2008年10月31日金曜日

地質測量生徒の地質学(その1)

 明治五年四月十五日(1872.05.21.)に開校された「開拓使仮学校」には,将来「鉱山科」が設置される予定でしたが,学校自体のシステムと学生の質が悪く,翌年3月14日*には,一時閉校**となります.
 その間,開拓使は北海道内の鉱物資源を開発するために,外国から地質・鉱山技術者を雇傭します.それが,B.S.ライマン(邊治文,士蔑治,來曼)でした.ライマンは,実際の彼の調査の助手として,また,彼がいなくなったあとも独自に調査を続ける事ができる人材の養成として,複数人の若者を要請します.
 ライマンの要請は,開拓使仮学校の方針と一致し,仮学校から複数人の学生が選出されます.これを歴史では「地質測量生徒」と呼んでいます.

*年月日の漢数字-アラビア数字の使い分けについて:明治五年十二月二日までは旧暦で,翌日は新暦:グレゴリオ暦に切り替えられたので明治6年1月1日となります.私の文章では旧暦は漢数字で新暦はアラビア数字で表しています.
**一次閉校:「開拓使仮学校の地質学」でも示したように,ライマンの来日に前後して仮学校閉鎖があります.開拓使では,質の悪い生徒を排除する為に,またそれに「キレ」てしまった黒田に配慮して,「閉校」したのでしょうけど,中でも優秀な生徒については,事前に「再募集」することを周知してあったもだと思われます.

 さて,これから「地質測量生徒の地質学」について追っていこうと思いますが,ライマンは細かい記録を残し,後のライマン研究者もライマンの行動を詳しく追っています(今ひとつ,決定版がないのが残念ですが).ところが,地質測量生徒の方はほとんど記録を残していず,彼等の行動を追った研究もほとんどありません.残念!.
 ライマンと行動をともにした時は,比較的情報が多いのに対し,そうでない時は,ほとんどわかりません.著しくバランスを欠いているのですが,そのつもりで….

 なお,原文中では,マンローを「助手」,地質測量生徒のことを「補助手」と呼んでいますが,「日本蝦夷地質要畧之図」ではライマンが「地質主任」で,マンロー以下は皆「地質補助」として扱われています.現実には,マンローは指導者の一人であり,この扱いに怒ったという話が伝わっています.マンローの名誉の為に,ライマンが「地質主任」ならば,マンローは「副主任」,地質測量生徒たちは「助手」と呼ぶべきですが,混乱を避ける為に,ここではマンローを「助手」,地質測量生徒たちを「補助手」と呼んで,区別だけしておくことにします.

(その2)に続く

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