2008年11月27日木曜日

石川貞治・横山壮次郎の地質学(6)

(簡略版・札幌農学校の地質学)

神保グループ
 さて,時計を少し巻き戻して,神保グループについて見直してみましょう.

●新地質調査・概査
 1888(明治21)年:道庁は「北海道新地質調査」を開始します.この事業は山内徳三郎の後任である河野鯱雄が立案し,最初の四年間で概査を行ない北海道全体の地質を押さえること,その後それをもとに有用鉱物の細査を行なう計画で始められました.
 同年,神保小虎を主任とし,その年札幌農学校を卒業した石川貞治が助手となりました.
 翌,1889(明治22)年7月,この年札幌農学校を卒業した横山壮次郎が助手として加わります.この成果は,神保小虎(1890)「北海道地質略論」(北海道庁),神保小虎(1892, 1893)「北海道地質報文(上・下)」(北海道庁)として現れます.
 なお,「北海道地質略論」の表紙には「明治廿二年三月編輯」と印刷されていますが,内容からは,どう考えても「明治23年3月編集」としか考えられません.そうであれば,発行が明治23年5月6日になっていることと調和的になります.

 この三冊は,通常,神保一人の著書として扱われていますが,前述のように石川貞治・横山壮次郎を助手とし,浅井郁太郎を嘱託として調査が進められたものです.そのことは別に隠されているわけではなく,本文にそう書いてあります.石川・横山・浅井らは人夫ではなく,地質学者・技術者として調査の一端を担ったわけですので,現代的な感覚では,共著者として扱われるべきものだと思われますが,そうなっていません.現代の我々の感覚とはずいぶん異なりますので,注意が必要でしょう.
 実際にみられる地質現象はともかく,報告書に現れているそれについての解釈は,神保一人のものだったと考えるのは,穿ちすぎているでしょうか.
 ともあれ明治22年には,前年の調査とともに,前人の調査の記録をまとめて報告しているわけです.

 明治21年には,神保は石川・横山らとともに北海道の所々を巡見しました.これが本当ならば,横山の卒業は明治22年6月ですから,横山は学生のときに神保に随行したことになります.考えられるのは三年生から四年生になるときの夏休みでしょうか.これを裏付けるかのように,横山は「地学雑誌」(第一集第三巻,明治22年3月25日発行)に「北海道の琥珀及建築材」という論文を掲載していますが,このときの肩書きは「札幌農学校」.興味深いことに,横山は言及した「安山岩」についてブラウン博士が「角閃石安山岩」と“確定”したと岩石鑑定を引用しているのですが,これについて神保が「確定せぬ方が宜し」と付言ししています.
 「横山壮次郎の学歴」で前述したように,横山はどうやら「地質学」の授業は受けていない可能性があるのですが,四年生であるこのときには,すでに「地学雑誌」に論文を投稿していたことになるのです.


 「北海道地質略論」は「緒言」のほか,六つの章からなっています.
 以下.
第一 北海道新規地質調査の主意・方法ならびに最初一年半の成績
第二 ライマン調査の結果,その他旧来北海道に関する地質実見の記事
第三 北海道,地勢と地質の関係
第四 北海道,地質構造と鉱物産出の関係
第五 北海道鉱産地
第六 結論

 このほかに,別冊として「北海道地質図説明書(英文)」なるものがあったようですが,入手した資料にはこれは欠如していました.見ていないものについて論じるのはなんですが,いったいどんな「地質図」と「説明書」があったのか,実に興味深い限りです.
 また,神保がこき下ろすライマンの調査と神保の調査とどれほど差があるのか,内容を確認したいところです.現代的な目で比較すれば,それはざっとみただけでもいくつか指摘することができそうです.しかし,それは神保と同じレベルで先人の苦労や業績を否定することになりますので,いずれ別の機会を見てのこととして,ここでは調査ルートの足跡だけを確認しておきましょう.

 初年(明治21)年,神保らは石狩平野以東の海岸部を巡検しました.日高国では主要な河川を見,釧路国では雌阿寒岳やアトサヌプリに赴き,十勝国・釧路国・北見国・天塩国においては時々大川の一部を観察しました.また,幌内炭山や幾春別炭山,湯内の鉱山(余市)や古平の鉱山を巡視しました.
 この年,神保は「北海道庁の旧採集品と西山らの鉱山調査中に集めた地質材料」を参考にして,英文の地質通論と邦文の略報告を道庁長官に提出したとあります.
 翌(明治22)年は,西部の沿岸と鉱山を巡検し,天塩川と石狩川を巡検しました.天塩川は「主要なる支流を大抵略察」し,石狩川は「本流の外に支流・空知川,美瑛川,幾春別川,夕張川等を多少巡視」したそうです.このとき,石川と横山は別行動をとり,石川は利尻島・礼文島にわたり,横山は石狩川の上流・ルベシベ(上川町から北見峠方面に抜ける沢)を調査したとあります.

 つまるところ,神保は語るに落ちて「北海道庁の旧収集品」=ライマンやライマン調査隊の収集品,「西山らの鉱山調査中に集めた地質材料」=旧ライマン調査隊で道庁に集まった技師たち,さらに助手の石川や横山の成果を使ったといっているわけです.それでも「主として自己の実見に依」るものだそうですが….

