2021年8月13日金曜日

パドレたちの北紀行Ⅶ(松野,1960より)


 10年近く使ってきたMacがどうしても不調となり,これを世代交代し周辺環境も整備しなおして軌道に乗ったのも束の間,ケーブルTVが在来線から光に変わるというので工事.ところがその後,リースのWi-Fiを毎日リセットしなければネットに繋がらないという状態.社の技術者がほぼ毎日原因を探りにくるという,なんとも困った状態になり,先日ようやくクリアーしました.

 その間も,冬の後片付けとか,野菜の植え付けとか,ドタバタしてましたけどね.ようやっと静かにので,探索を再開することにしました.

 と思ったのもつかの間,連日30℃を越える日照り続き,夜は熱帯夜.記録だそうです.クーラーが普通でない地域に住んでると,耐えられません.


 さて,気候も安定化.続きの「パドレたちの北紀行」つづけます.



松野武雄(1960)津軽の切支丹.


 松野武雄は「切支丹風土記」の執筆者紹介によると,「松野武雄 一八六九年弘前市生。弘前中学校卒。現住所・弘前市茂森新町。」とある.いわゆる市井の郷土史家であろう.

 松野は津軽内の古文書については詳細であるようだが,全体像についてはきわめて曖昧なところが多い.また,本項に関係あるところは,ごく少ない.その中から,いくつか拾ってみる.


慶長十九年(一六一四)四月初旬、徳川家康のために、計七十一人の士族信者たちが、監視役人にともなわれて船で来国した。これは当津軽における切支丹流謫の始まりらしく、以来数次にわたって送られてきた。


 ここは説明不足で,江戸幕府(徳川家康)が出した“禁教令”というのは,1612.4.21(慶長十七年三月二十一日)と1614.1.28(慶長十八年十二月十九日)の二つである.

 先のものは,江戸・京都・駿府をはじめとする幕府直轄地で教会の破壊と布教の禁止を命じたものだった.それまでは,江戸幕府は特に反キリスト教政策など取ってはいなかった.ところが1602年にドミニコ会やアウグスティノ会が日本に上陸すると,古参のイエズス会が慎重な布教を求める中,新参の修道会は活発な活動を開始し,幕府の反発を買っていった.キリスト教は幕府の支配体制に組み込まれることを拒否したからである.

 また,日本との貿易権を狙うイギリスやオランダ(プロテスタント国家)の暗躍や,国内神仏勢力の抵抗もあったといわれる.そんな中で貿易に関する不正が発覚した事件の関係者がキリシタンであったことから,一挙に幕府(徳川家康)を硬化させ,犯人の処刑と同日に幕府直轄地に禁教令を発布した.1612.4.21(慶長十七年三月二十一日)のことである.キリシタン大名は改易され,一部は島流しなどにあった.しかし,潜伏したものも多くいたという.

 1614.1.28(慶長十八年十二月十九日),家康は禁教令を全国に拡大し,本格的な弾圧を開始した.家康亡き後の幕府は,事態はキリスト教への寛容さに端を発すると考え,続くキリシタンらの不祥事に不信感を増大させ,これが「元和の大殉教」を招くことになる.

 津軽へ送られたキリシタンは,この初期の追放者とみなされているが,それよりも,彼らは「関ヶ原の戦い」後,改易された宇喜多家の家臣団の一部らしく(そのことは下記に続く),上記松野の記述ではキリシタンであるが故に追放され,また続いていくどもキリシタンが送られてきたような記述である.これらについての正式な記述はまだ見出されない.



この人たちは備前安芸領主浮田秀家*家中の人々が多く、しかも女子供を混えた貴族級の一行である。領主二代信枚は、その行状にいたく同情して、そのまま信仰を許し、城(弘前城)外の広い荒地を与えて開墾せしめたが、この地はおそらく鯵ケ沢港(弘前西方七里鉄道に添う)と弘前の城下との中間に位して、道路に添うた鬼沢村**(弘前市西方二里)であろう。鬼沢村は昔備前村と称せられたのを見ても、この一行はここに住んだものと見られている。当時弘前城内三の丸に秀家の浪人どもが、召抱えられて、備前町という一町をなしていた。なおさらに津軽家の江戸邸に勤めていたものもある。またここの城下には備前屋と称する商人たちも居る。後にはこの同国人たちは、士庶互に相通じ相婚していた。


 * 浮田秀家:宇喜多秀家であろう.「浮田」とは八丈島に流された宇喜多秀家が名乗った姓らしく,津軽に流された家臣が浮田家の家中を名乗るのは,しっくりこない.

 **鬼沢村:現青森県弘前市鬼沢.


 松野説では,鬼沢村が流刑地(入植地)であると推測しているが,2)鯵ヶ沢から弘前の間で特定できない,3)高岡(すなわち弘前市),4)十三合(十三湖),などあって確定していないようだ.

 また,「当時弘前城内三の丸に秀家の浪人どもが…」以下の話は証拠が示されていない.引用ぐらいは示すべきであろう.


慶長十九年(一六一四)より翌二十年(一六一五)にかけて、津軽では前代未聞の大飢饉が襲来して、目もあてられない哀れなさまであった。ときに江戸市中に隠れていたエロニモ神父(国籍不明)*は、この凶荒の信者たちを慰さめるために、多くの救助品を携えて入国したが、この間における津軽信者の忍耐謙遜の状況を報告している。土地の記録にも信枚は、この慶長十九年大阪表に出陣、翌二十年十二月末に下着しているが、封内街道筋には死人累々としておびただしく、これを飛越え飛び越え御通リ、とある。また藩は財政窮迫中のこととて、その救済の如きもいと心細いものであった。

このときジュジェット会の神父デ・アンジェリスが、江戸からこれも津軽と松前にきて、親しくこの有様を見て、見渡す限り家もなく、畑も見当らず、盗賊の横行さえあったと述べているが、いかにも当町の有様がよくうかがわれる。


 * エロニモ神父(国籍不明)は初出か?

 パジェス(1869)以外に,この当時の津軽のキリシタンについて記述した資料はないはずであるが,それならば,「エロニモ」ではなく「ヒェロニモ」という表記になっているはずである.また,同時期に「ジュジェット会の神父デ・アンジェリス」とあるが,「ジュジェット会」という表記は非常に珍しく,通常は「イエズス会」と表記される.

 また,松野の記述からは,「ジロラモ・デ・アンゼリス」以前に,津軽(and松前)にきた外国人宣教師がいたことになると主張していることになり,独自の見解である.なお,松野の「エロニモ」が「イエローニュモス(Ιερωνυμος:「神聖な名」という意味)」からの派生語であるとすれば(まず間違いなく「そう」であろうけど),松野が「デ・アンジェリス」と書いた神父の名そのものである.

 なお,飢饉はキリスト教徒以外の人民にも等しく舞い降りたはずで,そんな中キリスト教徒たちだけに救援が届いたのでは,反キリシタンの民衆が増えたのも一理あると思われる.


(中略)


元和五年(一六一九)、この年の夏、イエズス会*のガルバリオ神父(ポルトガル人)は、坑夫として秋田に入り**、十五日間滞在、さらに商人を装うて和田勘右衛門と名を改め、従使である日本人伝導士は板屋善兵衛と称して、矢立(青森・秋田両県堺)の嶮を越えて、高岡城下(弘前のこと)に入リ、十八日間信者の慰問と伝道につとめ、さらに松前に赴いた。


* 前段落で「ジュジェット会」と書いた松野は,この段落では「イエズス会」と書いている.こういうやり方は通常あり得ない.もしかしたら,各段落によって「引用文献」が異なるのかも知れないが,松野は引用を示していないので,追跡が困難である.

** 坑夫として秋田に入り:記述されているところによれば,「坑夫として」行ったわけではなく,関所を越えるための道中手形をそう偽造したというだけである.



元和七年(一六二一)ガルバリヨ神父*は、またまた松前出帆、日時不明、弘前へ一里半程の港に着港したという。油川(青森から北へ一里半位)らしい。この時の師の記述に、京・大阪・越前・越中・能登・加賀などの信者になつかしく逢ったとある。この諸国から集まった信者たちは、商人として弘前の街にそうとう入込み、しかもすでにかなりなおちついた生計を立てていた。しかし商業に適さない農耕武士たちの生活は、寒国の農業法に馴れないため、甚だ不仕合せなものであったと思われる。また士族農耕者の外に、ここに集まった信者の大半は、やはり百姓となったが、藩の方針も専らこれが奨励に努めていた。


* :「元和七年(一六二一)」「またまた松前出帆」と書いてある.つまり三度目の渡航である.この記述と整合的なのは,フーベル(1939)である.前段落で「ガルバリオ」としていて,この段落では「ガルバリヨ」としていることはもう問わないが,フーベルが言及しているのは「ガルバリオ」ではなく,「デ・アンジェリス」である.いったい誰のなにを引用しているのか,わかりかねる.

 ただし,私の勘違いということもありうるので,後日問題点を整理して,見直す必要があるかも知れない.



かくて、岩木村方面(弘前西方二、三里、駅よりバスあり)、大光寺方面(弘前東方一里半、二里、駅より電鉄あり)、目屋方面(弘前南西方三四里駅よりバスあり)などの比較的土地の肥えた方面に集まっているが、その他、海岸に出て半漁半農の暮しをする者、及び目屋の尾太金山*(弘前南方七、八里、バス途中まで)、虹貝金山**(弘前東方三里位、途中まで電車あり)などに潜入して、坑夫となったりなどして、おのおのそこを永住の地として生計にいそしんでいた。

とりわけ鉱山の如き***は、山中深く目立たない場所であるから、諸国の世をはばかる信者たちが集まり、相寄り、時ならぬ繁昌振りであった。





* 尾太金山:尾太(おっぷ)鉱山.「金山」と書いてあるが,銀・銅鉱山だったらしい.高度経済成長期には黄鉄鉱・黄銅鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱を産した.いわゆるグリーンタフの銅・鉛・亜鉛鉱床である.(地質図あり)

** 虹貝金山:歴史関係の記述には出てくるが,地質鉱床関係の論文は見当たらない.おそらく虹貝川中上流にあったものと推測できるが,不詳.

*** とりわけ鉱山の如き:鉱山が特殊社会であったというのはよくいわれることであるが,確かにそうであろう.しかし,当時の一般社会の人別の厳しさと,鉱山社会のの特殊性を明示しなければ,この論は成り立たない.と思う.それにつけても,この当時の鉱山に関する資料や研究が少ないのは如何ともし難い.


ガルバリヨ神父は,ここを去って碇ケ関*(弘前より東方五里位、鉄道沿線)の難関を越えたが、幸い切支丹である関所役人の心ある取計いによって、無事に通過している。


* 碇ケ関:青森県平川市碇ヶ関碇ヶ関.天文十二年(一五四三年)この里に、後に「厳重なること、箱根の御番所などの及ぶ事にあらず」(古川古松軒「東遊雑記」)とまでいわれた関所が置かれ「嗔の関」と呼ばれました。これが転訛して「碇ヶ関」となったようです。(現地案内板より)

 古松軒が書くほど厳しい関所をなぜ通過できるのか.そもそも追放令が出ているキリシタンがなぜ関所役人(しかも相当上位)にとどまっていられたのか.数行で終われるようなことではないはずであるが.


