは規則に縛られてやるのではなくて,自己の良心に従って行動するのである.」
「学校は学ぶところであるから…(中略)….」
「出処進退,すべて正しい自己の判断によるものであるから,この学校にはやかましい規則は不必要だ.」
        (大島正健「クラーク先生と その弟子たち」より)

 ご存知,W. S. Clark 師の言葉です.
 我が母校も,最近はやたら「細密な規則」が横行しているようですが,ことあるごとに伝統として引っ張りだされる「札幌農学校」にはそんなものはなかったんですね.

 増補分には面白いことが書いてあります.
 クラーク師が打ち立てた札幌農学校の校風が,いかにして曲げられていったか.軍国主義に突入していく明治政府の方針に" Be Gentleman " だとか," Boys, be ambitious " とかいうクラーク師の言葉は合わなかったんですね.明治中頃から,意図的に抹殺されたようです.
 これが,いまだに「クラーク師は" Boys, be ambitious "などとは言わなかった」などと言われる理由でしょうか.
 そして「…アメリカの影響を払拭し,ドイツ型の技術者養成専学単芸型の教育機関に転身し,もって国家の要請に応える人材を養成し,ひいては北海道帝国大学に昇格してゆく路線を選択したことであった」そうな.

 北海道で先駆的に始まったライマン型の地質学(アメリカ型の実用地質学)が,大学ではいつの間にか忘れ去られ,東大を中心とするドイツ型地質学(象牙の塔型地質学)が導入されていったことと,なにか平行していますね.

 それはさておき,某自治体では,生徒のみばかりでなく,教師まで規則(ほんとに規則と言えるかどうか怪しいが)でがんじがらめにして「教育」と称しているようですが,特殊な古歌を強制して紳士が育てられるかはどうかは怪しいものですね.すでに,明治の初めに答えは出ていたというのに.

 「面従背腹」の人たちが増えて,日本という国家は破綻するのが目に見えています.
 全く権力者という連中は…….

2008年5月28日水曜日

バーサス

J. L. パウエル(1998)「白亜紀に夜がくる(寺島英志・瀬戸口烈司,2001訳)」青土社

R. M. ウッド(1985)「地球の科学史=地質学と地球科学の戦い=(谷本勉,2001訳)」朝倉書店

 「白亜紀に夜がくる」は,ご存知「隕石衝突説」の本です.あ,白亜紀末の恐竜を含む「大絶滅」の原因論のことですね.あらすじはもう,現代人の常識と化していますので,解説する必要もないでしょう.
 「面白いな」と思ったのは,この本の「帯」にかかれているコピー(キャッチフレーズ)のことです.「〈たわごと〉はいかにして〈定説〉となったか」とあります.どこかで,聞いたようなフレーズです.

 「地球の科学史」のサブ=タイトルに見られるような「地質学と地球科学の戦い」ということを話題にするときには,しばしば用いられています.「大陸は移動する」という〈たわごと〉は,いかにして〈定説〉となったか….

 「地球の科学史」の原題は" The Dark Side of the Earth "といいます.訳すると,「地球の暗黒面」(!).
 要約すると(要約すると必ず不正確になるもんですが(^^;),「地球の暗黒面を扱ってきた“(錬金術にも等しい)地質学”は滅びて,“(真の科学である)地球科学”の時代がやってきた」ということです.
 皮肉なことに,日本にプレートテクトニクスが普及することを10年以上に渡って遅らせてきたと言われている地団研の出版している雑誌の名前が「地球科学」です.
 「10年以上に渡って遅らせてきた」と言えば,日本では「地団研」が犯人だそうですけど,海外でも(真実の普及を)「10年以上に渡って遅らせてきた」犯人がやっぱりいるそうです((^^;).「地球の科学史」の「序」に,そう書いてあります.
 「悪」は洋の東西を問わず,常にいるもののようですね((^^;).

 閑話休題
 この手の科学史には,一つのパターンがあります.結果として“勝利した”側を“正義”ととらえ,それまで主流だった(つまり“負けた”)側を“悪”と呼ぶことです.まるで,キリスト教が進出していった地域に元々いた“古い神々”を,キリスト教徒が“悪魔”と呼ぶみたいなことです.
 こういう善悪に二分する欧米的な世界観は,もともと日本人には会わないと思うのですが,“グローバル化”という(じつは)“欧米化”の著しい現代,いつの間にか私たちも,こういうパターンに疑問を持たなくなっています.