 横山の初論文はすでに示しましたが,参考までに石川の1890(明治23)年までの論文を示しておきましょう.

  石川貞治(1889)登別温泉及間欠泉.(地学雑誌)
  石川貞治(1889)北海道沿岸の段丘及砂丘.(地学雑誌)
  石川貞治(1890)北海道西部ウス山見聞概略.(地学雑誌)

 1889(明治22)年9月25日発行の地学雑誌(第一集第十号)の「会員の往復」には,神保と石川は冬期間,大学(もちろん東大のことです)地質学教室において研究を行なったこと,横山壮次郎はこの夏札幌農学校を卒業して道庁に採用され,神保とともに北海道を調査中であるとされています.また,大学(もちろん東大のこと)地質学生・淺井郁太郎がある地域で地質調査を行なっていることが書かれており,このとき浅井は東京大学の学生だったことがわかります.

 1890(明治23)年7月には,浅井郁太郎が嘱託として調査グループに加わります.浅井は旧字の淺井になっている場合があります.このときの浅井の肩書きは「理学士」になっています.当時,浅井は理科大学の大学院生でした.
 1892(明治25)年4月25日発行の地学雑誌(四巻四十号)には,「理学士浅井郁太郎氏は過日島根県尋常中学校に赴任」とあります.浅井は1896(明治29)年9月から1897(明治30)年7月まで,札幌農学校の嘱託講師をしています.このとき,浅井の本職は札幌尋常中学校の校長でした.
 以下,参考までに浅井の投稿論文を示しておきます.

  小藤文次郎(口述)金田楢太郎・浅井郁太郎・細川兼太郎(筆記)(1889)普通地理学講義.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1889)ラットリー氏鉱物学初歩.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1890)大風の記事.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1890)石狩国上川地理小誌.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1891)胆振国鵡川巡見摘要.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1892)山相を以て地質を断言する能はす.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1892)ゴビ沙漠の動物.(地学雑誌)
  浅井郁太郎(1892)地熱叢談(第1回).(地学雑誌)

 浅井の「地熱叢談」は第二回目以降は掲載されることはありませんでした.それは多分,就職してしまったからだと思われます.浅井がまた地学雑誌に投稿しだすのは,1908(明治41)年になってからで,その題は「有用鉱物の発見について」でした.

 浅井は,神保グループの中では,主に石狩国全体の概査を受け持っていました.
 この年からは,神保グループの三人は別々に調査を進めました.したがって,明治23年の報文は各人が独立して提出しています(この報文は道庁に提出されたものですが,現在その所在はわかりません).
 明治25年発行の「北海道地質報文(上)」には,各人が調査した地質図のリストがあがっています.これらの地質図の所在も不明ですが,各人がどのようなところを調査したのか具体的にわかります.

1889(明治22)年
  神保・石川・横山「北海道天塩川」
  神保・石川「北海道西部九葉」
  神保・横山「石狩川筋」
  石川「礼文島」
  石川「利尻島」
  横山「石狩国定山渓」
1890(明治23)年
  神保・横山「石狩国空知川」
  横山「十勝国十勝川」
  横山「十勝国ピリベツ」
  横山「根室・釧路間」
  石川「北見国ポロナイ川」
  石川「北見国モペツ川・渚滑川・ドコロ川」
  石川「択捉島」
  横山「色丹島」
1891(明治24)年
  神保「十勝国芽室川・ペルフネ川・広尾川」
  神保「日高国様似川・ポロマンベツ川」
  神保「日高国沙流川・胆振国鵡川」
  神保「石狩国石狩川水源地方」
  石川「北見国頓別・猿払・マシポポイ」
  石川「手塩国天売島・焼尻島」
  石川「手塩国宇園別・築別・古丹別・小平蕊」
  石川「石狩国モイ村コガネ川
  石川「渡島国大島・小島」
  石川「胆振国ポロベツ・シキウ・鷲別」
  横山「根室国離島全体」
  横山「十勝国十勝川水源その他」
  横山「奥尻島」
  横山「後志国泊川・チバシリ川」
1890・1891(明治23・24)年
  浅井「石狩国上川郡雨竜川・夕張川」

 リストを見ればお判りのように,石川と横山は(職制上はともかくとして)神保とは対等の研究者であって助手なんかではないことは明らかです.
 また神保は,このリストに続いてその年までの出版物のリストも掲載しています.

  北海道地質略論(明治23年5月出版,神保小虎)
  北海道地質略図(明治23年5月出版,神保小虎)
  同説明書(英文;明治23年5月出版,神保小虎)
  北海道火山并に火山岩播布の図(明治24年2月,神保小虎)
  北海道地勢并に鉱産の図(明治24年3月,阿曽沼次郎輯)
  北海道地質図(明治24年3月出版,神保小虎)

 これらは所在不明なものもありますが,「北海道地質略図」(明治23年)と「北海道地質図」(明治24年)は北大・北方資料データーベースで公開されており,見ることが可能です.「北海道地質略図」(明治23年)は,神保一人の業績とするのはおかしいのですが,署名は「神保小虎」のみになっています.神保が嫌ったライマンは助手の地質測量生徒のみならず,コーディネーターの秋山美丸の名まで明記したのとは対照的と言えるでしょう.
 ただし,明治24年の方は,調査員として小さく石川・横山・浅井の名が入っています.


 

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