 以上のように,松野(1960)は記述もその内容も曖昧であり,かつ蝦夷地もしくは切支丹がいたといわれる鉱山についても記述はなく,引用する価値はないものと思われる.


2021年5月9日日曜日

パドレたちの北紀行Ⅵ(今村義孝,1960より)


今村義孝(1960)秋田の切支丹.


 今村は1909年,熊本市生まれ.東京高等師範を卒業して,当時秋田大学教授だった.秋田大学は むかしから鉱山関係が有力で,その理由は…たぶん…この後わかるだろう.


 秋田藩は近世初期のキリスト教伝道には後進地であった.今村はキリシタン宗門の歴史を

 第一期:1548(天文十八)年から1587(天正十五)年

 第二期:1587(天正十五)年から1614(慶長十九)年

 第三期:1614(慶長十九)年から1640頃(寛永鎖国前後)

 の三つにわけ,秋田藩への伝道は第三期に始まるものとしている.期区分の根拠は述べられていない.

 想像するに豊臣秀吉が伴天連追放令を出したのが1587年7月24日(天正十五年六月十九日)であり,大坂冬の陣の始まり(豊臣家が滅び徳川家康が天下を取った)が1614年12月19日(慶長十九年十一月十九日)からであろう.


 1613(慶長十八)年のある記録によれば,「ペードロ人見は数年前伏見で洗礼を受けた一人のキリシタンで,京都」から「出羽の国に往き,200人以上に洗礼を授けた」という.

 その頃,「院内銀山(雄勝郡雄勝町:現・湯沢市院内銀山町)の山奉行であった梅津正景の1613(慶長十八年四月)の日記の中に、ペイトロ(Pedro)、ミゲル(Miguerl)、ジュアン(Juan)、アンナン(Anna)などキリシタン武士と考えられる人々との文通が記録されている」という.


 また,「寛永元年(1624)三月十一日付けで佐竹義宣が江戸から梅津憲忠に送った書状の中に、

秋田仙北郡金山に居候者の中にタイウス宗旨(キリスト教)の者これある由、他国の者に候間、私に成敗致す儀、如何これあるべく候。」とあるそうである。

これにより今村は「ペードロ人見の影響を受けた者のほかに、仙北地方の諸鉱山にはキリシタンである他国者が鉱夫として、多数働いていたことを示している。」としている.



付図1(今村,1960より)


慶長年度以来元和年間にかけて、院内銀山をはじめ各地に金・銀山が開発きれてきた(付図1参照)。そのために、多数の稼ぎ人をこれらの山に吸収することになった。この時期は関ケ原戦の後をうけ、敗れた西軍の大名で除封されたり、滅封されたりした者が多かったので、多数の武士が牢人となって放出された。反対に大名に成り上がったり、増封された大名たちは家臣団の拡張に努めたので、牢人の中には、新たに主取りできた者も多かったが、食を求めて流浪する者も多数あつた。


慶長一二年(1607)院内銀山で始めて山仕置奉行が置かれた時の調べによると、全国各地から牢人や山師が多数おり、その中には備前浮田氏の重臣田太市右衛門もいたことが知られる。寛永元年(1624)院内銀山で捕えられたキリシタンについて、その負える国名や地名を見ると、仙台・関東・越後・越前・駿河・尾張・伊勢・播磨・備前・石見などが知られ、そのことを裏書している。いかに院内銀山が栄え、そのために各地から人口集中が行われたかは、一六二五年(寛永二年)の日本年報の中に、

出羽国の仙北と呼ばれる地方に、院内(Ianai)という土地があって、きわめて豊富な銀山であって、日本全国から人が集まっている。

と、あることや、開山された頃、山小屋千軒、下町千軒、数二千軒の銀山町ができたことでも知られるであろう。

 院内銀山の山奉行の調査によれば,「全国各地からの牢人や山師が多数」いた.

 「日本年報」:正式には「イエズス会日本年報」というらしい.1597(天正七)年,布教のため来日したイエズス会士によって毎年作成された報告書のこと.「日本の政治情勢、教会の状況、各地のようすなどが報告された」という事なので,なにかありそうだが,現在入手不可能.

 ここでも「…千軒…」が出てくるが,実際に千軒あったというよりは,鉱山開発などでたくさんの人員が必要な場合,短期間でたくさんの住み処が建てられるこの様子を表したものという,ことであろう.


 今村のいう第一期に膨張したキリシタンは武家社会のみならず,各階層にキリシタンを多産した.一方で,豊臣から徳川に天下が変わった社会情勢からは,多数の余り者を生み出し,そうした余り者を吸収する場所として,当時盛んに開発された鉱山は格好の受け皿だったのだろうと.今村は以下のようにいっている.

むしろ、院内銀山のキリシタンたちの中には、そのような各地のキリシタンの中で、安住の地を鉱山に求めて、集まり住んだものもあったにちがいない。


 今村(1960)は「二 伝道とコンフラリヤ」という章の中で「ジロラモ・デ・アンジェリス」と「ディエゴ・カルバリオ」という項目を設けている.

 以下,「ロラモ・・アンリス(Girolamo de Angelis)」より.


慶長一九年(一六一四)江戸幕府は全国的なキリスト教禁教令を公布すると共に、京阪地方の主要なキリシタンを津軽(青森県)外ヶ浜に追放した。そのキリシタン等はそこで貧困な状態のうちに開墾に従事し、物質的にも精神的にも救済を求めていた。

 京阪地方:前出に「京坂地方」があるのだが,大坂が大阪になったのは明治なってからの事なので,ここでは「京坂地方」が正しい.

 津軽(青森県)外ヶ浜:現在の外ヶ浜町とは違う.当時は陸奥湾西南部(竜飛から青森を通って狩場沢辺りまで)のこと.


津軽キリシタン救済のために、九州の信徒の集めた金と布施とを持って、元和元年(一六一五)東北地方に赴いたのがパードレ・ジロラモ・デ・アンゼリスであった。その時以来、信仰の自由が認められていた仙台を根拠地として、東北地方に伝道の旅をつづけ、特に出羽・津軽・エゾ地における開教者となったのである。その東北伝道は命を受けて江戸に去った元和七年(一六二一)までの六年間であった。

 東北地方に伝道の旅をつづけ、特に出羽・津軽・エゾ地における開教者となった:このようにいわれることが多い.たぶんそうなのであろう.しかし,記述に具体性を欠き,余り参考になる事例は見つからない.


 続いて「ディエゴ・カルバリオ(Diego Carvaglio)」についての記述がある.

 日本では,当人の記述はめったに見つからない.この時点でググっても出てくるのは私のブログだけである.一方,Wikipediaには英語版・独語版・仏語版・波蘭語版・葡萄牙語版に「Diogo de Carvalho」の項目がある.内容的にも,当時蝦夷地へやってきた人物に違いない.

 参考までに,各国版の名前

 Diogo Carvalho(独語版)

 Diogo de Carvalho(英語版)

 Jacques Carvalho(仏語版)

 Jakub Carvalho(波蘭語版)

 Diogo de Carvalho(葡萄牙語版)


 という風に,Diego Carvaglioという表記は見つからない.なお,当人はポルトガル人であるから「Diogo de Carvalho」と綴られるべきであると思うが,これを日本語カタカナ表記でどうすべきかはわからない.


アンゼリスに次いで秋田藩領の伝道に最も深い関係を持ったのはパードレ・カルバリオであった。カルバリオが東北にきたのは元和三年(一六一七)であって、それ以来出羽・津軽及びエゾ地の伝道に従事した。その伝道は寛永元年(一六二四)に仙台領下嵐江で潜伏中捕えられるまで七ヵ年つづけられたのである。

 元和三年(一六一七):こちらも,今村は旧来の説を遵用し児玉説は取らない.あるいは児玉ほか(1954)を読んでいないのかも知れない.

 出羽・津軽及びエゾ地の伝道に従事:その時期などを知りたいのだが,これでは残念.



その場合に問題になるのは、外国人宣教師としての言葉の障害や困難な風習の理解と、潜入伝道のむずかしさであった。元和三年(一六一七)秋田領から津軽に潜入したヤコモ・ジュウキ(Iacomo Giuchi ディエゴ結城師父)のように、日本人の場合は問題はなかったと思われるけれども、外国人として未知の地方ヘ伝道するのに、アンゼリスは「善く日本語に通ず」といわれ、カルバリオは「少しく日本語を解す」とあっても、日本人同宿の援助が必要であった。いわば、同宿はパードレと同行し、その手先となって伝道に力をつくした人たちであった。

 言葉の障害や困難な風習の理解:日本人に化けるにしても,髪の色はともかく虹彩の色などは変えようもなかったので,潜入は難しかったと思う.また,一年やそこらの日本語学習で,役人にバレないほどの方言や生活習慣を身に付けられたのか疑問に思う.特に藩ごとに独立していた当時の社会では,他国のひとや幕府の隠密などに警戒が厳しかったと思われ,外国人がうろついていたら,まずキリシタンと思われるのが間違いないところだろうとも思う.

 同宿で回りを覆って,本人は出来るだけ目立たない様にでもしていたのだろうか.


元和元年(一六一五)津軽に潜入したアンゼリスは医者をよそおい、元和五年(一六一九)カルバリオは仙北の鉱山地帯に伝道する時や、その翌年(一六二〇)秋田から松前(北海道西南半島部)に渡る時には、鉱山の監督として潜入したり、鉱夫の服装をして渡海している。山師・金掘りに偽装したのは、この頃の金・銀山開発の奨励のため、それらが諸国鉱山を自由に遍歴し得る特権が与えられていたのを利用したものである。またその年秋田から津軽へ潜行する時にはカルバリオは商人の服装をして、ワタ・カンエモン(Vata Canyemon 和田勘右衛門)と名のり、同行の同宿はイタヤ・キヒョーエ(Itaya Chifioye 板谷喜兵衛)と改名して、共に津軽の番所を通過している。その帰りに秋田から仙北地方のキリシタンを訪問する時には百姓の服装をしていたというように、それぞれの場合に応じて偽装潜行しなければならなかったのである。

 アンゼリスは医者をよそおい:パジェス(1869;吉田,1938訳)には医者を装ったという記述はない初出か? また,出典はなにか?

 鉱山の監督として潜入したり、鉱夫の服装:パジェス(1869;吉田,1938訳)には「旅手形には,坑夫として書いて貰つた」とあり,「監督」は初出である.

 その年秋田から津軽へ潜行する時:パジェス(1869;吉田,1938訳)には「一神父は坑夫として…」としているだけで,カルバリオとは書いていない.初出か?


 伝道当時の峠越えの道は余り明らかでないが、一七世紀後半に仙台領から秋田領にはいるには三つの道があったという.