 現在の我々は,地質学者(=地向斜造山論者)と地球科学者(プレート論者)が論争して,地質学者が負けたということがあったように思っていますが,そんなことはありませんでした.
 こういう二つの理論があって,一方が生き延びて,もう片方が顧みられなくなることを「パラダイムシフト=パラダイムの転換」と呼ぶそうです.このパラダイムシフトという用語も“勝った側”の好きな言葉ですね.上記,二著者ともこの言葉で説明しています.
 調べてみると,この「パラダイムシフト」という用語も,非常に曖昧なもので,“勝った”側を正当化するために,編み出されたものかしら? と,思うぐらいです.

 さて,今を去ることン十年前.
 ちょうど,有珠山が噴火した年ですから,1977年ですか.北海道大学で地団研の総会が開かれていました.テーマは,「北日本中生代以降の造山運動の諸問題」でしたか.
 当時,私は修士課程に入ったばかりで,層位学をやりながら微化石の研究をしたいなどと,曖昧なことを考えていたお気楽な学生でした.微化石をやっているのに,本人の意思に関係なく,やがて「地向斜論者」と「プレート論者」に色分けされてしまうとは考えていなかった.ただ,北海道で地質学をやっている限りは日高山脈がなぜできたのか,には興味がありました.

 さて,シンポジウムの会場では,聴衆側の席の真ん中あたりで,大声でみなを非難する若者がおりました.若者は「地向斜造山論」を否定し「プレートテクトニクス論」を布教しているようでした.
 お分かりでしょうか?
 当時の北大で,地団研の日高山脈に関するシンポジウムの最中に,「PT論」をぶつ若者がいたのです.あり得ないことなのです.
 多分それは,今の東京工業大学教授・丸山茂徳氏だったのだろうと思います.
 お気楽な私は,その内容を覚えていませんが,こんなことを考えていました.「すごい人だなあ」,「この人,きっと湊正雄の若い頃にそっくりなんだろうなあ」と.

 さて,論争の結果はどうだったのでしょう?
 何も起きませんでした.論争自体が起きなかった.話は噛み合なかったのです.
 科学史上の論争なるものを,後追いすると,いつも似たようなことが起きているようです.二つの理論は噛み合ない.論争によって勝った負けたが決まるのではなく,いつの間にか,結果として勝った方につく研究者が増え,そうでない方は支持者がいなくなっていく.
 そしてある日,「地向斜造山論」に基づく論文は,斯界の雑誌への掲載を拒否されるようになる.
 実は,こういうことが説明できないので,「パラダイムシフト」なる便利な言葉が発明されたようです.

 お気楽な私としては,全く違う立場があれば,“その論争で,地質学自体の質が高まる”などと考えていたので,時代に取り残されることになります.言っときますが,「私は地向斜造山運動論者ではありませんよ((^^;)」.
 どちらの話も面白いと考えていた.言ってみれば,第三者的なところがありますね.
 「無責任だ」って? そんなことはありませんよ.「微化石の研究」と「造山論」とどうやって結びつけます? 地質学をやっていた人の大部分が同じ立場だと思いますね.

 昔,中国で,全く政治とは関係のない古生物の記載論文の冒頭に,毛沢東主席の肖像と彼への賛辞が書かれていました.そうしないと,印刷してもらえなかったようなのですね.かくて,日本でも,冒頭でプレートテクトニクスへの賛辞を述べないと,論文が掲載されない時代がやってきました(嘘ですよ:(^^;).
 でも,いろいろな立場で地球を考えることは,やはり許されないようです.現代科学は欧米に端を発するとはいえ,様々な立場の存在が許されないのは,やはり,キリスト教が根本にあるからなのでしょうか.
 そして,“負けた”方が,暗黒面に封じ込められる….
 悪魔の戯言だと決めつけられる….

 東洋人の考え方だと,「因果は巡る」のですけれどね.

2008年5月26日月曜日

知ってほしいこと

 昨日,「地質学史懇話会会報」が届いたので,目を通していると,面白い記述がありました.
 それは,島津光夫「風景論と風土論について」という論文なのですが,論文そのものではなくて,その「まえがき」にある記述です.そこには,“地質学者が書いた自然についての本はたくさんでているが,一般の人に読まれることはほとんどない”,“地質学の権威から酷評されるような本がベストセラーになっている”という論旨のことが書かれています.

