2011年1月7日金曜日

蝦夷地,最初の炭鉱 pt.8「白糠炭山以前」

 
 「石炭がある」ということと,「炭山がある」ということは別のことです.

 近代鉱山用語として使われているわけではありませんので,あいまいな部分もありますけどね.「石炭がある」ということは地質学的な現象であって,「炭山がある」というのは人間による経済活動があることです.
 白糠には数千万年前から「石炭」がありましたが,「白糠炭山」は安政四年から数年間しか存在していません.そういうこと.

 「北海道で最初の炭鉱」であることはいいようなんですが,その開山年月日-閉山年月日となると,まだあいまいで,何月まで記述がある資料もありますが,その証拠となる史料が明記されていない場合がほとんどなので,わたしら(理系)の感覚としては「あいまい」とするしかありません.
 あしからず.

 それでは,白糠炭山開山以前に書かれたクスリ地方の石炭記録をリストアップしておきたいと思います.

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1781(天明元)年,「松前志」成立.
 その「巻之十」に以下の記述があります.なお,この記述の発見者は高倉新一郎(北大名誉教授)であり,この記述は,児玉清臣「石炭の技術史」にあります.これが北海道の石炭についての最初の記述だとされています.

「タキイシ.此物東部クスリより出ず.黒うして滑かなり.燃ゆること薪の如し.大和本草に所載石炭の類なり.若水が説に烏石と言う即ち此なり.」

注:「クスリ」は「釧路のこと」とされがちですが,そうすると,精々が「釧路市」もしくは「釧路郡」程度の範囲を示すと誤解されがちです.しかし,この頃は行政界なんかなく,全くのアバウトの呼び名でしかありませんでした.概念的に近いものとなると,「釧路国」という古い呼び方が該当し,旧釧路支庁のほか,足寄郡の大半,美幌町・津別町・大空町なども含んでいました.
 だから,もちろん,このあとに出てくる「白糠」も「クスリ(久摺)」の一部でした.
 のちに,「久摺場所」とか「白糠場所」というような経済活動概念がでてくるとまた話が別ですけどね.

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1790(寛政二)年,「蝦夷草紙」成立.
 著者はもちろん,最上徳内.その,「産物の事」に,次の記述があります.蝦夷地質学外伝 其の七 「蝦夷草紙」(最上徳内)参照

「石炭 クスリ〔久摺〕場所之内,ヘツシヤフ辺ニ有之」

 「ヘツシヤフ」という地名ははっきりしませんが,現在の厚岸湾の尻羽岬付近の「別尺泊」は海岸にあり,石炭が露頭することからも調和的です.

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1799(寛政十一),谷元旦「蝦夷紀行」
その六月二十四日の記述.

「此日浜邊平にしてしめりよし.歩行も易し.石炭など,この邊より出づる.尤も上品なり.光黒くして滑澤あり.」

注:二十四日朝,白糠を出発し,クスリへ向かう途中なので,白糠石炭産地(石炭岬)についての記述と考えられています.
 谷元旦ならば,スケッチぐらい残されていても良さそうなものですが,不詳.

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同年著者不詳の「赤山紀行」の記述.
「オタノシキ川より左に原を見て行けば,原いよいよ廣くクスリ川までは皆原なり.この附近石炭あり.桂戀の附近なるションテキ海岸には,磯の中にも石炭夥しく,総てトカチ領よりクスリ領までのうち,山谷海邊とも石炭なり.今度,シラヌカにて石炭を掘りしに,坑内凡そ三百間に至れども石炭毫も盡くることなしという.」

注:「赤山紀行」は「北海道炭砿港湾案内」(昭和六年刊)の冒頭に引用されているとされていますが,詳細不明偽書かも? なぜなら,この時代は,まだ石炭の採掘はおこなわれていないので,「坑内凡そ三百間」なんてあり得ないのです.そもそも「赤山紀行」そのものの所在もわからないし….

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松浦武四郎
 松浦武四郎はたくさんの記録を残していますので,逆に気をつけなければなりません.
 たとえば,白糠付近を通ったと考えられるのは,1845(弘化二)年,1856(安政三)年,1858(安政五)年の三回になります.
 じゃあ,この順に記録が残されているかというと,そうではなく地域別に分けられていたり,旅程が編集されていたりするので,「自伝」とクロスチェックしなければ,真実が見えてこない場合が多いからです.
 なお,以下で「自伝」としているものは,松浦武四郎研究会(1988編)「校注 簡約松浦武四郎自伝」のことです.

