2020年3月11日水曜日

北海道における石灰岩研究史(9)


北海道における石灰岩研究史(9)

まとめ

 日本には江戸時代の末期に,すでにほぼ完成した地質学が,この蝦夷地に入ってきました.すぐに使える地下資源の調査が要求されていましたが,それは無知な政治家のむちゃな要求でした.ただでさえ,未開の北海道は簡単な調査すら,たくさんの神々=自然が拒む世界でした.にもかかわらず,ライマンはピンポイントの「資源調査」,北海道全体の概査「全道地質図作成」,くわえて「後継者の育成」までやってのけています.

 本来ならば全体の概査から有望地の選定,そして精査とすすむべきでしたが,当時の日本人には,最先端西欧科学技術である地質学への理解は,…なかったわけです.日本では政財界の要求するピンポイントの「資源調査」から入り,技術者および技術の理解者の増加をまって「地質調査」が始まるというパターンを取っています.現在でも,しばしば見聞きすることですが,「金メダルを取れる選手の育成」とか,「ノーベル賞を取れる学者の育成」とか,現場を知らない無知な政治家,お金しか頭にない財界の言い分ですね.
 そのような優秀なスポーツ選手,優れた学者を生み出すつもりなら,そのような「お役所視点」から,国民全体にすそ野を広げる「研究・教育視点」に軸足を移動する方が,結局目的地には早く着くんだと思いますがね.

 さて,近代地質学誕生の地(といわれる)英国では,資源開発や土木工事を進める中で,近代地質学が構築されてきたといわれています.それまでは,貴族や有閑階級のお遊びとしての「自然学」が中心でした.そこでは「地層累重の法則」とか,「(化石による)地層同定の法則」とか,観念的にではなく,現場で確認されてきたのでした.
 こういった法則は近代地質学の根本法則とされてきました.ところが,江戸時代末期から明治時代始めにかけて蝦夷地(北海道)に輸入されてきた「近代地質学」は,輸出先の蝦夷地で大変な試練にあいます.「地層累重の法則」や「地層同定の法則」は限定的にしか適用できないことが,昭和時代末期に明らかにされ地質学・層位学に激震が走りました.
 そして,この地の複雑な地質を解釈するために「付加体地質学」という現代地質学が誕生したのでした.

 以上.「北海道における石灰岩研究史」を終わります.
 なお,引用文献に関しては,とくに示しておりません.理由はいろいろです.あしからず.


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