2011年1月6日木曜日

蝦夷地,最初の炭鉱 pt.7「罕有日記」

 
 見逃してましたが,高倉新一郎(1987)「挿絵に拾う北海道史」に,「罕有日記」の「白糠炭山」に関する記述が載っていました.なお,「罕有日記」は「かんゆうにっき」とよみます.

「横に山腹を掘る事深さ十間程高さ六尺幅同断なり。左右は材木にて虎柵を立て頽堕を厭ふ。拾間奥より更に左右に深く掘込たり。奥に至る程炭質も細かに且質悪しと。又其南十二間に別窟を穿つ。製は前に同じ。深さ七、八間なり。蔵方の咄に二穴にて三千貫目程掘出す」

 悲しいかな,現物ではないので,この前後になにが書かれているのか,書かれていないのか,確認できません.
 高倉(1987)には,この引用文のあとに,引用不明の解説が続くので,上記の他にまだなにか記述があるのかもしれません.

 この記述からは,「東徼私筆」ほかにあるように抗口が二つあることが確認できます.文脈からは,「東徼私筆」の絵「白糠石炭窟」にある上の抗口(あいまいに描いてある)のほうが,質が悪い坑道のようで,下の抗口(南の別窟)が新坑道(?)のようです.
 「入北記」(玉蟲左太夫)には,「一つは「細炭且悪炭」のため,役に立たないが,もう一方は「極上石炭」である」としていました.この記述では,二つの坑道は別の炭層をおったもので,炭層自体に質の違いがあるようにも考えられますが,「罕有日記」の記述では,先の坑道では徐々に悪くなって,十間ほどで「細炭且悪炭」であり,新坑道ではまだ「七、八間」しか掘っていませんから,十間ほどで同じように「細炭且悪炭」になる可能性もあります.

 つまり,おなじ炭層を掘っている.

 このことが,担当者にはわかっていたから,すぐに「茅ノ澗炭山(=茅沼炭山)」へ移ることを決心させたのかもしれません.

 ま,白糠炭山の精密な地質図でも入手できれば,判明することなんですけどね.


 と,書いていたら,児玉清臣「石炭の技術史」のなかに「罕有日記」の記述を見つけてしまいました.なお,この文は白糠町発行の「叢書・白糠炭田に灯は消えず」という冊子にあるとされています.

「沙汀十町余にて山腹に石炭小屋あり。馬を下りて案内を乞う。石炭窟に入る。十二、三間を距て又一窟あり。窟中両又の穴を通す。皆良品を産するなり。掛りの吏人栗山善八(栗原の誤り)(此頃石炭場見立のよし)右石炭掘職の者江戸表より数人召連下り業を始むよしなり。右石炭山は汀内二町程奥にて五、六間の山腹なり。横に山腹を掘る事深さ十間程高さ六尺、幅同断也。左右は材本にて柵を組み欠損を防ぎ、虎柵を立て頽堕を厭う。十間奥より更に左右に深く掘り込みたり。奥に至る程石炭は細かに且つ質悪ししと。又其南拾弐間に別窟を穿つ。製は同じ。深さ七・八間なり。職方の者の咄しに二穴にて三千貫目程掘出すといふ。右石炭積置を見るに黒色にて油光あり、或は金気を帯るも見へたり。一塊を受けて東都へ呈す。……職方の賃銭米俵(米なら十六貫だが石炭だと十八貫目)壱俵掘出し代銀七分を与ふと。朝より八ッ半時までに十俵掘出す。江戸で九州炭壱俵の価格は八貫文のよし。」
「クスリ詰足軽腰山平右衛門と両人出張にて会釈あり。見畢って同伴小出崎を回り二、三町にてシラヌカ。」


 高倉(1987)より,引用が長いですね(高倉分は太字で表示).見学日時は示されていませんが,児玉は「成石が見学した同じ月の末」としています(引用はありません).

 また,高倉の引用のあとにある解説文の内容をしめすものは,ここにはありませんので,なにか別のものからということになります.

 なお,児玉は「この白糠炭鉱の採掘記録によると」と書いていますので,「白糠炭鉱の採掘記録」なるものがあるはずですが,この「この」がなんなのかは示されていません.
 前文には,坑内作業員の細目や「不危燈」=安全燈についての記述がありますので,これについて記述した資料があるはずで,この史料のことのはずですが,明示されていないのです.

 史料は大部分が「お宝」ですから,特別な人,特別な機関に属する人でなければ触れることもできないのはしかたのないことなのかもしれません.しかし,その特別なことができる立場にいる人たちが,中途半端な引用をしたり,引用を明示しないために,そのこと自体が混乱を起こしているのは,どうなのかと思いますね….
 

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