 1845(弘化二)年は,自伝によれば,四月の初旬に江差に上陸し,西蝦夷地へ向かいますが,途中で断念し,箱館経由で東蝦夷地へ(注:「西蝦夷地」は日本海側,「東蝦夷地」は太平洋側を漠然と示す当時の言葉です).レフンケ>ウス>モロラン>ユウフツ>サル>クスリ>アツケシ>ネモロ,ルートでネモロからシレトコまで探検し,十月に箱館に帰りました.
 したがって,シラヌカも通っているはずですが,このときには「白糠炭山」は存在していません.

 1856(安政三)年の自伝には,詳細な記録が残されていて,日単位で探検ルートを追うことが可能.
 1856(安政三)年九月十九日,コンブイ(昆布森;釧路町)泊.二十日(不詳;滞留か).二十一日:夜,白糠番屋泊.二十二日,シヤクヘツ泊.

 「安政三年六月に試掘が開始」されたという(某氏の)記述がありますから,このときの竹四郎の日記になにか書かれていても良さそうなものですが,自伝にはありません.「試掘」という言葉の意味が限定されてきそうです(同様に,「安政四年五月に採掘をはじめた」という(某氏の)記述がありますが,これも,いったいなにに書かれていたのでしょうね).

 1858(安政五)年の自伝も詳細な記録があります.
1858(安政五)年三月十九日,夜中より出立.五ツ頃にヲホツナイえ着.支配人紋蔵,元締橋本 悌蔵昨夜泊まる.相驚き分かる.是より山中,乙名并に石狩土人へ遺し物致し,我はクスリえ先触出し,飯田は十勝の方え先触出し置く.
二十日,クーチンコロ,セツカウシ,イワンハカル,ニホウンテ,アイランケ,右五人山通り,アエコヤシ,サケコヤンケ,サダクロ,ヤアラクルの四人飯田召連浜通り帰る.シヤクヘツ昼,白糠泊る.詰合土居小藤太.
二十一日,此処石炭山見分,石炭御用として栗原善八と云ふ者詰合ふなり.日々出方余程のよしなり.流罪人等一同我が到りしを見て悦びたり.此者共流罪に成りし云々あり.小田井浜中まで来り居る.
二十二日,柴田弁一郎,小田井蔵太,越山平十郎出会,山行の事相談し,
二十三日,山行支度申附る.
(中略:山行資材リスト)
二十四日,大風曇,今日箱館仕出し薬種類の箱物着,松村精之助来り泊る.案内土人人別申出る.
(中略:同行アイヌ名簿)
 酒三升,濁酒五升,縄たばこ十把,下帯十,手拭十遺す.
二十五日,今日シタカロ迄馬にて行は可なり一日に行,歩行にて行は二日と云か故に,未明出立と申定め置出立,薄暮シタカロえ着(今日の道,十二里)小使ラシウンテ宅へ行泊る.


 安政五年行では,白糠に五泊もしています.これから内陸部へ向かうための準備でした.蛇足しておけば,当時は内陸部にはほとんど道がなく,和人の住処(番屋など)もありませんので,準備は大変だったのでしょう.
 二十一日には,石炭山を見学したことが明記されています.「流罪人」にまで注意を払う武四郎の優しさがあらわれていますが,これが「流罪人が強制労働」させられていた記録なのでしょう.

 なお,戊午「十勝日誌」,戊午「久摺日誌」は安政五年の十勝-久摺行をつづったものですが,白糠炭山についての記述は見あたりません.
 しかし,「東蝦夷日誌・七編」には,以下の記述があります.

「白糠番屋(通行や、勤番所、板くら、馬や、人足小屋有)、土地山の下少しの間に立、南受沼形。有辨才。沖懸り宜し。北は山を受て暖地也。傍に観音堂有(合殿、岩船明神、三十番神、いなり明神)。此處眺望宜し。名義はシラリイカにして、汐越ると云儀。満汐の時は此ヲフネフの川より、チヤロ〔茶路〕・ワツテまで平場、惣て汐打入るゝ故に號く。土人小屋有。昔はクスリ〔久摺・釧路〕・白糠と別場所成しを、文化度一場所となしたり。近頃また此上より石炭を掘出し、今盛に掘居る也。其稼方九州邊の掘方と異る事なし。シレエト(岬)、此邊よリクスリサキ見え初る。人家(三十二軒、人別人別〔衍〕三百人餘)多し。」

 また,いわゆる「竹四郎廻浦日記」や「戊午日誌」にも,白糠炭山関係の記述がありそうですが,資料を持っていないので,確認できません.
 あしからず.
 

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