2010年12月31日金曜日

蝦夷地,最初の炭鉱 pt.2

 
 白糠炭鉱は,1857(安政四)年五月,採掘を開始しました.

 採掘の指導者は栗原善八という名前だそうです.
 伝えには「奉行所手付」とするものもありますが,どういう立場なのかは微妙.「山師」であり,奉行所の「臨時雇い」と考えるのが一番ありそうですが,なんの記録も見つかりません.
 実際の作業にたずさわった人も微妙で,筑後の人(九州・福岡の炭鉱労働者・採炭夫)が数人とするものもあり,箱館から連れてきた無宿人を強制労働させていたような記述をするものもありますし,アイヌが使役されていたという記述もあります.
 いずれもありそうなことですが,どれも原典が明記されていないので,確認不可能.

 実際に採炭をはじめると,採炭そのものは炭層が厚いので採掘しやすく,積み出し港にも恵まれていました.しかし,積み出した石炭は崩れやすく粉炭になり,扱いづらかったようです.
 また,試掘段階では優良とされた炭質も,「火力が弱く,灰分が多い」ため,汽船の燃料としては歓迎されなかった,と,されています.
 かなり,あいまいですが,要するに商品としてはあまり良いものではないと判断されたということでしょうか.くわえて,新しく発見された岩内の茅ノ澗の石炭のほうが炭質や企業パフォーマンスが良好(箱館に近いなど)とされたために,栗原善八以下の作業員は茅ノ澗に移動.必然的に,1864(元治元)年白糠炭山は廃山となりました.

 わずか,七年の稼働でした.

 これらの記述の元ネタは「白糠町史」あたりなのだろうと思われます.
 こういった記述には,疑問の点,不明な点が多く,洗い直されるべきなのですが,今一歩がね….町史を貸してくれるところもないし….
 

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