北海道における石灰岩研究史(2)
北海道における石灰岩研究史(田中,1973の「Ⅱ 北海道における石灰石鉱床の調査史」を改題)
1)草分け時代(1874-1892:明治7~25年)
北海道における大部分の有用鉱物がそうであるように、石灰岩の地質学的な調査もまた,ライマンらの調査によって始められました(Lyman 1874; 1877)。この報告には上磯を初め、石崎,上湯沢、鷲の木,神居古潭などの石灰岩が記述されています.しかし,これらのうち,上湯沢および鷲ノ木の“石灰岩”とされたものは,その該当するものは見つかっていません.
ライマンの弟子である西山正吾がまとめた「北海道鉱床調査報文」(1891:明治24年)には,数多くの石灰岩産地も記述されていて,多数の分析値も載せられています.この報文では,北海道の石灰石鉱床はおおむね長万部以南にあるとし,東部では日高国,石狩国上川・北見国宗谷郡に限られるとされています.それらの石灰岩の時代は古生代と第三紀であるとされいますが,現在の知見から見れば正確さを欠いています.
報文には,以下の地点の石灰岩についての記述があります.
渡島国,亀田郡尻岸内村
同,亀田郡石崎村
同,亀田郡下湯川村湯ノ澤
同,上磯郡中野村戸切地川,ガロの澤
同,松前郡福島村ーの渡
同,松前郡根部田村字烏の澗
同,松前郡清部川上流シノへ沢
同,松前郡原口村原口川およびヲンコの沢
同,檜山郡石崎川の上流,清川
同,後志国瀬棚郡利別川上流ピリカベツ温泉附近
同,後志国島牧郡永豊村泊川および軽臼村大平川
日高国,浦河郡元浦川上流
日高国,浦河郡幌別川
同,三石郡三石川上流
石狩国,上川郡忠別(当時は,旭川,鷹栖,東鷹栖という地名はない)石狩川支流ピップ(比布)川
北見国,宗谷郡チライベツ(知来別)川上流
これらのうちでは「ガロの澤,三石,幌別,泊川,ピリカベツ」がとりあげられ,これらは石灰の原料としてのほかに,大理石として石材にも適するとしてあります.
この後,田中(1973)は神保小虎の報告にある石灰岩についてまとめています.この部分には奇妙な点がいくつもありますが,神保(1890b)Jimbo (1892)はわたしには入手不可能なので,記述の確認ができません.したがって,田中の記述の通り引用しておくことにします.
「1891年神保小虎(95*)は“石灰石並びに大理石"として多くの産地を挙げているが,その内、当時採掘せるものとして、渡島国ガロの沢、同亀田郡石崎を記載している。又装飾用として使えるものは永豊村泊川の転石および三石川ドメウシの大理石があり、石灰石産地として開発可能な海岸又は道路に接したものとして次のものが挙げられている。
1. 渡島国,亀田郡湯の川,石崎,尻岸内
2. 渡島国、上磯郡ガロの沢
3. 渡島国、松前郡原口、根部田,清部並びに福島村の辺り,江差港辺,石崎
4. 後志国,利別川上流,美利河,永豊村
5. 日高国,三石川,様似川、元浦河、幌別川
6, 石狩国,上川郡比布
7. 北見国,宗谷郡知来別
これら石灰岩は全て古生層中にあって、第三紀並びに中生層中の泥灰岩団球は工業上採る可き価なしとされている。
これらの石灰岩産地は現在も大体その位置を知るととができるが,その中の湯の川は上湯の川の温泉鼻と推測されるものであり、又根部田のように所在不明のもの、知来別のように増幌層礫岩中の石灰岩礫と推定されるものも存在する。又この文献中石狩川の神居古潭中のものは三株系(御荷鉾系のこと)中てあって質,量共に良き石灰を得るに適せずとしている。
また、これら石灰岩を含む古生層は内地のもののように多種の化石を含まず、僅かにシヤールスタイン中にラデイオラリヤや海綿の遺殻を見るにすぎず,海百合の破片を見たものは永豊と根部田並びに原口だけであると記せられている。」
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* 神保小虎(95):「(no.)」は田中の引用文献提示法です.しかし,論文中の「(95)」は全く別の文献で,田中のリストでは(89)が正しいのです.また,(89)は「神保小虎 1891 北海道地質報文 北海道庁」とありますが,正確には「神保小虎(1892a, b)北海道地質報文(上下巻).北海道庁」であり,わたしが入手できた「上巻」には,そのようなことは書かれていないので,たぶん,1892b(下巻)にあるのだろうと思われます.
「続いて出された1892年の神保小虎(96)*の報告中には、まことに興味のある石灰岩が記載されている。これは空知川下流,空知川の滝から3里程上流のPanketoptuyeushiと空知滝に近い Shirikeshomapの下手のPanketeshimaの2ケ所に露出あり、古生層中の石灰岩とはおもむきを異にし、又日本の他の石灰岩とも異なっており海胆の棘と珊瑚、有孔虫があり,海胆の棘が鳥巣産のものとよく似ているので恐らくは中生代であろうとされているものである.」
「また、これら石灰岩を含む古生層は内地のもののように多種の化石を含まず、僅かにシヤールスタイン中にラデイオラリヤや海綿の遺殻を見るにすぎず,海百合の破片を見たものは永豊と根部田並びに原口だけであると記せられている。」
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* 神保小虎(96):田中のリストでは,(96)は無関係の論文であり,(90)が正しい.したがって,神保(or Jimbo)(1892)は計3冊あることが推測でき,和文下巻と英文は同一内容であることが推測できます.これらは現在入手不可能で,北大図書館には全て蔵書としてあると考えられますが,このためだけに確認におもむくのは「しんどい」ので懸案事項としておきます.
以下,わたしの編集文章に戻します.
上記,Jimbo (1892)によって「恐らくは中生代のものであろう」とされた石灰岩からは,後述のように,矢部(1901)が有孔虫・オルビトリナを報告し,「白亜紀セノマニアンである」とされます.蛇足しておけば,神保が類似を指摘した“鳥巣型石灰岩”はジュラ紀~(一部)前期白亜紀であるのにたいし,矢部が指摘したオルビトリナは後期白亜紀のものであり,時代が違うということを示したものです.
石川貞治,横山壮次郎は「北海道庁地質調査 鉱物調査報文」において北見国枝幸郡トンベツ屯支流ペッツアンで“古生層”の中から石灰岩の新産地を報告しました(石川・横山 1894編).
石川・横山(1894編)表紙
石川は翌々年の「北海道庁地質調査 鉱物調査第二報文」では,日高国沙流郡「サル」川,「ム」川,「シビチャリ」川に多数の石灰岩露出地を記録し,またそれらとは異なる石灰岩の転石をも記録しています(石川 1896編).
石川(1896編)表紙
上記報告書にある石灰岩産地は,ほかの地質記載も含めてアイヌ語地名によって示されています.ところが,現在ではこれらのアイヌ語地名のほとんどは失われ,その位置を確認するのは困難になっています.また,これらの調査をまとめた「北海道地質鉱産図(120万分の1)」が1896(明治29年)に発行され,石灰岩の産地もいくつかマークされていますが,正確な位置についてはこれでは読み取れません.
(つづく)
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