 “どこかで,似たような記述を読んだばかりだな”と思い,記憶を探ってみると,それは,読み終えたばかりの三浦國雄「風水/中国人のトポス」のなかにある「東アジアの風水思想」でした.
 そこには,“まじめな風水研究の本は初版も売り切れずに絶版”,逆に,“机の位置を並び替えるだけで運気向上”などという「ちまちました」風水の本はベストセラー…,ということが書いてあります.



 ここからは,学ぶべきことがいくつも抽出できそうですが,それは置いといてもう一つ.
 いまだに朝のニュースショーなどで頻繁に行われている「星占い」.元々は,ニュートン物理学に従って,「初期条件がわかれば,未来が予測できる」という前程で,行われていたもんです.これも,似たようなこと.本来,その人が誕生した時間の地球と惑星と星座の位置関係などを決定して,その人の性格や未来を予想するというものですが,これは結構な作業を要することなので,こんなことができたのは,金に糸目を付けることのない権力者(王,皇帝,貴族など)の存在が前程です.
 そういう人たちがいなくなって,我々貧乏人の時代でも“占星術師”は生きていかなければならないですから,「薄利多売の時代」になる.
 だから,地球と惑星と星座の位置関係を計算するなんていう,めんどくさいことはやってられない.そこで生み出されたのが,「生まれたときに太陽がどの星座にいるか」だけ.これで,占星術師は“星座占い屋さん”に堕落します.
 以来,星のことは何にも知らなくても,星座占い屋さん”が多産します.
 こういうのにだまされているうちの娘なんかは,私が「今日は水瓶座の運勢は最低だけれど,魚座の運勢がいいから,父ちゃんは大丈夫」というと,「トーちゃんはずるい」などといいます.(^^;
 私は,2月18日生まれで,本当に翌日は魚座に変わります.

 それはともかく,本質的なことは忘れ去られ,“金色の風水グッズを持っていると金運があがる”などということだけが浮き上がる偽物横行の時代(失礼.三浦さんは“ちまちました風水”といってますので,偽物ではなく「ちまちま風水」とよびましょう(^^;).
 読ませたい文章を書くのか,売れる文章を書くのか,選択が迫られます.

 私? もちろん,売れない方を選びます.(^^;

2008年5月12日月曜日

恐竜の謎

「図解雑学 恐竜の謎」平山廉・小田隆(2002,ナツメ社)
「恐竜 雑学 謎と不思議」平川陽一(1990,日東書院)



 比較するのは,ちょっとかわいそうな気もしますが….題名が似ているからというだけです.

 平山さんは,カメ化石が専門の古生物学者.
 海外にもしばしば出かけて,本物の恐竜化石を体験しています.だから,書いてあることはすべて裏付けのあることです.通しで読めば,結構な恐竜通になれます.拾い読みでも面白い.
 なお,この本は著者から「謹呈」で,いただきました.

 一方,平川さんのほうは,「占術・超能力」が専門とか.
 コメントしづらいですが,たとえ正しい情報でも,眉に唾をつけたくなってしまうのは,しょうがないことでしょうか.たくさん本を読んでいるなあ…,という気はします.誤解を招くような記述も多いので,要注意ですね.

2008年5月11日日曜日

恐龍はなぜ滅んだか

「恐竜はなぜ滅んだか」(小畠郁生,1984著,岩波ジュニア新書87)
「恐龍はなぜ滅んだか」(平野弘道,1988著,講談社現代新書906)





 奇しくも同じ「題名」.実は二人の専門は,これも奇しくも「アンモナイト」.
 中身はだいぶ異なります.

 平野さんのほうは,題名どうり「恐龍」全般を解説しているのに比べ,小畠さんのほうは,もっと幅広い「古生物」に関する解説が伴います.これは,小畠さんの本が「ジュニア新書」で子供向けであるのに対し,平野さんの本は一般向けであることに関係があるのでしょう.

 さて,問題の「恐龍がなぜ滅んだのか」ということに関しては,二人の表明は大きく異なります.平野さんのほうが,かなりの紙面をとって様々な絶滅原因説を解説しているのに対し,小畠さんのほうはごく簡略に済ませています.