(1)仙台領尾ヶ沢―水落峠(鬼首峠、八三〇米。雄勝郡雄勝町秋ノ宮)―下院内(雄勝郡雄勝町)。:すでに地名情報が古いので書き直し:国道108号線軍沢より鬼首道路沿いに旧道に入り,大崎市鳴子温泉⇄鬼首峠(815m)⇄湯沢市秋丿宮⇄湯沢市下院内

(2)仙台領寒湯―四段長根(七四六米。雄勝郡皆瀬村)―湯沢(湯沢市)。:すでに地名情報が古いので書き直し:国道389号線沿い.栗原市花山本沢温湯⇄花山峠(741m)⇄皆瀬川⇄湯沢市

(3)仙台領下嵐江―柏峠(一〇一八米)―幡松峠(雄勝郡東成瀬村)―増田(平鹿郡増田町):すでに地名情報が古いので書き直し:“下嵐江”は現・奥州市奥州湖に水没.柏峠,幡松峠はすでに国土地理院地図より消滅.旧称仙北街道といわれ,下嵐江から小胡桃山~大胡桃山を通り,ツナギ沢に降りて栃川を下り,小出川を渡って向いの尾根筋を登り,そのまま尾根沿いを柏沢を見下ろしながら1018mピークに向かって西進し東成瀬村界沿いに行くところを「柏峠」と呼んだらしい.そのまま岩ノ目沢を見下ろしながら東成瀬村と奥州市胆沢の境界沿いに,959mピーク,887mピークを渡って秋田県側にはいるルートがあったらしい.(岩手県文化財報告書,43集)

(付図1参照)


 そして,いずれも「山坂難処にして、牛馬通ぜず」といわれる難所である.

 今村(1960)は「下嵐江からの道は、その東端に仙台領水沢があり、そこは仙台藩キリシタンの中心後藤寿庵領見分に近く、多数のキリシタンがいた。下嵐江もまたキリシタンの村であり、峠を下って山道を出れば、仙北の平野がひろがり、周辺の鉱山入の道も開かれていたので、最も利用されたものとも思われる。」としている。


 一方,秋田から津軽へいく道は,矢立峠(北秋田郡花矢町矢立:現・大館市長走陣場)を越えて碇ケ関にでる羽州街道が利用されたようであるとしている.

 また,元和八年(一六二二)には荘内地方のキリシタンに招かれたカルバリオが、酒田に三日滞在した後、そこから秋田藩の久保田(秋田市)に行ったとあるから、由利を経て潜入する場合もあったとある.

 由利とは,秋田県(出羽国・羽後国)にあった「郡」のこと.現在の「由利本荘市」・「にかほ市」・秋田市の「一部」にあたる.


 カルバリオの伝道の詳細については明らかではないが,元和五年(一六一九)仙北と秋田で半月間、その翌年(一六二〇)には久保田(秋田市)のほかキリシタンの地七箇所、銀山一箇所を廻り、その旅は三ヶ月にわたったといわれる。また,イエズス会の記録では以下.


院内(雄勝郡雄勝町院内。奥羽線院内駅下車)*1、寺沢(雄勝郡雄勝町寺沢。奥羽線横堀駅下車。秋宮温泉行きバス10分)*2、薄井(平鹿郡大雄村。奥羽線横手駅下車。横荘鉄道館合駅下車)*3、善知鳥(仙北郡千畑村善知鳥。奥羽線大曲駅下車。羽後交通バス黒沢行一丈木下下車。徒歩一時間)*4、久保田(秋田市*5の五箇所であって、これに万治二年(一六五九)キリシタン調べにあらわれている、下院内(院内の一部)*6、横堀(雄勝郡雄勝町。奥羽線横堀駅下車)*7、湯沢(湯沢市)、豊前谷地(平鹿郡浅舞町地内。横荘鉄道浅舞駅下車)*8、角館町(仙北郡角館町。奥羽線大曲駅乗換え、生保内線角館駅下車)*9、刈和野(仙北群西北仙北町刈和野。奥羽線刈和野駅下車)*10、上淀川(仙北郡協和町。奥羽線羽後境駅下車、東南二粁)*11、比井野(山本郡二ツ井町。奥羽線二ツ井駅下車)*12、小勝田(北秋田郡鷹巣町小田。奥羽線鷹巣駅下車。西南約4粁)*13の九箇所を加えると一四箇所となり、広範な地域に伝道されたことがわかるのである(附図1参照)。


 地名は,現在大きく変わっているので以下に示す.大合併は大迷惑である.

*1:院内(現・湯沢市上院内小沢)

*2:寺沢(現・湯沢市寺沢)

*3:薄井(現・秋田県横手市雄物川町薄井)

*4:善知鳥(現・仙北郡美郷町千屋善知鳥)

*5:久保田(現・秋田市千秋公園)

*6:下院内(現・湯沢市下院内)

*7:横堀(現・湯沢市横堀)

*8:豊前谷地(不明.浅舞町は現・横手市南西部.備前谷地なら現・横手市平鹿町中吉田備前谷地)

*9:角館町(現・仙北市角館町)

*10:刈和野(現・大仙市刈和野)

*11:上淀川(現・大仙市協和上淀川)

*12:比井野(現・能代市二ツ井町比井野)

*13:小勝田(秋田市豊岩豊巻小勝田)


 今村(1960)は,秋田領にはこれほど広域にかつ大人数のキリシタンがおり,堅く組織されていたからこそ,パドレたちが潜入でき,ある種拠点のようにここからまた別の地域に潜入できたに違いないと言っている.

 逆にいえば,これほど大規模な秘密組織が国内に形成されたからこそ,弾圧が強まったといえるだろう.

 この時期(1622(元和八)年),仙北地方に起きた事件に「大眼宗」事件というものがある.大眼宗なるものの正体もよくわかっていないのだが,今村の示すところによると「大眼宗は鉱山地帯で多く信仰され、その宗旨は神仏を信ぜず、太陽と月とを崇拝し、奇蹟を行ったとあるから、一つの民間信仰として発達したものであろう。」とある.「…とある」と書かれているが,なにに書かれてあるのかも不明な曖昧な書き方である.

 その曖昧な情報をまとめてみると,1)鉱山地帯に信者がおおくいた,2)「神仏を信ぜず」が「宗教」といえるのかどうかは定かではないが,「キリスト教の神」や「八百万の神」を信じないというのはある意味理解できる.また「仏を信じない」というのは「覚者を信じない」という意味を計りかねる言葉になるので,よく意味合いが分からずにどこかから引用したものであろう.「太陽と月とを崇拝し…」は太陽と月を“神”として崇拝したとなるから,文中矛盾が生ずる.これはやはり,既存の「仏教でいう仏」や「八百万の神」また西洋から入り込んだ「キリスト教の神」も信ぜずに「太陽と月とを崇拝し」たということであろう.この当時でも,科学的思考の人たちは少なからず,いたのかも知れない.

 その大眼宗の起こした事件というのは,これもまた曖昧であるが,「その信徒と横手城士との衝突事件をいう」とある.「起承転結の起」がないため,何ごとが起きたのかわからないが,「承」として「信徒六〇余名が捕えられ、処刑された」という.そして「転」として「その中に二人のキリシタンがいたため」、「結」として「大眼宗とキリスト教とが混同され、迫害がキリシタンの上にはねかえってきたのである。」というまったく分けのわからない事態が生じる.

 この通りだとすると,取り締まる側が取り締まる連中のことを区別できずに処刑しているので,まずあり得ないことだろう.なにか重要な情報が欠如しているに違いない.関係研究者の更なる努力を望むところである.


 しかし,この二年後から弾圧が強化され,キリスト教徒であるかないかにかかわらず,疑いが持たれたものは捕縛され,処刑されるようになっていったらしい.以下,しばらく処刑の様子が続くが,このレポートとは関係が無いので,略する.


 やがて,「寛永元年(一六二四)の一月パードレ・カルバリオが仙台領下嵐江で捕えられて後、キリシタンを救済し、信仰をひろむべき宣教師の潜入も絶えてきた。」.さらに「秋田領のキリシタンは継続的な弾圧の嵐の中に次第に埋没して、消え去って、その跡を残すことがなかった。」とある.


 残念なことに,デ・カルバリオの足跡はたどれなかったが,当時のキリシタンにとっての秋田領という地域はどのような意味を持つか,何がしか知ることができたろうと思う.


2021年4月21日水曜日

パドレたちの北紀行Ⅴ(小野忠亮,1960より)



 長期間にわたって,児玉ほか(1954)の解析を進めていたのですが,あまりの障害の多さに一旦あきらめて,ペンディングとします.必要があれば戻ることとしましょう.

 それで,今回は「小野忠亮(1960)仙台の切支丹」から,デ・アンジェリスとデ・カルバリオの仙台での足跡を追ってみます.


 小野忠亮(1960執筆時の情報)1905年弘前市生まれ.カトリック神学校卒.当時カトリック司祭.主著「宮城県とカトリック」.



仙台藩にキリシタン伝道のいとぐちを開いたのは、慶長十六年(1611)の冬、ローマへの南欧遣使の問題で仙台へきたソテロ(Luis Sotelo)だが、藩内にゆっくり腰を据えて伝道に従事したのは、元和元年(1615)の春仙台へきたアンゼリス(Girolamo de Angelis)だといわれていた。

 この一文で,小野は先行する研究である児玉ほか(1954)を読んでいないことがわかる.児玉らは旧研究とアンジェリスの報告書から,アンジェリスが蝦夷地に来たのは1618(元和三)年と結論(修正)しているからである.



表:児玉ほか(1954)におけるアンジェリスの渡蝦年の検討


 小野はこのあと,ソテロに先行して二人の日本人キリシタンが仙台を訪れ,キリシタンを伝道しているという只野淳・小野伸の説を紹介しているが,疑問に思っているようである.ソテロは南欧遣使を企てる伊達政宗に呼ばれたもので,この遣使問題に没頭していて,藩内での普及伝道は大きな成果を挙げなかったようである.そして1613年10月28日(慶長十八年九月十五日),支倉一行とローマ遣使の旅についていってしまった.


ソテロが去ってから数年後の元和元年(一六一五)の春、ソテロとおなじイスパニア国人で、イエズス会の司祭アンゼリスが、仙台へきて、藩内にとどまり、ここを根拠地として、藩内だけではなく、ひろく東北各地をとび歩いて、伝道に従事し、さらに蝦夷(北海道)へも足をのばし、蝦夷伝道の端を開いた。

 「蝦夷(北海道)」について.蝦夷とは日本側の呼称で,当時は「アイヌ民族」の事,人の事である.北海道の旧名としてならば「蝦夷(の住む)地」を使うべきである.

 したがって「蝦夷伝道」は「蝦夷地(における)伝道」でなければならない.なぜなら,蝦夷地にはすでにキリシタンである「シャモ(和人)」が多数おり,その後の記録を読んでも蝦夷(アイヌ)に伝道をしたとは思われない.

 小野(1960)は,このあとデ・アンジェリスの行動について略述しているが,同報告の末尾にあるデ・アンジェリスについての「人物略伝」にも,同じ事を含めて繰り返している.こちらは生年から殉死までをまとめてあるので,そちらの方に移動する.


