====1876(明治9)年====
前述したように,1876(明治9)年2月,ライマンは内務省勧業寮と契約を交わし内務省へ移籍となります.また,前年12月に出された「当使生徒稲垣徹之進外十人勧業寮へ御借用之儀」にしたがい,明治9年1月17日付で回答があり,測量生徒は内務省勧業寮へ貸出されることになりました.有り体に言えば,弟子たちも救出できたことになります.但し,地質測量の残務整理があるので,しばらくの間,開拓使内でそれを続ける事になります.
しかし,秋山だけは移籍を拒まれます.明治政府の要人まで動かして,秋山を救出できたのは,5月の中頃までかかりました.
1876年5月10日,「日本蝦夷地質要略之図」発行.
1876(明治9)年5月25日付で,地質測量生徒十名(稲垣徹之進・桑田知明・三沢思襄・高橋譲三・坂市太郎・賀田貞一・山際永吾・前田精明・西山正吾・島田純一)のほか,雇の安達仁造(足立仁造)が「内務省勧業寮」へ引き渡されました.
以後,ライマンの弟子たちは,開拓使及び札幌農学校とは縁が切れます.もっとも,ライマンの地質調査の補助に出て以来,休学状態で実質的に農学校とは縁はありませんでした.
農学校から借り出していた地質・鉱山関係の図書は,彼等が配置換えになった関係で,その貸出延長願いが出されています.
拝借書籍のうち,地質学に関連するものを記しておきます.
ライエル氏著,「地質書」(第15号の5)
タナ氏著,「地質書」(第28号の2)
ジユケス氏著,「地質書」(第23号)
後日譚として,内務省に転じてからは蝦夷地の地質報告をまとめるとともに,本州の油田開発に取り組みます.明治9年9月17日には「北海道地質総論」を提出.明治10年から油田の報文が出始めます.
明治11年には「地質学社」を結成.研究会を開き,翌,明治12年からは「地学雑誌」を発行,学習や研究成果の発表の場をつくります.「地学雑誌」は16号まで発行.明治12年に,ライマンが工部省を解雇されると,翌13年から,弟子たちは新しい職場を求めて各地に散っていきました.
この話,終わります.
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