2008年9月12日金曜日

日高山脈・その名の起源

 日高山脈の研究は地質学者にとっては,長い間重要な研究テーマでした.
 ところが現在では,山をつくるメカニズム(=造山運動)などというものは存在せず,ただプレートの生成・消滅の過程でプレート同士がどういう位置関係にあるかだけで,海嶺ができたり,海溝ができたり,たまたま山脈ができたりするだけということになっています.つまるところ,現在では,山脈の研究は一級の研究テーマとは見なされていないことになります.
 洋の東西を問わず,天は神のもの,地は人のもの,その間にある高い山は魔のもの,として恐れられてきましたが,現代地球科学は山脈から魔物もたたき出してしまったようです.
 でも,実際に巨大な山脈に抱かれてみると,そこには,まだまだ魔物がいることを感じずにはいられません.地球の理論がわかっても山を征服したわけではないのです.


●神保小虎の提案
 さて,ものの起源が知りたければ,ググればよい時代ですが,「日高山脈」という名前を誰が付けたのかという話は,見たことがありません.
 「日高山脈」の名が最初に印刷物に登場したのは,1889(明治二十二)年1月25日のことです.当時,北海道庁の技師をしていた神保小虎(のちの東大教授)が,地学雑誌の第1巻第1号の「雑報」に「日高山脈」と題して以下の文を載せました.

 「北海道の圖を見れば,南の方エリモ崎より十勝岳に向ひたる眞直の山脉あり.之を日高山脉と假稱す.」
 以下,専門的な地質用語が頻出しますので(…中略…)しますが,外側に第三系があり,中軸には“太古層”が整然と帯状配列していることが書かれています.そして,最後に…
 「唯之のみに非らず.面白きヿ誠に多し.東京の地學研究者金槌を提げて来れ」
 とくくっています.

 この時代,実際に日高山脈に調査に入るのは,それこそ神保のように国のバックアップでもないと不可能だったので,そう簡単に地質屋たちが東京からハンマーをぶら下げて,やってきたとは思えませんね.その後どうなったか.それは現在調べている最中ですが,もちろん,本格的に「日高山脈」の研究が行われるのは,もっともっと後からのことになります.


●松浦武四郎の上申書
 では,ここで「日高山脈」と名付けられたその「日高」とは,一体なんだったのでしょうか.

 1869(明治二)年七月十七日.松浦武四郎が開拓使(この頃はまだ,「北海道開拓使」ではなく,「(蝦夷)開拓使」でした)に「蝦夷地道名之儀勘辨申上候書付」を提出しました.これは,渡辺隆「江戸明治の百名山を行く」(北海道出版企画センター)に示されているもので,通常は「道名の義につき意見書」と書かれていることが多いものです.
 実際に我々が見ることができるものでは,北大図書館の北方資料DBで公開されている「北海道々国郡名撰定上書」があります.なお,これ自体は市立函館図書館蔵書を昭和二年に写本したものとされていますので,表題(および内容も含めて)が元々と同じものなのかどうかは保証の限りではありません.

 ともかくも,この上申書の中で,武四郎は「蝦夷地」の新名称に,以下の六つの候補を順に挙げています.
 ・「日高見道」
 ・「北加伊道」
 ・「海北道」
 ・「海島道」
 ・「東北道」
 ・「千島道」

 一番最初にあげられているのは「日高見道」.
 この「日高見道」には,その名の由来が示されています.それは,「景行天皇二十七年春二月武内宿禰自東國還而奉言東夷之中有日高見國」(日本紀)というものです.砕いていうと,「景行天皇27年の2月に,武内宿禰が東国遠征から帰って『東の方に「日高見国」がある』と報告した」ということです.
 この「日高見国」が現在のどこに当たるのかは後でふれます.
 武四郎はもう一文を続けています.
 それは「三十二代崇峻帝四年八月狗襲発矣於狗襲有威人名曰雄猛狼也力當百人略當千人撃國人成王遂望日高見発兵撃陸奥陸奥重竹青為表練牛皮為裏合之造甲冑塗毒於矢先」というもの(ただし,この文字は私が写本から読み取ったものなので読み間違いがあるかもしれません).これもたぶん「日本紀」(=日本書紀)からの引用だと思われますが注記はありませんでした.どこかで読んだような記憶もあるのですが,何せ,最近は物覚えがわるくて((^^;).
 なんにしろ,武四郎は「日高見」が日本の古典に出ていることを強調しているわけです.

 一方,「北加伊道」以下の名称は武四郎オリジナルの発案によるもの.蛇足ですが,たぶん,武四郎はこの順に新名称を推薦したのだろうと思います.もしかしたら,我々は「北海道」ではなく「日高見道」に住んでいることになっていたかもしれないのですね.

 さらに蛇足すると,二番目の「北加伊道」の「加伊」は,武四郎によれば,熱田大神宮縁起に「夷人自らの國を加伊という」とあることを引用しています.武四郎は,今もアイヌは互いを「カイノー」と呼ぶとしています.いくつかアイヌ語関係の書物をあさって見ましたが,これはよくわかりません.ただ,知里むつみ・横山孝雄「アイヌ語会話イラスト辞典」(蝸牛社)には,「一人称(私,ボク,おれ)」を「kuani」としています.聞こえ方によっては,これが近いかなとは思いますが,その筆者は「普段の会話ではあまり使わない」としています.