アンゼリス(Girolamo de Angelis)

イタリア国人、シチリア島に生れる。十八歳のときイエズス会に入会、ポルトガルで司祭の位をうけ、インドのマカオにきて伝道に従事したのち、慶長七年(一六〇二)日本にきた。

 日本に来るまでの略歴である.初出はパジェス(1869)である.


一ヵ年を日本語の学習に費した後、伏見に修道院をつくって院長になった。それから間もなく江戸に出で、そこに修道院を設立する仕事をはじめた。しかし、土地の買収を終えたその日に、家康の宣教師追放令が出たので、江戸を去って駿河に退き、京都へ行き、他の宣教師たちと長崎で落ち合い、そこにかくれていた。元和元年(一六一五)の春、津軽へ流されたキリシタンを慰問するため仙台へき、仙台から水沢を経、奥羽山脈を越えて、出羽(秋田)の仙北(横手市附近)へ出、さらに出羽と津軽の境である矢立峠をこえて、高岡(弘前市)につき、流人を慰問した。

 「津軽へ流されたキリシタン」:1614(慶長十九)年,禁教令によって津軽の高岡(弘前市)へ流された京坂地方の信者たちのこと.当時の津軽は天候不順であり,もともとハイソな「京坂地方の信者」は農作業に慣れてもいなかったため,食べるものにも事欠く事態であった(残念な事に,記述はパジェス,1869の丸写しである).一方で,大量の物資の搬入は,同じ飢饉に苦しむ津軽の農民たちの感情を刺激したであろう.

 津軽のキリシタンを慰問するために,仙台から水沢(現:奥州市)を経て,胆沢川沿いに遡り奥羽山脈を越えて,横手盆地(山北(仙北)三郡)にでて,(ここからしばらく行程不明になるが)矢立峠を越えて,弘前に行った,としている.この行程記録は初出である.あまり選択肢はないとはいえ,根拠も示さず書くのはどうだろうか.


仙台藩に、キリシタン伝道の、いとぐちを開いたソテロの後をうけて、伝道に従事して多数の信者をつくっただけでなく、蒲生・上杉・最上・南部・津軽・佐竹など全奥州の諸藩、さらに越後・佐渡、日本の外といわれた蝦夷(北海道)までも行って、伝道した。元和七年(一六二二)アンゼリスは,二回目の蝦夷訪問を終ったとき、上長から江戸へ転任を命ぜられ、江戸へゆき、そこにとどまって、江戸市中だけでなく、伊豆や甲斐へも出かけて伝道した。

 著者本人が,「ソテロは南欧遣使を企てる伊達政宗に呼ばれたもので,この遣使問題に没頭していて,藩内での普及伝道は大きな成果を挙げなかったようである」と書いているのに,違和感がある.

 デ・アンジェリスが訪れた場所が列記しているだけで詳細が無いのは残念である.

 なお,「蝦夷」は人の事(ここではアイヌ)で「蝦夷地まで」と書くべきである.


元和九年(一六二三)の迫害で、十二月四日、ガルベス、原主水ら五十人の信徒と共に江戸で火刑をうけ、五十三歳で殉教した。

 処刑の日はパジェス(1869)と同じであり,「十二月四日」が西暦か和暦かわからないのも同じである.


 元(本文)へ戻る.

 1615(元和元)年の春,デ・アンジェリスが仙台にやってきた.津軽のキリシタンを慰問したあと,仙台に居着いた.



表:児玉ほか(1954)におけるカルバリオの渡蝦年の検討


 つづいて1617(元和三)年,ポルトガル人でイエズス会司祭のデ・カルバリオ(Diego de Carvalho)が仙台に応援にやってきて,伝道に従事した.



 以下文末の略伝に進む.


カルパリオ(Carvalho, Diego de.日本名長崎五郎衛門、一五七七~一六二四)

ポルトガル国人、仙台で殉教したイエズス会宣教師、文禄三年(一五九四)イエズス会に入り、大学卒業後司祭の位をうけ、支那にわたり、マカオにとどまること数年、慶長十四年(一六〇九)日本へきた。満二年間天草にあって日本語を学んだ後、畿内地方へ行って、伝道に従事したが、慶長十九年(一六一四)の追放令で安南へ去り、元和二年(一六一六)にふたたび来朝、大村に伝道した。同三年奥州にうつり、はじめはアンゼリスと共に働いたが、六年、別れて津軽へ行って高岡の信者を慰問した。その後も数回にわたって津軽のキリシタンを訪問、東北各地へ伝道しただけでなく、蝦夷へも渡って伝道した。九年イエズス会の副管区長に任ぜられた頃から、主として仙台地方にあって、その地方の教化に従事した。

 文禄三年(一五九四):日本でイエズス会に入ったわけではないのに,「文禄三年」をつける事にどのような意味があるのであろうか.

 元和二年(一六一六)にふたたび来朝:さらりと書いてあるが,明らかに国禁を犯しての密入国である.このような犯罪のくり返しが幕府を怒らせ,刑が厳しくなったのであろう.

 蝦夷へも渡って伝道:蝦夷地へも.蝦夷と蝦夷地を区別しない書き方をすると,アイヌに対して伝道したと誤解を招く.

 なお,パジェス(1869)は,デ・カルバリオは津軽へ行くために詮議の厳しい関所を避け,一旦蝦夷地に入る道を選んだように書いてある.この書き方はパジェス(1869)を否定していると取っていいのだろうか.なにか,新事実があるなら,そう書いてくれないと読者は理解できない.


当時彼をたすけたキリシタンの有力者は、伊達政宗の重臣後藤寿庵であつたので、その領地見分方面は、カルバリオのしばしば訪れたところであり、彼が逮捕されたその年(元和九年)に見分で祝われたクリスマスも、彼の主宰でおこなわれた。

 デ・カルバリオは元和九年のクリスマスは見分(現:岩手県奥州市水沢福原)に居た.なお,後藤寿庵は見分村(1,200石)を給されていた.寿庵は原野だった見分村を開拓,大規模な用水路を作った.この水路は「寿庵堤」と呼ばれ,現在も遺跡として残っているらしい.


元和九年(一六二三)の暮に逮捕され、寛永元年旧の正月四日(一六二四年二月二十三日)仙台の広瀬川で、水責めにあって殉教した。なお後藤寿庵の「寿庵堰」の建設は、カルバリオの助言によるものと伝えられている。

 寛永元年一月四日は1624年2月22日であり,1624年2月23日は元和十年一月五日である.実際には,元和十年二月三十日が改元であるから,どちらも元和十年の出来事である.その上で同一著者内で一日のズレがある.この著者は,西暦(グレゴリオ暦)と和暦の関係を粗略に扱い,混乱の元を作っている.

 なお,パジェス(1869)は刑の執行は元和十年の2月18日(陽暦)としているので(こちらも西暦と和暦を混用してるので混乱が激しい),元和九年十二月三十日である.パジェスは「カルバリオらの処刑は新年の儀式が済んだ後」と明瞭に書いてあるため,こちらでも一日のズレがある.いったいどれが正しいのだろうか.


 パジェスにしても小野にしても,死刑の様子には詳しいのに,その日付に到っては杜撰である.デ・アンジェリスとデ・カルバリオの旅は不明な事ばかりで…まだ続きます.


2021年4月18日日曜日

ブログ更新停滞中

 ブログ更新が止まっていますが,原因はPCの調子が悪いことと,今やってる文献が難解なこと.古い論文,文系論文ではよくある事なんですが…そのた,もろもろ.

まだ生きてますから,大丈夫ですよ.

 

2021年4月1日木曜日

パドレたちの北紀行Ⅲ(フーベル,1939より)


ゲルハルト・フーベル(Gerhard Huber: 1896-????):ドイツ,フランクフルト生まれ.カトリック神父.1927年来日,おもに北海道にて布教活動.キリシタン史についての研究,著書がある.


(最初から,寄り道す)

姉崎教授は「鑛山に於ける切支丹の布教」という研究に於て,基督教の宣教師が鑛山の發見或は成立と切っても切れない関係にある事を指摘された。卽ち彼等はその知識と指導とにより、日本の採鑛の草分となつたのである。あの足尾銅山から陸前、出羽、津軽の金山銀山に至るまで、これら宣教師達の力を借りぬ所とてはなく、また信者達も數多ゐた事が實證されてゐる。」(p.7)


 「鑛山に於ける切支丹の布教」:については問い合わせた人がいるらしく,国立国会図書館のレファレンス事例で,『姉崎正治著作集』全10巻の目次に存在しないことが確認されている.著作目録において「著書」・「論文」・「主要著書目次」の部分を確認したが「鉱山に於ける切支丹の布教」は見いだされなかったと回答している.

 まあ,むかしの論文や書籍では引用文献が明示されていないというのは普通のことだし,とくに文系のものでは,あいまいな引用であったり,示してある引用文献をたどっても文献そのものが見つからない,あるいは見つかってもどこにも書いてない,というのはよくあることです.


 しかし,姉崎(1930a)「切支丹伝道の興廃」に「鑛山」を含む項目がある,との指摘があり,探して見た.前回示したように,姉崎(1930a)の第20章「傳道と慈善救済」中の「獄中及鑛山の伝道と潜伏」にそれらしき記述があるが,信者たちが数多くいたことは記述されているものの,地域・人数など具体性を欠き「実証された」といえるほどとは思えない.また,宣教師達の力」が鉱山技術のことであるならば,こちらも具体的な記述はなく「実証され」てはいないと思える.ただし,鉱山名や地域は記述されているので,ほかの研究者の別な研究から,伝道師たちが鉱山技術の「なに」を伝えたのか,今後調べる手がかりにはなるだろうとおもう.

(寄り道終わり)



 さて,デ・アンジェリスは,

1567年:シシリー島のカストロ・ジョワンニに生まれる(現代表記に改めるなら;シチリア島のカストロジョヴァンニ[Castrogiovanni]:現在の都市名はエンナ[Enna]).シチリア島のほぼ中央.本名不明.

1585年:18歳で耶蘇会に入る.

1602(慶長七)年:日本に渡来.以後20年間布教に従事する.

 伏見で布教→駿府で修道院を建てる(詳細不詳).

1614(慶長十八)年:江戸滞在中に幕府から「禁教令」が出る.追放令により長崎から国外退去を命ぜられるも失踪.長崎及近隣に潜伏し布教活動を続ける.上長から北日本に派遣される.

(フーベルは,1614年に「禁教令」が出たとしているが,歴史的には禁教令が出たのは1612421日(慶長十七年三月二十一日)である.それは江戸・京都・駿府を始めとする幕府直轄地についての布告であった.1614128日(慶長十八年十二月十九日)には,それが全国を対象として広げられたのであった)


1616(元和二)年:六月,東北で耐乏生活を送る追放キリシタンのために救恤品を積んだ船で津軽に到着.

