2009年2月14日土曜日

「空知の鉄道と開拓」

 

 2/7付け「空知地方史研究協議会」で紹介した「空知の鉄道と開拓」を古書店から入手することができました.肝心の「石狩炭田炭鉱変遷図」の方は,全く目処がつきませんけどね.

 「…鉄道と開拓」の方は大変な情報量ですので,まだ読み切っていませんが,少なくともわたしの「没ネタ」が盗作だといわれることはなさそうです((^^;).
 視点が違うはずなので,同じものができる可能性は少ないと思ってはいたんですけどね.

 「没ネタ」作成時には,時間がなくてすべての「市史・町史」を読み通すということはできなかったんですが,空知地方史研究協議会の「空知の鉄道と開拓」は分担してそれをやったようで,参考になることが多そうです.

 また,この「発刊にあたって」にも書かれていますが,「執筆者によりその取り上げ方に差があって必ずしも統一された歴史書とはなり得なかった」と言うことで,鉄道の位置や歴史に(おっと思う程)精密な記録もあれば,この人明らかに文科系だなと思うような記述もありバラエティ豊かです.
 たとえば,「地形図」を引用しておきながら,その地形図の出典がないとか,任意の方角に切り出しておいて,縮尺も方位もついてないなんてのは,私の経験してきた世界ではあり得ないのですが,けっこう多いのは,これが当たり前の世界もあるということなんでしょう.
 また,オリジナルの鉄道路線復元図のようなものも時々でてきますが,拡大縮小すれば現在の地形図にそのまま重ねられそうな精密なものもあれば,ただのイメージで書いたものもあるようです.

 それらを全部ひっくるめても,おもしろい情報がたくさんなので,なんとか「石狩炭田炭鉱変遷図」が入手できれば,「没ネタ」をもう少し改良することができそうなんですが….

 

2009年2月13日金曜日

原・地質学=ひとりあるき=

 

 山師の知識(=日本における原・地質学の実態)は興味あるところでしたが,なかなか姿が見えてきませんでした.
 このほど,別のことを探索中にひとつの重要な事項が見えてきたので,それを紹介したいと思います.

 まずは,佐渡市教育委員会「金と銀の島,佐渡」HPの「佐渡の金銀山」>「地質」>「近世の地質鉱床の知識」から(ダイレクトリンクができないので,面倒ですが上記のようににたどってください).

 そこには,「ひとりあるき」が引用されています.

「ひとりあるき※」(佐渡高等学校舟崎文庫所蔵文書) 
※佐渡金銀山史話(著者 麓 三郎、出版三菱金属鉱業株式会社)によれば、「いつの時代か明でない『飛渡里安留記(ひとりあるき)』 と云うピールのハンドブックに相当する技術操典が誰かの手によって著述されるに到った。」

 この頁の書き方からは,直接の引用ではなく,麓三郎著「佐渡金銀山史話」からの引用のようです(麓著は近くの図書館には蔵書がなく,まだ見ていませんので詳しいことはわかりません).
 そこには,「金銀山様方」として,以下の一文が引用されています(ここでは,一部引用か全文引用かの判断はできません).ま,ともかくも,以下の一文が目につきます.

「一 惣して金銀山有之所之様子ハ高く嶮岨にして立合束西江引渡り、用水有之所ヲ能山所と云、谷川流れの末なとニ鏈石有之候、鏈とは金銀銅とも有之石ヲ云、斯のことき水上には必金銀山有之候、平山二立合有之所は谷浅く候故、立合浅きものにて深く穿下り候得は、程なく水敷にて成候て、水切貫候処無之ゆへ、能山所とは難申候」

 示された文章は漢字-ひらがな-カタカナの使用法がグチャグチャなので,「正確な引用である」という前提の議論はできないと思います.が,これは明らかに「鉱床発見の方法」の記述です.
 なんでこれにこれまで気づかなかったのかと,自分の目を疑いました.
 実は,「ひとりあるき」は「独歩行」として三枝博音の編纂による「日本科学古典全書」中の「採鉱冶金」に載録されており,すでに無関係のものと判断していたものでした.もちろんそれには,採鉱としての鉱山技術や製品の冶金技術については書かれています.しかし,「鉱床発見の方法」については記録されていなかったのです.