 この当時は,まだチチュルブ隕石孔は発見されていませんので,二人とも「何にしろ,環境の変化が原因」と済ませているところが面白い.

 チチュルブ隕石孔の発見は,非常にインパクトがありますので,ここの部分は書き換えないと両著とも,もう顧みられることはないでしょう.

氷に刻まれた地球11万年の記憶

 「氷に刻まれた地球11万年の記憶」(R. B. アレイ著,ソニーマガジンズ)
 原題:The Two-Miles Time Machine



 意外と難なく読めました.
 細かいことは気にせずに読むのがコツのようです.

 迂闊でしたが,本の帯に「異常気象=それが地球本来の姿である」とあり,その実態を読もうとしてたのですが,何のことはない,いつも見ている酸素同位体による第四紀気候変動の図のことでした.
 それから,ここ一万年ぐらいは非常に気候が安定しているという判断なのですね.それ以前はたしかに気候変動が激しく常に上下しているようにみえる.
 このことから,人類が定住して農耕を始めたのは,人類の知能が高くなったからではなく,気候が安定したので,農耕が可能になっただけだという判断です.

 なにかのきっかけで,この極端に安定した気候が崩れると(というよりは,これまでは気候は変動しているのが当たり前で,そのために人類は地球を彷徨していたという訳です)カタストロフが起きかねないという訳です.

 なかなか,面白いですが,なぜそういう変動が数年の単位で起きるのか,結局,よくわかりませんでした.

 ボーリングコアの解析では,そんな精度はないと思うんですが….

マンモス絶滅の謎

 「マンモス絶滅の謎」(P. D. =ウォード著,Newton Press)
 原題,The Call of Distant Mammoths: Why the Ice Age Mammal Disappeared.



 巻末の「訳者あとがき」にもありますが,マンモス(そのものについて)の本ではありません.前半半分以上は,マンモスの時代以前の絶滅について書かれており,後半はマンモスの絶滅をテーマに書かれています.

 しかし,マンモスそのものに中心はなく,いわゆる「絶滅論」とか「絶滅論史」とか,抽象的な議論ばかりです.マンモスそのものについて知りたいひとは,買うと腹が立つでしょう.

 著者の文章は,抽象的な「お話し」が多く,なかなか論旨についていけません.「かもしれない」とか,「らしい」が多く,個々のキーワードもいきなりでてきたりして,解説もないので面食らいます.
 多分,「『うちわ受け』的なジョークなんだろか」と思います.

 腹が立つので,ヴェレシチャーギン著「マンモスはなぜ絶滅したか」(東海大学出版会)を探し出してきて,今読んでいます.こちらには,マンモスそのものやマンモス動物群についても詳細に書いてあります.
 もう一つ,こんな昔の本が未だに販売されてることに感動しながら.

 そもそも「マンモス絶滅の謎」をなぜ読み始めたかというと,C.=コーエンの「マンモスの運命」(新評論)を読んだからなんですが.こちらも,本の題名と中身が違います.マンモス研究を題材に,「古生物学の歴史」を概観するのが目的のようです.
 こちらの文章はもっとひどいです.回りくどく,何がいいたいのか,さっぱり伝わってこない.

 最近特に感じることですが,この手の「普及書」は難解な文章が多くて,「読み手」を意識していないんではないかと思わせます.こういう本ばかり出版してたら,「そりゃあ本を読む人はいなくなるわな」と思わせます.
 出版業界の不況は,たぶん構造的なもんなのでしょう.出版社が「書き手」と「読み手」を育ててこなかった.そのつけが今きてるんでしょうね.ついでに言えば,「訳者」も.

 さて,ウォードの「マンモス絶滅の謎」のせいで,もう一冊読まなけりゃあならなくなりました.それは,ここ10万年程度の気候変動の話なんですけど,途中で放り出してあるやつです.最悪な文章なもんで(実はアマゾンの書評にもありますが,訳者が悪いらしい.文章が難解なだけではなく,単語の訳も間違っているらしい).それは,R. B.=アレイの「氷に刻まれた地球11万年の記憶」です.

 気候変動ものの本は増えてきていますが,やっつけ仕事が多いのでしょうかね.