 津軽に滞在中,松前で金銀の一大鉱山が発見された.多数の坑夫が蝦夷地へ乗り込み,中には江戸,長崎から来たキリシタンが含まれていた.蝦夷地では切支丹に対する迫害がなかったからである.デ・アンジェリスは増大するキリシタンのことを聞き,蝦夷地への潜入を企てた.これをデ・アンジェリスの第一回蝦夷渡航と呼ぶ.(以下不詳)


1617(元和三)年:デ・アンジェリスは,奥州及び出羽に行き布教する.

1618(元和四)年:デ・アンジェリスは,津軽に戻る.津軽在中に蝦夷地へ渡航.これをデ・アンジェリスの第二回蝦夷渡航と呼ぶ.


1621(元和七)年:デ・アンジェリスは,仙台に在.同九月:第三回蝦夷地渡航.


(また,寄り道)

私はかやうに多數の日本人をこの地に吸収した原因が、金山の發見であった事を述べた。その金は土の中から掘出されるのではない、この町の傍を流れる川が、砂に混へてこの貴金屬を多量に運ぶのであった。松前侯(大名)はそれから莫大な利益を擧げ、日本の商人達もそれに劣らず儲け、金を探す許可を得る為、侯に多額の權利金を拂った。それから各自に採金の區域を定めて貰ふ。その操作は次の如く行ふのである。先づ採金者は濠を穿ち堤を拵へて川の一部の水を涸らし、次いでその河床の砂中から金を選出す。そしてもう金が見當たらなくなると、また川水を舊通りそこへ流すのである。その翌年も前と同じ位金が採れたと云はれてゐる。


 以上の記述から,1)金山とはいえ山金ではなく,現世堆積物中の砂金であることがわかる.2)砂金採取方法は,旧来からのものであり,当時の外国人が指導したものであるとは考えられない.3)通常,一度砂金を採掘した場所は取り尽くされているはずであるが,川水を元通りに流すと翌年には同等くらいの金が採れるということは,近くの露頭からほぼ常時砂金が供給されていることになる(考えにくい事ではあるが).

(寄り道終わり)


1622年:デ・アンジェリス,第四回蝦夷渡航

 松前訪問の後,一度東北の信者を回り,その後江戸へ.

1623(元和九)年:四月までには逮捕.十二月四日,キリシタン50名,フランシスコ会イルマンと共に火刑



 デ・カルバリオは…

1577年:ポルトガルのコインブラで誕生.

 17歳で耶蘇会に入り,三年後マカオに派遣された.そこの神学校で哲学および神学を学び,司祭になった.

1609(慶長十四)年:日本へ渡来.

 二年間は天草にある耶蘇会の神学校で日本語と国情を学んだ.

1614(慶長十九)年:京都・大阪で働くも,江戸幕府が「禁教令」を全国に広げる.

 海外追放後は安南の日本人街で働き,同地に迫害勃発後はマカオへ移動した.

1616(元和二)年:船員に変装して日本へ密航した.

 日本潜入後は,大村(長崎県大村市)で活動をこころみるも不可能.

1617(元和三)年:仙台に移り,デ・アンジェリスの下で働く.

 1616年,デ・アンジェリスは津軽の流人キリシタンを慰問する指図を受け,仙台に派遣されていた(シャルルヴォア,1754:CHARLEVOIX, P., Histoire du Japon. Nouvelle éd. 6 vols. Paris, 1754. これはP. de Charlevoix, 1736, Histoire et description générale du Japon. Paris, 1736. の改訂版といわれ,元本は誤りが多いとの指摘がある).


 同年,津軽から松前に渡る

 デ・カルバリオは蝦夷地から帰ると南部地方(青森県の東半分,岩手県の北部および中部,秋田県北東部の一角)および出羽国(山形県と秋田県)を通り院内(秋田県雄勝郡院内町)まで来た.フーベル(1939)は「一大金山」と書いているが,院内は通常「院内銀山」と呼ばれている.


この院内は師の主な活動地となり、彼は度々そこへ歸つた。師は鑛業に知識あり、鑛山の實際的効果的な作業に關し、勞働者達を指導した事が知れてゐる。」(p. 35)

 フーベルはこう明言しているが,「鉱業の知識」や「実際的効果的な作業」については示されていない.印象操作であろうか.


1620(元和六)年:仙台滞在中.デ・カルバリオはデ・アンジェリスに津軽行きを命じられた.

ディエゴ師は出羽國の鑛山地帯を通らねばならなかつたから、序に約五千人もそこに働いてゐるといふ信者逹を訪問した。「それから師は日本最高のオラシ山脈を横断して久保田(秋田)といふ町のある平野に降り、そこで久保田の大名に甚だしい彈壓を蒙つてゐる相當多人數の切支丹に逢ひ、彼等の望んでゐた慰藉を與へた。」(Charlevoix, 1624)」

出羽國の鑛山地帯:南は新潟,北は北海道まで延びるグリーンタフ地帯の黒鉱鉱床に関連した鉱山地帯

約五千人もそこに働いてゐるといふ信者逹:人数に注目

日本最高のオラシ山脈:奥羽山脈?


 デ・カルバリオは久保田から津軽へ向かったが,通行手形が入手できなかったので,国境の関所で引き返し,久保田で蝦夷行きの船を待ち,松前へ向かった.船主はキリシタン商人であった.

 松前では,同船した坑夫(鉱夫が正確であろう)の手形を借りて下船した.松前港は栄えていた.「当時蝦夷には外に港がなく松前以外の所から窃かに上陸する事は厳禁されてゐたのである」.

1620年8月5日(元和六年七月七日):デ・カルバリオは「雪の聖母の祝日」に,松前でミサをおこなった.これは蝦夷地最初のミサであつた.デ・カルバリオは松前に一週間滞在し,信者達の告白を聴いた

   8月12日:デ・カルバリオは松前を出発し,一日行程の金山に向かった.「山麓には坑夫達の小舎が軒を列ね一大村落を成してゐる」.

   8月15日:デ・カルバリオは「聖母被昇天の祝日」のミサをおこなった.


ディエゴ師は此處にも一週間滯在し、坑夫達を「教會」に集めて、教の手引をしたり探鑛上の指導をしたりした。師は鑛業にも相當の知識と経験とを有してゐたのである。


ディエゴ師がその麓に「教會」を建てた金鑛のある山は、ジロラモ・デ・アンジェリス師の報告でも明かな通り、千軒岳である。數年後その場所で百六名の切支丹が聖教の爲に血を流した。千軒岳の邊に、嘗て一大金鑛があつたといふ噂は、今日に於ても知られてゐる。福山(舊の松前)から東方約十六粁を隔てゝ福島といふ岬の海際に一の巌窟があるが、昔は日本内地から金の盗採者が來て此處から上陸し、小舟をその窟に隠して山を攀ぢ登り、窃かに金を掘取つて、その鑛石を小舟に乗せ南へ持歸つたものであるといふ。この巌窟は今なほ「舟隠し岩」と稱ばれて居り、また金の盜採者等が山頂に出た間道の痕も今日なほ之を見る事が出来るさうである。以上は總べて當時名高かつた金鑛が、千軒岳に在つたといふ事を裏書するに足るであらう。


 デ・カルバリオは松前に戻り,津軽へ向かった.蝦夷地から津軽へ向かうのは容易であった.津軽の港から高岡(現在の弘前)までは二日を要する.高岡周辺には流人キリシタンばかりの村が三・四個所あった.


それからディエゴ師は津輕から南部に向かつたが、折よく番所の役人が信者であつたので難なくそこを通ることが出來た。

 ここでは「番所」ではなく「関所」であろう.久保田(秋田)から津軽にはいるのは不可能だったのに、津軽から南部へはいるのは信者がいて運が良かったというのは….神のみぞ知る世界である.


 デ・カルバリオは,南部に二・三日滞留してから久保田に移動し,院内銀山にいった.その後,松前をでてから三ヶ月の巡回で仙台へ帰った.


1623(元和九)年:デ・カルバリオはデ・アンジェリスから「津輕の流人及び蝦夷の韃靼人を三度訪れる命令を受けた。」(当時にしても,蝦夷地には「韃靼人」はいないだろうと思う).

 デ・カルバリオは,「千軒岳の金山まで赴いた」(Pages, ?).その後,仙台へと帰り,次は後藤寿庵のいた福原(水沢市福原→奥州市水沢福原)に移住した.しかし,寿庵が領地没収の上,追放されると「下嵐江の鑛山」に行き,そこでマチアス伊兵衛の家を隠れ家とした.

 領主・伊達政宗はそれまでキリシタンを放置していたが,度重なる将軍家からの命により,デ・カルバリオは下嵐江の信者たちと共に逮捕され,仙台まで護送された.2月22日(和暦,洋暦不明),仙台で水攻めの刑に処せられた.享年46歳(Crasset, 1715).

(これまでの行動中は,何度となく「神のご加護」で命を永らえた(と何度も出てくる)デ・カルバリオであったが,日本のお役所にとらえられた途端,美しく死ねるというのは奇妙な気がする)


 島原の乱鎮定後,キリシタンに対する弾圧は厳重を極め…と,フーベルはその影響が千軒岳金山に及んだとしている.しかし,「島原の乱」自体はキリシタンを中心とした“宗教戦争”とは認めがたいとされ,百姓一揆でもなく,現在でも議論百出である.以下,フーベルの説を追っていこう.


1639(寛永十六)年の夏:

さて公廣はさういふ切支丹の居る事を知つて大いに驚き早速数名の役人に三百名の兵卒をつけて、疑はしい者を残らず處分させる爲に遺した。この事が坑夫仲間に知れ渡ると、切支丹百六名は急ぎ禮拜堂に集り、他の人々は山中に逃げ込んだ。教方(傳教士)或は頭役の一人が禮拜堂を開き、一の十字架を運び出すと、一同はその前に跪いて祈つた。

 公広は,千軒岳金山にキリシタンがいることを,まったく知らないという前提であるが,それは奇妙である.金山は松前藩の重要な収入源であり,先代は「蝦夷は日本にあらず」といって,パードレが蝦夷地にやって来るのを咎めなかった人物である.「知らなかった」というよりは,「知らなかった振りをした」というのが真実に近いであろう.

 また,なぜ「坑夫仲間に知れ渡」ったのか,不自然である.さらに,キリシタン106人が逃げずに,それ以外が逃げたというのもまた不自然である.


その日の晩までに、兵卒等は禮拜堂の周圍にゐる切支丹百六名の首を悉く刎ね終つた。そして人々の見せしめに、六日の間獄門にかけた。

 逃げなかったキリシタン106人の首を刎ね,その首を六日間の獄門に曝したという.松前から丸一日行程の山中で,それ以外の人はみな逃げた山中で獄門に曝してどのような効果があるのだろうか.これもまったく不自然である.


恰もその年附近の駒ケ岳が爆發噴火し、その轟音は遠方にまでも聞え、降灰甚だしく二日間は天日も爲に暗むばかり、且海嘯の襲來があつて百艘の小舟が流失し、七百の人命が奪ひ去られた。また千軒岳の金山も地震に由つて崩壊し、採󠄁鑛に適せずなつたらしく、後には全く忘れられてしまひ、唯折々窃かに金を探す者が内地から來るに過ぎなくなった。(笹谷常咲,1936)

 駒ヶ岳の山体崩壊による津波で大災害が起きた.唐突であり,なぜここに示されるのか不明.「千軒岳の金山も地震に由つて崩壊し」たのが駒ヶ岳の噴火によるものなのだろうか.ありえない巨大地震となってしまうが,そうであるにしても,渡島半島南部を壊滅されるような地震が起きれば,金山の再興はより必要であろうとおもわれる.なにげに不自然である.


