北海道における石灰岩研究史(5)
4)戦後の再吟味時代(1945-1969:昭和20~44)
太平洋戦争の敗戦により,朝鮮,満洲,南樺太,台湾など日本が原料資源を求めていた地域は全て失われました.こうなると注目を浴びるのが,例によって北海道です.北海道は未調査部分が多く,三度,鉱産資源調査が始められ,その中には石灰石資源も含んでいました.昭和25年,道立地下資源調査所が設置され,昭和23年に発足した地質調査所北海道支所,北海道大学などとともに,官公立の調査研究機関の人々が一丸となって(石灰岩調査を含む)地質調査に取組みました.
これらの調査は長期にわたって続けられ,この間に従来知られていた鉱体の鉱量,品位と共に石灰石を含む地層の岩相,構造,地質層準等も明らかにされました.同時に行なわれた全道5万分の1地質図幅調査の進展にともない,新鉱体の発見もあり,数多くの石灰石鉱床が公表されました.
注:現在は既に田中(1973)の時代とは異なり,1/5万地質図幅もいくつかの図幅範囲を残したまま打ち切りになり,地質調査所・北海道支所は廃止になり,道立地下資源調査所も改称して業務内容が変化し,北海道大学・地質学鉱物学教室も無くなっています.田中(1973)の時代区分には,すでに新しい時代が付け加わっているわけです.これについては,最後に考察する予定です.
この中には,石灰石鉱体中唯一の新生界中に存在するものとして,北見国枝幸郡中頓別町旭台にある貝殻石灰岩があります.これは「中頓別層」中に存在するもので,中頓別層は鈴木(1935MS)が「モウツナイ層上部」と「中頓別層」として記載したもので,今西(1953)が「中頓別層群」として再定義し,小山内ほか(1963)によって「中頓別層」として報告されたものです.層序区分やその時代論については,長い間議論がありましたが,高清水(2009)が化石群集を検討した結果,この地層は中新世中期後半~後期(約14.8~5.4Ma)の地層であることが推定されました.その形成機構・環境については,田近(1989),高清水(2009)が詳細に検討しています.この時代になると,もう「資源としての石灰岩」ではなく,地質形成機構・形成環境などが議論されるのが当たり前になったということでしょう.
北海道地下資源調査報告
北海道石灰岩調査報告 第1報~第2報の目次
(正確には,第1号から18号までは「北海道地下資源調査報告」,第19号から70号までは「地下資源調査所報告」,第71号からは「北海道立地質研究所報告」になる)
話を戻します.
この時期,北海道地下資源調査所報告には,1950年に2ヶ所,1951年に4ヶ所,1952年には9ヶ所,1958年に4ヶ所,1959年に3ヶ所,1960年に2ヶ所,1961年には二ヶ所,1962年に1ヶ所,1964年に1ヶ所が報告されています.北海道地下資源調査所報告は2000年に「北海道立地質研究所報告」に変わり,現在も存続しますが,1965年以降は石灰岩に関する報告はありません.
北海道開発庁名で発行された「北海道地下資源調査資料」には,1952年に2ヶ所,1953年に1ヶ所,1954年に1ヶ所,1957年には石灰石鉱床が1ヶ所とドロマイト鉱床が2ヶ所,1959年に1ヶ所(前出,中頓別石灰石),1964年にドロマイト鉱床が1ヶ所報告されていますが,こちらも1965年以降,石灰岩鉱床についての報告は絶えています.報告すべき岩体が尽きたのか,資源としての重要度が低下したのか,恐らくその両方なのでしょう.
したがって,田中(1973)のいう「戦後の再吟味時代」は1965(昭和40)年には終わったと考えてもいいのかもしれません.
田中(1973)は,石灰岩を含む古期岩類を「神居古潭系」,「空知層群」,「日高古生層」,「北見古生層」,「枝幸古生層」,「松前古生層」と分けています.しかし,この時代はまだまだこういった地層区分には混乱があった時代で,このまま田中(1973)をベースに考察を続けても,さらに混乱しそうなので,やめます(これ以下の部分,じつは五・六回書き直しています(^^;;).
現在では,加藤ほか(1990編)や,新井田ほか(2010編)のように,西から「渡島帯,礼文ー樺戸帯,空知ーエゾ帯,日高帯,常呂帯,根室帯」に分けて,地域ごとに説明するのがふつうになっています.ですが,この話はあくまで「研究史」ですので,歴史的に追ってゆきたいと思います(これもまた途中で挫折するかな(^^;;;).
それで,5)として「化石がしめす北海道の地史=石灰岩からの産出化石を中心として=」を設定します.
(つづく)
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