 あわてて,当該の全書を引っ張りだして確認してみると,「『独歩行(抄)』解説」に書いてありました.ちなみに,「(抄)」の一文字は「目次」にはなく,ここになって出てきます.
 つまるところ,本来「独歩行」と題されているこの綴りは五綴りあり,載録されたのはそのうちの二綴りだけでした.つまり,上記「金銀山様方」はなかったわけです.したがって,三枝博音編の「独歩行」と上記「ひとりあるき」とが同じものであるかどうかの確認は現在できません.なぜなら,三枝博音の解説には「狩野亨吉博士の発見」による「東北帝国大学の所蔵」となっており,上記「金銀山様方」はHPの記述によれば「佐渡高等学校舟崎文庫所蔵文書」になっていて,書籍としては同じ可能性があるものの(あるいはどちらかあるいは両方が「写」),おなじ「もの」ではないからです.

 また,三枝編では載録された二綴りは「大吹所基本」と「大吹所・銅山勝場」であり,載録されなかった三綴りの題は「吹分所・小判所」,「金銀山出方御入用差引」と「穿鑿掛・砂金山」になっています.つまり,「金銀山様方」が入っていると考えられるものは見当たらないのです.なかったのでしょうかねえ.

 三枝が「東北帝大蔵書」に「金銀山様方」が入っているような文書があるにもかかわらず,これを載録しなかったとすれば,これには地質屋が関わっていなかったのだろうという悲しい事実が浮かび上がります.なぜなら,地質屋は我が国の地質学史に興味を持っていなかったか,こういった古典の選定に関わらせてもらえなかったのだということになるからです.

 こういった疑問はともかくとして,どこかに「金銀山様方」の全文はないのでしょうか.

 さて,探せばあるもので,高島清(1965)「金と銀」(地質ニュース)に一部引用されていました.ただし,引用方法が不完全なので,いろいろな「問題あり」です.
 引用文献ではなく,参考文献として「麓三郎著 佐渡金銀山史話」が載っているので,オオモトは「麓三郎」なんだろうということはわかります.

 さて,佐渡市教育委員会のHP上の引用と高島(1965)の引用を比較してみると,似てはいるのですが,どちらにも過不足があります.したがって,内容そのものの検討は「麓三郎著」を入手しないとあまり意味がないようです.もちろん,「麓三郎著」もすでに引用ですので,本来「ひとりあるき」or「独歩行」or「飛渡里安留記」のどれか,あるいはすべてを入手して検討しなければならないのですが….

 気が遠くなる瞬間ですね(^^;.情報の壁です(^^;
 そのうちなんとかしましょう.


 さて,話は変わりますが,佐渡市教育委員会のHPおよび高島(1965)の引用で気になるフレーズがあります.それは,「飛渡里安留記」が「ピールのハンドブックに相当する」という部分です.
 どちらも,こんなに明瞭に引用しておきながら何の解説も加えていません.

 「ピールのハンドブック」
 「ピールのハンドブック」
 「ピールのハンドブック」…

 ググるとクリーンヒットがありました.それは,「地質課の話(一)」にあります.ダイレクトリンクは失礼だという「常識」があるそうなんで,「あけのべ自然学校」のHPから「地質課の話」に跳んでください.
 そこには,「アメリカのビュート鉱山の地質部長である、セールスという人が採鉱の唯一の参考書ともいわれるピールのハンドブック中に書いています」という一文があります.つまり,「ピールのハンドブック」とは(「ピール」とはなんであるかはわかりませんが),「セールス(ビュート鉱山,米合衆国)地質部長の著作物である」らしいことがわかります.残念ながら,それ以上のことはわかりません.
 Butte MineはUSAにあるようですが,それが該当の鉱山であるかどうかはわかりません.また,Butte MineがHandbookを出版しているという事実も見いだせませんでした.
 それはさておき,「あけのべ自然学校」の「地質課の話」には,興味深いことが書いてあります.

 それは「地質課の三つの任務」についてです.
 正直なところ,「地質学の存在理由はなにか」というところで,いつも悩んでいて,「存在理由がないから,滅亡した」と思っていたのですが,具体的に経済的なまた科学的な存在理由がこの「地質課の三つの任務」として示されていたからです.

 第一は,「採鉱経費の引下げに助力する」こと.
 第二は,「鉱山の寿命を長くさせる」こと.
 第三は,「将来のために現在の資料を完全に保存する」こと.