 話があいまいすぎて(代名詞があいまい,話が繰り返す.あるいは前後したり,省略すなど),途中で何度も投げ出しそうになりました.矛盾があってもご容赦.なお,このフーベル(1939)は,現在ではたくさんの間違いが指摘されています.いずれ示されるだろうと予測して,次回へ.



2021年3月22日月曜日

パドレたちの北紀行Ⅱ(姉崎正治,1930より)

 

姉崎正治(1873.07.25-1949.07.21):文筆家・評論家・宗教学者(インド宗教・神道・仏教・キリスト教・新宗教).ペンネームは姉崎嘲風.別名姉嵜正治.(Wikipediaより)


 姉崎(1930)には「切支丹伝道の興廃」と「切支丹迫害史中の人物事蹟」の二冊の著作がある.そのうち,姉崎(1930b)「切支丹迫害史中の人物事蹟」にはデ・アンジェリスの蝦夷行についてわずかに記述がある.まとめると以下のようになる.内容はパジェスの記述を書き写したものである.しかし,この程度の記述では,私の知りたい行動記録にはならない.


1568年,シシリア島生まれ.

    18歳でゼスス会に入会.

    イルマン→パアテル;西インド→英国→ポルトガル→東インド→マカオ

1602(慶長七)年,日本へ

    長崎→伏見→駿府(伝道所)

1614(慶長十九)年,大追放,長崎に逃亡,

1615年,大阪へ.

1616年?,奥州へ.

    佐渡→越後→江戸…その間,蝦夷へも(このころ,松前で砂金採取が始まる)

1923(元和九)年,江戸で逮捕.十月十三日(12月4日)火あぶり刑.六十五歳.



 姉崎(1930a)「切支丹伝道の興廃」には,日本全体におけるキリシタン伝道の興廃が順序立てて示されているが,デ・アンジェリスやデ・カルワーリョに付いての記述,および蝦夷行についての記述はわずかであり,系統的でもない.しかし,彼らが,日本の鉱山開発にかかわったという記述があるので検討する.


鑛山は、一種奇妙な関係からキリシタン傳道と聯絡する。それは徳川氏の覇権増進が根本でで、家康は外國貿易の利盆と鑛山採掘の二つに財源の重要部を置き、此の二つながら外國人教師のカを借りて利益を増進せうとした事は時々述べた。而して伊豆の銀山足尾の銅山が慶長年間に段々開發して來た。南蠻鐵の輸入者たるイスパニヤ人は此の事に通じてゐると見込をつけたものか、バテレンに鑛山採鑛の相談をし、伊豆の銀山には一人イルマンが行つて檢分してゐる。佐渡の方は明確ではないが、大久保相模守の一件には、多少キリシタンとのの聯絡があるらしく、假令さなくとも、元和の初から教師が屢々佐渡に出かけ、後には可なり多くの殉教者があった。足尾も起源不明ではあるが、下野や上野に信徒が少なからずあり、後年足尾には多数の召捕があっただけは明白である。そこで始は採鑛傳授の意味、或はかく稱してキリシタンが聯絡をつけた鑛山は、迫害の進むと共に信徒の隠れ場になった。而して初期にも後期にも、教師はその方に傳道した。それは新な信徒を作る爲であると共に、隠れ忍んでゐる信者を慰問する爲であった。


 家康が外国貿易と鉱山開発の二点において「外國人教師」(この場合の「教師」は伝道者の意味)を利用したことを「時々述べた」としているが,まるで具体的なことは示してはいない.思うに,姉崎は鉱山技術に関しては知識が無いので示せなかったのであろうか.この頃のキリスト教伝道者と鉱山開発は関係ありそうだということを指摘したのは事実であるが,具体的なことは別な方面から探索することとして,姉崎からこれを追及するのはやめておこう.

 鉱山名がいくつかでているが,これに伝道者たちがどのようにかかわったのか,これもないので,これも別な方面からアプローチすることを心掛けておこう.また,「大久保相模守の一件」とは大久保長安の失脚のことと思わせるが,まるで具体性を欠くこの示し方は卑怯である.これもペンディング事項とする.

 ただし,そういう仮定が事実であったとすれば,技術指導と称して鉱山に潜入した(なぜ鉱山に潜入したのかは不明であるが)信者を見舞うことは可能であったろう.これも,裏付けを別な方面から探すことを心掛けておこう.


今、一例として仙北地方特に院内の鑛山を見るに、寛永元年(1624)その地方の迫害で殉教した勞働者の名が残り、鑛夫の常として生國を名の如くしてゐたので、その故郷が分かる。その事は後に記すが、その中には信仰の爲に逃れて來た者もあろうし、鉱山内で信者になった者もあらう。兎に角鑛山がキリシタンの隠れ場の一つになった事は明かで、それが後まで殘つてゐる。


 残念ながら,その資料は示されていない.


院内と山を隔てゝ奥州南部地方にも、此の聯絡が著しい。右仙北の迫害に先つこと半年、教師カルバリヨ(Diogo de Carvalho)が信徒六十人と共に捕へられたのは、仙臺領の山中、下嵐江(オロシエ)の鑛山村であつた。此と北上川を隔てた地方は、その昔藤原三代平泉の榮花に財源を供給した金鑛地方であるが、南部藩の領内で、佐比内の金山大籠の銅山小友の金山保呂羽の鐵山等は、皆後まで信者の居た處で、地方の傳説では、彼等が能く「湯加減」(多分鎔鑛の)を知ってゐたから、技術に従事したといふ。寛永十三年(1635)、幕府から、南部藩に對して、領内にキリシタンのあることを詰問したに對して、藩は申譯になる様な又ならない様な申譯をしてゐる。卽ち比佐内の山(ママ)に京都の丹波與十郎といふ技術者を使用したが、それが連れて来た一千人がキリシタンであったのだといふにある。一千人が多すぎるにしても、上方や西國の信徒が、避難者として東北に來て、鉱山に入った者のある證據になる。その他松前の砂金も東北傳道と關係あり、教師で各鑛山で巡囘した者もあり、寛永十九年(1642)に、幕府が特に令を出して、奥羽の山中にキリシタンが多いから、嚴に捜索せよと命じてゐるのも此の爲である。出羽の延澤に後年多数の召捕があつたのも同様で、何れも信徒避難者の隠れ家が、段々山中と地の下とに入ったしるしである。


 この部分も同じで,伝道師たちが伝えたという鉱山技術の存在が示されていないので,どのような関係があったのかがわからない.金銀鉱山,鉄山はそれぞれに技術が異なるので,すべてにわたって知識を持っていたのだろうかと疑問をいだく.実際にはもっていなくとも「持っている」という触れ込みで大名等をだましていれば,鉱山に入れたかも知れない.しかし,そういうことをしていれば,大名等に疑問をいだかせることになるだろうという気はする.

 姉崎の両著は,いずれにしても具体性を欠くので,探索行はつづくことになる.


蛇足1:佐比内の金山:岩手県紫波郡紫波町佐比内.金山とキリシタンの伝説があるが,地質は不詳.


蛇足2:下嵐江(おろせ);奥州市胆沢川上流の奥州湖湖底にあった地名.胆沢川と前川の合流点付近.地質図幅「焼石岳」では,旧下嵐江付近は「下嵐江層」であり鉱化は認められないが,上流約3kmの通称「千軒原」では,前川層の黒色板状頁岩と青灰色砂質(やや凝灰質)シルト岩の互層からなり,「渋民鉱床」と呼ばれる裂罅充填鉱床が発達する.裂罅充填鉱物は石英・黄鉄鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱を主とするもので,脈幅約50cmである.周辺の黒色頁岩や砂質シルト岩は,著しく珪化作用を蒙り黄鉄鉱によって鉱染されている.およそ100余年前に,ここで鉛の製錬が行なわれたといい伝えられている.

 両地層は,中期中新世のいわゆる“グリーン・タフ”層準である.


渋民鉱山(焼石岳図幅)


蛇足3:大籠の銅山;不詳.岩手県一関市藤沢町大籠字右名沢28-7には「大籠キリシタン殉教公園」がある.この大籠はたたら製鉄の烔屋があったことで有名で,この烔屋経営の指導として呼んだ兄弟がキリシタンであり,のちに大籠が大勢のキリシタンの住み処ととなった.関係があるかないかは不明.


蛇足4:小友の金山;岩手県遠野市小友町.現在の「小友鉱山」は黒煙鉱床であるが,小友村大洞や小友村大葛にある鉱山は金鉱山であり,「古くから稼行されたものらしい(人首図幅)」とある.


大洞鉱山と大葛鉱山(人首図幅)


蛇足5:保呂羽の鐵山:不詳.


2021年3月20日土曜日

パドレたちの北紀行Ⅰ(パジェス,1869より)


 長いんです.すいません.m(_ _)m

 でも,短く編集する気もおきませんので.


パジェスは1814年にパリで生まれパリで育った.1847年に北京フランス公使館の外交官として清国に赴任.当時の清国はアヘン戦争(1840年~1842年)でイギリスに敗れ,不平等な南京条約を締結させられたことに不満が高まっており,投石や殺害など外国人排斥運動が頻発していた.パジェスは1851年にフランスへ帰国.その後,清国軍と英仏連合軍が対峙する第二次アヘン戦争ともいわれるアロー戦争(1856年~1860年)が勃発している.日本では江戸時代の嘉永年間(1848年~1854年)にあたる.

(Wikipediaより.一部編集)


「日本切支丹宗門史」


元書名:Léon Pagés Histoire de la Religion Chrétienne au Japon depuis 1598 jusqu'a 1651, comprenant les faits relatifs aux deux cent cinq martyrs béatifiés le 7 juillet 1867. 2 vols. Paris. 1869.

和訳:「一八六七年七月七日、福者に舉げられたる殉教者二百五人に関する事蹟を採󠄁録せる、一五九八年より一六五一年に至る、日本切支丹宗門史」


 この本は,パジェスによれば,「日本帝国史」(全四巻)として刊行を予告された本の一部で,第三巻目に当たる.しかし,この第三巻目以外は発行されていない.


 日本語版は,吉田小五郎により,1931から三田史学会の「史学」に掲載されたもので,1938年に岩波書店より全三巻で出版されている.「史学」掲載分については,一部しか「慶応義塾大学学術情報リポジトリ」になく,したがってCiNiiにもその分しか表示されないので,全容は不明である.


 これを読んでいて,どこまで信じていいのだろうか,と疑問が湧いてきた.簡単にいってしまえば,これは歴史書などではなく,野蛮で残酷な日本人が高貴なキリシタンに加えた行為の記録である.いちばん「おかしい」と思うのは,状況再現があまりにも精緻であること.逮捕されたキリシタンと役人との間の葛藤など,いったいどこに記録があるのかと思うが,その場で見てきたかのような記述である.

