2010年12月30日木曜日

蝦夷地,最初の炭鉱 pt. 1

 
 北海道で最初の炭鉱はどこにあったのか,というのはけっこう難しい問題のようです.

 クスリ(久摺)辺り(旧釧路国)の海岸沿いに石炭露頭があったという記録はたくさんあるようですが,事業として石炭を採掘した記録となると,とたんにあいまいになります.
 石炭が露頭していれば,付近の住民がひろって薪がわりに使用したということは,十分に考えられますが,小規模であったとしても,短期間であったとしても,産業としておこなわれたという確実な記録を見いだすのは,なかなか困難です.


 たとえば,1799(寛政十一)に発行されたといわれている「赤山紀行」には以下のような記述があるそうです.

「オタノシキ川より左に原を見て行けば,原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり.この附近石炭あり.桂戀の附近なるションテキ海岸には,磯の中にも石炭夥しく,総てトカチ領よりクスリ領までのうち,山谷海邊とも石炭なり.今度,シラヌカにて石炭を掘りしに,坑内凡そ三百間に至れども石炭毫も盡くることなしという.」

 この「赤山紀行」は「北海道炭砿港湾案内」(昭和六年刊)の冒頭に引用されていると児玉清臣「石炭の技術史」にありますが,詳細不明です.
 そもそも「北海道炭砿港湾案内」そのものの存在が確認できないですし,「赤山紀行」の存在も確認できません.著者も不詳.
 この時代は,蝦夷地のどこであれ,石炭が採掘されてたという傍証がまるでないので「坑内凡そ三百間」なんてあり得ないのです.


 次の可能性は,これも児玉清臣「石炭の技術史」にある記述ですが,「安政三年,幕府は初めて釧路獺津内で煤炭を採掘し,幾許もなくして止む」と「開拓使事業報告」にあるそうです.「獺津内」は現在の釧路市益浦あたりの旧名であると釧路市のHPにでています(安政三年は西暦1856年).

 おかしいのは,幕府側の記録ではなく,開拓使の記録であること.つまり,幕府側の記録には残っていないということでしょうかね.その割には,この記事の前に,「奉行は…安政二年七月『蝦夷地開拓觸書』を公布して,広く鉱産資源の….すでに露炭地として知られていた北海道東海岸の開発可否を検討するため,翌三年六月,調査団を派遣した.候補地は釧路の東方「オソツナイ」と,「シラヌカ」である.」とあります.妙に詳しい.
 残念ながら,この部分が,なにに記述されているのか引用が明記されていないため,前後を確認することはできません.
 したがって,「幾許もなくして止む」というのが,どの程度の規模だったのか,短期間でも商業ベースに乗ったのか,あるいは試掘程度だったのか,それも不明です.試掘程度では,「蝦夷地最初の炭鉱」と“冠”をかけるのは無理でしょうね.
 しかし,もしこれの裏付けがとれたとすれば,現在,日本最後の炭鉱「釧路コールマイン」が釧路市興津にありますから,蝦夷地最初の炭鉱は最後の炭鉱でもあったことになります.

 一方,同年同月,「シラヌカ」の石炭も採取され,箱館の英国人が鑑定し「良品」と位置づけたとあります.しかし,残念ですが,「別の記録」とあるだけで,なにに書かれているのか確認できません.「箱館の英国人」も何者なのかそれも不明.可能性があるのはガワー(E. H. M. Gower)ですかね.

 白糠炭鉱は1857(安政四)年に採掘を開始.
 こちらは,複数の記録が残っていますので,信頼できます.
 つづく.
 

0 件のコメント: