2020年6月16日火曜日

「赤山紀行」探索



 ガワーについての文献散策中.自分の書いた「北海道・地質・古生物」の「蝦夷地,最初の炭鉱 pt. 1」がヒットしたので読み直し.そこにあった「シラヌカ」の「石炭掘り」についての記述を読み直し.そこで「赤山紀行」なる文献を思い出しました.

 それは,以下の文.

「オタノシキ川より左に原を見て行けば,原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり.この附近石炭あり.桂戀の附近なるションテキ海岸には,磯の中にも石炭夥しく,総てトカチ領よりクスリ領までのうち,山谷海邊とも石炭なり.今度,シラヌカにて石炭を掘りしに,坑内凡そ三百間に至れども石炭毫も盡くることなしという.」
 この「赤山紀行」は「北海道炭砿港湾案内」(昭和六年刊)の冒頭に引用されていると児玉清臣「石炭の技術史」にありますが,詳細不明です.
 そもそも「北海道炭砿港湾案内」そのものの存在が確認できないですし,「赤山紀行」の存在も確認できません.著者も不詳.

ということだったんですが,そう言えば「赤山紀行」についての探索は放置状態のままでした.
 「北海道炭砿港湾案内」は10年たった今も,日本の古書店ですら見つからず.Googleにも引っ掛からず.
北大図書・北方資料データベースに「北海道炭砿港湾案内」も「赤山紀行」もなし.
国立国会図書館Dコレクションに「北海道炭砿港湾案内」も「赤山紀行」もなし.
CiNiiにもなし.
万事休す.

 まあ念のためということで,J-STAGEで「赤山紀行」を検索.
上野景明(1918)明治以前に於ける北海道礦業の發達
山口彌一郎(1934)炭礦聚落の漸移性
山口彌一郎(1935)炭礦民俗誌稿
がヒット

 順番にチェック.
 上野(1918)には,「赤山紀行」は旧記のリストに「(ル)赤山紀行」として載っていて,これは本文「(一)北海道鑛業沿革年表」の「(一七)、寛政十一年(西一七九九、119)オタノシキ川(釧路國釧路郡)より左に原を見て行けば、原愈々廣くク スリ川迄は皆原なり、此附近石炭あり、又桂戀(同國同郡)の附近なるシヨンテキ海岸には、磯の中にも石炭夥しく、総べてトカチ嶺よりクスリ嶺迄の内山谷海濱とも石炭なり、今度シラヌカにて石炭を掘りしに、坑内凡そ三百間に至れども、石炭毫も盡くる事なしと云ふ(ル)」として引用されています.
 残念ながら,著者名の記載はなし.

 続いて,山口(1934)では,上記と同様の文が引用されていますが,こちらも引用文献としての記載がなく,著者名は不明.
 さらに,山口(1935)では,二ヶ所に引用.上記と同じ文章が記載されているも,これも引用文献としての記載無し.

 なんとまあ,時代が古いせいか,文系研究者の習いなのか,引用している文献が明示されていないのですね.ダメかな.

 というとろで,駄目元で再度「赤山紀行」でググってみました.やってみるものです.そうしたら,大場・児玉(2011)「戦前期石炭鉱業の資本蓄積と技術革新(一)」が引っ掛かりました.そこには児玉(2000)に掲載された「我が国主要石炭鉱業の時代別成立」の図に引用された文献として載っていました.
 それによれば…
 「34.寛政11年(1799),谷元旦の釧路紀行。赤山紀行。釧路の石炭を紹介。」
とあります.

 !.なんと,著者は「谷元旦」でした!.
 谷元旦については,ウィキペディアでも参照してもらうこととして,簡単に説明すると,谷元旦は超有名な絵師「谷文晁」の実の弟.養子に行って「島田元旦(しまだげんたん)」を名乗ります.文晁の弟だけあって元旦も絵が得意.円山応挙の弟子でもありました.
 しかし本業は鳥取藩士.「寛政11年(1799年)松平忠明が蝦夷地取締御用掛として蝦夷地警備に赴いた際、蝦夷地の産物調査の一員として同行した。元旦の一行は植物調査を主体としたもので、幕府奥詰の医師で薬園総管を兼ねていた渋江長伯を隊長としていた。元旦は絵図面取りを担当し、蝦夷地各地の実景、植物、鉱物、アイヌ風俗を北海道の太平洋岸一帯で、4ヶ月に渡って調査した。(from ウィキペディア)」

 絵の得意な元旦は記録係として随行したものでしょうね.
 じつは,谷元旦は地質学界では有名な人物でもあります.当時の蝦夷地(北海道)のスケッチをいくつも残していて,その中には有珠山の当時の姿なんかもあります.1977年噴火前の姿をとどめる貴重なスケッチでありました.




 しかし,残念なことに「赤山紀行」そのものは,どこにあるものなのか,まったく判りません.まあ,見つかったとしても,超有名人の著作ですから,入手は不可能だと思いますが…

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