 読んでいておかしくなるくらい「形容句」が多い.キリシタンに対しては清潔・高貴な修飾ばかりで,日本人(お役人)に対しては汚辱・侮蔑ばかりである.原文が悪いのか,訳者が下手なのか,一文の中で矛盾していたり,解釈不能な文章が多い.なお,索引には間違いがおおく,重要な「附録」は削除されている.

 それでも当時のキリシタンのことなど,記録が見当たらないので,これに頼るしかないのが哀しい.日本にも,関連書類が帝大書庫あたりに封印されているのかとも思うが,探すことすらかなわないのが哀しい.したがって,まずは,この「日本切支丹宗門史」から,蝦夷地にやってきたパドレの足跡を探ってみようと思う.


===1615-1616(慶長二十~元和元年)===


同じ頃、イエズス會のデ・アンゼリス師は、帝国の極北に赴いて、津軽の流人を慰問し、更に蝦夷の地方に入込んだ。」(上401)


 現在の日本では,極北(最北)といえば蝦夷地(北海道)であるが,当時の蝦夷地は支配の及ばないところであった.したがって,津軽の地が最北であった.そこには,秀吉の禁教令により,京都・大阪から流されてきたキリシタンが生活していた.

 彼らはもともと高貴な生まれであり農作業など不得手であったうえに,ただでさえ農地に適さない土地柄で収穫は少なく,加えて悪天候が続き「飢饉」の様相を示していた.


ヒエロニモ・デ・アンゼリス師(註五八)は、これ等の慰問品を齎して來たが、この難教者の移民に就いて、悲痛な記述を遺した。彼は、彼等の堪忍と徳とを見て、深く自ら恥ぢ、又大いに感動させられたと告白したのであつた。

出羽の仙北で、彼は伏見で洗禮を受けたペトロといふキリシタンが、自ら六百人の未信者を改宗させ、且つ彼等に洗禮を授けたことをきいた。

デ・アンゼリス師は、北方の諸国を巡歴し、その地方で夥しい未信者に洗禮を授けた。」(上414)


 彼らの悲鳴は長崎まで届き,ジェローニモ・デ・アンジェリスは多量の受給品を携え,津軽に訪れた.これによって流人たちは一息ついたが,この事によって,同じ飢饉に耐え忍んでいた現地の日本人から恨みを買ったのも間違いなかろう.キリシタンに対する悪意が増えた要因でもあろう.

 津軽に現れたデ・アンジェリスは,この時に北国(上記のように「蝦夷地(北海道)」は北国ではない)を巡検したらしい事がわかる.

 デ・アンジェリスの履歴は「註58」にある.


註五ハ デ・アンゼリス師は、一五六八年シシリイ島のEnnaに生れ、十八歳の時、イエズス會に入つた。未だ修士であつた頃、スピノラ師と共にヨーロッパを出發したが、イギリスの海賊に捕へられ、後ポルトガルに歸るに及んで、神父の資格を得、再び同じ神父と共に印度に派遺せられ、一五七五年マカオに到着、一六〇二年曰本に来た。彼は上方の伏見の修道院長となり、次いで内府様の在す駿河に至り、そこに修道院を建て、間もなく又江戸に出て、同じく修道院を作らうとした。然し、土地を買取した丁度その日、迫害が始まつたので、彼は再び駿河に歸り、一六一四年の追放の時までこゝに留り、その後は長崎に匿れてゐた。(上427)


 恐らく,これが日本で最初のデ・アンジェリスの履歴の紹介であろう.


===1620(元和六年)===


奥州では、千人餘の未信者がヒエロニモ・デ・アンゼリスディエゴ・デ・カルバリオ(日本名長崎五郎右衛門)(註三一)、ヨハネ・マテオ・アダミ(註三二)、マルチノ式見(註三三)(市左衛門)の神父達から洗禮を受けた。政宗を第一とするこれら諸國の大名達は、國法に從ふためには、迫害を我が義務とした。大使派遣(支倉一行)のために幕府から疑をかけられ、また公方様を倒すために、イスパニヤ王との同盟を求めたと噂された彼政宗は、身の潔白を證せんとし、領内キリシタンの根絶を決意した。彼は、命令三箇條を出した。第一、將軍の意志に反してキリシタンになった者を第一の罪人として、直ちに棄教を命ず。之に反する時は、富者は財産を沒収し、貧者は死刑に處す。第二、總てキリシタンを轉ぶ者には、榮譽と賞金を與ふ。第三、福音の傳道者全部に對し、少くとも信仰を棄てざる限り追放を命ず、と言ふのであった。」(中138)


 伊達政宗は,宣教師達を死刑にするとはいっていない.「追放を命ず」としているのみである.しかし,江戸では違った.


註三一 彼は、アルバロ・フェルナンデスとマルガリタ・ルイスとの間に、コインブラで生れた。彼は、一五九四年十七歳の時、生れた町でイエズス會に入つた。彼は、一六〇〇年十九人の他の人と共に乗船し、一六〇一年マカオに渡り、そこで哲學と神學の勉強を終つた。一六〇九年、彼は一年間語學を勉強した後、日本に渡つた、二年間を天草で送り、それから上方に遣られた。一六一四年に流され、一六一五年の初め、ナポリ人なるフランシスコ・プソミ神父と共に、交趾支那に送られた。カルバリオ師は、この國に住んでゐる日本人の商人の救靈を命ぜられてゐた。二人の教師は大に王の優遇を受け、交趾支那傳道の基礎を据ゑた。一時迫害が起ると、カルバリオ師は、一六一六年マカオに歸つた、同年、彼は再び日本に入り、初め大村で働いた。一六一七年、彼は第四の誓願を立て、奥州せデ・アンゼリス師と再會し、その布教を助けた。デ・カルバリオ神父は、三度津軽の流人を訪問した。(Franco. Coimbra. t. I. p. 122.)(中161)


 ディオゴ・デ・カルバリオの履歴の紹介は,日本ではこれが最初であろう.


ディエゴ・デ・カルバリオ神父は、デ・アンゼリス神父によつて、年々奥州より津輕に遣られ、聖なる流人を慰問した。

彼は最初、秋田と、出羽の仙北地方の城下町久保田(現今の秋田)に行つた。然し彼は、商人にのみ與へられて、普通の旅人には與へられなかつた手形の件で、津軽行を妨げられた。彼はキリシタン達が警戒してくれ、この國を通つて歸してくれることを期待して、蝦夷に行く決心をした。

一六一六年頃、蝦夷で甚だ豐産の金山が發見された。それで多くの坑夫が、その地に渡つたが、その中の若干は、キリシタンであつた。一六一九年には一萬五千人、一六二〇年には八萬人の坑夫がゐた。」(中140)


 デ・カルバリオ神父はデ・アンジェリス神父の命により,陸奥国から津軽へと送り込まれた.「秋田と、出羽の仙北地方の城下町久保田(現今の秋田)に行つた。」は意味不明.仙北群に城下町・久保田はないからである.誤訳であろう.

 秋田に在して津軽へ行けなかったので,蝦夷地へ行く,というのは論理的に繋がらない.

 1616年頃,蝦夷で金山が発見され,多くの坑夫が蝦夷に渡った.その中の若干名はキリシタンであった.1619年には1.5万人,1620年には8万人の坑夫がいたという.ここで,「坑夫」は通常「あな」を掘って,有用鉱物を採掘する「鉱夫」のことであるが,パジェスの原語は,それを意味していたのだろうか.それとも訳者の誤訳だろうか.蛇足すれば,松前金山は「坑道掘り」なのか,「砂金掘り」なのかという問題である.


神父は、その伴侶と共に手形には、坑夫として書いて貰つた。

總ての船舶は、日本人のゐる蝦夷の尖端松前の港を溜りにしてゐた。領主は、その地の生れではあるが日本人で、彼の収入は、商賣と同時に鑛山から出てゐた。

デ・アンゼリス師は、既に二年前に渡つたことがあった。領主は、彼を伴つて優遇したが、神父の出發後間もなく、土地の人のキリシタンになることを禁じた。彼は、旅人のことを別に心配せず、信仰の自由を與へた。


 デ・カルバリオ一行は坑夫という名目で,旅行手形をもらった.

 蝦夷へ渡る船は松前の港を停泊地としていた.松前の領主は現地生まれの日本人であり,藩の収入は通商と鉱山から得ていた.

 デ・アンジェリスは1618年に松前に渡ったことがあった.「伴って」の意味は不明.領主はデ・アンジェリスを優遇したが,彼の帰国後,住民にキリシタンになる事を禁じた.「彼は、旅人のことを別に心配せず、信仰の自由を與へた。」の意味は不明.旅行者が,どのような宗教を信じようと関知しないという事か.


カルバリオ師は、雪のサンタ・マリヤの祝日に、ミサを獻てた(註三七)。デ・アンゼリス師は、同地を視察するに渡つたので、聖祭用具を持つて行かなかつたが、キリシタン達は,鶴首して宣教師を待つてゐた(註三八)。彼等は大抵、或る者は同國で、また或る者は奥州で、アンゼリス師から洗禮を受けた人々であった。若干の他の者は、上方の地方から來た者であった。

神父は、告解を聴くために、松前に一週間を送り、それから一日路の所にある坑夫達の許に行つた。道は甚た嶮しく峨たる山を乗り越えたのであるが、其處からは帝国中の最大部が見渡された。彼は、鑛山の極く近くの隠れ家のある村で、ミサ聖祭を獻て、そこで聖母の被昇天を祝つた。鑛山に使はれてゐたキリシタンの中、二人は舊の傅道士で、宣教師の仕事を助けてくれた。更に、一週間は有效に過され、神父は大勢の病人の告解を聽いた、その中、若干は非常に遠い所から連れて來られた者であつた。やがて、神父は、再び松前に歸つた。」(中141)


註三七 八月五日。

註三八 com olhos longos (Diogo de Carvalho). (原文)


 「雪のサンタ・マリヤの祝日」は「雪の聖母(イタリア語:Madonna della Neve)」のこと.単なる伝説であるが,その日8月5日はローマカソリックの祝日である.

 デ・アンジェリスは視察の為に蝦夷に渡ったので,聖祭具は持参していなかったが,現地のキリシタンは首を長くして待っていた(デ・アンジェリスに命じられていったのであるから,たぶんデ・カルバリオは聖祭具を持参していたのであろう).彼らは,たいていデ・アンジェリスから洗礼を受けた人々であり,おおくは同地で,あるものは陸奥でその他の何人かは京都大阪から来たものであった.

 デ・カルバリオは松前で一週間過ごし,その後,鉱夫たちの在所に行った.道は大変に険しく,峨々たる山を乗り越えた.そこからは本州が見渡せた.彼は鉱山のそばの隠れ家のある村でミサを行い,「聖母の被昇天」(8月15日)を祝った.鉱山にいたキリシタンのうち二人は伝道師で,宣教師の助手を行った.さらに一週間が村で過ごされ,キリシタンたちの告解を聞いた.それらのうち幾人かは非常に遠いところから来たものであった.やがて,神父は松前に帰った(最低18日間,蝦夷地にいたことになる).