 第一は,その任務は“新鉱床の発見にある”のではなく,現在運用されている鉱山の運用経費を引き下げるということの方が重要だということです.新鉱床なんか簡単に発見できるわけではないですが,現在運用されている鉱脈の性質をはっきりさせておけば,無駄な経費は省けることになります.
 地質屋の任務は「新理論の発見」にあるのではなく,もっと「リアル」な所にあると読み替えてもいいでしょう.
 我が師・湊正雄教授が「受け盤か,流れ盤か」を把握するだけで,工事費は大幅に節約できるという話を授業中にしていたのを思い出しました.

 第二は,やはり,鉱脈の性質をしっかり把握しておけば,鉱山の寿命を延ばすことができるということです.
 たとえば,金の含有量は鉱脈の部分によって変わってくるわけですが,金の含有量が多いからといってその部分をそのまま掘出してしまえば,そこで終わってしまいます.しかし,金の含有量の多い鉱石を低含有量の鉱石と混ぜて,採算が合うレベルで出荷していれば,含有量が採算レベル以下の鉱脈でも掘り続けることができるわけです.そして,また金の含有量の多い鉱脈にたどり着くまで,鉱山を運営することができるわけです.
 地質学は「科学的な理論」ではなく,リアルに「経済」に結びついていると読み替えてもいいでしょう.

 第三に,休山した鉱山を復興させるときの資料を残すということですが,そうでなくても,「過去に何があったのか」ということは,なかなかわかりにくいことです.北海道にもたくさんの鉱山・炭坑がありましたが,そこに何があったのかという再現はなかなか困難なことです.大会社の「社史」は残っていますが,「鉱山史」はなかなか残っていません.
 どう読み替える?
 過去の北海道での石炭地質学は「地向斜造山運動」論と並行して成長してきました.地向斜造山運動論は,現在では錬金術にも等しいものとされていますが,それでも石炭を生み出してきたわけです.
 つまるところ,地質学は高尚・高等な理論にその価値があるのではなく,一本の鉱脈が,一枚の石炭層がどのように連続してゆくのか,それを記載すること,その一番基本的なところにその「価値」があるということのようです.

 「事実をありのままに記載すること」この単純なことに「価値」があるということなんでしょう.

 

2009年2月12日木曜日

北海道の製鉄遺跡

 

「蝦夷地質学外伝」の其の弐「コシャマイン蜂起す」で,舞台になった志濃里の鍛冶村では「砂鉄を使って製鉄を行なっていた」という前提で解説してしまいました.
 もしかしたら,その筋の人の失笑を買ったかもしれません.

 あまり守備範囲を広げてはいけないとおもいながら,ついつい面白いものであちこちを探索してしまいます.もちろん,興味の中心は原・地質学=鉱床発見の方法が主なんですが….

 さて,たたら研究会編の「日本古代の鉄生産」という本があります.
     

 その中で,天野哲也さんが北海道の精錬鍛冶遺構について「僅かに近世末になって製鉄が行なわれた形跡が認められる」と述べています.この「近世末の製鉄」とは武田斐三郎の製鉄実験のことです(私は「蝦夷地質学」で紹介したような,技術者たちがたくさんいた「江戸時代末期は近代の始まり」ととらえていますので,「近世末」といういい方は気に入らないですが…;ここでも歴史屋さんに失笑されそうです…(^^;).
 北海道で発見されている鉄遺品は,すべて鍛冶製品であり,つまりは北海道には製鉄遺跡はないということです.蛇足しておくと,「鍛冶製品」とはすでに「鉄」としてあるものを加熱・打製したもので,砂鉄ないしは鉄鉱石から還元し「鉄」としたものはないということです.

 したがって,「砂鉄があったこと」と「鍛冶村があったこと」は何の関係もないというのが,専門家の判断ということになります.
 我ながら,知らないということは恐ろしい((^^;)


 ホントにそうなのか,探索してみました.
 たとえば「弥生時代には製鉄が行なわれていたのか,否か」という議論があるそうです.現在では「弥生時代後期」とみなされる製鉄遺跡がいくつか発見されているようですが,製鉄遺跡の数からいけば,弥生時代に普遍的に製鉄が行なわれていたと考えるのは困難なようです.
 ところが,弥生時代に急速に石器が駆逐されていることからは,石器に代わるなにかの道具の存在が必要になります.鉄器自体は酸化しやすく,モノとして残っていない可能性の方が高いんですが,この背景として製鉄遺跡がたくさん発見されているわけではないのが難点.
 一方で,鉄鉱石を原料とするような小規模な製鉄や朝鮮半島から入ってきた技術を元に砂鉄を原料としたやはり小規模な製鉄があったと考える人たちもいるそうです.
 小規模なら,遺跡として発見されないのも不思議ではない(現代の科学教育でテーブルの上に乗るようなタタラ炉で製鉄実験を行なっているグループもあります)し,砂鉄を原料とした不完全な製品を鍛造して鉄器をつくれば,そこには製鉄滓ではなく,鍛造滓ばかりが発見されることも説明できそうです.

