2011年1月2日日曜日

蝦夷地,最初の炭鉱 pt.3「東徼私筆」

 
 白糠炭山には,蝦夷地最初の炭鉱ということもあり,たくさんの記録が残されています.
 有名なのが,成石修輔の「東徼私筆」*です.

 成石修輔は関宿藩士で,生年不詳ですが,没年は1870(明治三)年6月.
 かれは,藩命により蝦夷地を調査.たぶん絵がうまかったのでしょう.当時,絵が上手ということは,こういった調査・探偵作業には必要な才能でした.

 「東徼私筆」は安政四年十月十七日に,復命されたものです.
 これには「白糠石炭窟」という絵が残されています.絵は,この語でGoogleすれば,見つけられるでしょうから,その掲載はしません.

 大野良子・校注「東徼私筆」から,その段(巻之五・七月十九日)

「(前略)…。シラヌカ番家の五六丁前に山腰石炭多し。栗原六八子といえる人江戸より来り給い、職人は筑前柳川の人なるよし。クスリの同心衆小向蔵太子も来り給い、石窟中を見物す。山腰二ケ所に炭穴有り。曾て間く。石炭穴は磐と磐との間より出て、其間三四尺を限ると。当所は穴の丈六尺も有るべし。窟中の模様は金銀窟におなじ。所々かんてらを照したり。」

 この短文の中に,いくつか誤りが指摘されています.
 たとえば,「栗原六八」は「栗原善八」,「栗原善八」は「江戸からきた」となっていますが,「箱館奉行所手付」となっている場合もあります.「職人」は「採炭夫」のことで「筑前柳川」ではなく,「筑後」のひととなっている場合も.同心「小向蔵太」は「小田井蔵太」の場合もあります.
 ただし,これが成石修輔本人がおかした誤りかどうかは不明.実は,こういう貴重な資料ですが,本物は残っていず,現存するのはいずれも「写本」なのだとか.写本ならば,誤写も不思議ではありません.

 修輔自身は,明治二年正月二十四日に,明治政府によって反逆者として捕らえられ,そのまま明治三年六月二十九日,五十三歳で獄死したとなっています.
 原本が残っていないのは,このためか,と疑う人がいます.もしかしたら,明治政府やその追従者にとってつごうの悪いことが書かれていたのかもしれません.
 写本の絵は,修輔の絵とは「比較にならないほど稚拙なものである」と評価される程度のものなので,実際にはなにが描かれていたのか,非常に気になるところです.

 また,明治維新のどさくさで,どれだけたくさんの有能な人たちが政府によって惨殺されたのか.そういう事実がろくに発掘もされずに放置されていることからは,この国の歴史および歴史学なるものが,いかに眉唾ものなのか,疑わずにはいられません.


*:大野良子・校注「東徼私筆」では,著者は「成石修」になっていますが,これは漢文調のペンネームみたいなもので,「成石修輔」が本名.なお,名前の頭に「関宿」と振ってありますが,これは,これは出身の「関宿藩」のこと.中表紙および箱において,となりに校注者の大野良子の頭に「校注」と振ってあるので,妙なことになっていますが,誤解のないように.
また,箱では「成石修識」に見えるようになっていますが,これは本の装丁者の不注意.「成石修 識ルス」という意味です.
 

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