 さて,これが「ほくかいどう」と読むのか「きたかいどう」と読むのかは判断できませんが,開拓使はこれを取り上げ,アイヌの土地を意味する「加伊」を「海」に換えてしまいました.そうすると,古くからある本州各地の呼び方「西海道」・「南海道」・「東海道」と非常に調和的な,大和的な名称に変わってしまったのです.
 これによって,武四郎は「北海道の名付け親」との肩書きを持つことになりますが,武四郎の真意からは「とんでもない改竄」と感じたのだろうと思うのは私だけでしょうか.結局,武四郎はこの後,開拓使を辞職し,蝦夷地には二度と足を踏み入れることはありませんでした.

●日高見国
 話を元に戻します.
 武四郎は,同上申書で「国名」についても提案しています.国名というのは判り難いかもしれませんが,その区分は,ほぼ現在の「支庁」に当たります.以下.
 ・渡島
 ・後志
 ・膽振
 ・日高
 ・石狩
 ・天塩(出塩・出穂)
 ・十勝(刀勝・利乳・尖乳)
 ・釧路(久摺・越路)
 ・根諸
 ・北見
 ・千島

 ここでも,「日高」が出てきます.武四郎はこの名前について「土地が南面していて,冬が早く明け,晴天が早くから続く」ことと,やはり「景行天皇二十七年春二月」の武内宿禰の報告を引用しています.ただし,こちらは引用が長く,前記に「其国人男女椎結文身為人勇悍是摠曰蝦夷亦土地沃壌而曠撃可取也」と続きます.
 この意味は,「その国の人は,男女とも髪を結び,入れ墨をしている.人となりは勇ましく猛々しい.これを総て蝦夷(えみし)と曰う.また,土地は肥沃であり,広大である.」となります.そして最後に「撃ちて,取るべし.」が付け加えられています.

 現代日本人の感覚では,「野蛮人の土地だけど,土地は肥沃で広大」だから「攻撃して,分捕ってしまえ」なんて,どっちが野蛮人だと思ってしまいますが,この当時では普通の感覚だったのかもしれません.もっとも,現代でも世界中の多くの国が同様のことを考え,同様の行動をしているようですが…(それらの国には,残念ながら「平和憲法」が無いのですね).

 さて,当時の「日高見国」はどこにあったのかというと,よくわかっていないようで,いまだに議論が続いているようです.武四郎は「常陸國または陸奥相馬郡」と記していますので,現在の茨城県と福島県から宮城県南部あたりなのでしょうか.
 宮城県石巻市桃生町太田拾貫壱番には,その名も「日高見神社」があり,その側を「北上川」が流れています.また,岩手県奥州市(2006年,水沢市・江刺市,胆沢郡前沢町・胆沢町・衣川村が合併して成立)水沢区字日高小路にも「日高神社」があり,もちろん水沢区にも「北上川」が流れています.
 そう,「北上(キタカミ)」は「日高見(ヒタカミ)」を語源としているようなのです.


●北上…>日高
 話を,グーッと元に戻しますと,日高山脈の語源は,「麓に日高国を抱く」こと.その「日高国」は,昔“まつろわざる”民がいた「日高見国」が語源.「日高」は北の地の山脈名になってしまいましたが,「日高見」は「北上」になってしまったらしいのですね.
 ちなみに武四郎は,アイヌはその昔,東北地方全域に住んでいましたが,大和政権の侵略によって最後は蝦夷ヶ島(=北海道)まで追いつめられてしまった,と考えていたようです.

 その昔,北上山地は「バリスカン造山運動」のかけらが残っている地域と考えられていました(私は,卒論でその一部の地質を明らかにすることを命じられていました).日本のバリスカン造山運動は「安倍族造山運動」と呼ばれていました.「安倍族」とは,東北地方に居を置く一族で,蝦夷だったのだろうともいわれています.
 同じ頃,日高山脈は「アルプス造山運動」の日本版と考えられていました(私はその麓にある博物館で,日高山脈がまだ海の底であったころに生きていた生物の化石の収集・研究・保存を仕事としていました).

 悲しいかな,「造山運動」という言葉は,現在では「死語」になっていて,地球の謎は「山脈」にあるのではなく,「海底」にあることになってしまいました.地表を歩いて調査する「地質屋」も絶滅し,高価な船や調査機器を使って海底に穴を掘る「地球科学者」に交代してしまいました.レリックもまだいるようですが….
 ハンマー一つで地球の謎に挑戦できる時代から,一部のエリートにしか肉薄できない学問になるのに平行して,地球の謎に挑む学問は市民の支持を失いつつあるようです.この(科学の)巨大化につれて市民の科学離れが起きるのは,ほかの科学の分野でも同じですね.もちろん,アマチュアの参加が許されないからです.

 そのうち地質学も,蝦夷の歴史と同じように,時間の狭間に埋もれてしまうかもしれません.蝦夷の歴史もまるで「化石」のように点々とヒントが残されているようで,昔地球の謎に挑んだ地質屋も「化石」を残してくれるでしょう.

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