 そうすると,室町時代ぐらいの辺境=志濃里を含む蝦夷地を舞台に考えると,本州ではすでに砂鉄を使用したタタラ製鉄の技術は成立しているわけで,その技術を蝦夷地にわたってきた鉄製品関係者が知らないと考えるものおかしい.
 また,蝦夷地のような辺境で,精錬(=砂鉄・鉄鉱石から鉄隗を生み出すこと)と鍛冶(=すでにある鉄隗から様々な鉄製品を生み出すこと)が分業していて,精錬をできない鍛冶技術者しかいなかったと考えるのは,逆におかしいのではないかと思えてくるわけです.
 つまり,精錬と鍛冶は分業しておらず,鍛冶をおこなう技術者は,小規模な製鉄ぐらいできたと考えた方がいいのではないかと思われるわけです.

 以上,我田引水的推論でした((^^;).
 
 

2009年2月9日月曜日

訃報=松本達郎九州大学名誉教授=

 

 さきほど,地質学会のメルマガで松本達郎・九州大学名誉教授の訃報が流れました.
 私は,現役時代の松本教授のことはよく知らないのですが,我が師・湊正雄北大名誉教授と,ほぼ同時代に活躍された方です.

 穂別町立博物館に島流し状態になった時に,初めてお会いしました(もちろん,それまでにも,地質学会などでその雄姿をお見かけしたことはありましたが,会話など恐れ多くて…).
 夏になると,ほぼ毎年,フラリとお弟子さんたちをつれて現れて,穂別の宿を拠点にフィールドに出かけられたり,そうでない時は博物館の研究室で,熱心に,館所蔵のアンモナイトの記載を行なっておられました.
 すでに,相当難聴になられていて,あまり会話は成立しませんでしたが,先生はその方がいいようで,無心にアンモナイトの計測や写真撮影などを行なっておられました.
 たまに,過去の記載論文が必要になると「誰々の何年の論文はないですか」とボソッとおっしゃられて,その論文を探してくると,また一心不乱にアンモナイトに向かっておられました.

 なにか,凄く荘厳な感じがしました.

 「私の仕事は落ち穂拾いです」
 すでにたくさんの仕事を成し遂げているのにもかかわらず,未記載のアンモナイトをひとつひとつ拾い上げて記載する姿は学者の鑑だと思いました.
 小さなひとつの事実を記載してゆくこと.それが科学者のするべきこと.決して高尚な理論を構築することが,科学者の仕事ではありません.どんな不遇なところにいても,科学はできる,そんなことを教えてくださった方でした.

 ご冥福をお祈りいたします.

 

2009年2月7日土曜日

空知地方史研究協議会

 

 先日,某古書店から目録が送られてきました.
 何か面白いものはないかと眺めていると,目を引くものがありました.それは,「石狩炭田炭鉱変遷図」というもので,「空知地方史研究協議会」の編集によるものです.
 私はまだこれを見ていないので,どのようなものなのかはわからないですが,非常に興味があります.

 さっそく,「空知地方史研究協議会」について検索してみましたら,そのHPがありました.おまけに,もう何十年も前から,各種出版物を上梓している老舗でした.完全に興味が一致するわけではないですが,空知の地方史ですから,炭田や鉄道が当然出てきます.そこには,「空知の鉄道と開拓」という出版物もありました.残念ながら,どちらもすでに入手不可能のようですが.

 昨年の北大博物館での“ライマン”展の時,勘違いした私が,石狩炭田の興亡を「鉄道発達史」と「炭山の発達史」を絡めてひとつの図にする作業を行いました(これは「没」になりましたが(^^;「没ネタ」参照).やはり同じことを考える人はいるもので,数年前に「空知地方史研究協議会」ですでにやっていたということになります.
 この二冊,ぜひとも欲しいのですが,先ほど当該古書店のHPで在庫検索したら,すでになくなっていました.残念.