 松前を出るときに税を払わされた.その日のうちに津軽に到着.津軽で手形を登記してもらい税を支払った.港から一日半で津軽の城下町・高岡(現:弘前)に着いた.そこのある村には京都からの流人がおり,隣村には大坂からの流人がいた.ほかの二つの村には北国(越前・加賀・能登・越中)流人がおり,その中にはヨハネ休閑(浮田秀家)の息子三人がいた.デ・カルバリオはそこで秘跡を行った.


津輕の關所を通過することは、諺にある位困難であつたが、キリシタンなる役人の計ひで、取調べを受けずに、通過することが出來た。」(中143)


 津軽の関所に関する「ことわざ」は不明.前半と後半は矛盾するが,パジェスの文章にはしばしば現れる.

 デ・カルバリオはふたたび久保田を訪問し,領主・佐竹右京大夫(義宣)の妾オニシャマ(お西様か?)にあった.


神父は、最後の傳道として、仙北地方の院内の銀山を訪問した。

傳道は三箇月續いたが…(以下,神父がいかに神に守られているかという記述が続く)」(中144)


 「最後の伝道」の意味は不明.院内銀山はキーワードになるか?


===1621(元和七年)====


彼(政宗の城下町(仙臺)にゐたデ・アンゼリス)は、キリシタンの告解を聽き、蝦夷の地方(註三一)に關する詳しい情報を集めるため、同地に渡るやう命令を受けた。彼は、その使命を果し、歸途、江戸に落ちついた。彼は、召捕られるまで、そこに留まつてゐなければならないのであつた。」(中178)


註三一 彼は、蝦夷、日本、朝鮮、韃靼の一部と新イスパニヤ(メキシコ)の一部さへ出てゐる不完全な地圖を送󠄁つた。蝦夷は、島であるか半島であるかの問題が決定されずに殘つてゐた。彼は、住民の體格と風俗とを叙述した。彼は、着物が、無数の十字架で飾られてゐることを注意したが、未だ忘却の中に葬られたその原因を知ることは出来なかつた。この人々の宗教は、粗野で、漠然たる迷信的のものに過ぎなかつた。神父は、數と他若干の語の表を附記した。


 仙台にいたデ・アンジェリスは(この文の中での前後関係に怪しさがあるが,蝦夷に渡るように命令を受けたのは1616年の話であろう,その使命が終わり),1621年には江戸にいた.現代語解釈では,「(アンジェリスは)逮捕されるまで,江戸にいなければならなかった」という奇妙な文になる.意図的に逮捕されたのだろうか.それとも単に誤訳で,「逮捕されるまで江戸にいた」というだけの意味なのだろうか.

 なお,アイヌの宗教(世界観)について,“粗野で迷信的”と判断するのは尊大であると思われる.


註一三四 (前略) ヒエロニモ・デ・アンゼリスとヨハネ・マテオ・アダミの兩師は、越後と北方に位する佐渡の島に二囘行つた。デ・アンゼリス師は、蝦夷の松前に渡り、歸りに、津軽の流人を訪問した。ディオゴ・デ・カルバリオ師も亦、同地方へ傳道に出かけた。(中275)


 松前に関しては,すでに記述されている事と同じ.


===1623(元和九年)===


 1623年8月23日(元和九年七月二十七日):徳川家光が将軍となる.キリシタンは死刑と決まる.

 江戸にいたデ・アンジェリスは,彼のパトロンが拷問を受けたとのことで,自首することにした.デ・アンジェリスは変装を解き,修道服を着て奉行所に出た.


デ・アンゼリス師は、奉行から檢べられると、『私は、イエズス會の司祭であり修道者である、イタリヤの國はシシリイ島で生れた、色々の話から、日本人の芽出度き性質と、而も日本人に救濟の希望あることを知り、一切のものを捨てて、この日本人の中に參つて眞理を傳へようと思つたのである。私は、御國の風俗を採用し、日本人のやうにしてゐる。二十年間の傳道の總ゆる苦勞、總ゆる艱難、私が身は、この人民の救濟のために獻げたものだから、よく使はれたと思つてをります。』衆人みな、この精神の獨立と、異國の國民に對する母親のやうな心情に感嘆した。然し、政治的奴隷たる奉行は、この聖なる修道者を監禁した。」(p.289-290)


 (以下処刑までの様子詳細あり)

 12月4日(和暦か否かは不明),原主水らと共に死刑.


その間に、二囘も蝦夷の國を訪問し、その地方で初めてミサ聖祭を獻てたディオゴ・デ・カルバリオ神父は、奥州と出羽に滞在し、秋田や南部の地方に天主堂を建てた。この地方に迫害が起るや、彼は遁走を拒絶し、弟子たちと共に踏留まる決心であつた。

この年の末頃、彼は、デ・アンゼリス師から、三度目に蝦夷の韃靼人を訪問せよとの命を受け、この旅行を果した。」(中298)


 デ・カルバリオは,奥州(現:岩手県)と出羽(現:山形県と秋田県)におり,天主堂を建設した.取り締まり強化が進んでも,彼は逃走を拒否した.

 1623年の末頃,デ・カルバリオはデ・カルバリオから三度目の訪夷を命じられた(当時にしても蝦夷に韃靼人はいなかったろう).


===1624(元和十~寛永元年)===


この時、デ・カルバリオ師は、宿主の宅でそのまゝ死ぬことを心配して、彼と別れたが、これは、政宗の領内に留まるためであつた。何となれば、彼は、時至れば、羊の群と共に、死ぬ覺悟はしてゐたが、鑛山地方の下嵐江の谷間に隠れ家としてマチヤス・イヒョーヱの家を選び、この家では、主屋に續いて狭い荒屋があつた。彼は、傳道士も従者も、連れてゐなかつた。時に、ヨハネ後藤は、奥州の北方にある、南部の州に追放された。キリシタンの調査は、厳しく行はれ、忠賓なキリシタン達は、仙臺に引かれて,そこで領主の御意を待つことになつた。」(中311)


 この時,下嵐江村には60人のキリシタンがいた.彼らはデ・カルバリオの荒屋のとなりに隠れ家を建てたが,役人たちは彼らを見いだし,住み処を荒らした.キリシタンは雪の中,着ている物をはぎ取られた.


デ・カルバリオ師は、この哀れな様を見て、役人の許に名乗り出で、『私は、この哀れな者達の父ぢや。』といつた。さうして、彼は縛られるやうにと兩手を差出した。神父が召捕られた結果、大勢のキリシタンが返された。師は、例によつて、卒達に飲料を差出させた、そこで修道者として出て行くために、日本の着物を脱ぎ、大小刀を差出したいと言つた。然し、彼は、家老たちの前に差出す方が適當だと悟つた。彼は顱頂を剃りたいと思ひ、數日後頭を剃つて貰つたのであるが、顱頂だけを剃り明けて貰ふことが出来ず、土着の僧侶のやうに丸坊主にされた。」(中311-312)


 その年も暮に近付いていた.そこで,デ・カルバリオらの処刑は新年の儀式が済んだ後となり,2月18日(陽暦)と決まった.

 その日,天候は雪の混じる寒風であった.


それは夜の五時のことで、人通りが繁かつた。勇敢な殉教者の指揮者は、その前に、最愛の弟子たちとイエズス・キリストの息子たちを遣はす慰めをもつてゐた。なほ、彼は皆の後に生残り、宛然石のやうに最後まで動かずにゐた、彼の死に立ちあふことを請うた若干のキリシタンたちは、彼が大體眞夜中にやつと息を引取つたと確言した。

朝、遺骸は引取られた、それは、これを寸断して川に棄てるためであつた。然し、キリシタン達は、デ・カルバリオ師の首(註八)と、他に四つの首を手に入れることび出來た。

(中略)

デ・カルバリオ師は、四十六歳、イエズス會に在ること三十年であるが、彼は、日本及び交趾支那の傳遣に十五年を過して來たのであつた。


 本来,二人の神父の行動は年表としてまとめられるべきであるが,時間軸に押さえられない点が多く,あきらめた.これでもだいたい何があったかはわかるだろう.今後,各種文献を精査することによってまとまってくるだろう,と思う.

 なお,パジェスの記述が下劣な日本人とその下劣さから救い出そうとした高貴なキリスト教(カソリック)を強調することによって,客観的な事実は薄められてしまっているので,記述は何割引もして理解しなければならないだろうと思う.たとえば,「クリストフ・フェーレイラ神父(S.J.)」に関する記述を読めば,これは「公平ではない記述だ」と理解できるかも知れない.

 以下,クリストフ・フェーレイラ神父(S.J.)についての記述を読んでみよう.



クリストフ・フェーレイラ神父(S.J.)


===1633(寛永十年)===


十月十八日、長崎でイエズス會の管區長ポルトガル人クリストファル・フェレイラ神父と、イエズス會の日本人神父ジュリアノ・デ・中浦が穴の中に入れられた。又シシリヤ人で、イエズス會のヨハネ・マテオ・アダミ神父、イエズス會のポルトガル人アントニオ・デ・ソーザ神父、聖ドミニコ會の修道士、イスパニヤ人フライ・ルカス・デル・エスピリット・サント神父、イエズス會の日本人ぺトロ修士とマテオ修士、聖ドミニコ會の日本人フランシスコ修士が穴の中に吊された。

「(中略) 拷問五時間の後、二十三年の勇敢の働き、改宗の無数の果實、聖人のやうに忍耐された無限の迫害と難儀によつて、確固してゐさうに見えたフェレイラ神父が、天主の正しく計り知れない審判によつて、哀れに沈没した

偶像崇拝の徒は、この破滅を喝采すれば、イエズス會では、實に苦い涙を流した。然し、その會員の祈りと、日本の最初の使徒聖フランシスコ・ザベリオの代願は、他の宣教師の犠牲の代價で、精神的に死んだ不幸な背教者を復活させた、クリストファル・フェレイラは二十年後に、その立返りと殉教とによつて、イエズス・キリストの教會と、彼が屬するイエズス會を慰めた。

フェレイラ神父は、當時五十四歳で、イエズス會にあること三十七年であつた。」(下254)


===1637(寛永十四年)====


九月二十一日、午後二時頃、ゴンサレス神父と二人の俗人とを乗せた他の船が着いた。神父は、元氣よく陸に飛上り、十字架の印を切つた。彼は、堂々たる體格で人目を引いた。役人の前に引出され、彼は法廷に、クリストファル・フェレイラ神父と、同じく轉んだ日本人の教師を見出した。」(下300)


 四年後,フェレイラはクリスチャン審判の役人として,法廷にいた.

 古賀(1940)は皓臺寺過去帳を調べ,沢野忠庵は慶安三年十月十一日(西暦1650年11月4日)永眠を見いだした.生年と比較すると70歳余りとなる.古賀は「沢野忠庵は、決して殉教した者では無く、天寿を全うして病没した」と結論している.